Blue Moon   作:シラムネ

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プロローグ

 先月に一年の中で最も日照時間の短い日が過ぎ去ったにもかかわらず朝のニュース番組から流れる天気予報の予想最高気温は今も上昇の気配をまったく見せず、むしろ日本列島凍土化作戦が俺の知らないところで推し進められているような数字を叩きつけているように感じてしまうのは俺が古き良き日本男児精神を忘れ去った現代っ子だからというわけではないだろう。シベリア気団ももう少し休暇をとってくれればいいものを。そう毎年毎年律儀にも発達して寒波(かんぱ)を日本に送りつける必要もないと思うのだがな。そんな俺の悲痛なる願いは冬晴れの空に弱々しく輝いているお天道様(てんとさま)には届くはずもなく、無情にも虚空に消え去るのみだった。

「何馬鹿なこと言ってるのよ、こんな近くにいたら嫌でも聞こえるわよ。それに虚空ってのは何もない空間ってことよ。この世のどこにそんな場所があるのか教えて欲しいくらいだわ」

驚いたことに炬燵の中でぬくぬくと死体を演じているやつが丸暗記したストックフレーズをそのまま引き出したかのように言葉を発しやがった。今のはものの喩えで言っただけであって誰もここが虚空だなんて思っちゃいない。

「そんなこと分かってるわよ。あー、でも、確かにキョンの部屋は何もないから合ってると言えば合ってるわね」

こいつはただ単純に俺の言葉にいちゃもんをつけたかっただけらしい。それに俺の言葉は聞こえているんじゃなかったのか。その発言はあまりにも失礼だとは思わないか。ほら、辺りをよく見てみろ、俺の大切な漫画やらゲームやらがちゃんと存在しているではないか。だからさっきの発言は撤回しろ。

「嫌よ。あたしには必要のないものだし。そんなことよりどうして男子っていくつになってもそういうのが大好きなのかしらね。小学生からの成長をまったく伺えないのだけれど。一度遺伝子レベルで研究してみたら何かわかるのかしら?」

 俺の要望はこいつの鼓膜を震わせるほどの効果しかなかったらしく、一蹴されるのみだった。女子にだっていくつになろうが好きなまんまのやつもいる。それに研究したところで分かるかもしれないし、分からないかもしれない。結果はフィフティーフィフティーだと分かっているから今更調べるほどのもんじゃないな。それにそんなくだらないことをするよりもっと人類史に貢献できることをやった方がはるかに有意義だと思うね。そうだな、例えば地球表面が全面氷と化しちまっても耐えられるような穀物を作るために植物ゲノム研究を進めるとか良いんじゃないか?

「そんなわけないでしょ。あんたはこの世界に異世界人がいるかいないかって聞かれたら、いる確率といない確率が五分五分だと思うわけ?」

おあいにく様、生まれてこの方異世界人には出会えたためしがないんでな。宇宙人や超能力者なら知っているんだが、異世界人ともなると俺のけったいな人生でもエンカウント率は0%だ。

「あんたの遭遇率なんて興味ないけどさ」

「そうかい」

 俺に後頭部を見せつけているこいつの表情を見ることは出来ないが、もう長い付き合いだ、その口はカモノハシをよく真似ていて、双眼をアリゲーターと見分けのつかないものにするということをこいつは器用にやってのけていると想像するのは容易いね。

「あたしは今でも異世界人はいると思っているし、会いたいと思っているわよ」

そう言ったこいつの声量は大きくはなかったものの強い意志が感じ取れたのは気のせいではないだろう。しかしなぜだろう、どこか諦めの感情も混じっていたようにも思える。

 そんな俺の考えは次にこいつが発した言葉によって確証を得ることとなった。

 

「ま、あたしはあんたに逢えたからもう満足してるけどね」

 

 確証を得たと同時に俺の思考が麻痺した理由は何でもない、涼宮ハルヒ、まるで春の暖かい太陽のようなそいつの微笑みがあったからだ。

 

 

 

 バイトも特殊な用事も入っていない普遍的、一般的大学生の休日というものは古代ギリシアの暇人哲学者どもほどに時間がひたすら余るというもので、特に何をするというわけでもなく朝の情報番組が昼のバラエティ番組に切り替わるくらいまでただひたすらにハルヒと共に炬燵に入っていた。

 先ほどから話の舞台となっているこの炬燵だが、これは俺が大学に入学して一人暮らしを始めた年の晩秋に俺の神経細胞が炬燵所望(しょもう)のサインを訴えだしたので購入したのだから、もうこいつとは1年以上の付き合っているということになる。しかし今やこいつが温めているのは俺の気温変化に敏感な肌などではなく、元SOS団団長にして、恋人であり、俺と同じ学部生である涼宮ハルヒのその持ち前の性格からは想像もできないほどに柔らかな肌である。

 俺がそんな炬燵との思い出に浸っていたら、無意識的に、そう、あくまで無意識のうちに俺の視線は炬燵に入り横になっているハルヒの後頭部へと注がれていた。

 テレビに映る芸能人がグレゴリオ暦と月の描かれたパネルを手にやたらと騒いでいるが、いまは感傷に浸りたい気分で、俺の脳みそは高校2年最後の日へとタイムトリップを果たしていた。

 ハルヒは、朝比奈さんの高校卒業と同時にあの願望実現能力を失った。涼宮ハルヒ専門精神分析家の古泉曰く、「彼女は本当に欲しかったものを手に入れたんですよ。それも能力を発現することなしに。彼女が自分自身の気持ちに素直になった、という(ふた)を開けてみればとても簡単なことでしたがね」ということらしい。…まあ理由は何にせよ、散々俺たちを巻き込みやがったあの能力は消えた。そしてそれと同時に、ハルヒの持つ閉鎖空間も消失し、古泉たちは超能力者としての力を失い、念願のバイト生活から解放された。情報統合思念体は自律進化の可能性を遂に見出すことに成功したらしく、長門を通じて俺に感謝の意をたった二フレーズに集約して述べると同時に今後地球には不干渉を貫くといったSFでは最もありがたみのある宣言を俺に言い渡しやがって、地球から去っていった。長門はというと、あいつには対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースという役目を終えると思念体から二つの提案がなされた。一つは思念体のもとに戻り、かつてのように宇宙全域で人間様なんか目じゃない高度な存在として残り続けることだった。しかし長門はそれを選択することはなかった。長門は二つ目の提案を飲み、一人の人間として、一人の少女として地球に残ることを決意した。朝比奈さんのもとには卒業式の日に未来からの帰還命令が届いた。SOS団全員でお別れ会を開き、字面通りの今生の別れに大粒の涙を流して未来へと帰っていった。鶴屋さんの、そしてハルヒのあの大泣き顔はこれまでも、そして恐らくこれからもあの一度きりだろう。

 はい、回想終了。

 あまりしんみりした気分に浸っていると、いいこともありゃ、悪いこともあるっていうしな。ここまでで終わりにしておこう。

 ん?ところで今さっき何かとんでもないことをモノローグしちまった気がする。いや、たぶん気のせいだろう。それか炬燵という魔性(ましょう)の呪いアイテムのせいに違いない。

 そうしておかないといけないような気がする。主に俺の精神衛生のために。

 にしても、どうして折角の休日の朝から起きてなきゃならんのか。もう少し伸び伸びとベッドの上で夢の世界へ飛び立っていたかったのだが。…いや、分かっている。こいつが、ハルヒが俺を叩き起こしたからに他ない。昨日の深夜にアポなしでいきなり俺の部屋に上がり込んできたと思ったら、それは一過性の台風なんぞではなくハルヒ(じるし)の原子炉内蔵型強風発生装置だったようで、俺の家に留まり続け、二人で行った先でどこが面白かっただの、どこは特に見ることがなかっただのと(のたま)ったのちに燃料切れでも起こしたのか、俺のベッドの上で寝始めやがった。そして、もともと昨日は早くに寝ようと思っていた俺はその後まもなく就寝を()めた。

 (しか)してハルヒの目覚ましボイスなんて癒しのサウンドからは程遠い声で起こされた俺は猛獣(もうじゅう)の隣で寝ることがどれほど危険なのか改めて思い知らされることとなったのである。実家から出て、妹の目覚ましボディプレスを食らわなくなって久しいなと感じていた時分にまさかこうなるとは誰が予測できる? 俺の安眠スペースは一体どこにあるのだろうか。せめてアンドロメダ銀河あたりにはあってもらいたいものだがね。

そうして、時計の長針の示す数字が平日よりも小さいなと思いつつ不承不承(ふしょうぶしょう)ながら起きたのにも関わらず、今の今までハルヒ手製の朝飯を食べて共にテレビを見ているだけという貴重な休日の時間を老夫婦のような過ごし方をしているというのは若き男女としてはいささか疑問を(てい)せざるを得ない。

 ああ。料理は美味(うま)かったさ。すまんな、オフクロ。ハルヒの料理の方が箸が進みやすいようだ。

 

 

 

 突如(とつじょ)としてベッドの上に放り投げておいた携帯電話の呼び出し音がそんな心理描写(けん)情景描写兼精神的タイムトリップに待ったをかけるように鳴り響いたのは、テレビが最近話題の映画ランキングを映し出し始めたころだった。3コールほど響いた後も石化の呪いを受けたかのように炬燵から脚を出すどころか、視線をハルヒから動かすことができなかった。俺がナマケモノのような反応速度の遅さを露呈(ろてい)してしまっていることを隣にいるピューマが見逃すはずもなく、

「どうしてあたしのことを見つめてるわけ、キョン。電話なってるわよ」

 と鈍重(どんじゅう)な草食動物を狩るような自然さで俺に解呪(かいじゅ)の光魔法を詠唱(えいしょう)した。

「あ、ああ…」

 …さむ。いくら部屋に暖房を入れているとはいえども、炬燵の中と比べたら大浴場とサウナルームほどの違いを感じられる。俺は冷気に(まと)わりつかれた足を引きずりつつベッドへ(おもむ)くと、枕元に置いてあった携帯に手を伸ばした。

 いつもは発信者を確認してから呼び出しに応じるのだが、今回は初動が遅れてしまったため、折り畳み式携帯を開いて画面も確認する間もなくオフフックボタンを押した。本命古泉、対抗長門、大穴として大学の知り合いからかかってきたのだろう。しかしいった甘い考えは決まって(あだ)をなすということに気付いたのは電話口の向こうにいるそいつの、ダークホースの声を聞いた後だった。仕方ないだろう。後悔するのはいつだって現在を過去と(とら)えられるときになってからだ。これがたまに忌々(いまいま)しく感じることもあるのだが。

『やあ、親友』

「うわ」

 佐々木か。そう言った矢先、視界の隅でハルヒの頭が(かす)かに震えたのを確認できた。しかし、ハルヒはそれ以降完全ノーリアクションを貫き通したまま床に()していた。

『良かった。僕という個体はまだ君の記憶の海の底に沈まずに存在できていたようだ』

 当たり前だろう。いくら高校2年時からずっと顔を合わせていないと言っても、毎年年賀状を送っているんだぜ。そうでなくとも、俺がお前の顔を忘れちまうなんてことはモーセが約束の地を忘れてしまうくらいのことさ。

『くつくつ。相変わらずだね、君は。相変わらず親友として嬉しいことを言ってくれるね』

 お前もな。

 そう、この独特だけれども俺に一定のリラックス作用をもたらす笑い方をするのは、共通認識親友、佐々木。こいつしかいない。俺の8メガバイトほどの脳内メモリーカードから引きずり出すまでもなく無意識的に顔を想起し、瞬時にこいつと過ごした中三の記憶と高校二年の一時を思い出せる。

 しかし、何でこんな時期に連絡を寄越(よこ)したのだろうか。この前送った毎年恒例の年賀状が届いていないというわけでもあるまいし、どこかで出会おうにも佐々木はたしか隣県の国立大学へと通っているためそうそう出会うこともないはずだ。そんな風に考えた挙句(あげく)、俺ではこいつから電話を貰う原因にはきっと辿(たど)りつかないであろうことを(さと)っていると、

 

『…君の声が聞きたかった』

 

 なんて、少し切なそうな声色で俺に爆弾を投下してきやがった。おいおい、佐々木がそんなことを言い出しちまった(あかつき)には、俺はお前の精神をジャックした元締(もとじ)めを(つる)し上げるか、それかお前自身が誰かと入れ替わっているか、俺のお前に対する認識を知人からやり直さなきゃならんぞ。ハルヒにまつわるすべての非日常的脅威(きょうい)は消え去ったはずなのに、俺が次は何と戦わねばならないのかと迫りくる二度目の元寇(げんこう)に備えて防塁(ぼうるい)を積み上げるが(ごと)く、俺の心理的防御壁(ぼうぎょへき)も高めていると、くつくつとハロウィンでお菓子をくれなかった父親にいたずらを成功させた子供のような無邪気(むじゃき)な笑い声が届けられた。

『何をそんなに焦っているんだい? キョン。まさか本気になんてしていないだろうね。いや、みなまで言わなくてもいい。君のことだ、きっと僕の言葉を真に受ける前に僕の精神の安否(あんぴ)(おもんぱか)っているに違いない。そうだろう?』

「はあ…」

 いつになってもこいつには敵いそうにないな。いや、俺の知り合いの中で俺が勝てそうなのは唯一谷口くらいか。ありがとう、親愛なる我が友よ。成人式以来会ってないな。いつかまた会おうぜ。しかしそう考えると、俺ってなんて情けないんだ…。

『ああ、谷口君か。彼はよく覚えているよ。九曜さんと一緒の時に一度だけお会いしたよね。あの時の彼の顔はとても印象的だったよ』

 そう言ってまたくつくつと(さわ)やかな初夏の朝に聞こえる小鳥のさえずりのような笑みを(こぼ)した。しかしいくら強烈な印象だからってたった一回の出会いを覚えていられるものなのか…。俺は自分の脳細胞にその欠陥性について、大学受験以来の問いかけをしてみる。何度考えても不完全なものでは不完全な解答にしか至らないと痛感するぜ。

『キョン、人の記憶の仕組みがどうなっているか知っているかい?』

「ああ、海馬(かいば)側頭葉(そくとうよう)がどうとかってことだろ?」

 記憶の構造なら長門から借りた長編SF小説にも書いてあった。

『その通りさ。人の記憶は短期記憶と長期記憶に分類される。簡単に言ってしまえば、短期記憶は海馬に保存され、長期記憶は側頭葉に保存される。短期記憶とは、公式や単語などの勉強で暗記するものなど、生命維持に直接関わりのない情報を指すんだ。対して長期記憶は生きるために必要なものって考えてくれればいい。そこでだ、短期記憶を長期記憶化するにはどうしたらいいと思う?』

 それは、あれだろ、短期記憶している情報を脳がこれは生命維持に欠かせないものだって判断すればいいんだろ。

『そう、脳が錯覚を起こせばいいんだ。ありていに言えば自分自身を(だま)してしまえばいい』

 まるで教室の中で得意げな顔をして俺に語りかけているよう佐々木を幻視(げんし)してしまう。しかし騙すったってそう簡単に上手くいくものでもないだろ。もしそれが近所のコンビニへ行くような感覚で誰でもお気軽にできちまったら、この世の中はもっと発展しててもいいはずだ。

『うん、まさしく言うは易く行うは難しだね。でも君だって大学に合格するために何度も反復練習して必死に暗記したはずだ。英単語や歴史的事実をね』

 まあな、我ながらあの時は一生分の勉強をしたと思うね。いや客観的に見たら疑問を投げかけられるかもしれないが。それでも、やることはやってやったさ。その内容のほとんどは大学生活一周年記念日を迎える前に冥王星の方向へ宇宙旅行を果たした末にブラックホールへと飲み込まれてしまったがな。

『しかし、その中でもいくつかは覚えているものもあるはずだよ』

 少数派筆頭と言えるくらいには少ないけどな。

『それでもいま思い出せるもの、それが側頭葉に保存されている長期記憶と呼ばれるものの一つさ。つまり反復練習さえすればひとりでに記憶の引き出しにしまわれる。脳が錯覚を起こすんだ』

 人間ってのは複雑に見えて、実は意外なところで単純な生き物なのだと実感させられる。佐々木との会話はいつもこんな感じだったと思う。一般的なことから話が膨らみ、そして行き着く先は倫理的、哲学的視点から色々なことについて話した。いや、俺が聞き役に徹しざるを得ないまでに佐々木との出来の違いを実感し、こいつから様々なことを教わっていた。

『でも人間は繰り返し暗記作業をしなくても長期記憶にできることもある。それがまた面白い。一般的に考えれば何でもないようなことでもあることを契機(けいき)にその情報を長期記憶として側頭葉に落とし込むことができる。さて、また質問だよ、キョン。このきっかけっていうのはいったい何だと思う?』

 ああ、やっぱりな。何年()っても佐々木は佐々木のままだ。こういうヒントを目の前に差し出して、結論は相手に求める。決して最後まで語ることはない。そんな親友だ。

「いや、分からんな」

『くふふ。それはね、その何でもない情報を最初から生きるために必要な情報だと思い込んでしまえばいいのさ。どうだい、言われてみれば、結構分かりやすいものだろう?』

 どこがだ。そんな大層なことができるやつは日本中探し回ってもそうそう見つかるもんじゃねえぞ。

『でも君の周りにいる古泉君や、長門さん、涼宮さん辺りならこれくらいのことは出来そうだけどね』

 まあたしかにあいつらならそれくらいのことはしてるかもしれんがな。しかしよ、あいつらと一般人と比べるのは御法度(ごはっと)ってものじゃないか。そこに鶴屋さんを加えてもいい、あの方もそれくらいなら水をため込んだ鹿威(ししおど)しが音を鳴らすほどの当たり前さでやってのけても何もおかしくはない。あいつらと比較するよりも、諸葛亮とノイマン、アレクサンドロス3世や平賀源内を持ち出した方がはるかに最適解だと思えるね。それでも何百年に一人くらいの計算になるが。しかも地理的範囲は地球全土で。

『いや、すまない。君の周りにいる方々は少々エキセントリックな方ばかりだったようだ。気を悪くしないでくれよ。これは褒めてるんだ』

 佐々木が俺の友人たちを馬鹿にする理由なんてマクロファージほども思いつかないが、それ以前にこいつはよくできた友人だと知っている。それにこいつには人を称賛するときでさえ遠回りをする癖があるからな。

『ふ、くく。やはり君は僕のことをよく分かっている。そして適度に物を知らない。本当に優秀な聞き手だと思うよ。話し手として君ほど饒舌(じょうぜつ)になれる相手はそうそういない。それこそ有史以来ね』

 褒められているようで、そうではないような気もしてくるが、くつくつと非常に愉快(ゆかい)そうな笑い声が聞こえてくるから不快な感情はまったく抱くことがないのがこいつの恐ろしいところだ。

「…ん?」

 こいつのペースに乗せられて先ほどの佐々木講師による臨時講習が開かれた理由を(あや)うく記憶の彼方へと飛ばしちまうところだった。

「佐々木よ、お前は谷口の名前を初めて聞いたときから生きるのに欠かせない情報だと思っていたってことになるのか?」

 まさか何度も暗唱やらをしていたわけであるまい。高校時代のこいつなら塾に追われていたようだし、そんなことをするくらいならこいつは数式の一つを頭に叩き込むことに力を注ぐだろう。大学受験を(ひか)えていたあの時期なら尚更(なおさら)だ。

『…ふむ。…そういうことになるね』

 佐々木の反応がいつもより小数点以下第一位単位で遅れた気がした。俺の認知力なんてたかが知れてはいるが。

「それはどういうことだ。なぜそれを必要だと判断したんだ?」

『それは僕がキョンのことを……。おっと、危ない危ない。うん、そうそう、君のことを愛すべき唯一無二(ゆいいつむに)の親友だと思っている。だからさ。僕の浅く狭い交友関係上において、君のような明け()けに話せる友人は少ない。いや、君だけだと言えるね、親友。くつくつ。』

 佐々木の声を聞くとこうも気分が安らかになるのはどうしてなんだろうな。しかし、佐々木が俺に電話をしてきた理由がいまだに思いつかない。まさか俺に記憶の構造とやらを教えたかったなんてことがあるわけがない。ましてやこいつが俺の声を聞きたかったなんていう妄言(もうげん)却下(きゃっか)だ。というより、こいつの秋晴れに浮かぶ飛行機雲のような言舌(ごんぜつ)に今の今までその理由とやらを考える(すき)も無いほど翻弄(ほんろう)されてしまっていた。佐々木と話しているといつもこうなっている気はするが、不思議とまったく嫌な感じはしないし、むしろそれを甘んじて受け入れている俺がいる。

 だから次にこいつが放った言葉にも戸惑(とまど)わされる結果となってしまったのだ。

『ところで親友、今度一緒に飲みに行かないか?』

「え?」

 それはあまりにも唐突に、そして空に浮かぶ雲が風に流され消えていくようなナチュラルさで問いかけられてしまったので、5W1H中、ホワットとハウを除いた残り四つの疑問詞が俺の脳みそを(おお)いつくしてしまっていた。

『僕と君の二人で飲みに行くのさ。もともとこうして君を誘うために電話を掛けたんだ。いくら僕でも、まさか人間の記憶について話すためだけに電話をするほど暇ではないんだよ。と、それで…場所は、そうだな…たまには故郷(ふるさと)帰りも兼ねて北口前で集合ってことでどうだい? 月末の土曜日に行って、日曜日の昼間にでも実家を出ればお互い月曜の授業には間に合うだろう?』

 あまりの展開の速さに俺の思考回路の節々でまたしてもイエローランプが点滅(てんめつ)していて佐々木の話に頭が追い付いていなかったが、やっとオールグリーンを点灯できるようになってきた。

『どうだろうか、お互い成人しているから法律上なんの問題もないはずさ。ああ、そうか、理由が知りたいのだろう。特に何てことはないさ、ただ純粋に君と会って話したくなっただけさ。携帯電話なんていう、疑似(ぎじ)音声を再生するだけの媒体だけでは味気(あじけ)なくてね。だからそう重く捉えないでくれよ。僕はただ、キョンと、親友と飲んでみたくなっただけなんだからね』

 そういうことか。どうということはない、古泉と差しで飲むのと何も変わらないじゃないか。一体何をそんなに慌てる必要があったのだろうか。

「ああ、わかった」

 俺は佐々木の提案に乗ることにした。この機会(きかい)を逃してしまっては次にこいつから誘われるのは一体何年後になるのか検討(けんとう)もつかなかったのでな。

『よし、決まりだ。それじゃ、二週間後の月末の土曜、十九時に北口駅前に集合ということで。くつくつ。じゃあね、親友』

 またしても俺と佐々木の電話を切るタイミングは寸分(すんぶん)の狂いもなく一致していたようだ。

 

 しかし、このとき佐々木に伝えなきゃならないあることを伝え忘れていたことに気付いたのは月末の土曜日が過ぎた後、日曜日を(むか)えた後のことだった。

そのことは佐々木への年賀状には一切書いていなかった。

 

 俺とハルヒの関係について、俺は佐々木に、まだ何も伝えていなかった。

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