ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー 作:オーバードライヴ
それでは、どうぞ
静かに寝息を立てている立石志摩を見て、鏑木美波は呼吸を殺した。
「……」
今日はいろんなことがありすぎた。美波の所属する第四分隊――――学校での呼び方を踏襲するなら主計科は、午前中からてんやわんやだった。
朝早くからヴィルヘルミーナの歓迎会の用意をし、歓迎会の最中に飛んできた対処行動命令でその全てを大慌てで片付け(もちろん料理はラップをかけて冷蔵庫となったが)。午後は武蔵との戦闘があったのだ。いつもの数倍の仕事量をこなしていた。おかげでクタクタである。
それでも美波は寝るわけにはいかなかった。やるべきことが、まだ残っている。
猫の五十六が捕まえてきた鼠。その鼠から採取した血清が乗せられたガラスのプレパラートが顕微鏡の上で鎮座している。いくつもの試薬で色の変化を見た後の試験管がいくつも試験管立てに刺さり、その血清がなにで構成されているかを示していた。
「……現実は小説より奇なり」
そう呟いて引き出しを開ける。その中に入っているのはクッション材入りの小さな封筒。開けた時に出てくるのは、小さな小瓶。それを手にしたまま、美波はベッドのそばに寄っていく。そこで穏やかな寝息を立てている影を認め、唇を噛み締めた。その痛みで、顔を上げる。
「……汝は目清くして肯て惡を觀たまはざる者」
それに応える声はない。それでも美波は呟かざるをを得なかった。嘆かざるを得なかった。
「肯て不義を視たまはざる者なるに何ゆゑ邪曲の者を觀すて置たまふや」
「――――――惡き者を己にまさりて義しき者を呑噬ふに何ゆゑ汝黙し居たまふや、か? 鏑木医務長」
いきなり背後から響いた低い声に、美波はとっさに息を詰めた。振り返ろうとした瞬間、その声が脳に滑り込む。
「
その一言で動きを止められてしまう。一気に喉が干上がってしまい、言葉を出すのが困難になっていく。
「旧約聖書、十二小預言書が一つ、ハバクク書の第一章、たしか第六節だったか。また妙なものを知っているね、鏑木さん」
「……柳、教官」
それだけなんとか引き出すと、背後で笑った気配がした。
「いろいろ聞きたいことがあるんだが、まずはその左手に持っているアンプルを渡してもらおうか。――――立石志摩2士に何を投与しようとした?」
絶対零度の彼の声に美波は左腕をそのまま肩の高さまで上げた。その手にあった小瓶がさっと抜き取られる。
「それで、これは?」
「……父から、渡された」
「鏑木
「……どうして」
「それを知っているのか、か?」
柳の声にどこか楽しそうな色が混じった。その声色が空恐ろしい。
「君たちは何者か、どこから来たのか。何をして育ち、どういう人に関わってきたのか。……安全監督隊は公共のために働く人材の集合体だ。だからこそその人物がそれにふさわしいか徹底的に洗い出される。……もっとも、君の場合はそれだけではないんだけれどね」
柳の声はどこか演技臭く朗々と響く。音量自体は絞られているにも関わらず、その声は明瞭だった。
「鏑木美波、12歳にして医学学士を取得した天才少女、ブルーマーメイドとしても唾をつけておきたい人材だろう。一般家庭出身でも十分に魅力的だが、周りはそれ以外のところに目をつけている。君のバックボーンだ」
美波はそう言われて何が続くかは容易に想像できた。しかしながら、美波にそれを止めることはできない。
「君のおじいさんは鏑木製薬を一代で築き上げた代表取締役社長、お父さんも専務として重要なポジションを得ている。日本の基幹産業の一つである医療分野において、鏑木製薬は重要な柱の一つを担っているといって過言ではない。なにせ、人口が超過密にならざるを得ない海上都市のストレスケアにおいて、鏑木製薬の向精神薬『レプチルミン』は絶大な効果を上げたんだからね。それなくして今の海上都市の安寧はなかったと言っていいだろう」
「……。」
どこか演技のような軽薄さでそう言った柳の声。背後からかけられ続けるそれは美波に動くことを許さない。時計の音が重く、ゆっくりと響いていく。
「それだけ君は注目を集める存在だったわけだ。……それで? その鏑木製薬の重役である君の父親から渡されたというこの瓶だが……中身がどういう薬剤なのかを知っているのか?」
「……効能については、知っている」
「詳しく」
その声はすでに尋問じみていて、美波に反論の余地は残されていなかった。
「……突然、人が凶暴化したり、洗脳されたように性格が変わったりすることが起こった時……これで、身を守るよう、言われた」
「明石がやってきた時の立石志摩砲術長の時のようにか」
疑問形の言葉だが、それは断定の言葉だった。頷く以外の選択肢はない。未だ美波には振り向くことすら許さない。ただ、心臓が死ぬまでの決められた回数を打ち切ろうとするかのように、強く、早く脈打つだけだ。それを耳の奥で聞きながら、美波は次の言葉を待った。
「立石志摩砲術長が倒れた際、なぜ報告を上げなかった?」
「……確証が、なかった」
「何の?」
「この事態が……父さんたちが起こしたんだと、信じたく……なかった……」
それは甘えだろうか。美波自身に判断はつかなかった。
重たい沈黙だった。その隙間に、携帯の着信音が鳴った。美波が初めて聞くメロディ。自分のものではない。
「……君に電話だ」
コール画面が出たままのスマートフォンが背中越しに差し出された。表示は非通知。誰がかけているのか、表示の一切が出ない。
「確かめてみるといい」
恐る恐るスマートフォンを手に取った。通話ボタンを押す。
『美波! 美波無事か!?』
「父、さん……?」
電話口から聞こえたのは切羽詰まった声。スピーカーモードで起動しているのか、自分の放った声が遅れてスピーカーから聞こえてくる。
『宗谷貴様……娘を人質にする気か……!?』
父親の声が憎しみのこもったものに変わる。飛び出してきた名前に美波は一瞬耳を疑った。宗谷と言ったか、父は。
『それだけ切羽詰まった状況だという事ですよ、鏑木取締役専務。こちらとしてももう既になりふり構う余裕はないのです』
電話に割り込んだのは落ち着いた女性の声。その声に美波は聴き覚えがあった。ノイズが入っているが聞き違えることはない。宗谷真雪、元横須賀女子海洋学校校長。……宗谷ましろの母親だ。
『では、話してもらいましょうか、鏑木理彦取締役専務。あなたたち鏑木製薬が金鵄友愛塾と手を組んで、何をしようとしているのか』
『……私から話せることはない』
『そう。……残念、本当に残念ね』
真雪の声がそう言った直後に別の物音が聞こえた。電話の奥ではない。背中側からの物音。金属がこすれるような音。初めて聞く音だが、その音が何を意味するのか、美波は直感的に理解した。竦む足を何とか動かして、ゆっくりと振り返った。
「……!」
『美波! どうした!?』
仄暗く光るそれを見て、喉が干上がった。赤い常夜灯だけが照らす暗い医務室の中、柳が制帽の奥から美波を見ていた。まっすぐにのばされた右腕が美波の眉間に向かって伸びている。
「……どうした、お父様が知りたがってるぞ」
そう言う声色はどこか楽しんでいるような響きだが、柳は能面の様な表情だった。一切の感情が読めない表情。まるで人形を相手にしているような感覚だ。
『美波! 美波、聞こえているなら返事をしてくれ!』
「や、柳教官が……銃を……」
『やめろっ! 娘は関係ないだろうっ!』
『現状唯一の抗体アンプルを持っている人が、無関係だとおっしゃいますか? 専務?』
真雪の声が父親の声を抑え込む。スマートフォンから聞こえるやり取りを聞きながら、真っ黒に写るオートマチック拳銃の銃口を美波は眺めていた。目の焦点が合わない。その向こうに映る柳の目が、悲しそうな、辛そうな目をしているのを知る。それでも、右手一本で構えられたその銃はピタリと美波に向けられているのだ。
「……鏑木医務長は悪くないのは知っている。だから、残念だ」
『その子は! 娘は本当に何も知らないんだ! ヘスペリデス計画のことも! アルジャーノンのことも! 何も! だから!』
『ではあなたは何を知っているんですか? 鏑木理彦さん』
『それは……』
『柳君、聞こえているわね?』
そう問いかけられ、柳は左手で耳を押さえた。よく見ればイヤフォンが左耳に刺さっている。
「明瞭に聞こえている」
『生徒に手を出すのは躊躇われますが、致し方ありません。どこかいいところはありますか?』
「医務長は今後もこの船に乗務してもらわねばなりません。手は避けたほうがいいでしょう。……そうですね、女の命と言いますし、とりあえず髪からいきますか?」
『ではお願い』
『やめろ! 娘には手を出さないでくれ! 頼む! この通りだ!』
柳がスライドを引いて、放す。その金属音が甲高く響いた。一歩下がれば壁に背中がついてしまった。唯一の出口は柳の背後、逃げられない。
その刹那、柳の右腕が跳ね上がった。何者かが柳の右手を蹴り上げたのだ。その影を追うように白い髪が揺れる。拳銃が床に落ちる音が響いた。
「ちっ」
「みなみさんは、やらせない」
ハイキックを引き戻す立石志摩を見て、柳は舌打ちをした。宙を舞った拳銃には見向きもせず、足を引き戻した時の回転を使って裏拳を叩き込まんとしてくる志摩に向き合う。それを左腕で軽くいなすとそのまま距離を詰めた。それを待っていたかのように志摩は膝蹴りを蹴りだす。柳、半歩動いて躱す。
「いい蹴りだが……」
志摩はそのまま足を振り上げ横薙ぎに回し蹴りを繰りだす。それに煽られ柳の制帽が飛んだ。重心を下げることで蹴りを避けたのだ。その低姿勢から左の掌底を志摩の喉元へ繰り出し――――顎を打ち付ける寸前で止めた。
「いかんせん重心が高いな。陸上競技じゃないんだ、動きは低く速くが基本。覚えとけ」
志摩を左手一本で動きを止めさせたまま、柳は視線を美波の方へと寄せた。その間にも真雪の声が響いた。
『柳君』
「立石砲雷長が目を覚ますのは想定していたが、ここまで動けるのは予想外でした」
『そう、動けるわね?』
「えぇ」
柳はそう返事をしたが、そのまま動きを見せなかった。その間の沈黙を電話の奥で荒い息が埋める。
『――――わかった! 話す! 話すからっ! だから娘だけは!』
『もういいわ、柳君』
「セフティオン、このまま待機する」
その声が届くと同時、柳は志摩のほうをみて僅かに笑みを浮かべ、ゆっくりと手を喉元から離した。美波は壁に背を預けたままずるずるとへたり込む。
「……一芝居感謝する、砲術長」
「……?」
柳が口元をあまり動かさず、そう言った。志摩はその真意を掴み切れずに黙り込んでいた。
『……では、話してもらいましょうか。鏑木理彦さん。あなたが関わっているヘスペリデス計画とはなんですか……?』
『……き、金鵄友愛塾が主導する海外領土獲得構想の第二段階にあたる、計画の、名前だ……』
『海外領土の獲得?』
力尽きたようにとぼとぼと語るその声はまさしく父親の声なのに、美波にはまるで別人のように聞こえていた。
『ヴォロニン-ヒラハラ報告を知っているか?』
『……
『たったA4用紙5枚程度の簡易報告書だが、満州の利権をめぐって日露が衝突するには十分な起爆剤だった……。満州にロシアが敷設した天然ガス移送パイプライン……それが目詰まりを起こしたことをきっかけにして研究がすすめられ、地下にメタンハイドレートが多量に存在する可能性を示唆した。択捉や樺太、千島列島の地下はガスの金脈となった。日露戦争は日本の安全保障と、満州国の利権を守るための戦争だといわれているが、そんなものじゃない。あれは、日本とロシアの間で、どちらがメタンハイドレートを握るかを賭けた戦争だった。戦後のメタンハイドレート採掘の鍵となる、ヴォロニン-ヒラハラ報告は極秘とされ、戦争が開始された』
弱々しい声だが、スマートフォンはしっかりとその声を拾っていた。それを呆然と聞きながら、美波は目の前で微動だにしない柳を見るでもなく、眺めていた。
『それに勝った日本は終戦後に、ヴォロニン-ヒラハラ報告を日本が主導した調査結果として公開、減圧式メタンハイドレート採掘法を実用化して世界に発表した。サブマリン特許のようなものでね、実質的な国有企業だった日本石油国際開発株式会社が特許を取得、広がろうとしていたメタンハイドレート市場を独占した。特許が期限切れになった1925年にはもう、世界のガス産業の全てを日本が掌握していた。……そこから、1942年からの第二次アジア海上危機までが、日本の黄金期だった』
『その15年の黄金期をもう一度迎えようというの? 金鵄友愛塾の構想では?』
呆れたような真雪の声が電話に乗る。それを鼻で笑うような気配。
『まさか、メタンハイドレートは日本をどん底に突き落としたようなものだぞ。それに頼り切った日本のエネルギー政策は第二次アジア海上危機の後で日本の全てを奪い去った。関東大震災から始まった日本の国土沈降が加速する中で、因果関係がわからない中で、それはメタンハイドレート採掘のせいだとされ、貿易摩擦にしびれを切らした諸外国がその尻馬に乗った。植民地独立運動に巻き込まれたせいで、日本は軍隊を失った。宗谷家ならサンフランシスコ宣言を忘れたことなどあるまい』
その流れは美波も聞いたことがあった。歴史の授業等でもやる内容だ。未だにメタンハイドレート採掘と国土の沈降の因果関係は判明していない。
『それからの70年、いやもう80年近いのか。日本は戦わずして敗戦国になったまま、沈みゆく国土を嘆くだけだ。海上都市も限界がすぐそこ来ている。すでに最初の海上都市建設から半世紀が経って、インフラストラクチュアも限界だ。国土の更新もできないまま、この国は本当に行く先を失おうとしている。エネルギー自給率は5%を切り、食料自給率だって20%を下回っている。過剰な産業の高次化に慢性的な職業不足、日本人の外国就職に歯止めがかからないのはそのせいだ。ブルーカラー層の仕事が一掃された日本のどこに労働者の居場所がある? これでは日本は本当に没落するしかなくなる。――――それを嘆いていらっしゃった方がいた』
『――――――それが、大山敢衆議院議員』
真雪の確認の声が聞こえる。
『私が大山先生から海外領土獲得構想を聞かされたのは、父に誘われて金鵄友愛塾に出入りを始めたころだ。日本という国が生き残るためには、次の世代に日本を継ぐためには海外領土を獲得し、エネルギーと食糧の自給率を上げていくしかない。……これで我々が諸外国や国民から詰られようとも、これ以外の根本的解決法は見つからない。……目から鱗だった。そしてそれ以外に日本を守る方法がないことは明白だった。そして、我が社ならそれができると知った』
『そうして鏑木製薬が作り上げたのが、洗脳行為を手軽に行うことができるウィルスの開発……そういうことかしら?』
『洗脳という言葉は一面的なものだが、おおむね正しい。我が社で《アルジャーノン》と呼んでいたそれは、味方向けに使えば戦力の一時的な強化を成し、軍が人員強化を完了するまでの時間を確保できるようになる。敵側に使用すれば、指揮系統を混乱させ、撃破しやすくする。……そのためのウィルスを作成していた』
「……なぜ」
気がついたら呟いていた。美波の声が向こうまで届いたのか、言葉が止まった。
「それは……人を殺すかもしれないのに……どうして」
視界が歪んで、泣いていることに気がついた。柳はそれをみても、何の反応も示さなかった。
「薬は、医学は人を救うと言ったのは、父さんだ……」
『わかってもらいたいとは思わないよ、美波。でも、美波たちが生きる世界を少しでも明るくしたかった』
『ならなぜ、その守るべき子供たちを犠牲にするような事件を容認したのです?』
『知らなかったんだ! こんなにも早くアルジャーノンが投入されるなんて知らなかったんだ!』
真雪の声に触発されたような父親の怒声をスピーカーが伝える。
『アルジャーノンは未だ完成していないんだ! 副作用の効果が抑えられない』
『副作用とは?』
相手の声を断ち切るように、真雪が問い詰めた。
『……高血圧状態が維持されるんだ。血管拡張薬を投与した後によく似た症状が維持される。体温を上げて、血圧を上昇させる。短時間なら身体能力が向上するが、長時間に及べば生命維持機能すら侵される可能性がある』
『その危険性を友愛塾には伝えたの!?』
真雪が初めて声を荒げた。
『春日井さんには伝えたさ! 大山先生に伝えてくれって!』
負けじと叫ぶ父の声を聞く。美波にはいきなり出てきた「春日井さん」というのが厚生労働省の春日井弘忠疫病対策課課長であることを知る由はない。それでも、それがヘスペリデス計画やらに関わっていた人物であることは容易に想像がついた。
『計画はもう止められない、犠牲になる子どもたちには心を痛めるが致し方ないと言われたんだ! 下っ端の私では止められない! 金鵄友愛塾はもうこの会社を変えてしまった! 友愛塾を裏切れば、連結企業も含めた1万8000人の社員が露頭に迷う! 会社を守るためには、こうするしかなかったんだ!』
『――――それでも、あなたは止めるべきだった』
その叫びを真雪が叩き切った。有無を言わさず、それ以上の言葉を継がせなかった。
『国を嘆いて、その国を変えるために、あなたたちは守るべき国民を犠牲にした。知らなかったという言葉で済ませられるものじゃないわ。あなたは、あなたの意志で娘を切り捨てた。その事実は変わらない』
その言葉を最後に、言葉は途切れた。父親の泥の様に重い泣き声が響く。聞くに堪えられず、美波はスマートフォンを耳から離した。柳が歩いてきて、そのスマートフォンを取り上げる。スピーカーフォンをオン。
「……泣きたいのはわかるが、貴方には教えてもらわなきゃいけないことがる。ウィルスへの対処法だ」
スマートフォンに向けてそう言った柳の声に反応して、電話の奥の声が呻いた。
『……感染初期の第一段階なら、海水で無毒化できる。ウィルス自体は保持されるが、エンベロープが破壊されて、増殖力と効力を失う……。体内に侵入したウィルスの増殖が始まると……抗体を打つ以外の対処法は、ない』
「その抗体は鏑木美波医務長に持たせたものと同一か?」
『そうだ……それは32倍まで希釈しても使用できるはずだ……』
「……ということは、晴風一隻なら抗体は事足りる計算か。まったく、都合がいいな」
柳のどこか皮肉な声に、電話の奥が呻いた。
『あんたが……その船の長か』
「艦艇群司令だ、お宅の娘さんの上官にあたる」
『……娘はヘスペリデス計画には関係ない。本当に、なにも知らないんだ』
柳はその続きを待った。その表情はとても苦そうだった。
『私をきっと大山先生は許さない。必ず、報復に来る』
その声は涙で揺れていて聞き取るので精いっぱいだった。それでも彼は言葉を紡ぎ続けた。
『だから……娘を、美波をどうか……守っていただきたい』
スピーカー越しの声を聞いて、柳は溜息をついた。
「……条件がある」
柳の声は小さいが、それでもよく響いた。
「この事態、我々第一特務艦艇群が対処する。必ずヘスペリデス計画を白日の下に晒す。……その時に、貴方には証言台に立ってもらう。死んで詫びることが出来る時点はとうに超えている。生き恥を晒そうとも、何があろうとも、死ぬことは許さん。証言台に立つその日まで、死ぬ権利はない」
そう言って、僅かに間を取って、柳は続けた。
「それに、子を守るのは親の責務だろう。勝手に猛省して責任を放棄するな」
そう言って、柳はスマートフォンの終話ボタンを押した。そのまま溜息をついて、それをポケットに仕舞う。そのまま無言で床に落ちた制帽を拾うと軽くはたいて被り直した。遠くに吹っ飛んでいた拳銃も拾って乱雑にポケットに突っ込んだ。
「……どういう、こと?」
背を向けて出ていこうとした柳を志摩が呼び止めた。半身で振り返った柳が肩を竦める。
「聞いてのとおりだ。猿島の突如とした砲撃、アドミラルシュペーの謎の攻撃、そして君の根拠不明の暴走による明石への発砲……そのすべてに鏑木医務長の御親族が経営している会社が開発したウィルスが噛んでいる。……その情報を聞きだすために、どうしてもこうするしかないという宗谷校長の意志だ」
「……それは、強迫」
「その通り。ただの強迫だよ。もっとも、この拳銃はオモチャだから撃ったところで殺せないんだがね」
ポケットに突っ込んだ拳銃を取り出して、一気に引金を引く柳。銃口からは小さな赤い火が燈る。
「ジョーク用ライターなんだが、結構暗闇だと騙せるもんだね、これ」
睨む志摩の視線を真正面から受けたまま、柳はそう言った。どこか寂しそうな笑みを浮かべる。
「どうする? さっきも認めたが、これで私も紛うことなき犯罪者だ。君たちは私を逮捕する権限を持っている。脅迫罪で私を逮捕することは、安全監督隊隊員として推奨される。金鵄友愛塾が宗谷元校長や私を告発する前に、君たちに掴まったほうがブルーマーメイドとしても動きやすいだろう」
「……それで、晴風はどうなる?」
「おそらく代わりの3監か誰かが派遣されて指揮を執るだろう」
志摩は黙り込んだ。美波は赤く腫れた目を擦って立ち上がった。
「……柳教官」
「なんだ?」
「……抗体の量産、おそらく大型艦に積んである遠心分離機があれば、できる」
「わかった。すぐに手配する」
そういう柳に頷いてから美波は続けた。
「惡き者を己にまさりて義しき者を呑噬ふに何ゆゑ汝黙し居たまふや……私には、父たちの暴走を止められる可能性があった。父は……私のために、ヘスペリデス計画に加担した。その真意に気が付ければ、止められる可能性があった。……私一人、嘆くのは間違い」
そう言って美波は歩いて柳の前に立つと、そのまま向き合うように回り込んだ。
「……あなたにそうさせたのも、私にも原因がある。あなたや校長がした理不尽を許せる気はしないけれど、許さなければ始まらない。……晴風には、柳教官の力が必要。捕まえてと言う前に、協力を。父がやろうとした間違いを正すのも、娘の役目。そのためにあなたの力が必要だ」
「――――それを、君が望むなら」
「ん」
美波はそう頷いて、柳に手を差し出した。
「改めて、鏑木美波。ヘスペリデス計画の完遂阻止を期待して支援する。柳昂三艦艇群司令」
柳は黙って、彼女の手を取った。
†
「それじゃ、ごめんね、もかちゃん」
武蔵に搭載したスキッパーを操作しながら、北条沙苗は笑った。
「はい、武蔵のことはお任せください。必ず私が留守を守りますから」
「そこは心配してないよ。いかんせんもかちゃんは優秀だ」
エンジンがかかった中型スキッパーにまたがった北条はいつもの教官服ではなく、普通のスーツ姿だった。後ろに積載した大きなダッフルバックを叩いて笑う。
「どれくらいかかりそうですか?」
「んー、まぁ、4日かそこらで戻れるんじゃないかな?」
「わかりました……それではお待ちしてますね」
「あいあい、お互い気をつけて慎重にいこう」
そう言いあうともえかがダビッドを操作する。停船した武蔵の横に、中型スキッパーが降ろされた。アクセルを吹かして、北条が離れていく。
「ご武運を!」
「もかちゃんもね!」
離れていく武蔵を見て、北条は笑って視線を前に戻した。夜半過ぎに上った月はいまだ低い位置にある。それを横手にみて、南下する。
「さて、二回戦といこうかな、コウちゃん」
その笑みは、もえかの前では見せないほどに獰猛なものだった。
……はい、というわけでRATtウィルスの登場です。開発側のコードで《アルジャーノン》は安直すぎましたかね……。
アニメ原作だとみなみさんはあっという間に抗体を作ってましたが、航洋艦(駆逐艦)で抗体が作れるほどの設備も試薬もないだろうということで、事前に持たされていた形にしました。そのせいでみなみさんの立ち位置が複雑なことに……。
それでもやっと状況が動きだします。お付き合いいただければ幸いです。
――――――
次回 それを子供のわがままと笑うか
それでは次回もどうぞよろしくお願いいたします。