学校では実戦さながらの訓練が、授業として行われている。
小隊で集まり、敵との戦いを前提に騎馬で走る。さまざまな学年の子が集まる小隊が、共通の目的と訓練でまとまっていく。
先行する二つの騎馬ライフル分隊が、互いをカバーしながら前進。横一列だ。
縦一列ではAK-74のフルオートでも一掃されるし、こちらから射撃するにも前の人が邪魔で一番前しか射撃できない。横一列で連絡を維持するのは難しい。
特に移動するための縦列から横列に、複雑な地形で組みなおすのは大変で、繰り返し訓練している。
小隊本部には〈ロトの子孫〉四人組と重火器分隊が直属し、ペースを守って馬を駆けさせている。もう一つの騎馬ライフル分隊がカバーし、時に先行している。
指示を受けて重火器分隊が素早く馬を下り、機関銃を構え迫撃砲を組み立てる。
「あっちの一本杉までの距離!」
距離がわからなければ、遠距離で火器は役に立たない。特に迫撃砲にとっては、距離がもっとも重要だ。
投槍も距離感が命だ。
「420m」
「300m」
「結構高い木だよ、650m」
「上り坂だから、200m」
〈ロトの子孫〉の四人が次々と言う。
小隊長をしているイスサが手早く、レーザーレンジファインダーとスコープがついたAK-74で距離を測って告げる、
「328mだ。全員、測量で距離を計測しろ!」
分隊ごとに、一本杉までの距離を得ようとする。分隊長は、筒と鏡を用いて工夫された距離計測具、精密な分度器、水準器、コンパスを持っているし、他の子もいろいろな方法で距離を測る。
「第二分隊、迫撃砲に敵位置を知らせよ」
分隊長の次の指示で、丘の向こうにいる第二分隊が、あらかじめ旗を立てた木から自分たちの距離と方角を計る。
そして手旗信号で距離と方向を知らせる。
「いつおれが戦死して小隊長をしてもらうかわからないんだ、手旗信号は読めるように!」
小隊長の命令に、〈ロトの子孫〉四人がびくっとする。
イスサはケエラの兄だが、訓練中は関係なく厳しく扱わなければならない。二人ともわかっている。
「おまえたち四人、小隊長補佐は、血筋だから努力しなくていいと思うな。魔法が使え、読み書きそろばんができるからその地位がある。もっと読み書きができるやつがいれば、出自が何だろうと交代させるわよ!」
副隊長が厳しく言う。
「はい、こちらから第二分隊長まで、水平からの角度、北からの角度、距離がそれぞれ……」
「大人は三角関数で計算するけれど、まだ習っていないなら?できませんというなら替える。すぐ答えを出す!」
副隊長の問いに、ケエラが思いつく。
「せっかくいい分度器があるので、自分で同じ角度の三角形を作ります。形は同じはずだから」
「あ、ケエラあったまいー」と、〈ロトの子孫〉の四人が同じ距離と方向のデータから、紙を広げて三角形を描きはじめた。
「おっかしいな」
「高さがあることを忘れているわよ」副隊長に言われて、四人が頭を抱えた。
「ケエラ、何してんのよ」同世代の〈ロトの子孫〉に文句を言われ、ケエラがむくれた。
「それでもいい。誤差は大きくなるが、何のデータもないよりましだ。それで射撃し、着弾を観測して修正すればいい」
イスサ小隊長の言葉に、副隊長がうなずく。
ケエラの表情が輝いた。
「水平を底辺に、ここと第二分隊長の位置に、縦の直角三角形を作る。第二分隊長と標的も、水平を底辺にした直角三角形。どうすれば、ここと標的で、直角三角形を作れるの?距離と高低差がわかれば、ここに迫撃砲表があるのに」と、一人が表を見つめる。
「あ、そうかベクトルの和だ」と、年長の子が思いつく。「ここを原点に、高さ、東西、南北の直交座標でベクトルを作り、各成分を足し合わせればいい。そのためには、ここと第二分隊長との直線距離から、高さと、真上から見た距離を出す」
「方向をすぐに計算できるのか?」副隊長がさらに追い詰める。
「それも、直角三角形を分度器で作れば」ケエラが自分のアイデアにこだわった。
しばらく走っていて、突然分隊長の一人が部下に叫ぶ。
「セメラが負傷、ダンカがRPG-7を引き継げ!」
「イエッサー」
答えて、乗馬のまま重い鉄筒を上級生の女子から受け取ったダンカ。だが彼は一度しか使い方を教わっていない。訓練弾も発射していない。
使い方はわかりやすく図解されている。でも、馬に乗ったまま、筒に長い棒状のロケットをつっこむのは難しい。
分隊長が、素早く手を後ろに振る。
全員、陣形を変える……負傷したとされるセメラの左右が、彼女の左右になるように。
「バカ、今RPG射手はダンカだ」
RPGの、前だけでなく後ろも危険だ。左右に向けて撃つこともある、しかも後方炎は角度がある。真横で安心してもやられる可能性があり、邪魔にならない程度に斜め前に位置しなければならない。
しかも馬を走らせ、周囲の敵に警戒しながら。
やっとダンカが筒に、ロケットになっている筒をさしこむ。
「遅い!味方が全滅しているぞ」分隊長が叱りつける。
「準備できました」ダンカが重い筒を構える。
「ばかっ」本来のRPG-7射手であるセメラが小さく叫ぶ。
「今発射したらセメラが後方炎でやられるぞ!」
分隊長の声にダンカは歯を食いしばり、馬の向きを膝だけで変えた。
「いいな、班の進行方向を調節して、後方炎被害が出ないように。誰がRPG-7射手でもできるようにするんだ」
分隊長が言うと、別の子を振り返った。
「ダンカも負傷した。ミナヅキ、引き継げ。笑ってるということは、おまえは完璧に扱えるんだろうな?第一班、ダンカは自力行動不可能。馬を引き継ぎ後送せよ」
「セメラが負傷したと第二分隊より。治療に行け」
分隊長命令に、ケエラがポニーをそちらに向ける。
「おまえたち、〈ロトの子孫〉四人は負傷者が出た際の衛生兵でもある。命令される前に準備を整えなさい。命令服従をはき違えるな」
副隊長が厳しく言う。
ケエラが赤くなって走り出したところで、
「まっすぐ行ったら的だ、敵を警戒しろ。二人ずつカバーしあい、援護射撃をしながら進む、毎日何を訓練しているんだ」
と、また厳しい声が飛ぶ。
一段落し、汗だくの体を学校付属の公共浴場で洗い、学生基地に戻る。ちょうど昼、みんな保存食を受け取り、食べ始める。
馬乳酒を飲み粥を多めに食べ、配られた固パンは食べずに腰につけるダンカにケエラが、
「出かけるの」
と聞いた。嫌味たっぷりの声で。
「いつものあれでしょ」
と、女子も同調する。
ダンカがジニを製鉄所や工場に護衛するのが、ほぼ毎日の仕事になっている。
「みんなうらやましがってるわよ、あんな美少女の護衛なんて」
「必要だからやってるだけだ」(あれのおかげでみんなに嫌われそうなんだ)
ケエラは、緊張していた。
昨夜、ハーゴンから秘密の指令があった。
「少し、ジニさまと二人きりで、勝利のために話す必要があるのです。誰にもないしょで。明日のお昼休み、ジニさまに化けて、ダンカくんに送ってもらってくれませんか?
そうすれば、ダンカくんがジニさまと愛し合ってる、って噂も確かめられるかもしれませんよ」
ケエラの頬が怒りと嫉妬に真っ赤になる。
ハーゴンはそのまま去った。
ケエラは感情が混乱したまま、テントに戻って寝ようとしていた。その帰り道、高い木の枝を運動能力任せに飛び移っていたとき、見てしまった。
藪に囲まれた小さな空き地で、一人の少年が奇妙な動きをしている。
(ダンカ)
後ろ姿でもわかる。ケエラは、ハーゴンに習った方法で気配と音を消した。
裸に、怪力の子がハンデのために着る重い鎖帷子を着て、いわゆるバービー。ただし、腕立て伏せの姿勢からはそのまま腕立て伏せをして、立ち上がる時は全力でジャンプしている。
何十回も。声も出さず。崩れ落ち激しく呼吸し、塩をなめ竹筒の湯冷ましを飲み、かろうじて立って繰り返す。
また繰り返し、死んだように力尽きる。とっさにケエラが駆け寄ろうとしたほど。
ダンカは息も絶え絶えに、半ば寝たまま鎖帷子を脱ぎ捨て、しばらく深い呼吸をしてからゾンビのように起き上がった。
それから学校でもやる武術の、48のうち1つだけを繰り返す。二十回かそこらで力尽き、崩れ落ちる。また起き上がって、十回。
それからホイミで回復し、テントに戻った。
(な、なによあれ。特別な必殺技とかやってるんじゃないんだ)
サラカエル・ムツキ夫婦に預けられ開拓農業を学んだころから憧れた、烈光拳。
(あたしに、あんなきつい、単純な動きばかり、できる?)
激しい鼓動が止まらない。
ダンカがジニを迎えに行く前、ケエラは喜怒哀楽の表情を順に浮かべ表情を消した。表情を変えることを通じて感情を隠す、自分自身をだます。
存在感を消して、ジニがいる図書室に向かう。
瓜生の故郷で言えば、ロードサイド大型書店級の図書室。
瓜生が残した、大量の本がある。比べれば少しだが、ロト一族が共通語に訳し、印刷した本もある。〈下の世界〉に元から伝わり、印刷された書物もある。
美少女が一人、書き物をしている。見るだけでうっとりするような美貌。それに、焼けた針を刺されるように嫉妬が燃える。
ケエラはひそかに呪文を唱えて魔力を開放する。
『ラリホー』『モシャス』
ジニは魔法を、編むことはできるが発動できず、感知することもできない。
眠りこんだジニを、ジニの姿をしたケエラが、ハーゴンの指示通り棚の間に隠す。
「ジニ」
ダンカの声に、黙って彼のところに向かう。
ジニがどんな様子で彼と共にいるかは、何度も見ている。いやというほど……三人で動くことも多いし、そうでなければいつも遠くからにらんでいる。
一言の会話もないのが普通なのだから、演じるのも楽といえば楽だ。
ケエラは、ジニを演じながらダンカの目を読もうとした。
だが、ジニの目で見たダンカの目は、優しく気遣いと奇妙な冷たさを浮かべていた。
(え)
クラスの男子がいつもジニに向けているような、いやらしい視線とは違う。
(家畜の世話をしている時と、同じ目)
ダンカが、手を差し出す。
ケエラ/ジニが、いつものようにルーラを構成し、ダンカの魔力を借りて発動させる。ダンカの固い手を、油で真っ黒な手で握りながら。
着いたのは、リリザ近くの整備工場。
故障した戦車や大砲が運び込まれ、大型の機械で修理されている。
それを使うのは人だ。つい数年前までは江戸時代程度の文明水準だった人。それが必死で、さまざまな動力工具を扱い、精密に交換部品をはめこんでいる。
アセチレンバーナーや希ガスアークで精密に溶接していく。
クレーンで十トン単位の部品を運び、組み付ける。
瓜生が出した、まだ自分たちでは作れない精密旋盤で交換部品を削り出す。
その旋盤を見た瞬間、『ジニの』胸に炎がわくのがケエラにはわかった。
大切。すごい。素晴らしい。作れなくて悔しい。これを作るためには、先に鉄鋼そのものの、リンや硫黄を……そのためには鉄鉱石の選鉱、耐熱煉瓦の成分比……何十冊分の本、膨大な数値表や実験の記憶が頭にあふれ、ケエラは悲鳴をあげそうになった。
かろうじて抑え、『ジニは』昨日と同じように自分の持ち場に向かい、シリンダーの削り出し作業に集中した。
だが、『ケエラは』気になってしまう……今、ダンカが誰を見ているか。もしかして、ジニを見つめていないか。
ジニであるためには、ダンカを振り向いたりはしない。自分も一緒にいたことは何度もあるが、いつでもジニは自分たち二人に目もくれず、機械を操作して自分の世界に入りきってしまう。
(でも、あたしがいないとき、二人は何をしてるの)その疑いが、『ケエラの』胸を締めつける。
休憩時間が待ち遠しい『ケエラ』。
(ジニは休憩なんて考えない、ひたすら集中する)
そう、考えてしまうことさえ魔法を壊す。もともと、モシャス自体それほど持続時間は長くない。
魔法が切れそうになって、休憩室に行く。風呂上りのダンカと鉢合わせした。
廊下で、二人きり。
ダンカの、いぶかしそうな目。驚きと疑いを感じ、怯える。
(変身が切れる)
焦る。
(ジニは、焦ったりしない。怪物なんだから)
(ダンカ、ジニを、どんな目で見てるの)
(もっと、もっとジニになれば、わかるかも)
焦りが、ケエラの感情を激しく揺らし、転覆させる。
ダンカが、飲み物を取りに注意をそらした隙。
(もっと、もっと深く)
(完全に、ジニになりきる)
(ジニを、奪う……ほしい!憎い……)
ジジに禁じられていた、顔や肉体だけではない、魂全てのモシャス。
昔の特訓を思い出す。
「モシャスにもいろいろある。顔だけ。肉体。声。それに、あたしなら魔法なしでもできる、しぐさ」
そういって、ジジがやってみせた。確かにマホトーンで完全に魔法を封じた状態で、彼女は似ても似つかないキャスレアになりすまし、その仕事の一部をこなし部下に命令してのけた。
まったく違う顔なのに、誰もそのことに気がつかなかった。わかっている、そして顔がジジなのを知っているケエラから見ても、目の前にいたのはキャスレアだった。
「わかったろう、外見だけじゃない。しぐさも本人さ。ウリエルの計算機には、人を歩幅から判断するのもあるってよ」
歩き方を変えるだけで、今度はムツキになりきってみせた。
「最後の段階が、魂まで盗む。これができれば相手の能力もそのまま使える。でもそれは、自分が誰だかも忘れかねないんだ。いや、完全に忘れなければ、できない」
そう言って、ジジはケエラを操って激しい苦痛をともなう呪文を使わせ、深い深い無力感と自己嫌悪に感情を操った。
「この先、もう引き返せない崖の向こう。そこにそれがあるんだ」
それでもモシャスを使いたいのか、ジジはそう問うた。
ケエラは、何があっても使いたいと答え、耐えた。勇者として認められたかった。〈ロトの子孫〉としての誇りが、やり抜けと命じ続けた。
シンシアのような自己犠牲のために。
『モシャス』
ジニの、すべて。しぐさも。魂も。外見も。記憶も。
崖を飛び越えた瞬間、流れこんできた。
凄まじい痛みと悲しみ。ケエラが受けた特訓など、家族を失った悲しみさえ笑い事でしかない。ジニも家族を、全員失っている。
たったひとつ、学び工夫し、手で作る喜びだけ。でもその、すべてをこめた愛着を、何度破壊され激しく鞭打たれたか。生きていた頃の家族にも、奴隷頭たちにも、同じ奴隷仲間にも。
向学心と工夫は、古代社会の女にとっては重罪だ。
幼いときからいつもいた、遠くからでもやってきた、邪悪。吐き気どころではない。心が崩れそうにすらなるほどの衝撃。
(何をしても無駄)それだけが、人の間から学んだことだった。美しいのは数学と、ものづくりだけ。
生贄としての絶望のきわみ。
訓練中のリレムたちのついでに瓜生に救われてから、それまで重罪だったことが、もっとも褒められるべき天恵になった。
「これから、わたしが母親だと思ってね」と微笑みかけるレグラント。
「今、おまえが考え思っていることは、おれたちはよくわかってる。おれたちは城下の孤児だった」と言う、迫力がありまったく嘘のない手と目をしたロムル。「安心させて、次のお楽しみ……そう思っているだろう?そう考えてあたりまえだ」
「私たちが何か、行動で判断してくれ」圧倒的な美しさとカリスマが輝くアロンドが、それだけ言った。
「好きなだけ工夫していい、好きなだけ本を読んでいい、好きなだけ考えていい、何でも言っていい」と、瓜生が強くいい、アロンドが頷く。
実際に目の前に積み上げられた、何千冊もの本。よだれが出る、食物よりも。
「おれたちは、罰として叩いたり食事を抜いたりしない。暴力は、暴力を抑えるためにしか使わない。本当にそうかどうか、見てくれ」と、ロムル。
「約束するわ。二度と、誰にもあなたをいじめさせないから」と、レグラントが言って、額をぬぐってくれる。
その時も感じるすさまじい恐怖と、かすかに湧く安心感。
一日、二日、三日。長く馴染んできた暴力と罵声ではなく、本と、おなかいっぱいのおいしい食事、好きなだけ眠れる柔らかなベッド。
いつ、また始まるんだろう。その恐怖を忘れさせてくれるのは、本だけ。
傷つきすぎた孤児のことを知り尽くしているロムルとレグラントが、まるで傷ついた小さい野良犬を懐かせるように、適度な距離を保ち約束した距離からは決して踏み込まない。
そして数日後には体を洗ってくれたり歯を磨くことを教えてくれたり、その都度、明確な命令と報酬をくれた。気まぐれが支配する世界じゃない、ちゃんと信頼できる、そう伝えてくれる。そして二人とも、とても暖かい。甘えたい、でも怖い……
何より本。まず〈下の世界〉共通語の、多数の本。おなかいっぱいなど、ついででしかない。
「これは共通語に訳された、おれの故郷の本だ。まずここのみんなが使っている算数の教科書、それに幾何学と代数学、人体解剖学。動物・植物・鉱物・魔物の図鑑」と瓜生が言って、何冊もの本と白紙を一抱え……もちろん本も白紙も、彼女の常識から見れば二月分の食料、または奴隷一人を買える貴重品だ……それに純金の地金をジニに渡した。
「これだけで三千ゴールドにはなる。少し重いが、どこででも生きられる」と瓜生が真剣な目で言う。
「だめ。この子は〈ルビーの涙〉、金だけ持っててもあらゆる悪に狙われる」と傍らのジジが言う。
「じゃあ、武器の使い方と、できたら魔法も」瓜生が言って、どこからかAK-74を出す。「ちゃんと使い方を習えれば、だぞ」
「魔法。ちょっと真似てみて」とジジがいくつかの身振りをし、上位魔法語をつぶやきながら魔力を展開する。
前から親や悪魔神官が使うのをのぞき、知っていた魔法と上位魔法語、同様に自分の心を沈めて力を編んでみる。
「あ……編むのはすごいね、魔法の理論はわかってる。でも発動する力がないんだ。それはどうしようもないな」と瓜生。
「こんな素質があって発動できたら、へたすりゃ魔王だよ」と言うジジの表情が消える。
その目に、見慣れている憎悪と恐怖の目が浮かぶかと思ったが、それがうかがえない。何の表情もない。素直に、ジジの表情を消す能力をすごいと思う。
本が次々と加わる。日本語の勉強も始まった。
ソロバンを理解したとき、そしてAK-74を分解したとき、ものすごく感動した。絶頂と言ってもよかったほど。
数学を学んでいるときの喜び。自分で見出していた、2の平方根が無理数だということの証明。三平方の定理の多様な証明と、その応用。
そして瓜生は、工具も色々と見せてくれた。見ほれ、作れるさまざまなものにただ驚嘆した。
わずかに残るケエラの部分が、恐怖に打ちひしがれる。人間とは思えない凄まじい情報量、澄み切った思考。
膨大な学問の記憶。何百冊もの本を一字一句正確に暗記している。数学の世界を感覚として映像のように理解し、その広大で美しい抽象世界を貪欲に飲みつくしている。元々盗み覚えていた共通語、上級魔法語、神聖語に加え、二年で日本語、中国語、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語それぞれで二万語以上の語彙、発音記号と正確な書き方を記憶している。
手で物を作る喜び。精密にガラスを磨き上げ、金属を削る技術を習えるものは習い、習えぬものは自らやってみる。数限りない傷の痛みすら喜び。
細かな編み目の魔法など、その脳のちょっとした副産物でしかない。
数学と工学の圧倒的な喜びの前では、学校での規律やクラスメートの無視、男子上級生の欲望の視線など、ささいでしかなかった。
ほかの記憶も流れこんでくる。
ロムルたちが面倒を見ている孤児たちに、少しずつ加わる。学校に初めて行く。
どちらも、クラスメートの視線は、よく知っているものだった。
美少女を見る男子の目、女子の目……ジニの記憶にある自分の意地悪さに、ケエラは絶叫しそうになった。
だが、ケエラ自身の感情はあってはならない。ジニであり続けなければモシャスが解けるか、人格が崩壊して戻れなくなる。
男子たちの中でも、ダンカだけは何か違った。でも、ジニが感じているのは恋愛感情ではない……憧れは、すべて瓜生の世界の偉人たち……エヴァレスト・ガロアやニールス・アーベル、エミー・ネーターらの悲劇的な生涯と業績に注がれている。
ただ、ダンカはほかの男子とは違い、ジニを疎外し、からかい、欲情をぶつけ、攻撃しようとはしていない。
同じ何かを共有しているような、寂しがっていることだけを感じた。
それに、奇妙な冷たさもあった。それが逆に安心できた。感情を向けられることは、苦しむことを意味した。
ケエラにはわかる。ジニの目から見たダンカの目に浮かんでいるのは、孤独だ。
〈ロトの民〉の仲間と、武術の才ゆえに切り離されてしまった苦しみ。ダンカには、みんなと一緒にジニを疎外することができなかった。みんなと一緒に女の子をいじめたりもしたいのに、もう人を殴ることができない。ダンカには、ロトの掟しかなかった。
物心ついた時から孤独だったジニには、それがよく見えた。
ジニが感じている恐怖、ハーゴンの目。幼いころから知り尽くす邪悪の、桁外れに強いもの。
いつ自分はいけにえにされるかもしれない、そのことは覚悟して、だからこそ一日一日、一秒一秒を大切な贈り物のように思い、少しでも物を作り、一文字でも本を読みマニュアルを書く。
覚悟は、とっくにできている。
モシャスが解ける。涙がとめどなくあふれ、頬を伝う。
驚いた眼で見ているダンカに、ケエラは告げた。胸が張り裂けそうな罪悪感を抱いて。
「ジニが、ハーゴンに生贄にされる」
ダンカの表情が凍りつく。
「助けに行くわ」
「おれも」
ダンカにケエラはすっと寄って、唇を重ねた。背伸びをして。
(いつ、こんなに背が伸びたんだろう)
「人を連れてきて、武装して。大人に知らせて。ジニは絶対に助ける」
自分は死んでも、は当たり前すぎて、言葉にするまでもない。
魔力のこもった砂を、ダンカに握らせる。
「ディウバラのバイオリンを壊したのも、あたし。場所は、学校の南西、森の向こうにある荒れ地」
言うと、ケエラは外に飛び出し、ルーラを唱えてかき消えた。