ロト一族はそれぞれの仕事に戻り、アロンドは内海を一周した船と共に、ムーンペタに船ごとルーラで戻ってハミマを送り返し、また多くの交易で富を得、ムーンペタの有力者とも歓談し絆を深める。
ハミマがムーンブルク王宮の愚かしさを語るのに、父親のヤフマを含めムーンペタの人々は大笑いしていた。
またベラヌールの冒険と、その解放も大きいニュース。アロンドはベラヌールの新しい指導者たちへの紹介状を何通も書かされた。それを通じてムーンペタも少しでも貿易網を広げたいのだ。
ひとしきり休み、久々に大灯台の島に帰る。
「さて、次は」と海図を広げ、デルコンダル南方の、小さな島を指差す。
「ザハンですね」
「小さいが、大きな神殿があるそうだ。もっと早く挨拶に行くべきだったよ」
アレフガルド南西、虹の雫を作り出したほこらに隠された旅の扉から、炎のほこらと呼ばれる、火が燃え続けているほこらにも行く。そこもこだまは返らない。
そこからつながっている、ルプガナ北のほこらに一度行って山彦の笛を吹いたが、やはりこだまは返らなかった。
炎のほこらはアレフガルド・ベラヌール・ルプガナを結ぶ重要な旅の扉で、近くに〈ロトの民〉の祖先が流されていた鬼ヶ島と呼ばれる島があるのでアロンドたちにも縁は深い。
炎のほこらがある島そのものも豊かだ。
ロンダルキアから伸び、ペルポイを中心とする大きな半島の、その先端近くから大小いくつかの島がある。ペルポイ領である大きな島、その南の世界樹の島、小さな検疫島、炎のほこらの島、鬼ヶ島と並んでいる。
鬼ヶ島と呼ばれる、ほこらの北東の島は、かつては周囲から追放された病人が何の希望もなく人を襲わぬ魔物と生き延び、時に虐殺されるこの世の地獄だった。
だが勇者ロト、ミカエラら四人が病人を癒し、虐殺を依頼したペルポイの豪商を懲らしめて、適切な治療と検疫で病人と共存できるようにしたため、今はその豊かな地下資源や農業生産をペルポイやベラヌールと交易することも多い。漁業の島でもあり、発酵させた魚の保存食が人気だ。
大灯台の島ともルーラで行き来しており、〈ロトの民〉のうち三千人ほどはこちらで暮らしている。
その島の港にルーラで船を呼び出し、出航した。
近くにある世界樹の島に上陸する。水平線に緑の巨木が高くそびえるさまは壮観で、そしてロト一族以外には封じられている結界を抜けると、世界樹は豊かな葉を揺らし歌った。
いつしか来ていた瓜生が、静かに歌う。ここは昔、瓜生がミカエラたちと別れて故郷に戻った、その場だ。
別の世界で王位につき、今〈上の世界〉に行ってもこの世の人でないであろうミカエラとラファエル。そして世界樹と、この世界を形成する脈と一体化し、人の身を脱いだガブリエラ。三人への思いが、歌となって響く。
アロンドたちはひとしきりあわせて歌い、歌と涙を止められぬ瓜生を置いて出航した。
広い広い大洋だが、高い航海技術を持つ〈ロトの子孫〉と瓜生の出した頑丈な船体は外洋の荒波もやすやすと乗り切る。
近くにはペルポイ領であるかなり大きい島もあり、そことも交易して品を仕入れておく。
ペルポイ周辺の、蔓豆の蔓を使った黄色い布は着心地がいい。芋のように食べられる根もおいしい。元・鬼ヶ島でも作ってはいる。
それから、海をザハンに向かう。
危険な海の魔物も出るが、FRP船体と重機関銃は、魔物も寄せつけない。
魔王が支配していない今の〈下の世界〉では、魔物もせいぜい普通の獣程度の危険性だ。
広い海を、リズムよく過ごす旅。ローラも船旅に慣れ、そのせいか第二子の妊娠が確定診断された。
それ以来、小魚・ドライフルーツ・ナッツ類を中心に充分な栄養をとり、定期的に健診もするようになる。
また、アロンドは瓜生にもらった多くの本を読み、問題集を学びなおすことも始めた。
ヒトラーの蔵書だった本も多いし、また瓜生の時代に編まれた人物辞典も、長いこと読んでいる。夢で経験した生涯で関わった、多くの人のその後を知りたい、と瓜生に訴えた。
気分転換に、さまざまな入試問題にも取り組んでいた。
そしてマストに登っていた、回復したサデルの息子が、「ランド・ホー!」と絶叫した。
大きな教会の尖塔が目立つザハンと、その隣の島の古いほこら。
どちらも島は小さく、町並みは古い。周囲に島影のない孤立した島だ。
ロトの旗を掲げた船に、港の人々は大喜びだ。アレフガルドの旗ももちろんあるが。
島に近づくにつれて、その海の豊かさがはっきり分かる。島そのものは小さいが周囲に広い海底地形があり、それが豊かな海藻に満ち溢れ、無数の魚が群れ泳いでいる。
その魚を狙う首長竜が、次々と長い首を空に浮かべる。
無反動砲で照明弾を放ってそちらを追わせ、その隙に港につける。
最果ての島だが、ロトの旗を見ると村人は大喜びで、もやいを受け取りに飛び出してきた。
よく整備された港に船を着け、アロンドとローラ、息子のローレルが先頭に立って船を下りる。
「ロトのみなさん!」老人が大喜びで歓迎する。
ザハンはかつて、ゾーマの時代にアレフガルド外を荒らしていた邪神教団の海賊の拠点として、長く心を奪われた奴隷として悲惨に過ごしていた。それをミカエラや瓜生が海賊を滅ぼし、ルビスの恵みにより島の人々に心を取り戻させた。
「〈竜王殺し〉勇者アロンド。妻のローラ、アレフガルドの王女。長男のローレル。以後よろしく」
「ゾーマの予言どおり、アレフガルドがまたも闇に閉ざされたと聞いていました。しかしロトの血脈があれば、闇は必ず払えると信じておりました」
「心配をかけたな」と、年かさの〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉が、日焼けした老人たちと楽しそうに話す。旧知だ。
「王座を譲られかけて、自分の国は自分で探すと旅に出た。そして、紋章を探すよう予言された」とアロンドは言うと、山彦の笛を吹く。
静かな響きが海空に広がり、そして海全体がこだまを返してきた。何度も、豊かに深く、遠くから。
「こちらに、あるようだ」と、村と、不釣合いに大きな神殿を見る。
「どうぞ、おいでください」と、老いた女がいつしか来ていた。
小さい村だが、魚とその塩漬けの匂いがただよい、無数のイカや魚が広げられ干されている仕事場は広い。
その奥に大きな、バリア床で装飾された神殿が建っている。
島の内部に入ろうとしたとたん、長い年月で島そのものと一体化した結界に気がつく。百数十年前、瓜生とガブリエラがミカエラの力を借りてかけたマホカトールだ。
「この島で、神殿を守り神に祈り、正気で自分の心で生きることができるのも、すべて勇者ロト様のおかげです」と、島の人々が口々に言う。
「それを成したのは勇者ロトとその仲間四人、私たちはその遺産を受け継いでいるだけです」とアロンドは笑いかけ、神殿に向かう。
その姿に人々が安心する。
「神殿はこちらです」
と、広場の奥の、結界に守られた広い建物が見える。
「こちらに、精霊ルビスさまより伝えられた、紋章がありますね。それを集めるよう予言されました」アロンドの目に、神官がひざまずく。
「どうか、行ってお取りください」と、神殿を手で示す。
生身で入れば一歩ごとに重傷を負い、常人なら三歩で死にいたる結界。だが、アロンドが手を高く差し上げ、普通の言葉でも呪文でもない言葉を唱えると、アロンドの目の前にルーラと同じように光と化して飛来する。
「光の鎧」「ロトの鎧」と、口々に言葉が交わされる。
ラピスラズリ・ブルーの神聖金属でできた、頭以外を覆う板金鎧。それは、まるで自らの意志があるように分解され、瞬時にアロンドの体を包む。
「一度認められてしまえば、ロトの装備は私の心身の一部になるようだな」アロンドは軽く微笑み、無造作に結界に踏み入った。
何のダメージもなく入っていくと、その神殿は奥が二つに分かれている。
アロンドが静かに祈る。すると、何かの声が聞こえた気がして、地面を探るとそこには太い、ロトの鎧と同じく青い金属の輪があった。
それを引くと、重いがわずかに動く。それに渾身の力で踏ん張ると、石板がわずかずつずれていく。石板は想像以上に大きい、中型自動車ぐらいはある。
常人には到底無理だ。勇者ロト、ミカエラの夫、アリアハン王国の王族であるラファエルから代々継いだ大力に、喰らってきた竜王を含む多くの魔神たちの力がある。
「おおおおおおおおおっ!」
叫びと共に岩を転がすと、そこには深い、暗い階段があった。
アロンドは瓜生に習った光の呪文を唱えると、階段に踏み入っていく。
深い洞窟、かがまなければ潜れない高さがしばらく続き、部屋のような場になる。つんと、海水の匂いが強まる。
見回すと、そこはちょうど舞台を四畳半ほどにしたようだった。客席のかわりに、深い海水。天井も低い。
壁に小さな棚が刻まれ、そこには太目の糸が長く長くわがねられ、その一端には錘と釣針がついていた。
それを手にしたアロンドが、糸の針のないほうの端を手首に結び、錘を水に投じた。
長い糸が、みるみるうちに消えていく。恐ろしい深さだ。
突然、光の呪文がかききえ真の闇となる。
アロンドは背の銃についていたフラッシュライトを点けてみるが、それも消える。雷神剣の稲妻も光を放たない。
真の闇。
その中、アロンドはただ座って、糸を握っていた。
常に身につける、一日分の水・蜂蜜・梅干・多量の油を含むアブラマツの実・味噌を塗って焼いた握り飯。
(手を伸ばすのは、ぎりぎりまで耐えてからだ)
下りる前に、たっぷり食事は済ませている。
完全な闇では、目の前の水が怖くなる。
(気がついたら飛びこんでしまわないか。眠ってしまい、寝返りで落ちるのではないか。大きい魚がかかって、引きずりこまれるのではないか)
なんともいえない恐怖が、じわりと全身を浸す。
「恐怖を恥じるな。行動できなくなることを恥じろ」そう、自分に言い聞かせる。
「私は」ふと、気がつく。
(こうして、一人になること自体が久しぶりだな)
(ずっと、忙しかった)
(船旅の間も、本を読んだり、人と話したりしてばかりだった)
(それも好きだ。でも、こうして一人でいるのも好きだ)(一人で旅をしていた頃もあった)
目を閉じ、手の糸の感触だけを感じている。とめどなく、言葉が脳裏を回る。
(アドルフ・ヒトラー。ナチスドイツ)(もうどれほど前になるのか、ガライの墓)(長い長い夢幻)
(ウリエルの故郷の、過去にいた独裁者)(一つ間違えれば、私もそうなる、先に失敗を経験させてくれた)
生々しい記憶が、次々に夢となり脳裏を巡る。
(ドイツの栄光。ゲルマンの純潔)(ベルサイユ体制を打破せよ、共産主義者どもとユダヤ人からドイツを)
今の闇とは比較にならない恐怖に、絶叫する。
自分の目、アドルフ・ヒトラーの目で見た書類の中での、何千、何万、何十万、何百万の名前。
そして、以前の経験や瓜生の話、そして映像でも、ホロコーストを見て、知ってしまっている。
「本当に、人間が、人間があんなことをしたのだ。人間が、人間が、人間が!私がああああああっ!」
絶叫が自然にライデインの呪文となるが、それも光を放たない。
(もしや、私は目が見えなくなったのか?)
それもまた、激しい恐怖になり、地面を手で探り、すぐ前の奈落に触れて、体が反応するのを抑える。
「幻覚だ」
「ジジ。彼女がいれば、何事も真実ではない。それと同じだ」
「***(《クール》冒頭部)……」小さい頃から、血に狂わないよう怖ければ落ち着け、と教えられてきた、『ウェストサイド物語』の歌。瓜生が昔ガライに渡した音源。瓜生が再び来てから、船旅で、DVDで見た。
(なんだ、結構暇はあったじゃないか。本を読んだり、DVDを観たり、数学を学んだり)
苦笑し、静かに呼吸を整えて、また糸に集中する。
深い、柔らかい呼吸。体がしびれないよう、少しずつ動く。縁との位置関係を確認しながら。
どれほど時が経ったろう。二度、水を飲んだ。一度、鎧を外して手探りで少し移動し、水に直接大小用をした。
(日が暮れてないかもしれない。この状態ではすぐ狂うんだったな。自分が誰か、今が何時かわからなくなるのは当然だと思え)
そう、自分に言い聞かせながら、じっと糸と、自分自身と……そして、ガライの墓で見せられた、別の記憶と。
魔物たちとの戦いも思い出す。圧倒的な恐怖。竜王を倒してからの、短いのか長いのかわからない旅。
出合った多くの人たちがぶつけてくる、膨大な欲。恐怖。自尊心。
(まったく……)
なんとなくばかばかしくなり、小さな竹筒に入れた蜂蜜をなめる。と、糸が引いた気がした。
軽く、糸の具合を見てみる。
「そうそう、ドムドーラではやったことがなかったが、〈ロトの子孫〉に加わってから、隠れ里の水路や、船の訓練の合間に時々釣りをしたっけ」
独り言をつぶやく、その時に突然強い引きがきた。
とっさに、自分の体の角度、壇と水面の位置関係を手探りで確認し、強く糸を引く。
「《クール》、うおっと」
崩れかける体を立て直し、両手で糸をたぐっていく。
長い長い糸。強い引きが、一気に引いた、と思ったら消える。糸をたぐり続けるが、反応がない。
「切れたか?」
そう思いながら、ゆっくりとたぐり続けている……それも、どれだけやったか思い出せなくなる頃。
突然、強烈な引きが来た。
「うわあっ!」
悲鳴が上がる。腰まで、縁を越えて水にひきずりこまれそうになる。右手の爪が床である岩肌にくいこみ、一瞬ではがれる。
もう一度、激しくかいた右手が岩肌にひっかかり、引きが止まった一瞬に体を引き上げ、足を突っ張った。
激しい痛みが右腕を走る。そして恐怖を、呼吸で抑えこむ。深く吸い、絶叫する。
「ああああああああああああああああああああっ!」
それから、足でぱたぱたと叩き、さぐる。自分が、縁から身を半ば乗り出し、左腕は水面下にあることがわかる。
「《クール》……」指が何かにぶつかり激しい痛み。
「ホイミ」爪を癒し、また自分の体勢を確認する。
左腕は、強く引かれ続けている。
なんとか自分の体勢を整えると、両手で少しずつ、焦らずに糸をたぐり続けた。
強い引き。時に静かになり、爆発的に引く。
だが、もうアロンドの呼吸は整っている。しっかり座り、縁を足で確保している。
ゆっくり呼吸をしながら、ひとたぐりひとたぐり。
そして、気がついた時には、光が洞窟を満たしていた。
床には、1mほどもある美しい鯛に似た、金色の魚が跳ねていた。
「まったく」と、アロンドは魚をぶらさげ、鎧をつけなおし、銃を拾って、洞窟に戻る。
長い洞窟を登っていると、体がかなり疲れているのが分かる。
そして、出ると、真夜中だった。
美しい星空がきらめいている。
「あなた!」「ちー」
愛する家族の声。
アロンドは魚をぶらさげたまま走り、ローラとローレルを固く抱きしめた。
「どれほど、どれほど」ローラが涙をこらえながら、アロンドを抱きしめる。
「心配をかけた」と、小さい息子を高く抱き上げる。
ローレルは、その手の魚に気がついて、それに抱きつき、びっくりしたように何か叫んだ。
「魚」アロンドが笑いかける。
「釣りを、してきたんですね」と、ローラが笑い転げた。涙が出るほど。
「さあ、料理するか」とアロンドが笑って、神殿にあった、よく見れば分かるまな板台に魚を乗せる。
女神官がうやうやしく渡した、黒曜石の刃でその腹を割くと、命の紋章が出てきた。
「ついでに、この魚も捧げて、そして皆で食べましょう」
アロンドが静かに祈り、素晴らしく美味な魚を妻や子、神官たちや、ザハンの民と分け合った。
それから、アロンドたちは隣の小さい島に渡った。造船場と、小さなほこらがある。
その造船場では木造船が作られているが、その島、ザハン本島を合わせても、そんな木材があるはずはない。
ほこらに入ると、旅の扉があった。
「この扉は、あの大陸につながっています」
その言葉に、アロンドの体に説明できぬ戦慄が走る。
山彦の笛を口に当てる動作も震えている……音色は変わらず、響かずに消えた。
それを確認するのももどかしく、アロンドは旅の扉に飛びこんだ。
そこは、小さな木造の小屋の中だった。
飛び出すと、そこには広大な野が拡がり、たくさんの切り倒された木が加工されていた。野のところどころには果樹も植えられており、耕されているところも多くある。
すぐ近くを広い川が流れている。川の、下流側にはいくつか、小さい船も係留されていた。
その水に乗って、何本もの丸太が筏に組まれ、旅の扉の近くで成型され、扉を通れる四人でなんとか担げる大きさに切られ、それがザハンの隣島に送られているのだ。
「誰だい?」
屈強の男が聞こうとしたところに、追ってきたザハンの人が飛び出す。
「勇者ロトさまの子孫、〈竜王殺し〉勇者アロンドさまだ」
「ほう、そうかい。で、こんなところに何の用なんだ」
何人もの、屈強の木こりたちが集まる中、アロンドは呆然と広い広い大陸を見渡していた。
はっきりとわかる。ここだ、と。
「おい、見ない顔だから言っておくが、ここは、あの大陸だぞ。絶対にここで眠るなよ、必ず死ぬぞ」
呆然と見回しているアロンドに、斧を担いだ男が怒鳴りつける。
「眠らなければ、一応何とかなるからな。沖に出ても眠れるが」
そして新しい船が着くと、たくさんの魚が水揚げされ、次々と人々が集まって魚をさばく。
塩を焼く煙もあちこちで立っている。木を製材したあまりや、石炭を焚いている。
内臓を抜いた魚の腹にその塩を詰め、樽に入れて、これも天秤棒で四人で担ぎ、旅の扉に向かう。
日が落ちるまで、忙しく働く人々の間を回り、あちこちを見た。
皆が眠らないよう、ものすごく注意していること。それでもうっかり眠ったり、事故で動けず睡魔に敗れたりし、そのまま二度と目覚めない人がいつもいること。
「この呪いさえ解けたら」
「なんとかならねえのかよ、勇者様」と詰め寄る男に、アロンドはにこっと笑った。
その笑顔に、屈強な男たちが引きこまれる。
「約束する。私が、必ず、この大陸は、解放する。安心して、眠れるようにする」
その、ゆっくり一言一言、はっきりとした言葉が人々の心に、まっすぐ当たる。
「え」
「む、無理だよ」
「じょ、冗談だよな」
「ゾーマの前から、ギアガの大穴を通ってこの〈下の世界〉にご先祖さまが来て以来、ずっとだぞ」
「ばかいうなよ」
「この野郎」
アロンドは、罵声や怒り、嘲笑も、平然と笑顔で受け入れた。
「くそっ!」
悔し紛れに殴りかかる巨体の男、拳を軽く受け止める。そしてあっさりと投げ飛ばした。
「そのときになれば、わかるさ」
強さと、たたずまいに圧倒された人々は、なんとも言えずに、一人また一人と仕事に戻っていった。
ロト一族を集めたアロンドは、ルーラでザハンに戻ると、干し魚や魚醤などと、布や魚網を防水する柿渋、釣り針などを交易して船に乗った。
「さて、次は」と海図を見る。ザハンは孤島だが、地図の見方を変えるとデルコンダル・ペルポイ・ベラヌール・ルプガナ・ガライのどことも近い、かなり重要な港でもある。
「ペルポイへ」と、船ごとルーラで鬼ヶ島に戻り、ロンダルキアから延びる大きな半島に上陸した。
石灰岩の上に黄砂がたまった、肥沃で水豊かなカルスト地形。
その広い野、そして広大で急峻な岩山すら山羊のように、家畜を連れて駆ける遊牧民たち。〈ロトの民〉の先祖たちでもある。
中心になる町、ペルポイは、奇妙なことに人がいなかった。
ベラヌールやアレフガルドの、破壊された廃墟とは違う。どの家もきっちりと片付けられ、多くは計画的に解体され廃材はどこかに消えている。
その近くの茂みから、濃い煙がたちこめている。
「これは、地下に逃げましたね」ハーゴンが笑って、崖とつながった頑丈な館の戸を指差す。
瓜生やジジの指導で、呪文を極めたサデルのアバカムで扉が開く。
その下から、熱気と濃密な人の気配が伝わってきた。
洞窟に刻まれた階段を下りると、そこにはたくさんの人がいた。
巨大な鍾乳洞を掘り広げ、その中を都市としている。
魔法の明かりや松明があり、松明は煙を濃く出している。
「空気は、なるほど」と、瓜生が宙を見て、煙の動きを見る。「あっちに多分煙出しがある」
「隠れられるようになっているのか」アロンドが見回し、笛を吹いたがこだまはなかった。
「あ、あんたたちは?ペルポイの町は今は地下になっていて、限られた時にしか開かないんだが」と、何人かの男がやってくる。
「アレフガルドの〈竜王殺し〉、勇者ロトの子孫アロンド」アロンドが名乗り、それに人々が驚いた。
「りゅ、竜王殺し?伝説のアレフガルドの、最近出たって竜王が?」
「でも、ベラヌールからロンダルキアの魔物があふれ出したんだろ?どうなってた?」人々が聞く。
アロンドはにっこり笑い、
「ベラヌールも掃討され、今は再建されつつある。私の言葉だけでは信用できないだろう、サデル、ウリエル」との目配せに、二人が素早くルーラでベラヌールに飛び、何人か顔見知りの、比較的年かさで、以前から世界各地と付き合いのある貿易商人や外交官だった指導者をつれてきた。
「ベラヌールのゲテアだ!ベレム、」と、つれてこられた男に声をかけられた初老の女が、大喜びでその手を握り、頬を触れて確認した。
「二年ぶりじゃな。ベラヌールが滅びて、すっかり交易も衰えたもんじゃが」
「でも、ベラヌールは解放された。今再建で、みんな大忙しなんだ」
「封印も?」
「ああ、二度と解けないようにがっちり封印したよ。俺たちの手で!」ゲテアが誇らしげに笑う。
その言葉に、暗い地下町の、恐ろしく高密度な人々の絶叫が上がった。
その数日前。リレムや〈ロトの子孫〉のラファエラら見習いを加えたガライ一座がペルポイの地下を訪れていた。
一行にはアロンドのかつての孤児仲間、ロムルとレグラントの夫婦もいる。
さらにその前日、ルーラで大灯台の島に戻っていたローラが、リレムが出かけることを聞き出し、ジジに頼んだのだ……
「ジジ、ロムルとレグラント、この二人はご存知ですね」
「うん」ジジは相変わらずぶっきらぼうに、でも二人には愛想よく笑いかける。
「リレムに、どのようなことをさせているのか、次に彼女を遠くに送って何かさせるなら、この二人に見て欲しいんです。二人ともアロンドが、心から信用しているのです」
「誰であれ信用したら死ぬよ。でもついてくるなら勝手にしな、姫さんがついてくるよりましだよ。料理人と荷物持ちやって」
と、素早くジジが夫婦を促した。
アロンドの孤児仲間であった夫婦も、暇な体ではない。
レグラントは宮廷であり、学校であり、病院である客船の食事・洗濯・清掃などを一手に担い、ロムルもその力仕事を手伝いつつ、多くの子を統制している。
宮廷としての役割もある客船での仕事のため、キャスレアにアレフガルドや各国の宮廷儀礼を習い、また瓜生に客船の近代設備の使い方、近代的な病院および食堂の高水準な清潔を短期間で教わり、確実にそれについてくる力を見せた。
ペルポイの、地上部郊外のテント。そこに、アレフガルドからの旅芸人一座として小さなテントが張られている。
座長はガライ、一族の祖名を継ぐ子孫で、本人も優れた歌い手だ。
彼が連れているのは笛のロムヒ、ダンサーのアッサラ、魔物使いのルセラ。
そして、リレム。
〈ロトの子孫〉のラファエラ。背は低いがリレムより二つ上の、ミカエラによく似た美少女。この年で中級魔法はマスターしている。
同じく〈ロトの子孫〉のヘエル。やや年上で、とても手先が器用で記憶力が高く、瓜生は医者の助手としても重宝している。
〈ロトの民〉のトシシュ。リレムより一つ下、アダンの甥でボーっとした風貌だが、素晴らしいボーイソプラノの持ち主、嘘つきで人の嘘を見抜く才能がある。
そして、料理人・衣装係としてリールことレグラント、その夫で雑用係のロムル。それが一行だ。
ジジはいない。彼女も恐ろしく忙しい身だ。
「リハーサルをしっかりして、明日から町ではじめよう」ガライが声をかけると、レグラントお得意の堅焼きパンを食べながら一冊の本を四人で読み、必死で書き写したりソロバンとよばれる奇妙な板をいじったりしていた子どもたちが、ぱっと集まる。
テントに飛びこみ、リレムとラファエラは肌が透ける薄絹に、濃い目の化粧、髪に宝石を散らせている。
ヘエルは黒ずくめの服に、長い帽子をかぶっている。その手には、CDラジカセが無造作に提げられていた。
トシシュは数匹のスライムを連れて、羽とスパンコールのついた服。
「大変長らくお待たせいたしました。ただいまより、伝説のアレフガルドより来たりしガライ一座が、ひとときの夢を皆様に!」
ガライがよく通る声で言うと、ぱっとラファエラがトシシュの体を走り登り、上に掲げた手から高く跳んで空中で二回宙返りし、鮮やかに着地する。
同時に乾電池駆動のCDラジカセから激しいベースとドラムの音がほとばしり、素早く消えると共に、いつしか顔の半ばを覆っていたリレムとアッサラが踊りだし、ガライが楽器を演奏しつつ歌い始める。
トシシュの澄み切った歌声がそれに絶妙に和し、ロムヒの鋭く鮮やかな笛が音を引きたてる。
呆然としていたリールとロムルが、そして周囲にいた遊牧民たちや商人の子が集まり、激しく拍手した。
その子に、素早くルセラが色鮮やかなキャンディーを配る。
多彩な歌、踊り、手品。落語を変形させた笑い話もある。人を襲わない魔物がユーモラスに音楽にあわせて踊る。
勇者アロンド、そして勇者ロト、天空の勇者と七人の導かれし者たち、そしてグインの叙事詩を短く切り、激しい曲に乗せて歌い踊る。
子供たちは他にも学ぶことは山ほどあるのに、歌や踊りも高い水準でこなしている。
どれほど学ぶことが多いか、学校で常に接しているレグラントはよく知っていたからこそ、それは驚きだった。
(いつ寝てるの)そう、悲鳴を上げたくなるほどに。
いつか集まり喝采している、町を求めて集まっている遊牧民や商人たち。
(遊牧民のふりをしているが、〈ロトの民〉で見たことがある。このベールをかぶった商人の手と仕草、ダネルだ。なるほど、サクラを使って客を集め、その客が町で前宣伝するわけか。商売うまいな)ロムルは笑い転げながら、その人たちも見ていた。
リハーサルをみっちりやり、リールの作った食事を腹いっぱい食べて、子供たちはほんの一時間、きっちりと走り回って、帰ってしっかりと体を石鹸と濡れ布でぬぐい洗い、寝た。
リールとロムルの夫婦は、子供たちを一人一人いとおしげに見つめ、優しい言葉をかけて寝かしつけてやる。
そんなときだけは、この天才少年少女たちも、小さい子供のように夫婦に甘え、つかれきった体はあっという間に眠りにつく。
眠ったのを確かめてから、リールはガライを責めるように見た。
「なんという過酷な……」
「すごい才能のある子供達です。今たくさん教えて、とことん伸ばしてやらなければ。アロンドさまの、ロト一族のために。ひいては平和のために」ガライも、辛そうな目と、かれた喉で応えた。
彼も毎日の研鑽は並大抵ではない。だからこそ、子供たちも素直に努力しているのだ。
翌日。一行は暗い、巨大洞窟の町に向かい、その中央広場に、強烈な光を上げた。
ラファエラの、魔力を消費しないレムオルの応用呪文が洞窟を見渡す限り明るく照らし、それに人々が驚き注目する。
そしてヘエルが操る発電機とサーチライトが、五色の光をあちこちに振りまいた。
もうその時点で、群衆は熱狂している。
「大変長らくお待たせいたしました!」ガライが以下略で叫び、そのままリハーサルも無視してアロンドの歌を、激しいロックの曲調で歌い始める。
ロムルは重い発電機やライトを運び、疲れて袖に入る踊り手に清潔な布や水を渡しながら、群集を見ていた。
熱狂、だが中に何人か、スリや暴力の気配がはっきり匂う。
まだ幼いアロンドたちと対抗しながら、孤児グループをまとめラダトーム周辺をさまよっていた。町の裏面は知り尽くしている。
大喝采の二回公演が終わって、子供たちがすっと群衆にまぎれる。そのリレムの後ろに、リールがついていた。彼女が何をするか見るのが仕事だ。
リレムたちの服も、舞台での服やアレフガルドや大灯台の島での、清潔な服とは違う、周辺の遊牧民や町の、貧しい子と同じような、できるだけボロボロの服に着替えている。
「十日間、ひたすら街にまぎれて、たくさんの人を見るんだね。いろんな目にあいな。武器は持つな、魔法も封じる。何をしてもいい。生きのびるんだ」
そう、ジジに命じられている。
「昔のおれたちのようにするのか?」ロムルが怒りをこめてジジを見た。ジジは平然とうなずいた。
「昔のあたしのように。アロンドのように。あんたたちのように。あんたも、町の孤児だったなら分かるでしょ?生き延びるのに精一杯の日々が、どんなものか。あたしも知ってる」
ジジの目に、夫婦はそれが真実だと悟った。
大気中の二酸化炭素をわずかに溶かし酸性を帯びた雨水が石灰岩を溶かし、長い長い年月で造られた巨大な洞窟。その一つが、ペルポイの人々がいざというときに逃れる、別の町だった。
そこは選ばれた人の町。そして、その地域の経済の中心、多くの物と人、欲望が渦巻く町。
ロンダルキアの裾野を駈ける遊牧民が、大きく豊かな島々の民が、ザハンやベラヌールまで航り回る船人たちが、町を訪れ交易し、欲望を満たす。
美しい女の、そして少年の服が、魔法や火、とらわれた魔物が吐く火の明かりにちらつき、低く複雑な鍾乳石からなる天井に照り返されて、いっそ幻想的な光景でさえある。
ロムルやレグラントは、町のかすかな腐臭はすぐわかった。
そして、ここに飛び出した美しい……親がいて、豊かな村で訓練は厳しいが暖かく育まれた少年少女の運命も。森に放った肉に、虫が集うより早かった。
まず、一人で飛び出したヘエルがやられた。同じようにぼろを着た子たちに、「よそものだ」とささやかれ、からかわれたのに怒って、飛び出して二人叩きのめした。ロト一族が共通で教育される徒手武術の基本で。
だが、それで大胆になったのが命取りだった。その仲間たちが高いところから石や腐った果物を投げてきて、それに怒って追った、狭い路地裏でぼろ布を投げられたのだ。それで手足を絡め取られ、十数人の不良たちに足や肋骨が折れるほどぶちのめされ、ボロ服も奪われて裸にされた。
起き上がれもしないうちに、やや年長の少年が彼を売り飛ばした。
トシシュはその一部始終を遠くから見下ろし、腹を抱えて笑っていた。
「おい、みねえガキだな」と、奇妙な大人が声をかけてきたときも、(オレはバカじゃない)と確信していた。
「いや、ヘアレさんのところで会ったでしょ?昨日はお楽しみだったね」と、話をあわせる。
相手の嘘を見抜き、それ以上の嘘をつく、〈ロトの民〉でも、新しくできた学校でも右に出るものはいない。そう思っていた。徒手武術の腕にも自信があった。
まるっきりの嘘、それは半日もった。
だが、結局は複数の野蛮な大人の、訓練でもない、手加減も何もない生の暴力に、武術も口のうまさも通用するはずがなかった。
ラファエラとリレムは互いに離れなかった。
リレムはしばらくは怯えて激しく震え、ある時から別人のようになっていた。ラファエラも、それを感じてか、警戒はしていた。
危険なところに近づかないように。
「十日ぐらいなら、ごはん食べなくても大丈夫よね」ラファエラが、大人ぶってリレムにいう。
「お、可愛い子だな。一杯やんねえかい?おいしいお菓子おごるよ」酔った男が声をかけてくる。リレムは、虚ろな笑顔で軽く手を振り、そのまま隠れた。
「ジジ先生の命令ですしね、じっくりと町を、見て回りましょう」
そう、ふらつくように歩むリレムは、極端に惨めに見えて、むしろ町に溶けこんでいた。
「あんた、ラダトーム貴族なんでしょ」ラファエルのささやきに、答えは返ってこなかった。
「だいじょうぶ、わたしが守るから。わたしは竜王城で、実戦も経験してるのよ」ラファエラが警戒し、構えるのをリレムは、死体のような目で見ていた。
ただ、見て回っている、服はボロだが信じられないほど美しい、二人の少女……
「なあなあ、いい商売があるんだよ。きれいな服を着て、おいしいご飯を食べたくはないかい?」と、男が三人、声をかけてきた。
逃げようとしたラファエラを、後ろで太った男がふさぐ。
にっこり笑ったラファエラが、一人の膝と股間を蹴って抜けようとした、その頬を別の男の、巨大な手が張り飛ばした。
「なにしやがんだこのメスブタが」ついでに、リレムも殴り飛ばされるが、彼女は冷たい微笑を絶やさないままだった。
あまりにも早く、四人は再会することになった。縛られ、ぶちのめされて。
「ちくしょう、なんなんだよ」ヘエルはずっと泣いていた。
「ど、どうなるの」ラファエラの緊迫したささやき。
リレムが「どんなことをされても、別の誰かがされてると思えばいいのよ。どんなことでも、いつか終わるから」と、完全に死人の目でつぶやいた。それに、三人ははじめてこれが、現実なのだと気がついた。
リレムだけは、本物の地獄を見ている……小さい頃、ラダトームの地下牢で。
「あたしは、助けてくださったローラ様のために、どんなことでも耐える。死んでもいい、覚悟してるの。そして、ローラ様を、あたしを助けてくれたアロンド様も守る。ローラ様を助けてくださったウリエル先生が、ジジ先生の言うとおりにしろというのなら、どんなことだってする」
リレムは震え、涙を流しながら言った。その覚悟に、少年少女たちは一瞬で心臓をつかまれた。
訓練と評価、子供たちの世界と、伝説と民族の誇りしかなかった子供たちには、本物の悪も、本物の覚悟も想像を超えていた。
ボロすらはぎとられ、痛みに苦しむ子供たち。だがそれだけではなく、前からいる別の、もっと幼くさえある子供たちが容赦なく攻撃してくる。
ただ一人を除いて。一人だけ、恐ろしく線の細い子が、新入りがいたにもかかわらずやられる側なのだ。
サラカエル・ムツキ夫婦とともに開拓をし、医学も学んでいるラファエラがその様子を見た。
「ビタミン、でしょ」
「なんだよ、びったって、びっちびっちかよ」と、別の子に髪をひっぱられ、引きずり回される。
明日のない子たちは、教育水準が高く、子が死なず、飢えを知らないロト一族とは全く別物だった。
リレムは、ただそれを見ていた。
周囲の人々も。大人の反応も。
おとなしくしているリレムだが、彼女を叩き、転がし、楽しむ者は多かった。美しさだけならラファエラも美しいのに。
そして、『その子』も。
止めようとしたラファエラが、容赦なく骨折するほど殴り倒される。
「売り物にならなくなるぞ」と言った『その子』の、耳が、髪が引きちぎられる。
その凄まじさに、リレム以外は怯え、失禁していた。
「確かに、メスガキは、まあ売り物になるな」と、『その子』を踏みにじりながら、汚らしい男がにいっと笑い、ラファエラとリレムをまた殴り倒し、体中に手と舌を這わせる。
二人とも、抵抗する力などどこにもない。
「オスガキどもは生贄だな。たっぷりと楽しんでもらいましょうよ、ねえ」
と、男が見上げた先に、奇妙な覆面をした人がいる。
「その痩せた子と、その子」と覆面がリレムを指差す。「はよい生贄となろう。神が望み、そして観衆が喜ぶ」
奇妙な笑い声が響く。それは、暴力よりずっと激しい恐怖を子供たちに引き起こした。
「見ろよ」
と、男たち、大人たちが子供たち全員を引きずって、舞台を見せる。
禍々しい飾り、考えたくない動物の生皮から血が滴っている。凄まじい悪臭に子供たちが、激しく吐く。
震え、怯えるのを楽しげに見ている人々。『その子』とリレムは、光を失った目でそれを見ていた。
ラファエラ・ヘエル・トシシュは血まみれのまま、まるで絵でもあるように裸のまま、磔に縛り上げられ『展示』される。
そして、裏の劇場には、仮面をつけた貴顕たちがおぞましい目で詰めかけ、全裸の『その子』とリレムが、壇上に引きずり上げられる。
一瞬真っ暗になり、おぞましい音楽が響き、そして突然ろうそくの炎が一つ、また一つとともされる。
その時初めて見えた、像。狂った表情と鱗の体。鉤爪のある手が六本。そして、コウモリの翼。それ自体の引き起こす恐怖が、陶酔にさえなる。
熱狂した声が、絶叫となって劇場を揺るがす。
そして、先にリレムの髪が引っ張られ、首が折れそうにそらされ、鋭い刃が当てられた。
それが、引かれる直前。リレムの口が、わずかに動き何かを噛みしめる。
瞬間、全ての明かりが消え、猛烈な爆発音が次々に響く。
くぐもった絶叫が、いくつも。客席や舞台裏が、パニックになる。
やっと誰かが光の呪文で周囲を照らしたときには、何人もの邪神官や忘八たちが頭を砕かれ胸に大穴が開いており、生贄や子供たちは一人もいない、そして邪神像も粉砕されていた。
「気がついたか?輸血中だ、動くな」瓜生の声。
「ひどくやられたね」ジジの、いつもの声。「覚悟の上です」とリレムが言おうとしたが、顎も包帯で固定されていた。
リレムが目を覚ますと、そこは見慣れた座礁船の、病院のベッドだった。
瓜生が、リレムが噛み潰した、虫歯に詰められるサイズの発信機のスイッチをロムルに見せた。
彼女の目が、包帯だらけの少年少女たちを確認した。仲間たちも、『その子』もいる。
「わかったかい。あれも、有効なショーだ。そして新しい女郎の展示会にもなるし、金持ちどもの弱みをつかんで脅すことにもなる。一つの石でいくつの鳥を落とすんだろうね」ジジが、静かに言う。
リレムは静かにうなずいた。
瓜生がうなずくと、入ってきたレグラントがリレムを抱きしめる。それに、リレムの目から涙があふれ、しゃくりあげる声になる。
五人とも、治療が一段落した頃。といっても、回復呪文があるので、近代医学だけよりはるかに早い。
「その子も生贄だったね」ジジが『その子』を見る。
「ジニ、です」それだけ、答える。絶望しきった、『アウシュビッツの回教徒』すら思わせる表情、だが治療が済み、体を清潔にすると、恐ろしいほどの美少女だった。
その姿を見、声を聞いて「ルビーの涙」と、ロムルとレグラントが口を押さえた。
「それは、なんですか?」リレムが聞く。
「今のあんたたちは、そう呼ぶんだね」ジジの、苦々しげな言葉に、ロムルが恐ろしく感情を殺した表情でうなずく。
「リレム、あんたたちは全部分かっていたほうがいい」ジジが平板な、明るい声で言う。それが偽りだと、夫婦には分かった。「特に邪悪な人間は、ある種の子を見ると、猛烈に欲しくなる。自分のものにして、徹底的に壊したくて、気が狂いそうになる。リレム、おまえもそうなんだ。そしてアロンドも」
リレムがはっとする。「小さいころ、生贄にされそうになったのも」
「それだよ」と、ジジ。
「孤児を率いていた頃、何人かいた。すぐに死んだよ、あいつらは決して、ルビーの涙を見たら諦めない。ロザリーの涙が落ちたらルビーになったと歌にあるように、搾り取って搾り取って、殺すんだ。殺されるならまだいい、あんな、あんな!」ロムルが頭を抱え、隅で吐いた。
「何度も、見ました。アロンドさまも、イシュトも、確かにそれでしたね。非常に強く狡猾だったので罠を抜け続けることができましたが」レグラントも吐きそうな表情で、ロムルの背をなでる。
「それより、それだけじゃないな。ああなるまで、何があったか教えてくれない?」ジジが聞くのに、ジニは冷静に答える。
「小遣い欲しさに、ちょっとした問題を解いたのです。それが、えらい人を怒らせたようで」
「どんな?」瓜生が聞くのに、痛みをこらえながらジニは身を起こした。
「月と星の角度の測り方に、賞金が出ていたので」
と、渡された石版にチョークで、複雑な図と文字を書き始める。いくつもの三角形、普通の数字とは全く違う、アレフガルドの文字を用いた複雑な言葉。
「三角関数の、級数展開じゃないか。それにラックピニオンと、ガラスの応力による干渉縞を利用した精密角度計測?」
瓜生が驚き、手に何冊か数学史に関する本を出して、何度も検算したり、いくつかの道具を出して彼女の指示通り作ってみて、うなずきながら呆然とした。
「どこかで聞いたのか?ロト一族から?」
「いえ、分かったので」少女の表情は、当たり前のこと、という感じだった。
「……天才か」瓜生がつばを呑む。
「ルビーの涙、って言われてるんだっけ、天才が多いよ」ジジの声に、かすかな感情が混じる。
瓜生が、ジニを連れて出かけてから、傷の癒えた四人の子を、ジジとロムル、レグラントが見回す。
「さて、どう報告する?」と、ジジがロムルに言う。
「すべて、ありのまま」レグラントが悲しそうに言った。
「おい」ロムルが言うが、レグラントは首を振る。
「ローラ様やアロンド様を信じましょう。これしかないって、あなたもわかるでしょう?」
「まあな。町の、ああいう連中のひどさを身に染みて覚える、ってわけだ」ロムルが歯をぎりぎりと噛む。ジジを殴りかねないほど。
「いっとくけど、あれで終わりじゃないよ。ガライ一族にとって、あの邪神のやからは、興行でも手ごわい競争相手。世界中の街の、底の底から目と手の網を作らなきゃ、足元すくわれるからね」
ジジがにっと笑って、子供たちを見回す。
「穴という穴を支配し情報を得るんだ。耳は歌と音楽。目は踊りや染色。鼻は香水。口は歯科医と調味料。そして下、前後の穴の糞尿を便所。そして膣と男根を、売春と産婦人科医で」
それに、傷ついた子供たちが衝撃に目を見開く。
「これからも勉強しながら、自分で考えな。どれだけ勉強ってのがばかばかしいかわかったろう、でも勉強がどんな力になるかも、これからウリエルのヘタレがきっちり教えてくれる。まだまだ学ぶことは山ほどあるよ」
「何より、一人の子供ってのは……とことん無力な、食われるだけなんだよなあ」ロムルがつぶやき、ため息をつく。
「だから集団になるのよ、それで守りあうの」レグラントが言うが、
「それを裏切るのも、な」とロムルが苦笑する。
「ま、そんなことも、しっかり考えるんだね。さ、散々いろいろ見たろ?それを、次の舞台でどう活かせるか、ちゃんと考えな。いいかい、あの連中の演出は、それなりに真似られることは多いんだよ」ジジが手を叩き、まだあちこち痛いのに、そのまま次の教室に送り出した。
乳幼児死亡率が非常に低く、子が大切に教育される〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉……学校の形になってから、それが世界の全てになりうぬぼれが育っていた、最も優れた子。
それに、自分たちの世界がどれほど狭いか、子供がどれほど無力か徹底的に思い知らせた。現実を叩きつけた。
それが、どんな実を結ぶかもわからない。できるだけ過酷な、多様な経験を積ませる、それだけだ。次代の指導者となる子だからこそ。
今回のことを参考に、学校の他の子にも『現実』を思い知らせるにはどうすればいいのか、ジジや瓜生は悪魔じみた相談を続けている。
リスベット・サランデル、アリア・スタークなどは絶対「ルビーの涙」だと思います。