「たまには二人でお出かけして来なよ。私は暁の家にお泊りするから」
9月も終わりに近づいた頃。
響の粋な計らいで、俺と鳳翔は一泊の小旅行へと出かける事となった。
「響をよろしくお願いいたします」
暁の親に挨拶をし、駅へと向かった。
「思えば、こうして二人っきりでどこかへ出かけるの、初めてですね」
人のまばらな車内で、鳳翔は小声でそう言った。
「そうだったな」
「響ちゃん、急にどうしたんでしょうね」
「気を遣ってくれたのだろう。家族とは言え、俺もお前も互いを……」
そこまで言って、周りの目に気が付き、口を結んだ。
そんな俺を見て、鳳翔は微笑みを見せた。
「えぇ、そうですね」
何がとは言わずも、分かっているようであった。
電車を降りると、早速硫黄の匂いが鼻を突いた。
「駅からもう温泉街なのですね」
「そのようだな」
街には温泉浴衣で歩く人々が大勢いた。
温泉街と言うよりも、テーマパークに来た錯覚を起こす。
「どこから周りましょうか」
「とりあえず歩いて見るか?」
「そうですね」
そう言って歩こうとした時、鳳翔がそっと俺の手を握った。
「人が……多いですから……」
それは、鳳翔の照れ隠しだった。
「ゆっくり行こう」
手を握り返してやると、小さく「はい」と返事をした。
道行くたびに、射的やら温泉まんじゅうやらの店が並んでいた。
どれもこれも似たり寄ったりで、パッとしないが、不思議と入りたくなるような魅力を感じる。
「提督、温泉卵ですって」
「何だこれは。黒いじゃないか」
「黒たまごって言うらしいです。一個食べるごとに7年寿命が延びるそうですよ」
7年。
「10個食ったら70年は確実に生きられるのか」
「10個も食べたら寿命が縮みそうですけどね……」
結局、5個入りを購入し、鳳翔は2個、俺は3個平らげた。
黒玉子とは言え、殻が黒いだけで、中身は真っ白だった。
「これで俺は21年。お前は14年寿命が延びたな」
なんて話しながら、笑いあった。
こうして二人っきりで笑いあう事は、鎮守府でも少なかった気がする。
戦時中は常にピリピリしていたし、こうした男女としての関わりではなかったから。
「うふふ」
「どうした?」
「いえ、なんだか楽しくて。提督は……楽しくなかったですか?」
「はしゃいでるよ」
「そうは見えませんけど」
「努力するよ」
「もう」
また、鳳翔が笑う。
その愛おしく、可愛らしい姿に、俺は自分の反応すらも忘れて、惚けていたのかもしれない。
何をするわけでもなく、ただ温泉街を歩いた。
鳳翔も俺も、温泉街よりも、お互いの事に夢中だったのかもしれない。
こうして二人っきり、水入らずで話していると、お互いがお互いを好きである事を思い出す。
家族として接している時は、そういう意識はあまりなかったけれど。
「そろそろ宿に行きませんか?」
そう言うと、鳳翔は近づき、体を寄せた。
小さな耳がほんのりと赤く染まっていた。
「もっと静かな場所で……お話ししたいんです……」
官能的な目が俺を見つめる。
或いは、子供の強請りのような。
「…………」
俺は返事もせず、片腕でそっと、鳳翔の肩を抱いた。
宿に着いた俺たちを、中年の女将が迎えてくれた。
鳳翔の左手の指輪を見て、夫婦と勘違いしたのか、馴れ初めや式の事など何でも聞いて来た。
一見すると失礼な女将に感じるだろうが、後で知ったところによると、この宿の名物女将と言われているそうだ。
確かに、悪気はなさそうだし、明るい性格なので、嫌な気はしない。
「ごゆっくりどうぞ」
そう言って、女将は下がった。
「色々聞かれたな」
「やっぱり、私たち夫婦に見えるんでしょうか?」
「旅館で一部屋。女は指輪をしている。俺でも勘違いするさ」
部屋はあまり大きくはないが、ここの宿の名物はそこに無い。
「提督、外に温泉がありますよ!」
障子を開けると、そこには檜の風呂があった。
そう、この宿の魅力は、部屋ごとに露天風呂がついているという点だ。
「こっちの方がゆっくりできると思ってな。まあ、大浴場の方を使ってもいいが」
「いえ、こちらを使わせてもらいます。せっかくですので」
鳳翔は子供のように目を輝かせた。
艦娘の頃は大浴場。
家では響と。
一人で満喫できる風呂となれば、鳳翔も喜ぶに違いないと考えて、ここを選んだのだ。
どうやらそれは当たったようだ。
「夕食まではまだ時間があるし、入ったらどうだ?」
「よろしいのですか?」
「ああ。俺はちょっと外すから、ゆっくりしたらいい」
そう言って去ろうとした時、鳳翔が俺を呼び止めた。
「あの……提督は……入らないのですか?」
「俺は後で入るよ」
「今じゃ……駄目なんですか……?」
一瞬、本気で分からなかった。
しかし、すぐに理解した。
鳳翔が着物を脱いで行き、やがてその白い肌を露出させた。
「私は……いいですよ……」
ほんのりと赤かった顔が、徐々に真っ赤になってゆくのが分かる。
「案外、大胆だな」
そう言ってやると、さらに赤くなって、顔を伏せた。
軽く体を流し、風呂に浸かる。
お湯の温度はちょうどいい感じに仕上がっており、時折吹く風が心地よい。
「し、失礼します……」
体を流し終わった鳳翔が隣に座る。
「気持ちいいな」
「は、はい……」
鳳翔はどこか緊張しているように見えた。
「なんだか、ドキドキしますね……」
「そうだな」
「提督は嘘です。なんだか余裕に見えます……」
「そうでもないよ」
「本当ですか? 信じられません」
「俺は逆に、あんなに大胆な事言っておいて、しおらしいのが信じられないがな」
「意地悪ですね……」
そう言うと、鳳翔はそっと肌を密着させた。
「なら……お望み通り、大胆に……ね、提督……」
小さく膨らんだ乳房が腕に柔らかく当たった。
「私が越してきた時と同じように……家族としての思い出じゃなくて、私だけの思い出を……もう一度いただけませんか……?」
「鳳翔……」
まだ色の若い椛が、浴槽へと落ちた。
そしてまた、水の揺らぎによって、浴槽から流れていった。
温泉から出て、しばらく涼んでから、夕食までの時間を旅館内を回り過ごした。
卓球をしてみたり、マッサージ器を使ってみたり、まるで子供のようにはしゃいだ。
「満喫していただいているようで」
「女将さん」
「温泉はもう入られましたか?」
「えぇ、気持ちが良かったです。な、鳳翔」
「提督!」
そう言って、鳳翔は怒りながら俺の腕を軽く叩いた。
女将も俺も、何が何だか分からない顔をした。
「あ、やだ……」
鳳翔は俺たちの顔を見て、顔を真っ赤にした。
女将は何か察したようで、意地悪そうな顔をした。
「お若いですこと。どうぞ、ごゆっくりなさってくださいね」
ホホホと笑いながら、女将は去っていった。
それを見て、俺は悟った。
「――温泉が……って話だ……」
「で、ですよね……。ごめんなさい……」
それから鳳翔はずっと恥ずかしそうにしていた。
部屋に着くと、既に食事の準備が済んでいた。
「豪勢だな」
「こんなに高そうなもの、頂いちゃってもいいんでしょうか?」
「しょっちゅうは食わせてやれないがな」
「ありがとうございます。いただきます」
鳳翔は料理一つ一つを、ゆっくりと味わって食べていた。
時折、家で作れないかしらと言うような顔をしたり、とても美味しかったのが分かるくらい、顔をほころばせていた。
「提督? 私の顔に何かついていますか?」
「いや、美味そうに食べるなと思ってな」
「とても美味しいです。でも、料理だけじゃなくて、提督と二人っきりで食べる食事ですから……なんて」
ここに来てからと言うもの、鳳翔がやけに積極的な気がする。
いや、或いは元々がそういう性格で、家族としてのこいつと、女としてのこいつは違うのかもしれないな。
「次は響ちゃんも一緒に来ましょう。三人で食べたら、きっともっと美味しいですよ」
「ああ、そうだな」
夜も更け行き、明日に備えて寝る事にした。
時間は多くないが、出来るだけ二人っきりで過ごせるように、割と過密なスケジューリングをしている。
「静かですね」
「ああ」
「……そっちに行ってもいいですか?」
「……ああ」
鳳翔が布団に入って来た。
「まるで夢のようです……」
「夢?」
「私……今だから言いますけれど、ずっと提督の事が好きでした。でも、貴方と私は、提督と艦娘で、この指輪も……仮の物だった」
そう言って、鳳翔は指輪を見つめた。
「でも……今はこうしてお互いを想うような存在になっている。今が、かつて見た夢と同じなんです」
「そうだったのか……」
「提督は……そうは思ってなかったんですか?」
「俺は……」
俺は、ある艦娘の事を思い出していた。
提督と艦娘。
その関係を、戦時中にも関わらず、越えようとした艦娘の事を。
「――もう寝よう。明日も早いんだ」
「そうですね。おやすみなさい、提督」
「ああ、お休み」
頭を撫でてやると、恥ずかしそうに微笑んだ。
………「提督」
………「どうした、――?」
………「こんなに大きなお魚が釣れました。今日のご夕食で出しますね」
………「ああ、楽しみにしているよ」
………「はい! ――、頑張りますね」
「ん……」
目が覚めると、障子から柔らかい朝陽が射していた。
「夢か……」
忘れようとしていたあの記憶。
あいつは、元気でやっているだろうか。
「提督……?」
「おはよう、鳳翔」
「え……あ……そうでしたね。一緒に寝たんだった……。おはようございます、提督」
朝食を済ませ、電車とロープウェイを乗り継ぎ、温泉街の源泉湧き出る山へと登った。
所々に煙挙がっていて、濃い硫黄の匂いがする。
あまり嗅ぎすぎると危険なのではなかろうかと言うほどに。
「凄いですね」
「大丈夫か? 人によっては息苦しいらしいが」
「大丈夫です。それよりも、もっと上の方へ行ってみましょう」
ロープウェイの時もそうだったが、鳳翔は高いところが意外と好きなのかもしれない。
ここに来てからと言うもの、崖を覗いたりしてはしゃいでいる。
「子供の頃を思い出します。よく山に登りました」
そう言えば、実家がそういうところだったな。
高いところが好きなのも納得だ。
「玉子アイスって、黄色いだけで、あまり卵の味がしないな」
そう言う問いかけに、鳳翔は上の空だった。
「鳳翔」
「あ、はい!」
「大丈夫か?」
「いえ。響ちゃん、今頃どうしているかなって……」
「心配か?」
「そうじゃないんです。なんというか、私がこんなに幸せな思いしてていいのかなって」
「どういうことだ?」
「私は、提督と響ちゃんの家族になるために、一緒に住み始めましたよね。私たちはお互いに……その……好きではあるのですけれど、やっぱり家族ですから……提督を響ちゃんから奪ってしまったようで……なんだか……」
「その響がいいと言ったんだ。気を遣わせてしまっているのだろうが、あいつなりの感謝のしるしなんだと思うよ」
「感謝……ですか?」
「お前が俺と、男と女の仲である以上に、三人で家族になろうって言ってくれたことに対してのさ」
「!」
「嬉しかったんだと思うよ。あいつ、泣いてたから。そりゃもう、見たことないくらいにさ」
「そうだったんですか……」
「だから、ありがたく受け取っておこう。それが響の感謝に対する、俺たちの礼儀ってもんだろ」
「……そうですね。さすが提督ですね。響ちゃんの気持ち、分かってます」
「その響も、お前が来たことによって、奪われたけどな」
「うふふ」
「さて、そろそろ山を降りるか。夕方までに帰って、あいつを迎えてやろう」
「はい」
近くにあった土産屋で買い物をしてから、俺たちは自宅へとゆっくり向かった。
帰りの電車内は、相変わらず乗客がいなかった。
行きはあんなにもいたのに。
「響ちゃん、寂しくしてなければいいのですが……」
「暁の家にいたんだ。それはないだろう」
「だといいんですけど……」
ただ、まだ二人で住んでいた時に見せた悲しそうな顔を見せてくれたら、少しだけ嬉しいかな。
なんて、酷いか。
「もうすぐ着きますね」
そう言うと、鳳翔は軽く俺に口づけした。
「ありがとうございました。私と貴方だけのたくさんの思い出……嬉しいです……」
「俺もだ」
「駅に着いたら、また家族です。提督には、洗濯してもらいますからね」
「分かったよ」
駅に着くまで、俺たちは寄り添って車窓からの夕焼けを眺めていた。
駅に着くと、何故か暁がいた。
「司令官!」
暁が手を振る。
「おう、どうした? 迎えに来てくれたのか?」
「提督」
鳳翔が指さす先に、響がいた。
帽子を深く被り、佇んでいた。
「響ね、司令官たちが帰ってくるからって、ずっとここで待ってたのよ?」
「提督、行ってきてあげてください」
「ああ」
響の方へと近づく。
「おう、ただいま」
「お帰り司令官」
「俺がいなくて寂しかったか?」
「鳳翔さんがいなくて寂しかったよ」
「なんだ、可愛くないな」
「…………」
「帰るぞ」
抱き上げてやると、響はそのまま顔を隠すように、俺の胸の中に顔をうずめた。
「暁ちゃんも抱っこする?」
「レ、レディーはそんなこと……」
「おいで」
「……うん」
そのまま暁の家へと向かった。
「司令官……」
「なんだ?」
「本当は……寂しかったよ……」
その声は、俺にしか聞こえないくらい小さなものだった。
「――ありがとうな、響。来年は三人で行こうな」
そう言ってやると、響は小さく頷いた。
俺たちの目の前で、夕日が沈んでいった。
遠くの空には、きらりと光る一番星が顔を出していた。
………「この時間が永遠に続けばいいのに……って、駄目ですかね?」
………「お前、出撃したいんじゃなかったのか?」
………「えぇ、そのはずでした。でも、おかしいですね。今は――。ねぇ、提督……」
………「なんだ?」
………「艦娘が提督に恋をしたら……いけませんか……?」
――続く。