提督が一週間の旅行に出た。
たった一人で。
どこに行くのかは聞かなかったけれど、きっと、自分の気持ちを考える時間が欲しかったのだと思う。
あの時。
私は言えなかった。
『私を選んで』
たったそれだけの事を。
自分の気持ちを。
「鳳翔さん」
皿洗いの手が止まった私を、響ちゃんは心配そうに見つめていた。
「大丈夫? なんだかぼーっとしてたけれど……」
「う、うん……大丈夫よ。ちょっと考え事をね……」
「…………」
「響ちゃん?」
「司令官の事……?」
「え?」
「司令官が……女の人に会ってたから……?」
「……知っていたの?」
「うん……。瑞鶴から聞いて……」
「……そっか」
響ちゃんは知っていることをすべて話した。
提督とも話していたらしくて、それが一番驚いた。
「私……言えなかったんだ……」
「何を……?」
「鳳翔さんを選んでくれって……」
同じなのね。
私と。
「私も言えなかったわ……。私を選んでって……」
「…………」
「そんな顔しないで。響ちゃんの気持ち……私も分かるわ。あの人の幸せを思ったのでしょう?」
「――私は、司令官の幸せはここにあるものだと思ってた……。でも……大和って人の気持ちに即答できなかったって聞いて……」
ずっと考えていた。
どうして、即答できなかったんだろうって。
『提督がまだ、大和ちゃんに気持ちがあるからだと思いますよ』
精一杯の強がりだった。
言った後、自分の言葉に、自分自身が傷ついた。
私は提督の何なのだろう。
艦娘であり、家族であり、あの人の――。
ケッコンカッコカリの指輪。
何度、これを眺めただろう。
これを見るたびに、あの人とのつながりを感じられた。
でも、それは艦娘と提督としてのだ。
家族として、あの人の女としてのつながりは、いくら距離を近づけても、この指輪以上のものは手に入らない気がした。
でも、本当は分かっていた。
あと一歩。
あと一歩で、それ以上の物が手に入るはずだって。
けれど、それが出来なかった。
出来ないから、あの人は行ってしまった。
たった一人で。
あの時、私が一歩を踏み出していれば。
あの時、自分の気持ちを言っていれば。
あの時――。
「ごめんね……ごめんね……響ちゃん……」
ただただ泣く私を、響ちゃんは優しく抱きしめてくれた。
提督がいなくなって四日が過ぎた頃、一本の電話が入った。
「もしもし?」
『鳳翔さん……?』
思わず息を飲んだ。
電話の向こうで私の返事を待っている姿が、あの日再会した姿と重なって、はっきりと見える気がした。
「大和ちゃん……?」
『……本当だったんだ』
その声は、何かを悟ったかのようなものだった。
大和ちゃんと提督を見かけた例の喫茶店。
待ち合わせはそこだった。
店に入ると、奥の席に大和ちゃんを見つけた。
「鳳翔さん……」
おもむろに立ち上がったその姿に、少しだけ驚いた。
子供の頃、あんなに小さくて泣き虫だった女の子が、私よりもはるかに大きくなっていた。
「再会した時よりも、また大きくなったのね」
精一杯の笑顔を見せた。
大和ちゃんも同じように笑って。
「はい、鳳翔さんよりも大きくなりました」
本当ならば、もっと喜ぶ場面だったのかもしれない。
けれど、素直に喜べない自分がいた。
大和ちゃんも、同じだろう。
しばらく、お互いに目も合わせられなかった。
もし、大和ちゃんが知らない女性だったら、私はもっと気さくに話せたかもしれない。
当たり障りのない会話をして、徐々に本題に入ったかもしれない。
どうして。
どうして大和ちゃんなのだろう。
もしこの世界に神様がいるのだとしたら、なんて残酷な事をしてくれたんだろう。
――いや、違う。
そうじゃないでしょう。
あの時、私が答えを出していれば、こうはならなかった。
それを今でも、私は他人のせいにしたいだけでしょう。
自分に腹が立つのと同時に、とんでもないことになってしまったと後悔した。
「提督の元上官が話してくれたんです……」
「え……?」
「あの人には……一緒に住んでいる女性がいるんだって……」
「…………」
「でも、まさか鳳翔さんだとは思わなかった……。電話してやっと信じられました……」
「私も……大和ちゃんだと思わなかった……」
数秒の沈黙。
「好き……なんですか……?」
お互い、聞きたいことは山ほどあるはずだった。
けれど、そこに全ての答えがあるかのように、大和ちゃんはそう言った。
「……好き。あの人が……好き……」
「大和もです……。でも、あの人は、大和も鳳翔さんも選ばず、一人で旅行に行ったみたいですね……」
「…………」
「どこに行ったか知ってますか……?」
「いいえ……」
「大和と過ごした島……そして……鳳翔さん……貴女と過ごした鎮守府……だそうですよ……」
「え……?」
「あの人は今でも悩んでいるんじゃないでしょうか……? 大和と鳳翔さん……どちらかを選ぶために……」
そういう旅なのだろうとは思っていた。
けれど、まさか原点にまで戻っているとは思わなかった。
「それほどに、この問題はあの人にとって大きなものなのだと思いますよ……」
大きな決断。
提督に選択を託したのは私だ。
けれど、きっと提督は私を選んでくれると思っていた。
心の奥底で。
だからこそ、今のこの状況に、私は動揺しているんだ。
後悔しているんだ。
大和ちゃんと私。
その二つを掛けた天秤が揺らいでいる。
私の一歩が無かったから。
たった1gの錘で傾いてしまいそうなほどに。
「……鳳翔さん」
「…………」
「大和は……少し自信があるんです……。あの人が……大和を選んでくれるって……」
「どういう……こと……?」
「一緒に住む貴女がいながら……一生を共にするかもしれない貴女と居ながら、大和はあの人の心を動かしたんです」
「……!」
「たった数か月……。それだけです……。それだけしか一緒に過ごしていない大和が、何年も一緒に戦って来た貴女と同等に考えてくださっているんです」
何も返せなかった。
それは事実だから。
「数か月で同じなら、鳳翔さんと同じくらい一緒に過ごしたら、きっと今以上に幸せになれるはずです……。大和を愛してくれるはずです」
「そうかもしれないわね……」
そう言った時、大和ちゃんの目が私をじっと見つめた。
その瞳の奥に、何か強い意志を感じる。
「そうやって……自分の気持ちから逃げて来たんじゃないんですか……?」
「え……?」
「鳳翔さんも分かってるんじゃないですか……? どうして大和なんかにって……。どうして大和を選ぼうとしているのかって……」
「…………」
「それは……鳳翔さんが自分の気持ちに逃げてきた結果です……。もし逃げなければ、大和はここに居なかった」
「違う……」
咄嗟に反論してしまった。
自分でも分かっているはずなのに。
ただ、本心は、認めたくはなかったのかもしれない。
「違いません。貴女が逃げなければ、きっと大和は選ばれなくて、この話もなかったと思ってます」
「……!」
「提督を迷わせたのは……貴女の決断が無かったからですよね……? 自分を選んでくれって……言わなかったんじゃないですか……?」
「確かに言わなかったわ……」
「どうして言わなかったんですか? もし言っていれば……」
「そんな事……分かってる……!」
「分かってるなら……!」
静かなカフェに、大和ちゃんの大きな声が響いた。
「分かってるなら……手を引いてください……」
「……っ!」
「あと一歩……踏み出していれば変わったんです……。でも、貴女はそうしなかった……。提督を迷わせた……」
怒り、悲しみ。
そんな感情が、どこにもぶつけられない感情が、涙となって溢れだした。
「あとは……時間の問題です……。もし、提督が鳳翔さんを選んだとしても、その先に幸せはないと思います……。貴女だって、分かっているでしょう……?」
「う……うぅ……」
「提督を幸せに出来るのは……提督に気持ちを伝えた大和だけです……」
そう言って、大和ちゃんは飲み物代を置いて席を立った。
「できれば……こんな事になりたくなかったです……。貴女とは……仲の良い幼馴染で居たかった……」
最後のその言葉が、私を責め立てている気がして、その場から動けず、ただただ泣いていた。
あの人も、響ちゃんも、大和ちゃんも。
私の一歩があれば、不幸になんてならなかった。
あの人と本当の家族になって、響ちゃんも悩まずに済んだ。
大和ちゃんとだって、笑って話せたかもしれない。
そして、私も――。
「…………」
全てがもう遅かった。
大和ちゃんに言われて、実感した。
時間が戻ってくれればいいのにと、幾度となく願った。
家に戻ると、家の前で響ちゃんと瑞鶴さんが待っていた。
「どうしたの二人とも?」
「鳳翔さん……大和さんって人に会って来たんじゃないですか?」
「どうしてそれを……」
「通学路なの……私のね……」
だからか……。
あの時瑞鶴さんが見かけたのは……。
「鳳翔さん……大和って人に何か言われたの……? 元気ないよ……」
「ううん……大丈夫よ響ちゃん……」
「大丈夫な訳ないよ……」
「…………」
「鳳翔さん……何があったか……教えてくれますか……?」
その顔を見て、私はまた泣きだしそうになった。
「……とりあえず、家に入ろう」
響ちゃんに背中を押されながら、家へと入った。
「そんな事があったんだ……」
「ごめんね……。私が一歩踏み出していれば……」
「鳳翔さん……」
「もう何もかも遅い……。私は……」
「遅くないですよ……!」
瑞鶴さんの目が、いつになく真剣に私を見ていた。
「大和って人に言われたからって、諦めるんですか……!? もう遅いからって、何もしないんですか!?」
「でも……」
「提督さんはまだどちらも選んでいません! それに……提督さんは……鳳翔さんを待っているんです……」
「……!」
「提督さん……ああいう性格だから、人の気持ちを考え過ぎちゃうんです……。響ちゃんの時だって、そのせいで喧嘩みたくなっちゃったんでしょう?」
「うん……」
「鳳翔さんと同じなんです……。提督さんも、鳳翔さんも、自分の気持ちを正直に出せない……」
「…………」
「今がその時なんじゃないんですか!? ここで何もしなかったら、また後悔しますよ……! それでいいんですか!?」
その言葉が、私の中で何度も反響した。
後悔。
後悔。
後悔。
逃げ。
逃げ。
逃げ。
その先にいる、泣いている自分。
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
『鳳翔』
あの人の声が、私を呼んでいた。
それが遠ざかってゆく。
「鳳翔さん!」
「良くないわよっ!」
強く、今までにないくらい強く、そう言った。
「もう……後悔したくない……! あの人が好きだから……。ずっと……一緒にいたいから……! 響ちゃんとも……瑞鶴さんとも……大和ちゃんとも……!」
その言葉に、瑞鶴さんも響ちゃんも、優しく微笑んで応えてくれた。
「なら……行きましょうよ。私も一緒に行きますから」
「え……?」
「提督のところ」
瑞鶴さんがとった私の手を、響ちゃんの小さな手が包んだ。
「私も行くよ。私も、司令官に本当の気持ちを伝えてないから」
「瑞鶴さん……響ちゃん……」
私の中で、温かい何かが芽生えた。
提督を好きになった時と似ている。
気持ちを伝えた時と似ている。
「まだ間に合います! さぁ!」
「司令官が待ってる」
そうだ。
まだ、間に合うんだ。
今こそ、本当に一歩踏み出す時なんだ。
ここで踏み出さなければ、私は一生後悔することになる。
私を支えてくれるこの二人を裏切ってしまう。
「ありがとう……二人とも……」
あの時踏み出せなかった一歩を、私は今、大きく踏み出そうとしていた。
それを支えてくれる人が居る。
私を待っていてくれている人が居る。
泣いている場合じゃない。
もう逃げない。
あの人からも、自分の気持ちからも。
「行きましょう。鳳翔さん」「行こう。鳳翔さん」
「えぇ!」
この先に、どんな結果が待っていようとも――。
――続く。
次回、最終回です。