オーバーロード 粘体の軍師   作:戯画

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喝采とともにアニメ3期決定!
お風呂回もあるんですかね?


番外編その9 お留守番は退屈だ

 ナザリック地下大墳墓第十階層の最奥部、玉座の間。至高の御方の慈悲によって先日自室を与えられたアルベドだが、守護者統括としての仕事を行う際には基本的に元々の配置であったこの場所にいることが多い。至高の御方が不在などの場合に、ナザリック全体の活動に滞りがないよう管理をするのも彼女の仕事のひとつだった。

 現在アインズは人間の都市へ外出中である。時間帯は日の長い季節でも日没から半刻は経った頃。何事も無ければ床へと入っている時間だが、主人が直々に働いているというのに自分は安穏と眠りを享受していられるわけがない。むしろいまこそ守護者統括の立場としてしっかりナザリックに問題が無いよう目を光らせるべきなのだ。

 

「アルベド様、アウラ様が来られています」

「アウラが? 通してちょうだい」

 

 仕事のスケジュールを整理していると、思わぬ来客だ。了解を得た一般メイドが慣れた動作で扉を開けると、闇妖精(ダークエルフ)の双子の姉の方が仏頂面で現れた。

 への字に曲げた口は内心の不満を如実に表している。小柄な身体とアンバランスさを感じるほど、全身から放たれる圧力は存在感があった。

 

「アルベド! 何かあたしにできること無い!?」

 

 入室から無言のまま玉座の前までたどり着いて沈黙を破ったのは、分かりやすい対抗心を瞳の奥に燃やした言葉だった。

 

「殊勝な心掛けだけど、いきなりどうしたの」

「それが────」

 

 

 

 

 

 

 ゲヘナ作戦。人間の世界を舞台に大仕掛けを打つ大規模作戦は、ナザリック全体に周知されていた。総指揮を執るのは智謀の悪魔デミウルゴス。ナザリックでも有数の知能の持ち主である彼の作戦は、万人が納得するに足る充分な理由付けをもって参加メンバーが選定されている。実行の刻限は夜。そのため暗闇が不利に働かないアンデッドであったり、悪魔など夜との相性がいい種族が多く採用されていた。

 その中にアウラの名前は無かった。

 

 もちろんこの大事に携われないのはどうしてだと疑問を投げかけたが、デミウルゴスの答えは実にシンプルかつ筋の通ったものだった。

 幾人かの階層守護者が留守にするため、必然的に作戦中はナザリック内にいる階層守護者が複数の階層を受け持つ必要がある。基本的には自分の階層にいても問題無いが、過剰な戦力を外部へ出すことは防衛上のリスクからも望ましくない。

 

 ことはナザリック全体と、至高の御方にも影響を及ぼす大作戦。一個人の我儘や嫉妬でおいそれとかき回していい話ではないことは分かる。理解していても心情は晴れやかとは言えなかったが、これが至高の御方々のためだと己に言い聞かせ、成否を参加メンバーに託すことにした。

 

 アウラの受け持ちは第一階層から第三階層。本来の配置である第六階層が留守になっているが、上層で止めればいい話だ。自分のフィールドではない三つもの階層を担当するのはいささか無理があるようにも見えるが、あながちそうでもない。

 

 まず第一階層。ここはダンジョンとしても地表部から足を踏み入れる最初の階層だ。そのためギミックや固有モンスターの配置もほぼ無く、言ってしまえば弱いアンデッドモンスターによる物量だけのエリアだ。それと転移の罠が仕掛けられている。シャルティアも管理と言えるほどのことはしていないに等しい。

 

 次に第二階層。階層自体が複雑な迷路状になっている。特筆するべきエリアとしてはシャルティアの私室たる死蝋玄室があり、彼女の取り巻きである吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)もここに待機している。

 そして悍ましい黒き者たちが蠢く黒棺(ブラック・カプセル)。第一階層の転移の罠に引っ掛かった者の飛ばされる先がここだ。侵入者の精神と肉体を容赦なく削る、悪意を煮詰めたような場所だ。ここには恐怖公という名の領域守護者が配置されている。よって階層守護者がわざわざ干渉する必要が元から無いのだ。

 

 最後の第三階層に至っては領域守護者グラントの複数階層に亘る支配領域の一つであり、下手にうろついては彼女の住居を荒らしかねないので、ここも触れないのが吉だ。

 

 ナザリックに属していない者が侵入すれば反応するアラートがあるため、常に地表部を見張っている必要も無かったりする。加えて今回シャルティアが留守にするのは半日も無いごくわずかな時間だ。

 中途半端に持て余した時間、アウラは吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)たちに招き入れられた死蝋玄室でいつもとは一味違った風変わりなティータイムを味わっていた。

 

 シャルティアの趣味は紅茶だ。普段はアレなところが多々あるが、こと紅茶については素直に感心するくらいの知識を持っている。

 

 各階層は守護者の居住区以外に腰を落ち着けられる場所も大して無い。待機するのに死蝋玄室はちょうどいいのだ。

 

 ただし、部屋には天井からよく分からない布みたいなものが垂れていたり妙な香が焚かれていたりとアウラの考える落ち着く空間とは真逆のコンセプトが溢れている。

 普段なら小気味好く鼻腔をくすぐるはずの紅茶も、室内にねっとりと立ちこめたピンク色の匂いのせいでただの白湯を前にしている気分だ。

 

 アウラがシャルティアを訪ねることは珍しい。それぞれ適性がまるで違うため、任務の面において競合することもなければ積極的に協同する必要性も無いからだ。

 顔を合わせれば小競り合いを起こすのも、本気で嫌い合っているわけではない。『仲があまり良くない』と定められたが故に一定の距離を置いているだけの話だ。お互いそれが分かっているので多少小突き合ってケンカしても、本格的にこじれることはまずない。

 しかし距離感が分かっているのは当の本人たちだけで、二人が何かと衝突するのはナザリックの者にとっての共通認識になっている。

 

 吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)たちにどことなく落ち着きが無いのはそういう理由もあるのだろう。

 シモベの立場として彼女らにアウラを厭う考えは全く無い。だが自分たちの主人と頻繁に言い合っている相手にどう思われているのか、内心では不安を捨てられないはずだ。

 恐怖まではいかないにしても、失礼の無いようにという緊張感は伝わってくる。アウラが来たときに慌てて室内を片付けている音が聞こえたが、あれは多少なりとも部屋を小綺麗にしておくことでアウラの心証を良くしようとでも思ったのだろう。何を片付けていたのかは知らないが。

 

 言ってしまえばいちモンスターに過ぎない吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)にはナザリックの一般メイドのような柔軟性は無く料理スキルも持っていないため、茶を出して応対すること自体が手に余る状況だ。

 部屋の匂いを敢えて評価から差し引いて考えると、アウラに出されたカップの中味はお世辞にも美味いとは言わないもののそれなりに紅茶としての体裁を保っていた。彼女たちは他にも普段からシャルティアの簡単な身の回りの世話をしている。第六階層と同じように一般メイドが定期清掃には来ていると思うが、毎日というわけではないだろうし正直この部屋を綺麗にしろと一般メイドに言いつけるのは少々酷な気がする。

 その名が示すように、家事全般はこなせる基本技能でも備わっているのだろうか。

 

 あまり見慣れない、あるいは目にしたいとは思わない室内のあちこちにとりとめもない考えを散らかしていれば待ちの時間を持て余すことはなかった。

 

「ん〜ふふ〜♪」

 

 この上なく機嫌の良い鼻歌混じりで扉を開けたのはこの部屋の主、真祖(トゥルー・ヴァンパイア)のシャルティア・ブラッドフォールン。血の気を感じさせない白い指に白亜の仮面を挟んでいる。

 

(なんでだろ、すご〜く嫌な予感がする)

 

 その原因は目の前のご機嫌な同僚しか考えられないのだが、本心から嫌っているわけでもない相手が上機嫌だからと自分が不機嫌になるのは天邪鬼というものだ。

 もっと野生の勘に近い何かがアウラの中で警鐘を鳴らしていた。多分これからイラッとする話を聞かされるぞ、と。

 

「お帰りなさいませ、シャルティア様。お留守のあいだの階層管理代行としてアウラ様がいらっしゃっています」

「ん? ああ、そういえばそうでありんした。折角淹れたみたいだし、お茶の一杯くらい飲んでから第六階層に戻りなんし」

 

 吸血鬼の花嫁《ヴァンパイア・ブライド》を伴って部屋の奥へ。ナザリックに戻ってきたのであれば、もう変装を続ける必要は無い。

 変装に使用していた仮面やドレスも至高の御方によって用意されていたものだが、やはりシモベとしては本来の服装でいる方がしっくり来る。

 

 アウラだって寝るときには着替えてナイトキャップを被るが、朝の着替えを誰かに手伝ってもらう必要は無い。

 しかしそれは基本の服装がパンツにスケイルインナーとジャケット、グローブとシューズとあまりにもあっさりしたものだからである。

 

 シャルティアの場合はボールガウンを着るために色々と手間がかかるのだ。一人でもできないことはないが、時間がかかる。手伝ってもらったほうが単純に効率的だ。

 

 かすかに衣擦れの音が聞こえる。着替えていても口と耳は空いているだろう。

 

「ねーシャルティアー、戻ってくるの早くない?」

「仕方がありんせん。役目が終わったらすぐ帰還するよう言われておりんした」

 

 余計な目撃情報や突発的な人間との接触を防ぐためにデミウルゴスの出していた指示だったのだが、細かい理由は説明されていなかった。

 

「ほんとに〜? てっきり何か失敗して帰らされたのかと思ったわ」

「あ〜ん!? 留守番でしょげてるかと黙って聞いてたら好き勝手言ってくれてぇ!」

 

 着替えの終わったシャルティアは怒りの形相でつかつかと寄ってくる。

 

 留守のあいだは代わりに階層の見回りもしていたのだから、多少挑発的なことを言ってもバチは当たらないだろう。

 適度にからかって、本気で怒る前に引き上げることに決めたアウラはカップに三分目ほど残ってぬるくなった紅茶を一口に流しこむ。

 

「わたしはねぇ、アインズ様に抱いてもらったんでありんすえ!」

「ぶはっ! げほっ! え、えぇ……!?」

 

 予想のナナメ上からの切り込みに思わず(むせ)る。落ち着け、動揺したら負けだ。何と戦っているのかはよく分からないけど。

 

「あたま大丈夫? 血が巡ってないのは知ってたけどいよいよ腐った?」

「あーっはっはっは! 負け犬の遠吠えは見苦しいでありんす!」

「いやいや、とりあえず詳しく話してみて?」

「ん……と、デミウルゴスに捕まったピンチにアインズ様が上空から飛んでこられて」

「うんうん」

「砂煙の中で拘束から逃れたわたしを」

「うん」

「その力強い腕で支えてくださったんでありんす」

「うん……うん?」

 

 おかしい。そもそも作戦の仕上げの舞台は人目もある広場のはずだ。どう考えてもそういう雰囲気ではないはずだ。

 

「お役に立てなかったのならアインズ様が抱いてくださるはずがありんせん」

「シャルティア、そういうのは『抱きとめた』って言いなさいよね! 紛らわしい!」

 

 波立った心の動揺も一緒くたにして吐き出す。胸の詰まる感覚は一呼吸するうちに霧散している。

 

 一瞬色めき立っていた吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)たちも真相を聞いて拍子抜けしたのか、手持ち無沙汰を誤魔化すように雑用に手を付け始めた。

 

「くぅ……! でも、抱き寄せられたのは本当でありんす! そういうおチビは至高の御方のお役に立てているんでありんすか!?」

「うっ、それは……」

 

 痛いところを突かれた。この前のザイトルクワエ討伐は他の守護者も招集されていたし、カルネ村の一件はアウラよりフェンリルの方が役に立っていた気がしないでもない。

 シズと協力したトブの大森林における皮集めも、充分なサンプルが獲れたこととデミウルゴスが安定供給のルートを開拓したことで現状必要無くなっている。

 

「あ、ああ……!」

 

 なんてことだ。改めて考えてみると役立っていることの方が珍しいくらいだった。シモベとしてあるまじき事実に膝が震える。よりによってシャルティアに気付かされたということも手伝って、目眩(めまい)さえ感じる。

 

「マ、マーレも似たようなものじゃありんせん?」

「……マーレはナザリック隠蔽のために見回りしてるし、至高の御方々から指示されて畑で実験をしてるよ」

 

 予想以上のショックを受けている様子のアウラに掛けられた慰めの言葉は、フォローどころか姉弟の対比によって傷口をさらに明らかにしただけだった。

 

「まあ、そのうちいいこともありんしょう」

「シ……シャルティアに慰められた……! やめて! 憐れみの目を向けながら肩を優しく叩かないでー!」

 

 得体の知れない恐ろしい何かから逃げるように死蝋玄室を飛び出して、砂埃をあげながらアウラは全速力で走った。

 このままじゃいけない、どうにかしなければ。

 

 役に立ちたいのかシャルティアに負けたくないのか、自分自身にもよく分からない衝動がアウラを突き動かしていた。

 

 

 

 

 

 

「それで、あたしにできていまいちばんお役に立てることならアルベドに聞くのが早いかなって思ったんだけど……アルベド?」

「だ、だ、だだだ……」

 

 守護者統括という立場の都合も大きいものの、アルベドも居残り組のひとりなのだ。目に見える貢献ができず(くすぶ)っている(つら)さは分かってもらえるはずだと期待していたのだが、同意が返ってくるわけでもなく、ゆでだこのように耳まで真っ赤に染めて何やらうわ言を(つぶや)いている。

 思えばこの前にも似たようなことがあった。また倒れられてはたまらない。アウラは慌ててアルベドの意識を繋ぎ止める。

 

「ちょ、アルベド! お願いだからしっかりしてー!」

「……はっ! あ、え、ええと、ごめんなさい。もう大丈夫よ」

「ほっ。それでさ、何かあたしにできることは無い? ぶくぶく茶釜様やアインズ様のためになることで、なるべくすぐにできるやつがいいな」

 

 そんな都合のいい仕事があれば誰かがもうやっているのではないかという意見をアルベドは飲み込む。欲求不満でいざというときに十全な働きができないとあっては大問題だ。大きな戦力である階層守護者をまとめる立場としてもぞんざいに扱うことはできない。

 

 だがここで問題なのは、ナザリック自体が誰かが何らかの補助をせずとも破綻しない仕組みになっているため、運営上の観点から考えると特に人手はいらない。問題が無いのが問題というのも矛盾しているが、こればかりはどうしようもない。完全なものをわざわざ崩す愚を犯す必要も無いのだから。

 

「そういえば大図書館(アッシュールバニパル)にあった本には仕事から帰った殿方の精神的疲労を取る方法が載っていたけれど……」

「それいいね! ん? どうしたの?」

 

 アルベドの言うことが本当ならアンデッドにも有効なはずで、大掛かりな作戦を完了させて帰ってくるアインズにはぴったりだ。

 だがアルベドの歯切れはよくない。もしかしてナザリックの資源を使う必要があるのだろうか。巻物(スクロール)をはじめとしてポーション瓶など、消耗品の節約が推奨されている現状ではおおっぴらに推進しにくいのも道理だ。

 

「いいえ、その手の資源は使わないわ」

 

 だとすると特殊な職業(クラス)保有が必要とか。

 

 長い黒髪が左右に揺れる。これも違うとなればアルベドが言い澱む理由が分からない。

 

「その本によると、殿方はいい女が家で待っていれば疲れが吹き飛ぶらしいの」

「それだけ?」

「そう、それだけなのよ。具体的に回復魔法を掛けるとかは何も書いていなかったの」

 

 謎かけかと思うほど断片的な情報だ。それでもいまのアウラには、たとえ雲を掴むような話であっても無いよりましだ。

 

「あたし、やるよ。ちょっとでもアインズ様のお役に立てるなら」

「そういえばぶくぶく茶釜様はどうなさったの?」

「あー……。ちょっと前に戻られたんだけど、自室でお休みになっちゃったよ」

 

 夜更かしは乙女の天敵なのだ。それは肉と粘液の塊みたいな異形種であっても変わりない。はずだ。

 アウラは普段は外していることも多いが、外での作業に伴って睡眠飲食不要の維持する指輪(リング・オブ・サステナンス)を借り受けている。夜通し動いていても何ら問題は無い。

 

 やる気をさらに高めるために軽く身体を動かす。光明が見えたことで元気も出てきた。

 

「よし! じゃあ……えっと……あれ?」

 

 結局何をどうすればいいのだったか。アルベドの言葉を反芻してひとつのキーワードに引っかかる。

 

「ねえアルベド、『いい女』ってどういうの?」

「分からないわ。それがこの案を言いにくかった理由でもあるのだけれど……」

 

 頬に手を当てて困ったポーズを取るアルベド。聡明な彼女がさっぱり分からない案件というのは実に珍しい。だからこそ、どういう分野の話なのかがアウラにはおぼろげに察しがついた。だとしたら話を聞く相手としてはアルベドは完全に適正の対極に位置している。

 

「ちょっとナザリックを回ってみんなに聞いてみることにするわ。ありがとう、アルベド」

「そうね、それがいいかもしれないわ。どういたしまして」

 

 玉座の間を後にして、誰に話を聞きに行くか候補を整理する。眠くならないとは言っても、予定では明日の昼前にはルプスレギナを伴ってアインズが帰ってくる。それまでの時間は無限ではないのだ。

 

「よし、下から順番に行こう」

 

 マーレと違ってリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを持たないアウラはナザリック内を自由に転移できない。階層間の移動には定位置の転移ゲートを利用する必要がある。階層を行ったり来たりするのは非効率だ。

 

 

 

 玉座の間にも匹敵する大扉。中に入るとそのサイズがちぐはぐなものではないと納得させられる光景が広がっている。二階にバルコニーが突き出し、吹き抜けになった空間の天井には壮大なフレスコ画が配されており、聖堂や美術館のような印象を受ける。

 だがここを訪れた者は五分も歩けばその本質に気付くだろう。まずフレスコ画に目が行くのは、フロアの多くを無数の本棚が占有しているため、部屋全体を見渡すことができないからだ。さらには壁面までもびっしりと埋め尽くすこれまた無数の書、それらのためにこの空間はあるのだと。

 

 ナザリックが誇る大図書館(アッシュールバニパル)。アウラがここへ足を運んだのは、アルベドの言っていた(くだん)の本を探すためではない。タイトルもジャンルも分からない本を書いてあった一部の要旨だけを頼りに探すなど、本を手に取るのは何かを知りたいからであって、これでは順序がまるであべこべだ。

 さっき頭に浮かんだ話を聞く人物に会うために、玉座の間から最も近いこちらへ寄ったのだ。

 

 ひと月ほど前にも通った経路のため足取りに迷いは無いが、いつもとは違う様子に少し歩調がゆっくりになる。

 

「おっかしいな……?」

「おや、アウラ様。ようこそおいでになられました。本日はどのようなご用向きでしょうか」

 

 首を(ひね)っているところへ声が掛かる。そこにいたのは一体の死者の大魔法使い(エルダーリッチ)であり、腕章には『司書J』と書かれている。

 

「やあ。司書長に少し聞きたいことがあって。ところで死の支配者(オーバーロード)たちが見当たらないけど、休憩中か何か?」

 

 司書長は巻物(スクロール)作成という大任を至高の御方々より直々に命じられている。それ以来奥にある製作室に比喩ではなくずっと詰めているのだ。飲食睡眠不要のアンデッドだからこそなせる業だが、あれほど没頭できる姿勢にはある意味頭が下がる。

 

「それは、少しばかりタイミングが悪かったようです。現在司書長はデミウルゴス様の要請により、五体の死の支配者(オーバーロード)と共に外出しております。今夜のうちにはまだ戻らぬかと」

「あちゃー、デミウルゴスってことは例の作戦関係だよね……。じゃあ仕方ないか」

 

 諦めて次へ行こうかと思ったアウラの目に、司書Jの抱えていた本のタイトルが映る。骨の手で遮られているため一部しか見えないが、『新妻』とか『恋愛』といった司書Jのビジュアルとあまりにミスマッチな単語が覗いていた。

 アウラの視線に気付いた司書Jは「ああ、これですか」と重ねて持っていた他の本もまとめて背表紙を見せた。『新妻観察日記~終わらない恋愛(ラブ)~』『トム・ソーヤーの冒険』、『隣人と繋ぐ仲良しの輪』、『徹底品種改良マニュアル』、『ゼロから始める畜産』などなど。小指程度の厚みのものもあれば、ちょっとした辞典並の分厚さのものまである。

 

「これらは……ああ、一部違いますが、最近貸し出したものです。ご覧の通り他の皆が出払っているため、配架はいま私の仕事というわけです」

「じゃあもしかしてアルベドが見たのって……」

 

 思いがけず情報元にたどり着いてしまったようだが、いまから小説を一冊読破している余裕は無い。

 

「あなたもここの本を読むことはあるの?」

「そうですね。分類が近いものなど把握のために。なにぶんこの量ですからまだまだごく一部ですが」

 

 整理されているとはいえ、どのような本が蔵されているのかを正しく把握していなければ司書としての役割を果たすことはできない。ベストというなら全ての本の内容を完全に理解把握していることだが、膨大と言う外ない蔵書量でそれを求めるのは並大抵のハードルではない。それでも到達するべき点として努力を怠らないのは、司書Jなりの忠誠心の表れなのだろう。

 単純な知識量という意味では期待ができそうだった。

 

「じゃあ司書長の代わりにあなたが答えて。『いい女』って、どうすればなれるの?」

 

 

 

 チリチリと鼻の奥を炙る熱気が転移の完了を知らせる。

 岩肌のくぼみにごくわずかな苔類が見え、あとは岩と蠢く溶岩が地の底から響くようなドロドロとした音と振動を発していた。

 

「通るよー」

 

 転移ゲート前に横たわる幅広い溶岩の川。不自然にうねり、半球状の盛り上がりが生じる。溶岩の中に潜む領域守護者、超巨大奈落(アビサル)スライムの紅蓮だ。飛行魔法などで上を通ろうとすると、たちまち襲い掛かり溶岩の中に引き込まれる。自身の領域内に限っていえば階層守護者であるデミウルゴス以上の強さを誇る、第七階層のゲートキーパーである。

 走るアウラにしばらく追随したかと思うと静かにその姿を消した。持ち場に戻ったのだろう。灼熱のフィールドも手伝って、背中にじっとりとしたものを感じる。

 

 残念ながら司書Jから明確な回答を得ることはできなかった。彼によると、いくつかの本でそういった表現を目にしたことはあるが、定義と言えるものは記述が無かったらしい。アンデッドには個体としての男女の概念はあれど、種族を存続しなければならないという観念に乏しいためピンとこないのかも知れないと言っていた。

 

 一人目から当たりを引くとは初めから思っていなかったので特に気を落とすことはない。逆に、同じ種族にばかり質問する意味は薄いことが分かっただけでも収穫といえる。

 

 第六階層へ繋がる転移門が見える。熱気から解放されると思うと、流れる汗も大して気にならない。第六階層にも熱帯に属するジャングルがあるが、あちらは湿気の多い蒸し暑さがある。

 熱いのが苦手というわけではないが、単純に慣れの問題で自分の階層の方が余計な気を張らずに済むのは事実だ。

 

「んん?」

 

 円形闘技場(コロッセウム)の通路に転移したアウラの長い耳が、金属同士の打ち合う音を拾う。引っ掛かりを感じたのは、その音に普段は聞かない質の、澄んだ共鳴を伴うようなものが混じっていたためだ。

 どうせ通り道だ。等間隔に配置された松明がぼんやりと照らしだす薄ら暗い通路を迷わず進んだ。たとえこれが真っ暗闇であっても自分の階層を動き回るのに何の不都合も無い。

 

 進むにつれて明るさは増し、メインホールの一角に出る。その名の通りぐるりと描いた円に沿って観客席が配置されており、全席埋まったならばまさに壮観だろう。

 至高の御方々の共同作業によって作られた偽りの空はわずかな見劣りをも感じさせず、雲一つない漆黒のスクリーンに白く輝く星々が瞬いている。

 他にも朝焼け、夕焼け、入道雲に雷雲などなど、無数の空模様が楽しめる。この空のお陰で第六階層には常に新しい景色が広がっているのだ。

 

 視線を下ろすと、円形闘技場(コロッセウム)の中央あたりに動く二つの人影が見えた。少し不思議な金属音がかすかな残響を伴って不規則に鳴っている。

 自身の身長の二倍ほどの段差を飛び降りて、剣戟を交わす二人に近付いていく。集中しているためかこちらに意識を割いている様子は無い。

 

 反りを持つ刀を、氷で形作ったような三本爪の武器が力強く(はじ)く。攻守が入れ替わると、三本爪は角度を付けた刀に受け流されて冷気の軌跡を残す。

 そうして十数合も交わしただろうか。一瞬の鍔迫り合いから双方が飛び退いた。当然、互いの得物が届く距離ではない。少し深めの呼吸は戦う意思が無いことの表れだ。

 

「邪魔しちゃったかな?」

「いや、そんなことは」

 

 腰に三本爪──凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)を引っ掛けながら否定の言葉を口にしたのは蜥蜴人(リザードマン)の戦士、ザリュース。

 コキュートスの支配下に入った蜥蜴人(リザードマン)の村からは近隣に関する報告のため、ナザリックを定期的に訪れる者がいる。ザリュースは護衛として同行することも多く、戦士ということでブレインと一緒に戦闘訓練を行う命令が出ている。赤竜鱗の額当て、青地の革に銀の装飾が施された胸当て(ブレスト・プレート)、両手足に掛けられたガルーダの羽を差したリング。これらは全てナザリックの倉庫に保管されていた品々であり、戦闘訓練のために一時的に借用しているものだ。使用していないときはコキュートスが管理を任されている。

 ブレインと違ってザリュースは一族ごとナザリックに服従の立場にあるため、報告さえちゃんとしていればナザリックと村との往来を禁じられてはいなかった。

 

 その点ブレインは元々所在の定まらない身であり、外に出る自由は無い。逃げようとするなら死なない程度に痛い目を見せてもいいと通達が回っているが、いまのところ彼が逃げようとしたといった話は聞いたことがない。

 

 ブレインの強化計画と蜥蜴人(リザードマン)の支配はどちらもコキュートスに任せられている。指導のために第六階層へ出張ってくることもあるが、今日は同席していない。

 デミウルゴスがまだ戻っていない分、ナザリックの防衛に注力しなければならないからだ。加えてゲヘナ作戦はいまだ進行中であり、急遽何らかの指示が飛んでくる可能性もある。それらに即応できるように、いわば優先度の理由からコキュートスは自分の第五階層に万全をもって控えているのだ。

 

「ならいいんだけど、どうして二人とも全然本気じゃないの?」

「いえ、お……自分は本気で攻めていました。そう見えたのなら、それだけブレイン殿に余裕があったということなのでしょう」

 

 暗に自分の方が弱い、と素直に認めるザリュースの言葉に自虐的なニュアンスは無い。事実を事実のまま受け止めている。そんな印象だ。

 

「お前が弱いわけじゃないさ。だが、普段と比べるとどうもな」

 

 コキュートスが円形闘技場(コロッセウム)に来るときは高確率でペストーニャも第九階層から上がってくる。サンプルを失う事故が起こらないための配慮なのだが、あくまで注意を払われているのは死なないようにということだけである。多少の切り傷や打撲ならいい方で、腕が折れたりひしゃげたりするのは日常茶飯事だ。

 とりあえず死んでさえいなければペストーニャの魔法で回復できるので大事は無いものの、骨の一本や二本折れた程度では何も思わないくらいにはブレインの感覚は麻痺していた。

 

「ふーん? それじゃ、これでどう?」

「く……」

 

 一本の蝋燭を吹き消すような吐息。不自然な甘ったるさの溶け込んだ空気にザリュースは思わず鼻先へ手をやった。深く吸い込んではいないはずだが、腹の奥から熱がこみ上げてくる感覚が強い。

 

「……これは」

「それでもう一回戦ってみてよ。今度は本気でさ」

 

 ブレインを鍛えるのは至高の御方であるアインズの指示なのだ。コキュートスがメインの担当とはいえ、不在のときに少し手伝ってもバチは当たるまい。

 

 ザリュースは腰から再び凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)を手に取る。その目は真っ直ぐにブレインを見ていた。

 スラリと静かに抜いた刀。応じる構えのブレインもまた視線を切ることなく、相対する二人はお互いの呼吸を読み合う。戦いは既に始まっている。

 

 ザリュースが一歩踏み出す。戦士と剣士、互いが数歩近付かなければ得物の届かない間合いなのだから、これは必然だ。

 一拍を置いて、さらに飛び込みと同時の斬撃。その速度は訓練で何度か交えた中でも最速、いや速過ぎた。必死になってどうにかなる範囲を逸脱している。

 力の底が見えない状態で受け太刀をするのは危険だ。瞬間的にそう判断したブレインは刀に角度を付けた。受け流してしまえば単純な力は怖くない。そしてあらぬ方へ力の向きを逸らされれば、バランスを崩した体勢はそのまま大きな隙になる。

 刀を引いて切り込む。腕をやられれば武器は振るえない。初手から決着を狙う一撃。

 お互いの力量差を認識していても、ザリュースを侮る気持ちなど最初から持っていない。どれだけ傷付いても負けないことを諦めない、この戦士を相手にするなら、侮ったときこそが負けなのだ。故にたとえこの斬撃が彼の鱗を割り、肉を裂き、骨を砕き、鮮血を吹き出させるとしても、腕に込める力を緩めることはしない。

 そんな斬撃だった。

 

 過去色々なものを斬った。木、獣、モンスター、人。軽い手傷を負わせただけのときもあれば、草葉を薙ぐように容易く両断できたこともある。旅の道中に出会った南方の刀を帯びるようになってからは切れぬものなど無いと思ったことさえある。さすがに巨岩を真っ二つにすることはできないが、欠けさせたり手数と時間さえ掛ければ割るくらいはできそうなイメージがあった。

 

 だが、どうだ。走らせた剣先はザリュースの腕ではなく、その手に持った凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)に阻まれていた。武器を弾き飛ばしてもおかしくないはずの力は流されることもなく真正面から受け止められた。そこに見たものは。

 

(まるで山だ────なら)

 

 腕っぷしが強かろうが時間を掛けようが、山を動かせる人間などいない。絶対的な不動のイメージを叩きつけられたブレインは早々に思考を切り替える。

 

「ちぇいっ!」

 

 図体では負けるが、身軽さにおいてはブレインに分がある。一瞬の均衡から攻めの手番を掴み、息もつかせない連撃を叩き込む。

 

 そのことごとくをザリュースは完璧に捌き、戦いはまた一つの均衡点を迎えようとしていた。

 

〈能力向上〉

 

 身体能力を引き上げ、知覚や筋力などが強化される。標準的で珍しくもない武技だが、多くの者が修めているのはそれだけ汎用性が高いからだ。シンプルな効果だけに使うシーンを選ばない。

 

 上がった能力は微々たるものだが、ザリュースをわずかに上回った。正面からだと力負けすると見たか、弾いていた防御方法は受け流しへと変化する。

 

 対応が飽和してきた頃合いを見計らって、ブレインは決定打とも言うべき一撃を繰り出した。

 

 片手突き。

 

 目の慣らされた線の攻撃から、突如点の攻撃に変わる。さらには片手で押し出すことでリーチが一気に伸び、さっきまで一拍置いていたタイミングが消失する。

 狙いは武器飛ばし。いままでの反応速度から見て、この突きはザリュースが反応できるギリギリの際どいところだ。防ごうとすればバランスを崩してグリップが緩む。

 

 そのとき、ブレインも予期していなかったイレギュラーが起きた。

 

 ザリュースの動きがブレインの想定よりも遅い。初速を得た突きはもう止められない。にもかかわらず剣先と喉笛を遮るものは何も無かった。

 回避行動を取っても、このタイミングと速度では完全な回避は難しい。剣の軌道を曲げようにも、躱そうとする方向と偶然合ってしまえば逆効果だ。

 スローモーションの世界、思考ばかりがいやに回る。手を止めることもできず、もはやあとは致命傷を負わないようザリュースの天運に任せるしかなかった。

 

「はいっ、その辺で終わり!」

 

 ぱしん、と小気味良い音とともに時間の感覚が戻ってくる。並の人間には目視すら許さない速度で突き出されたはずの剣先は、厚手の革グローブに挟まれて完全にその勢いを殺されていた。

 まさか乱入してくると思っていなかったこともあるが、嵐のような気迫の応酬の真っ只中をまるで気配を感じさせずに割って入るなど誰が想定するだろうか。あるいは、この少女にとっては嵐ではなくそよ風程度にしか思われていないのかも知れない。

 

「まるで測ったようなタイミングだな」

「自分の特殊技術(スキル)なんだから効果時間くらい把握してるよ」

 

 細かいことは知らないが、その答えでブレインは納得する。この少女と自分が見ている世界はまるで違うであろうことを理解しているからだ。掘り下げるだけ時間の無駄だ。

 

 納刀して一息つく。分かりやすくこうでもしなければ、クソがつくほど真面目な蜥蜴人(リザードマン)は過呼吸で倒れかねない。

 手を降ろすジェスチャーを受けて、やっとザリュースは深く長い息を吐いた。

 

「それで、何か用事があったんじゃないのか?」

「そうそう、ちょっと聞きたいことがあって」

「へえ、珍しいこともあるもんだ……おい何だよ引っ張るな」

「いいからこっちへ来い! ……済みません、アウラ様。少しお待ちください」

 

 体格で負ける蜥蜴人(リザードマン)にがっしりと腕をホールドされてはそう簡単に振りほどくこともできない。やや乱暴と言っていい雰囲気で二人はアウラから距離を取る。

 ブレインが理由を問うより早く襟首を掴んだザリュースが詰め寄った。(ひそ)めた声だが冷たく鋭く、隠すことのないブレインへの明確な批難の意思が込められていた。

 

「どういうつもりだ! 俺より以前からここにいたのなら、あの方々がどれだけ途方も無い存在か知らぬわけでもあるまい!」

 

 それは初めてザリュースがブレインに初めて見せた素の感情だった。飾ることも偽ることもない、それ故にザリュースがナザリックにどのような考えを持っているのかが一目瞭然だった。

 明らかに自分とは異なるその考え方をブレインは否定しない。むしろ仕方の無いこととさえ思う。異質なのは自分の方なのだから。

 

「まあ、落ち着けよ。俺はいいのさ。奴らには俺を殺せない」

「もうアンデッドだったなんてオチじゃないだろうな」

「はっ、そりゃいいや。お前、冗談のセンスはまあまあだ」

 

 呑気に笑みを浮かべる男に呆れつつ、肩越しにアウラの様子を伺う。

 ブレインの言葉が真実かどうかはさておき、待たされているアウラに不快そうな雰囲気は無い。むしろこちらへ背を向けて、運搬用のラックに並べられた武器を興味深そうに眺めている。リズミカルに揺れる後ろ姿は楽しそうですらあった。

 武器に心躍る女子供というのも見たことが無いが、ここは魔境ナザリック。そういうこともあるのだろうとザリュースは半ば強引に自分を納得させる。

 

「俺は外の世界を見た旅人だが、このナザリックに存在するありとあらゆるものは噂すらも聞いたことのないものばかりだ。果たして俺たち蜥蜴人(リザードマン)にどれだけの価値がある? ()の方々にとってはそれこそ小石のようなものじゃないか」

 

 資源的な意味でも戦力的な意味でも蜥蜴人(リザードマン)にしか無いものというのは思いつかない。支配とは言ってもコキュートスの部下が村に常駐しているくらいで、奴隷として男手が連れて行かれたり雌たちが呼びだされるということもない。連綿と続く蜥蜴人(リザードマン)の社会文化は維持されたまま、むしろ生け簀や食料問題の件も含めて技術的および直接的な支援を受けているような状況だ。

 蜥蜴人(リザードマン)全体に対して明確な何かが求められているわけではないが、そこにはいつ何を言われるかという不安が常に内在している。だからこそザリュースは種族の命運を左右しかねない重責を呑み込んでこの場に立っているというのに。

 

「身の丈を知るのは悪いことじゃない。が、あちらさんはそう思ってないかも知れないぜ? だとしたら卑下するような言い方は控えておいた方がいい。声を落としたって聞こえてるさ」

「な……」

 

 つい振り返る。だがそこにはさっきと変わらない様子しかなかった。アウラはまるで飽きずに武器を取り出してはその意匠を眺めてみたり、似た武器を並べて見比べたりしていた。はしゃぐ村の子供たちと大差は無いように見えるが、その純粋な無邪気さの裏で冷静にこちらを観察していたのかと思うと、寒気のようなものが背筋に走った。

 

「はん、指摘されてボロ出すようなタマかよ。とにかく、生きてんだろ? ならとりあえずは心配いらねえよ」

「何故そう言い切れる?」

「単純さ。そうでなきゃ今頃、森の中には蜥蜴人(リザードマン)全員の死体が転がってるはずだろうからな」

 

 端的な答えは意地の悪い冗談でも何でもない。コキュートス一人に蜥蜴人(リザードマン)の精鋭が手も足も出ず負けたのだから、やろうと思えば戦士階級を失った村ごと小虫を潰すように蹂躙するのは容易いことだろう。残された女子供に、戦いながら逃げる力は無い。大人から仕留めれば機動力にも判断力にも劣る子供たちを狩るだけの単純な作業だ。

 想像だけで腹の底が熱くなる、もうひとつのあり得たかも知れない結末をザリュースは頭から振り払う。

 

「もういいだろ? これ以上待たせるのもなんだしな」

「ああ……」

 

 無意識のうちに緩んでいた拘束をスルリと抜けたブレインの後を追いながら、ザリュースは考える。

 未知の多いナザリックにおいてブレインの存在はさらに特異だ。優れた剣技はザリュースよりも戦士としての高みにあり、ナザリックの者ではないと本人は言うがモンスターに襲われることもなく、アウラをはじめ階層守護者たちからは敵でも味方でもないと言われつつも食べ物の提供や戦闘訓練を受けている。

 

 掛け値無しに死にそうなほどキツい地獄の訓練を思い出してザリュースは身震いした。近いうちに基礎戦力強化のため村の戦士たちも連れてくる話が持ち上がっているが、それを説明するのは間違いなくザリュースの役目になる。

 ナザリックの神域と見紛うほどの輝きに最初は驚き、一種の高揚に包まれるだろう。そんなものは訓練が始まれば一時間とせずに消え失せる。全力で生にしがみつかなければならないと本能が訴える、そんな目を見ることになるからだ。

 せめてザリュースにできるのは自分の体験を伝えて、前もって覚悟を決めさせておくことくらいだ。

 

 近くまで戻ってきても、アウラの意識は手元の武器に向いたままだ。今度はジャンビーヤと呼ばれる湾曲した短剣を手にしている。柄と刀身の境目には大粒のペリドットが埋めこまれており、太身の刃は全体が薄緑がかって見える。宝石だけでも王都の宝石商が冷や汗をかくほどの値打ちものだが、ブレインは意にも介さない。ナザリックでこの程度の品にいちいち驚いていたら時間がいくらあっても足りないからだ。だが、それにしてはやたらとアウラが興味を示しているのが気になる。

 待っているあいだに見ていた武器も散らかさずにひとつひとつ元の場所へ戻しているようだった。

 絶対的強者である彼女がそこまで気を配る対象となれば、理由はおのずと限られてくる。

 

「待たせたな」

「あ、終わった?」

「退屈してなさそうで助かる」

 

 手に持っていた短剣を鞘に収めてこれも丁重にラックへ戻す。レアリティの低いアイテムでも、至高の四十一人が集めた品であれば軽々しく扱うことはしない。

 

「聞きたいことがあるって言ってたが、また改まっていったい何だ?」

「うーんとね、『イイ女』ってどういうものかなって」

「…………はあ?」

 

 てっきり武技のことでも訊かれると思っていたブレインは思わず間の抜けた声が出た。何かの聞き間違いかと思って『イイオンナ』と似た名前の冒険者やモンスターはいなかったかと記憶を漁るが該当するものは無い。

 

 言葉通りに解釈するならかなり以前の、具体的には王都であのガゼフ・ストロノーフに鼻っ柱を折られるよりも前の記憶を引っ張り出す必要がある。

 

 当時は自分が天才だと何の疑いも無く信じていた。すぐに挫折することも、遥か天弓の彼方ほどの高みがあることも知らず、想像すらしなかった。

 自惚(うぬぼ)れる者の出入りする場所などどこでも似たようなもので、盛り場をうろついていたときには娼婦もよく見かけた。ああいうのは本体の娼館があるため店の外では誰も手を出さない。運営組織はそれなりの暴力も有しており、裏社会に通じていることも多い。モメてろくなことにならないのは明らかだからだ。

 だが客として金を使ってくれる分には何の問題も無い。だからその女はすれ違う男を妖艶な眼差しで刺していく。瞳の奥に鎌首をもたげる蛇を隠して。

 腰巻の隙間から美しく磨き上げた太腿が見えるようにわざと大股気味に、それでいてガサツに映らないようゆるりとしたテンポで歩く。

 そしてそこそこ小金を持っていそうなカモを見付けては近付き、耳元で甘い言葉を囁くのだ。少しのリップサービスと、ついでに軽く下の方を撫でてやれば夜には束になった指名客で店が賑わうという寸法だ。

 金が無さ過ぎても持ち過ぎていてもダメなのだ。「頑張れば何とかなる」くらいの懐具合の奴は金を用意できた達成感と肉体的な快楽の混交に溺れて繰り返し、何度でも金を作り、溶かしてしまう。

 

 一瞬でカモを見抜く審美眼や、虜にするための手練手管、何より一目で男を釘付けにするための方面に振り切った努力。

 『いい女』かと言えば、まあそうなのだろうが、これはどちらかというと酒場で酔っ払いが垂れ流す大人の下ネタで呼称されるようなポジションだ。

 

 強大な力を持っていても、言動からして子供にしか見えないこの少女に、『イイオンナ』の例として挙げていいものなのだろうか。そもそも昔目にした娼婦は確かに酒場で噂になるくらいの美人だったことは認めるが、個人的にはあれがいい女だと思ってはいない。

 ならどういうのが『いい女』なんだと問われれば、抽象的過ぎて言葉にできない。なにせあの敗北以来剣だけに生きてきたのだ。青臭い性欲だの支配欲だのは頭をよぎったことすら無い。

 

「知らないかぁ。あ、ザリュースはどう? ザリュースの考える『イイオンナ』ってどんなの?」

(おいおい)

 

 追い付いてきたザリュースに質問相手を変えたアウラにそりゃないだろう、とブレインは呆れ半分で苦笑する。

 種族が違えば文化や好まれる傾向もまるで異なる。近親種である人間と森妖精(エルフ)ですら理解が不十分だというのに、蜥蜴人(リザードマン)闇妖精(ダークエルフ)の感性にはどれほどの壁があることか、想像もつかない。

 

 加えて謹厳実直を地でいく性格のザリュースは、どう見ても女遊びができるタイプではない。

 

「……厳しい冬の日であっても一目見るだけで春の花が咲いたような暖かさを感じさせ、根のところでは芯が強い。そんな(ひと)でしょうか」

「ま、まるで自分で見たような言い方だな」

「仕方がないだろう。俺は彼女以外にそんな気持ちになったことはない」

「ちょっと待て。それじゃお前に(つが)いがいるみたいじゃないか」

「いまは違うが、遠くない将来そうなるだろう」

 

 嘘だろ。ブレインは衝撃に頭がふらつく錯覚に襲われる。

 ザリュースがモテないと言いたいのではなく、この真面目くさった奴が吟遊詩人(バード)のような言葉を紡いで遠回しに惚気(のろけ)を聞かされたことが意外過ぎて面食らったというところか。

 

 太く雄々しい尻尾がうずうずした感情を映すように地を左右に擦る。当のザリュースは気付いていないようだが、こうも迂闊な様子からその雌とやらに相当入れあげていることが見て取れた。

 

「近い将来に……ってことは婚約してるのか」

「婚約というか……いや、その話はよそう。まあ色々あってな。アウラ様、お役には立てたでしょうか」

「うーん、分かったような分からないような……」

 

 アウラの顔は浮かない。欲しいのは『どうすればイイオンナになれるのか』の答えであって、その先にある『アインズの気持ちを癒すこと』が目的なのだ。手掛かりになる情報ではあったかも知れないが、決定的な解決にはならない。

 

「……お役に立てず申し訳ありません」

「あ、ううん。気にしないでいいよ。ダメで元々だったし」

 

 手応えが無かったことはザリュースを慌てさせたが、なるべく萎縮させないようにアウラは声音を明るくする。

 彼ら二人はコキュートスの管理下だ。訓練をしているところへ横槍を入れて、挙句に余計な負担を掛けさせては申し訳も立たない。

 

「いい女って言うなら、男に言い寄られてそうな奴に聞いてみたらいいんじゃないか。吸血鬼の手下とか」

 

 吸血鬼の花嫁(ヴァンパイア・ブライド)は吸血鬼系にしては珍しく整った容姿のモンスターだ。何かと身の回りの雑用をさせるためにシャルティアが好んで側に付けている。

 

「あれは……いや、ナシ! あれは参考にしちゃいけない気がする。っていうかしたくない」

 

 玄室の甘ったるい匂いを思い出して苦い表情に両手で×(ペケ)を作る。あれらの立ち位置は目指して昇る場所ではなく、深淵を堕ちた底に限りなく近いどこかだ。

 

 シモベといえば、コキュートスの配下に雪女郎(フロスト・ヴァージン)がいたことを思い出す。大雪球(スノーボール・アース)からあまり出歩くことはないが、少し聞いておきたいこともある。

 

「よし、第五階層に行ってみるよ。邪魔してごめんね」

「いえ、とんでもな……」

 

 言い終えるより早く走り去った後ろ姿はあっという間に見えなくなった。

 

「あの幼そうに見える闇妖精(ダークエルフ)の子供が、俺たちなど歯牙にも掛けないほど強いとはな」

 

 世界は広い。旅人として知見を広げたつもりではあったが、ナザリックの持つ力はそれを易々と飛び越える。それこそ子供が口にする荒唐無稽な妄想を現実にしたかのような存在だ。

 

「あれでまだ弱い方らしいがな。とてもじゃないがまるで届く気がせん」

 

 ブレインが気怠げなセリフを吐きながら抜いた刀を立てる。白と(にび)色の入り混じる刃紋が彼の口元をわずかに歪めて反射していた。

 

「まったくだ。誰に聞いても同じ感想を抱くだろうな」

 

 同意を返しつつフロスト・ペインを構えるザリュースの目には言葉と裏腹に力強い輝きが揺れている。

 

 向かい合った両者はどちらから合図を送るわけでもなく、ただお互いの気配の高まりを感じていた。感覚的に理解しているリーチの先端を立体的に結べば自分を中心にしたゾーンができあがる。これが刃の届く距離であり、剣というよりも手斧に近いフロスト・ペインはブレインの持つ刀に比べてリーチが短く、必然的にゾーンも小さくなる。

 すり足でにじり寄り、互いのゾーンが接触するまで拳一つ分の距離。ここからはお互いの動き幅次第でゾーンが重なる。踏み込み一つで刃が届く、そんな距離だ。

 

 いつの間にか、二人の表情には不敵とも言える笑みが浮かんでいた。強いものに憧憬を抱くのは戦いに身を置く者の常だ。この場にゼンベルがいれば呵呵大笑して自分も混ぜろと言い出すに違いない。

 

 呼吸が自然と合う。細く長く、そして吸う息が一際大きくなった瞬間はじかれたようにぶつかった剣戟が火花を散らした。

 

 

 

 新雪に残された足跡。それがやってきた方を辿ると、降り続く風雪によって途切れている。延長線上を目で追えば、蜂の巣を逆さまにしたような半球の建造物が鎮座しているのが見えるだろう。

 足跡の反対側を追っていけば、その先頭に肩を落としたアウラがいた。

 

 のそのそと精彩を欠いた足取りは寒さのせいではなかった。

 コキュートスの配下である雪女郎(フロストヴァージン)たちにも質問してみたのだが、参考になる意見が得られなかったからだ。

 

 男は氷漬けにします。その答えを聞いてなんだか胸の中に冷ややかな風が吹いた。

 それがどうかしましたかと無邪気に首をかしげる彼女たちには悪いが、それ以上問答していても有用な意見が出るとは思えなかった。

 

「まいったなぁ……」

「何かお困りみたいねぇん?」

「うわっ、出た!」

「失礼ねぇん! ヒトを化け物みたいに!」

 

 プンスカと怒りを露わにする異形。水蛸のような頭部と溺死体のようにブクブクと歪に膨らんだ身体は胸元の大きく開いたジャケットとタイトなレザーパンツに包まれている。

 ニューロニスト・ペインキル。ナザリック第五階層に存在する氷結牢獄の一室に居を構える領域守護者である。

 役職はナザリック五大最悪の一角である『役職最悪』、拷問官である。室温の低い第五階層に配置されているのも、感覚を鈍らせることで傷の大きさに比して出血多量などで死ににくくするためだ。死ににくいということはそれだけ多くの苦しみを与えられるということと同義なのだ。

 

「ションボリとうなだれちゃってまぁ、吸血鬼の小娘とまた喧嘩でもしたのかしらぁん」

 

 棘のある物言いはシャルティアだけに向いているわけではない。他の女性、もっと言うならばぶくぶく茶釜を除いてアインズの近くにいる女性には大体こうなのだ。具体的にはアルベドとか。特にアインズへの好意をことあるごとに振り撒いているシャルティアへはほとんど敵視といって差し支えないほど辛辣だ。なのに何故かアウラに対しては普通というか、むしろお姉さんみたいな空気を出してくるものだから何か裏がありそうで怖い。

 特にシャルティアがいらぬ勘繰りをして絡んでこられてはまた対応が面倒だ。それを気にすると取り立てて用事が無いならば話すだけ疲れる。ここまでの徒労感もあいまってこのくねくねした物体に突っ込む気力も起こらず、アウラの足は温もりを求めて第六階層に繋がる転移門の方角へと向かう。

 

「ちょっと! 無視することないじゃないの!」

「どいてくんない? あたしいまイライラしてるんだけど」

 

 行く先を阻まれては触れないわけにもいかない。鼻を軽くすすりながら雑な対応を返す。

 

「ダメよぉん。アインズ様のお側にそんなメソメソした娘を行かせるわけにはいかないわん」

「な、泣いてないって!」

 

 目尻に煌めくものは溶けた雪なのか、区別は付かない。だがニューロニストの言い方があまりに断定的というか見透かされた気がして、後ろめたいことなど何もしていないはずなのについ隠すような態度を取ってしまう。

 とにかくニューロニストは道を譲る気が無いようだった。ここで押し問答を始める気にもならず、アウラは手早く説明することにする。とりあえず理由を知れば通してはくれるだろうと踏んで。

 

 話を聞いているあいだ、ニューロニストは黙っていた。表情が読めないせいで沈黙されると本当に何を考えているか分からない。やたら大人しいことに一抹の不安を抱きつつも説明を終えると、ブヨブヨした肉体に似つかわしくない細っそりした指が立てられる。

 

「はぁ……そういうことなら協力してあげるわん」

「何か企んでるんじゃないでしょうね」

 

 普段の言動のこともあり、単なる好意で言っているとは思えない。やや身を引いて警戒する。

 

「アインズ様のお役に立ちたいキモチは分かっちゃうからねん」

「あ、ありがと……」

 

 そこを言われては皮肉も返せない。

 

「そ、それじゃ、何をしたらいいかな?」

 

 頬の火照りを誤魔化すように先を促す。普段あまり積極的に絡みたくない相手だが、至高の御方への忠誠という点においては信用できる。

 

「そうねぇ、準備もいるから明日の朝に呼びに行くわん。そのまま第九階層に行くから寝坊しないようにねん」

「明日? それで間に合うの?」

「朝一にお戻りにならなかったら大丈夫よん。早くやっておけばいいってものでもないし。それより夜更かしは乙女の天敵よ。じゃあねん」

 

 心なしか軽い足取りでニューロニストは去っていった。氷結牢獄へ戻ったのだろうが、結局何をするかは教えてもらっていない。やたらウキウキした後ろ姿が吹雪の中に消えていくのを見て頼る相手を間違えたのではないかと拭いきれない不安が腹の底にどっしり横たわっているが、もはや今更他の選択肢も妙案も無い。

 

 腹を決めたアウラは左手に嵌めていた指輪を落とさないよう注意深くポケットへしまい、明日に備えるため欠伸を噛み殺しながら自室へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 第六階層には円形劇場(アンフィテアトルム)のある荒野以外に、緑の生い茂るジャングルがある。その中に天に向かって壮大に、雄大に伸びる大樹があった。内部には螺旋状の階段といくつもの個室があり、闇妖精(ダークエルフ)の双子の自室もここにある。

 

 地下墳墓とは言え、朝には外と何ら変わることのない心地よい陽光がはめ込みの丸窓から差し込んでいる。小鳥のさえずりが聞こえても、部屋の中に動くものは無い。所狭しと並べられた種々様々な動物たちは物言わぬぬいぐるみだ。

 

 トントントン、と小気味良いリズムで優しい音が鳴る。少し間を置いてもう一度、トントントン。

 

「ん……」

 

 もぞり。ノック音に反応して部屋の主は全身に被ったタオルケットの中で身じろぎをする。吊られているハンモックが反動で軽く揺れた。

 なおもノックは続く。

 

「誰ぇー……?」

 

 鬱陶しいという細やかな意思表示代わりに長い耳をぴくぴくさせていたが、部屋の外にいる者にそんな機微が分かろうはずもない。二度寝は諦めたが、普段から不規則な、身も蓋もなく言うと怠惰な朝を過ごすことの多いアウラは往生際悪く最後の抵抗をする。

 

『アウラ様、起きてらっしゃいますか? シクススです。入ってもよろしいですか?』

「シクスス……? ちょっと待ってー……」

『かしこまりました。扉の前におりますのでお声掛けください』

 

 寝起きで霞のかかった思考でも生来の身軽さは損なわれない。タオルケットを捲り、慣れた身のこなしでハンモックから降りた。

 サラサラな金色の髪は寝癖のためにまとまりも落ち着きも無い前衛芸術的なシルエットを作り出している。ホワイトをベースにピンクストライプ柄の入ったパジャマに裸足のままで、ついさっきの軽やかな飛び降りが見間違いかと思うほどのそのそと鈍重な速度で扉に向かう。

 シクススに何の用かを訪ねようとした瞬間、勢いよく扉が開かれた。

 

「いつまで寝てるの! このお寝坊さん!」

「うわっ! ビックリした!」

 

 怒涛に押し寄せる津波のような勢いで入ってきたのはニューロニストだった。

 

「すみません、アウラ様。……だ、大丈夫ですか?」

 

 急に跳ね上がった心拍数、動悸を抑えるように声の方を見るとニューロニストの図体の向こうに顔を出したシクススが見えた。どうやらモーニングコールは幻聴ではなかったらしい。

 

「大丈夫だけど、あー、朝っぱらからキッツいもん見たわー。目が覚めたよ」

「ふふん、あたしの美しさに目が眩んだのねん」

「突っ込まないからね。てゆうかいきなりなによ」

「あらヤダ、この子若年性健忘症かしら。まあいいわ、行くわよん」

「ちょ、ちょっと! まだ着替えてないんだけど!」

「いいのいいの。じゃ、貴女たちあとはよろしくねん」

 

 小脇に抱えられて強引に部屋から連れ出されると、入れ替わりでシクスス含めて一般メイドが六人なだれ込んできた。巡回清掃といってもこれだけの人数がぞろぞろと固まって動くはずもない。

 

 あっという間に自室の扉は視界から消えて、彼女たちが何のために集められたかさえ分からないまま慌ただしい朝が過ぎていく。

 

 ニューロニストの言葉から察するに明確な目的地があるようだ。

 拘束から逃れるのは簡単だが、仮にも協力を仰いだ立場なのだからあまり棘のある行動も起こせない。一般メイドについては普段からも持ち回りで実際に自室を掃除してくれているので滅多なことはないとは思うが、それにしても何故あんな人数で来たのかが分からなかった。

 万一のときの代案を考えておくべきか、横っ腹にむにゅむにゅと不思議な感触を覚えながら思案するアウラだった。

 

 

 

「────にしても、何でお風呂?」

 

 もうもうと湯気の立つ大浴場、その洗い場。

 ナザリックの大浴場はリゾートスパの側面もあり、ジャングル風呂をはじめとする多種多様なエリアに分けられている。現在アウラがいるのはその中でも比較的スタンダードな古代ローマ風の風呂だ。

 スタンダードとは言っても、見る者に神々しささえ感じさせる細部にまで手の込んだ建築装飾や、雄々しいライオンの彫像などロイヤルスイートの名に恥じない格調高い雰囲気に包まれている。

 

 椅子に腰を下ろしてアウラは浴場の入り口を肩越しに見る。磨りガラスの向こうにいくつかの黒いものが揺れているが、その正体は浴場前の通路で待ち構えていた一般メイドたちだ。

 ニューロニストからそのまま引き渡されたあとはあれよあれよと服を脱がされここへ入れられた。すぐ行くから少し待っているように頼まれて。

 

「じゃーんけーん、ぽん! あいこで、しょっ! あいこでしょっ! しょっ!」

「やったあああああ!」

「うぎぃー! 負けたー!」

 

 引き戸越しに姦しい声が聞こえてくる。

 

「何やってんの……」

 

 あらかじめ用意していたのだろう、音も無く空いた引き戸からカートを押して一般メイドのリュミエールが入ってきた。どことなく沈鬱とした雰囲気を纏っているのは何故だろう。

 

「お待たせしました、アウラ様」

「なにこれ?」

 

 山型になったカートの上にはボトルのようなものが階段状にズラリと並べられている。色も形も統一感が無く大小まちまちだ。山の内側には風呂場では何も珍しくないタオルや手桶、身体を洗うためのスポンジなどが入っていた。

 

「ご説明させていただきます」

 

 湯気で曇った眼鏡を拭いて、どこから出したのか収納式の指し棒をジャキンと伸ばす。

 

「これはウンディーネの雫。保湿効果が高く乾燥肌の方にもオススメですわ。こちらはサラマンダーのエキス入りオイル。熱を帯びた感覚が残るので血行促進効果がありますが、刺激がやや強いので塗り過ぎは注意が必要です。それとこちらは……」

「それ全部やるの? さすがに肌寒いんだけど」

「そ、それは……」

「ほら、だから言ったじゃない」

 

 横からひょいっと現れたのはこちらも一般メイドのフォアイルだ。髪は短く切り揃えられており、口調とあいまって活発そうな印象を受ける。

 リュミエールと違ってミニスカートタイプに着替えており、上も袖が無いスタイルで動きやすそうだ。

 のしのしと背中を押して同僚を外へ送り出す。

 

「あぁああ……折角お世話ができるのにぃ……」

「はいはい、ジャンケン負けた人はさっさと自分の仕事に戻ってねー」

 

 再び眼鏡を曇らせたリュミエールはすごすごと退出する。

 

「さーて、それじゃあ頭から失礼しますよー」

「え、いや自分で洗え……わぷっ」

 

 御構い無しで掛けられたお湯の勢いに思わず目を閉じる。適温に調整されているため冷たくもなければ熱過ぎるということもない。水分を含んだ髪がぺったりと張り付いて視界が悪くなる。

 赤ん坊ではないのだから、身体を洗うくらい自分でできる。軽く抗議の意思を込めて渋面を向けた。

 

「どうかしました? あ、すみません!」

 

 謝りつつも笑顔で手をポンと打つとカートをごそごそ探り、ギザギザとした溝のある円盤を取り出した。真ん中には拳二つ分くらいの丸い穴が開いている。

 

「はい、シャンプーハット」

「ああ、うん、ありがと……じゃない!」

「まあまあ。お風呂場でアウラ様に何もさせるなというのは実はニューロニスト様のご指示なんですよ」

「ニューロニストが?」

「はい。なんでも、『いい女は奉仕されるのもうまくなくちゃダメよん』とか」

 

 そういうものなのだろうか。だが確かに、アインズは普段から守護者や一般メイド、シモベに至るまで本人たちの行動を完全に読み切ったうえで誘導し、さらなる気付きや成長へと繋げている。そんなアインズをいい男と称することに異議を唱える者は誰一人としてナザリックにはいないと断言できる。

 なるほどつまり、この一見遊ばれているとしか思えない状況もニューロニストの策の内ということなのだ。見え隠れする女としての意識の高さに釈然としない敗北感を抱きながらも、素直に感心する。

 

(なんだ、じゃあシャンプーハットも冗談か)

 

「かゆいところはありませんかー?」

 

 わしゃわしゃと頭をマッサージする指が心地良い。

 

 メイドたちが清掃しているナザリックは大理石や稀少金属、魔獣の毛皮から作られた絨毯など無数の素材からできている。魔法による保護が掛かった衣服などは汚れが付かないのであまり気にしなくてもいいが、そうではない品々は扱いにそれ相応の技術と注意が必要だ。慎重にやれば誰でもできる作業だが、なにしろ広大なナザリックでひとつひとつに数時間掛けていてはメイドの数が十倍に増えても掃除が終わらなくなってしまう。

 そのため指先の器用さに掛けてはメイド全員が一定以上の技量を身に付けている。

 頑丈なものは強く素早く、繊細なものは傷付いたりしない程度に素早く。その判断を感覚的に一瞬で終わらせる。

 

 アウラの頭上を動き回る指は決して乱雑ではない。優しく軽やかで、むず痒さを感じさせないくらいの絶妙な力加減でコントロールされている。

 少しひやりとした感覚と、ほんのりフルーティーな香りがする。甘ったるいものではなく、ミントを混ぜ込んだような爽やかさが漂う。

 

「流しますねー」

 

 さっきと同じ、じんわりとした温もりが広がる。泡混じりの湯が目の前を等間隔に流れていく。

 

「ん? ああっ、いつの間に!?」

 

 手をやると円状のシルエットが浮かび上がる。

 完璧なフィットのせいもあり、いまのいままで気付かなかった。

 

「さあさあ、次はトリートメントですよ」

「まだあるの? もういいんじゃない?」

「ダメです!!」

 

 パーソナルスペースを無視する勢いで迫るフォアイル。直感で分かる。これは反論したら手がつけられなくなるやつだと。

 

「目が怖いよ……?」

「ただでさえアウラ様はナザリックの外で活動なさることが多いんですから、しっかり髪やお肌のケアをしておかないと! お肌ボロボロの髪ガサガサになりたいんですか!?」

「そ、それは……嫌だけど」

「そうでしょう! それならこれを機にちゃんとしましょう。なんでしたらお風呂入るときに私たちが毎回」

「それはいらない」

 

 

 

 髪のあとは全身を洗ってもらうという罰ゲームかと思う羞恥に耐えて、結局本心からリラックスできたのは湯船に浸かっているときだけだった。

 全身に緩みが広がったことで、つい油断してしまっていたことに脱衣所へ出てから気付く。同時にそれは目前に溢れ出る悪意無きパワーのベクトルから逃れる術が無いという確信を抱かせた。

 

 先のジャンケンに負けたのであろう一般メイドたちがそれぞれにまるで別々の衣服を手にして待ち構えていたのだ。端の方を見るとしれっとリュミエールも混ざっている。

 

「アウラ様ここはスタイリッシュさを強調したプールポワンを」

「あえてセクシーなキャミソールで」

「こっちのチュニックも似合いますよ」

「カジュアル過ぎない? やっぱりこっちの落ち着いたブリオーが」

 

 それぞれが手に持った衣服を主張する。よく見ればあれらには見覚えがある。自室のクローゼットに大量に吊るされた中にあった物だ。流石に着ぐるみは引っ張り出されなかったみたいだが、雑多と言う他ないラインナップをアウラ自身も正確には把握していない。

 そもそも普段の服装で不便が無いため、着回しの必要性も感じていなかったのだ。

 

「それじゃそろそろ仕上げよん。アウラちゃんアンダー着たらこっちに座ってねん。そこからそこまで、ボツよん」

 

 ぎょろついた目と細い指に差されたメイドたちは「えー」と残念そうに脱衣所を出ていく。残った二人が手分けして壁掛けの鏡に暗幕を張りだした。

 

「今度は何?」

 

 さっきボツを食らったメイドたちがすぐに戻ってくる。その腕にはまたも衣服が掛けられているが、どうも持っていったのとは別の品だ。

 

「ふふ、ここからはあたしの独擅場よん。今度はそっちの二つボツ」

 

 暗幕を貼り終えて戻った二人が推しの服を持って出ていく。多分すぐに別の服を持って戻ってくるのだろうけれど。

 

「アウラちゃんはあたしがとってもステキな芸術にしてあ・げ・る」

「イヤな予感しかしないわ」

「大丈夫よん! でも魔法が解けちゃうから鏡を見ちゃダメよん」

 

 本人はチャーミングなつもりなのか、水死体じみた容姿から放たれるウインクは絶大なインパクトだった。

 

 

 

 

 

 

 王都でのゲヘナ作戦、その仕掛け人にして主役の一人であるデミウルゴスはまだナザリックへ帰還してはいなかった。ヤルダバオト襲来によって波及する王都内外の動向を調査する必要があり、すでに潜入させている部下たちに指示を出すためだ。

 玉座の間へ戻ったアインズは最終全体的な報告はデミウルゴスに任せるとして、『漆黒』の状況を共有していた。

 

「人間風情が至高の御方に相応しい品を献上できるとは思えませんが……」

 

 苦虫を噛み潰した表情には「むしろ迷惑だわ」という感情が滲み出ていた。不快さを打ち払うように腰から生えた黒翼が中空を叩く。

 

「品自体はどうだっていい。王から贈呈されたという事実が重要なのだ」

 

 大したアイテムではない、という点はアルベドに全面的に同意だが。

 

「これで一都市の英雄に過ぎなかったモモンの名は、王国の英雄として他国へも広がるだろう」

「情報がさらに集まりやすくなるという訳ですね」

「そうだ。その分表面上の振る舞いにはより一層注意が必要だが」

 

 英雄としての名が広まれば、それだけ世間の耳目も集まる。軽率な行動は名誉を貶め信用を失う、愚かなことだ。

 エ・ランテル周辺においては所属の冒険者組合があることも関係しているのか、変な絡み方をしてくる奴はいない。

 王都でも多少知名度が上がっていたとはいえ、あちらには以前からのアダマンタイト級冒険者チームが複数あり、『漆黒』の情報は一部の冒険者や商人を伝った断片的かつ確度も怪しいものばかりとなれば、話を聞いた人々が懐疑的になるのも無理はない。実力を疑問視する声もヤルダバオトの一件で鳴りを潜めるだろう。

 

「ルプスレギナはうまくやれていますでしょうか」

「ああ。表情の出しにくいモモンの分まで頑張ってくれている」

 

 ただでさえ全身鎧(フルプレート)に二本のグレートソードを背負った偉丈夫であり、威厳を損なわないためにおどけることもないモモンは責務に真剣であるが、気安く俗っぽい付き合いの似合う人物像ではない。下位の冒険者チーム相手にも礼を失さない姿勢は尊敬の念を集めているが、あくまでアダマンタイト級という規格外の強さに付随する憧れに過ぎない。

 その点、表情豊かなルプスレギナはモモンに足りない部分を充分補っていると言える。遠慮の無い性格は砕けた雰囲気と合わせて肩肘張っている依頼人の緊張を和らげたり、女性の依頼主もモモンに萎縮しないで済むというのもありがたい。

 何より気持ちのいい食いっぷりから、酒場では少し違う方向性で有名になっている。酒飲み同士のネットワーク経由で依頼が来たときは苦笑する他無かったが、息抜きも必要だろうと黙認している。

 

「そういえばルプスレギナにも何か褒美を与えるべきだな」

「至高の御方のお供という大任がすでに充分な褒美となっております」

「いや、それは……うーむ」

 

 働きには相応の対価があるべき。思いはするもののこれが意外に難しい。何しろナザリック内には様々な施設が揃っていて、全て無料なのだ。現地のお金を与えたところで到底足りはしないし、わざわざ外へ買いに行きたい物も無いのだから褒賞に足る何かが全く見えない。

 仕えることこそ褒美と誰もが口を揃えて言うが、それが正しいかと言えば疑問が残る。

 

(はぁ……難しいな)

 

 ひたいに手を当ててみてもいい案は浮かばない。NPCたちの好意に甘えるしかない現状に無力感を抱きながら、憂いに満ちた吐息を漏らす。

 

「アインズ様、アウラ様がいらっしゃっています」

「アウラが? 呼んだのか?」

 

 アルベドは首を横に振る。とすると何らかの報告事だろうか。

 入室の許可を受けて正面の扉が開かれる。

 

 まず目を引いたのは薄紫のワンピース。くるぶし丈のスカートにベアトップのスタイルはイブニングドレスと呼ばれるものだ。首から鎖骨周りは白地に金色の精緻な刺繍が施されたレースに包まれている。

 

 慎重そうに歩いてきた理由は足下にある。靴も普段のものとは全く違う、艶々とした黒のハイヒール。

 バランスを損なわないようにと繰り出す足をまっすぐに重ねる歩き方をしているせいでモデル歩きになってしまい、必要以上にスカートがヒラヒラと舞い揺れた。

 

「アインズ様、お帰りなさいませ」

「お、あ、ああ。ただいま」

 

 不意を突かれて思わず素が出そうになる。一瞬目の前にいるのが誰なのかを忘れるくらい、いつもと違って見えたのは服装のせいだけではない。着慣れないためか心なしアウラの挙動には落ち着きが無い。何処となくそわそわしているというか、伏しがちな目線が右往左往している。

 

「ア、アインズさまっ!」

「な、なんだ?」

 

 あまり緊張はしないタイプだと思っていたが、上擦った声は明らかにガチガチだった。

 だが一方で覚悟を決めたようにまっすぐ差してくる目を前に、視線を外すことができない。必然的に見つめ合う格好になるが、上位者としてここで自分から目を背けるのはあまりにも無様だ。

 

「お側に寄ってもいいですか」

「あ、ああ。構わないとも」

「じ、じゃあ失礼します」

 

 一歩一歩を噛みしめるようにおずおずと距離を詰めてきたアウラの足は止まらない。アインズのローブと膝が擦れるくらいまで近付き、軽く預けられた体重はまるで羽のようだ。

 

(あ、なんだかいい匂いがする)

 

 春の空気にも似た香りが、存在するのか分からない鼻腔をくすぐる。やや癖のある金髪は角度が少し変わると光の輪が波紋を広げて、麦穂の平原を見ているようだ。

 浅黒い肌はルプスレギナにも通じるものがあり、日焼けのイメージで健康的な印象を受ける。ピンクの唇は瑞々しく、アンバランスな艶かしさが光った。

 

 何よりも目が離せなかったのは青と緑の宝石だ。姉弟で左右が逆のそれは目が合った瞬間から微かな潤みが淡い色を不規則に揺らし、吸い込まれるほどの底深さと美しさを(たた)えた魅力に満ちていた。

 

「見るだけで効果があるって聞きましたけど、どうですか? アインズ様」

 

 どう、と言われても。とはとても言えない。そんなに期待と不安を詰め込んだ視線を向けられて肩透かしを食らわせればあとでロクなことにならない。身をもって学んだことだ。

 下手な質問ができないので、探り探りいくしかない。

 服装と行動、どちらに着目するべきか。アインズが選んだのは前者だった。

 

「────お姫様みたいだな」

 

 正直、いまのアウラの装いは姫と聞いて思い浮かべるステレオタイプに近いとは言えない。それはどちらかと言えばシャルティアの方が近い気がする。アルベドは女王様だろうか。

 

「それは、『いい女』ってことになるんでしょうか?」

「なっ!」

 

 いったいどこでそんな言葉を覚えてきたのか、容姿に似つかわしくないませた発言に虚を突かれて揺れた精神の沈静化が起こる。

 

(そういうのはシャルティアとかのポジションじゃないのか……。いや、もしかしたらあまり深い意味は無く使っているのかも知れない)

 

 よくよく考えればナザリックには色々な施設があるものの、流石に教育機関は無い。かつてギルメンが学園を作りたいとか言っていた覚えがあるが、あれは多分別物だ。下手をすれば正しい教育とは対極の存在の可能性まである。

 何にしてもアンデッドではない者たちは数年から種族によっては十年単位で肉体的に成長するのかを調べる必要がある。同時に、学校とまではいかなくても情操教育含め必要な知識を得る場として教育機関の設立は将来的に避けられない課題のひとつだろう。

 

(でも俺が講師をするわけにもいかないからなぁ。やっぱりぶくぶく茶釜さんに任せるしかないか……?)

 

 あんなとんでもない仕込み腕時計を作る人物に委ねるのは一抹の不安を拭いきれないが、そこはアウラとマーレの親も同然なのだから真面目にやってくれると信じたい。

 以前戦闘メイド(プレアデス)の調査をした際に感じたのは、物事の考え方に個人差があり過ぎて『あるべき常識』が定義できないということだ。唯一例外があるとするなら、至高の四十一人であるアインズとぶくぶく茶釜の発言ならばナザリックの者の多くは無条件に賛同の意を返すだろうが、それは結局のところアインズたち自身の考えをオウム返しされているようなものであって、鏡を覗き込むのと大差無い。さらにはアインズの思考の根源は鈴木悟というごく平凡な人間の生い立ちや経験によるものだ。アンデッドの肉体のせいで得たものもあれば失ったものもある。睡眠欲、食欲、性欲……は全く無いわけでもない気がするが、物理的なモノまで失くなってしまったのは男として嘆いていいのかも知れない。

 種族によっては基本的な性質や食文化も違う。もっと言えば時間感覚も違うのだ。長命な種族は人間に比べると成長と年齢の比例が極めて緩やかだったりする。アウラの種族である闇妖精(ダークエルフ)などはまさにそれだ。見た目の感覚で決めるのも正答とは言い難いが、彼女の精神年齢が見た目相応なのであれば支配者兼保護者としてしっかり考えなければならないだろう。

 

 しかしそれらの諸問題はいまこの場で決めることでもない。先送りという言葉を心の辞書から一時的に見えなくしておき、デリケートな領域には触れないに限る。ここはアウラの純真さに賭けて、あくまで余裕のある支配者然とした振る舞いを維持することにした。

 

「どうかな。だがアウラは将来きっと間違いなく美人になるぞ」

「そうですか? えへへ」

 

 照れた表情はさりげない化粧のせいか、普段よりも大人びて見える。

 

 美人になるだろうという言葉は本心だ。マーレも負けず劣らず美男子になるだろう。服装の逆転による問題はあっちの方が深刻な気がするが、それは考慮しないものとして。

 

 都市エ・ランテルだけでなく、今回王都リ・エスティーゼに赴いたことでさらに分かったことだが、この世界においては男女問わず容姿のレベルが非常に高い。

 だがその中でもルプスレギナの容姿は異彩を放っていた。というのもモモンの相方として振舞っている都合上ほぼ常に側にいるため、集まる視線の多さはモモンに扮するアインズにも強く感じ取れたからだ。

 そんなルプスレギナに他の姉妹やアルベドといった者たちが容姿の面で劣っているかと言えば、そんなことは全く無い。アンデッドであるシャルティアは成長しないはずなので比較から外すが、普段の姿は美人と言って差し支えない。

 ならばアウラもマーレも例に漏れず、育てば美男美女になると考えるのは親バカならぬ上司バカだろうか。

 

「アインズ様、元気出ましたか?」

「ん? 元気が無さそうに見えたか?」

「い、いえ。そういうことじゃないんですけど、ナザリックの外で働かれて、お疲れになっていないかなと」

「何も問題は無い。まあ、多少の細々(こまごま)としたことはあるが、ナザリックのことを、お前たちのことを思えば何ということは無い」

「アインズ様……」

 

 差し出された手へロンググローブに包まれた両手を添えて、愛おしそうに頬を当ててくる。すべすべぷにぷにした感触は少しこそばゆいものがあるが、ほんのり感じるアウラの体温が自分にとってどれだけ大切か、守るべきものは何なのかを改めて自覚させてくれる。生身であれば温もりのひとつも返してやれるだろうが、ゴツゴツとした骨丸出しの手からはきっと何も伝わらない。

 だからこそ、アインズは言葉と行動で示さなければならない。彼女たちが信じる支配者像を裏切らないために。

 

「……うらやましい」

「何か言ったか? アルベド」

「い、いえ、何でもございません。アインズ様の仰る通り、素晴らしい衣装だと。流石は至高の御方々のコレクションです」

「はは、そうだな。お前のそのドレスもとてもよく似合っているしな」

「は……」

 

 それきりアルベドは顔を赤く染めて固まってしまった。

 

 守護者たちをはじめ、ごく一部の例外を除いてPOP(自動湧き)のモンスター以外はデザインを一からギルメンが作った者だ。着せ替え用のコスチュームはあっても、デフォルトの服はやはり創造者の趣味嗜好やコンセプトが強く出ていることが多いため、アインズにとってはギルメンの影を感じられるという点で微笑ましい。

 それは統一されている一般メイドなども同様だ。

 

「さて、このままアウラを眺めていたいのも山々だがそうもいかん」

 

 無限に撫でていたい欲望を寄せ集めた使命感で断ち切る。支配者は膝の上の猫を撫でているだけではダメなのだ。

 

「アウラ、礼を言う。実に楽しい時間だったぞ」

「そんな、お礼だなんて。あたしの方が元気をいただいちゃって、なんだかあべこべです」

「はは、ならばお互い様ということにしておこう」

 

 数歩アウラが下がり、アインズは確認するべき内容を心の中で再度ピックアップし、十秒のカウントを取る。

 ここからは組織の上に立つ者としての会話に切り替えなければならない。

 

「じきにデミウルゴスも戻るだろう。そのあとの予定は言っていたか?」

「はい。すぐにでもアベリオン丘陵へ発つとのことです」

「アベリオン丘陵……羊皮紙の件だな。何か足りないものなどは無いのか」

「牧場の規模拡大に伴う食料の不足が懸念点と先日届いた報告書には記載されていましたが、素材確保と並行していた実験の結果、解決へ向かっているそうです。取り立てて物資の不足などは無いかと」

 

 流石はデミウルゴス、手抜かりが無い。言われてみれば剥いだ皮を回復魔法で再生できるなら、個体数を維持するための食料が必要になるのも当たり前の話だ。

 ナザリックの資源以外から確保しているあたりもありがたい。蜥蜴人(リザードマン)たちのように一時的な援助であれば構わないが、羊皮紙のために金貨を消費してエサを生み出していては買っているのと変わらない。それなら貴重な階層守護者を割り振っている分、損というものだ。

 

「そうか、ならいちいち口を挟む必要も無いな。ああ、そうだ。アウラ」

「はい! なんでしょうか?」

「ひとつ仕事を頼みたい。いま第六階層にザリュースが来ているだろう。彼をカルネ村経由で蜥蜴人(リザードマン)の村へ送ってやってくれ」

「カルネ村……ナーベラルが滞在しているところですね」

 

 知っている情報を復唱してみたものの、中空に彷徨わせた視線はそれ以上の何かが思いつかないことを示していた。

 

「そうだ。面通し程度で構わない。ザリュースにはカルネ村の様子を他の蜥蜴人(リザードマン)たちに伝えてもらう。あくまで彼自身の言葉でな」

(なんだかんだで蜥蜴人(リザードマン)の併呑は力任せだったからなぁ。ペストーニャの報告ではカルネ村は人間とゴブリンがうまくやれている。そんな様子を見れば多少ナザリックに対する恐怖感とかも和らぐだろう)

 

 蜥蜴人(リザードマン)に秘密裡にコンタクトを取る者がいれば、彼らの口から語られるナザリック像は高い信憑性を持つはずだ。悪評自体はユグドラシルの頃から絶えなかったが、苦楽をともにして笑いあった仲間たちの大半がいまは側にいないのだ。間違っても世界の敵となるわけにはいかない。基本スタンスは世界の調和を尊重しつつ、情報網を広げる。そして他のギルメンを探すことが現在の大まかな方向性だ。

 

「私は二日後にはエ・ランテルへ戻る。流石にそれ以上は不自然だしな。アルベド、デミウルゴスには充分な休息を取るよう伝えておけ。これは命令だともな」

「かしこまりました」

 

 サラサラの黒髪が揺れる。直接伝えられればいいのだが、デミウルゴスはまだ王都でやることがあるため一日二日で戻るかが分からないのだ。アルベドに伝言しておけば言いそびれる心配も無い。

 

 担当している羊皮紙素材確保のため、デミウルゴスの主な活動地はアベリオン丘陵付近だ。西にローブル聖王国、東にはスレイン法国があり、両国にとっては不干渉地帯にあたる。トブの大森林での薬草採取のときに一度呼び戻したが、あまりこちらの都合で振り回したくはない。王都でのゲヘナ作戦はデミウルゴス主導とはいえ、立案から現場指揮に直接参加しているためその負担は決して小さなものではないはずだ。

 

「では、二人とも頼んだぞ」

 

 恭しく(こうべ)を垂れるアルベドとアウラを横目にアインズは転移した。

 

「はー、緊張した」

「流石はアインズ様ね。どれだけ先の戦略を見ていらっしゃるのか見当もつかないわ」

「どういうこと?」

「特に意味も無く蜥蜴人(リザードマン)を連れていく訳ではないということよ。たとえばアウラ、ナザリックに見知らない連中が増えたらあなたはどう思うかしら?」

「至高の御方がお決めになったことなら別に何も。あ、でも自分の部下なら魔獣系がいいかなぁ。ハムスケとかロロロとかみたいなさ」

「では、その全然知らない連中と一緒に戦うとしたらどう? 作戦を話し合ったり戦場で互いをフォローしようとしたりするかしら」

「まっさかぁ。あたしは信頼できるペットたちを連れて戦うよ」

 

 アウラの答えは至極当然だ。ザイトルクワエのときは確かに共闘の力というものを知ったが、守護者が協力して戦う相手としてはザイトルクワエでは役者不足だった。加えて頭では理解していても全く違う特性を持つ者たちが効果的に連携するのは非常に難しく、いざとなればついそれぞれが単独戦闘を選んでしまってもおかしくない。それが種族単位となればなおのことだ。

 

「でも、同じ環境に置かれた者同士ならどうかしら。種族の括りではなく、ナザリックのシモベというカテゴリーなら」

「それなら、あたしたち守護者同士みたいなものよね。命令があったり必要なら協力するんじゃない?」

「そういうことよ。ペストーニャの報告では現在のカルネ村は人間とゴブリンが共生状態にあり、その関係は良好。アインズ様はその枠に蜥蜴人(リザードマン)を含めようとしていらっしゃるのね。あるいは、それ以外の種族をも……」

 

 汎異種族連合とでもいうべきか、個々の力が弱くとも数の理はバカにできない。この調子で異種族をまとめていけば、いずれは王国や帝国の兵団にも匹敵する規模となる。

 バラバラの種族を同じ戦場へ配置したところで、それぞれの持つ元々のコミュニティは水に浮く油のように融和せずただの寄せ集めでしかない。ナザリックという同じ旗印の下で渾然とした集団になるためには種族の壁を貫き通す共通認識が必要だ。

 

「仲間意識を持たせるんだね」

「いきなりは難しいでしょうから、まずはカルネ村の様子を伝えさせて警戒を緩ませる段階からね。いずれは逆に人間を蜥蜴人(リザードマン)の集落へ連れていくのもいいかもしれないわ」

「よし、じゃあさっそく行ってくるよ」

 

 スカートの裾を翻して玉座の間をあとにした。優れたバランス感覚による足取りは危なげなく軽快なリズムを刻む。

 至高の存在から直々に依頼された仕事は何物にも代え難く、鼻歌まで流すほどの上機嫌になったアウラは通路の陰に潜む鈍い光沢に気付かない。

 

 

「あらまあ、楽しそうなことで」

「アウラちゃん……これで貴女もライバルかしらん」

 

 ぬめついた二つのシルエット。一つはもう一人の至高の御方であるぶくぶく茶釜だ。

 

「そういえばあんなドレスも入れてたっけ……。あれ、マニキュアもしてる?」

「仰る通りですわん。お化粧には自信がありますのよん。ほ〜ら」

 

 ズラリと並べた細指から伸びる爪には花柄の装飾が施されている。トップコートもしっかり塗られており、ムラの無い艶のある仕上がりは一日二日で身に付く技巧ではない。

 

「アウラにしてあげたのも花モチーフ?」

「そうですわん。黒百合をメインに」

「黒百合って……うわぁ」

「あたしなりの宣戦布告ですわん。なにしろあの()ったら、『いい女』になりたいそうですからん」

「ふぅん? さっきのを見る限りじゃ『いいおんな』というより『かわいいおんなのこ』って感じだけどねぇ」

「あたしみたいな大人の魅力はまだまだですわねん」

「うん……うん?」

 

 腰をくねらせた異形の姿はどちらかといえば見たものを混乱させそうな雰囲気を放っていた。




次回から新章です。
2018/11/10 行間を調整しました。

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