夜天に輝く二つの光Relight   作:栢人

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第五話 雲の向こう(中編)

 執務官の心得その一、急事にこそ冷静さが友。上司であり義兄でもあるクロノから受けた教えを思い出し、フェイトは動揺を鎮めて周囲の様子を観察した。

 ぐるりと視線を動かしてみると、見渡す限りに暗がりが広がっている。その正体は、大気中に含まれた魔力素が視覚化されたもの。霧となって空間を閉ざす漆黒の魔力粒子だ。

 無限に続いているようにも見える暗闇には、フェイト以外の姿はない。直前まで行動を共にしていたはずのなのはは、ふと目を離した隙に消えてしまった。

 それとも、消えてしまったのは自分の方か。

 なのはに加えてアースラとも連絡が取れない以上、フェイトの方が結界に囚われてしまったと考える方が現実的だ。結界を展開された感覚はなかったが、そもそもこの異様な霧自体が結界だとすれば納得もいく。

 そうと決まれば話は早い。なのはの安否を確認するにしても、アースラに連絡をつけるにしても、この結界を破りさえしてしまえばいいのだ。どちらにせよ、このような環境で長時間の活動を続ければ、フェイトの方が参ってしまうのだから。

 問題があるとすれば、フェイトの行動を妨害してくるであろう誰か。この世界に転移してきてからずっと感じている気配に、フェイトは基本形態(ブローヴァフォーム)のバルディッシュ・アサルトを構えて臨んだ。

 

「いるのは分かっています。大人しく出てきてください」

 

 声が闇に吸い込まれて消えていく。それでもなお感覚を研ぎ澄まし続けていると、リンカーコアとバルディッシュが同時に魔力の動きを感じ取った。

 命令を待たずして、バルディッシュが瞬間高速移動魔法(ソニックムーブ)を発動させる。補助を受けたフェイトが身を翻すと、帯電した金色の魔弾が虚空を貫いていった。

 魔力弾を視認したことでその正体を瞬時に看破し、薄気味悪さを覚えながらも踊るように宙を舞う。続けて飛来する計四発の直射型射撃魔法(フォトンランサー)を回避したフェイトは、最後に飛んできた圧縮魔力の光刃(アークセイバー)を形成した魔力刃で斬り捨てた。

 バチバチとスパークの音を残しながら霧散していく金色の魔力。それは、誰よりもよく知っている自分自身の魔力だった。

 

「闇の、欠片……」

「…………」

 

 高速機動に重きを置いたバリアジャケットに、金色の魔力刃を再形成させた黒鉄の鎌。そして、光のない赤い瞳には覚えがある。痛々しさを伴う既視感を感じてしまうのは、心がその姿を直視することを拒んでいるためか。

 現れたのは、心を砕かれたときの自分――希望を失ったフェイト・テスタロッサだった。

 フェイトはバルディッシュの握りを強くして堪え、闇の欠片からは目を逸らさない。今暗闇を見れば、そこに思い出したくはない記憶を投影してしまいそうで怖かった。

 

「……次は、外さない」

 

 機械的に呟くその様からは、感情は窺えない。まさしく人形といった様相が、フェイトの心を掻き乱した。

 大きく息を吸い、心臓を停止させるかのように呼吸を止める。バルディッシュを振りかざす自分を見据え、フェイトは空を蹴った。奇しくもそれは、相手と同じタイミングだった。

 閃光が走り、激突する。そこに均衡はなく、より強い光がもう一方を押し戻していた。

 魔力量の差はある。デバイスの性能差ももちろんある。だが、それを決定づけたのは意志力の差か、経験の差か、あるいは練磨の差か。

 理由など何だろうと構わない。どんなことがあったとしても、今のフェイトはあの頃のフェイトに負けてはならないのだから。

 

「くっ……!」

 

 氷のように固まっていた表情が歪み、そこに初めて感情が宿る。それは、焦燥と恐怖。何に対するそれなのかまでは分からない。しかし、ぶつかり合ったバルディッシュを押し返す力が強くなったのは確かだった。

 ぎりぎりと迫るバルディッシュを受け止めながら、フェイトは闇の欠片の眼を見た。光のないそこには、後ろ向きな気持ちしか映り込んでいない。

 こんなとき、クロノならばどうするだろうか。

 戦闘に割く容量を残しながら、フェイトは思考を巡らせる。浮かべるは、フェイトの目標となる人物。自分自身とはいえ、せっかく明確な意思のある個体が相手なのだ。闇の欠片には、問い質しておきたいことがあった。

 

「質問に答えて。あなた達の目的は何?」

 

 それは、闇の欠片の存在意義。

 フェイト達が学校にいる間にはやてから聞き、そして、クロノとエイミィがリインフォース達から得た情報によれば、本来の闇の欠片の目的は、闇の書の復活らしい。消滅した闇の書を再構築するために発生するというのだ。

 だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 ならば、闇の欠片はいったい何を復活させようとしているのか。

 まさか、基盤となる夜天の書もなしに、新たな闇の書が生み出されるとでもいうのか。

 またあの悲劇を繰り返そうとでもいうのか。

 そんなことは、絶対に許さない。

 

「わた、しは……!」

 

 義憤に燃えるフェイトの心に、

 

「アリシアに、なるんだ……!」

 

 冷水がぶちまけられた。

 

「何を、言って――」

「――ぁぁぁぁあああああッ!」

 

 悲痛な叫びと共に、バルディッシュを払われる。同時に迫りくる刃を避けられたのは、さらに速い剣を知っていたためだろう。マントを切り裂かれながらも、フェイトは怪我もなく離脱に成功した。

 だが、衝撃は大きい。もう聞くことはないと思っていた名前が、闇の欠片とはいえ自分の姿をした者の口から出てきたのだから。

 アリシア・テスタロッサ。

 大魔導師プレシア・テスタロッサの実の娘であり、クローンであるフェイトの素体となった少女。フェイトが生まれた理由で、そうであれと願われていた目標だ。

 ずきりと頭痛が走る。思い出すのは、柔らかな笑顔を浮かべる若々しい母の姿。フェイトに植え付けられた、アリシアの記憶。

 フェイトは咄嗟に片手で頭を押さえながら、闇の欠片の姿を捜した。

 

「撃ち抜け、轟雷ッ!」

《Thunder Smasher.》

 

 闇の欠片の正面に展開された魔法陣へ、バルディッシュが乱暴に叩きつけられた。光が瞬き、雷の砲撃が放たれる。からがらにかわしたフェイトは、次の攻撃に備えた。この砲撃が本命ではないことなど、フェイト自身よく分かっている。

 砲撃のスパーク音に混じり、風を切る音が耳に届く。

 

《Blitz Rush.》

 

 バルディッシュによる加速魔法(サポート)が入ると同時、身体を捻って腕を振った。魔力刃が柄に当たり、上手く軌道を逸らすことに成功する。続けて第二撃を繰り出される前に、フェイトは頭を押さえていた片手を突きだした。

 魔力弾を形成している時間はない。故に、撃ち出すは純粋な魔力。ただし、フェイトの魔力変換資質によって電撃と化した魔力だ。

 

「ごめんね」

「――っ!?」

 

 腹に触れるか触れないかの位置から繰り出した電撃が、闇の欠片の身体を駆け巡る。声にならない叫び声が上がり、細い身体がびくんと跳ねた。

 フェイトの質問の答えはまだ返ってきていない。けれども、ぐったりと寄りかかってくる少女が過去のフェイトでしかないのならば、その返答は持ち合わせていないだろう。ならば、これ以上苦しまないよう、ひと思いに眠らせてしまった方がいい。

 例えこの少女が闇の欠片でしかないとしても、悪夢を見続ける必要などないのだから。

 

「…………らないと!」

 

 微かな声が上がると同時、背中にきつく腕が回された。続けて、ほぼ密着した体の間に生じる魔法陣。その術式は、間違いなく砲撃魔法のものだ。

 

「何を……!?」

「母さんのために、私はアリシアにならないといけないんだッ!!」

 

 持ち上げられたぎらつく双眸からは、しかし涙が伝い落ちている。

 そこから目が離せなくなったフェイトとの間に砲弾が形成され、

 

《Sonic Form, setup.》

 

 炸裂する直前に、我に返ったフェイトは腕を振り解いて離脱した。砲撃は無事に発射され、暗い空に金色の線を引く。もしもフェイトが離脱できなかったら、魔力が行き場を失い炸裂し、フェイトどころか相手も重傷を負っていたことだろう。重傷を負う覚悟などとうにできているのか、はたまた、重傷を負っても再生できるのか。とにかく、今は機転を利かせてくれたパートナーに感謝することが先だ。

 

「ありがとう、バルディッシュ。おかげで助かったよ」

《……Who are you?》

「え……?」

 

 警戒を解かずに言った礼は、予想外の言葉で返された。

 バルディッシュの口数の少なさは、知らない人からすれば、簡素なAIしか持たないストレージデバイスと勘違いしてしまいそうなほどだ。だが、堅苦しい口調ながらも、主人を敬う気持ちを感じられる賢い子のはずである。そのはずが、フェイトにかけられたのは初めて聞く冷たい声。怒っているかのような声音だった。

 もう一度、フェイトの身体が金色の光に包まれる。ソニックフォームが強制的に解除され、バリアジャケットは基本形態であるライトニングフォームへと戻されていた。まるで、答えるまでは力を貸さないとでも言うかのようだ。

 

Please let me know your name.(名前を教えてください。)

「バルディッシュ、ふざけてる場合じゃ――」

「――アルカス・クルタス・エイギアス」

 

 不可解な行動をとるバルディッシュに戸惑う中、空から降ってきた厳かな声。それは、ある呪文の詠唱だった。

 見上げた景色は、夜空を錯覚させる。輝く大規模魔法陣は満月のようで、一つ二つと形成されていく発射体は星のようにも見えた。

 当時のフェイトに扱うことのできる最大の魔法、フォトンランサーファランクスシフト。

 

「バルディッシュ、お願いだからいうこと聞いて……!」

 

 ジュエルシード事件を乗り越え、闇の書事件を経験し、研鑚を積んだフェイトでさえ、一人きりであの魔法に対応することは難しい。防ぐことなど到底不可能で、高速機動を活かしたとしても全弾回避は厳しいだろう。弾幕を掻い潜るには、バルディッシュの協力が必要不可欠だ。

 

「疾風なりし天神、今導きのもと撃ちかかれ――」

 

 一人焦るフェイトを差し置いて、詠唱は進んでいく。

 

《Who are you?》

「……フェイト・テスタロッサ・ハラオウン」

 

 緊急事態にもかかわらず自己を曲げないバルディッシュに、フェイトが折れて問いかけに答えた。

 フェイト・テスタロッサだったフェイトは闇の書事件を終えた後にリンディの申し出を受け入れ、正式にハラオウン家の養子となった。ファミリーネームが変わり、テスタロッサからテスタロッサ・ハラオウンに。テスタロッサを残したのは、その名を失くしたくなかったからだ。

 アリシア・テスタロッサのクローンとして生み出され、アリシアになれなかった失敗作。それがフェイト・テスタロッサだった。過去の記憶はほとんどがアリシアのもので、フェイトの記憶はそれに比べればほんの少し。アリシアの記憶の中では常に優しく笑いかけてくれた母は、フェイトにはその笑顔をほとんど見せることなくこの世を去ってしまった。

 辛い記憶が大半を占めるが、いいことが何もなかったわけではない。母の使い魔であるリニスに魔法を教わり、バルディッシュと共に空を翔けた時間。アルフと出会い、寝食を共にした時間。フェイトがなのはと出会い、本当のフェイト・テスタロッサになるまでにあった時間だ。

 フェイト・ハラオウンになっては、それまでの思い出を失くしてしまいそうで怖かった。だから、無理を言ってフェイト・テスタロッサ・ハラオウンになった。リンディは、それを微笑みながら快諾してくれた。

 

「バルエル・ザルエル・ブラウゼル――」

《What is your dream?》

「私の夢……?」

 

 フェイトの夢は、執務官になること。

 最初は助けてくれたクロノへの憧れからで、自分なりの理由を作って何となく目指そうと思っただけだった。だがそれは、闇の書事件を経験して明確な目標へと変わったのだ。

 自分のような境遇の子を生み出さないために。

 はやて達を襲ったような悲劇を繰り返させないために。

 そのためには、事件捜査や法の執行の権利、現場人員への指揮権をも持つ執務官になることが一番の近道だったから。夢を叶えたその先こそが、フェイトの本当にやりたいことの始まりなのだ。

 

「――フォトンランサー・ファランクスシフト……!」

「私の夢は、執務官になることだけど……」

If you have only your dream,(貴女だけの夢があるのならば、) you are not Alicia.(貴女はアリシアではありません)

「…………」

My master is only you, Fate.(私が仕えるのは貴女だけです、フェイト。)

「……!」

《Blaze Form, drive ignition!》

 

 満月と三十八の星の下に、一際大きな光が輝いた。

 黄金の光が納まり、光の大剣と純白のマントが露わになる。それは、バルディッシュ・アサルトのフルドライブ形態。過去を受け入れ未来を目指すフェイトを護るため、バルディッシュが得た力だ。

 

「……そっか。バルディッシュは、ずっと私を励ましてくれてたんだね。もう、分かり難いよ」

《Get set.》

「ふふっ。うん、一緒に行こう、バルディッシュ」

「――撃ち、砕けぇぇぇぇええええッッ!!」

 

 降り注ぐ金色の魔弾。秒間七発、総数千を超える流星群に向かうのは、一筋の光。白金の流星が、激流を遡るかのように逆行していた。

 視界を埋め尽くす魔弾だが、その一つ一つは点でしかない。点が重なり合うことで、面のように見えてしまっているだけだ。信頼するバルディッシュと共に行く今のフェイトに、それを突破できない道理はない。

 カートリッジが弾ける度、どこまでも速度が上がっていく。超高速機動を続けて縦横無尽に飛翔し、絶え間ない嘆きの雨を避け続けた。回避が間に合わないものに関しては、バルディッシュを使って切り払う。

 

「うあああああぁぁぁぁぁッ!」

 

 一斉射撃が始まって七秒が経過するが、止まるはずの掃射は止まらなかった。限界を超えた魔法行使。その魔力の供給源は、己の躯体を構成する魔力だったらしい。足元から消えかかっている少女は、それに気づかず悔恨の叫びを上げるだけだ。

 

「もう、終わらせてあげるから」

《Blade Impulse.》

 

 弾幕の壁を突破し、フェイトは光の大剣で宙を薙ぎ払った。剣の軌跡に沿って衝撃波が発生し、弱々しく明滅していた三十八の兵隊を薙ぎ払う。術式が破綻したことで、大規模魔法陣が消失した。

 

「あなたは……私も、アリシアにはなれない」

 

 人は、誰かになることなどできない。なれるとしたら、自分自身だけだ。

 フェイトはアリシアにはなれなかったが、フェイトになることはできた。フェイトとして見てくれる人達がいて、フェイトと呼んでくれる人達がいて、フェイトと笑いかけてくれる人達がいる。

 一番笑いかけてくれて欲しかった人はもういないけれど、最後のあれは、もしかしたら。

 

「だけど私は、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンになれたんだ」

 

 大上段に構えた光の大剣を、紫電の速度で一閃する。間に挟まれたバルディッシュを両断し、そして、フェイトは過去を断ち切った。

 闇の欠片が金の粒子となって解けていく。もしもあのとき隣になのはがいてくれなかったならば、フェイトもこんな風になっていたのかもしれない。そう考えると、胸が締め付けられる思いだった。

 だが、何をしようとも過去は変わらない。

 いなくなってしまった人は帰って来ない。

 だから、過去の記憶を胸に抱き、前を向いて進むしかないのだ。

 進むことのできなかった、彼女達の分も。

 

「……まずは、なのはと合流しないとだね。バルディッシュ、ここから出るよ」

《Yes, sir.》

 

 スピードローラーを交換し、カートリッジをリロードする。もう一度バルディッシュを振りかぶったフェイトは、結界破壊の術式を起動させた。

 

 

 

 

 暗闇に轟く二重の咆哮。同時に圧縮魔力のスパイクが多重に出現し、シグナムの行く手を阻む。しかし、シグナムは飛行速度を落とすことなくその気配へと向かっていた。

 スパイクを避けて開けた視界、飛び込んできたのは幾重にも分かれた燃え盛る刃。放たれた連結刃を弾き返し、シグナムはその始点を睨みつける。カートリッジをロードすると、解放された魔力が炎となって刀身に宿った。

 

「紫電――一閃ッ!」

「ぐっ……!」

 

 肉薄して振り下ろしたレヴァンティンが、かざされた鞘にぶつかった。しかし、シグナムの攻撃が防がれることなどない。シグナムは相手の上を取っており、そして、こちらは両手であちらは片手なのだ。加えて基礎能力まで勝っているとなれば、結果は分かりきっている。

 レヴァンティンが盾代わりの鞘を両断し、シグナムとまったく同じ甲冑へと到達する。シグナムは、躊躇することなく腕を振り抜いた。

 

「……浅かったか」

 

 両断されることなく弾き飛ばされるに留まった相手の姿を目で追いかけ、シグナムは忌々しく呟いた。レヴァンティンは確かに相手の甲冑に届いたが、それだけだったのだ。鞘によって攻撃を一瞬止められ、その一瞬が回避を選択させる時間となってしまった。結果、シグナムの刃は肌を裂くに止まってしまったのだ。

 歯痒い結果を受け止めたシグナムは、カートリッジをリロードしてから追撃に入った。そう何度も回復を許すわけにはいかない。一刻も早くアースラへと帰投し、何らかの危機を迎えているはやてを助けなければならないのだから。

 目指す先には、早くもラベンダーの魔力粒子が集い始めている。それは斬り裂かれた柔肌と甲冑へと集中し、損傷部分を修復させつつあった。

 闇の欠片の顔が上がる。その表情は、憤激と悲哀と憎悪。涙を流して歯を食いしばるその顔は、シグナムと同一のものだった。

 

「レヴァンティンッ!!」

《Jawohl!》

 

 激情の叫びと共にカートリッジが排出され、相手の身体に魔力が行き渡る。シグナムの放った剣は、鏡合わせの剣によって受け止められた。

 今度は、剣が動かない。

 

「邪魔をするなッ!」

「……煩い」

「私は、颯輔を救わなければならんのだッ!」

「……黙れ」

 

 闇の欠片の剣は、シグナムの身体には届かない。しかし、その表情と放たれる言葉は、的確に心を斬りつけてきた。

 あの冬の日の別れの後、何があってもはやてだけは護り抜くと決めた。

 凶暴な魔法生物だろうと、穢れを持った人間だろうと、例え、初めて得た友人だろうとも、大切な家族だろうとも、自分自身だろうとも、はやての命を脅かすものは、全て斬り捨てる。

 それが、八神颯輔を救えなかったシグナムの役目。シグナムの(チカラ)は、そのためだけに存在する。

 では、いったい何の冗談なのだ。

 現れた闇の欠片達は自分達の姿をとっており、あろうことか、その記憶はあの決戦のときのものだったのだ。

 颯輔の守護を任されておきながら、結局何もできなかった自分達への罰だとでもいうのか。

 癒えない傷の上から鞭を打たれるなど、今の自分には耐えられない。

 

「私の大切な人を――」

「――黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇえええッッ!!」

 

 魔力にものを言わせて身体能力を極限まで高める。漏れ出した炎は心が流した涙と血潮。絶叫によって慟哭を掻き消し、鍔迫り合う剣を力任せに振るった。

 相手の剣(レヴァンティン)を砕き、甲冑ごと肌を裂き、硬い骨を断ち、柔らかい臓腑を斬った。

 袈裟切りによって核をも破壊したことで、闇の欠片の躯体は消え始めている。しかし、無念に染まるその顔は、未だにシグナムを向いていた。

 レヴァンティンを鞘に収め、カートリッジをロード。神速で抜刀し、特大の炎を纏った連結刃を放つ。繰り出した擬似炎熱砲が、消えゆく闇の欠片を跡形もなく焼き尽くした。

 シグナムは連結刃を剣へと戻し、荒い息を吐き出した。今度こそ闇の欠片は再生する様子を見せない。それを確認することにいくらか時間がかかったのは、視界が滲みつつあるからだ。

 倒すべき敵を倒しただけのはずなのに、どうしてこんなにも心が苦しいのか。混ぜ返された感情の波に戦闘思考が埋もれていく。躯体からは徐々に力が抜けていって、レヴァンティンを取り落としてしまいそうだった。

 それでもその一射の直撃を免れたのは、積み重ねられた戦闘経験が故にだろう。

 

「――っ!?」

 

 音速に迫る速度の膨大な魔力の塊。リンカーコアが感知したのは、炎の隼だった。

 背後から放たれた攻撃を視認する前に察知し、その脅威度から反射的に体が動く。弾けるようにその場から飛び出し、そして、脇腹を掠めた隼の翼によって騎士甲冑を焼き切られた。

 微かな金属の焦げる臭いが鼻をつき、魔力ダメージの鈍痛が走る。堪えて振り向いた先には、新たに生まれたらしい大弓を構える自分と、すぐそこにまで迫った新たなザフィーラがいた。

 ふっ、と短く息が吐き出される音と、丸太のような脚から繰り出される上段蹴り。群青色の魔力で覆われた右脚甲が、防御に回した左腕に突き刺さった。

 ミシミシと骨が軋む音を聞かされながらも、シグナムは固く握り直したレヴァンティンを突き出した。切っ先が厚い胸板を貫き、その内側へと滑り込む。炎と化した魔力を送り込んでやると、あの頃のザフィーラ(闇の欠片)は目を見開いて消滅を始めた。

 半透明になった闇の欠片越しに、第二射を引き絞る自分の姿に気付く。舌打ちと共にレヴァンティンを引き抜こうとして、してやったりと笑う顔を見た。

 レヴァンティンの刀身を包む筋肉が引き絞られ、さらに、伸ばした腕を掴まれる。消えかかりつつもぱくぱくと動くだけの口が、『やれ、シグナム』と告げていた。

 

「どこまで我らを愚弄するつもりだッ!」

「落ち着け、シグナム」

 

 獣の如く吠えるも、射線上に飛び込んできた本物のザフィーラによって嗜められた。ザフィーラは両手を広げて鋭角な防壁を作り出し、偽物に捕まったシグナムに大きな背中を見せている。その奥で、闇の欠片の手から二羽目の隼が飛び立った。

 瞬く間に距離を詰めたシュツルムファルケンが、群青色の防壁にぶつかる。性能が劣化している闇の欠片が放った攻撃とはいえ、それはシグナムが誇る最強の一手だ。ザフィーラにも真っ向から防ぎきれるものではない。角度によって軌道が逸れた隼は、遥か彼方で爆炎を上げていた。

 

「心を強く持て、シグナム。はやての感情に飲まれてしまっているぞ」

「何を……」

 

 青白い頬に脂汗の浮かんだ額。ゆらゆらと落ち着きのない目は、明らかに平時のものではない。それでも二体の欠片を打倒して見せたあたり、流石はシグナムといったところだが、これ以上はザフィーラも見ていられなかった。

 心に湧き上がってくる様々な負の感情。悲哀や絶望や諦観といったそれらは、ザフィーラやシグナムのものではない。精神リンクを伝わってくる、今現在のはやての感情だ。

 あまりの情報量にザフィーラも飲み込まれてしまいそうになったが、心の内で沸々と怒りの火を焚くことで耐えていた。シグナムにも念話を送って注意を呼び掛けていたのだが、飲まれたシグナムには声が届いていなかったようである。

 本当は、今すぐにでもはやての下へ駆け付けたい。繋がりが深くなったことも原因かもしれないが、それでも、ここまでの感情を受け取るのは初めてのことなのだ。はやてにかつてないほどの危機が訪れているのは明白だった。

 だが、ザフィーラにはこの結界を破る術がなかった。境界となる面があるのならばいざ知らず、実在しない世界の壁を切り裂くことができるのは、この場ではシグナムだけだ。

 もっとも、それらの理由を抜きにしたとしても、ここまで弱ったシグナムを放っておくことなどできないのだが。

 

「今のお前が気が付けているかは知らんが、これは間違いなく陽動だ。我らがこうしている間も、はやての身が危険に晒されている」

 

 取り押さえていた闇の欠片が完全に消滅しても、シグナムは動かない。

 第三射を弾いた防壁に、亀裂が走った。

 

「家族を――はやてを守ると誓い合っただろう。いい加減に目を覚ませ、シグナム。……俺は、あのような思いはもう二度としたくない」

 

 戦乱のベルカでは最強を誇ったザフィーラ達の力でも、彼を救うことはできなかった。命を奪うことはあんなにも容易だったはずなのに、本来の役目であるはずの命を守ることができなかった。守護獣であるザフィーラにとっては何よりの屈辱だ。

 だから、せめて彼との約束は守り抜こうと思った。

 彼が命を代価に守り抜いた、はやてと自分達の命。それだけは、誰にも奪わせない。そして、その誓いはザフィーラだけのものではなく、ザフィーラ達全員で共有することとなったのだ。

 そのはずが、晒しているのはなんという醜態か。

 想定外とはいえ、これほど明け透けな陽動にも気が付けず、まんまと結界に囚われ、闇の欠片風情に踊らされ、挙句の果てにははやてを危機に追い込んでしまっている。今からこの様では、先が思いやられるというものだ。

 

「……黙って聞いていれば、人を無能のように言ってくれる」

 

 その目に光を戻したシグナムが、鞘に収めたレヴァンティンを構えて不敵に笑う。

 同時にもう一人のシグナムが第四射を構え、三体目となるザフィーラが新たに現れた。

 

「では、任せるぞ」

「ああ、任された」

《Explosion!》

 

 ザフィーラが防壁を放棄して離れると同時、レヴァンティンがカートリッジを炸裂させた。それでもまだ足りないと、シグナムはさらに魔力を送り込む。闇の欠片達が魔法を繰り出すが、シグナムはその場から微動だにしなかった。

 

「喰らい尽くせ、煌竜ッ!」

 

 輝くラベンダーのベルカ式魔法陣に足をつけ、シグナムは裂帛の気合いと共にレヴァンティンを抜き放った。鞘の中で圧縮されていた魔力が炎へと変換され、伸びる連結刃を覆って形を成す。

 咢も、牙も、双眼も、鱗も、その全てが煌々と燃える炎。

 シグナムの魔力の化身、烈火の魔竜。

 燃え上がる炎が胴を伸ばさせ、巨竜がその咢を大きく開く。真っ向から飛び込んできた隼を飲み込んで己が体へと取込み、遅れて降ってきた圧縮魔力のスパイクを噛み砕いた。

 魔竜はまだ止まらない。展開された群青色の障壁を体当たりで粉砕し、勢いのままに奥の術者を消滅させる。そして、激昂して向かってくる剣士を容赦なく焼き払った。

 新たな闇の欠片の発生はまだ確認できない。それでも魔竜は天を目指し続けた。魔竜の標的は最初から唯一つ、主人を閉じ込める結界だけ。その過程にあったものなど、道を塞いでいるただの障害に過ぎないのだから。

 天を昇った魔竜が不可視の壁に激突し、それを突き破る。最後に咆哮が轟くと、漆黒の霧はまるで逃げ惑うように晴れていった。

 視界が開け、黄昏に染まる海が露わになる。だが、シグナム達には幻想のような風景を楽しむ暇などなかった。

 

「転移の準備はできているな?」

「ああ、いつでもいける」

 

 シグナムが連結刃を剣へと戻しつつ問うと、すかさずザフィーラの返答があった。見れば、言葉の通りに転移魔法陣を展開している。シグナムが結界を破ることを、欠片も疑っていなかった様子だ。

 レヴァンティンを鞘へと納め、転移魔法陣へと着地する。間もなく群青色の光がシグナム達を包み込み、世界から姿を消した。

 目指すはシグナム達の帰るべき場所。

 今度こそ、大切な人を護り抜く。

 

 

 

 

 はやてが思い出すことのできる最も古いであろう記憶は、自身を抱いてくれている少年の姿だ。いずれは青年のものへと変わっていくその顔は、まだあどけなさを残している。逞しくなるはずの腕だってまだ細く、硬くなる胸板だってまだ柔らかい。だが、その笑顔だけはずっと変わらずそこにあった。

 そっと髪を梳いていく手にはほとんど力が籠められていなくて、何より大切にされているのだと曖昧ながらも理解できていた。それが嬉しくて身体を預けると、包み込むように抱き返してくれる。胸の奥がぽかぽかと温まって心地よく、べったりと甘えてばかりだった。

 はやてがあまりにも颯輔に懐くものだから、父は目に見えて悔しがっていた。それを嗜める母の姿も覚えているが、そうしている母の目にも不満の色はあったような気がする。父と母が嫌いだったわけではもちろんないのだが、ただ単純に颯輔の方が好きだったのだ。

 今にして思えば、それははやてと颯輔の二人が魔力を持っていたことが理由なのかもしれない。その頃は闇の書の影響によってリンカーコアが真面に機能していなかったはずだが、それでも分かるものは分かる。あの冬の日に感じた颯輔の魔力は眠りを見守る夜のように心地よく、そしてそれは、ずっと感じていた颯輔の雰囲気そのものだったのだから。

 颯輔がいて、父がいて、母がいて。その全てを覚えているわけではないが、それは間違いなく幸せな時間だった。

 だがしかし、不幸というものは何の前触れもなくやってくる。

 幼かったはやてには、何が起こっているのか分からなかった。父と母の写真があって、黒い服を着た人達がいて、颯輔はそれらを見て何かを必死に堪えていて。

 異変に気が付いたのは、家に帰ってもいつもいるはずの母の姿がなかったから。夜になっても父は帰って来なくて、それがいつまでも続いた。

 だから尋ねた。唯一人はやてのそばにいる颯輔に。

 父さんと母さんはどこいったん?

 遠いところだよ。

 いつ帰って来るん?

 分からない。

 なんで?

 ごめん、ごめんな、はやて。

 そう言っていつもより強く抱き締めてきた颯輔の身体は何かに怯えるように震えていて、はやてはようやく理解した。父と母はもう帰って来ないのだと。この家にはもう颯輔と自分しかいないのだと。

 だが、理解はしても納得などできない。颯輔がいて、そして、父と母がいてはやての世界は回っていたのだ。世界が半分になってしまって、いったい誰がそれに耐えられるというのか。入れ替わるようにギル・グレアムとその飼い猫二匹が現れたが、父と母の代わりは誰であろうと務まるはずがない。

 何故か流すことを忘れてしまっていた涙は、グレアムが去ると同時に溢れてきた。去来する悲しみは悪夢となってはやてを侵し、眠ることを拒絶させた。

 泣いて、眠って、目覚めて、泣いて、その繰り返し。泣く度に颯輔が慰めてくれるものだから、それに余計に甘えるようになった。

 しかし、父と母がいなくなって辛かったのは自分一人だけではなかった。叔父さん、叔母さんと呼びながらも本物の家族のようだった颯輔だって、死を知っている分はやてよりも辛かったはずなのだ。

 だから、颯輔が怒鳴ったのも仕方がないことに違いない。

 うるさい。

 聞いたこともない大声に驚き、涙が止まった。それを見て、颯輔が慌てて謝ってくる。知らない人に見えてしまった颯輔がいつもの颯輔に戻ったことで、また涙が流れ始めようとした。それを必死に堪えたのは、泣けばまた颯輔が知らない人になってしまいそうで怖かったから。

 それから、はやては何があっても泣かないようにした。病院に通うのが辛くたって、学校が不安で仕方なくたって、一人家に残されるのが怖くて堪らなくたって、はやては泣かなかった。

 だって、少しだけ我慢すれば、すぐに大好きな颯輔が帰って来てくれるのだ。姿が見えなくなったらそのままいなくなってしまいそうだから、本当は離れたくない。けれども、颯輔はいつだってはやての下に真っ直ぐに帰って来てくれた。せめて家にいる間は片時も離れたくなくて、颯輔の後を追って必死に家事を覚えた。

 シグナム達が現れてからは二人きりでいられる時間が減ってしまったけれど、それでも颯輔ははやてのそばにいてくれた。寂しいときも、不安なときも、怖いときも、優しく抱き締めてくれた。

 颯輔も、いなくなってしまった父と母も、共に過ごすシグナム達もリインフォースも、はやてにとっては大切な家族。けれど、もしもその中から一人だけを選べと言われたならば、はやては間違いなく颯輔を選ぶだろう。はやてにとっての颯輔は、動かない自身の足に変わってその生を支える柱だったのだ。

 しかし。

 颯輔は、父と母と同じようにいなくなってしまった。

 はやて達を救う代価として、その命を差し出してしまった。

 颯輔にとって、はやて達の命はそれだけのことをする価値があったのだろう。はやてが最後にもらったクリスマスプレゼントのノートを見れば、その想いは手に取るように分かる。

 最初ははやての知っている颯輔の字で、しかしそれはページを捲るにつれて少しずつ震えていって、最後には、はやての字の方が上手く見えてしまうほどに乱れていたのだ。

 はやてが闇の書の侵食に苦しめられていたのと同じように、颯輔だって苦しんでいたはずなのに。いったいどれほどの想いであの想像を絶する激痛に耐え、料理のレシピが綴られたノートを完成させたのか。

 だが、はやてが欲しかったのはそんなノートではない。

 颯輔の想いがいらないなどということでは断じてない。

 しかし、はやてが本当に望んでいたのは、颯輔との時間だ。

 はやてはまだ九歳で、颯輔はまだ十七歳だった。シグナムがいて、ヴィータがいて、シャマルがいて、ザフィーラがいて、そして、リインフォースがいて。本来ならば、家族七人での生活が今もまだ続いていたはずなのだ。これからもずっと続いていくはずだったのだ。

 一緒に料理して、同じテーブルについて、同じ食事をとって。

 買い物に出かけて、遊びに行って、家でのんびりとして。

 何でもない時間を過ごして、これからも楽しい思い出をたくさん作るはずだったのだ。

 そのはずがどうして、どうして、どうして。

 胸の奥に押し隠した想いは、そのまま忘れたことにしてしまいたかった。精神リンクから薄々気が付いていただろうシグナム達だって不用意に触れることはしなかった。リインフォースも気づいていない振りをしてくれていた。

 だが、隠したはずの想いは他ならぬはやて自身が呼び起こしてしまった。

 きっかけは、闇の欠片の出現。闇の書のデータが形を成して現れるのならば、そこにはきっと颯輔の姿もあるはずだ。闇の欠片が闇の書を復活させるのならば、颯輔も同時に蘇るはずだ。そう思うと、もう気持ちを止めることなどできなかった。

 そして、はやての願いは叶った。

 

「……はやて」

 

 ダムが決壊したように溢れ出る涙の所為で、その顔を望むことはできない。滲んだ視界に黒いシルエットが浮かんでいるだけだ。

 だが、その顔が見えなかったとしても、ずっとずっと聞きたかったその声を聞き間違えることなどどうしてあろうか。例え五感を失おうとも、この胸のリンカーコアでその存在には必ず気づいてみせる。

 会いたかった。

 会ってありがとうと礼を言いたかった。

 会ってごめんなさいと謝りたかった。

 会ってどうして黙っていたのかと怒りたかった。

 だけど、今はそんなことはどうでもいい。

 

「……おにぃっ!」

 

 ようやく口から出た声は嗚咽がほとんどで、しっかりと届いたかどうかすら怪しい。それでも、颯輔はその場でじっと待っていてくれた。

 両手を塞ぐ本と杖を待機状態に戻して、空を滑る。たった数メートルを飛ぶだけでいいのに、それが酷く難しく感じてしまう。これではまるで、足がまったく動かなかったあの頃に逆戻りしてしまったかのようだ。

 はやては颯輔の下にようやく辿り着き、その腰にきつく腕を回した。それはまるで別れの時の再現のようで、余計に心が疼きだしてしまう。

 けれど、颯輔は帰って来たのだ。砕け散った欠片を集めて、ついにはやての下へ帰って来てくれたのだ。

 例え死を経験していたとしても、八神颯輔は八神颯輔で、はやての兄以外の何者でもない。触れる体は温かくて、静かな鼓動は心を癒してくれる。ただの魔力の塊などではなく、しっかりと生きてここに存在しているのだ。

 ならば、それでいいではないか。

 八神颯輔がいて、八神はやてがいて、これではやての世界は元通りだ。時間はかかってもまた戻ってきてくれた颯輔ならば、きっとリインフォースのことだって救ってくれる。そうしたら、管理局も教会の騎士団も辞めて、もう一度海鳴で静かに暮らすことができるはずだ。

 その幸せを邪魔するというのならば、例えフェイトやなのはであろうとも許さない。はやてを護ってくれたように、今度ははやてが颯輔を世界から護り抜くのだ。

 幸いにも、はやてにはその力がある。リインフォースとユニゾンすれば、グレアムにだって負ける気はしない。同じく夜天の王である颯輔がリインフォースとユニゾンしたら、きっと次元世界に敵はいないだろう。これからは、はやてが切望していた時間が続いていくのだ。

 声を上げて涙を流すはやては、ようやく取り戻した温もりを二度と離してしまわないようにとさらに颯輔に身を寄せて、

 

「うるさいんだよ」

 

 ドン、と肩を突き飛ばされた。

 

「………………えっ?」

 

 何が起こったのか分からない。

 はやては颯輔に抱き着いていたはずで、颯輔は当然それを受け入れてくれるはずで、この場にはもうはやてと颯輔しかいないはずで、ならばはやてにうるさいなどという者はどこにもいないはずで、はやてを突き飛ばす誰かがどこかにいなくてはならないはずなのに。

 突然の出来事に涙は止まってしまった。

 周りを見渡しても、やはり颯輔しか見つけられない。

 しかし、颯輔であるはずの人物はどこかで見たことがあるような知らない人の顔をしていた。

 だが、その知らない人は颯輔なのだから身を寄せても大丈夫なはずだ。

 はやてが手を伸ばすと今度は颯輔も手を伸ばしてくれて、その大きな掌がはやての肩に置かれて、

 

「いたっ……!?」

 

 肩が砕けそうになるくらいに強い力で握られた。

 

「おにぃ、いたい……!」

「何がお兄だよ」

 

 どこかで聞いたことのある知らない声が降ってきた。

 

「はやてだって知ってるだろ? 俺がお前の本当の兄貴じゃないことくらい」

 

 吐き出すような声には深い感情が込められている。

 

「颯輔はお兄ちゃんなんだからちゃんとしないとね。颯輔君はちゃんとお兄ちゃんできて偉いね。颯輔は小さいのにしっかりしているな。颯輔って何でもできるんだな。八神君って大人っぽいよね。八神ならば大丈夫だな。……うるさいうるさいうるさいうるさいどいつもこいつもうるさいんだよッ!」

 

 それは、不条理な世界に対する激しい憎悪。

 

「お兄ちゃんだぁ? 俺には妹なんていなかったんだよッ! 父さんと母さんが死んで、俺だけが助かって、叔父さんと叔母さんに拾われて、仕方なく兄貴になったんだよッ!」

 

 その言葉は剃刀のように鋭利で、

 

「しっかりしてるだぁ? 何でもできるだぁ? 大人っぽいだぁ? そんなの当然に決まってんだろ、だってそうなるしかなかったんだからさ。どうしてしっかりするようになったか分かるか? どうして何でもできるようになったか分かるかっ? どうして子供じゃいられなくなったか分かるかッ!?」

 

 はやての心を切り刻んでいく。

 

「全部お前の所為だよ、はやて」

 

 その目には暗い炎が宿っており、

 

「しっかりしなきゃいけなかったのも、何でもできるようにならなくちゃいけなかったのも、大人にならなくちゃいけなかったのも、全部全部お前の所為なんだよッ!」

 

 はやての心を焼き尽くしていく。

 

「お兄お兄って付きまとってただけのお前に俺の気持ちが分かるか? お前が待ってるからすぐに帰らなくちゃいけなくてさ、誰かに遊ぼうって誘われても断らなくちゃいけなくてさ、お前が嫌がるから誰かを家に呼ぶこともできなくてさ、そんなやつがどうなると思う?」

 

 颯輔は学校が終わると飛んで帰って来てくれた。

 颯輔は誰かを家に招いたことなど一度もなかった。

 

「そんな付き合い悪いやつに、真面な友達なんてできるわけないだろ。それ誤魔化すために本ばっかり読んでさ、俺は一人の方がいいんだから構うなってオーラ必死になって出してさ、俺がどれだけ惨めな思いしてきたか、お前に分かるか?」

 

 そんなことは、考えたこともなかった。

 颯輔は颯輔で、はやての知らない世界でもはやての知っている颯輔であるのだと思っていた。

 

「本からはなんか出てくるし、今度はそいつらの面倒まで見なきゃなんないしさぁ……! お前ら俺がいったいどんだけ我慢してきたと思ってんだよッ!?」

 

 颯輔は疲れたようにしながらも笑ってくれていて、その笑顔は本物だと思っていたのに。

 

「俺だってみんなと遊びたかったよッ! 部活とかしたかったよッ! 魔法の力なんていらない、特別じゃなくたっていい、俺はみんなと同じように普通に生きてみたかったんだよッ!!」

 

 ならば颯輔の笑顔は、その全てが嘘だったということなのか。

 

「闇の書だかなんだか知らないけど、俺ははやてのことだけでいっぱいいっぱいだったんだッ! 魔法だ主だ呪いだうるさいんだよッ! 何で俺ばっかりこんな目に遭うんだよッ!? これ以上面倒持ち込むなッ! だってどう考えたっておかしいだろッ!? 何で俺がお前らなんかのために死ななきゃいけないんだよッ!?」

 

 今までずっと、その不満を溜め込んできたというのか。

 

「なぁ、はやてもそんなのおかしいって思うだろ?」

「……っ……ぁ……!」

 

 肩にあった掌は首に触れ、力が込められ絞られていく。

 

「俺ははやてのために生きて、はやてのために死んだんだ。はやてがそうやってのうのうと生きていられるのだって、俺のおかげだろ? ……だからさ、せめてはやては俺のために死ぬべきだって思わないか?」

 

 耳元で囁かれた言葉が、すっとはやての心に落ちてくる。

 考えてもみればそのとおりだ。

 颯輔は、はやてのためにその生涯を捧げたのだ。

 その命を使ってはやてを救ったのだ。

 だったら、救われなかった颯輔を救うにははやての命を捧げるしかない。

 そうすることで颯輔が救われるのなら、喜んでこの命を差し出そうではないか。

 颯輔の望むようにするのだから、颯輔も喜んでくれるに違いない。

 聞きたくもない言葉を聞かなくて済むのなら、見たくもない誰かを見なくて済むのなら、どうなろうとも構わない。

 

「ありがとう、はやて」

 

 闇に染まっていく世界の中で、はやては骨が砕ける音を聞いた。

 

 

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