ケエラは、ハーゴンの隠れ家の近くに出現した。
彼女が反省し、ジニを助けることを決めた……紙一重だった。刃の上を渡るように、わずかなバランスでどちらにでも転がるところだった。
「自分は〈ロトの子孫〉のミカエラ直系、エリートだから何をしてもいい、何でも手に入るのが当たり前」と、「エリートだからこそ、汚いマネはしない」と。
ジニになりきって、その目から自分を直視しなければ、どうなっていたかわからない。
今のケエラには、自己嫌悪と怒り、そして勇気だけだった。
服装と持っているものを確認する。ジニとして、工場内の服に着替えていた。ケエラもジニも肌身離さない銃はない。水も食料も。剣も盾も。
腰にはヴィクトリノックスのスイスツール、六角レンチ。ソロバン。紙とボールペン、ノギス、ルーペ。
スイスツールをズボンのポケットに入れ、それ以外を木のうろに隠す。
訓練が、彼女に深呼吸をさせた。
実戦になったらどうなるか、しばらく前の授業を思い出す。
「まず、初の実戦では半分近くが、大をもらします。実戦経験があれば、みんなそのことは知っています。
そして実戦では、人間は変な行動をします。気持ちのありようも全然変わります。
たとえば、視野が狭くなります。反故紙を配りますので、この形に切り抜いてください」
と、紙が配られ、黒板に縦のスリットが描かれる。
「これを、糸で目にかけてください。雪盲を防ぐためのものと同じです」
「うわ、こんなに?」
「そう、あたしも、逃げてて襲われたとき、そんなふうになった。何とか助かったけど」と震える子の頭を教師がなで、授業を続ける。
「また、左右対称の動きしかできなくなることも多いです。だからいつもやっている素手48・剣24の動きのうち、初の実戦でできるのは数種類だけです。
そのために、今日からは毎日の運動と訓練を少し短くするかわり、素手と剣両方、共通するひとつの動きだけを百ずつやってもらいます。実戦では何千回も体にしみこませた、訓練された動きだけしかできないのです」
その授業は半ば聞き流していた。
竜王戦役で何度も戦場の近くにいたケエラは、戦争や避難のストレスで人間がいろいろな反応をするのは見ていた。
だが、自分もそうなるとは思っていなかった。
(実戦で正しい行動をとれないなんて、臆病者だけよ。あたしはちがう)
そう、思っていた。
(あたしは死ぬ)
(それは当たり前)
そう思いながらも、震えが止まらない。
(うごけなくても、どうなってもいい。ジニさえ助ければ。どうか……)
それだけ思って、呪文を唱え、合い鍵を使い隠れ家に入る。
岩を利用し、地下に隠れた部屋が奇妙に不揃いなろうそくの火で照らされる。それもまともなものではない、じじ、じじっと線香花火のようにはじけ、激しく揺らぐ。異臭が漂う。
寝かされた裸の少女の全身に、おぞましい魔の紋様を描いている小男。
「おや、ケエラさん」
「生贄は禁止ですよ、ハーゴン」
「掟破りはあなたもでしょう?」
ハーゴンは悪びれず、ケッケと笑っている。
「何の話です?」
ケエラは優雅に歩み寄り、ジニを抱き上げようとした。
「おや、助けるのですか?あなたのダンカくんを寝取った、よそものの怪物を」
「誰だろうと関係ない、生贄や虐殺は止めるのが〈ロトの子孫〉……ロト一族よ」
と、ハーゴンをにらむケエラ。
「でも、足が動かないでしょう?そりゃそうですよね、どんなに強がっても、小さい子のあなたが。まして剣も銃も、楯もなあんにも持ってない。失格だぞケエラ、常在戦場はどうしたっ!」
一瞬教師の口まねをして、ケケケ、と愉快そうに笑う。
「おや、恐怖のおいしい味を感じませんね」
と、ハーゴンが長い舌を、ケエラの喉に触れさせる。愉快そうに、しばらく笑い続ける。そしてケエラの、スイスツールを抜いて、かみ砕いて食べてしまった。
「若い!子供ですからねえ。自分が敗れるなんてかけらも思っていないんでしょうねえ。自分より強いものがいるなんて。そりゃそうですよ、無敵のロト一族ですものね!
そんなあなたが恐怖と絶望に崩れ、砕けて生贄になる、なんて嬉しくて美しいことでしょう。どんなに美しく砕けてくれるでしょう。
ああ、なんて楽しいんだ。キスしたくなりますよ、愛してますよ、アロンドさまの次にですがね、美しいケエラさん」
と、ますます醜くなる笑顔で、ケエラの唇を犯そうと……
ハーゴンの腹部に閃光が輝く。
「ぐ……」
左掌打を引っこめず、浅くしゃがむように腰を落として接近し、左肘をハーゴンの胸にぶちこむ。
「ケエラ、おまえには武闘家の素質は……うぐ、そうか。ムツキにモシャスしていたか、外見だけは自分のまま」
腹が溶け出したハーゴンの、苦悶の表情。
かすかな煙とともに、ケエラが、ムツキの姿に変じる。
ふっ、と笑ったケエラ/ムツキが、瞬間後ろを向いて手刀をふるった。それが、いつのまにか背後にいたハーゴンの、槍のように伸びる舌をそらす。
「ほう、これも読むとは」
「ジジ先生に教わったのよ、思い通りに行ったときには幻覚と思え、って!」
鋭く踏みこみ、拳を突き出す。
ハーゴンもすさまじい力と速さで、拳を叩き落とし応戦した。
「さすがはジジさま、デルコンダルの魔女。ですが、あの人も杖がなければ、なんてあっけなくやられたことか……ケエラさん、あなたのおかげでね」
嫌味に言いながら、余裕綽々と蹴りをよけ、指の一本が槍のように伸びてケエラ/ムツキの肩を貫く。
痛みもものかは、その指をなでるように押す手から閃光が放たれ、ハーゴンの指から手が溶けはじめる。
ハーゴンは愉快そうに笑いながら、呪文を唱え始める。
「さあ、守るものをなくしてあげましょうか……この、部屋の中でのイオナズンでね。それに、モシャスもそろそろ限界でしょう?」
そして鋭い一撃、それ自体はケエラ/ムツキが放った両手掌底と相打ちだったが、一気にモシャスが解けた。
容赦ない一撃がケエラを壁の向こうに吹き飛ばし、そして呪文が唱えられる。
「いいですねえ、その絶望の……いやいや、その中でまだ、何かやる気でいますね?さあ何をしてくれるのか、楽しみにしていましょう」
すでに傷を負っているケエラが、ジニを抱え上げる。
そして、ハーゴンにはジニを抱えて逃げようとするケエラと、真横から儀式用の短剣を拾って突きかかるケエラ、二つが同時に見えた。
「おや、このハーゴンに幻術を使うとは、なんといううぬぼれ」と、突きかかるのを無視してジニを抱えて逃げるケエラを追う。捕まえた、瞬間に二人の姿が消え、横から短剣がハーゴンの腹に刺さる……かに見えた。
刺さらない。その体を、背後から悪魔の目玉の触手が捕まえている。
「ケケケ」と笑って迫るハーゴン。
その瞬間、ハーゴンがとっさに額にかざした手に、銃弾が食い込む。同時にレーザーのような光が悪魔の目玉をぶち抜く。
銃声が狭い部屋に響く。
「うわああああっ!」
絶叫とともに殴りかかる少年。
ハーゴンが無造作に払う腕に、閃光が走る。同時に放たれた斧刃脚が足に打ちこまれるが、
「こざかしい!」
ハーゴンは蹴られた足をそのまま蹴り上げ、ダンカが壁にたたきつけられる。
「ほほう、まさしく勇者さまですね。〈ロトの民〉ふぜいですが。いやラファエラさん、あなたは本当の〈ロトの子孫〉。なんていい生贄がまた手に入ったんでしょう」
ハーゴンが余裕で笑う。
AK-74を構えたラファエラは、構わずフルオートに切り替えて伏せ、ハーゴンに連射する。
ダンカが口の血をぬぐって起き上がり、絶叫してケエラのところに走る。
「ジ、ジニだけは助けて。逃げ、て、早く」
死んでも触手は緩まない、それをダンカが閃光を放つ拳で溶かし、ケエラを抱くように引き上げる。
「うかつに動かないで。簡単に逃がしてもらえるはずがないわ」
ラファエラが自信に満ちた声で命令し、ダンカは素直に自分とケエラにホイミをかける。
直後、ろうそくが壁に落とすハーゴンの影から、顔の見えない仮面の人姿が出てくる。
「悪魔神官」と、ラファエラが素早く呪文を唱えるが、相手も唱えた呪文が打ち消しあう。
襲いかかる姿に、ラファエラは腰だめでAK-74を撃ちまくる。狭い部屋に銃声、耳栓をしていないケエラの耳が痛む。
隙を作って走り抜けたラファエラは、ケエラのそばに寄ると大人用の鋼の長柄剣を渡した。
「戦える」ケエラが立ち上がり、剣を構える。柄が長い分刃が短く、着剣小銃のように使えば室内戦でも有利だ。
襲ってきたハーゴンを、ダンカと二人で迎撃する。ケエラはジニを背負ったまま。
ダンカが応戦している間に、ケエラは素早く呪文を唱え、剣にメラの魔力を注ぐ。
そして、全く違う方向を襲う。……ちょうどラファエラの呪文をマホカンタで跳ね返そうとした悪魔神官を貫いた。
ラファエラはそれを予期していたように、AK-74を数発至近距離からハーゴンに撃ち、そのまま出口に走った。
ダンカとも、ラファエラともケエラは長く共同生活をしている。息を合わせるのはたやすい。
出口に移動していたハーゴンがケエラの剣を受け止め、ダンカの拳をはたき落した。その間にラファエラが駆け抜けようと、したのをケエラが止めて近くに転がっていた、燃えているろうそくを出口に投げた。
その塊は一瞬で焼き尽くされる。
「出入り口自体が幻よ、こっち」と、ジニを抱えたまま別の岩に体当たりすると、何もないように転がり出る。
「まだ油断しないで」と、ラファエラがイオを唱え、周囲を吹き飛ばす。森のはずれ、広い原野が広がる。
目の前には巨大化したハーゴンが二人、そして四人……どんどん増えていく。
ケエラが一瞬、メガンテを唱えかける。ハーゴンがほくそえみ、ダンカがダメだ、と叫ぼうとするが、(信じて)と目で訴えて呪文を唱え続ける。
ハーゴンは構わず歩み寄る。木に触れるとそれが人面樹と変わり、足跡から次々と泥の手が伸びる。
直前で呪文を切り替える、ザメハ。
ジニが目覚める。
ハーゴンは当てが外れ、なおも余裕を見せて呪文を唱え始める、それをダンカが走り寄り、拳を突き上げる。
幻を打ち空を切るダンカの拳、ハーゴンのイオナズンが唱えられた瞬間。
ジニが呪文を完成させケエラの魔力を借りて発動する。ハーゴンが唱えた呪文の威力が、宙に浮いたいくつもの石に集中し、多数の破片が超高速で飛んだ。
呼び出された魔物たちが次々と激しい打撃を受ける。
「もう許さん」ハーゴンの雰囲気が、ふっと一変する。「大魔王からは逃げられない、ルーラは使えんぞ。用事があるのでね、とっとと死んでもらう」
と、激しく足を踏み鳴らすと、多数の巨大な魔物が出現する。
絶望を感じながら身を寄せ合い、戦い抜く覚悟を固めた、そこに遠くから叫び声が響き、数十人の騎兵が出現した。
「各分隊、横隊!訓練通りだ!左右を見まわせ、深呼吸しろ!訓練通り動けばいい」
先頭で馬に乗ったヘエルが叫ぶ。
その左脇にはイスサ。朝とほぼ同じ小隊。大人も数人混じっている。
「兄さん!」ケエラが叫ぶ。
だが、ハーゴンが手を振ると、その周囲には恐ろしく強そうな、巨大な魔物が二十近く出現した。
剣を持ち翼を広げるガーゴイル。木が変じた人面樹。翼を持つグレムリン。不気味なスカルナイト。牛サイズのバブーン。おぞましいグール。長い牙をむき出すサーベルウルフ。そして妖術師。
ケエラたちにはスカルナイトとオークキングが突進し、合流を阻もうとする。
「さあ、生贄を殺せ、わが邪神にささげよ!楽しみを見ぬのはもったいないが、わしにはすることがある……ロト一族すべて、アロンドもローレルも、すべてを生贄にささげ、その力もてシドーを復活させる……ケエッケッケッケ」
それだけ言って、ハーゴンが消えて魔物たちが、殺気に満ちて咆哮した。