目が覚めると、目の前に響の顔があった。
「うお!?」
「おはよう司令官」
「おはよう響。どうした? こんな朝早くに……」
「司令官がいつ起きるか見ていたんだ」
「なんだそりゃ……。って、これは……」
周りを見てみると、皆が雑魚寝していた。
「そうか……昨日、あんだけ騒いだ後、寝ちまったのか……」
「そのようだね。私はすぐに部屋で寝ちゃったけれど」
「こりゃ、起こさない方がいいな。顔洗ってくる。そしたら、食堂で飯でも食いに行くか」
「うん」
戦時中も、度々宴会はあったものの、こんなにもだらしなくしたことはなかった。
次の日にはシャキッと演習もこなしていたこいつ等も、今回ばかりは……。
「ま、もう戦時中ではないしな」
ただ、女の子なんだから、謹みは持ってほしいぞ。
鎮守府同窓会二日目の朝は、とても静かだった。
食堂には、俺ら以外に誰もいない。
朝食はバイキング方式になっていて、和洋中が混在している。
「みんな、まだ起きてこないね。鳳翔さんもぐっすりだ」
「あいつ、昨日は相当飲んでいたみたいだし、しばらくは起きてこないだろう」
「なら、今日は司令官を独り占めだ」
「いつも独り占めだろ」
「ここ(鎮守府)では貴重だよ。司令官と二人っきりになれるのは」
「だとすれば、お前と二人っきりになるのも貴重だな。いつもあいつら(第六駆逐隊)と一緒だったから」
「だね」
そう言うと、響はニッコリと笑った。
思えば、この鎮守府で響のこういった笑顔を見れるのは、それこそ貴重かもしれない。
「あんな無表情だった奴がな……」
「ん、なんだい?」
「いや。食後はちょっと散歩でもするか。行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ? どこだろう?」
「多分、お前も知らないところだ」
朝食を済ませ、響と鎮守府を出た。
海岸とは逆の方を歩いて行くと、俺の腰ほどまでに生い茂った雑草が広がっており、目を凝らすと小さな道が見て取れる。
「司令官」
小さな道へ入ろうとすると、響が手を出してきた。
「なんだ?」
「手、繋いでいこう。はぐれないように」
「――そうだな」
そう言って、手を繋いでやる。
小さな道は一本道だ。
はぐれる事はない。
それは響も承知の上だろう。
「司令官?」
「ん、何でもない。行くか」
「うん」
もし、俺がその事を言ったら、響はどんな顔をするだろう。
一瞬、見てみたいなと思ったが、そんな意地悪は出来なかった。
何よりも、響が一番、この時間を楽しんでいるようだったからだ。
一本道を進んでゆくと、段々と傾斜が出てきて、登っている事に気が付く。
周りには木々が生い茂り始めていて、その隙間からは、海岸が見える。
登ってゆくに連れて、それらは小さくなっていった。
「司令官、鎮守府が見えるよ。だいぶ登って来たんだね」
「ああ」
響の手の平が汗ばんできている。
木陰を歩いているとは言え、蒸し暑い事に変わりはない。
土のにおいが、辺り一面に立ち込めている。
妙な湿り気と共に。
「大丈夫か?」
「平気だよ。それよりも、司令官の方が心配だな。昨日、お酒を飲んだんでしょ?」
「ちょっとだ。それに、俺は大人だぞ。お前よりも体力はあるつもりだ」
「じゃあ、走ろう。よーい、どん!」
そう言うと、響は走り出した。
「な……! ちょ……!」
「司令官、早く!」
元気だな。
俺が心配性なだけだったか。
――と言うか、はしゃぎ過ぎているくらいだ。
先にゴールしたのは響だった。
遅れて俺もゴール。
「はぁ……はぁ……」
「司令官、だらしないよ。大人なのに」
「お前が元気すぎるんだよ……」
「それよりも、ここは?」
「ここは鎮守府近くの丘の上だよ」
「そんな遠くまで来てたんだ。鎮守府から見たことはあるけれど、登ったのは初めてだ」
「思ったよりも近いだろ。俺はよくここでさぼってたんだ」
「時々、司令官が居なくなるのはこういう事だったんだね」
「ここで寝ると気持ちいいし、何よりも、誰にも邪魔されないんだ」
「眺めもいいね。潮風が気持ちいいよ」
響の髪が、風で揺れると、汗ばんだ首元がちらりと見えた。
「まだこれからだってのに、もう汗かいてるじゃねぇか。拭いてやるよ」
ハンカチで響の汗を拭いてやる。
「くすぐったいよ」
「我慢しろ」
自分で拭けるだろうから、ハンカチを渡してやればいいものの、拭いてやりたくなるのは何故だろう。
さっき、こいつが手を繋ぎたがった理由と同じなのかもしれない。
「じゃあ、私は司令官の汗を拭いてあげるよ」
「頼む」
全く、こんな朝早くに丘に登って、何をやっているのだろう。
そんな馬鹿馬鹿しさが、何だか貴重で、価値のあるものに思える自分が居た。
しばらく芝生の上に座り込んで、無限に広がる海を二人してぼうっと眺めていた。
「ここはいいね。なんだか落ち着く」
「嫌なこととかあった日は、ここによく来ていた。何も考えないで居ると、嫌なことも忘れちまうんだ」
「嫌な事か……」
何やら意味ありげな含みを持たせたまま、響は黙ってしまった。
その瞳に映る空と海の向こうに、何を思っているのだろう。
「司令官は、どうして私を引き取ってくれたの……?」
「え?」
「いくら司令官だったとは言え、戦後まで私の面倒を見てくれるのは、どうしてだろうって……。施設に送ることだってできたんでしょう? 最近、学校の先生から聞いたんだ……」
「施設に送ってほしかったか?」
「そうじゃない! ただ……」
「別に大した理由はないさ。俺が響の両親を見つけるまで、一緒に居れたらって思っただけだ」
「どうしてそこまで私に……?」
「俺にも分からん。ただ、そう思ったのなら、そのようにするだけだ。俺はいつだってそうして来た。鳳翔に一緒に住もうって言ったのだって、深い理由なんてない。俺がそうしたいからそう言ったまでだ」
「…………」
「お前はどうなんだ? 無理やり俺に連れてかれて、一緒に暮らしてさ。施設に行けると分かった今、どうする?」
「施設に行こうかなって、その時は思った。このまま親が見つからなかったら、私は司令官に迷惑をかけ続ける事になるから……」
「…………」
「でも……本音は、ずっと一緒に居たいって思ってるよ。親が見つかっても、ずっと一緒に居たいって……」
「俺もだよ」
けれど、本当に親が見つかった時、響の反応は変わるだろう。
「司令官……」
響は、そっと俺に寄り添った。
今が一番幸せ。
そう鳳翔は言った。
俺もそう思ったし、響もそう思っただろう。
そう、今、なのだ。
今だけなのだ。
「もう少し、こうしているか」
「――うん」
海の向こうに何があるか分からないように、俺たちの未来も、まだ分からないままだ。
しばらくして鎮守府に戻ると、今朝の静けさが嘘のように、空気がざわついていた。
「あ、提督! どこに行かれていたのですか!?」
鳳翔が小走りで向かって来た。
「散歩だ。響も一緒にな」
「そうだったのですか……」
ほっとした顔を見る限り、ずっと俺達を探していたのだろう。
「心配をかけたようだな。声をかけてからにしようかと思ったのだが、気持ちよさそうに眠っていたのでな」
「あんなに気持ちよさそうに眠る鳳翔さん、初めて見たよ」
「やだ……恥ずかしい……。昨日はすみませんでした……」
「いや、羽を伸ばせているようで安心した」
鳳翔は少し照れた後、はっとしたように顔をあげた。
「そ、それよりも、大変なんです! 瑞鶴さんと加賀さんが!」
現場に駆けつけると、瑞鶴が今にも泣きそうな顔で加賀に何か叫んでいた。
「瑞鶴、加賀、お前らどうした!?」
「提督さん……」
「提督……」
「喧嘩か……? 何が原因だ?」
そう聞いた時、瑞鶴は堪えていたであろう涙があふれ出して、そのまま廊下を駆けていった。
「瑞鶴!」
追いかけようとしたが、今は事情を把握したほうがよさそうだと判断し、加賀の方へと向いた。
相変わらずのポーカーフェイスであったが、目は伏せられていた。
「とりあえず、執務室へ来い……」
「はい……」
集まっていた艦娘達を解散させ、加賀を執務室へといれた。
廊下では心配そうに赤城が待っていたようだが、鳳翔に連れられて、去っていった。
「お前、戦時中はよくMVP取って、この部屋を訪れていたのにな……」
「申し訳ございません……」
「俺はもうお前らの提督ではないから、説教するつもりはないが……事情を聞かせてはくれないか?」
「全て私が悪いのです。私の責任です」
「そういうことを聞いているのではなくてだな……」
瑞鶴と加賀の喧嘩は今に始まったことではない。
だが、ここまで大事になったことはない。
ましてや、あの瑞鶴が泣くまでとは……。
「経緯を説明してくれと言っているのだ。誰が悪いかなどとは聞いていない」
「…………」
加賀は黙ったまま床を見つめた。
何か言いたくない事でもあるのだろうか。
「お前が言えないのなら、瑞鶴に聞くぞ」
「……分かりました。説明します」
加賀が言うにはこうだ。
瑞鶴が、季節外れのマフラーを編んでいたのを見て、加賀が「備えるのが早すぎる」と言ったのが始まりらしい。
最初は良かったのだが、「下手」だの「間違っている」だの「色のセンスが悪い」だの、いつもの調子で加賀が茶化したところで、瑞鶴がキレたようだ。
つまり、しょうもない喧嘩であるらしかった。
「だから、言いたくなかったのです……」
「確かにな。しかし、それは瑞鶴も同じはずだ。一年経っているとは言え、しょうもない喧嘩はいつもの事だっただろう。もっと何かあるのではないか?」
「いえ……私も心当たりがないのです……。いつもの調子だったので……」
「ふむ……」
こりゃ、瑞鶴にも聞いた方がいいな。
加賀はそんなつもりなくても、瑞鶴には何か引っかかるポイントがあったのだろう。
「事情は分かった。もういいぞ」
「ご迷惑をおかけしました……。失礼します」
そう言って、加賀は部屋を後にした。
2泊3日の2日目という、一番時間があるこの日に、なんだか変な空気が流れている。
元とはいえ、俺は提督であったのだ。
この空気を何とかしなければなるまい。
色んな奴から聞いて、瑞鶴の居場所が分かったのは、事件から一時間ほどたった後だった。
「やっと見つけたぞ」
瑞鶴は堤防の上で黄昏ていた。
「提督さん……」
泣いていたのか、目の下が真っ赤だった。
「何? 説教しに来たの……?」
「そうじゃない。説教なんてする立場ではないからな」
「……聞いたの? 喧嘩の理由……」
「ああ」
「どう思った……?」
「しょうもないと思ったよ。いつもの事だって」
「…………」
「ただ、お前の怒りようがいつもと違うから、何かあるのだと思ってな。しょうもなくない、特別な理由がさ」
瑞鶴は膝を抱えて、そこに顔をうずめた。
「俺で良ければ、聞かせてくれないか? 怒った理由」
「……うん」
波は比較的穏やかだった。
テトラポットには、何匹ものフナ虫がくっついていて、それを狙っているのか、猫が別のテトラポットから身を潜めていた。
「昔ね……」
膝を抱え、遠い水平線を眺めながら、瑞鶴は口を開いた。
「冬の時期の出撃に、加賀さんと一緒になった事があったの。風が冷たくて、曇っていたから、凄く寒かった。出来る防寒と言えば、マフラーくらいだった。でも、海にマフラーを落としてしまって……」
そこまで聞いて、なんとなく状況がつかめてきた。
「凍えていたら、加賀さんが自分のマフラーを渡してくれたの。寒さに強いのかなって思った。でも、昨日の宴会で気が付いたの。クーラーが効いていたでしょ? 凄く寒そうにしてたの。後で赤城さんに聞いたら、加賀さんは誰よりも寒さに弱いんだって……」
確かに、加賀は誰よりも寒さに弱くて、時折、暖房の効いた執務室に入り浸っていたこともあった。
「それなのに、私にマフラーを渡してくれたんだって。思えば、加賀さんって、小うるさくはあったけれど、それだけ私の事を心配してくれてたのかなって……」
「どうでもいい奴や、嫌いな奴の事をうるさくは言わないからな」
「だから、お礼を込めて、あの時と同じようにマフラーでお返ししようかなって思ったの。でも、難しいね。一日でできるものだと思ってたけれど、何日もかかりそう。ましてや、下手で、間違っていて、色のセンスも悪いって……」
これから渡す人にそんなこと言われたら、俺も悲しくなるかもしれない。
「提督さんに言われて、自分らしくやってみたけれど、余計なお世話だったみたい。失敗を学んだ。いい勉強になったわ」
「そう言うのは、失敗って言っちゃいけないんじゃないか?」
「え……?」
「確かに、下手で、間違っていて、色のセンスは悪かったかもしれない。けれど、それはマフラーに対してだろう? お前の気持ちに対してじゃない」
「私の気持ち……?」
「お前が加賀に感謝している気持ちだよ。マフラーは時間がかかるかもしれないけれど、その気持ちを伝えるのはすぐにできるだろう」
遠くでウミネコが鳴いた。
テトラポットにいた猫は、もういなかった。
「お前の気持ちを伝えて来い。マフラーはその後でもいいだろ」
「――そうだよね。うん、そうだよ。まずはお礼を言わないとね」
「そうと決まれば、行って来い。後、ちゃんと仲直りして来い」
「うん! あ、提督さん……あの……」
「?」
「一緒に……来てくれる……?」
「ああ」
「――ありがとう、提督さん」
鎮守府に戻ると、加賀が入口で待っていた。
「加賀さん……」
「…………」
どちらも目を伏せたまま、黙ってしまった。
「瑞鶴」
声をかけてやると、瑞鶴は俺を見た後、小さくうなずいた。
「加賀さん……あの……」
「ごめんなさい……」
謝ったのは加賀だった。
「私……貴女と久しぶりに会って、凄く嬉しかった……。元気そうで安心した……。話しかけようと思ったのだけれど、恥ずかしくて……。だから、いつもの調子であんな事を言ってしまったの……ごめんなさい……」
加賀の謝る姿は、先ほど執務室で見せたものよりも、気持ちがこもっていた。
何よりも、声と表情が、それを物語っていた。
「瑞――」
瑞鶴の方を見ると、大粒の涙を流していた。
「違うの……っ……そうじゃないの……」
瑞鶴は嗚咽しながら、俺に話したのと同じように、怒ってしまった理由を説明した。
加賀はそれを静かに聞いていた。
「だから……私は……私は……」
そこまで言い終えると同時に、加賀が瑞鶴を抱きしめた。
その目には、うっすらと涙が溜まっていた。
「本当……私たちは不器用ね……」
「加賀さん……」
やれやれといった感じで、俺は静かにその場を後にした。
木陰で心配そうに見つめていた赤城と翔鶴と一緒に。
その夜も大広間で宴会が行われていた。
明日にはここを離れる。
なんだか悲しい気もするが、またこうして集まれると思うと、安心できた。
「失礼します」
執務室に入って来たのは瑞鶴だった。
「おう。宴会はどうした?」
「提督さんにお礼が言いたくて、抜けてきた」
「別にお礼されることなんてしてないさ」
「でも言わせて。提督さん、ありがとう。私、加賀さんと仲良くなれたんだ。連絡先も交換したわ」
「そりゃ良かったな」
瑞鶴はニッと笑った。
「お前は笑っていた方がいいよ」
「泣いてた顔も可愛いと思わなかった?」
「思ったよ」
「わー、変態さんだ」
「なんでだよ……」
「にひひ」
瑞鶴らしさ。
それは、素直な所だろう。
どんなに取繕うとも、自分の気持ちに嘘はつかない。
加賀も、そこに気が付いていたから、気にかけていたのだろう。
「加賀さんもお礼を言いたいんだって。行こう? 提督さん」
「ああ、分かったよ」
俺が居なくても、こいつは加賀と仲良くやって行けただろう。
どんなに時間がかかったとしても。
それほどに、お互いを想う力は強いものだった。
3日目はあってないようなもので、皆朝早くに荷物をまとめて帰っていった。
別れを惜しむ暇もなく、あっという間に鎮守府は空になった。
「俺たちも帰るか」
「帰るまでが遠足だものね!」
「ちょっと寂しいのです」
「あ、暁は……寂しくない……寂しくないんだから……!」
「また会えるから大丈夫だよ。そうだよね、司令官」
「ああ」
バックミラーに映る鎮守府がどんどん小さくなってゆき、やがて見えなくなった。
その夜。
響と鳳翔が一緒に風呂に入っている頃、一本の電話が入った。
海軍からだった。
「鎮守府同窓会の件、お世話になりました」
『いや、どうってことないさ。それよりも、響の親の件だが、新しい情報が入った』
「本当ですか!?」
『ああ。まだ定かではないがな』
「……その情報とは?」
『実は――』
――続く。