魔法陣から発せられる翡翠色の魔力光が満ちるアースラの展望デッキで、リンディはこれまでに経験したことがないほどの苦戦を強いられていた。
高速処理に特化しているはずの
リンディは深く呼吸をし、再度、結界の解析に取り掛かる。アテナの補助もあってか結界の術式を半分ほどは読み取れるのだが、その後が問題だった。
「…………っ! アテナ、もう一度っ!」
《Yes, Ma'am.》
アテナのメモリに記録させた術式が、突然意味のないものへと変わってしまう。それは、結界の術式が組み替えられたことによるものだった。リンディとアテナが術式を読み解き、結界を展開した者が術式を組み替える。結界の解析に入ってから、そんないたちごっこが延々と繰り返されていた。
アースラの外では、武装局員どころか子供達まで命をかけているというのに。
「……――っ!? もう一度よッ!」
《Yes, Ma'am.》
リンディの努力を嘲笑うかのように、術式が千変万化を繰り返す。それも、変化する度に術式が段々と複雑になっていくのだから性質が悪い。一度はシャマルの結界さえも破ってみせたリンディだったが、今は完全に子供扱いを受けていた。
もしもシャマルが残っていたならば、同系統と思われるこの結界をすんなりと破っていただろうか。
無理を押してでもはやてを結界の解析に回していたならば、今頃この窮地を脱していただろうか。
もしも、もしも、もしも……。
焦燥という名の隙間から漏れ出てくる弱音が、リンディの演算能力を低下させていく。カッ、とアテナで床を叩いてそれらを消し去り、もう一度最初から解析に取り掛かろうとしたときだった。
アースラが、大きく揺れた。
揺れでたたらを踏んだリンディは、すぐさま飛行魔法を発動させてふわりとその場に浮かび上がる。揺れは一度だけでは収まらず、その後も断続的に小さなものが続いているようだった。乱れた集中を切って瞼を持ち上げてみれば、展望デッキのガラスがびりびりと震えているのが窺えた。
そして、ガラスの向こうに、新たに現れた異常を見つける。緊急事態を告げる警報がけたたましく鳴り始めたが、頭が上手く回ってはくれなかった。
『――艦長っ!』
顔の横の空間にディスプレイが現れ、冷静さを欠いたエイミィの声が聞こえるが、その光景から目を離すことができない。
リンディの視線の先、いつの間にか闇の欠片の大群が消えてしまった空には、白と黒の二人の人物が浮かんでいた。
『突然現れた高速機動型の魔導師によって障壁が突破されてっ、艦内に侵入されてしまいましたっ!』
白は、騎士甲冑に身を包んだ八神はやて。
黒は、漆黒のローブをまとった青年。
その青年は、クロノではない。
直接顔を合わせたことはなかったが、リンディの知っている人物だった。
『隔壁は下したんですけどっ、目標っ、隔壁を破壊しながら一直線に魔導炉に向かってますっ! クロノ君がッ――』
「――っ!?」
不意に通信が途絶え、同時に全ての照明が落ちた。我に返って辺りを見回しているうちに、ぼんやりと非常照明が灯る。頼りない灯りの中、リンディの頭はようやく回り始めた。
察するに、魔導炉が停止してしまい、予備の動力に切り替わったようだった。浮力を失って艦が墜ちるなどということはないが、その分だけ他の設備で犠牲を払っている。だが、照明やら通信機器やらを犠牲にしても、長時間の航行は難しい。予備の動力が生きている間に魔導炉を再稼働させなければ、今度こそ、アースラは航行能力を失ってしまうだろう。
さしあたっての問題は障壁が消失してしまったであろうことだが、幸いというべきか、どういうわけか、目に見える範囲に闇の欠片の姿はない。ならば、この状況で最優先に対応しなければならないのは、二つの問題についてだ。
エイミィの報告にあった、アースラへの侵入者。
そして、はやての下に現れた人物。
未だ細かな振動が続く中、リンディはもう一度外に目をやるが、目を離した隙に、はやて達の姿はなくなってしまっていた。二人がいた場所に代わりにあったのは、大きな漆黒の球体。見ただけでは詳細など分かろうはずもないが、新たに結界が展開されたようだった。その周囲に目をやるも、はやてと同じく迎撃に当たっていたはずのクロノ達の姿も見つからない。
数瞬で迷いを捨てたリンディは、新たな結界の解析に取り掛かりながら、慣れ親しんだ魔力を捜した。
『……クロノ、聞こえるわね? そちらの状況は?』
『母さんっ!? こっちはフェイトに似た魔導師と交戦中で――』
『――その魔導師は何としても捕縛しなさい。……狙いはやはり、あの子のようね』
リンカーコアが捉えたクロノの魔力、そして、その傍にあるクロノと同等の魔力は、リンディのいる方向へと近づいてきている。正確には、展望デッキの近場にある、医務室の方向へと。
真っ先に魔導炉を停止させたのは何か狙いがあったのか、はたまた単なる撹乱のためだったのか。どちらかは分からないが、とにかく、侵入者は保護した少女に用があるらしい。
アースラの艦長であるリンディは、アースラに乗っている全ての者の命を預かっている。それは、管理局員でなかろうとも例外ではない。その理屈からすれば、侵入者の捕縛に向かうべきなのだが、今このときだけ、リンディは職務を放棄することを選んだ。
リンディは念話の領域を拡大し、アルフにも同時に繋いだ。クロノとアルフに酷な役目を押しつけ、自分一人だけが逃げるようだが、それでもやらなければならないことがある。
『リンディ提督っ、何が起こってるんだいっ!?』
『アルフ、クロノと協力して、艦内に侵入した魔導師を捕縛してちょうだい。フェイトに似ているらしいから、心構えはしておいて』
『リインフォース達はどうすん――って、フェイトに似た侵入者っ!? ちょっ、ちょっと待っ――』
『――私ははやてさんを救出に向かいます。クロノも、分かったわね?』
『分かりました。……すみません、はやてを頼みます』
『ぁあっ、分かった分かりましたっ! こっちは任されたから、無事に戻ってきて下さいよっ!』
『……ありがとう。二人共、お願いね』
一方的な言葉だったにもかかわらず、すぐさま返ってきたクロノの言葉。そして、こちらの意思を酌んでくれたらしいアルフの言葉。二人の言葉に送り出されたリンディは、片手を突き出して砲撃を放った。
翡翠色の魔力がガラス張りの壁面に直撃し、展望デッキを吹きさらしへと変える。リンディは飛行魔法を操作し、ガラスの破片が舞い散る中を突っ切った。過去に囚われた少女を、その手で救い出すために。
八神はやて。十歳を待たずして、夜天の王として覚醒してしまった少女。知識と魔力は次元世界でも群を抜いているのだろうが、その能力に反して精神は幼く脆い。当然と言えば当然だ。いくら夜天の書の記憶を継承しようとも、いくら大人びた振舞いをしようとも、まだまだ子供であるはやては、身体的にも精神的にも誰かの支えを必要としている。
だから、誰かが傍に立って守らなければならない。
それに、はやての隣に立つ人物を奪ったのは、他ならぬリンディなのだから。
アルカンシェルを撃ったあのときの判断は、きっと間違いではなかった。少なくとも、管理局員であるリンディは成すべきことを成したのだと思っている。
だが、同じ経験があり、そして、母親であるリンディはそうは思わない。シグナム達がいたとはいえ、唯一血の繋がりがあった、兄も同然の従兄を奪ったのだ。例え本人の意志だったのだとしても、それしか方法がなかったのだとしても、正義という大義名分があったのだとしても、はやての大切な人の命を奪ったことに変わりはない。はやてから恨まれるのだって、仕方のないことだ。
恨まれているからというわけではないが、正直に白状してしまえば、リンディもはやてのことは苦手としていた。リンディの夫を奪ったのは、闇の書事件なのだ。闇の書の守護騎士であったシグナム達を、闇の書そのものであったリインフォースを庇護下に置いている少女のことなど、好意的に見られるはずがない。感じまいとしているだけで、夫を亡くした日から今までずっと、心の傷は疼き続けている。
あるいは、ただの同族嫌悪なのかもしれない。
いなくなってしまった人にもう一度会いたいという気持ちは、痛いほどに分かる。もしも願いが叶うのならばと、時を経たリンディでさえ思うことがあるのだから。幼いはやてならば、なおさらのことだ。
しかし、シグナム達やリインフォースを家族と呼ぶのならば、はやてにそれは許されない。
はやて達の事情を知ってもなお、リンディの心は曇ったままなのだ。事情を知らない闇の書事件の被害者達などは特に、はやて達の関係をよしとしないだろう。事実、裁判の際には手酷く糾弾を受けていた。
はやてが真に家族との未来を望むのならば、後ろを見ている暇などない。心無い言葉を投げつけれられても前を向いていられるほどに強い心を持たなければ、いつかきっと折れてしまうだろう。はやてが進もうとしている道は、そういうものだ。
だから、支えを奪ってしまったリンディだからこそ、守りを取り払ってしまったリンディだからこそ、はやてが折れてしまわないようにと、守らなければならなかった。
《Analysis complete.》
けれども、リンディ・ハラオウンは理解できていなかった。
「……ッ、何でッ、どうしてよッ!?」
夜天の王である八神はやてを守るには、その役目に足る力が必要であることを。
「アテナッ!!」
《Blaze cannon.》
許される限りの魔力をつぎ込んで放った砲撃はしかし、目標の結界にぶつかって空しく散っただけだった。
解析の結果、漆黒の球体は結界の類で間違いがなかった。だが、そこにリンディが付け入る隙などなかったのだ。
リンディが結界を破壊する場合、術式の綻びを突いて破綻させるという方法を取る。ミッドチルダ式だろうとベルカ式だろうと、完璧な答えというものが存在しない魔法の術式には、必ず穴があるはずなのだ。
だが、目の前のものは違った。いくら解析をかけようとも、複雑な術式など存在していなかった。直径三メートルほどの球体の外壁は、ただ単に魔力粒子を集めて固めただけの層でしかなかったのだ。技術も何もなく、素人が作ったに過ぎない、ただ隙間がなく分厚いだけの壁。原始的だが、ある意味最も強固な結界だ。
アースラの魔導炉が停止してしまっている今、後方支援型であるリンディは、それを突破する術を持ち合わせていなかった。
「このっ……何でっ……どうしてっ……!」
アテナを振りかぶって壁に打ち付けるも、球体は沈黙を保ったままで、壊れる気配などは皆無だ。先にリンディの手がいかれるか、アテナが折れてしまうかのどちらかだろう。
「どうして私はっ……間違えてばかりでっ……誰も助けられないのよぉっ!!」
十二年前の闇の書事件では、最愛の夫であるクライド・ハラオウンを助けられなかった。
去年のジュエルシード事件では、フェイトの母であるプレシア・テスタロッサを救えなかった。
最後の闇の書事件では、はやての兄である八神颯輔を殺してしまった。
そして、今回も判断を間違えた。
彼女達ならばと、なのは達を調査に向かわせてしまった。
夜天の王の力があればと、はやてを迎撃に向かわせてしまった。
結界の破壊ならばと過信し、最後まで艦に残るべき自分が飛び出してきてしまった。
リンディ・ハラオウンは、あまりにも無力だ。
『――離れてください』
漆黒の球体の前で成す術もなく打ちひしがれていたリンディへ、不意にその念話は届けられた。
「…………!」
リンディが振り向いた先には、漆黒の光を放つ球体があった。そして、球体に集う漆黒の星々。集った光は膨れ上がり、徐々に人型を組み上げていく。胴体、手足、首、頭と形ができ、やがてはっきりと像を結んだその人型は、ローブを纏った人物になった。目深に被ったフードによって隠れており、その顔を望むことはできない。届いた念話の声音から、辛うじて若い男性――青年であることが分かる程度だ。
はやてを捕えた闇の欠片と同一タイプの個体。しかし、リンディの目の前の青年から感じる魔力は、闇の欠片ではあり得ないほどに強大だった。
「どうして、あなたが……!」
「今は、はやてを助けるのが先です」
《Anfang.》
無機質な音声と共に青年の左手首が輝き、新たな漆黒の光が形を成す。青年の左腕、ローブの上から装着されたそれは、あまりにも禍々しいデバイスだった。
有無を言わせない言葉に飲まれたリンディが下がると、入れ替わるように青年が前に出る。青年は、漆黒の球体へと左腕を向けた。
「ナハト、頼む」
《Jawohl.》
炸裂音と同時に、鋭利な刃を備えた腕甲から、血のように赤い杭が射出された。
◇
頼りない照明で薄暗い部屋、リインフォースが肌に感じるのは、腕に抱いた少女の震えだった。少女は、暗がりに脅える子供のようにひしとしがみついてくる。リインフォースは、少女を守るように抱きしめることしかできずにいた。
「……ひぅっ」
「大丈夫だ。この艦は、そう簡単に墜ちはしない」
艦のどこかから伝わってきた振動に、少女が身をすくませる。リインフォースは少女の耳元で囁き、少しだけ腕をきつくして対応した。
アースラを大きな揺れが襲ってから、その後も小さな揺れが続いている。一度照明が落ちてしまったことから、艦内で何かが起こっていることは間違いないのだろう。同室にいたアルフも誰かからの念話を受け、「ぜぇーったいここから出るんじゃないよ! いいね!?」と残して飛び出していってしまった。
アルフが出て行ってから、いくらも時間は経っていない。だが、少女と二人きりにされてから、リインフォースの不安は募るばかりだった。
今のアースラはどういう状況なのか。
周辺世界に向かったというシグナム達はどうしているのか。
そして、この騒ぎの中、はやては無事でいてくれているのか。
不定期な振動はおそらく戦闘の余波なのだろう。艦の内外から伝わってくる度に、腕の中の少女が肩を跳ね上げ微かな悲鳴を上げている。
本来ならば、はやてと共に空を翔けていたはずなのに。
愛しい者達に降りかかる火の粉を、この身の翼で振り払っていたはずなのに。
胸を満たすやるせなさ。あのときの彼も、こんな想いに駆られて片方の拳を握りしめていた。
「大丈夫、大丈夫だ」
言い聞かせた言葉は少女へのものなのか、はたまた自分自身へ向けてのものなのか。何の根拠もなしに言ったそれには、彼ほどの力などない。やはり、同じ言葉でも、込める思いの丈次第で別物となってしまう。
あるいは、その不安が現実へと這いずり出てきてしまったのかもしれない。
「……? 近づいて来ているのか?」
ふと気が付いたそれは、まるで足音のようだった。断続的に続いていた振動が、徐々に大きくなってきている。それに伴って重たい破砕音が聞こえ始め、少女が益々身を小さくしていく。何かしらの脅威が迫っているのは明らかだった。
身の危険を感じたリインフォースが少女を抱え、ベッドから腰を浮かせたときにはもう遅かった。
突然、医務室の壁の一面が吹き飛んだ。リインフォースが慌てて少女を庇うと、飛んできた粉塵が背中を汚していく。庇う寸前に一瞬だけ見えたのは、橙色と水色だった。
一際大きな音を残して途絶えた振動。その震源に目を向け、リインフォースは息を飲んだ。
「アルフ……!」
水色の魔力刃によって貫かれたアルフが、壁面に磔にされていた。気を失っているようだが、力なく垂れた四肢は、時折引きつるようにして動いている。原因は、アルフの身体を走る水色の電気。その電気は、腹部に生えた魔力刃から流れ出ていた。
「あっ! ユーリみーっけたっ! 夜天の融合騎も一緒じゃないかっ! もうっ、捜すの大変だったんだからねーっ!?」
魔力刃の柄は、場違いなほどに明るい声を出す少女が握っていた。水色の髪と薄紅の瞳。色合いと身にまとう雰囲気が違うだけで、その容姿と声音は、驚くほどフェイト・テスタロッサ・ハラオウンによく似ていた。
「……お前は、何者だ?」
だが、それはあり得ない。闇の書の記憶を基に生み出される闇の欠片では、独自性を獲得することなどあり得ないのだ。当然、そのような容姿を持つ魔導師、あるいは騎士から蒐集した覚えなど、リインフォースにはなかった。
「ボク? ……あー、そっか、キミは知らないんだったね。ユーリも忘れちゃってたみたいだしさー」
ボク達ずっと一緒だったのに、酷いなぁ。
水色の少女が、剣を引き抜きながら呟く。その言葉の意味が、リインフォースには理解できなかった。
リインフォースは知らない。
ユーリと呼ばれた少女は忘れている。
ずっと一緒だった。
頭を巡る少女の言葉を余所に、無造作に剣が引き抜かれ、支えを失ったアルフが床に倒れ込む。そして、剣を肩に担いだ少女の口がゆっくりと動き、
《Stinger snipe.》
壁に空いた穴から飛来した水色の魔力弾が、言葉を紡ぐ水色の少女の邪魔をした。
魔力弾は一直線に少女へと向かうが、何ら脅威に値しないとばかりに、軽く身を反らしただけでかわされてしまった。それでも魔力弾が軌道を変えて追随してくると、少女は面倒臭そうに顔をしかめながら、魔力刃を一振りして両断するのだった。
「ほんっと、しつこいなぁ……」
「アルフっ、リインフォースっ、無事でいるかっ!?」
遅れて駆け付けたのは、満身創痍のクロノだった。もう魔力がほとんど残っていないのか、それともその暇もなかったのか、バリアジャケットは酷く損傷したままで、再構成させる様子は見られない。リインフォースと抱かれた少女の姿を見つけ、その表情からいくらか険がとれるも、続けて水色の少女の傍に倒れるアルフに気が付き、鋭い視線を水色の少女へと向けていた。
一方の水色の少女は、余裕の態度を崩していなかった。クロノを前にして視線を外し、あろうことか、溜息をつく暇さえあるほどだ。事実、クロノでは相手にならないのだろう。クロノが肩で息をしているのに対し、水色の少女の呼吸はさほども乱れていない。先ほどのやりとりから見ても、水色の少女の方が、随分と上手であることが分かった。
「もうっ、邪魔しないでってばっ! おつかい済ませたら大人しく帰るからさー!」
「悪いが、それはできない。僕は、君の思い通りにさせないために、ここにいるんだ……!」
水色の少女を見据えながら、クロノが杖を構える。その足元に、水色のミッドチルダ式魔法陣が描かれた。なけなしの魔力を全て使っているのか、その魔力光は、離れたリインフォース達の下へも届くほどだ。
「これだから非殺傷設定は……ほんとなら、もう細切れになってるはずなのにさぁ」
対する水色の少女も、魔法陣を展開する。クロノに近い魔力光だが、その輝きは、少女の方が強い。腰と膝を落とし、振りかぶるようにして、剣を構えていた。
「一応言っとくけど、キミじゃあボクに勝てないよ?」
「ふん、やってみなければ分からな――」
クロノが言い終わらないうちに、状況は終了していた。
リインフォースの視界に水色の閃光が走ったかと思いきや、水色の少女は、クロノの目の前にまで詰めていた。すでに振り下ろされていた剣は、医務室の床に触れてスパーク音を上げている。剣閃の軌道上にいたクロノは、構えたデバイスを両断され、力を失くして人形のように倒れてしまった。
「だって、弱っちぃんだもん」
倒れるクロノと入れ替わりに、剣を振った体勢から身を起こした少女が、リインフォース達へと向き直る。今度こそ少女の歩みを阻むものはなく、ゆっくりと距離を詰めてきた。その表情は、この状況下にはあまりに不向きな無邪気なものだった。
「さぁユーリ、一緒にディアーチェのとこ帰ろ? 今ならきっと、怒りんぼのディアーチェだって許してくれるよ。ボクも一緒に謝ってあげるからさ、ね?」
「……いや、です。あなたなんて、知りません」
「えっ、ひどくない? ボクだよ、レヴィだってば。ユーリ、ひょっとして、まだ思い出せてないの?」
「待て、どういうことだ。お前は……お前達は、いったい何者なんだ?」
リインフォースの問いは、レヴィと名乗った少女、そして、きつく抱き着いてくるユーリと呼ばれた少女の二人へと向けたものだった。
闇の欠片の出現と関係しているらしい二人の少女。ならば当然、二人は闇の書とも関係しているはずだ。それはすなわち、リインフォースとも近い関係にあったということ。しかし、リインフォースには二人の名前にも、新たに聞いたディアーチェという名前にも心当たりがない。ユーリが一緒にいたという、シュテルという人物にもだ。闇の書と関係しているというのに、情報が皆無などということはあるはずがない。
リインフォースの問いかけに、レヴィは落胆の表情を見せた。
「さんざんお世話になっておいて、ほんとに何にも知らないんだ。まったく、失礼しちゃうよね、ユーリ。ボク達、ずぅーっと利用されてたってのにさー」
「利用されていた……? 私がお前達を、利用していたとでもいうのか?」
「まぁ、ボク達が敢えて利用してもらってた面もあるから、お互い様っちゃお互い様なんだろうけどさ。……とにかく、絶大な魔力を誇った闇の書、フル稼働してたわけじゃないけど、その魔力、ボク達がやりくりしてあげてたんだからね? あれだけ魔力があったのに、最後はそーすけの所為でやられちゃうしさ。ほんと、踏んだり蹴ったりだよ。まぁ、おかげでこうして出て来られたんだけどね」
「……待て、今、誰の所為と言った」
レヴィの話には聞き逃せないものがいくつもあった。
だが、そんなことはどうでもいい。
リインフォースも知り得なかった闇の書の動力部についてなど、今更知ったところで何になる。
「――どうしてお前がっ、颯輔の名を口にするのだっ!?」
問題は、この得体の知れない少女の口から、颯輔という名前が軽々しく出てきたことだ。
「……もう、びっくりしたなぁ。急に怒鳴ったりしないでよ、ユーリだって怖がってるじゃないか。っていうか、……えーと、りーんほーす、だっけ? キミ、今の状況分かってる?」
「質問にこた――」
「――だからぁ、どうしてキミがボクに命令するのさ? 今ボクに命令できるのは、ディアーチェだけなんだよ? ……もう何にもできやしないんだろうけど――」
剣を横に振りかぶったレヴィは、不機嫌そうに眼を細めている。そこに映し出されているのは、リインフォースの真っ白な首筋だった。
「――だったらさ、今ここで消滅したって、同じだよね?」
床に倒れているクロノとアルフには、レヴィに付けられたはずの刀傷がない。もしもあれば、今頃床一面を血染めにしているはずだ。レヴィに得があるかは判断しかねるが、本人も言っていたとおり、その攻撃は非殺傷設定になっているのだろう。
だが、非殺傷設定になっていても、魔力ダメージを与えるその一撃は、リインフォースにとっては致命傷と成り得る。一切の魔法が使えない今のリインフォースでは、防御も回避も選ぶことができない。在りし日々のように、ただその理不尽な運命を受け入れるしかなかった。
腕の中、ユーリの身体が一層と強張る。
振り抜かれた剣が、やけにゆっくりと見える。
蒼雷迸る魔力刃が徐々に近づいてきて、そして、リインフォースの首へと到達する前に、新たな水色の光が瞬いた。
「ぐっ、このっ、何これっ、設置型のバインドっ!? いったい誰が――って、今度は誰さっ!?」
レヴィの腕をデバイスごと絡め捕ったのは、水色の拘束帯だった。続けざまに橙色の鎖が伸び、レヴィの身体に巻きついていく。保険をかけていたらしいクロノは未だ気を失ったままだったが、燃えるような目をしたアルフが、倒れ伏しながらも腕を伸ばしていた。
「黙って聞いてりゃ……その姿で、物騒なこと言ってんじゃあないよっ……!」
「もうっ! どうして無駄だって分かんないかなぁっ!?」
だが、クロノが残したバインドも、アルフが伸ばしたチェーンバインドも、レヴィを完全に止めるには至らなかった。レヴィが声を上げると同時、その身体の表面を、水色の電気が駆け抜けていく。伝わる先は、レヴィを縛るクロノとアルフのバインドだ。電気が強く輝いて大きな音を立てると、二重の拘束は、構成を解かれて散り始めた。
クロノは目覚めず、アルフは力尽きる寸前で、リインフォースには戦う術がない。レヴィが拘束から抜け出せば、今度こそ、その凶刃を止めることはできないだろう。
「バルニフィカスっ! こんなやつらもう殺しちゃ――」
「――少々おいたが過ぎますよ」
だが、クロノ達が必死に稼いだ時は、決して無駄などではなかった。
再び飛来した魔力弾。弾数は六発で魔力光は緋色。それを察知したレヴィは、舌打ちと共にバインドを砕き、剣を六度閃かせた。
レヴィに断ち切られ、燃え尽きるようにして散っていくその魔力には、心当たりなどない。だが、直前に聞こえた声は、リインフォースにも聞き覚えがあった気がした。
「へぇ……やっほーシュテるん、昨日振り?」
「ええ、そうですね。お灸を据えに来ましたよ、レヴィ」
壁に空いた穴の向こう、暗がりから音もなく現れ舞い降りたのは、闇色のバリアジャケットに身を包み、踝に緋色の翼を展開した少女だった。髪型は違うが、その顔立ちは、高町なのはによく似ている。ただし、こちらもレヴィと同じく、なのはとは纏う雰囲気がまったくの別物だった。
「……シュテル?」
「ユーリに、それからリインフォースも、まだ無事だったようですね。遅れてしまい、申し訳ありません」
「お前がシュテル、か……」
「お初にお目にかかります、リインフォース。ですが、積もる話は後ほどに。まずは、こちらを片づけてしまいましょう」
短い会話の最中も、シュテルの目は、油断なくレヴィに向けられたままだった。注視してみれば、そのレイジングハートと同型と思われるデバイスにも、僅かに魔力を纏わせている。なのはは近接戦を苦手としていたが、シュテルの方は違うらしい。雷光に迫る速度を誇るレヴィを、正面から相手取るつもりのようだった。
シュテルと対峙したレヴィは、子供のように楽しげな顔をしていた。その目は爛々と輝き、頬はにんまりと持ち上げられている。強者との戦闘を楽しみにしているかのような様子だ。
「ねえ、シュテるん、ほんとにここでやる気? それにこの距離、シュテるんじゃあ何にもできないよ?」
「試してみますか?」
「うんっ!!」
やはりと言うべきか、その戦闘は一瞬の内に終わってしまった。
クロノとレヴィの一戦の焼き回しでも見せられたかのように、レヴィが魔力を爆発させ、短い距離を疾走する。シュテルは顔を隠すように杖のガードを上げるが、レヴィは剣を真っ直ぐに突き出したまま、速度を緩めず駆け抜けた。
再びアースラを揺れが襲う。シュテルの腹部を貫いたレヴィは、そのまま残った医務室の壁へとシュテルの体を叩きつけた。
シュテルの手から杖が落ち、カランと無情な音を立てる。壁際で密着している二人は、シュテルを貫く剣がなければ、抱き合っているようにも見えた。
「ほらね? シュテるんが撃つより、ボクの方が速い」
「……流石はレヴィです。反応すらできませんでした」
「そうでしょそうでしょ? ボクは速くて強いんだぞーっ! なんたって、力のマテリアルだからね!」
「ええ、レヴィは誰よりも速く強い」
「えへへーっ」
無邪気に笑うレヴィへと、シュテルが腹を貫かれながらも両手を伸ばし、そっと抱え込むようにして頭を撫でる。その手つきで完全に表情を崩したレヴィは、甘えるようにしてシュテルに寄り添っていた。
直前まで戦闘をしていた者達とは思えない状況。しかしそれは、全てがシュテルの手の内だったらしい。
「……ですが、詰めが甘いのが欠点ですね」
《Rubellite.》
「えっ? わっ、わひゃっ!」
床に転がる杖が音声を発し、展開した
「おしおきです。すみませんが、しばらく眠っていなさい」
「ひょっ、まっ――」
《Good night, Levi. Fire.》
大きく目を見開いたレヴィの顔が、緋色の砲撃に飲み込まれた。威力が絞られていたのか、細い砲撃はレヴィの頭部を消し去りつつ、外部とを隔てる壁に小さな穴を開けて抜けていく。思わずユーリの顔をぐいと胸に押し付けたリインフォースの横で、倒れたまま一部始終を目撃していたアルフが、「うわぁ……」と小さな声を上げた。
頭部を失ったレヴィの身体は数歩よろめくと、やがて、力なく床へと倒れ込んだ。間を置かず、レヴィの身体は水色の魔力粒子となって解けていった。
主の消失に連動したのか、シュテルを磔にしていたレヴィのデバイスも消え始める。ようやく自由になったはずのシュテルは、膝を折ってその場に崩れ落ちた。
「……大丈夫、か?」
「いえ、リンカーコアの一部を損傷しました。私も直に躯体を保てなくなるでしょう。それまでに、貴女には伝えなければならないことがあります。理のマテリアル、シュテル――私は、そのためにここへ来ました。同胞であるレヴィを討ったことで、貴女方の敵ではないという証明とさせてください。……リインフォース、黙って話を聞いてもらえますか?」
「……ああ」
壁に背を預けたシュテルの腹部からは、すでに緋色の魔力粒子が漏れ始めている。それでも、シュテルはリインフォースへと静かに目を向けてきていた。
リインフォースとしても、元より何かしらの情報だけでも得るつもりだったのだ。敵味方の判別が怪しいとはいえ、シュテルの申し出を断る理由はない。
「ありがとうございます……ユーリ?」
ぴたりと合っていたシュテルの目が、僅かに下へと下がる。リインフォースが視線を追った先では、腕の中でぐったりとするユーリが、漆黒の光に包まれ始めていた。
◇
馬鹿は死んでも治らない。そんな確かめようがないはずの荒唐無稽な言葉を、八神颯輔は理解することができた。自らが引き起こした事態の収拾をつけるつもりが、事は悪い方向へと転がるばかりだ。絶対の真理である死を覆してもらってもこれなのだから、きっと、これからも選択を間違え続けてしまうのだろう。
最早、何をどうするのが正しいのかなど、颯輔には分からない。
それでも、自分が今やらなければならないことは、分かっているつもりだった。
「ナハト、頼む」
《Jawohl.》
戦闘形態をとったナハトヴァールの内で、颯輔の魔力が爆ぜ、血のように赤い杭が射出される。杭は漆黒の球体へと突き刺さり、音もなくその外壁を消し去った。
破れた結界の中を見た颯輔は、頭が沸騰するような感覚を覚えた。
思考を放棄すれば、拙い魔法技術しか持たない颯輔では、飛行すら危うくなってしまう。だが、今はその危うい飛行で十分だ。すぐ目の前まで、ただ真っ直ぐに飛べさえすればいい。
「何でお前が――っ、ぁぁぁぁあああああっ!?」
後先など考えず、湧き上がる力に任せ、左腕を振り下ろした。ようやく本来の形で戦闘を楽しめるナハトヴァールが、張り切ってサポートをしてくれているらしい。手刀でもなんでもない原始的な攻撃だけで、はやての首へとかかっていた腕が外れ、あらぬ方向へとひしゃげてしまった。
苦悶の声を上げる
もっとも、取り返しがつくかどうかは、もう分からないけれど。
「邪魔を――」
一丁前にひしゃげた腕を修復して見せた敵へと向けて、颯輔は左腕をかざした。常に颯輔の意思を酌んでいるナハトヴァールは、すでに攻撃の準備を終えていた。
《Schwarzer sarg.》
三角形の中央に剣十字を配した、漆黒のベルカ式魔法陣。魔力の流出と共にそれが展開されたのは、怒りに顔を歪めたもう一人の颯輔の足元だった。
魔法陣から闇が吹き上がり、目標を捕えて三角柱を形作る。指定した空間を閉ざすその中では、魔力爆発が何度も何度も巻き起こされていた。捕えられた闇の欠片の声など、黒い棺が完成した瞬間から聞こえなくなっている。やがて、黒い棺が魔力素へと還ると、そこには何も残されていなかった。
闇の欠片が消滅したことを確認した颯輔は、行き場を失った左手を彷徨わせた。本当なら、もう二度と会うことはなかったはずの、愛しい少女を抱き締めてやりたい。だが、それはもう許されないだろう。はやての前に現れた闇の欠片は、颯輔が殺し続けてきた想いを告げてしまっただろうから。はやてだって、それを聞いたら颯輔を拒絶するに決まっている。
「……八神颯輔君?」
「…………」
疑問形にしてははっきりとしているその声の主は、確証を持って訊いているようだった。颯輔が目を向けた先には、髪を乱したリンディがいる。颯輔はそれに答えることはせず、喉を押さえて荒い呼吸をしているはやてを、リンディへと託した。
はやてに掛けたい言葉はある。リンディにも事情くらいは説明しておきたい。だが、その時間は残されていない。こうして表舞台に出てきたことでさえ、颯輔の目的からすれば、間違いであったのだから。
何も語らず元の場所へと戻ろうとした颯輔の背に、
「……って……まって……!」
精一杯に振り絞った、掠れ掠れの小さな声が届いた。
もう一度聞きたかった、けれど今は聞きたくなかった声。その選択は間違いだと理解しながらも、颯輔には、はやてを突き放して消え去ることなどできなかった。
振り向けば、リンディによって支えられながらも、必死に手を伸ばしているはやてがいる。颯輔が近づき手を伸ばせば、容易に触れ合うことができる距離だ。
八神颯輔にとって、誰よりも大切な少女。
八神颯輔が愛し、憎み続けていた少女。
八神はやては全てを知った上でもなお、八神颯輔を求め続けていた。
颯輔は震える右手を伸ばし、その選択が、取り返しのつかない致命的な間違いであることを悟った。
『見つけましたぞ』
「――っ!?」
頭に直接声が響くと同時、黒い拘束帯が何重にも纏わりつき、颯輔の躯体を締め上げる。次元を跳躍して放たれた捕縛魔法は、颯輔だけでなく、はやてとリンディにも及んでいた。二人共、魔力が尽きかけており、拘束を逃れることができずにいる。颯輔の方にしても、技術の及ばない主に代わってナハトヴァールが破壊を試みているが、それを上回る速度で、更なるバインドが重ね続けられていた。
「やはり現れましたな、兄上」
「ディアーチェ……!」
頭上に集った黒い光。それは、はやてによく似た少女を作り上げた。だが、黒銀の髪を揺らす少女は、はやてと対を成すような暗色の騎士甲冑を着込んでいる。背面に展開された六枚の翼も、純白ではなく漆黒に染められていた。
蘇らせた颯輔へとそれまでの座を明け渡し、新たに知のマテリアルの座へと納まった
「あぁ、お会いしとうございました。レヴィから受けた損傷も、すでに修復させてしまったご様子。流石は我が兄上です。さぁ、どうかそのお顔を、ディアーチェめにお見せ下さい」
後ろにいるはやて達など眼中にないとでもいうかのように、ディアーチェの目は、颯輔へと向けられたままだ。恍惚の表情を浮かべたディアーチェの細腕が、颯輔のフードへと伸びる。そっとフードが下されると、ディアーチェの後ろにいるはやて達が、ようやくさらされた素顔に、息を飲んだのが分かった。
できることならば、はやてには顔を見られないうちに立ち去りたかった。颯輔が蘇ったことを感付かせないままに、事を終えてしまいたかった。死別を二度も味わうなど、はやてにとっては、そして、颯輔にとっても、耐えられることではない。
颯輔とはやての心情など、十二分に理解しているはずのディアーチェは、動けないはやてに見せつけるかのように、颯輔へと身を寄せて見せた。
「おにぃ……!」
「……っ」
「そう嫌なお顔をなさらないでいただきたいものですな。……ですが、その苦しげなお顔も、我は好いておりますぞ」
「……要件は何だ」
「ふふ、兄上ならば分かっておりましょう? 奪うことのできなかった残りの頁を、頂戴しに参ったのです」
颯輔の胸を這い回っていたディアーチェの右手が、そっと左胸へと宛がわれる。心臓の鼓動を確かめるようにしていたその手は、水に潜るようにして、颯輔の胸へと沈み込んでいった。
「あぁ、なんと冷たく温かい。兄上の魔力はディアーチェを虜にしてやみませぬ。叶うのならば永遠にこうして……いや、もうすぐこの願いも叶う。兄上と永久に共に……ふふ、待ち遠しいですな」
「くっ……このっ……!」
「無駄ですぞ。今の兄上の腕前では、我の拘束を破ることは叶いませぬよ。ナハトにしても、我を直接攻撃するような真似はできぬはず。間もなく済みますので、しばしの辛抱を」
颯輔にとっては悔しいことに、全てディアーチェの言うとおりだった。ただ膨大な知識を与えられただけの颯輔では、元からそうであったディアーチェ達のように、それを技術として活かすことができない。それどころか、知のマテリアルであるディアーチェの術式を正面から破ることのできる人物など、存在するかどうかも怪しい。シャマルですら及ばない領域にあり、ようやく勝負になるのは、全盛期のリインフォースくらいだろう。
文字通りに身体の内側を掻き回される感覚に耐えていると、ほどなくして、ディアーチェの手が、颯輔の中枢へと届いた。颯輔の躯体の核でもあるリンカーコア、その内へと融け込んだ、ユーリとシュテルの管制権が記された頁。知のマテリアルに位階を落としながらも、紫天の書を開く権利を持ち続けているディアーチェならば、それを取り出すのは容易なことだ。
ディアーチェの腕が引き抜かれると、そこには一冊の本があった。夜天の書と対を成す、
「どうするつもりだ……!」
「異なことをおっしゃる。我らをあるべき姿に戻すのですよ。そして今度こそ、兄上の望みを叶えるのです」
鋭く細められたディアーチェの目は、その言葉が、本心からのものであると告げていた。恍惚とした表情など消し去った、冷たく凍えるようなそれは、ディアーチェが持つ本来の表情だ。はやての容姿を借り受ける以前にあった、
この世の全てを敵に回してでも、ディアーチェは颯輔を
「違うっ! 俺は――」
「――ええ、分かっていますとも。兄上の望みを叶えるためには、そこの塵芥共の存在が、邪魔でしかないことなど」
颯輔から離した左手に紫天の書を持ちかえ、空いた右手に
「夜天の王よ。貴様の存在がどれほど兄上の重荷となっていたか、存分に思い知ったであろう?」
「それ、は……」
「違う……やめろっ! はやては関係ないだろっ!!」
「兄上こそ、誤魔化さないでいただきたい。兄上の心の内、このディアーチェが読み違えるとでも?」
「だったらっ!! 俺の心が分かるっていうんならっ……お願いだから、もうこれ以上はやて達には手を出さないでくれ……!」
空に消えていく小さな叫び。
颯輔を振り返ったディアーチェは、今にも泣き出しそうな顔をしていて、
「――我らの家族に近づくなァッ!!」
すぐにそれを、忌々しげな表情で隠してしまった。
「ちぃっ……!」
「ぉぉぉぉおおおおおッ!!」
ディアーチェが空へと展開した防壁に、ラベンダーの光が激突する。それは、はやての危機を察知して駆け付けたシグナムだった。
「誰に断ってその恰好してんだッ、てめえッ!!」
「ええい、次から次へと……!」
シグナムに続いたのは、炎の尾を引く紅の少女だ。ラケーテンフォルムのグラーフアイゼンを構えたヴィータが、ディーアチェの横合いから迫る。ディアーチェは紫天の書を突き出し、自身の姿を覆い隠すような障壁を張って、それに対応した。
「シャマルッ! ザフィーラッ!」
「あたしらごと捕まえちまえッ!」
「了解ッ!」
「任せろッ!」
シグナム達の攻勢は、まだ終わらない。シグナムとヴィータがディアーチェの足を止めたところで、それを囲むようにして、圧縮魔力の小さなスパイクが降り注いだ。スパイクが障壁に突き刺さったのを確認すると、シグナムとヴィータが、その場から離脱する。
シグナムとヴィータが飛び立つか飛び立たないかのうちに、今度は、ミントグリーンのワイヤーが伸びてきた。ワイヤーはディアーチェの障壁を取り囲むと、スパイクを柱に見立てて幅を広げ、立方体の檻を作り上げた。
『……ユーリ達の調整を終え次第、再び伺います。兄上にも、積もる話がございましょう。どうか、その時までに別れを済ませておきますよう』
だが、シグナム達の連携も、躯体を自由に解くことができ、なおかつ、完全な紫天の書を手にしたディアーチェを、捕えるまでには至らなかったらしい。ディアーチェから颯輔へと一方的な念話が告げられると、檻の内部から感じられていた気配は、忽然と消えてしまうのだった。
颯輔達を拘束していたバインドも、ディアーチェの逃走に伴って、ようやく解け始める。だが、颯輔にだけは、新たなバインドがかけられた。
ディアーチェに逃げられたことを同じく察知したらしく、シグナム達の目は、颯輔へと向けられていた。
「本物だったらすみません……」
「……いいよ、シャマルの判断は、間違ってなんかいないさ」
颯輔の胴に巻きつくクラールヴィントは、悲痛な面持ちをしたシャマルの指へと伸びていた。
「貴方は……八神颯輔なのですか?」
「……頼むから、答えてくれ」
「…………」
弱弱しい眼光のシグナムが、刃先の震えるレヴァンティンを構えていた。
目の端に涙を溜めたヴィータが、グラーフアイゼンの柄を強く握り込んでいた。
拳を解かぬままのザフィーラが、はやて達を背に庇いながら様子を窺っていた。
マテリアルのコンソールといってもいい紫天の書を奪われてしまった颯輔には、事態を収拾する手立てが残されていない。自ら協力を申し出てくれていたシュテルも、ディアーチェによってプログラムの一部を書き換えられ、行く手を阻む存在となってしまうだろう。争いから遠ざけながらも、もしものときはと考えていたユーリにも、頼ることなどできなくなってしまった。
「その人は恐らく、あなた達の知っている颯輔君で間違いないわ。……そうでしょう、はやてさん?」
「……はい」
答えられずにいた颯輔に代わり、場を進めたのは、リンディだった。その隣には、自力で飛べるまでには回復したらしいはやてがいる。だが、力なく頷くはやては俯いたままで、颯輔を見ようとはしなかった。
「はやてさんは、貴方のおかげで助かりました。アースラの方も、ひとまず騒ぎは治まったようです。今起きている事件について、知っていることを話してくれますね?」
「…………」
これからどうするにせよ、今の颯輔には、リンディの問いかけに黙って頷くことしかできなかった。
◇
紫天の書が取りまとめるシステムを構築するシュテルとレヴィは、本来であれば同格の存在だ。しかし、今回は後手に回らされたシュテルが、圧倒的に不利だった。対峙した場所は閉所で、傍には保護対象までいる。シュテルが有利になる要素など、皆無であったのだ。
一方のレヴィは、自分の距離で存分に力を振るうことができた。その状況下で、周囲に被害を出さずにレヴィだけを撃ち抜くには、確実に動きを止められるあの方法しかなかった。状況を選べたのなら、シュテルはその力を遺憾なく発揮し、無傷で勝利を収めることもできただろう。
だが、今回の勝負の結果は痛み分けだった。
シュテルの躯体から急速に力が抜けていく。レヴィによって腹部に空けられた風穴からは、緋色の魔力粒子が漏れ出ていた。
シュテル達マテリアルは、それぞれのリンカーコアを基に魔力素を結合させることで、それぞれの躯体を構築している。
持ち得た性質から、多少の肉体的損傷はその場での修復が可能だが、レヴィや今のシュテルのように、リンカーコアを損傷してしまった場合は違ってくる。強制的に躯体が解体せれるため、一度紫天の書の内へと戻り、損傷を修復させなければならないのだ。リンカーコアの情報は常にバックアップがとられているため、例え全損であっても問題はないが、その場合は、それに応じた時間がかかってしまう。
「おいおいおい、その子、そのままじゃまずいんじゃないのかい……?」
「わからない。だがこれは……シュテル、どうなっている?」
「…………」
躯体の構築と解体には、並大抵の魔法よりも複雑な演算が必要となる。リンカーコアの損傷から記憶を失っており、加えてリミッターまで課せられているユーリには、本来であればできるはずがない。
だが、リインフォースの腕の中で意識を失くしているユーリは、躯体の端から魔力素へと還元され始めていた。ユーリが自ら解体しているのでなければ、答えは自ずと見えてくる。シュテル自身、損傷の割には躯体が解体されるペースが通常よりも早いことに、違和感を感じてはいたのだ。不完全な紫天の書が原因だろうと考えていたが、ユーリの件を踏まえれば、その答えは一つしかなくなった。
『――シュテル、いいか……?』
シュテルが事実に辿り着いたと同時に届いた念話は、別行動中の颯輔からだった。「しばしお待ちを」とリインフォース達に告げ、シュテルは念話に集中する。
『ええ。丁度、私も訊きたいことができました。颯輔、ディアーチェに私とユーリの管制権を奪われましたね?』
『ごめん……』
『いえ、ただ事実確認を取りたかっただけです。やはり、ディアーチェの方が一枚上手だったという事でしょう。それよりも……こうなってしまった以上、これからどうすればよいかは理解していますね?』
『…………』
『出来得る限りは時間を稼いでおきますから、どうか、悔いの残らない選択を。ただ一点……次にまみえるときは、貴方に杖を向けてしまうことをお許しください』
『……シュテル、俺は――』
『――それでは、ご武運を』
躯体の消失が進んでいる今、例え念話であっても、これ以上のリンカーコアへの負荷は許容できない。突き放すつもりはなかったが、シュテルは一方的に念話を切り、再びリインフォースを見やった。
ディアーチェが紫天の書を完成させたのならば、シュテルが颯輔へと力を貸すことは、もう許されないだろう。頼みの綱であったユーリも同様とあらば、いよいよ手段は限られてくる。颯輔を救済するためには、リインフォース達に全てを託すしかなくなってしまった。
「お待たせ致しました。時間がありませんので、必要なことだけを手短に話します。アルフ、リンディ・ハラオウンへは状況を逐一報告していたのでしょう? 守護騎士にも念話を送り、これから言う私の言葉を、一言一句漏らさずに伝えて下さい。ただし、間違っても夜天の王にだけはまだ伝わらないようにお願いします」
「……こっちの面子は当然のように把握してるってわけかい」
「ええ、そうとってもらって構いません」
レヴィとの戦闘の際中も、アースラの外から伝わってきていた魔力から、そこに誰がいて何が起きているのかくらいは察知できていた。魔力素に近い体を持つシュテルにとって、それは特に難しいことではない。真面な戦闘ができないアルフが、せめてもと誰かに念話を送っていたのも同様だ。あの状況下でも確実に繋がり、なおかつ繋いだままにするのならば、相手は指揮官であるリンディでしかあり得ないだろう。
アルフから発せられる魔力の波が広がったのを確認し、シュテルは口を開いた。
「結論から言いましょう。我らが主――八神颯輔は、紫天の王の座につき、その存在を留めています」
「颯輔が……!?」
颯輔の復活については薄々感づいてはいたのだろうが、確証までは持てなかったのだろう。リインフォースは目を見開いている。本来ならばすでに気付けていただろう魔力にも気付けていないあたり、あるいはもう、すぐそこまで死が迫っているのかもしれなかった。
シュテルは消えかかった足に力を込め、無理矢理に躯体を起こして前へと一歩を踏み出す。気を利かせたリインフォースが、同じく消えかかったユーリを連れて傍へと寄ってくれた。
「ですが、貴女達家族を守るため、彼は再びその命を捨て去ろうとしています」
「それは、どういう……」
シュテルはすでに下半身のないユーリを受け取り、その小さな躯体をそっと抱き締めた。
颯輔やシュテル達を守ってくれたユーリの損傷は大きく、完全に回復してもいなかったのだから、躯体を構築することすら困難だったはずだ。それでもユーリは、颯輔を蘇らせるために無理を押して起動してみせた。だが、颯輔の意志を貫かせては、そんなユーリの努力も無駄になってしまう。
もっとも、このままの状況ならば、ディアーチェがそれを阻止してくれるだろう。だがそれは、颯輔が真に望む最善の未来を迎えることにはならないはずだ。颯輔に従い、心に触れたシュテルには、それがわかる。
「彼一人では、私達を止めることなど到底不可能。融合騎である貴女の力が必要不可欠です」
「だが、私にはもう……」
「心配には及びません。我らの核である彼とならば、貴女はもう一度空へと舞い上がることができるでしょう。未来を望むのならば、紫天の王の翼となりなさい。……夜天の融合騎、それから、夜天の守護騎士達よ、どうか、彼の心を……っ」
腕の中のユーリが消え、シュテルも遂に倒れ込む。それを途中で支えたのは、瞳を潤ませたリインフォースだった。
「一つだけ、聞かせて欲しい。……どうして、そこまでしてくれるのだ?」
確かに、最初は颯輔がシュテルの管制権を持っているからという理由だけで従った。
理のマテリアルであるシュテルが動くには、それだけで十分だった。
だが、颯輔の心に直接触れてしまったシュテルは、
「……私も貴女達と同じく、彼の強く弱い心に絆されてしまったようです」
穏やかな微笑みを残して消滅し、奈落の底へと落ちていく。繋がっていた絆を断たれたシュテルは、心が急速に冷えていくのを感じていた。