デルコンダル。山脈に囲まれ天然の要害をなす、島と大陸の中間の孤立した陸塊。
気候は熱帯雨林とサバンナのあいだぐらい。中央に大きな河が流れ、それが外界への出入り口になる。古来鎖国気味で、交易は少ない。
ローラ姫の紋章、アレフガルドの旗とロトの紋章を掲げた船が、大洋をやすやすと横断して大陸を周回し、河をさかのぼった。
「デルコンダルには、ちょっと足を踏みいれられないんですよ」と、ハーゴンはムーンブルクを探る仕事に出かけた。ジジも変装している。
雄大な城。高く頑丈な石壁の内部が、そのまま大規模な集合住宅になっていて、中は広場だ。
その奥に、劇場のように観客席に囲まれた構造の王宮がある。
上陸するのはアロンド、ローラ、キャスレアほか女官数人。変装したジジも混じる。リレム、アムラエル、サデル、アダン、ゴッサ、そして瓜生。
「厳重に守られていますね」ローラ姫が眉をひそめる。
「ずっと内戦が続いていたからですよ」アムラエルが悲しげに言う。
上陸要求は認められた。病人がいるかどうかも確認しない。
だが、上陸した皆は武装兵に囲まれ、まるで連行されるように王宮を歩かされる。
「デルコンダルとラダトームには国交がありません。この扱いに不満はありますが、どうか抑えて」とキャスレアがローラに言う。
そのまま、半日近く待たされる。
蒸留酒と水、餅に似たケーキと油で揚げた魚が出される。別の部屋に、壺の便所はある。
その部屋は奇妙にも、壁があちこち傷つけられている。
そして呼び出され、王宮……いや、明らかに広い競技場の中央に、立たされた。
「客となろうとする者よ。このデルコンダルが、一人前の人として迎え入れるには、その力を示してもらわねばならん!」
と、重武装の貴族が叫び、高いところに引っこむ。
そして片隅にある、巨大な鉄格子が引き開けられる。
咆哮。そして、肩の高さが人間の身長を上回る、巨大な肉食獣が四頭出てきた。巨大な牙がひらめく。
「なにをなさいます、友好的に訪ねた者に」
リレムが叫ぶが、
「これがこの国のしきたり。郷に入っては郷に従えと」と、アムラエルがなだめる。
魔獣に遠くから矢が刺さる。激しい咆哮が轟き塊が四つ、アロンドたちに向かって疾走する。
瓜生とサデルが女たちをかばい、銃を構える。
だが、踏みだしたアロンドの前に出た瞬間、魔獣は怯え立ちすくんだ。
「……助けられないか?」アロンドが瓜生に聞く。
「毒矢ですし、狂わせた魔獣。野生に戻すのは無理でしょう」瓜生が言うと、アロンドがうなずく。すぐさま一瞬の閃光、魔獣は四匹とも動かぬまま。
ひと息のち、四つの首が静かに落ち、血の噴水。巨体が血の海にくずおれていく。
「すまない」そう、アロンドが静かに瞑目し、冷たい目を玉座に向けた。
競技場の観客たちが、茫然と息を呑んでいる。
「おお、強さを示した!ならばわれらが家族として迎え、ともに飲み食いしよう」と、玉座の男が立つ。
三十代後半。長身。頬のあばたを化粧で隠している。頭は剃り上げ、先ほど倒したのと同じ魔獣の毛皮に宝石をちりばめまとい、長大な牙がついた錫を握っている。
「〈竜王殺し〉、勇者ロトの子孫、アロンド。そしてわが妻、アレフガルドのラルス16世の長女ローラ」
アロンドの声が響く。
「朕はデルコンダル王ラミエ二世。よくきた!何が欲ぉおおしい、遠いアレフガルドの勇者、アロンドよ!」と、王が激しい身ぶりと共に叫ぶ。
「この笛を、吹かせてください」と、アロンドが山彦の笛を口に当てる。
「聞いておるぞおぉおっ!その笛の一吹きで、ムーンブルグ城に巨大な離宮が生え育ち実り実り実ぃいのぉおり、満月の塔が崩れ去ったあああああああああっ!と。さあ、吹くがよい。さあっさあさあさあさあ!」ひと言ひと言、おそろしく大げさに言葉を付け加え、激しい身ぶりもつける。
「害にはなりません。この笛の力は、人には使えません」と、アロンドが一礼して吹く。
音が響き、こだまは返らない。
「よい音だっ!」王が叫び、観衆が喝采した。「さて、それで?」
「ここではなかった、ということですね」アロンドが苦笑する。
「ではもう用はすんだ、ということか。だがそれでさようならももったいない。せっかくの強い強い強おおおぉおい客人だ、楽しもうではないか!音楽を、そして酒と料理を!」
王の叫びとともに、何人もの楽隊が出て、激しい音楽を演奏し始める。瓜生の故郷や〈上の世界〉の影響が強いガライ一族の音楽とは違い、古来の音楽だ。
皆が車座に、地面に座り料理が運ばれる。そこでは身分の上下はあまり区別されていないようで、明らかに庶民も混じる。
大きな淡水魚のフライ、大きなネズミのような家畜の丸揚げ。そして毒を抜いたキャッサバや、サゴヤシのデンプン。ロト一族にも馴染みの、米や豆の料理もある。砂のように細かな粒の穀物も出る。
丸揚げを好むようで、鳥も、蛇かウナギか、さらに大きなサソリやクモ、ムカデすら丸揚げで供され、リレムは食べるのに辛さを抑えていた。どれも味は、刺激的だがすばらしい。
酒は果物や蜂蜜からの、強い蒸留酒。奇妙な苦みと深いうまみがある。誇らしげに出してきた石壺をのぞいて、皆吹きそうになった……毒蛇や毒虫、薬草や毒々しいキノコがいくつも漬けこまれた薬酒だ。
穀物酒はあまりないようだ。甘味も豊富だが、どれも揚げてある。
「これら豊かな作物も、勇者ロトがもたらしたと伝承されています」と、給仕するネックレスのみ全裸の美女が言った。
サデルが瓜生を横目で見、瓜生は軽く肩をすくめてうなずく。百数十年前、瓜生がミカエラと共に訪れた時に、カンダタにいくつも故郷の作物を渡した。
「勇者アロンドよ。ロト一族とデルコンダルは、深い絆がある」と、アロンドの隣に座った王が言う。そのときには、大げさな口調ではない。
「伝え聞いています」と、アロンド。何を知っているかまでは言わない。目の端で、ローラの女官に化けているジジを見る。
「盗賊カンダタの伝説は伝わっておる。勇者ロトが、大量の食物や素晴らしい作物をもたらしたことも。だがそれらは神話だ!だが王国は神話でできている」と言って、突然王が大笑いした。
「だがその後、カンダタが暗殺され、魔女は処刑された」
王の、歌うように節をつけた言葉。瓜生の体が硬直する。ジジのほうを見ようとして、彼女が魔力で止めたのだ。
「この豊かな大陸はそのまま、邪神教団のもの、生贄の生け簀になっていた。だが!四十年ほど前。二人の勇者が、どこかから来て邪神の使徒たちを倒し、隠れていた王族を助け即位させ、邪神教団を駆逐し安定した王国を作った……わが父」
そう笑って、王が乾杯する。デルコンダルの貴族たちや、招かれていた明らかに賤しい庶民が、嬉しげに笑い叫ぶ。
「歌を!」
王の叫びに、楽団が楽しげに打楽器を奏でる。たくさんのドラムを叩く。並べられた石板、並べて吊された金属管を棒で叩く。一人で一つ、大きな太鼓や銅鐘を激しく叩く者も何十人も並ぶ。激しいリズムのメロディーができる。
何人もの歌い手が、絶叫のような歌い方で、複雑に韻を踏む歌を歌う。
〈上の世界〉よりきたりし盗賊 内乱の大陸に野望を賭け 古き王家の女を助け
無双の剣士 夢幻の魔女 大力の猛将 大陸は震える
覇王は豊かに 傭兵を食わせ 何者も敵ならず
されど最後の砦 裏切りにカンダタは斃れ そして僭王も倒される
新たなる皇帝 邪神の信徒 臣民ことごとく生贄の家畜
希望なき魔の国 いつまでも続く 闇のアレフガルドのごとし
そこにきたりし二人の旅人 子産みの医者と 流れの踊り手
ラファエラ 長き黄金の髪 死者をも蘇らせる
ミカエル 勇者ロトの再来か この上なく優美な歩き
歌がそこまで来たとき、アロンドが激しく立ち上がり、サデルが抑えた。
二人似ること鏡のごとし その美は神々のうま酒 生贄にせんと群がる神官
ふたりことごとくなぎ払い 影に隠れた王家の隠し子 光に頼り暗殺を免れ
蛇の穴に放られた三人 闇の底に閃く雷鳴 輝く拳が悪魔神官を貫く
デルコンダルに光が戻り 二人はどこへともなく 勇者ロトのごとく宴より去り
座りこんでいたアロンドは、強くサデルの目を見る。サデルが、静かにうなずいた。
「若い頃の、ミカエルとラファエラ……あなたのご両親です。三十年以上前。
ミカエラ女王直系の、もっとも濃い血の双子……双子の定めで、ラファエラは〈ロトの子孫〉で勇者・最長老の最有力候補として育てられました。ミカエルは元・鬼ヶ島で〈ロトの民〉に育てられ、ガライ一族に混じり各国で踊ったりして情報集めや交易をされていました。
邪神教団に支配されたデルコンダルが、アレフガルドにも魔手を伸ばしはじめたことをラファエラがいち早く突きとめ、デルコンダルに向かいました。そしてそこには、すでにミカエルがいました。
お二人が出会い、生まれも知らず恋に落ち……そして、凄まじい力でデルコンダルの邪神教団を一掃し、先王を即位させて、そのまま宴より去り……そのときに、実の双子と知って一度は別れたようですが、その数年後にお二人とも、姿を消して……
このことは、あなたに伝えてはならないと定められ、その定めた長老が亡くなられたので禁止を解除できませんでした」
アロンドが、呆然としている。
「おお、そなたの両親であられたか」王も、驚いて酒を何度も飲んでいる。「ならばそなた、朕の兄弟じゃ!よおし、剣を舞おうぞ」
王は雄大な両手持ちの曲刀を抜き、呆然と座るアロンドの腕を掴んで広場に引っぱる。そして、激しい剣の踊りを始めた。
アロンドも、剣が勝手に対応したように、その剣に合わせ踊る。
「おお、なんという、なんという腕だ!うおおおおおおううううううう」激しく絶叫しながら、王の剣舞がどんどん激しくなる。
音楽も、激しさを増していく。
そしてデルコンダルの人びとは皆激しく踊り、叫び始めた。
アロンドも、激しい感情を剣に絶叫させ、美しく歌い舞う。
狂乱の群舞は夜明けまで続き、王が力尽きたように倒れる。
そして宴が終わり、皆が一休みした。
「そなた、何のためにこのような旅をしている?」王が、改めてアロンドに聞く。相変わらず、同じ地面から丸揚げの山を食べながら。
普段は大げさで激しい王だが、時々とても冷静に、安定した感じになる。アロンドの前でだけ。
アロンドは、剣舞からそのことを感じていた。それに、率直に答えることを選ぶ。
「竜王を倒したとき、王に王位を譲ると言われ、とっさに自分の国は自分で探すと断りました。実際、わが一族には新たな安住の地も必要でした。
あの禁断大陸を、と予言され、その鍵を世界中探してています」
「あの大陸なら、われらデルコンダルも常に狙っている。あの呪いがある限り、王城から通じる旅の扉周辺、ごく狭いところしか支配できていないが」
「それは、今の探索が終わってからの話です」
「それにしても、王になどなりたいのか?」王が、とても自然な口調で、強い酒を飲みながら。
「必要なだけです。安定したら立憲君主制にするつもりです」
「立憲君主制?」王の興味深そうな問い。
「王も法の下にある。法により、人々が一人一票を与えられて投票し、誰に政治を任せるか決める。王は見守るだけ」
「では、何のために王があるのだ?無駄飯食いではないか」王の鋭い問い。
「外交などに必要ですし、権威と権力を分けたほうが、悪人が権力を得て暴走するのが起きにくいようです」アロンドが真剣に言う。
「ほう」王も真剣な眼になる。「そうしておけば、王子が愚かでもどうにかなるし、悪人が票を集めても王がいるからやりにくい、か」
「まさにそれです」アロンドが驚いた目でうなずく。
「ただ、実際には難しいです。ブラジルの王は先まで考えて、民主化を計画していましたが失敗しました。北欧がなぜ成功したかは、正直謎なんですよ。性急な共和制が有害なのはもとより、ですが」瓜生が言った。
「なら、臨機応変にいこう。肝心なことだけは見失うまい、ロトの掟……決して拷問・虐殺はしないし、させない。言葉や心で人を裁かない。群衆が悪い方向に行きやすいことを直視する」アロンドの沈痛な言葉に、瓜生と王がじっと沈思した。
「権力の分立が肝心ですね。アメリカはマッカーシズムを押しとどめましたが、ワイマールは……」瓜生が、ヒトラーの記憶を持つアロンドの目をちらりと見る。
王とアロンドは再び剣舞を始め、歌と音楽が盛りあがる。
そしてまたごちそうが運ばれてきた。
デルコンダルは鎖国政策を取っているので交易はしなかったが、貴族の病人を何人か治療した。瓜生の診察とレントゲンが王の、初期の大腸癌を見つけ内視鏡手術で救った。
王はアロンドたちに友好的だったが、デルコンダル王国は王だけでできているわけではない。十数万の人口があり、多数の小領主が支配しているし、廷臣も多い。
その海を、リレムは泳いでいた。鎖国ゆえによそものに対する敵意はあるが、同時に外の世界への、伝説のアレフガルドへの憧れは大きい。幼い日はラダトームの宮廷で育った少女の、わずかな言葉やファッションのヒントも、ゴシップという通貨で莫大な価値となった。
彼女は注意深く、ラダトームやムーンブルク、世界各国のさまざまな情報……ペルポイの魔窟の話さえ……を小出しにして、女たちを楽しませ、「通貨」をふんだんに受け取り、また配った。
花開きつつある美貌も、男たちを強く惹きつけるものだった……特に、邪悪を宿す者は〈ルビーの涙〉である彼女に、抵抗できなかった。逆に食われるようなヘマは、今の彼女はしなかった……複数の悪人に自分を奪い合うよう仕向け、互いを監視させたのだ。
さらに、下働きとして一行に混じっているロムルが、城の下層人たちと交流しジジと連絡し合っていた。
ほんの数日の滞在の間に「通貨」をたっぷりと貯め、投資し、殖やした。
それは、デルコンダルに来る前のハーゴンの指示だった。
「ジジさまに、たっぷりと色々学ばれていますね。なら、少し実践で試してみることです。宮廷の海を泳ぎなさい。そして、誰が何を本当にほしがるかを見ぬき、陰謀を探りあてる技を磨きなさい。ローラ姫さまを守るために」
ローラを守る、そのためには彼女は何でもする。
その結果聞きつけた情報があり、それは即座にアロンドに伝えた。
「この方が、ロトの盾の情報を持っておられるそうです」
アロンドの宿舎に、ぼろを着てはだしの、貧しく老いた女が案内される。
彼女は簡素な部屋のアロンドを見て、目を見開いた。「ラファエラさま」
「母を、ご存じなのですか?どうか真実を聞かせてください。……真実だけを。嘘ではないが事実すべてでもない、もなしで」
アロンドの丁寧な言葉と、砂糖をたっぷり入れた熱いレモネードに驚きながら、老婆は話しつづけた。
くどくどしい、昔の話。自分自身の貧困と苦労話。子だくさんの子供たちと、赤子の頃に大半が死んだ話……
王宮と地下牢の両方を知り、少女時代はラダトームから追われガライで暮らしたリレムにとっては当然。城下の宿無し孤児として過ごしたアロンドもよく知っている。ローラやキャスレアにとっては、貧困はともかく赤子が死ぬのは当然だった。
だが、医療水準が高く子が死なないロト一族には馴染みのない話だった。
アロンドは、まだ幼いローレルにこそ、その話を何度も聞かせた。
本題に入るには何時間かかったか……そのあいだに、たっぷりと滋養のある粥をごちそうした。
「美しい、美しい方でした。あなたさまにそっくりな。生贄にしたがる神官に狙われ、まだ若い頃のわたくしめが、本当に毒を飲まされ重い病気にさせられ、よそ者の医者を呼んでこい、と命じられたのです。あの方は、罠だと百も承知でいらしてくださいました、そっくりな、そっくりなもうひとかたとともに」
「父です」アロンドの声は、かすれていた。
「あの頃、どれほど悪魔神官たちが恐ろしかったか」ふと気がついたように、老婆の表情が恐怖にゆがむ。そして今さらになって、なんとなく騙されたような感じがする。そう……リレムに甘い話だけを聞かされ、操られたことに気がつきかけた。母の仇となぶり殺されても……
「あいつらが」リレムの声に、まぎれもなく本物の恐怖と憎悪がしたたった。彼女は実際に悪魔神官に苦しめられている、その記憶すら相手を説得するために利用している。「どんなに恐ろしいか、あたしもよくわかってるわ。責めたりしません。真実には、あたしがちゃんと払います……知りたいんでしょう、お隣のエハレの本当の父親が誰か。それ次第でお孫さんのメレテレウがエハラと結婚できるし、ベエヤは縄飾りの見習いから一人前になれるし、おばあちゃんもいい医者にかかれるし……大丈夫、だいじょうぶ。こんなに一生苦労してきたんだから」甘いささやきに、貧しく長い歳月に曇る愚かな目から疑いが失せる。老いた顔に、欲と喜びが戻る……リレムは完全に老婆を操っている。
「……あのかたが海底洞窟に放られた時に、輝く盾を持っていたのです。わたくしめも、ともにくたばれと熔岩の海に放られましたが、気がついた時には家の寝床に寝ていました。そして数日後に、枕元にお母上……お父上だったかもしれません、見分けがつきません……がいらして、責めていない、すべてを忘れよ、と毒を癒してくださいました。神々のようなお方でした」
何十年も背負い続けた罪悪感をおろし、恐怖まじりに泣き崩れる老婆に、アロンドは優しい微笑とともに上質な竹綿布十反、柔らかくなめした皮、大壜入りの蜂蜜を与え、去らせた……絹や金貨などではかえって災いになる、と判断して。
そんなアロンドに付き従いながらも、瓜生はルーラで大灯台の島にしょっちゅう飛んでは、座礁させた船で子供たちを教育したり患者を治療したりしていた。また、世界各地の患者も健診と治療を続け、さらにロト一族で集中的に医学を教えた若者に引き継がせることもしている。
「なぜ、ロト一族が使う数字と、アレフガルド文字の数字はこんなに違うのですか?」ジニの問いに、
「ロト一族は、別の歴史をたどってきた、勇者ロトの仲間ウリエルの世界の本で学んできた。だからアラビア数字を教えるしかなかったんだ。でも、そうだな、記数法を自分で考えてみろ。ウリエルの世界のアラビア数字が完全だと思うな」
というと、瓜生は本を参照に、いくつかの数字を大きい木板に描いた。
古いアラビア数字。ローマ数字。漢数字。ゼロ表記のある漢数字。そして、ヒエログリフやメソポタミアの楔文字の数字。
さらに、易に使う八卦。
まったく別の世界で見た、動物を図案化した奇妙な数字。
「次に描きたいのは面倒だから各自……まず、ソロバンで、1から10までの形を」
ぱちぱち、と鋭い音が響く。ロト一族はソロバンを生産し、小さい頃から与えられて習得している。剣と馬の文明水準では、それは高性能コンピューターにも等しい。
「その形を、手元に描き写して」
一人一人、手元の小さな石板に、十種類の図を書いていく。
「さて、じゃあそれを、簡単に図案化してみろ。できたら見せっこしてくれ」
それに、子供たちが大喜びで取り組み始めた。
「記数法だけでなく、分数や指数の表示法も、こちらで教わるアラビア数字は完全でしょうか?60進法主体で、一意性がないペルポイ文字よりはましですが」
ジニの意見に、瓜生は嬉しそうに応える。
「いや、全然完全じゃない。分数は本来指数表記可能だ、分母をマイナス一乗とすればいい。無論、それで複雑な連分数をやると面倒だな。フェテ、例を書いてみろ」と、生徒の一人を指名して板書させる。「将来印刷、そして将来はコンピューターテキストにいたることも考えてごらん。DTPで数式を書こうとすると面倒だぞ」
特に優れた子には、将来の目標、ビジョンとして最先端の技術すらちゃんと見せている。
「なぜ10進法なのでしょう?」
別の生徒の問いに、瓜生は軽く肩をすくめる。
「人の指が10本だから、というのが普通の答えだけど、本当は人間の指は、二進法なら1000以上数えられる。やってみようか」と軽く笑って、親指から順に折り始めたが、30かそこらで指が疲れてやめた。
半分ぐらいはいっしょにやっていた、教室中が大笑いになる。
「人間の指は、一つ一つ自由に動くようにはなってない。かえって不便だな。両手の親指を位取りに使い、八本の普通指で8進法、とやると……あれ?」
と、瓜生は両手を皆に向け、親指を伸ばしたまま残りの指で8まで数え、右手の親指を折りながら残りの指を開いて見せた。
「この状態を、何にすればいい?そう、指で10まで数える、というのは、位取りの概念以前の、より自然な行動だ。基数と位取りがある、普通の計算ではそこまで考えていない。だから、多分変なことをしたら間違えやすいだろう。
さてと、12進法も約数が多くて計算がしやすく、三分の一があるから角度計算でも使いやすい」言って、1:2:ルート3直角三角形を板書する。「12進法で円周率と3の平方根を計算しろ。4桁」
ぱちぱち、と教室中でソロバンの音がする。
ジニが即座に暗算で答え、ソロバンで検算し、「8進法ですと」とやって、それから自然対数の底、平方根などを12進法、8進法それぞれで計算するのを続けていた。そのまま夢中になっている、こうなると彼女は当分反応しない。
瓜生は肩をすくめて、最後にやるつもりの小テストをジニのところに置いた。数秒で全問正解が記され、邪魔だとばかりに押し返される。正直、彼女がこのクラスにいるのも間違っているのだが、授業中別のことをしていていいから座ってろ、とやっている。
もう、彼女を無視して黒板に戻り、
「八卦を数字として考えると、完全にデジタルだから便利だ。でもアラビア数字と比べて筆記には不便だな。ソロバンも結構面倒だ。崩した筆記隊でも確実に区別できる16進法の数字も、みんな考えてほしい。そうそう、今日は数字についての話じゃなかったな、またアムラエルに怒られる。
さて、座標系について、特に極座標と直交座標の相互変換の話に戻ろうか。みんな、六分儀は持ってきたか?」
生徒たちが、航海や測量に使う用具を取り出す。
「極座標は、航海や測量では実際の問題だ。角度をきちんと測って三角測量し、そのデータを直交座標に転換できる。あれ?本当にそれができるかどうか、証明できるか?それを、今夜は考えてくれ。ジニに聞くなよ」
と、授業を続けるうちに、小さな砲声が鳴る。
「おっと、時間だ」と、小テストを配る。「宿題にしておく。さらに発展して考えたいなら、幾何学の問題は代数で、代数の問題は幾何学で考えてみろ。そして、現実の測量や天測にどう応用するか、常に考えろ。質問は班で考え、手紙で送ってくれ」
ジニは立ちはするが、手はソロバンを高速で動かしているし、明らかに目はここにあらずだ。
海底洞窟に出発しようとする前日、挨拶に王を訪れたアロンドたち。
王は寂しがっていたが、アロンドだけを誘って、最大種の犬サイズの犬十頭に引かせる、リヤカーに似た二輪車にアロンドを乗せ、遠乗りに飛び出した。
「気まぐれに行き先を決める野原なら、盗聴の心配がないってわけさ。でも穴はある、どこだい?」
女官に扮しているジジが、リレムにささやく。
その声に、とんでもなく年老いた元神官が振り向き、衝撃に目を見開いた。
「ジャハレイ・ジュエロメル」
「あ、声覚えてた……魔力で確認したね」ジジが苦笑する。「隠せたけどね、無理したら面倒なことにもなるし。魔法を使うと目立つから」
「まさか、百年は昔……幼子のころに祝福を受けた、その時に覚えた魔紋……じゃが、じゃが魔女めは、魔獣のえさと処刑されたはず」
「モシャスをかけたパペットマンよ。それからずっと石にされてたの」と、元の姿に戻って、闊達に笑う。
老人の恐怖は凄まじかった。
「どれほど恐れられているの?」聞くローラに、ジジが苦笑する。
「このデルコンダルでは、大魔王ゾーマや邪神シドー以上」老神官は怯えきっている。
「ま、いろいろと虚名もばらまいたからねぇ」ジジは静かに笑い……すっと、目の色を変えいくつも呪文を唱えた。
「あ、あ」その時に、部屋にいたデルコンダルの人全員が、目を一瞬見開き、その色が曇り、普通に戻る。
「誰にも言うことはできないよ」
それだけジジは言って、それまでどおりの女官に戻り、リレムに軽くウィンクした。
「わかりました。車を引く犬に変身していれば。また、犬が好むエサで誘導する」リレムの答えに、ジジはうなずきつつ、
「他にもウリエルに盗聴器を借りるとかあるだろ」と笑いかけた。そして突然少し真剣な表情になり、「あと、ちょっと仕事があるから」
そして王とアロンドは帰ってきたが、ちょっと奇妙だった。行きは二人仲良く車に乗っていたのが、帰りは鞭を振り回す王に、アロンドが追われている。
激しい怒りの声に、王の兵士たちがアロンドに武器を向け、アロンドがローラたちに合流したのを見て一行にも襲いかかる。
応戦しようとするサデルをアロンドが押しとどめ、わざわざ廷臣たちの前をしばらく逃げ回ってから、大慌てで船に飛び乗って逃れた。
「やはりデルコンダルは鎖国の国だ!」
「よそ者は出て行け!」
大騒ぎの中、大型の船外機を取りつけた船は凄まじい速度で大河を下り、海に飛び出した。
「すまなかったな、騒ぎになって」と、アロンドは笑っているが、サデルやキャスレアは大国デルコンダルとの決裂に頭を抱えていた。
そんな彼女たちに、アロンドとジジはニヤニヤしながら説明を始める。船は、そのまま海底洞窟を目指した。
デルコンダルとロンダルキアの間に、奇妙な島がある。
浅瀬に囲まれ上陸困難、そしてその周囲には濃い煙と有毒ガスが漂い、船がいきなり泡に包まれ沈むことも多く、命知らずの漁師や海賊も近づかない。
ここしばらくは火山活動も活発とされる。
船では危険だ、とアルメラも言うので、飛行艇に乗り換えた。
「昔の海底火山で、ロンダルキアの邪神教団の、地上での事実上の本拠だった」飛行艇の操縦をゴッサに任せた瓜生が、記憶と海図を照らし合わせる。ゴッサたちは神幻の中、瓜生の故郷で特殊部隊の訓練を受け、多様な乗り物を操縦できる。
そして、アロンドを含め十人近くが身をつなげ、トベルーラで降下する。
煙をガスマスクで防ぎ、高度を下げると小さな島が見える。その急峻な山の中腹には、底知れない洞窟があった。
入り口は狭く、熱気が押し寄せる。ロトの鎧を着たアロンド、テパで買った水の羽衣を着たサデル、そして水の羽衣も合成されている魔衣を着ている瓜生、そしてもはや人ではないアダン以外は、熱い溶岩に傷を負うので待つことになる。
どの道、この狭い洞窟に、騎馬の民は無用だ。水の羽衣を着てまでついてくる者もいたが。
山彦の笛は、こだまを返さなかった。だが、アロンドは両親の形見を求め、洞窟にそのまま進み続ける。
しばらく進むと、瓜生が「お」と嬉しそうに道を曲がった。
「あれ、ま、昔の話だしな」とつぶやく。
「何かあったのですか?」と、サデルが、激しく沸き立つ溶岩を見て、顔をしかめた。
「前に来たときは、ここは海水がたまっていい温泉プールになってたんだよ」
サデルは呆れていた。
「それは残念」とアロンドは笑っている。「それより、ロトの装備は引き合うはずだが」と、手にしている、朽ちかけたロトの剣を適当に振っている。
「その剣は、メンテナンスが必要ですね。見た目だけでも」
「そうだな」
などと話しながら、ぶらぶらと歩く。溶岩の魔物がたまに出るが、一瞬で切り伏せる。今のアロンドの戦闘力には、まともな魔物は相手にはならない。
「この海底洞窟は、ロンダルキアの邪神と縁が深いようです」と瓜生。「昔ミカエラたちと、根こそぎ片付けたはずなんだけど」
「なんとかならないのかな」とアロンド。
「いっそ水爆で根こそぎにするか……」瓜生の物騒な言葉、だが冗談ですよ、と軽く肩をすくめる。
「問題なのは、ここで得られるきわめて特殊な鉱石が、邪神像の核になるようなのです。おれたちがそれを破壊したため、邪神が実体を持つこともありえない、それで前はミカエラでも邪神を完全に封じることはできませんでした。今回も、邪神像はないでしょう」
「なら、それができるまで待つ必要がある、か。なんという深謀遠慮」と、アロンドが呆れた。
海底洞窟の最深部。
そこは、かつて瓜生が見たときとは違い、清浄な聖地のようであった。
かすかに輝き、ゴツゴツとこの世のものとは思えぬ形をなす壁。歩くだけでも疲れる、複雑な地形。
時折瓜生の、魔法をかけられたサイガブルパップショットガンから、魔力をこめた散弾がほとばしり、短距離のメドローアとなって道をえぐり開く。
ひときわ深い空間に、やや小型の盾が浮かぶ。青い金属を黄金で縁取った、明らかにロトの鎧と一体として作られたものだ。
その盾は静かに、アロンドの左腕に舞い降りる。
アロンドが、瞬時に、激しい咆哮を上げた。
すさまじい力が、その全身から吹きだす。
「魔力を貸すんだ!」瓜生が叫び、サデルが手を複雑に組む。
「な、なんか、ああ」叫び、頭を激しく抱えたアダンが、手を伸ばす。その手は巨大な蛇となり、また無数の蛇に分裂する。その瞬間、周囲に、いくつも底なしの虚空が生じる……正確には、虚空だったことがはっきり見えるようになり、それを蛇が毒牙を突き立て、うまそうに飲みこむ。
数分間悶絶していたアロンドが、一瞬崩れ落ちかけて、体を立て直す。
瓜生が簡易寝台を用意し寝かせ、吸い飲みにスポーツドリンクを入れてさしつける。
むさぼるように数度飲み干したアロンドが、洞窟の屋根を見上げ、激しく呼吸した。
「とんでもねえことになってた。なんか、すんげー悪いのが、この盾を覆ってて、それがアロンドの心に直接入ろうとした」
「アロンドは、戦闘力の面では闇の衣着たままのゾーマが千人がかりでも楽勝なんだが……それを操られたら、それこそたまったもんじゃない」
と、瓜生が深呼吸する。
「操る?」
「心だけを操る、実体が半ばない……邪神に近い魔物でしたね」サデルが、何度も複雑な呪文を唱えて分析する。
「そいつが盾を封じていたし、逆に盾がそいつを封じてた、とも言えるな」と、瓜生。「少し、軽い食事にするか」
と、瓜生が別にテーブルを出し、いくつかの駅弁とペットボトル入りのスポーツボトルを並べる。
「慣れてしまっていますが、つくづく便利な能力ですね」とサデル。
「でも、これだけでもそんな便利じゃない。トイレと風呂をちゃんと整備するのは面倒なんだよ」
「ああ、だからロト一族は、お手洗いと風呂、水と食料と清潔な寝床を最優先するのですね」サデルが深くうなずき、割り箸を割る。ジパングの血も引いている〈ロトの子孫〉は箸を使える。
「ま、それちゃんとやってれば伝染病はほぼ防げるからな。すまん、おまえにはまともな食事は無理だよな」と、瓜生がアダンにすまなそうな目を向ける。
アダンの髪の一本が、大きな蛇と化して、壁の何か妙な、液体とも固体ともいえない塊を飲みこんでいた。
「あれ、猛毒の鉱石では?」サデルが瓜生に聞くのを、
「そういう体なんだよ」と、瓜生がいくつか呪文を唱えてやる。
「心配かけたな」と、アロンドが起き上がろうとするのを、瓜生が止める。
「離脱する」と、瓜生がサデルに軽く目を向ける。
「おれ、しばらくここで修行しとく」というアダンに、瓜生がうなずきかけてリレミトを唱えた。
地上に出て即座にルーラで大灯台の島へ。
勇者の盾。光の鎧。王者の剣。三つの神武装、そしてロトの兜も含めたロトの四武装が、百年のときを経て再び勇者の身に収まった。
それは、船室で休むアロンドから離れて、主なき鎧のように広場に立っていた。
〈ロトの民〉や〈ロトの子孫〉たちが集まり、ご神体を拝むように拝礼する。
その夜の間に、サデルの指示で、ロト一族の重要な長老格が集められた。
翌日、回復したアロンドが出てくると、拝礼している人々を見回す。
「ひどい悪夢を見ていましたよ」と、ローラが心配そうに言うのを愛情を込めて軽く抱き、ついと、甲冑に手を差し伸べる。
ロトの鎧、盾、兜、剣は瞬時にその身を覆う。生まれたときから着ていたように似合っている。
神々しい姿となったアロンドは、重みがあり遠くまで響く、魅力的な声を上天気の空に響かせた。
「ロトの盾は長い物語をしてくれました。
先の勇者ロト、ミカエラがラダトーム宮廷に返納された盾。ですが、数十年後に愚かな大臣が、当時は邪神教団に支配されていたデルコンダルの密偵に、この盾を売りました」
何人か、〈ロトの子孫〉の長老がうなずく。
「しかしそれを察知した、〈ロトの子孫〉ラファエラが、その跡を追ってデルコンダルに侵入し、そして海底洞窟に封印されようとしていた盾を一時奪回し、盾の力で邪神教団を滅ぼしました。
この盾はそのままこの洞窟にいたい、と言ったので、そのまま置いて帰ったそうです。この盾は、自らの意思を持つ、生きた神々のひと柱でもあるのです。別の神々に寄生しその力を吸い、また封じることもします。だから、闇の神力が漏れ出る魔王の爪痕のそばにいて、力を食いつつ弱めてもいたのです。
そしてラダトーム宮廷は〈ロトの子孫〉の職人が作った偽物の盾を、気づかずに持っていましたが、その偽物は竜王に破壊されました。
……そして、今は別のことをしたい、そのために私を呼んだ、と言っています」
そう言うと、アロンドの手から盾と剣が離れ、そのまま大きなトンボのような姿に変じ、光を放ちつつ飛び出した。剣と盾は、アレフガルドの中心、魔の島のほうにまっしぐらに吸い込まれていった……
「きっと、あの子を助けてくれる。私が必要とするときにはまた戻ってくる」
と、アロンドは遠く、戦い続けるもう一人の息子のことを思い、空を眺めていた。
リレムという少女が、どんな資格でデルコンダル王宮にいるのかは、誰も知らなかった。
ホマス第三王妃は、第二王妃の愛人だと思っている。第三王妃の女官たちは、第三王妃の新しい女官見習いだと思っている。
第二王妃は新しい王妃だと思っている。第二王妃の妹は、バルツ大臣の愛人だと思っている。
バルツ大臣は、アレフガルドの貴族の娘だから、ある種の人質だと思っている。バルツ大臣の評判が悪い甥は、自分の愛人だと思っている。
もう、ロトの子孫の偽者とされる、アロンドの大騒ぎのことはほとんど誰も覚えていない。ほんの二月で、大きな魔獣と罪人の戦いが何度もあった。収穫があり、祭りがあった。
海の大漁で、最下層の奴隷まで誰もが、腹がはちきれるほど大食いした。
大雨で、いくつか橋が流され、多くの人が死んだ。
第二王妃の叔母が出産し、普通なら死ぬ難産だったが、リレムの献身的な介護……実は彼女が無線で呼び寄せた〈ロトの子孫〉の医師のおかげで母子とも助かった。
リレムはつい最近来たばかりだとは、誰も考えないほど馴染んでいる。いろいろなゴシップに精通し、気がきき、美しい少女は、もう宮廷の一部のようだった。
彼女が、一日に十時間ぐらい消えていることも、皆は気づいていない。
いろいろな時間帯、瓜生やジジの送り迎えで大灯台の島の学校で学んだり、船でキャスレアに女官の訓練を受けつつローラとローレルを世話したり、日本語や英語の読み書き勉強をかねて報告書を書いたりと、忙しく働いているのだ。
睡眠はちゃんととれ、と毎日のように瓜生に言われているので、デルコンダルで寝ることは寝ているが、起きているときは常に多忙だ。
そして、デルコンダルでの彼女の周囲に、変なことをする貴族の子や、老人すら何人かいる。
一言で言えば、スパイゴッコ。あちこちで噂を聞いたり、「聞いた声を保存する道具」などを預けられて、それぞれの楽しみのために政敵の寝室に仕掛けたりしている。
魔法の道具なら探知できる魔法使いはいるが、魔力を持たない、瓜生の故郷から来た道具も彼女は配る。
そして、ベンチの下の土にメッセージ入りの筒を刺したり、暗号を送ったりと、いろいろとやっている。
それは、退屈している貴族たちにとってとても楽しいことだった。
スパイ、というのはこれ以上なく楽しいのだ。危険だと言われるほど。
だが、時にはそれがとんでもないことになる。寵愛を失った第三王妃が、リレムから魔力なしで遠距離の人を殺せる武器……ボルトアクションライフルを盗み、王を撃とうとしたのだ。
だがそれは、カルダエ宰相が別のスパイを利用して……無論、宰相は自力で探ったつもりだが、リレムのさしがねで……察知しており、寸前に第三王妃を斬り殺し、ライフルを奪って、今度は別の政敵を暗殺するのに使った。
本来なら魔獣の餌にされても仕方のないリレムは、争いの狭間でなぜか罪を免れた。誰も、〈ロトの子孫〉が、銃の管理をどれほど徹底しているかは知らなかった。銃本体と弾薬が同じ場所に入っていること自体、ありえないことだ。
いろいろな人たちがスパイゴッコをして、政敵の動きを調べたり、弱みを握って脅したり騒動が起き続けている。
漁夫の利を得ているのは、王だった。
ハーゴンは、とある結界の中でほくそえんでいた。
「デルコンダル大陸に、邪神の信徒は入れません。強い結界でね……あのミカエルとラファエラ、アロンドさまの両親がかけたマホカトール……だが、リレムを通じて人を動かすことはできる。すべて、この……」
ほくそえんでいるのは、ハーゴンだけではなかった。
リレムが巻き起こしている騒動の中、奇妙に破滅する貴族や商人が多くいる。決まって邪悪な者だ。
ジジと瓜生は、リレムが持っている盗聴器と小型カメラの映像を見て、確かめていた。
「リレムが何か、指示を出したって感じはないな」と瓜生。
「直接会って気づかないの?彼女、香水をつけてるわよね」
「診察には不便だよ。香水になるハーブと花を、サラカエルの村で栽培を始めたって聞いたな」と、瓜生が地図を見る。
ジジはため息をついて、
「そんな話をしてるんじゃないわ。リレムの、香りをかいだだけで動いている奴らがいるの。多分本人も、操られたと気づかないで」
「どういうことだ?」
「石にされる前のこと、思い出してるの。ある女官が、いつもと違う匂いをさせた、その直後カンダタを裏切ったヤツがいる」
「匂い?」
ジジが、静かに笑って、目の前にいくつもの小さなガラス瓶を並べた。
「どんな仕掛けかわからないけどね。アロンドの両親が邪神教団は駆逐したはずだけど、自分でも邪神の信徒だと気づいていない人間は、どうしようもないのよ」
「ダーマにでも聞きにいけたらな」
「世界樹とガブリエラに聞いてくる」と、ジジの姿が消えた。