昼過ぎのカフェ。
平日という事もあって、先ほどまで休んでいたサラリーマンらしき人達は、もう、一人としていなかった。
「人を待っているのですか?」
紅茶のおかわりを持って、マスターは話しかけてきた。
「えぇ、昔の……」
「それなら、奥の席へどうぞ。ここの席、この時間は日が強く当たるんですよ」
夏も終わりとは言え、まだ暑い日が続いていた。
マスターの気遣いを受け、俺は奥の席へと移動した。
確かに、こちらの方が幾分か涼しかった。
「すみませ――」
そう言いかけた時、窓の外に懐かしい顔を見た。
そして、そいつはカフェに入ってくると、真っ先に俺を見つけた。
「――……」
言葉にならないのか、何かを話そうとするその唇が震えている。
「大和……」
席を立ち、迎えてやると、そのまま胸に飛び込んできた。
「提督……提督……」
「――久しぶりだな」
「ずっと……会いたいと思っていました……。よかった……本当に……」
大和は、再開を涙して喜んでくれた。
最初こそはめそめそと泣いていたが、やがて笑顔が戻って、涙も乾いていった。
「落ち着いたか?」
「はい……取り乱しました……。すみません……」
恥ずかしそうに、大和は、運ばれてきたメロンサイダーに口をつけた。
「改めて……お久しぶりです。提督」
「ああ……」
昔の事を思い出していた。
最後に別れた、あの日の事を。
「大和……その――」
「あの日の事は、大和が未熟でした」
「え?」
「あれから、ずっと考えていました。自分のなすべきことを。大和は艦娘……戦うためにここにいるんだって……。当たり前の事ですよね。でも、貴方と出会って、すっかり忘れていました」
「…………」
「だから、あれからずっと一人で訓練を続けていました。そして、やっと出撃出来たんです」
それは知っている。
大和の活躍は、風の噂で聞いていた。
「提督のお陰で目が覚めました。本当に感謝しています」
「いや……感謝されることなど……。むしろ……俺は……」
「分かってます……。提督の言いたい事……。でも、あの時、提督と恋仲になっていたら、今の自分は無いと思うのです」
「大和……」
「だから、そんな顔しないでください」
「……ありがとう」
胸の中にあった、どうしようもないモヤモヤが、少しだけ晴れた気がした。
「……結局、一緒に戦えませんでしたね」
「そうだな……。俺は駆逐艦と空母を主に担当していたからな……。戦艦はもっと腕のあるやつの所に持っていかれたよ」
「そうだったのですか……。でも、またこうして会えて、本当に嬉しいです」
そう言うと、大和は笑った。
あの時と同じように。
しばらく、あの頃の思い出話に華を咲かせた。
「懐かしいですね……。何もかも……」
「そうだな」
そう言うと、大和は俯き、ストローを弄り始めた。
「提督……」
「なんだ?」
「もし……もしですよ? もし……あの時、大和と貴方が、提督と艦娘という関係でなかったとしたら……大和の気持ちに……どう答えていましたか……?」
大和がこちらを見つめている。
その澄んだ瞳の中に、固まっている俺を見た。
「正直に……答えてくださいね……?」
俺と大和が、提督と艦娘でなかったら?
それは、恋仲になっていたかという事だろうか?
…………「俺とお前は提督と艦娘だ……。それ以上にも、それ以下にもなれない……」
あの時、そう俺は言っていた。
だったら、そうでないならば、俺はどうしていたのだろう。
改めて大和について考える。
大和と過ごした日々。
あの島の潮風。
満天の星空。
廊下に入り込んだ白い砂。
大和の笑顔。
大和の笑い声。
大和の瞳。
大和の作った飯の味。
大和の――。
全ての思い出に、大和がいた。
隣にはいつも、大和がいた。
思い出せば出すほど、その姿が濃く、はっきりと表れてゆく。
「提督……」
その声に、はっとした。
そして、改めて大和の瞳を見つめた。
あの時と同じだ。
あの時と同じ気持ちが、俺の中に呼び戻されてゆく。
「好きです……」
そう言ったのは、大和だった。
「大好きです……。今でも……大好きです……」
消えそうなほど細い声で、そう繰り返した。
それ以上は、言う必要が無いと言わんばかりに。
「大和……」
「いきなりこんな事言って、困りますよね……。でも、気持ちが変わってないって、知ってほしかったから……」
俺が動揺していると、大和は立ち上がった。
「今日は失礼します……。次会う時は……提督のお気持ちも……聞かせてくれると嬉しいです……」
そう言って、飲み物代を置いて、大和は店を出た。
俺は、その場から動くことが出来なかった。
帰り道。
俺は何も考えず、ただ上を向いて、電線が流れてゆくのを見ていた。
「提督」
前を向くと、鳳翔が買い物袋を提げて立っていた。
「鳳翔」
「奇遇ですね。買い物帰りだったんです。一緒に帰りましょう?」
「ああ」
そう言うと、鳳翔は俺の隣を歩き始めた。
「持つよ」
「すみません。ありがとうございます」
買い物袋の中には、野菜や肉が入っていた。
今夜はカレーだろうか。
「今日は、何処へ行っていたんですか?」
「ああ、ちょっと昔の友人と会っていてな」
嘘は言っていない。
しかし、何故か、罪悪感が俺を襲った。
「そうですか」
鳳翔は、何か言いたそうにしていたが、それ以上は何も言わなかった。
チラリと覗いたその横顔には、いつもの微笑みが無かった。
――いや、それも全て、俺に後ろめたい気持ちがあるが故に見えた光景だったのかもしれない。
罪を犯した人間は、警察や他人の目が、自分を疑っているかのように見えると聞く。
それと似た感覚が、俺にはあった。
ただ、あいつに会っただけなのに。
夕食はやはりカレーだった。
鳳翔のカレーは鎮守府の中でも群を抜いて美味かったから、俺も響も鍋の中を空にするほどに食べた。
「あー食ったな」
「お腹いっぱいだね」
「こんなに食べっぷりがいいと、作った方としても嬉しいです」
鼻歌交じりに、鳳翔は皿洗いを始めた。
相当嬉しかったのだろうな。
「そうだ。ねぇ、司令官」
「ん? なんだ?」
「瑞鶴から聞いたんだけど、今日、女の人と会ってなかった?」
その問いに、俺は無意識に鳳翔の方を見た。
「司令官?」
「ん、あぁ。昔の友人だ」
「本当? 浮気じゃないかって、瑞鶴は言ってたよ」
「馬鹿。んなことあるか」
「怪しい……」
「馬鹿な事言ってないで、早く風呂に入ってきたらどうだ?」
「はーい」
そう言って、響は風呂場へ向かった。
浮気。
浮気な訳がないのだけれど、その事を言われた時、ドキッとした自分がいた。
昔の友人。
そう言えば、それを二人に詳しく説明できていない。
詳しく説明しようとしない自分がいた。
大和の存在を、隠そうとしている。
「響ちゃん、お風呂ですか?」
皿洗いを済ませ、鳳翔が居間へと戻って来た。
「ああ」
「そうですか」
一瞬の静寂。
俺にはなんとなく、次に何が起こるか、分かる気がした。
「提督」
「なんだ?」
「その……先ほどお聞きした昔の友人のことですけど……」
やはりそうか。
鳳翔には聞こえていたのだろう。
俺と響の話す声が。
女の人と聞いて、気になったのだろう。
「ああ、そいつなんだが――」
「大和ちゃんですよね……?」
これは予想外だった。
鳳翔が大和を知っているという事にもそうだが、何故会った奴が大和だと知っているのかと言うところにも、俺は驚いていた。
「実は……悪いと思ったのですが、提督が深刻そうな顔をして出かけたので、心配になってついて行ってしまったのです」
「…………」
「そうしたら、喫茶店に入って、そこに大和ちゃんが……」
そんなに深刻な顔をしていたのか。
やはり、大和に会うと決めていてからは、隠せないものがあったのかもしれない。
「そうだったのか……。大和を知っているのか?」
「はい。実は、小さい頃にご近所さんとして仲良くさせてもらっていたんです。しばらくして、大和ちゃんは引っ越してしまったけれど、艦娘になったと聞いて、一度だけ会ったことがありまして……」
なんという運命。
なんという繋がり。
まるで、この時、この瞬間の為にあったかのようにすら感じる話だ。
「提督は戦艦を担当した事なんてありませんよね? なのに……どうして大和ちゃんと繋がりが……?」
無論、隠すつもりなどない。
だが、観念したかのように、俺は話し始めた。
大和との出会いから、別れ。
そして、再開までの話を。
大和が俺を好きだという事。
返事をしないといけない事。
全て。
「そう……だったのですか……」
「隠すつもりはなかった……。だが、何故だろう……はっきりとは言えなかった……」
俺の姿を見て、鳳翔は何を思うのか。
怒り?
悲しみ?
失望?
マイナスな事しか出てこない。
「それは……提督がまだ、大和ちゃんに気持ちがあるからだと思いますよ」
鳳翔の方を見る。
その目は、優しさに包まれていた。
「鳳翔……お前……どうしてそんな目をしてるんだ……? 怒りとか、失望とか……そういうものは沸いてこないのか……?」
「提督の気持ちが、お話を聞く限り、とても伝わってきて、分かるからです。私も同じ立場だったらって……」
「鳳翔……」
「それに……私はまだ、貴方の――」
左手のケッコンカッコカリの指輪を、鳳翔は見えないところで、小さく、指で撫でた。
「提督のお気持ちを大切になさってください。響ちゃんを呼び止めた時のように、正直な気持ちを、大和ちゃんにぶつけてあげてください」
鳳翔は、はっきりとは言わなかったが、自分の事は気にするなと言われている気がした。
「私もお風呂いただきますね」
そう言って、鳳翔は風呂場へ向かった。
しばらくすると、響と鳳翔のはしゃぐ声が聞こえてきた。
俺は、それを聞きながら、何もない場所を、ぼうっと眺めていた。
それしか出来なかった。
大和のあの問い。
提督と艦娘で無かったら。
今でも、それを考えると、心が震えるような気がした。
大和への気持ちと、鳳翔への気持ち。
どちらへの気持ちにも、嘘は無い。
ただ、どちらかを選ばないといけないのだ。
どちらか出ないといけないのだ。
「司令官」
俺の部屋の扉を響は叩いた。
「入っていいぞ」
響はパジャマ姿で部屋へ入って来た。
枕を持ってきてないところを見ると、一緒に寝に来たわけじゃなさそうだ。
「どうした?」
「さっきの話の続き……」
「さっきのって……」
「鳳翔さんがいると出来なかったんだ。もっと詳しい話だよ」
響の顔は、先ほどと違って真剣であった。
「瑞鶴が見たのは、司令官と女の人だけじゃないんだ……」
そこまで聞いて、何が言いたいかが分かった。
「鳳翔さんがそれを見ていたんだ……」
「…………」
「鳳翔さん……なんか凄く驚いていて、そして悲しそうだったって……」
もしかしたら、鳳翔は何かを察したのかもしれない。
だとしたら、さっきの優しい目は一体なんなのだろうか。
「司令官……浮気じゃないよね……? 鳳翔さん、なんで何も言わないのか心配なんだ……」
詳しく話した方がいいか、一瞬考えた。
だが、逆に心配を煽るような気がして、やめた。
「なるほどな。分かった。鳳翔と話してみるよ。きっと誤解してるんだ。俺が浮気なんてするわけないだろ」
「じゃあ……どうして隠すの……?」
「え?」
「その女の人の事だよ……。どうして詳しく話してくれないの……?」
普通の子供であるならば、ここで終わっていただろう。
改めて実感する。
響が、俺の娘となったことを。
俺が、響の父になったことを。
お互いがお互いの事を信頼してるが故に、終わらないのだ。
他人事でいれないのだ。
「司令官……」
「分かった……。お前にも話しておこう」
俺の話を、響は真剣に聞いていた。
鳳翔が聞いてきたことも、すべて話した。
「そう……だったんだ……」
「…………」
「でも……」
そこまで言って、響は黙った。
分かる。
お前の気持ち、分かるぞ。
「でも、鳳翔さんを選ぶんだよね?」と、お前は言いたいんだろう。
だが、言わないのは、鳳翔の気持ちを知っているからだろう。
そしてまた、お前も鳳翔と同じ気持ちであるからであろう。
「聞かなきゃ良かったか……?」
「…………」
俺は黙って響の頭を撫でた。
そして、そっと抱きしめた。
どうしようと言う訳ではない。
ただ、深い意味もなく、そうした。
翌日。
俺は瑞鶴を呼び出した。
「提督さーん!」
「おう」
「お待たせっ! 急にどうしたの?」
「鳳翔は仕事だし、響は学校だしな。お前は開校記念日で休日と聞いていたから、暇だと思って、遊ぼうかと」
「なにそれ!? 消去法で私ってこと!? 私だって暇じゃないんですけど?」
「それはすまなかったな。なら、今日はやめておくか?」
「え、あ……きょ、今日は暇だから大丈夫! 大丈夫だから!」
「なら、行くぞ」
「あ、ちょっと提督さん!」
二人でゲームセンターに来た。
「おりゃー!」
「お、上手いな瑞鶴。俺も……とりゃ!」
「なんのー!」
対戦型のゲームなんて初めてプレイしたが、案外面白いものだ。
「うおっ!? あー……俺の負けか……」
「にひひ、私に勝とうなんて百万年早いわ!」
「くそ……。よし、次はアレやるか」
「え? う、うん」
「次は負けないからな」
「…………」
それから遊びに遊び、俺たちは疲れて、近くの喫茶店で休憩することにした。
「いやぁ……こんなに遊んだの初めてかもしれないな」
「流石に私も疲れたなー」
「ゲームセンターも案外馬鹿に出来ないな」
そう笑う俺に反して、瑞鶴の顔はどこか不安そうなものだった。
「どうした? そんなに疲れたか?」
「ううん。そうじゃなくて……」
「なんだ?」
「なんだか提督さん……無理してる気がして……」
「――そうか?」
笑って見せたが、瑞鶴の表情は変わらなかった。
「提督さん、ゲームセンターで遊ぼうだなんて、いつもはちょっと嫌がるでしょ……? なのに、自ら行こうだなんて……」
「たまにはいいと思ってな」
「それに、いつも以上に笑顔が多いし、なんだか変だよ……。無理して笑ってるみたい……」
「…………」
俺の顔から笑顔が消えてゆく。
「何か……忘れたい事でもあるんじゃない……?」
鳳翔と言い、響と言い、こいつと言い、どうして皆俺の変化に気が付くのだろう。
或いは俺が下手くそなのかもしれないけれど。
「……何があったかは言わなくていいよ。でもね、提督さん。いくら無理して楽しもうとしても、残るのは虚しさだけだと思うよ」
「…………」
「今日、楽しくなかったでしょ? 分かるんだ」
そう言うと、瑞鶴は一瞬ためらいを見せた。
そして、それを振り切ったかのように、口を開いた。
「だって、私が楽しくなかったもん……」
その言葉は、今まで聞いたどの言葉よりも、俺の心に響いた。
ぐっと胸が押し付けられるような、重い何かを感じた。
「……また元気になったら遊ぼう? ごめんね……元気にさせられなくて……」
そう言って、瑞鶴は喫茶店を出ていった。
瑞鶴の言うように、虚しさだけが残った。
何もかもが上手く行かない気すらして来た。
難しい海域を攻略する時ですら、ここまで苦難が続くことはなかった。
「…………」
空を見上げる回数が増えた。
どうしようもない。
お手上げの時に、よく出る癖だった。
戦時中のように、共に戦ってくれる者はいない。
一人になった途端、自分が何よりも弱く、小さいものに感じた。
――続く。