俺たちは、兜を割ったことだけが拠り所だ。「俺」がいつそれをやったかなんて、我ら刀剣男士を形作った連中にはどうだってよかったんだろうな。
鍋割正国←蜻蛉切。当然捏造しかない。pixivにも投稿しています。

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FAREWELL, MY TWIN-TO-BE

 その日は、重苦しいほどの曇天であった。柄二丈のその槍は、主人の手の内より眼下の兵らを見渡している。灰色の雲と自身との合間には鳥が数羽と蜻蛉が一匹、何がしたいのかくるりくるりと円を描いて飛んでいる。

 槍は、いきものが好きだった。生命を絶つために造られたことは重々承知していたけれど、生きて動くものは総じて好ましいと思っていた。あるいは、いずれ呆気なく消えてしまうものと知っているからこそ、いとおしいのかもしれない。人馬の他には間近で見たことのあるいきものは今までなかった(大抵、合戦が起きるような場所からはほぼ全てのいきものが逃げ出していた)から、ゆうらりと近づいては離れる蜻蛉(かげろう)を存在しない瞳で食いつくように見ていた。

 

 その、薄青の昆虫が、こちらを向いたような気がした。

 

 すうっ、と複眼の虫は透き通った羽を震わせて、槍の方へと飛び込んだ。葦と取り違えたわけでもあるまいに、その身を休めようと思ったか、穂先に脚部を置いて蜻蛉はそのまま、ゆっくりと沈み込んだ。

 

 遠くに驚嘆と喝采の声を聞きながら、槍は愕然と、地表までの長い距離を落ちていく蜻蛉(かげろう)の残骸を()()()()。不意に感じ取れるようになった自分の輪郭というものを奇妙な感覚だと思いながら、たった今「蜻蛉切」と名付けられた槍は中央の部分を締め付けられたような気がして、訳もわからず辺りを見回した。それを人は「不安」と呼ぶのだと蜻蛉切が知ったのは、随分後のことだった。

 

 

 

 藤原正真が作のその槍は、どうしてもその名を誇る気になれなかった。彼はたしかに傷つけるためのものではあったが、そうとしても、人を殺めるために打たれたのであって、罪など有ろうはずもない虫を斬るつもりなどなかった。

 あの刀と、なんと違うことだろう。と、その思いは後々まで拭い去ることはできなかった。

 

 今、陣の端に立つ兜割の刀。()が名を与えられたのはつい先程、この場所に陣を敷いた時。彼がそれを為した瞬間を、実は蜻蛉切は見ていなかった。ただ、蜻蛉切も一応は付喪神の端くれであったから、「何か」が成されたことは感じ取れ、それに思わず振り向いたのだった。ああ、敵兵があれだけ近づいていたのに気がつけなかったのは不覚であった。

 そこには、着込んだ武具ごと二つに割れた兵──だったものが一つと、慌ててこちらへ背を向けようとする男が五、いや今三に。負けてはいられぬと、主人が槍を振るった。必要もないのだから、まさか鎧兜諸共に切り捨てるような無茶をするはずもない。初めから届く範囲が違い、そして蜻蛉切の保有者はあまりに強かった。抵抗らしい抵抗も無しに首が一つ、二つ飛んだところで、最後の一人は背から脇差に貫かれていた。

 関節が真っ白になるほど強く脇差を握りしめているのは、初陣かそうでなくても三度は戦場に出ていないだろう少年で、震えを抑えることすらできないようだった。蜻蛉切の主のような武士(もののふ)になるとは思わないが、咄嗟の判断で刃を突き出せるのであれば生き残ることくらいはできるだろう。と、そこまで考えた時だった。

 

『うらやましい』

 声、だろうか。その音は、鍋に似た兜ごと兵の頭蓋を断ち割ったあの人間──永田正吉と言ったか、の方から。

『たりない』『もっと』『ちをすってこそかたなだ』

 永田が敵兵の服で血を拭っていた刀には、靄に似たほの暗いものが纏わりついていた。

 

 「鍋割」と名を戴いたその刀は、周囲を見渡し続ける金の瞳を除けばそのまま辺りの雑兵に紛れて不思議でない格好をして、主人の背を守るように立っている。永田が証拠にと持ち帰り、今は彼の馬の鞍にくくりつけられた兜を左の手で何度も撫でる、肥後のものだという刀。どうにも自分に気がついていない様子のその付喪に近づいて、蜻蛉切は口を開いた。

「お見事でしたな」

 ふらふらと彷徨っていた視線がふっ、と蜻蛉切へ向いて、暫しの沈黙が降りる。その淀んだ金に困惑が滲むことに蜻蛉切が気づいたのはたっぷり三十も数えた後で、けれど名を戴いて間も無いのはどちらも同じこと、何かを言えるでもなく金と朱の瞳で見つめ合うだけだった。

 それから鼓動を三百も数えたろうか、漸く兜割りは上下の唇を離した。

「あんたほどじゃあない」

「皮肉の御積もりですか」

 まだ声を発することに不慣れなのかぼそぼそと切れがちな返答に、蜻蛉切り(かげろうぎり)は眉根を顰めて聞き返す。

「なぜそう思うんだ?力を込めずとも斬れるのは素晴らしいことだ」

 刀は臆面も無くそう答えると、再び視線を宙へ彷徨わせる。

「鍋割殿……とお呼びすれば宜しいですかな。なにかお探しで?」

「ここには役目が無い。斬るべきものが無い」

「よいことでしょう。主人が死ぬことがないのですから」

 肥後の刀は、何も言わなかった。敵を探すことをやめぬ彼から目を離して、三河の槍が主人の元に戻ろうと踵を反す。その、周囲の人間らから頭一つ二つ分も抜きん出た背中に、途切れ途切れの声が掛けられた。

「……蜻蛉切り(かげろうぎり)の、あんたは」

 

「敵がいなくとも、生きていられるのか」

 

 まさか、そんなはずはなかった。彼らはどちらも刀と槍であって、兜割りも蜻蛉切りも戦いにのみ意義をもつということに変わりはない。それを知らないわけではないのだろうが、蜻蛉切にはどうにもその刀が必要以上の焦りを抱いているように感じられた。

「そう、見えるか」

 敬語が外れたのはただの偶然だった。僅かに瞠目した黒髪金目の青年は納得した風にほんの少し首を引いて、赤紫色の男に向き直る。

「いや、俺の勘違いだったようだ。……改めて。菊池延寿が末、肥後は玉名の正国が作。今の主人は永田正吉と云う。先だって『鍋割』と名を頂いた。戦陣を同じくするもの同士、宜しく頼む」

「……『蜻蛉切』と名を賜った、三河の文殊派は藤原正真が一作。主の名は本多忠勝と。こちらこそ、宜しくお願いする」

 

 

 

 戦乱の世が終わり、蜻蛉切自身も蔵に仕舞われるようになってから何十年か、いや、百年以上も過ぎた頃。いつの間にやら「東の御手杵」「西の日本号」と並んで「天下三名槍」と称されるようになっていた蜻蛉切と違って、鍋割正国の全盛期は名をもらった直後であったらしい。ともすれば出雲にてまみえることもあるかという期待に反して、「玉名」の「正国」といえば彼だという「同田貫正国」が神有月に現れることはなかった。

 単に会わなくなったというだけでは無く、お互いに他に気に掛けるべき刀ができた。同田貫の一派が復興の兆しを見せ、蜻蛉切にとっては遠い親戚に当たる村正派の刀剣たちが以前から難しい状況にあった。彼らは決して悪い刀ではない。むしろ位付けを行うなら最上位の候補に挙がるだろう。ただ、あの親戚たちはあまりに悪評が広まりすぎた。そも、妖刀の誹りを受けたのはほんの数振りだったにもかかわらず、あれよあれよという間に村正の一派に属する刀剣はおしなべてその類いだと言われるようになり、今では元来村正派とは言い切れない分流の刀までもが一緒くたに扱われている。評価が低いわけでは無い。だが、妙な方向で望まれているのは確かだ。

 

 蜻蛉切は、今の村正が哀れでならなかった。かつての高潔な姿はもはや見る影も無く、あれではまるで、獣のような──そこまで考えたところで、不意に想起されたものが。今はもう思い出すことも少なくなった、幾度か戦線を共にしたあの刀だ。村正とは真逆に、時が経つにつれて落ち着きを体得していった金眼の付喪。一般的な尺度に照らせば決して最高の評価を受けることはないかの刀を、しかし蜻蛉切は他のどれより高く買っていた。一合は確実、双方の使い手の技量次第では二合、三合まで、(じぶん)の攻勢に耐えるだろう刀などそうは無い。まして兜割をなすほどの切れ味を併せ持つ刀はなおさら。

 天下三槍の新入りは、今では評価の低くなった彼の在り様が少し羨ましかった。ただ、一つの武器として、陣中の休息の中でなお敵を求めて視線を彷徨わせるその刀のように在れたなら名を誇ることもできたろう。主人すら斬り殺してしまうのではないかと思わせる、雑兵の姿をした彼。それは一番はじめの(つるぎ)の形、恐怖で相対するものを縛り付ける本当の武器。あやかしの。

 村正がそう在れと願われた姿に、あるいは似通っていた。

 

 

「あんたがご執心だったあの刀、ほれ、兜割りの。あいつ、質に流れたと聞いたぞ」

 出雲の会合でそう聞かされたのは、黒船とやらの来航から三年後のことだった。執心していた覚えこそなかったが、事実としてひどく衝撃を受けたのだからやはり蜻蛉切は鍋割と言われる刀に好意を抱いていたのだろう。

 硬直して何もできずにいる槍の付喪に、そう告げた男──新参者のやはり付喪で、本体は何やら書物だったはずだ──は、そんなものだ、と冷淡に続ける。その言葉がどれだけ長柄を傷付けるかなど知りもせずに。言うだけ言ってその青年の姿をした書はくるりと蜻蛉切に背を向ける。

 

「何がわかる」

 喉の奥からようやっと、絞り出したような声だった。

「あなたに、何がわかる。彼は戦友だった。共に生まれた──双子のような」

 その音は和綴じの紙束の耳には届かなかったようで、草色の着流しを纏って眼鏡を掛けた青年は、伝えることは伝えたとその場を離れていった。

 双子。しかし本当にそうだろうか?双子、あるいは兄弟と喩えるならもっとずっと適した存在がいるではないか。直穂の、もう一振りの「蜻蛉切」が。しかし、それならばどうしてこれほどまでにあの刀が気に掛かる。同じ刀工(ちち)の手で写しと打たれた「彼」よりも、かつての主人に同じく仕えた正宗の刀よりも。

 

「私は」

 潰れそうに痛む実態の無い心臓を感じて槍は漸く、その心に思い当たった。

「私は、あの方を好いていたのだろうか」

 

 震えて落ちる自分の声を、これではまるでヒトのようだと自嘲する彼はきっと一人の人間に寄り添いすぎたのだろう。その様を自分が(わら)いはすれども、嘆きはしていないことに蜻蛉切は気がつかなかった。気がつけば死んでしまいそうな理想を心の内に抱えて、天下にその名を誇る二丈の槍は涙だけはこぼさずに。悲しみなど知らぬと、この身は鋼であると言い聞かせて、心の底に蓋をした。

 

 

 

 鍋割正国が姿を消してから三百と五十年。救世主がベツレヘムに生まれてから2200年以上が経ったある秋の日、蜻蛉切は自らの分霊を降ろさんとする試みを訝しげに見ていた。天下三名槍などと謳われたところで所詮は一つの道具に過ぎない存在を、それも蜻蛉切のかつての保有者たちとの縁もない人間がどうして呼びたがるのか彼には理解できなかったけれど、その武勇が求められているというなら是非もない。

 

 映世大明神(かつてのしゅじん)と共に龍城神社に在る霊が、「時の政府」と名乗る者たちの要請に応えていくらかの分霊を切り離す。放された「蜻蛉切」たちは一振りずつ、異なる人間──審神者(さにわ)の元へ。

 

 竜城(たつき)の「蜻蛉切」より分かたれた彼が審神者の元へ降り立ったのは、鍛冶場を簡素化したような祭事場であった。目の前には空色の髪の、洋装に帯刀した青年と右前の白襦袢に紺袴を穿き、顔を紙で隠した女。そこまでを確認した蜻蛉切は女性の方へ向き直り、槍の時分の三分の一ほどの──そうは言っても十二分に巨躯と言えよう──体を折って口を開く。

「ただいま馳せ参じました、蜻蛉切と申します。いつでも出陣の用意はできております」

 

 今この拠点にいる三十四振りの刀剣(長柄は蜻蛉切と、武蔵坊弁慶の薙刀がいるきりだった)のうち、六振りは長期の遠征に出かけていて、戻るのは三日後である。まだ食事というものに不慣れな蜻蛉切の面倒を見ながら厨の主と渾名される長船派の太刀はそう言って微笑んだ。

「君の昔なじみと言っていいのかな、物吉君も遠征部隊に入っているよ」

「物吉、貞宗殿ですか」

「うん。彼、とってもいい子だから、別に緊張しなくても大丈夫だよ?......ああ、それは手でつかんで食べても平気だけど、うっかり力を込めすぎて潰さないようにね?岩融の時はそれで大騒ぎになったから」

 箸を扱うのはまだ難しいだろう、と用意された握飯を米粒を溢さないようにとおっかなびっくり手に取る朱の瞳の槍。それを微笑ましそうに眺めながら、眼帯の男は自分の作った砂糖入りの卵焼きを口にする。

「そう言われましても......」

「まあ、どうしても緊張はするよね。僕も三日月さんは暫く目、合わせられなかったし」

「三日月殿というのは、そこの青い着物の御仁か」

「そ。三条派の三日月宗近。天下五剣の一振り。実力でもこの本丸で上から数えた方が早いかな。すごいよね」

 そんなやくたいもない話をしながら、蜻蛉切のこの本丸における初めの数日は過ぎていった。

 

 カランカラン、ガランガラン、鐘の音が響く。高く二度、重く三度。遠征部隊の帰還を伝えるものだ。長期遠征に出ていた第三部隊が漸く戻ったのだろう。

 出迎えの審神者と、耶蘇教の司祭服を着た長谷部国重の刀が「時渡りの門」へ向かうのが見えた。蜻蛉切がその二つの影を追って、しかし堂々と姿を晒すのは憚られたのか、垂れ柳の大きな幹の陰からひっそりと覗いている。仮漆(ニス)が塗られただけの木でできた鳥居、その向こうの景色が僅かに歪む。周辺の風景に変化はないというのに、鳥居越しの世界だけが歪みの加速とともに薄暗くなって、その向こうに何とも知れぬ影がぼんやりと浮かぶ。

「おやおや、覗きなんてしないで正面から話に行けばいいのに……遠征部隊の話だよ?」

 背後から聞こえる、含みを持たせた声に赤紫の髪の男は慌てて振り返った。そこにいたのは、納戸色の長髪で片目を隠した大脇差。

「青江殿」

 自身より一尺ほども低い幽霊斬りの顔を驚いたように見て槍は弁明しようと口を開く。しかし彼が何も言わないうちに、にっかり青江の方が話し始めた。

「そんなに慌てなくても大丈夫。何も咎めようっていうんじゃないさ。君は随分と早いんだねえ……気が急いているって意味だよ?」

「そら、帰ってきたよ」

 

 ぞろぞろと鳥居の向こうから列を成してヒトの形の刀たちが出てくる。大八車に木箱をいくつも載せて、六振り。青江の霊刀は楽しげに、けれどどことなく退屈そうに、ほんの少し目を細めて彼らの名を羅列していく。

 鍔の無い黒い拵えに、驚くほど綺麗なままの真白の軍服を着た桜色の髪の少年。蜻蛉切も見覚えのある付喪だ。東照大権現の愛用していた、名を物吉貞宗。

 大きな笠を被って、瑠璃色の袈裟を纏った短刀、小夜左文字。

 紅藤の長髪に黄金の鎧が眩しい打刀(かたな)は蜂須賀家に伝わる、虎徹の真作という。

 にっかりに似た紺の洋装に白を羽織り、長い数珠を他のものより多く資材が積まれた大八車に架けているのは、天下五剣が一振り、数珠丸恒次。にっかりとは遠縁の親戚に当たるという。

 見るからに女物の着物を更にいじり、その上簪を挿しているのも、確かに刀剣男士だと大脇差は言う。次郎太刀と呼ばれる彼は、未だ来ていない大太刀と兄弟らしい。

 

「で、最後の一人……ちょっと次郎さんに隠れて見えないかもしれないけど、黒づくめの打刀。彼が同田貫正国」

 その後霊刀が言った言葉を、蜻蛉切は聞いていなかった。派手な着物の後ろから現れた「彼」は、蜻蛉切り(かげろうぎり)の知る正国の刀とはあまりにも違いすぎた。

 服装が異なるのは、拵えの差異だと言うこともできただろう。背丈が縮んでいるように思えるのも、擦り上げ刀であれば珍しくもない。けれど、積み上げられた木炭の上に鎮座するその兜はどういうことだろう。蜻蛉切が知る「兜割正国」が斬ったのは、黒い兜だった。それが鍋のような形をしていたことが原因で「鍋割」と名付けられたことをあの刀は後年、鍋というものを知った後では少し残念がっていた。

 今、彼が山と積まれた炭の上から取り上げたのは赤い、おそらくは南蛮鉄の桃形兜。頭頂部に残る割れ目を見る限り、武装の一部という期待は抱けないだろう。

 絶望、と人間は名付けるであろう感情で崩れ落ちそうになる体を、柳の幹についた手でなんとか支えた槍は、瞳に心配の色を浮かべて下から覗き込む幽霊斬りに何でもないのだと笑みを浮かべて答える。君がそう言うのなら、と青江の脇差は言った。

「それじゃあ、僕は数珠丸を迎えに行くから」

 

 その日の昼食は、碌に蜻蛉切の喉を通らなかった。壁を背にした端の席で誰と話すでもなく食事を摂る刀を先ほどからちらちらと見ている槍を見咎めた、之定の居合刀が蜻蛉切に声を掛ける。

「そんなに同田貫が気になるかい」

「いえ、これは、その……」

「知り合いだったのかな。お互い、今日は特段することもないだろう。菓子の余ったのがあるから、後で彼の部屋へ行ってみればいい」

「それでは、ご厚意に甘えて」

 槍は少し悩むそぶりを見せ、それから首肯する。

 蜻蛉切も同田貫も、今日は出陣どころか内番も割り振られていない。近侍(黒と赤の軍装に身を包んだ、沖田総司の刀であった)の号令で一斉に「ごちそうさま」を言ったら後は夕刻まで自由時間だ。

 

 するりと人混みを抜けて、黒髪の少年が廊下へ消えた。歌仙兼定は蜻蛉切に、部屋の位置は後で教えるからこの場で待つようにと伝える。正座を崩さずじっと待つ彼のもとに、細川の刀が短刀の拳ほどの大きさの白い物を幾つか入れた葡萄蔓の籠を持って戻ったのは十分ほど後のことだった。

「すまないね。蒸し直していたら思いの外時間が掛かってしまって」

 言葉の通りまだ温かに湯気を立てる、信州の焼き餅に似た団子は、歌仙が昔いた辺りのものなのだという。

「いきなりだごと言うんだ。同田貫は嫌な顔をするかもしれないが、大概何を出しても似たようなものだから気にしなくていい。そうそう、あれに茶を振る舞うような甲斐性はないから、もし必要なら自分で持って行くことを勧めるよ」

 言葉にならぬらしい感謝の念を一つ頭を下げて示した槍に、之定はたたみかけるように言の葉を紡ぐ。

「礼を言うのは、彼と話してからにした方がいい。知り合いだというなら尚更だ」

 はっ、と顔を上げ、どういう意味だと問う彼に、会えばわかるとそれだけを言って、団子が冷めるからと手早く同田貫の部屋の場所を伝え、二代目兼定の刀は蜻蛉切を急かした。

 

 この建物は、左右対称の構造をしている。同田貫正国の住む部屋は蜻蛉切のそれとは広間を挟んで反対側、対応する陸奥守吉行の部屋のさらに四つ先にある。本丸で一番端の部屋をわざわざ希望したらしい刀の本心は分からないにしても、そこに潜む心境が尋常のものでないだろうことは察せられた。なにせ、陸奥守の向こうに寝起きするのは同田貫ただ一振りなのだから。

 薄青の綿紗(ガーゼ)の上で人肌に冷めていく薄く黄色の透けた菓子に視線を落として蜻蛉切は漸く、歌仙兼定の所有者たる細川氏が肥後を治めていたことを思い出した。

 

「…………」

 なんと声を掛けたらよいものだろうか。「同田貫殿」?蜻蛉切としては「鍋割殿」、とそう呼びたかった。けれど、果たして彼はその名を覚えて、いや、そもそも知っているのだろうか。

「誰だ」

 その、記憶の中と寸分違わぬ声音に、蜻蛉切は余計にこの「同田貫正国」という存在が分からなくなった。その姿と、その声と、どちらを信じろというのだろう。混乱しきった頭とは裏腹に、その口唇は反射的に音を発していた。

「三日前にこの本丸へ参りました、蜻蛉切と申します」

 そうか、と聞こえたような気がした。からりと障子が開いて、にっかり青江とそう背丈の変わらぬ、金眼の打刀(かたな)が姿を見せる。食事の席でもそうであったが、常に右手で本体たる刀を下げているのは単に慎重性の現れなのか、それとも警戒に足る何かがこの場に現れるとでも思っているのだろうか。左ではなく右の手で保持している以上、襲撃を本気で想定しているわけではないのだろうが。

 

「まあ、何だ。何もねえけど、入るなら入れ」

 その言葉の通り、殺風景な部屋だった。他の刀剣と同じ、六畳の部屋のはずだが、一回り広いのではないかとすら思わせる。床の間には掛け軸も花もなく、押し入れの閉じた襖の奥の他には、家具は文机と雑多なものが入れられた蓋のない衣装箱が一つ、それに空の刀掛けだけ。

「お邪魔いたします」

 来客など思ってもみなかった故、座布団すらないが許してくれと言う部屋の主に勧められるまま部屋の中心に居住まいを正す。それから蜻蛉切は慌てて、貰い物だが、と手に持ったままの籠を差し出した。

「いきなりだご……歌仙だな?俺は要らねえ、あんたが食え」

 蜻蛉切は少し困惑して籠の中を見下ろした。二人で食べるにも多いくらいの量だというのに、一人で五つ食べろというのだろうか。

「余ったら短刀にでもやりゃあいい。蛍のやつも喜ぶ……それで?ただ挨拶に来たって訳じゃねえんだろ?」

 

 ため息でも吐くようにそう言った刀と、元亀の兜割りは声の音こそ同じでもその響きは驚くほど違っていて、蜻蛉切り(かげろうぎり)の槍はまるでヒトのように泣きたくなった。震えないよう、懸命に押さえた呼吸を一つして、朱の眼を、どうしても上げられぬままにその槍は上下の唇を離した。

「同田貫、正国、殿、あなたは、自分を覚えておいででしょうか」

 ああ、言ってしまった。

 蜻蛉切は、答えが返ってくるまでのそのほんの一瞬がとてつもなく恐ろしかった。初めて主人の傷を見たときと、比べられるくらいに。

 

「ああ。久しぶりだな、蜻蛉切(とんぼきり)

 

 同田貫の声は、とても優しかった。

 

「無論、覚えているさ。俺は『兜割りの正国』だからな」

 だけどな、とその刀はあまりに残酷な優しさで続ける。

「兜割りを成した同田貫は一振りじゃねえ。その上、内で最も知れた一つは、誰の作だかも分からねえと来た」

「覚えちゃあいるが、それだけなんだよ。思い出話がしたいなら、物吉に頼んだ方がいい」

 

 そう言ってちらりと机の上の赤い兜を見やった刀に、「そうか」、という言葉のほか一体何が言えただろう。

 結局、ここに「鍋割正国」は呼ばれなかったとそれだけのことだった。そして既に「同田貫正国」が呼ばれている以上、あの刀には会えないのだろう。蜻蛉切が憧れ、焦がれた兜割りには。「蜻蛉切り(かげろうぎり)」と自らを呼ぶ、双子になるはずだった物の声を、その長柄が聞くことはきっとない。

 

 

 

 こうして、蜻蛉切の三百年越しの恋は終わりを告げた。ただ、冷たく硬くなる甘藷の団子だけが、謝ることもできない刀と泣くことを禁じた槍のそのざまを知っていた。


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