ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー   作:オーバードライヴ

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今回はオリジナル展開&暴力的描写が散見されます。読まれる方はご注意ください。

特にじゅんちゃんのファンの方、本当にごめんなさい!

それでは、どうぞ。


剃刀の上に置かれた命運

 

 

 波に揺られる木の葉のように不安定な短艇の上、柳は僅かに笑って見せた。

 

「向こうのライフラフトとこちらの動力艇……2時間半でカタをつけたいところだな」

 

 クリアーカラーのアイウェアをかけた柳が横を見た。そのアイウェアに表示された情報越しに見える緊張顔の宗谷ましろは落ち着きなく周囲に目を配らせていた。

 

統合型情報表示装置(I. I.)には慣れないか、副長?」

「い、いえ……」

 

 ましろはスポーツ用のサングラスのようなそれに触れてそう言った。スクリーンフィルムを挟みこんだプラスチックのレンズには晴風クルーの状態や新橋商店街船の艦内見取り図などのデータが表示されていた。

 

 統合型情報表示装置(インフォメーション・イルミネーター)――――頭文字を取ってI.I.と呼ばれるそれは、安全監督隊の最新装備の一つだ。強化プラスチックと薄いスクリーンフィルムを使ったディスプレイ装置と骨伝導ヘッドセットでデータ・音声を全二重双方向(デュプレックス・モード)通信でやり取りできる個人用の支援装備だ。ベルトで胴体に固定した心拍数センサーや安全装置の通報装置などと連動し、相互に状況を確認できることもあり、作戦行動時に高度な連携を取ることも可能になった。水中で使えないのが大きなデメリットになるが、今回のような船舶への乗船には何ら問題ないはずである。

 

 それでもましろはどこか不安そうだ。

 

「ですが、少し違和を感じます」

「じきに慣れる。……最終ブリーフィングといこう。情報統合開始(リンクスタート)

 

 柳がそう言うと、ましろの視界にオレンジ色の光が映る。単色のスクリーンフィルムが一瞬光り、そのまま消える。人魚をあしらったブルーマーメイドのシンボルマークが灯り、すぐに今回の()()()()が表示された。

 

「全員のリンクへの参加を確認した。それぞれの役割に変更はない。万里小路・日置両名はデッキコントロール。統括は万里小路。右傾斜が40度近いため左舷のライフラフトは使用できないことに注意」

『かしこまりました』

『日置、了解です!』

 

 骨伝導インカムは無事に起動しているらしい、万里小路楓の声と日置順子の声がほぼ同時に聞こえてくる。

 

「小笠原・武田・フリーデブルク以上三名で誘導班。船内の乗客の避難誘導と捜索。誘導班統括はフリーデブルク」

『誘導班了解じゃ!』

 

 ヴィルヘルミーナが誘導班をまとめて返答。柳は目の前に迫ってきた商店街船を見上て言葉を続ける

 

「応急班を和住・青木両名で構成、商店街船の機関室の状況を確認後、必要であればそのままダメコン作業を実施、必要なければ誘導班に合流」

『はいっ!』

『了解ッス!』

 

 和住媛萌と青木百々がほぼ同時に返答。

 

「姫路・松永は本艇に残り、外部から目視で被害状況を確認。確認後は乗員の輸送及び、漂流者のピックアップ」

『姫路、了解です』

『わかりました!』

 

 姫路果代子と松永理都子の声が返ってきて柳は満足げに頷いた。

 

「宗谷副長は私と艦橋へ」

「了解です」

 

 ましろが返したタイミング、短艇『はれかぜ一号』が商店街船の真下に到着する。柳がヘルメットを被り直し、大きなザックを背負い上から投げられた縄梯子を掴んだ。

 

「それでは、落ち着いていこう。状況開始だ」

 

 そのままするすると縄梯子を上がっていく柳。その後ろから、晴風クルーがついて行く。

 

「安全監督隊です! 只今から救助を開始します! 落ち着いて指示に従ってください!」

 

 縄梯子をあっという間に登り切った柳の良く通る声が聞こえる。努めて明るい声を出しているのか、いつもよりも明るい雰囲気だ。

 

 それを聞いてそこまで切迫した状況ではないのか、と思いながらましろは上に上がって――――息を飲んだ。

 

 甲板には人がごった返していた。オレンジ色の救命胴衣の色がやたらと目につく。その全ての視線が、柳やましろに集中していた。

 

 人・人・人……不安定な甲板にはどこか饐えた匂いが漂っていた。誰かの吐瀉物が斜めの甲板を流れていく。揺れがひどくて耐えられなかった人も多いのだろう。

 

 子どもの泣き声がかすかに聞こえるが、それを他の大人の声が掻き消していく。

 

 

 

 オソイ

 

 ハヤクタスケテ

 

 シズンジマウダロ

 

 モウイヤダ、イヤダ

 

 

 

 怒号と言ってもいい声がましろの耳に滑り込んでくる。

 

「宗谷さん。早く上がってきなさい」

 

 明るいトーンのままで柳がそう言った。その顔にはどこか余裕の色すら見て取れる。慌てて商店街船の手すりに手を掛け、体を引き上げた。

 

「落ち着いて行動してください! 我々安全監督隊と船員の指示に従ってください! 焦れば焦るほど、救助にかかる時間が増えていきます。落ち着いて指示に従ってください!」

 

 柳が肉声で周囲に伝えていく。ましろの後から上がってきたクルーも驚いて言葉をなくしていた。制服を着た商店街船の船員が駆けてくる。

 

「安全監督隊の方ですか?」

「第三管区海上安全整備本部第一特務艦艇群、艦艇群司令の柳です」

 

 駆けてきた船員の肩章を見て一等航海士だと知った柳が軽く目礼。相手が口を開くより早く支持を出した。

 

「現状確認されるけが人の数は?」

「自力歩行不能な重傷者6名、意識不明2名、擦り傷・打撲などの軽症者多数です」

「わかりました、あの三番ラフトをけが人用にします。残りのラフトを使用して避難誘導を開始してください」

「わかりました。避難誘導を開始します」

 

 一等航海士が敬礼して去っていく。それを見送ることなく、柳が振り返った。

 

「万里小路さんは三番ラフトを使用して、重傷者と意識不明者の移送を開始。日置さんは避難誘導補助を」

 

 二人が頷くのを確認して、柳が歩き出す。

 

『柳より総員。復唱不要。行動開始。デッキコントロールは甲板上の人間の誘導及びライフラフトの切り離しを。落ち着いてもらうために、丁寧な言葉遣い、ゆっくりとした動作を心がけろ』

 

 柳の囁くような声が無線に乗った。口をあまり動かしていないのは今の指示を出していることを要救助者に悟られたくないためか。

ましろのほうを柳が見た。ついて来いということらしい。

 

 傾いた甲板が不安定に揺れる。それを無視しようと下唇を噛んで、ましろは彼について行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その惨状はひどいの一言に尽きた。

 

「……みんな」

 

 明乃はその惨状をタブレットから確認して、思わず声を上げた。

 

「艦長……大丈夫、ですか?」

「大丈夫」

 

 納沙幸子の声にそれだけ即答し、視線を上げる。止んだ雨の向こうに揺れる商店街船が見えていた。

 

『柳だ。乗員リストの最新版を転送する。人員は乗員12名乗客527名+13だ。最終寄港地のコローニアで一名乗船し合計553名だ』

『こちら武田、21ブロック捜索終了、要救助者なし、無人を確認、22ブロックの捜索に移ります』

 

 左耳に引っかけた骨伝導のヘッドセットからは現場の報告が続く。それだけ聞けば十分ポジティブなものだ。収容速度も悪くない。それでも商店街船の甲板は地獄絵図一歩手前の様相を成していた。商店街船に乗りこんだクルー以外の音声は、明乃の耳には聞こえていない。骨伝導ヘッドセットマイクの恩恵で周囲の音や声をシャットアウトしているためだ。それが逆に明乃の恐怖を煽っていく。

 

 救命筏は十分な数が用意されている。傾斜がひどくなって片舷しか使えない状況になったとしても、十分に避難ができる数だ。

 

 だが、それは救命筏に()()()()()()()()()()()()の話である。

 

 明乃の思考がそこで途切れた。いきなり無線に喧噪と言うべき音が入りこんだのだ。

 

『ですから! 救命筏は十分に数がありますが、荷物の持ち込みはできません。他の方が非難できなくなります! スーツケースは置いていってください!』

 

 日置順子の声が無線に飛んでくる。普通は無線に乗るはずのない、要救助者への声。声をかける先は晴風や柳ではないはずだ。それでも無線が飛んできた。

 

『ふざけんなよ! これがなければ俺たちはどうやってこの先生きていけばいいんだ! 全財産海に投げて、その辺でのたれ死ねって言うつもりか!?』

『ですが、そのスーツケース分誰かが助からなくなってしまうんです!』

『ボートは十分あるんだろ! なら問題ないじゃないか!』

 

 男性との言い合いの声が乗る。その雰囲気は明らかに異常だ。別のチャンネルで無線が入感、柳の声がそれにかぶる。

 

『万里小路、日置の応援に回れ。私も向かう』

『わかりました。向かいます』

 

 柳の声は淡々としているが、明乃は気が気ではなかった。周囲の音声込々で無線が流れてくる場合、それは『無線で応答できない状況における応援要請』を意味するからだ。

 

『そもそも、お前らがちゃんとしてないからこんなことになってるんじゃないか、えぇ!? ブルーマーメイドはあなたの生活を守ります? だったら守って見せろよ! なんか言ったらどうなんだ? えぇ!?』

『生活を守る前に皆さんの命を守らなければならないんです! どうか、ご協力をお願いします!』

『ふざけんじゃねぇ!』

 

 その言葉の後、何かがぶつかったような衝撃音が無線に乗った。その裏で響く周囲の悲鳴。順子が息を詰めた声。それを聞いた明乃は慌てて晴風の窓の方に駆け寄った。双眼鏡を構える。商店街船の甲板をなぞるように双眼鏡を動かしていく。

 

『お前らが来るのが遅いから! こうなってるんだろうが! お前らマーメイドだろ! 何とかしろよ!』

『やめっ……やめてくだ……いっ!』

 

 順子がどこにいるか、すぐ特定できた。人並みがさっと引いた中心に甲板に蹲り必死に頭を守っている順子の姿があった。その彼女のおなかに男の革靴がめり込むのを見て、明乃はとっさに叫んだ。

 

「万里小路さん! じゅんちゃん蹴ってる男の人止めて! 公務執行妨害でも何でもいいから!」

『わ、わかりました!』

 

 そのまま艦内無線に通信を切り替える。

 

「探照灯照射! 商店街船中央部! じゅんちゃんがいる場所狙って!」

 

 直後に晴風から強力な光線が飛ぶ。その光線の先で男が動きを止めた。スポットライトのようなその光の中に万里小路楓が飛び込んだ。その手に光るのは……黒光りした警棒だ。

 

『安全監督隊隊員への暴行行為は公務執行妨害にあたります。これ以上暴行を加え、避難誘導を妨害する場合、海上安全整備法第52条3項に基づきあなたを拘束します!』

 

 楓の声が無線に乗る。声がどこか遠いから、おそらく順子の広域マイクから拾った音声だ。

 

『……な、なんでだよ! 遅れたお前らが悪いんだろうが! 公僕のくせに! 俺達納税者の上澄みで生きてるくせに! 俺たち市民の生活を切り捨てるのかよ!』

『切り捨てるつもりはありません! ですが、荷物の持ち込みを認めれば、その荷物の分、誰かが救命筏に乗れずにお亡くなりになられるかもしれません』

『それを何とかするのがブルーマーメイドだろうがっ!』

 

 聞くに堪えられずに、明乃は無線の終話ボタンに手を伸ばしかけ、止める。

 

 逃げるな。この叱責は晴風に飛んできている。艦長の私が、聞かないことは許されないのだ。

 

『――――私の部下が、大変失礼いたしました』

 

 その場に、凛とした声が割って入った。

 

『万里小路3士、日置3士を一度下げてから避難誘導に復帰しなさい』

『りょ、了解!』

『責任者の柳昂三三等海上安全整備監です。部下が大変失礼いたしました。我々安全監督隊の不届きにより、貴方たちの生活が脅かされていることはおっしゃる通りです。大変、申し訳ありません』

 

 そう言って柳は深く頭を下げた。ヘルメットは脇に抱えて腰を45度に折る最敬礼だ。

 

『ですが、貴方の命と生活を守るのと同じように、他の方々の命と生活を守る義務を、我々安全監督隊は負っております。皆様の避難を迅速に行うため、どうか、ご協力をお願いいたします』

 

 頭を下げた姿勢のまま、柳が言葉を続けていく。順子が楓に支えられて現場から離れていくに従って、その声が聞こえなくなる。それでも明乃はずっと双眼鏡の向こうで頭を下げ続けている柳を見続けた。

 

 男が何かを叫んでいるのが見えた。

 

 その男が甲板を指さしているのが見えた。

 

 そこに迷うことなく跪き、額を甲板にこすりつけるようにする柳が見えた。

 

 そして、男がスーツケースを手放して救命筏に向かうまでずっとその姿勢を取り続けた柳が見えた。

 

 静まり返る艦橋で、明乃はそっと口を開く。

 

「探照灯照射やめ、……ココちゃん、じゅんちゃんの様子確認できる?」

「はいっ!」

 

 返事をした幸子が無線を開くよりも早く、柳の声が割り込んだ。

 

『柳だ、甲板は一通り沈静化した。万里小路、聞こえているか』

『こちら万里小路、感度良好です』

『日置の様子は?』

『日置です、避難誘導復帰できます』

 

 無線に割り込むように順子が参加。それを聞いて明乃はホッとする。

 

『復帰可能了解。ライフラフトのオペレーションはできるか』

『はい』

『ならライフラフトのダビットのオペレーションを頼む。身体異常が現れたらすぐに報告されたし』

『了解しました。日置、復帰します』

 

 それで無線が切れる。明乃は下唇を噛んだ。

 

「なにも、できないのかな……」

 

 見ていることしか、できなかった。

 

 その思いだけが加速していく。飛び出したところでどうにかできるわけではない。晴風を守るという使命を帯びている以上、助けに行くことが悪手であることもわかっている。

 

「また……守れないのかな……」

 

 それでも、歯痒かった。双眼鏡を持つ手に力が入る。その明乃の肩を誰かがトンと叩いた。

 

「艦長……まだ、何とかできる位置にいるんだから、そう言うのはナシにしようよ」

「メイちゃん……」

 

 西崎芽依がそう言ってにかっと笑った。

 

「まだ商店街船は浮いてるんだし、まだ誰かが死んでしまったわけじゃない。だから大丈夫」

「そう……だね……」

「今は現場のみんなをバックアップしなきゃ。艦長殿?」

「うん……!」

 

 その返事を聞いたタイミングでまた無線が入感。今度は短艇の姫路果代子からだ。

 

『浸水部を外部から確認しました。左舷中央部付近に大きな楕円形の破孔が一つ、人ひとり余裕で通れるぐらいの大きさです。そこから周囲に亀裂が走っています』

「丸い……破孔?」

 

 明乃はそれを聞いて首を傾げた。

 

 嵐で大規模な浸水を起こすような場合、発生しうる損傷は大体見当がつく。暗礁に接触するか、波を超えるときなどに応力に耐え切れずに船体が破断するか、そのあたりだろう。

 

 

 だが、そのどれも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「どういうこと……?」

『おそらく真横から何かがぶつかったんだと思います』

 

 果代子の報告を聞いて明乃はブリッジを見回した。

 

「嵐の中とはいえ、真横から何かがぶつかってくるってこと、ある……?」

 

 明乃の問いに誰も答えを持ちえない。その沈黙に耐えきれずに知床鈴航海長が口を開く。

 

「真横から岩とかがぶつかるような波だったら、転覆しちゃう、よね……?」

「そのはずなんだけど、向こうからなにかが突っ込んで……あ」

 

 芽依が言葉を止めた。その声に皆の視線が芽依に集中した。

 

「ど、どうしたの?」

「ある……一つだけ、例外がある。船の真横までやってきて、丸い穴を開けるやつ」

「……それって、なんですか?」

 

 幸子が静かに続きを促した。芽依が苦り切った顔で視線を上げた。

 

 

「……魚雷なら、真横から丸い穴を開けられる」

 

 

 その声に艦橋が凍り付く。

 

「そんなことって……ある……?」

「でも、魚雷だったらもうとっくに沈んでるんじゃ……?」

 

 明乃や鈴が疑問符を投げると立石志摩砲術長が首を縦に振った。

 

「魚雷……じゃない。多分」

「タマちゃんは何だと思う?」

 

 明乃が聞くと志摩はいつも通りの表情で続けた。

 

「魚雷だったらもう沈んでる。演習弾だったらここまで浸水しない。だから、多分……爆弾」

「爆弾……!?」

「まさか……テロ……?」

 

 いきなり浮上してきた可能性に明乃は息を飲む。それに追い打ちをかけるように志摩が続けた。

 

「航行して、ぶつかったなら丸い穴は空かない。でも、誰かが爆弾を仕掛けたりするなら、できる」

「そ、そうかもしれないけど……」

『こ、こちら応急班青木! き、緊急事態ッス! な、なんスかこれ……!』

「! モモちゃんっ!?」

 

 青木百々の怯えたような焦ったような声に明乃は慌ててヘッドセットを押さえる。商店街船から注意が逸れていた。その事に焦る。

 

「なにがあったの!?」

『い、今画像送るッス……!』

 

 そう言うと明乃のタブレットに画像が投影された。百々が付けている統合型情報表示装置(I. I.)に搭載された視点カメラの画像だろう。ソレをみて息を飲む。

 

 淡い緑色の配電盤らしきものが壁一面に並んでいるのを見ると、場所はおそらく機関室。電源が落ちて真っ暗なそこを懐中電灯が照らしている。その中に見えるのは――――

 

「これ……血?」

 

 解像度が低くて特定はできないが赤い何かが壁についていた。

 

『多分スプレーの塗料か何かだと思うんスけど……これ、意味わかんないけど……絶対、ヤバいっス』

 

 百々が照らしたそれは、何らかの、文字だった。

 

 

 

 

 

 

『θとかβとか……数学で使う記号みたいなの……これなんて読むんスかね……?』

 

 百々の疑問の声を聞いて、明乃が艦橋を見回す。幸子がそれをタブレットで検索しようとするが、そもそも入力法がわからないようでかなり戸惑っているようだった。

 

 その戸惑いの間に男性の声が割り込んだ。

 

『――――Anerríftho kývos』

「へ?」

「柳教官? 今なんて……?」

 

 明乃が聞き返すと柳の声がノイズ交じりに届いた。

 

『アネッリプトー・キューボス。古代ギリシア語だ。出典はおそらくプルタルコス『プルターク英雄伝』に収録されている『ポンペイウス伝』。紀元前49年、共和制ローマの元老院派から反逆者扱いを受けたジュリアス・シーザー……ガイウス・ユリウス・カエサルはローマに攻め入るべくルビコン川を渡った。ローマ内戦の開始となった有名な出来事だ。その時にカエサルは古代ギリシアの成句を引いて「賽は投げられた(Ἀνερρίφθω κύβος)」と言い、軍を鼓舞したとされている。引き返せる地点はとうに過ぎた、進むしかないという意味で使われた言葉だ』

 

 いきなり飛んでくるカタカナの羅列に明乃の頭はパンク寸前だった。賽は投げられたというのは聞いたことがあるが、それ以外の部分はちんぷんかんぷんである。

 

「それって……どういう……」

『おそらく新橋商店街船の遭難は何者かが何らかの目的をもって引き起こした人災だ。それを引き起こした人物は、とっくに覚悟を決めて動き出しているぞという意思表示だろうな。史実でカエサルと対決することになったポンペイウスは軍団をまとめることすらできずにローマから逃げ去り、ローマの統治者としてカエサルが君臨する』

 

 柳はそこで僅かに間をとった。

 

 

『……どうやらカエサル気取りの犯人殿は安全監督隊やこの国に本気で喧嘩を売るつもりらしいな』

 

 

 柳の声が獰猛な色合いを帯びた。彼は今、笑っているのだろうか。背筋が冷えるような、そんな声色だ。

 

『これは事故じゃない。明確なテロ行為だ。爆弾抱えて動いている人物がどこかにいるぞ。――――晴風総員に通達。配置を警備出動体制に変更する。万が一に備え、警棒、盾、手錠に加え、音響閃光手榴弾(スタングレネード)及び拳銃の携行を許可。市民及び乗員の安全を確保するためにやむを得ない場合に限り発砲を許可する。発砲は各分隊長、及び班長の指示に従え。艦長、復唱せよ』

 

 飲みこんだ唾が酷く苦い。喉の奥で何かが張り付いているような感覚。それでも、明乃は口を開かねばならなかった。

 

「こちら、岬。復唱します……これより警備出動体制に移行警棒、盾、手錠に加えてスタングレネードと拳銃の携行を許可。市民及び乗員の安全を確保するためにやむを得ない場合に限り、班長以上の判断をもって、発砲を許可……以上、復唱おわり、です」

『復唱確認。実行せよ』

 

 明確な命令。あまりに重い命令が降りてきて、明乃は足元がぐらつくような感覚を覚えていた。インカムを押さえる手が震える。

 

 助けを求めてきた人がいる。そして晴風はそれを救ってきている。

 

 その、助けたはずの人たちに、銃を向けろと言うのか。

 

『岬明乃航洋艦長、先の命令を実行せよ』

 

 迷う余地はない。やらねばならない。それでなければ、晴風乗員も含め、たくさんの人が死ぬ。それを避けるのが、安全監督隊の、ブルーマーメイドの責務だ。

 

「了解……実行します」

 

 それきりで通信が途切れる。明乃は艦長用の制帽に触れる。

 

「艦長……」

 

 不安げな芽依の声に、明乃は一度下唇を強く噛みしめた。その痛みで顔を上げる。震えている余裕も、泣いている余裕もどこにもない。晴風の乗員も含め、580人を超える人間の命がかかっている。

 

「武装の携行を許可。晴風に既に犯人が乗りこんでいる可能性もあります。救助済の人を刺激しないように、拳銃とスタングレネードは機関室で受け渡しを行います。メイちゃん・タマちゃん、準備をお願い」

「う、うん……」

「ミケちゃん……大丈夫?」

 

 志摩の声に明乃はぎこちなく笑った。

 

「大丈夫、きっと、なんとかできる」

 

 明乃はそう言って、外を見た。

 

「……大丈夫」

 

 傾いて黒く沈み込んだ新橋商店街船は、先ほどよりも大きく見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『どうやらカエサル気取りの犯人殿は安全監督隊やこの国に本気で喧嘩を売るつもりらしいな。……これは事故じゃない。明確なテロ行為だ。爆弾抱えて動いている人物がどこかにいるぞ』

 

 左耳に差したイヤホンから聞こえる声に、彼女は笑みを浮かべた。

 

「ま、50点かな。及第点及第点、よしとしなきゃね」

 

 そう言って彼女は立ち上がる。電源を失って暗い部屋に、金属質な音が響いた。

 

「避難は既に75パーセント。優秀だねぇ晴風の面々は。――――本当に、人魚なんかにしておくのはもったいないね」

 

 そう言って、その部屋を出る。

 

「さぁ、第二幕・第二場といこうか、コウ君」

 

 新橋商店街船が大きく揺れた。

 

 

 

 




……いかがでしたでしょうか。

オリジナル展開を差し込みすぎて何が何だかわからなくなってきてる作者がここにいます。
そして毎度のごとく、一話で投稿する場所まで書こうとしたら、その半分ちょっとで一話分の文字数を使い果たしてしまいましたので、分割投稿です(なお予告で使ったシーンは次回に回った模様)。

なお、途中で出てきたギリシア語等については柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫,2003年初版発行)を参考に引用しています。こういうのってパラパラ眺めるだけでも楽しいんですよね……。

さて、オリジナル展開できな臭さがすごいことになってきていますが、こちらも既に後には退けない位置まで書き進めてしまったこともあり、このまま突っ走ります。お付き合いいただければ幸いです。

――――――
次回 八百万の神がこの世にいるのなら
それでは次回もどうぞよろしくお願いいたします。
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