オーバーロード 粘体の軍師   作:戯画

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第67話 衝突

(……まいったなぁ)

 

 

 谷を風のように駆け下り、草陰に隠れるように身を低くしたアウラはわずかばかりの緊張を感じていた。

 どうやら面倒ごとは避けられそうにないと考えて。ぶくぶく茶釜とマーレが追い付くのを待たずに自分の判断で行動しなければならない可能性を考えて。

 

 野伏(レンジャー)職業(クラス)を持つアウラにとってナザリック地下大墳墓第六階層のジャングルに似た植生である緑豊かな山や森は庭も同然だ。足下の小枝や石など音を立てるものを避けることなど造作も無い。

 

 先行してきたのは土石流に巻き込まれたツアレを回収するため。

 目の良さと身軽さには自信がある。

 

 アウラの進路は土石流が作る破壊痕に対してまっすぐではなく少し蛇行し、ときに緩やかなカーブを描きながら接近していった。

 接近ルートは風下から。

 

 野生動物の多くが聴覚と並んで危険察知に用いている嗅覚の網を()(くぐ)る方法としてはオーソドックスであり、失敗すれば一転してピンチに陥ってしまう手法でもある。だが気配の消し方を心得ている者が正確に風を読めたときの効果は凄まじい。

 気付かれることなく直接触れられる距離まで迫ることさえ可能だ。

 

 普段なら、たとえばトブの大森林を散策するときには狩りでもない限りこんなことはしない。存在を周囲に知らせないのが優位を得るセオリーではあるが、森を三分(さんぶん)して拮抗していた主要な勢力が東の巨人とあのナーガとハムスケなのだから、トブの大森林において警戒に値する存在はいないとの判断からだ。

 見知らぬ土地であること、ぶくぶく茶釜の供回りであるということがアウラを普段よりもほんの少しだけ慎重にさせた。

 

 流れてきた土砂や岩石は傾斜の緩くなった平地にぶちまけられて、ところどころからへし折れた木の幹が乱雑に飛び出している。

 根を張った木の強固さと弾性は馬鹿にならない。子供の胴程度の太さであってもちょっとやそっとの雨風などではビクともしない。無残に()げた木々はどう見てもそれより太い。

 地面ごと(えぐ)り取りられてしまえば張った根も無意味だ。岩石が巻き込まれることで押し寄せた大質量は強靭な木の根をもってしても止めることができなかった。

 

 アウラの長い耳は雨音とはまた違う音を拾っていた。それは声だ。野太い低音の声が二つ、三つと固まっている。

 気付かずにどこかへ行ってくれればよかったのに、土石流の轟音はむしろ連中の興味を引いてしまったらしい。

 

 谷底までの途中、ポツンと空いた平地に複数の影があった。全身を覆う体毛はこの土砂降りの雨をたっぷりと吸い込んで、重々しそうに張り付いている。

 それでも人間の比にならない筋肉は隆々と山を作り、決して貧弱そうには見えない。毛が乾いて空気を含めば、さらに大きく見えるのだろう。

 多少の地面の荒れなどまったく意に介することなく、歩き方は粗雑さを感じさせた。

 

 それは、ビーストマン。好戦的な性格と圧倒的な肉体能力を武器にこの竜王国を蹂躙しつつある侵略者である。

 

 一体が瓦礫の影にしゃがみ込んだため視界から消える。暗闇からさらに二体が現れ、同じ数が森の奥へ消えていった。どうやら見回りを交代しているようだ。

 

 胸元に揺れるドングリに手を伸ばしかけた手が止まる。いまこれを使うのはリスクが高い。

 

 声を発さなければ相手に伝わらず、相手の声もこの場で出てしまう。雨音に多少掻き乱されるとは言え、余計な雑音で相手に気付かれれば圧倒的な有利を手放すことになりかねない。

 ましてマーレからはこちらの状況が分からないのだ。音をできるだけ抑えるよう指示を出そうにも、止める間も無く大きい声をあげられたらアウトだ。それなら黙って追い付かせた方がまだいい。アウラが身を隠していることに気付けば、警戒したマーレはとりあえず不用意なことはしないはずだ。

 

 細かいことは追い付いてきたときに考えることにして、アウラの意識は観察に戻る。

 

(四体か……。うーん、まだいそう)

 

 見張りを交代した二体だけとは考えにくい。

 

 奇襲を掛けるのであれば敵勢力の人員配置は仕掛ける事前に把握しておくのが望ましいが、いつも時間に余裕をもって調べられるとは限らない。実際には諸々の理由により把握しきれない場合だってある。いまの状況もそのひとつだ。

 

 ギリギリまで監視はするつもりだが、ツアレの生命が(おびや)かされるようなら座視しているわけにもいかない。

 彼女が着ている魔法のメイド服はミスリル製の全身鎧(フルプレート)程度の防御力しかないのだ。しかも手や頭は当然露出しているわけで、防具としての役割が先んじて作られた品ではない。こと戦場における貧弱さという点では、まさしくツアレはナザリックの一般メイドたちと何ら変わりが無いのだ。

 

 至高の御方の名をもって保護されている以上、最悪の事態だけは避けなければならない。ついでに言うと中位の治癒魔法が使えるペストーニャやルプスレギナが同行していないため、なるべくなら欠損なども避けたいところだ。ぶくぶく茶釜であれば何かしらの治癒手段を持っているかもしれないが、そもそもいちメイドのこと程度で煩わせるのも気が引ける。

 

(目を離さなきゃ大丈夫かな)

 

 いざとなれば動きを止めるための手段はなんなりとある。特に適しているのは吐息(ブレス)だ。

 本来は近接から中距離未満の範囲に使用する特殊技術(スキル)だが、スナイパーのクラス能力を併用すれば長射程のピンポイント狙撃が可能だ。あまりに離れている場合は遠隔視の手段を用意する必要があるが、肉眼で捉えられる距離ならば充分狙える。

 

 いつでも飛び出せるように身を低く構えたアウラは、獲物を狙って茂みに身を潜める野生動物のごとくその存在感を背景に溶け込ませる。

 一切魔法を使わずにここまで気配を消せるのは本人の技量によるものだ。

 

 雨の隙間に覗く粗野な(わら)い声。矜持も自負も感じない、ただただ嘲りと横暴に満たされたノイズが山林の闇に走った。

 

 

 

 ぶくぶく茶釜とマーレを待たず、アウラは飛び出した。同時にクイーン────携行している長手の鞭を振るう。

 しなりが波となって伝わり、収束する先端はツアレの上、頭一個分の位置で空を叩いた。

 

 外れた訳ではない。わざと外した。

 鞭はタイミングよく先端をクリーンヒットさせることで打撃と裂傷を与えることができる。加速度の関係で腕力に頼らずとも威力が発揮できる稀有な武器だ。ビーストマンごときの外皮など問題にもならない。

 だが位置が良くない。あのまま頭に直撃させていたら、噴き出す血をツアレがもろに浴びてしまう。いくら魔化された衣服を身に付けているといっても、至高の御方からの貸与物をいたずらに汚していいはずがない。

 

 鞭を打ったあともアウラの足は止まらない。初手の一発は怯ませるためだけの威嚇に過ぎない。介入したならば一気に片を付ける必要がある。

 

 彼我の距離を半分まで詰めてもアウラの存在は明確に認識されていなかった。

 基礎能力の違いが良い方に働いた。ツアレにとっては少しうるさい破裂音でも、鋭敏な感覚を持つビーストマンならば一時的な聴覚障害を引き起こしているはずだ。

 回復能力も人間より高いと考えれば稼いだ時間はせいぜい数十秒といったところだが、それだけあれば充分だ。

 

 引き戻した鞭を器用に肩掛けに直し、青と緑の双眸はすでに次のポイントへ狙いを定めていた。

 ツアレの口を塞いでいる太い腕。その手首を下方から掴む。

 

「何だ貴様!」

「あーあ、予定は変更するしかないかな」

 

 ようやくアウラの存在を認識したビーストマンが()えるが、アウラの関心を引くことはない。仕方なかったとはいえ予定外のタイミングで干渉したことがぶくぶく茶釜に迷惑を掛けてしまわないか。心配はその一点だけなのだから。

 

「とりあえず、この手を放してもらおうかな?」

「何だこれは……? 動かん!」

「言い方が悪かったかな? 放せって言ってるんだけど」

 

 びくりと震えた手が開き、解放されたツアレがおずおずとアウラの後方に回り込む。

 

 接触したまま、石化でもしているかのように動かない両者。脇にはいまだ戻らない聴覚に四苦八苦しているビーストマン。

 緊張とは力が吊り合っていて初めて成立する。片や力んで歯を食いしばる者と、片や平然とした表情で微動だにしない者。拮抗しているのが見掛けだけなのは明らかだった。

 

「かあっ!」

 

 過去にも多くの獲物を仕留めた鋭利な爪が、大きな弧を描いて振り下ろされた。

 ビーストマンの目は驚愕をもって見開かれる。絶対の自信を込めて放った一撃必殺の爪は肉を突き破り致命傷を与えるはずだったのだから。

 

(ハムスケよりは速いかなぁ……?)

 

 それでも尻尾よりは遅い。先端の爪を掴んで止めることなど造作も無かった。

 さらに力を込めると黒曜の爪は軋みをあげ、ビーストマンが悲鳴ともつかない声にならない声を漏らした。

 

「バカな……!」

 

 悲痛ささえ(にじ)ませた(うめ)きとともに剥いた牙が迫る。しかし決して届くことはない。

 まっすぐ振り上げた爪先が、噛み付きにきた頭部を下顎から打ち抜いた。天を仰ぐ体勢から、積み木が崩れるようにビーストマンは倒れ込む。意識は完全に飛ばされていた。

 

「さてと」

「ひっ!」

「あなたたちのボスを連れてきてくれないかな」

「はっ、はぃい!」

 

 脱兎の勢いで駆け出した背中は優れた身体能力を証明するように見る見る離れていく。

 もうマーレへの連絡に気を配る必要も無い。首に提げた金のドングリを持ち上げるといつもの情けない声が聞こえてきた。

 

『お、お姉ちゃん?』

「マーレ? あたし。マークを残してあるからそのまま降りてきて。ビーストマンが何人か……」

『ビーストマン? もしかして、近くにいるの?』

「え? 足下で一人ノビてるけど」

『ダ、ダメだよお姉ちゃん……。気付かれないようにこっそり行くって、ぶくぶく茶釜様が仰ってたじゃない』

「うっ」

 

 痛いところを突かれた。一度存在を知られてしまえば無かったことにはできない。目撃者の記憶を魔法で消すか、皆殺しにでもするか。

 前者は魔力系高位階魔法のためアウラどころか信仰系魔法詠唱者であるマーレも使うことはできない。仮に使えたところで、何人も捕まえてわざわざ離れたところへ解放しなければならない手間を考えるとボツだ。

 後者はマーレの広域魔法で一網打尽にできるし、それなら処理の面倒な血痕や死体も残らない。証拠を残さないという意味でも上々の手にも思える。

 しかしビーストマンはこの場にいる連中だけではないはずだ。たかが数人の部隊であっても忽然といなくなれば不審に思われる。警戒が高まれば当然行動の自由度は相応に(せば)められることになり、創造者の自由度を優先したいアウラやマーレには安易に選べない選択肢だ。

 

「しょ、しょうがないじゃない! キンキュージタイってやつだったんだから!」

『お、大きな声出さないでよ……。もう着くから切るよ』

 

 自分が降りてきた斜面に目をやると木々のあいだをちらちらする姿が見えた。マーレだけならいつも通りに早くしなさいと発破をかけるところだが、下手に小突いて不手際があったらマズい。それに弁解するなら合流したあとにツアレの口から言ってもらった方が収まりがいいだろう。

 

「──りょーかい。こっちからも見えてるよ」

『お姉ちゃん、後ろ……な、何か来てるよ。あわっ!』

「はぁ。分かってるわよ……」

 

 慌てて足を軽く滑らせたマーレは置いておいて、騒々しい足音の主に向き直る。

 

 呼びに行かせた個体と比べると一回りでは利かないほど大きな体躯を持ち、腕や足には無数の古傷。

 

(これが群れのボスかな)

 

 手前に従えたビーストマンたちは誰もが目の奥に共通した感情を湛えていた。その原因はアウラではなく、彼らの背後で目を血走らせている存在だ。

 相対しながらも、ビーストマンたちの意識はほとんどアウラに向いていない。自分たちの後ろで怒りに震えている山が、いつ噴火するか、流れ出る溶岩の巻き添えを食うのではないか。自分たちには止められない。そんなある種の諦めが混じった恐れに支配されている。

 

「何をした」

「ん? どういうこと?」

 

 質問された意味が分からない。何者だ、でもなく何故、でもない。

 噛みしめる口元に一際強い力を込めた大柄なビーストマン。わずかに細められた目が向いた先にアウラは質問の意図を理解した。

 

(ああ)

 

 思いの外仲間意識が強いのか? なるべく情報を得ておけば後で役に立つかも知れない。

 

(そしたらぶくぶく茶釜様にも喜んでいただけるかも! ふっふふー、ナザリックに帰ったらシャルティアに自慢しちゃおうかなー)

 

 俄然やる気が出てきた。「くきききぃ」と悔しさのあまり奇声を上げて表情を歪める友人兼同僚を想像するとつい小悪魔的な笑みが浮かんでしまう。

 

「気を失ってるだけだから、心配しなくても……」

「誰がやった!」

「……あたし以外に誰がいるっての?」

「嘘を()け! お前のような小さき者に我らが遅れを取るはずがない! 仲間が隠れているだろう!」

 

 仲間がいるのは間違っていないが、まだ斜面を降りきっていないマーレたちは彼らの警戒に引っかかっておらず、それをわざわざ教えてやる必要も無い。

 

「面倒くさいからそういうことでもいいけどさ、他人の話を聞かないのは感心しないなあ」

「食いでの無さそうな小僧が……おい! 俺を引っ張り出しておいてこれだけか!?」

 

 彼らの目にはアウラたちが降って湧いた食料にしか映っていない。

 言葉の裏にあるのは威圧を伴った明確な要求だ。

 

 異を唱えられる者はいない。目を付けられることを恐れてか、石像のように動きを殺したビーストマンたちの意識と視線はある一体に集中する。ボスを呼んだ奴だ。

 正確に言うとアウラに呼びに行かされたのだが、事情を知らず巻き添えでこの場に来させられた者たちからすれば騒ぎの原因は彼であり、「お前がどうにかしろよ」という視線が集まるのも無理はない。

 

 そんな仲間内からの無言の圧力を本人も感じていたのだろう。意を決したように振り返った。

 

「も、もちろんです! ほら、そっちにももう一匹います。ボスに差し上げるために傷ひとつ付けちゃいません!」

 

 まるで役者のように大きな手振りを付けて、第三者から見るとどうにもぎこちなくわざとらしさが拭いきれていない。

 

「ふん……? まあいい。そいつを食えば少しは腹が膨れるか。どけ」

 

 少し乱暴に、直進上にいた同族を払い退ける。

 足は数歩で止まった。

 

「…………何の真似だ? 小僧」

 

 踵を返しても、後ろを向いたと同時に殺せる距離。

 普通ここまで近づけば本能的な恐怖から逃げ出すか、完全に固まってしまうものだ。

 それを堂々と臆することもなく、それどころか内の不満を隠そうともせず立ちはだかる者がいた。

 怒りの矛先が()れたことに安堵したのも束の間、ボスの機嫌に再び暗雲が掛かる。

 

「あたしを無視して話を進めるとはいい度胸じゃない」

 

 遮るように広げた両手。明確な妨害行為にようやくボスが、遅れてその他のビーストマンたちが敵意を向けてくる。

 

 睨み合いは一線を越えようとしていた。いまにも襲い掛からんとするビーストマンに対し、悠然と佇むアウラ。

 傍目に見ればこのあと繰り広げられるのは陰惨なる宴。鮮血を散らして肉を引き裂き、死に際の叫声さえも彩りを添えるスパイスに過ぎない。そんな光景を多くの人は地獄、あるいは絶望と呼ぶ。

 

 色鮮やかな青と緑の双眸に(かげ)りは無い。倍以上の身長差がある相手に一歩も引かないどころか、自分から距離を詰めた。それも警戒心を露わにしたにじり寄りではなく、あまりにも自然体での一歩だ。

 散歩でもしているかのごとき無憂無風の接近はその場にいた全員の意識に一瞬の空白を作り出す。

 

「────ク、ガァッ!」

 

 極度の緊張に突如訪れた真空は本能的な行動を引きずり出した。

 

「グルァア!」

「ゴアアッ!」

 

 雄叫びとも唸り声とも取れない音に喉を震わせ、ボス以外のビーストマンが一斉に襲い掛かる。

 正面と左右、鋭い爪の軌跡は前方から覆い被さるように逃げ道を潰す。もし後ろに飛び退いたとしてもそのままツアレを狙えるように、彼らの踏み込みは深い。

 

 ビーストマンの爪もまた人間の十倍ほどの硬度かと言うとそんなことはない。比較にするのが馬鹿らしいほど、はるかに強靭だ。

 まず材質の強さ。これは個人差もあれど純粋な強度で見れば肉体能力と同じように十倍前後の硬度だ。

 最大の違いはその厚みにある。一枚では容易く破れてしまう紙でも重ねることで耐久性を得られるように、ただでさえ高い硬度を誇るビーストマンの爪は人間の何倍もの層を持つ。全体の強度が比較にならないとはそういうことだ。

 そして彼らは爪や牙以外の武器を必要としなかった。ありふれた金属よりも余程丈夫な骨、生まれながらに発達した筋肉。

 いくら立派な剣や槍を持とうが、振るう者に力が無ければいかな名品も刃を潰したなまくらと変わらない。

 達人の域ともなれば槍の穂先に目が付いていると言われるほど武器を己が肉体のごとく完全な支配下におくことも可能だが、ビーストマンはそれを鼻で笑うだろう。彼らは文字通り武器が己の肉体なのだから。

 

「どうした!」

 

 大抵の獲物は爪を振るうだけでいい。そんな認識は何もボスだけが特別だったわけではない。格差はあれど、襲いかかった部下たちとて仮にも戦士。人間などに遅れを取る要素は何一つ無いはず。だった。

 だが目の前の光景は、狩りのときに幾度となく繰り広げられたものではない。

 鮮血の臭気が鼻腔をくすぐることもなく、部下たちの爪はあと少し力を込めれば小僧の顔を、腕を、腹を切り裂けるというところで停止していた。

 

「邪魔」

「う、わあああっ!!」

「ひいいっ!」

 

 ともすれば雨にかき消されてしまいそうな小さな声を皮切りに、弾かれるようにビーストマンが散り散りになる。それもおよそ勇壮さとは程遠い有様で。

 腰が抜けて立てない者、それでも逃げようとして泥だらけになりながら何度も足を滑らせ芋虫のようにその場でもがく者。さらに一歩、また一歩と刻むアウラは一瞥もしない。取り巻きの雑魚には最初から用が無い。

 

 そのまま歩みを止めることなく、アウラは無造作にボスとの間合いを詰めた。

 

 

 

 

 

 

(────────くそったれ)

 

 ギサル・マルクロークスは吐き捨てたくなる不満を己の内に留めた。多少地を踏み付ける足が荒っぽくなってしまうが知ったことではない。

 

 山林の道無き道は豪雨によって足元が滑りやすく、崩れやすくなっているが障害にはならない。

 勇壮な足爪と柔軟性を持つ足裏、強靭な足腰と鋭敏なバランス感覚が生み出す型無き歩法。大柄な体格からは想像も付かないほどその歩みは鈍重さを感じさせない。

 苛立ちを少しでも発散しようと手に力を入れると、軽く支え持っていた立木の幹が軋み音を上げる。

 

「フン!」

 

 力任せに腕を振り抜き、抉り取られた木片をそのまま地へ叩き付ける。

 分かっていたことだが、そんなことで気分が晴れるはずもなかった。

 

 背の高い木々の葉が天然のシールドになり、降り注いでいる量の割に直接頭や肩を叩く雨粒に勢いは無い。ただ、ときどき鼻先に直撃するとつい反射的に振り払ってしまう。髭を揺らすのもいちいち鬱陶しい。

 

 悪天候が不機嫌の種という訳ではない。晴れている方がいいには違いないが、腹に据えかねるのはもっと別のことだ。

 

 このまま抜け出してしまおうか。そんな考えが頭をよぎる。

 のろまな連中相手なら自分一人でも優位は変わらない。好きなときに蹂躙して好きなときに食らえばいい。これほど自由極まりない生き方があるだろうか。

 

 果たして口元が歪んだのは如何なる感情だったのか。夢想を嘲るか、捉えること叶わぬ願望を捨て切れない未練か。

 分かっているのだ。そんなことはできないと。それができるのは立ち塞がる何もかもを捩じ伏せるだけの力がある者にしかできないことだ。誰よりも強ければそもそも脱走じみたことを考える必要も無い。

 

 思考が一巡(ひとめぐ)りしていつもと同じ結論に落ち着いた頃、胸中の炎もまた燻り程度の下火になっていた。

 

「こんなものか」

 

 右へ左へ、上へ下へと無作為に動いているようだが一定の範囲からは出ていない。与えられた役目は周辺の警戒だった。

 流石に離れていて大体の方角しか分からないが、同様の役割をしている者が他に二名いる。

 

 ただでさえ月明かりを遮る山中で、大雨によってわずかな光源すらも望めない。林の奥に目を向ければ纏わり付くように距離感を狂わせる暗闇がどこまでも続いているように見える。

 だが、それはあくまで普通の人間の話だ。

 

 夜目に優れ、さらには基本となる視力も人間より遥かに高い種族にとっては昼日中とさして変わりない。

 目だけではない。耳、鼻など事前に敵を察知する手段などいくらでもあるのだ。

 

 これも不満材料の一つだった。どうして臆病者のようにこそこそと辺りを嗅ぎ回る必要があるのだと。

 

(いや、これは前に誰かが言ってたな。それで、どうなったんだったか……)

 

 あいつでもない、こいつでもないとうろ覚えの顔と(にお)いが頭の中をぐるぐる回る。

 血の(にお)いとともに記憶されていた顔は、激昂したボスにぶん殴られて別のグループに移った奴だったのを思い出した。

 

「ん?」

 

 水気を払うように震えた耳が雨とは異なる音を敏感に拾う。地鳴りにも似た揺れが足の裏から伝わってくる。

 揺れが収まるのを待たずにギサルは止めていた足を再び進める。自分に割り当てられた区域を一回りしたため、見張り番の者と交代するためだ。そしてさっきの音と振動が聞こえてきたのはギサルが戻ろうとしていた方向からだ。

 

 

 

 ジグザグと蛇行して幅を取りながら進んだ行きとは違う、最短に近い直線ルートでギサルは林を駆け抜けた。

 元より大して離れていなかったこともあり、さして時間はかからない。

 

 現場は木々に遮られてまだ目視することはできないが、大体の予想は付いていた。音のした方角の斜面では木々が根こそぎになり、寒々しい山肌が軌跡を描いていたからだ。過去に似た状況を見たことがある。

 

(確かこの辺りに……むぅ、いまの番はあいつか)

 

 森の一角に少し開けた場所、そこにいた一人のビーストマンはギサルと同じ部隊の者であり、同時にギサルが少々苦手とする相手だった。

 警戒も兼ねて一定時間置きに持ち場を入れ替えているため、うまくいけば顔を合わせなくて済んだのだが、今日は運が悪いらしい。

 

(ん? おかしいな……。あいつ、一人じゃないか)

 

 通常持ち場は一箇所一人だが、ここだけは常時二人が警備に付くことになっていたはずだ。

 

「おい、どういうことだ。何かあったのか」

 

 ギサルが姿を表すと同時に声を掛けたためか、怯えた声がいくつか聞こえた。

 複数人数の配備をしている理由はこれだ。

 

 そこにいるのは襲撃した街で捕獲した、優に二十を超える数の人間。

 虚勢を張ることさえできずにただただ震え、逃げることすら考えていない。

 もっとも、歯向かおうが逃げようが死という結末しか待っていないのは確実であり、生を永らえようとする行動としては正しいと言えなくもない。

 それでも早いか遅いかの違いしか無いのだが。

 

 あえて人間たちを見渡してから、通り際にプイと顔を背ける。さもお前たちに興味は無いと言わんばかりに。

 背中越しにも分かる。恐怖に波打っていた湖面がわずかにではあるが穏やかさを取り戻したのが。

 

(間抜けどもが。まあその方が扱いやすくて助かるがな)

 

 緩んだ口元をざらついた舌がひと舐めする。

 恐怖に強張る身を引き裂いて食うのも嫌いじゃないが、血が飛び散るうえに中身をこぼすことが多いので気分が乗ったときしかあまりやろうとは思わない。

 油断しているところを一撃で仕留めてからじっくり味わう方が最近は好みだ。

 

 捕らえた人間たちは食料として拠点へ運ばなければならないが、数日かかる道中では恐らく何度か許可が出ることもあるだろう。

 上層部からは作戦中の食料は成果を目減りさせないよう猪などを狩るよう推奨しているらしいが、実にくだらない。数人減ったところで分かるはずもないのだ。

 

 ギサルの属する部隊は夜明けとともに帰路に就く予定だ。

 望みの食事は一度あればいい方だが、やりようはいくらでもある。

 例えば、逃げようとした奴を見せしめに殺してもいい。

 

 隙あらば逃げようと考える気力までこの場で失われてはあとの楽しみが無くなるというものだ。

 

「おう、早えな。サボってたのか?」

 

 掴み所のない薄笑いを浮かべて投げ掛けられた無遠慮な言葉にギサルは鼻を鳴らす。不快感を隠すつもりも無い。というより、こいつに感情をぶつけても何の意味も無いことをこの数日で嫌という程思い知らされていたからだ。

 

「そんな怖え顔すんなって。いじり甲斐があるじゃねえか」

 

 誰のせいだと罵倒したくなるが、どうせそよ風でも受けているかのように手応え無く流されるのがオチなのだ。忌々しいことだが。

 しかし黙殺するのも気持ちが収まらない。やられっ放しは性に合わない。

 

「フン。貴様こそ、忙しいのは口だけだろう。バズラウ」

 

 どうだ。返す言葉が無いだろう。勝った。

 

 亜人種は同世代の知り合いがあまり多くない。理由は種族によって様々だが、例えば長命なため多くの次世代を必要としない種族や、年齢に関係無く純粋に個々の強さによって評価する種族などは必然的にそうなる。ビーストマンはこの後者の例にあたる。

 歴戦の古強者じみた風格を漂わせるギサルではあるが、戦場に出る中では若い世代だ。緊張感の無い軽口を叩くバズラウに認めたくはないが親近感を覚えていたのだろう。つい些細なことにもムキになったり幼子のような意地の張り方をしてしまう。もちろん、それを赤裸々に口外することなど決してあり得ないが。

 

「おいおい、確かに暇だが楽じゃないんだぞ……あー、その目。『嘘吐けこの野郎』って思ってんだろ」

「言い掛かりだ」

 

 正しくは「嘘吐けこのバカ野郎」だ。バズラウが両手を広げて顔を情けなく顰める。いちいち大仰な奴だ。そしてそのわざとらしさが捉えどころの無い胡散臭さに直結している。

 

「考えてもみろよ。新鮮でうまそうな肉を一度に食い切れない程の量、目の前でお預けさせられて。これが苦行でなかったら何だ?」

 

 口を弧に歪めて獰猛な牙を惜しげも無く見せつけるが、そこには殺気も何も込められていない。またいつもの特に意味の無い茶番だ。

 いい加減にしろと咎める視線を投げておく。こちらが構えば構うだけ時間の無駄でしかない。

 

「そんなことより、これは何だ。どうしてお前しか見張りがいない?」

「ええ? そんなはずねぇだろ。もしかして俺が後ろ向いてるあいだにどっかいっちまったのか?」

 

 見張りという役目を放棄したような言動。冗談にしても笑えないセリフを吐きながらバズラウは愉快とばかりに笑いだす。

 

「ふざけている場合か。何かあったときに面倒を被るのはお前だけではないのだぞ!」

「そうカリカリすんなよ。お前もアレか? ボスに睨まれたくないクチか?」

「くっ……」

 

 誰も進んで上の者に睨まれたくはない。だが素直にそうだと言えるほどギサルは大人ではなかった。特にバズラウの言い方にはアンデッドを無闇に恐れる子供をからかうような雰囲気があった。

 罵詈雑言を浴びせてやりたい気持ちを押し込める。こちらが反応すればするほど愉しくて仕方なくなるのがこのバズラウの厄介なところなのだ。そしてギサルが苦手とする理由でもある。

 しかも口での戦いにおけるバズラウの切れ味たるやどんな爪よりもどんな牙よりも鋭く素早い。負けると分かっている勝負を持ち掛けるほど無為なことはない。

 

 なんだかんだで、まともに取り合わないのが無駄な会話を終息させる唯一にして最良の一手なのだ。実際、ギサルが乗ってこないと見るやバズラウはやれやれとこれ見よがしな手振りをしてやっとまともな話を始める。

 

「まあそんな心配いらねーよ。ここから警備にあたってた奴を連れてったのは他でもない、ボスさ」

「……話が見えん」

「さっき大きな音がしたよな?」

「ああ」

「そのちょっとあとに、血相変えたヤツ、ええと、何てったっけな。腰巾着のアホっぽい……」

「モウルか?」

「そうそう、モウル」

 

 腰巾着でアホっぽい奴の候補が多過ぎたのでとりあえず頭に浮かんだ名前を言ってみたが、正解だったらしい。運は悪いが勘は冴えているということなのだろうか。

 

「そのモウルがな? 言ったんだよ。『き、来てくれ! 来れるやつ全員! 音のしたあっちだ! ボスが呼んでる!』って」

「何かあったのか」

「それが、理由訊く前に慌ててどっか行っちまってよ。何かあったからあの慌てようなんだろうけど」

 

 全員と言っても、流石に人間たちの見張りまで総動員するわけにはいかない。それでバズラウだけが残ったのだろう。

 

「モウルは音のした方に来いと言ったんだな?」

「そうだよ……っておいおいおい、どこ行くんだよ」

「最初から俺は音の出所を目指していた。ここはお前の受け持ちだろう」

「そりゃないぜ。お前がいちばん早かったが、他の警備網組ももうすぐ戻ってくるだろ。そいつらと交代して、二人で行こうぜ」

「わざわざお前を待つ必要が無い」

「そうでもないぜ? あの慌てよう、どうも普通じゃねぇ。ワームの類でも出たかな。なら俺も行った方がいいだろ」

 

 いつもこの調子で飄々としたバズラウだが、そのくせ戦闘に関するセンスは意外にも高いのだ。

 

 日中に模擬戦をしたこともある。

 模擬戦とは言うものの、実際には同部隊内での力関係を決定付ける重要なものだ。当然ギサルは全戦で圧倒的な実力を見せ付け、自分と戦った相手に強烈な敗北感を与えるつもりでいた。

 蓋を開けてみればほとんど無傷で勝ちを重ね、これに勝てば全戦全勝というところまできた。そして最後の相手がバズラウだった。

 いまでもあのときの戦いが、ギサルに一目置かせている。そういう意味では印象を深く刻み付けられたのはギサルの方だった。負けはしなかったものの決着はつかず、強さに限って言えばバズラウはギサルと同格。周りからの評価もそこで落ち着いた。

 

「ほら、来たぜ」

 

 少し迷っているあいだに時間切れになってしまった。

 事情が分からず困惑している警備網組に嬉々として説明に向かうバズラウの後ろ姿にギサルは今日何度目か分からなくなったため息をついた。




今年最後の更新です。
大晦日まで引っ張るつもりは無かったのですが……。

去年の今頃何してたっけ?
確か風邪ひいて頭痛に苦しめられてたな。

今年もお付き合いくださった方々、今年からお付き合いくださった方々、ありがとうございました!
よければ来年もヒマなときにお付き合いください!

よいお年を!

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