「……っと、こんなもんか」
梅雨には珍しく、空は快晴であった。
それでも、梅雨特有のジメジメとした空気が体にまとわりついてきて、掃除に追われる俺は、玉のような汗をいくつも床に落としては拭いていた。
「そろそろ物置が来る頃だな……」
倉庫として使っていた部屋は、もうすっかり何もなくなっていた。
代わりに、居間には大量の物が積んである。
何もなくなったこの部屋は、鳳翔の部屋となる予定だ。
「ちわーっす、物置お持ちしましたー」
「お、来た来た」
立ち上がった拍子に、また一滴、汗が畳を叩いた。
「司令官」
「ん……」
目が覚めると、響が俺の顔を覗きこんでいた。
「こんな所で寝てたら、風邪をひくよ」
窓の外はすっかり夕方だった。
庭の物置に荷物を運んだあと、疲れてそのまま眠ってしまったようだった。
「物置、来たんだね。部屋も綺麗だ。大変だったでしょ?」
「ああ、しばらく掃除もしていなかったしな……。もうクタクタだよ……。労ってくれ」
「いい子だね、司令官。撫でてあげよう」
「……おし! 元気出た。夕飯も頑張って作るぞ。今日はハンバーグでも作るか。手伝ってくれるか?」
「うん!」
「こう?」
「そうだ。それで、空気を抜くように両手でキャッチボールするんだ」
いっぱしに説明しているが、ハンバーグを作るのは初めてだ。
ずっと、響と俺の二人で生活するものだと思っていたから、少しでも料理をと思い、本を買って勉強したのだ。
しかし、その知識を発揮できるのも今日が最後になるかもしれない。
明日、鳳翔がこの家に来るのだ。
一緒に住むために。
「一生懸命勉強したのだけれどな。こうして俺が料理をするのも、滅多になくなるのだろうな」
「そんな事ないよ。鳳翔さんが来たら、皆で一緒に料理をするんだ。きっと楽しいよ」
「俺が鳳翔の邪魔にならなきゃいいけどな」
「大丈夫だよ、司令官。どんなに駄目な人間でも、お皿を並べたりは出来るだろうし」
「料理には参加できないのだな……」
鳳翔と響が料理をしている姿が頭に浮かぶ。
その背中を見つめている俺の顔は微笑んでいる事だろう。
「司令官、なんだか嬉しそうだね」
「ん? そうか? そういうお前だって」
「そうかな?」
そう言ってお互いに笑いあった。
最近の響はよく笑う。
それが嬉しくて、俺も笑う。
もしここに鳳翔が居たら、あいつも笑ってくれるのかな。
「いただきます」
「いただきます」
ちょっと形は崩れたが、美味しそうなハンバーグが出来た。
俺の皿に並んでいるのは響が焼いたもので、響の皿に並んでいるのが俺のだ。
「司令官が作ってくれたハンバーグ、やっぱり大きいね」
「響が作ってくれたのは小さいな」
「手が小さくて……ごめんね。交換する?」
「いや、せっかくハートマークにしてもらったんだ。こっちを頂くよ」
俺の口が大きいのか、響の作ったハンバーグが小さいのか、一口で食べてしまった。
「うん、美味いよ」
「良かった……。愛情だけは、たくさん込めたんだ」
「そのようだな」
「司令官が作ったのも美味しいよ。愛情がこもってる」
「俺のは特大の愛情だからな」
「残さずいただくよ」
「無理すんなよ」
「大丈夫」
料理なんて面倒だと思っていたが、こういう笑顔が見れるんだ。
捨てたもんじゃない。
こういうのも含めて、料理はいいものだと言えるのだろうな。
鳳翔はそれも知っていたのだろうか。
食事を終え、一息ついていると、鳳翔から電話が来た。
『明日ですが、10時頃にそちらに着く予定です。引っ越しの業者さんは11時頃に着くそうなので、それまでにお部屋のお掃除を致します』
「もう済んでいるよ」
『え!? ご、ごめんなさい……。本来ならこちらがする事なのに……』
「なに、迎えるのはこちらなんだ。それくらいはさせてもらうさ」
『すみません……』
「……明日から、一緒に住むのだな」
受話器の向こうで、一瞬の静寂。
『……はい』
「響がなんだかはしゃいでいるよ。無論、俺もだがな」
『ふふふ、私もですよ』
「じゃあ、明日」
『えぇ、明日』
そう言って、電話を切ろうとしたが、電話の向こうでまだ、鳳翔が動けずにいるような気がして、もう一度受話器を耳にあてた。
『…………』
「明日からはずっと一緒なんだ。名残惜しいことはないだろう?」
『お見通しですね』
「お前が切るまで、俺も切らないぞ」
『……そうですよね。もう、怖いこともないんですよね』
「明日で待ってる」
『はい。すぐに行きます』
そう言って、鳳翔は電話を切った。
明日で待ってる……か。
我ながら気障な。
振り返ると、お風呂上がりの響がこちらを見ていた。
「司令官、今のはさすがに……恥ずかしいかな」
「……言うな」
翌日。
今日は朝から雨が降っていた。
「今日は学校休みたいな」
「何言ってるんだ。雨だからって」
「そうじゃないよ。鳳翔さんが来るから迎えてあげたいんだ」
「俺が代わりにやっておくよ。だから、早く準備しろ」
「じゃあ、これ」
そう言うと、響はクラッカーを渡してきた。
「これは?」
「クラッカーだよ。鳳翔さんが来たら、鳴らしてあげて」
「大げさだな……。誕生日でもなしに」
そんなやり取りをしていると、外から響を呼ぶ声がした。
「ほら、暁たち来たぞ」
「司令官、絶対鳴らしてね。絶対だよ」
「はいよ」
そう言うと、響は、合羽に身を包み、家を飛び出していった。
「クラッカーなんて、わざわざ買って来たのか、あいつ」
なんだか鳴らすのが勿体無い気がして来た。
10時に近づくと、なんだかそわそわして落ち着かなくなった。
鳳翔が来る。
俺の家に。
しかも、遊びに来るのではない。
一緒に住むのだ。
「掃除は済んでいるし……洗濯物も大丈夫……。クラッカーもオッケー……」
響を迎える時より緊張する。
あの頃は、響を守っていかなければという事だけを考えていた。
学校の手続きもあったし、緊張している暇なんてなかった。
「…………」
机の上の写真立てを手に取る。
この家に引っ越してきたときに、響と一緒に撮った写真だ。
お互いに、表情が硬い。
あれから比べたら、今はもっと――。
「ごめんください」
玄関の方から鳳翔の声がして、我に返った。
咄嗟にクラッカーを手に取り、玄関へ向かう。
「提――」
パンッ!
と、いう音と共に、紙テープが鳳翔を包んだ。
「あー……なんだ。ようこそ、我が家へ……?」
「うふふ、大げさですね」
「響がどうしてもってな……」
「――これからお世話になります。不束者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って、深々と頭を下げた。
「こちらこそ。よろしくな」
顔を上げた鳳翔の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「ここがお前の部屋だ」
「立派なお部屋ですね。本当に私一人で?」
「ああ、家族とは言え、プライベートな空間も必要だろ」
「お気遣い感謝します」
「そう硬くなるな。もっと気楽に行こう」
「分かりました。他にも、洗濯場やお台所を見てもいいですか?」
「案内するよ」
流石は鳳翔だ。
トイレだとかお風呂だとか、そう言うのではなく、洗濯場に台所と来たか。
家事はやる気満々だな。
一通り案内し終わり、引っ越し業者が来るまで待つことになった。
「家事も料理も、提督が一人でやってらしたんですね」
「響と俺の分だけだから、そんなに大したことはないがな」
「今度からは私が全部やりますので、ご安心を」
「心強いよ。鎮守府にいた時も、大分世話になったしな」
「また、あの頃のようにご一緒出来て、嬉しいです」
「俺もだ」
昔を懐かしむように、二人して窓の外を眺めた。
雨は段々と弱まって来ていて、午後には晴れるのではないかと思われた。
「引っ越しの作業が終わったら、外に買い物でもいくか。きっと、その頃には晴れて――」
言葉に詰まったのは、鳳翔が俺の手を握って、寄り添って来たのに驚いたからだった。
「鳳翔?」
鳳翔は何も言わなかった。
さっきよりも一層顔を赤らめて、澄んだ瞳が、俺の顔を映していた。
「鳳翔……」
「提督……」
お互いの息遣いが聞こえるくらい、顔が近付いていた。
「こんちわー! 引っ越し屋っすー!」
その声に驚いて、お互いにさっと離れた。
そして、何事もなかったかのように、鳳翔は玄関へと小走りで向かった。
俺は動けず、ただ鳳翔がいた場所をじっと見つめていた。
引っ越しは驚くほど簡単に終わった。
段ボール三箱に桐箪笥が一つ。
布団にちゃぶ台。
たったそれだけだった。
「それだけか」
「えぇ。色々捨ててしまったのですが、元々そんなに物は持たなかったので」
「にしてもだな……」
「それに……これから沢山、思い出が出来るでしょうし……。さっきの、このクラッカーだって、捨てられない思い出の一つです」
「なるほどな」
「この部屋が沢山の思い出で溢れてくれればいいなって、そう思います。ね、提督」
「ああ、そうだな」
荷のほどかれていない段ボールが、すっかり晴れた空からの陽を浴びていた。
その光景が、鎮守府に着任したての頃の執務室によく似ていた。
「提督からの最初の思い出……いただいてもいいですか……?」
そう言って、鳳翔は俺を見つめた。
俺にはその意味がすぐに分かった。
陽が当たって部屋が暑くなったせいか、鳳翔のうなじにじんわりと汗がにじんでいた。
「はぁ……はぁ……ただいま……」
走って来たのか、汗をだらだら流して響は帰って来た。
「鳳翔……はぁ……さん……っ……は……?」
「夕食を作ってるよ。それよりお前、早くお風呂に――」
俺の言葉を無視して、響は台所へと向かった。
「あ、おい」
「鳳翔さん!」
「あら、響ちゃん。お帰りなさい」
「た……ただいま!」
「こら響。早く風呂に入って来い。風邪ひくぞ」
「司令官、ちゃんとクラッカー鳴らしたかい?」
「鳴らしたよ。な、鳳翔」
「えぇ、嬉しかったわ。ありがとう、響ちゃん」
そう言って鳳翔は響を撫でてやった。
背中越しであったが、響の嬉しそうな顔が見えた気がした。
「お夕食の準備するから、その間にお風呂、済ましておきましょうね」
「うん、分かった」
響は素直にお風呂場へ向かった。
「全く……」
「喜んでくれているようで良かったです」
「あいつが一番楽しみにしていたからな」
「なんだか安心しました。私なんかが提督と響ちゃんの間に入って、邪魔じゃないかなって思ってたので……」
「むしろ歓迎してくれているさ。俺の方が邪魔になるかもしれないぞ」
「そうかもしれませんね」
「否定してくれよ……」
そう言うと、鳳翔はクスクスと笑った。
「ごめんなさい。なんだか楽しくて」
「はしゃぎすぎだ」
その笑顔を見て、俺もなんだか安心した。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
三人で囲む食卓は、なんだか新鮮だ。
響と二人で食事していた時とは違い、華やかに感じる。
料理がちゃんとしているせいもあるけれど。
「鳳翔さんのご飯はやっぱりおいしいな」
「ありがとう。あら、ご飯粒がほっぺについてるわ。慌てて食べないで大丈夫よ。沢山あるからね」
「うん」
このやり取りだけでお腹がいっぱいになりそうだ。
「提督も、たくさん食べてくださいね」
「絶対残しちゃ駄目だよ、司令官」
「分かってるよ」
なんだか響が鳳翔贔屓になっている気がする。
鳳翔に懐いてくれているのはいいことだが、なんだか寂しいぞ。
飯が済むと、響は鳳翔に夢中になっていた。
鳳翔の膝の上に座り、会話をしたり、一緒にテレビを見たりしていた。
俺は蚊帳の外だ。
しかし、久しく見る響のはしゃぐ姿を見ているだけで、俺は嬉しかったし、退屈しなかった。
しばらくすると、響が静かになった。
鳳翔の膝の上で、ぼーっとテレビを見ていた。
「響ちゃん、眠いのかな?」
「ううん……大丈夫……」
鳳翔が俺の方をちらっと見た。
「響、歯を磨いてもう寝ろ。明日も学校あるんだから」
「まだ大丈夫だよ……。もうちょっと起きてる……。もうちょっと鳳翔さんとお話しする……」
そう言って、響は鳳翔の方を見た。
「明日もお話し出来るから、今日はもう寝ましょうね。大丈夫、私はどこにも行かないから。私と響ちゃんは、もう家族でしょう?」
「家族……。うん、そうだね。家族だ」
「じゃあ、歯を磨きに行きましょうね」
「うん」
「ちょっと行ってきますね」
「ああ、頼む」
「お休み、司令官」
「ああ、お休み」
さすが鳳翔だ。
やはり、女性にしかできない説得方法はあるのだな。
これから響が大きくなった時、俺一人じゃ解決出来ない事も出てくるだろう。
俺は父として、鳳翔は母として。
お互い、どちらかにしか出来ない事がたくさん起こるだろう。
それを共に乗り越えてゆくのが家族というものなのかもしれない。
「ただなぁ……」
俺に出来たことを鳳翔に取られてしまうってのは、なんと言うか――。
テレビの笑い声が、俺の心に寂しく響いた。
「響ちゃん、寝ちゃいましたよ」
鳳翔が静かに居間へと戻って来た。
「すまないな。あいつ、相当はしゃいでて……」
「いえ、私も嬉しくて、ちょっとはしゃいじゃいました」
「そうか」
「いいものですね。こうして一緒に暮らして、笑いあえるって言うのは。この時間は、いつも一人でしたから……」
「やはり寂しいものなのか?」
「一人暮らしも、半年もすれば慣れて、寂しくは無くなるんです。ですが、提督と再会してからは……」
俺は、鳳翔が一人で家にいる姿を思った。
桐箪笥とちゃぶ台、少しの小物に囲まれて、寂しく窓の外を見つめる、鳳翔の姿を。
「まさか、一緒に住むなんて……夢みたいです……」
本当にそう思っているのか、鳳翔は恥ずかしそうに俯いた。
「本当に夢かもしれないぞ」
「いじわる言わないでください」
「そりゃ意地悪もしたくなるさ。俺の響を独り占めしやがって」
「提督には私がいるからいいじゃないですか」
そう言うと俺が動揺するのを知っているのか、鳳翔は意地悪そうに笑った。
「ったく……」
「ふふふ」
鳳翔はそっと、俺の肩に頭を預けた。
「私、幸せですよ、提督」
「これからもっと幸せになるさ。三人で沢山の思い出を作ろう。これ以上ないってくらいに幸せな思い出を」
そう言って、昼間よりも優しく、口づけを交わした。
――続く。