夏の幻   作:うめちよ

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あの時君は、

彼らはあの世界で、確かに生きていた。

―――確かに、「人らしく」生きていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏の強い、いっそ暴力的と言っていいほどの強すぎる日差しの下で、小さな頭にかぶさった大きな麦わら帽子が揺れている。麦わら帽子からひらりひらりとはみ出る髪は透き通るように白く細い。きらりと汗が伝う肌もまた白く、ゆらゆらとゆらめく蜃気楼に溶けてしまいそうな、そんな印象を抱かせる少年は、そこそこ急な下り坂を今にも飛んでいきそうな麦わら帽子を小さな手で押さえながら風のように走っていく。

 坂を下りた先の交差点を曲がり、走り、また曲がる。短い階段を降りて、小ぢんまりとした神社の脇を抜けて、そうして忙しなく動いていた少年の両足がぴたりと止まり、彼はその場にしゃがみ込んだ。

 

 ぜえはあ、と華奢な肩で息をする少年の麦わら帽子に、夏の日差しでくっきりと形をもった影がかかった。地面を見つめていた少年が落ちてきた影に気付いて勢いよく顔をあげ、そして蕩けたはちみつのような瞳をこれでもかと輝かせる。

 

「はとり!」

「うん、こんにちは鶴」

「ああ!こんにちは!」

 

 はとり、と呼ばれた影の主である少年は白い少年を鶴と呼んだ。鶴はきらきらと輝く瞳を細めて太陽に負けないぐらいの眩しい笑みを浮かべて立ち上がる。はとりは鶴より少しばかり背が高い。体も鶴よりしっかりしていて、それでも顔にはまだまだあどけなさの残る快活そうな少年だ。

 鶴の小さな手がはとりのシャツの裾を掴む。青いシャツははとりのお気に入りのシャツだ。よく晴れた夏空と同じ色のシャツを握る手はいつも白く、「おれたちだけのそらもよう、というやつだな!」と鶴が笑ってから、はとりは鶴と会う時、決まって鮮やかな青いシャツばかりを着てくるようになった。

 

「鶴、今日は何して遊ぼうか」

「神社!この前の雨の日、しゃちょーがついに子をうんだんだ!」

「えっまじか!じゃあお祝いしに行かないとなぁ」

 

 シャツを握る白い手を少しだけ大きな手が包み、そのままするりと二人は手を繋ぐ。日に焼けて、やんちゃばかりするせいかいつもどこかしらに傷がついた手が、鶴はとても好きだった。2つ年上のはとりはいつだって鶴の前を歩いていて、その傷だらけの手で鶴を導いてくれる。自分と同じ子どものはずなのに、どうしたって追いつけない背中と、決して置いて行ったりしない彼の手は、優しさに満ち溢れていた。

 ぎゅう、と握る手に力を込めてみるけれど、はとりは痛がる素振りも見せずに「どうした?」と鶴を振り返り首を傾げた。鶴はごまかすようにぶんぶんと首を振って、少しだけ早歩きしてはとりの横に並び、大きく足を踏み出した。

 

「今日、しゃちょーのためにごはん持ってきたんだ」

「へえ、何持ってきたんだ?」

「りんご!」

「……猫ってりんご食うのかなあ…」

 

 困ったように笑うはとりに構うことなく、鶴は繋がれた手を引いて走り出す。うんうん唸っていたはとりがびっくりしたような顔でバランスを崩し、それでもなんとか踏ん張って持ち直したところで、鶴はからからと楽しそうに笑った。2つ上の彼は鶴の前では妙に大人ぶることが多いが、やはり子どもは子ども。2つ離れているとはいえはとりもまだ11歳だ。ぽろりと出てきた自分と同じ子どもの表情に、鶴は満足そうに笑う。はとりの慌てた声なんてどこ吹く風といった様子でぱたぱたとアスファルトを駆けた。

 

 つい先ほど鶴が通り過ぎていった神社まで来ると、二人は慣れた足取りで敷地の中へ入っていく。真っ赤に塗られた鳥居の下を手を繋いだままくぐり、誰もいないのを確認して顔を見合わせこくりと頷く。そろりそろりと本堂の裏へ回り、鶴ははとりの手を離して口元に両手を添えて「しゃちょー…」と細い声で猫を呼ぶ。しかし、いつもならすぐに出てくるはずのしゃちょーはなかなか姿を現さない。その場で少し待ってみるが、やはり出てくる気配はなく、鶴は眉を下げてはとりを振り返った。

 

「しゃちょー、来ない…」 

 

 はとりもきょろきょろと琥珀色の瞳で周りを見渡すが、自分たちが探している猫の姿はない。不安そうな顔で自分を見る鶴に歩み寄り、はとりは麦わら帽子の上からその小さな頭を撫でてやる。

 

「大丈夫だよ、もしかしたらご飯を探しにいってるのかも。子猫の分も必要だから、きっといつもより遠出してるんだよ」

「ちゃんと帰ってくるかなあ」

 

 鶴は地面に視線を落とし、胸元まで垂れ下がった麦わら帽子の紐を細い指先で持て余す。鶴は野良猫が外で生きることの厳しさを知っている。今よりもっと幼いころ、道路わきで車に轢かれて息絶えた猫を見たことがあるからだ。鶴は昔から野良であろうとなんだろうと色んな動物に好かれるタチらしく、自分に懐いてくれた生き物すべてに名前をつけて可愛がっていた。そしてその猫も、鶴が「たろう」と名付けて可愛がっていた猫だ。

 

 ちょうど小学校が終わって帰り道をいつも通りはとりと手を繋いで歩いている時に見つけてしまい、はとりは鶴が大泣きするのではないかと慌てた。しかし予想に反して鶴はたろうを見て涙を流しはしなかった。ただただ静かにじっと横たわるたろうを見つめ、するりとはとりの手を抜け出して駆け寄った。たろうのそばにしゃがみ込んで、鶴は白い手でたろうを撫でる。はとりはその場から動けず、しばらくして鶴が顔をあげてはとりを見た。

 泣きそうなはとりの顔を見て、鶴はとても悲しそうに、それでも穏やかな笑みを浮かべて一言「手伝ってくれ」と言ったのだ。何を、とは聞き返さずにはとりはこくりと一度頷いて、そのあと二人でたろうを住宅街から少し離れた山の奥に埋めた。

 

 脳裏に浮かんだ過去の記憶にはとりはぱちぱちと瞬きをして今に意識を戻した。

 鶴の前にしゃがみ込んではちみつ色の瞳と琥珀色の瞳を合わせ、柔らかい頬を両手で挟んだやる。鶴が驚いて目を丸くするのにも構わずそのままぷにぷにと柔らかい頬の感触を堪能しながらはとりは笑って見せた。

 

 あの時涙を流していなくても、鶴が一番泣きたかったことをはとりは分かっている。

 

「だぁいじょうぶだって。すぐ戻ってくるさ。鶴がそんな顔してたら、しゃちょーも出てきづらいかもしれないだろ?」

「…うん」

 

 鶴は頬を包むはとりの手に触れて、小さく頷いた。そしてふとはとりの背後に視線をやって、「あっ」と声をあげる。はとりが肩越しに振り返ると、そこにはネズミをくわえた猫、もといしゃちょーが二人をじっと見つめていた。数秒の間を置いて、しゃちょーは視線を逸らし二人から少し離れた場所へ歩いていく。流れるようなしなやかな体を揺らし歩く姿はいつものしゃちょーだ。しゃちょーは野良猫にしては見目が綺麗な黒猫だった。つい最近子を産んだ体からは心なしか母としての堂々とした気配を纏っているように思える。

 はとりは鶴の手を握って立たせ、「こっちだ」と言わんばかりのしゃちょーの後ろ姿を追った。しゃちょーは縁の下に入り、続いて入ろうとする鶴を止めながらはとりが背を屈めてのぞき込むと、奥の方にしゃちょーと、しゃちょーに寄り添うようにしてみーみーと鳴く三匹の子猫が見えた。鶴がはとりのシャツを引く。

 

「よかった、みんなちゃんと生きてる」

「だな。りんご見せたら出てくるんじゃないか」

 

 はとりの言葉に鶴ははっとした表情で肩にかけてた鞄をごそごそと漁り、中から真っ赤なりんごを出す。しゃちょーがなかなか出てこないことに頭がいっぱいになって、忘れていたようだった。

 りんごを猫たちに見せながら軽く揺らして声をかけるが、子猫たちはまだ目も開いておらず、代わりに気付いたしゃちょーがのそのそと鶴に歩み寄る。地面に置いたりんごに鼻を寄せ、においを嗅ぐと口を開いて持っていこうとするが、さすがに丸々一個を運ぶのは無理があったようで、不満気に声を上げた。

 

「ちょっとおっきかったみたいだな」

「む…そうか、切ってくればよかったな…」

「じゃあお詫びといっちゃあなんだけど」

「?…わ、はとり、きみいいもの持ってるな!」

「千羽と一緒に買ったんだ」

 

 はとりがポケットから出したのはよくある安い猫缶だ。小学生にとっては高い買い物ではあるが、つい最近妹と小遣いを合わせて手に入れたものだった。

 

 はとりには一つ下の妹がいる。母親が異なる、いわゆる腹違いの兄妹だ。はとりは昔から自分のことを詳しく話そうとはしないから、鶴も詳しく知っているわけではないが、同じ小学校に通っているため兄妹仲が良好であることは知っていた。鶴とも面識はあり、何度か話をしたこともあったが千羽は元々体が弱いそうで、外で一緒に遊んだことはなかった。

 

 猫缶を開けるはとりの手元をじっと見ながら鶴は口を開く。

 

「ちはね、最近どうだ?」

 

 はとりはしゃちょーが食べやすいように缶の蓋を開け切り、地面に置く。また少しにおいを嗅いで、そして今度こそはと口を開いて食べ始めたしゃちょーを眺めながら、はとりは口元に薄く浮かんだ笑みを崩さなかった。

 

「大体ベッドの上にいる。暑い日が続いてるから、少し辛そうだけど大丈夫だよ」

「…そうか」

「鶴に会いに行くって言ったら、うらやましいって拗ねられちまった」

 

 琥珀の瞳がしゃちょーから鶴へ移る。鶴も視線を上げて笑う。

 

「はは、なら今度会いに行くと伝えておいてくれ」

「…うん。分かった、伝えとくよ」

「?はとり?」

 

 小さな、本当に小さな違和感を感じた。

 はとりは「よっこいしょ」とやけに年寄りくさい掛け声とともに立ち上がり、鶴は首を傾げて彼を見上げる。沈んでいく夕日がはとりの顔を照らして、オレンジ色に染まる笑みが鶴には泣きそうに見えた。

 はとりは自分を見上げる鶴の瞳をじっと見つめてから、麦わら帽子の上からその小さな頭を撫でて背を向けた。遠くの方で門限を知らせるチャイムが鳴る。子どもはもう、帰らなければいけない。

 

「帰ろう、鶴。あんまり遅くなると、おばさんが心配する」

「うん…そう、だな。帰ろう」

 

 聞きなれたメロディーが茜色の空に響いて今日が終わることを告げる。

 結局鶴ははとりに何も聞けず、そのまま二人はしゃちょーに別れをつげて夕日に彩られた赤い鳥居の下を歩いていく。鳥居をくぐったところではとりが足を止めた。「鶴」とどこか凛とした響きを持って隣に並ぶ白い少年の名前を呼ぶ。鶴は目を瞬かせて、はとりの言葉を待った。

 

「鶴は、今幸せ?」

 

 妙なことを聞く。そう、思った。けれど自分を見る強い瞳に鶴はこの質問はきっとはとりにとって、とても大切なものなのだろうと感じた。

 そう感じたから、鶴は満面の笑みでそれに答えてみせる。

 

「ああ。幸せだ」

「寂しくはない?」

「ぜんぜん!だって、はとりがいつも傍にいてくれるから」

「…そっか」

 

 鶴の答えを聞いて、はとりは心底嬉しそうに笑った。それでもやはり、今にも泣いてしまいそうな笑顔だと鶴は思った。

 鶴がその笑顔に見とれていると、不意に麦わら帽子が頭から離れて視界が広くなった。はとりの顔が近くにあって、はちみつ色と琥珀色が混ざり合うんじゃないかと思うくらい近づいて、目じりに熱が落とされた。

 

 何が起きたのか、分からなかった。分からないまま、また麦わら帽子が被せられる。少し目深に被せられたせいで、はとりの顔の鼻から上が見えない。かろうじて見える口は弧を描いていた。

 

「また、な。またな、鶴!」

「え、ま…はとりっ」

 

 くるりと鶴に背を向けて、はとりはそのまま走って行ってしまった。

 その場にぽつりと残された鶴は、伸ばした白い手を引っ込めてしゃがみ込む。両膝に顔を埋めて、よくわからない呻き声を上げた。幼い彼にも、目元にキスをされたことは分かってしまって、首までじわりと赤くなっている。夕日に染められたのか、それとも別の何かで染められたのか、それは鶴にも分からなかった。

 

「今度会ったら、仕返ししてやる…」

 

 ぼそぼそと呟かれた言葉を聞く人は誰もいない。

 あんまり遅くなると母が心配する。少し経ってから鶴は立ち上がり、はとりと反対方向へと歩き出した。

 

 この日が鶴の中にあるはとりとの最後の思い出だった。

 

 

 

 

 


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