素晴らしく風通しが良くなってしまったという医務室に代わり、クロノはアースラ内にある自室のベッドで横になっていた。貫かれた腹に傷はないが、今でも触れただけで鈍い痛みが広がる。目覚めた当初はまだ感電による痺れが残っていたのだから、これでも徐々に回復はしているようだ。
クロノが追ったフェイトによく似た少女――レヴィは、強かった。魔力量や技能で言えば、フェイトも劣ってはいない。それはつまり、フェイトのこれからの伸び代を除けば、今のクロノとも同等であるということだ。
とはいっても、速度、太刀筋など、戦闘スタイルの違いから、クロノでは及ばないところはもちろんある。だが、ただ一点、攻撃する際の躊躇いのなさは、突き放されていた。レヴィは、人を斬ることを、物を破壊することを、心の底から楽しんでいた。どころか、どうして解除しなかったのかまでは分からないが、攻撃が非殺傷設定であることを、不服にさえ感じていたようなのだ。
魔法の非殺傷設定は、相手を傷つけずに制するためにある。だが、現実としてそれは不可能だ。過ぎた魔力ダメージは、相手を精神的に殺すこともできる。魔法自体には殺傷力がなくとも、それが周囲にもたらす影響――例えば、砲撃によって破壊された建造物の破片などが悪い所に当たれば、怪我では済まされないかもしれない。ベルカの騎士が持つアームドデバイスに限らず、ミッドチルダの魔導師が持つ杖にしても、相手を傷つけること自体は容易だ。
それらのことを正しく理解しているのならば、攻撃の手には少なからず躊躇いが生まれるはずだ。非殺傷設定にするために、相手に怪我をさせないために、魔法の発動は最短の発動時間よりも一歩遅れてしまう。だが、レヴィにはその遅れがなかった。それこそが、レヴィの強さの秘密。クロノ達では、どう足掻こうとも埋めることのできない絶対的な差だった。
「……言い訳がましいな」
ベッドの上に放り出していた手を、クロノは無意識のうちに握り締めた。
才能の差、技術の差、心構えの差、消耗度合の差、そんな指摘を挙げたところで仕方がない。何をどう弁明しても、クロノが負けたという事実が変わることなどないのだから。そして、ただ負けただけでなく、正しい判断を下すことすらできなかったのだから、なおさら始末におけない。クロノにもっと力があり、判断を間違えることがなかったのなら、こんな状況には陥らなかったはずなのに。
「おっすー! 調子はどうかな、クロノ君?」
「……エイミィか」
「えっ、せっかく忙しい中わざわざ時間作って様子見に来てあげたのにその反応、いやー、私傷ついちゃうなー」
「……すまない」
「……うーん、こりゃ重傷ですなぁ」
ふぅー、と溜息をついたエイミィが、我が物顔でクロノの部屋へと侵入してきた。机と共に備えられていた椅子をベッドの横へと引っ張り出すと、背もたれを跨ぐようにして座る。背もたれに両肘をかけ、そこに顎を置き、上から覗き込んできた。
クロノは、エイミィの目を直視することができず、窓の方へと顔を向けた。窓の外には暗い海が広がっており、夜の空には、紅の壁がそり立っていた。
「ヴィータちゃんが結界張ってくれてるし、シグナムさんも警戒してくれてるから大丈夫だよ。今のところ、闇の欠片が出てくる気配もないみたいだし」
闇の欠片の襲撃から二時間あまり。幸いにも死者は出ていないが、アースラが受けた被害は甚大だった。
武装局員はことごとくが絶対安静状態で、クロノもアルフもリンディも、魔力までは回復していない。魔力切れ寸前まで追い込まれたはやては、シグナム達から魔力を分けてもらったようだが、戦える精神状態ではなかった。残存戦力は、なのはにフェイト、シグナムにヴィータ、シャマルにザフィーラの六人。並の事件ならば手間取ることなく解決してしまうであろう面々だが、生憎と、今回はそうではなかった。
レヴィによって停止させられたアースラの魔導炉は、再稼働の目途が立っていない。炉を真っ二つにされた上に封印までされており、アースラに乗り込んでいる技術班だけでは、手の施しようがないのだ。そのため、予備の動力だけでは飛行もままならず、現在アースラは、海鳴市の近海に着水していた。
次元航行艦の動力が一瞬でも落ちれば、管理局本局へと救難信号が出される。航行ルートが近い艦もあるのだが、その艦だけでは圧倒的に戦力が足りない。部隊再編と始動の時期が重なっていること、また、90番台の遠方の世界であることから、本局からの増援の到着は、早くとも翌朝となってしまうそうだ。
状況は、未だかつてないほどに追い込まれている。アースラが受けた損害は、たった一日で、あの闇の書事件をも超えてしまっていた。
だが、この状況を打破できる可能性だけは、まだ残されている。
「……八神颯輔への聴取は、どうなっている?」
「魔力リミッターの施術に手間取ったみたいで、ようやく始まるところだよ」
「手間取った? まさか――」
「いや、抵抗したりはしなかったらしいから大丈夫。艦長もまだ魔力は戻ってなくて、施術できるのがシャマルさんくらいだったんだけど……その、颯輔君、体の構造がまるっきり変わっちゃってて、それでシャマルさん、動揺しちゃったみたいでさ。……もう、普通の人じゃなくなっちゃったんだって」
「どうやったかは知らないが、アルカンシェルを耐えきってみせたんだ。だいたい、あのときにはすでに――……すまない、口が過ぎた」
エイミィの気配が剣呑なものへと変化しつつあったことに気が付き、クロノは言葉を変えて継ぎ足した。
「自分の無力さに怒り心頭で、これでもいっぱいいっぱいなんだ。見逃してくれ」
「あっはっはー、クロノ君、実はそこまで強くないもんねー」
「……君は負け犬を笑いに来たのか?」
「……ホント、重傷だね。いつものクロノ君なら、そんなこと絶対言わないもん。今更失敗したくらいでいじけちゃってさ、あー情けない情けない。背はちっちゃいくせに、プライドだけは一丁前に高いよね、クロノ君は。そんなんだから見た目も最年少執務官とか言われちゃうんだよ。エリート街道まっしぐらだからって、ちょっと調子に乗り過ぎたんじゃない? 自分の分も弁えないでさ、危ないことばっかしてさ、心配ばっかかけてさ……ちょっといい加減こっち向きなさいよコノヤロー」
「むぐっ」
ぐいと顎を掴まれ、強制的に顔を動かされる。少しだけ近づいたエイミィの顔。その目が赤くなりつつあった。
「……泣きたいのは罵倒されたこっちの方なんだが」
「泣いてないし」
「だがしかし――」
「泣いてないしっ! もうっ、なんで気の利いたセリフが出てこないかなぁクロノ君は! ここは『泣かないでくれ』っていいながら目尻を拭ってあげたりする場面でしょーが! その辺は見習ってよ! 間近で見てた艦長の方が恥ずかしかったんだって! いや、あそこまで人数囲われるのも困るけどさぁ!」
「ちょっと待て、結局君は何が言いたいんだ」
まさか闇の欠片なのか、というくらいにエイミィの様子はおかしかった。飄々としながらも一応は真剣な話をしていたはずが、完全に脱線してしまっている。母が何を見たのかも多少気になるが、今はエイミィを落ち着かせることが、クロノにとっての最優先事項だった。
「だぁーかぁーらぁーっ! 暗いの! アースラの中、すっごく暗いの! 私こんなの耐えらんないよクロノ君!」
「それはまぁ、通信設備やら何やらに少ない動力を回しているわけだから、多少薄暗くなってしまうのは――」
「違うってば! 照明の話じゃなくて、空気の話! シャマルさんはぽろぽろ涙流しながらみんなのこと治療してるし、シグナムさんとヴィータちゃんは怖い顔したまんまで通信出るし、はやてちゃんはザフィーラに抱き着いた体勢からちっとも動かないし、なのはちゃんとフェイトちゃんもつられて元気なくなっちゃうし! 何でっ!? 色々切羽詰まってるのは分かるんだけどっ、それでもせっかくまた会えたんだから素直に喜ぼうよっ!!」
「それは、僕たちは自分の闇の欠片を見ていないから分からないが、なのは達は、それなりにきついことを言われたと言っていたじゃないか。はやての場合は、八神颯輔の闇の欠片だったようだが、それでもやはり、堪えるようなことがあったんだろう。あの家庭環境だ、八神颯輔が何も溜め込んでいなかったとは、正直思えない。はやてが参っている状態なら、シグナム達も手放しでは喜べないだろうさ」
「それは、そうかもしれないけど……」
エイミィがしゅんと萎れ、クロノの顎も自由になる。その部分を撫でながら、クロノは過去の事件の資料を思い返した。
クロノは資料で目を通しただけだが、八神颯輔の人生は、地球――特に日本でいうところの平凡な人間のものではなかった。実の両親、育ての親と失っているのだ。残された家族は足の不自由なはやてのみで、子供だけの二人暮らし。シグナム達が現れてからは多少は楽になったようだが、しかしそれでも、八神颯輔への負担は大きかっただろうことだけは、想像に難くない。
「アースラ内のムードは今後の士気に関わるだろうから、すまないが、クルーの面々くらいは君が何とかしておいてくれ。はやて達に関しては、家族間の……いや、あまりにも特殊過ぎる問題だ。僕達が入り込む余地なんてないし、入り込むべきでもない」
「だけどさぁ……」
「全ては八神颯輔次第だろう。そろそろ話を戻させてもらうが、その八神颯輔への聴取はどうなっているんだ?」
「……艦長と、それからリインフォースも一緒にするってさ。リインフォースにも分からないことだらけらしいけど、やっぱり、闇の欠片とかに一番詳しいのはリインフォースだから」
「そうか……」
「……で、クロノ君はどうするわけ?」
「ディアーチェ、と言ったか。ともかく、彼女達は再び現れるのだろう? なら、それまでに少しでも魔力を回復させてもらうさ。例え背が小さいくせにプライドだけは高い調子に乗った負け犬でも、多少は戦力になるはずだ」
「ごめん、気にした……?」
「全て事実だ。気にする気にしないの問題じゃあない。何かあれば叩き起こしてくれ」
両手を布団の中に仕舞い直し、クロノは瞼を閉じた。
クロノ・ハラオウン個人にできることなどあまりにも少ないのだと、クロノは理解しているつもりだ。だが、この状況下で普段できることができるのと、できないのとでは大きく変わってくる。そのときにクロノができることをできるようにするために、今は少しでも休んでおくべきなのだ。
隣に座っていた気配が立ち上がり、そっと離れていく。扉が開いた音は聞こえたが、閉まる音までは聞こえなかった。
「……ねぇ、クロノ君」
「何だ」
「……私ね、あのときクロノ君がアースラに戻ってきてくれて、すっごく安心した。それではやてちゃんには色々あったけど、どうすれば正解だったのかなんてわからないけど、すっごく安心したんだ」
「…………」
「でもね、すっごく安心したけど、すっごく怖くもあった。……クロノ君、頑張るのはいいことだけど、頑張り過ぎたりしないでね。クロノ君はすごいけど、今のアースラには、もっとすごい人達がいるんだからさ。……私、違う誰かの補佐官になるなんて、絶対嫌だからね。……約束してよ、クロノ君。無茶だけはしないって。私はさ、命懸けられてまで守られたくなんかないよ」
「……ああ、努力しよう」
「…………おやすみ、クロノ君」
扉が閉まる音があり、コツコツと気配が遠ざかっていった。
クロノの補佐官は、いっそ残酷なほどに現実を見てくれている。この歳になっても夢見がちなクロノとは、大違いだった。
「命を懸けられてまで守られたくはない、か……」
レヴィにアースラへと侵入されたときの通信で、いったい自分は何を口走っただろうか。
無我夢中だったために曖昧になっている記憶を辿りながら、クロノはゆっくりと意識を落としていく。握り締めていたはずの拳は、いつの間にか解けてしまっていた。
◇
アースラにある一室で、颯輔は僅かに息苦しさと気怠さを覚えていた。六畳ほどの広さの部屋には、テーブルとそれを囲む四脚の椅子しかなく。天井の照明は半分が消されており、室内の照度は明らかに足りていない。閉塞感を醸し出す部屋の中、一人きりで椅子に座っていた。
しかし、颯輔が覚える息苦しさと気怠さは、もっと別の理由からだった。
今の颯輔は、シグナム達やリインフォース、ディアーチェ達と同じように、魔力素を結合させることで身体を作り上げている。そのような構造を持つ者にとって、大気中の魔力素は、それこそ空気と同じ役割を果たすのだ。呼吸ができないというわけでもないが、魔法行使を阻害する魔力リミッターを課せられた今、リンカーコアの機能が低下しているために上手く魔力素が取り込めず、十全な活動が不可能な状態に陥っていた。
闇の書事件の後、皆も同じような体験をしたのだろうか。
ふと考えてしまったのは、自分が消えた後のこと。おそらく同じようにリミッターを課せられただろうから、同じ息苦しさを覚えたに違いない。もしかしたら、躯体が魔力素により近い分、自分しか覚える事のない感覚なのかもしれないけれど。
だが、本当に気がかりだったのは、さらにその後のことだった。もっとも、はやて達は拘束を受けずにここにいたため、頼んだとおりにグレアムが上手く動いてはくれたのだろう。もしかしたら刑務所のような施設でずっと、という心配は杞憂に終わった。
ただし、はやて達がこの場にいたことは、今の颯輔にとっては素直に喜べることではないのだが。
「――失礼します」
女性の声と共に扉がスライドし、二人の人物が入ってくる。リンディとリインフォースの二人だった。
ちゃらり、と鎖が鳴った。最も弱い颯輔を守っているナハトヴァールは、待機状態となって颯輔の左手首にはめられている。そこから伸びる鎖が揺れ、颯輔に警戒を促したのだ。
颯輔は腕甲の表面をそっと撫で、敵ではない、とナハトを落ち着かせた。リンディもリインフォースも、この場で颯輔をどうこう、などと考えるようなはずがない。
リンディとは、すでに自己紹介を終えている。相手はアルカンシェルを撃った人物のようだが、颯輔にとっては
リインフォースは、颯輔の予想以上に落ち着いていた。颯輔としては、自分が存在し続けていることを知れば、もっと違う反応があると思っていたため、意外ではある。シュテルからは何も聞かされなかったが、リインフォースへと何かを伝えてはいたのかもしれない。そうでなければ、心を決めた目をして、真っ直ぐにこちらを見つめてきたりはしないだろう。
二人は静かに足を進め、颯輔の対面へと並んで座った。様子を窺えば、リンディは何かを考えるようにして目を閉じ黙している。最初に口を開いたのは、リインフォースの方だった。
「……お久しぶりです、颯輔」
「……『主』は、もうつけないんだな」
「ええ、家族は名前で呼ぶものだと教わりましたから。はやて、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ。皆のことも、しっかりと名前で呼んでいますよ」
「そうか……」
「…………」
「…………」
「……他には、何も尋ねてはくれないのですね」
「……ああ」
「そう、ですか……」
話し始めて和らいだはずのリインフォースの表情が、再び変化してしまう。目を落として悲しげに口を閉じるリインフォースを、颯輔は見ていられなかった。
途切れた会話にようやくリンディが目を開き、ちらりとリインフォースに視線をやる。リインフォースが静かに頷くと、リンディの目は颯輔へと向けられた。
「では、聴かせてもらえますか。あなた達はいったい何者で、いったい何が起きているのかを」
「……はい」
挨拶は済みましたね、とリンディが目でも確認してくる。颯輔は、リンディに対して二重の肯定を示した。
今回の件は、おそらく解説役として同伴させたであろうリインフォースにも、分からないことばかりのはずだ。だが、リンディ一人に一から十まで説明するよりは、夜天の書そのものであるリインフォースがいた方が、話は早い。
タイムリミットは刻一刻と迫っているのだろうが、颯輔はまだ道を見失ったままだ。新たな手掛かりを得るためにも、颯輔は要所を順を追って説明していくことにした。
「多少長くなってしまいますが、大丈夫ですか?」
「ええ。ここからは記録させてもらいますが、構いませんね?」
「できればご遠慮願いたいのですが……そうもいかないんですよね?」
「……はやてさん達の情報は、機密事項として扱われています。具体的には、将官以上でなければ閲覧できないようになっています。闇の書に関わる話であるのならば、そういった扱いも可能です」
「…………」
はやて達の情報が公にされていないことは、颯輔にとっては朗報だ。完全な情報規制は不可能かもしれないが、闇の書の主や守護騎士であったことが周知の事実となるよりは、ずっといい。
だが、今回の件に関してはそうもいかない。むしろ、将官以上のような者だからこそ、知られたくはないのだ。本音を言ってしまえば、リインフォースにさえも真実は告げず、このまま闇に葬り去ってしまいたいほどだった。
颯輔が言葉を選んでいると、小さな溜息の音が聴こえてきた。
「それじゃあ、今回の席はただの雑談の場としましょうか。聴取はまた後日に、ね?」
「いいんですか……?」
「だって、嫌なのでしょう? 記録に残すかどうかは、聴いてみてから判断するわ。これなら、真実を知るのは、あなた達の他には私とリインフォースさんの二人しかいない。その方が、色々と都合がいいでしょう?」
笑顔の仮面。この場で被るそれが、それを見抜くことができる相手の心象へとどのような影響を与えるのか、考えが及ばない女性ではないはずだ。
信用できないのならば消しなさい。言外にそう告げてくるリンディは、安易に信用してはならないタイプの人間だ。
だが、力が及ばずともはやてを救い出そうとしていたリンディならば。
リンディの悲痛な叫びを知っているからこそ、颯輔は、ひとまず信用してみることにした。
「……ええ、そうですね。ありがとうございます、ハラオウン提督」
「いいのよ、お礼なんて。私がどうするのか、まだ決まったわけではないわ」
「……そのときは、そのときですから」
「あら、怖い怖い」
おどけて見せるリンディからは、場馴れした様子が窺える。こういった駆け引きは得意なのだろう。甘く見積もっても、素人同然の颯輔が勝てる相手ではない。それに、グレアムとの交渉の場では相談役となってくれたリインフォースも、今はリンディの隣にいるのだ。どう足掻いても、颯輔では手玉に取られてしまうのがオチだった。
無駄な抵抗は、いたずらに時間を消費してしまうだけ。そう学習した颯輔は、大人しく話を進めることにした。
「それじゃあ、掻い摘んでになってしまいますが、話していきます。……記録を拒んだ理由が、これから話をする上で大前提となる、夜天の書の旅の本来の目的なんです」
次元世界に広がる魔法技術の蒐集。夜天の書が闇の書になった後も続けられていたそれは、それ自体が主目的ではなく、真の目的を果たすための手段でしかなかった。リインフォースすらも知り得なかったそれは、紫天の書を開いたからこそ、颯輔でも知ることができたものだった。
夜天の書と闇の書の知識と記憶だけでは、知りようがない真実。それを記録しているもう一冊の魔導書――紫天の書は、夜天の書側からはその存在を認識することさえできなかったのだから。
「それは、世界各地の魔法技術を蒐集し、ある技術を完成させることでした。それが、魂の永久保存……早い話が、永遠の命を得て、不老不死になるための魔法です」
「……!」
「待って! あり得ないわ、そんな、お伽噺のような魔法は……」
「俺からしてみれば、魔法そのものがそうですよ。転移に念話、飛行に身体強化、魔力付与に射砲撃、障壁に捕縛だって、地球で暮らしていた俺にはお伽噺、空想妄想の世界です。それに、そういった技術を指して、ロストロギアと呼んでいるはずですよ、管理局は。次元世界に、あり得ないものなんてありません」
無限に広がる世界には、人が考え付く程度のものなど、必ずどこかに存在している。ないのではなく、ただ見つけられないだけなのだ。
だが、それだけの可能性がある世界でありながら、夜天の書を創造したほどの者が目指したものは、永遠の命などというありきたりなものだった。それはつまり、ほとんどの世界において、死という運命が絶対のものであるという証明なのかもしれない。
しかし、創造主の存命中には叶わなかったが、永遠のように長い時を経て、夜天の書は、絶対の運命に逆らう術を完成させた。その生き証人が、八神颯輔である。
「それじゃあ、今のあなたは……」
「一時的に消滅こそしますが、誰に何をされたって終わらない存在ですよ……。それから、本人達には認識されないように設定されていましたが、リインフォース達にも、その技術の一部が組み込まれていたんです。彼女達の再生と転生は、デバイスの自動修復機能だけでは説明がつかない。どんなに複雑なデバイスでも、その構造は人間のそれには及びませんから。もっとも、彼女達は元が人間だったというわけではなく、そういう存在として生み出されたからこそ、不完全な術式でも再生と転生を繰り返すことができたのですが」
「……では、旅の目的や創造当時のことが思い出せないのは、不完全な術式であったためですか?」
自覚はあったらしいリインフォースの問いかけに、颯輔は視線を向けずに頷きだけを返した。さすがに本人は話が早い。
「実はその術式は、最初からある程度の雛型ができていました。リインフォース達が記憶を継承できるようになったのは、雛型でしかなかった術式が整ってきたからです」
「で、ですが颯輔、そのような術式、夜天の書のいったいどこに……?」
「……誰にも利用されないように、どこかに隠されていたというわけね? リインフォースさんでさえも知り得ないのならば、それこそ誰にも知りようがない」
「はい。その術式は、夜天の書が内包するもう一冊の魔導書に記されていました。そしてそれは、夜天の書の管制人格であるリインフォースですら知覚できない領域に隠されていたんです」
「……動力部」
「そう。その夜天の書の動力部は、二つのユニットによって構成されていました。無限の魔力を供給する魔導炉、永遠結晶エグザミア。そして、不老不死の術式が記され、連動するエグザミアの制御端末でもあった紫天の書。どちらか片方だけでも、世界を覆しかねない技術です……明るみに出ていい代物ではありませんでした」
どれほど技術が進んだ世界でも、未だに永久機関と不老不死の技術の完成形は確認されていない。片方だけも夢想の先にある代物なのだ。その二つが揃っていた夜天の書はロストロギアの塊であり、まさしくロストロギア中のロストロギアと言っても過言ではないだろう。
そんな技術の存在を知ってしまったからこそ、八神颯輔は決断を下さねばならなかった。
「無限の魔力……俄かに信じられない話だけれども、心当たりがないでもないわ。あのとき……闇の書の暴走体は、いくら魔法を使っても残存魔力の数値が動いていなかったもの」
「ですが、矛盾があります。未完成の私も、完成したあとの私も、確かに魔力を消費していました。さらには、リンカーコアからの蒐集によって、魔力を貯蓄していたはずです。私自身は、そのような魔力を感じたことがないのですが……?」
「……エグザミアは、ただの魔導炉ではないんです。特定魔力の無限連環機構――ある波長を持つ魔力が入力されて、初めて稼働するんです」
「それが、あなたの魔力だったと?」
「そういうことです。永遠の命を得るための魔法、その術式の起動には、それこそ無限に近い魔力が必要になることが、構想の初期段階からわかっていました。術式を組み上げる過程で消費量が増減するにしても、あらかじめそう想定しておけば、後からでもどうとでもできます。術式を完成させてからの旅の目的は、エグザミアを起動させるための魔力の確保に変わっていました」
「そして、颯輔に巡り会った……」
「夜天の書は、問題を抱えながらも役目を果たしたということね?」
「はい。紫天の書は術式を完成させ、エグザミアは燃料を確保し、夜天の書は主を選定しました。ですが、その頃にはすでに、無差別に破壊を振り撒く闇の書へと変貌してしまっていました。その原因は、紫天の書の術式が完成に近づいたことと、繰り返された蒐集にありました……。夜天の書は、蒐集を通して対象の魔法技術を記録します。そこには単なる技術だけでなく、技術を生み出すための知識も含まれていました。一概に言ってしまえば、蒐集対象の記憶です」
生み出された技術を一から解析するよりも、それを生み出した知識ごと得た方が理解は早い。そうした知識も合わせることで、紫天の書は術式の改変を行っていたのだ。記憶を覗き、必要な部分を己がものとして不要な部分を消去する。その過程にこそ、問題があった。
「ところが、記憶にはその場面に対する印象、すなわち感情も含まれます。当然、術式の完成に不要なそこは切り捨てるのが本来なのですが……そのふるいとなるフィルターが、壊れてしまったんです」
人が新しい何かを生み出そうとするとき、そこには現状を打破しようという意思がある。
では、どうして打破しようというのか。
答えの多くは、避けられなかった悲劇があったから。
その運命を覆すために、人は新しい
例えば、プレシア・テスタロッサ。
プレシアは、実の娘を失うという悲劇があったからこそ、死者蘇生の秘術を求めた。その原動力は、もう一度娘に会いたいという想い。しかしそれは、ただそれだけの純粋な想いだけではなかっただろう。そこにはもっと別の、世界の何かに対する暗い想いがあったはずなのだ。
愛憎。
いつの時代も、人を突き動かすのは愛情と憎悪だ。
そしてこの場合、新しい技術を生み出す原動力となったのは、憎悪の方が多かったというだけの話。その想いがあまりにも深く大きかったとしたら、どうなるだろうか。例えば、紫天の書の想定を超えてしまっていたとしたら。
「想定を超えた量の感情は、フィルターを詰まらせてしまいます。そうして、堆積した負の感情が最初に影響を与えたのは、それを蓄えていた紫天の書でした」
膝の上に置いていた手を持ち上げ、机の上で両手を組む。颯輔は交互に重ねた指に目をやりながら、思い出すようにして続きを話し始めた。
「紫天の書には、術式の構築の他にもいくつかの機能がありました。先ほども言った、エグザミアの制御端末としての機能。それから、夜天の書の抑止力としての機能です」
「抑止力、ですか……?」
「けれどそんなものは……いえ、働かなかったのではなく、働くことができなかったというわけね?」
「はい。もともと、星を消滅させるほどの暴走でなければ働くことのなかった機能ですが……その事態が起きるようになった頃には、すでに異常を来した後でした」
蒐集をするならば、主が支配者の立場にあった方が効率がいい。だから、戦争を引き起こす程度の利用ならば、夜天の書の抑止力は動かなかった。蒐集ができなくなるような利用方法をされて、初めて抑止力が動くのである。
「稼働していない状態のエグザミアは、夜天の書が蒐集した魔力の貯蔵庫として使われていました。夜天の書を活動停止させるには、そのエグザミアからの供給を断てばいい。ですが、主からの魔力供給も受けるシグナム達は別です。紫天の書のシステムには、暴走した彼女達を打倒できるだけ力が宿っていました」
「シュテル達、ですね?」
「そう。紫天の書のシステムの
「それが、闇の書の真実というわけね……」
新たな技術を求める者の原動力は、憎悪。
その方向性は、運命という名の法則の破壊。
その権化である闇の書は、法則の集合体である世界を破壊し続けていた。
だが、それには当然魔力が必要になる。魔力を集め、使い切ったらまた集め、それでは効率が悪い。だからこそ、闇の書は、狂いながらもエグザミアを起動させるための魔力を求め続けた。
「そうして、事は俺が引き起こした事件へと繋がります……」
あの冬の日から、すでに三ヶ月あまりの時が経っているという。時間が止まったままの颯輔には、それが信じられなかった。信じたくなかった。まるで悪夢のような話だ。
目を閉じれば、それまでの日々が色鮮やかに浮かんでくるというのに。
「……主に選定された者のリンカーコアは、闇の書の内に取り込まれ、覚醒の時まで一時的に休眠状態に入ります。その間、俺のリンカーコアは、紫天の書によって入念に解析されていました。そして、エグザミアに適合する魔力を生成できることが判明し、闇の書の最奥、紫天の書へと徐々に取り込まれ、同時に精神リンクも構築されていったんです」
「だからあのとき……管理局と交戦したとき、颯輔のリンカーコアは、完全には起動できなかったのですね」
「……? どういうこと?」
「12月11日、貴女が展開した結界を破るために、颯輔と私は魔法を行使しました。その際、颯輔のリンカーコアを起動させたのですが、稼働率は半分で止まってしまったのです。その時は蒐集した魔力を代用しましたが……その頃には、颯輔のリンカーコアは半分も紫天の書に取り込まれてしまっていたということでしょう」
「……なるほど、ね。そして、その代用した魔力が貯蓄されていたところが、永遠結晶エグザミアだったと」
「そのとおりです。その魔法行使を機に、蒐集と精神リンク構築の速度は急激に上がりました。蒐集が完了し、精神リンクが完全に繋がったのは、夜天の書からナハトヴァールを切り離したときです。あのとき夜天の書からナハトを切り離せたのは、俺の魔力がエグザミアに適合していたからでしょう。そうでなければ、ナハトは夜天の書を手放さなかったでしょうから」
「颯輔を手に入れ、もう擬態は必要なくなったということですか……。ナハトが真に守っていたのは、闇の書……。夜天の書ではなく、闇の書の根幹である紫天の書とエグザミアだったと……」
「そんな言い方って……」
「…………」
俯くリインフォース。リンディが助けを求めるように見てくるも、颯輔には何も言うことができなかった。
しなかった、という方が正しいかもしれないが。
必要以上に言葉を交わさないのが、お互いのためなのだから。
沈黙を破ったのは、リインフォース自身だった。
「……では、あのとき颯輔は、いったいどのようにして暴走を止めたのですか?」
「……紫天の書とは、精神リンクが構築されていたと言いましたね」
颯輔は、リインフォースを見ずに続ける。
「あのとき暴走を止められたのは、ユーリのおかげなんです。ナハトに取り込まれた俺は、紫天の書が造り出した幻想の中にいました。そこで、ユーリと会ったんです。それ以前にも何度か会ってはいたんですが、それを思い出せたのは、幻想の中でユーリと会ったときでした。それから、ユーリは俺に言いました。『自分一人か、他の全てかを選んでほしい』と」
「……あなたはそれに、他の全てと答えた。でも、その……マテリアルの彼女達も、それを許したの?」
「いえ、ディアーチェ達は、その時はまだ完全には目覚めていませんでしたから……。俺が目覚めさせたのは、最も波長が近いユーリだけでした。ユーリは融合騎なんですが、ディアーチェが起きていなければ、紫天の書の管制権がユーリに下りてくるんです。それで、ユーリが暴走していたナハトと、稼働していたエグザミアを停止させてくれて……そして、全てが終わるはずでした」
そう。
あのとき、はやて達の尽力もあって、闇の書だったものは消滅するはずだった。
八神颯輔は、この世を去るはずだった。
だが、そうはならなかった。
救いようがないほどに愚か者だった、八神颯輔の所為で。
「……だけど、終わらなかった。これは、あの闇の書事件の続きということ?」
「……ええ。そして、今回の事件も……俺が招いたものです」
◇
「……ええ。そして、今回の事件も……俺が招いたものです」
颯輔は、絞り出すようにしてそう言った。リインフォースには向けられず、リンディのみを見ていた目も、机の上で組んだ両手へと落ちる。その姿は、いけないことをしたと告白する子供のようであった。
「あのとき……アルカンシェルの光に飲まれたとき、俺は、思ってしまったんです。……死にたくないって、まだ死にたくないって、願ってしまったんですよ……」
どうしてこの人は、『しまった』などと言うのだろう。死にたくないと思うのは、願うのは、それは生物として当たり前のことだ。魔導書であろうと、造り出された人格でしかなくとも、永く人間を見てきたリインフォースには、それが理解できている。少なくとも、そう理解できているつもりだ。
「その願いを聞き入れてくれたのは、停止していたはずのユーリでした。壊れたままのエグザミアを起動させたらどうなるかなんてわかっているくせに、あの子は無理矢理起動してみせたんですよ、俺なんかを救うために」
そんな風に言わないでほしい。
そんな風に自らの存在を貶めないでほしい。
だって、リインフォース達は、他ならぬ颯輔によって救われたのだから。
「アルカンシェルの光の中、ユーリは散り散りになった俺の残滓を紫天の書の中に集めてくれて……そして、俺に永遠の命を与えてくれたんです。まあ、体は消滅してたわけですから、当然、そのときにはもう俺の意識なんて残っていなかったんですけど……だけど、誰かに包まれるような感覚はあった気がします」
余計なことを。
馬鹿なことを。
言葉の端に隠されたそれに、沸々と怒りを感じてしまう。その怒りには、納得がいかないという思考も含まれているのかもしれない。リインフォースにはついぞ救うことのできなかった颯輔を、あの少女は救ったのだから。
救ってくれたことには、もちろん感謝をしているけれど。
「きっと、俺はそこで一度死んだんだと思います……だけど、完全には滅んでいなかった。エグザミアには俺の魔力が残っていましたし、紫天の書には、すでにリンカーコアのバックアップが取られていましたから、あとはもう術式を発動させるだけでした。それに、ユーリが起動したということは、ユーリが抑えていたナハトも再起動したということです。つまり、停止させたはずの無限転生機能も働くんですよ。けれど、損傷したユーリだけでは処理能力が追い付かない。だから彼女は、システムとしての役割を果たすだけだったディアーチェ達も目覚めさせてしまいました……。紫天の書の覚醒に、壊れかけとはいえエグザミアも稼働。完成形とまではいかないとはいえ、そこまでの条件が揃ったんです、再生速度は驚くほど速かったですよ。十年はかかるそれを、たったの三ヶ月でです。それも、八神颯輔という異分子をシステムの一部に加えながらの作業ですから、もしかしたら、その処理速度はエグザミアが完全に稼働した場合の理論値に迫っていたかもしれません」
基礎構造を再構築させて、千年以上の記録を追いかける。散り散りになった欠片を繋ぎ合わせるのには、十年の時を要するのが常だった。リインフォースの処理速度では、それが限界。それを四十分の一にまで短縮させるなど、リインフォースの理論上では不可能なはずだった。それも、システムを書き変えながらやってのけたのだ。さらには、それが限界ではないという。もはやそれは、リインフォースの知っている闇の書という規格外のロストロギアですら、足元にも及ばない領域にあった。
つまり、だからということですか。
そこまで至って、リインフォースは僅かにぼやけていた颯輔の理由をようやく捉えた。
「とにかく、三ヶ月の時が経って、俺はもう一度意識を取り戻しました。そこにいたのは、自分の修復なんかいっこも進んでいないボロボロのユーリと、それから……はやての姿をとったディアーチェ、なのはちゃんの姿をとったシュテル、フェイトちゃんの姿をとったレヴィでした……」
「……彼女達は、どうしてはやてさん達の姿をとったの?」
「ディアーチェは、自分に最も適した魔法資質を持つ者……すなわち、夜天の王であるはやて。シュテルとレヴィは、ディアーチェが基にしたはやてと関わりがあって、なおかつ、魔法資質の近い魔導師だったなのはちゃんとフェイトちゃん、というわけです。……ですが、はやての生体データを基にしたのは、ディアーチェにとっては失敗だったと思います」
「それは、どうして?」
「闇の書だった頃、はやてとは精神リンクが繋がっていましたから、なんといいますか……はやての思念が、呪いの中にも色濃く残っていたんです。元の体も同然のものがあるわけですから、その思念はディアーチェの内に入り込んでしまうわけで……」
「それで、あの態度というわけね……」
「はい……。破壊を振り撒くための道具にされて、今度は心まで勝手に決められてしまったんです。そんなの、暴走しているのと同じですよ。ある意味、ディアーチェが一番の……」
被害者。
その言葉を、颯輔は口に出さなかった。
それは、颯輔の悪い癖。他者には無関心を貫き通せるくせに、一度身内に数えてしまうと、途端に切り捨てるという選択肢がなくなってしまうのだ。近しいものは捨てられない、だから代わりに自分を切り刻む。そんな、酷く歪な思考回路。それこそが、八神颯輔が抱える最大の歪み。
「……本来の彼女には、紫天の書の管制人格――王のマテリアルに相応しい人格が備わっていました。そのはずが、新たに知を司る座を作ってまでして、俺なんかに王の座を明け渡して……そうして、言ったんですよ。『我らと共に、兄上を排斥した世界を殺し尽くしましょう。兄上が生きるべき世界は、その先にあります』なんて、はやてと同じ顔して、そう言ったんですよ……」
「…………」
それは、どれほどの衝撃だっただろう。リインフォースは、ディアーチェとは対面していない。だが、色素の違いはあれど、シュテルとレヴィは、なのはとフェイトに瓜二つだった。そして、直接会ったシグナム達は、驚くほどはやてに似ていたと評していたのだ。その上、颯輔にとって、はやては唯一無二の存在だった。それが、殺し尽くそうなどと吐いた。
だが、ディアーチェはどうしてそのようなことを言ったのか。颯輔を蘇らせ、王の座まで明け渡したほどのディアーチェが、颯輔が望まないことをするはずがない。
それはつまり、リインフォースだけが知っていた颯輔を、ディアーチェ達も知っているということで。颯輔とディアーチェ達との精神リンクは、それほど深くにまで根を張っていたということで。
「そんなの、頷くわけがないじゃないですか。皆で必死になって呪いを解こうとしたのに、たくさんの人に迷惑をかけてまで暴走を止めたのに……よりにもよって、あなたにアルカンシェルを撃たせてしまったのに、闇の書は滅ばなかったなんて、どの面下げて言えるんですか。……だから俺は、断ったんですよ。そんなことは望んでない、自分勝手で悪いけど、やっぱりもう終わりにしようって」
自分で自分を非難するように、颯輔は独白を続ける。
「……自分でお願いして生き返らせてもらっておいて、今度は一緒に死のうだなんて、救いようがないですよね。……ディアーチェも、俺がそう答えるって予想してたのかもしれません。ディアーチェは、王の座を降りながらも紫天の書の管制権は捨てていませんでしたから。俺が答えると、ディアーチェは紫天の書を奪い返そうとして……それに俺は抵抗して、でも、紫天の書の半分は奪われてしまって……そこから、仲間割れですよ。ディアーチェはレヴィをけしかけてきて、闇の欠片まで生み出して……俺は、ひとまずシュテルにユーリを任せて、なんとかディアーチェ達を説得しようとしたんですが……結局、真面に戦ったこともない素人にできることなんてなくて、レヴィに斬られて躯体を保てなくなってしまいました……。シュテルはユーリを連れて逃げることには成功したんですけど、そのうち闇の欠片に追いつかれて交戦して……。その騒ぎでユーリの意識が一時的に戻ったらしくて、なんとかユーリだけは逃がしたそうです。そこからは、知ってのとおりだと思います。ユーリはどうしてか家に逃げたみたいで、動けない俺は言わずもがな、シュテルも容易には手を出せなくなってしまって……。それで、ディアーチェは俺を誘い出すために闇の欠片をけしかけて、それに俺はまんまと釣られて、って具合です」
「……これまでの背景は、大体掴めたわ。それで、これからどうするつもりなの? どうすれば、彼女達を止められるの?」
「…………」
問いかけたリンディに、颯輔はただ沈黙を返した。交互に組んだ指、その爪の先は白く染まっている。固い表情のまま、颯輔はそこに目を落としていた。
颯輔は、切り捨てられないもの同士を天秤にかけてしまっている。そんなことをすれば、
おそらく、ここが分岐点。
このときのために、颯輔の本心を聞き出すために、リインフォースはここへ来た。
「……颯輔、どうか隠さずに教えてください」
「…………紫天の書を外部から破壊することは、不可能だ」
颯輔の顔が、ゆっくりと持ち上げられる。颯輔は、ようやくリインフォースと言葉を交わす気になったらしかった。
「……だから、何とかしてディアーチェから紫天の書を奪い取って、内側から自壊させるよ。ロストロギア『闇の書』を、今度こそ完全に消滅させてみせる」
「シグナム達と同等の存在から紫天の書を奪うことなど、貴方一人にできるはずがありません。例えできたとしても、貴方は彼女達を見捨てられませんよ。特に、ディアーチェは」
「……はやての姿をしてるから、か? そんなの関係ない……だって俺は――」
「はやてを憎んでいるんだから、とでも仰るつもりですか」
「…………」
「颯輔。私は、貴方以上に貴方の心を知っているつもりですよ」
なぜなら、リインフォースはずっと颯輔の心に触れていたから。
颯輔が事故に遭ったあの日から。退院して帰ってきたときも。叔父夫婦に引き取られたときも。はやてが生まれたときも。叔父夫婦が亡くなったときも。グレアムが家にやってきたときも。
はやてが泣き、颯輔が怒ったときも。颯輔が中学生になり、はやてが寂しがったときも。はやてが小学生になり、颯輔が不安を募らせたときも。颯輔が高校生になり、はやてが不登校になったときも。
シグナム達が目覚めたときも。その存在に戸惑ったときも。その存在を受け入れたときも。共に笑い合ったときも。共に嘆いたときも。共に涙を流したときも。
颯輔が絶望したときも。颯輔が奮起したときも。颯輔が覚悟を決めたときも。
あの日あのとき、精神リンクが断たれるまで、リインフォースは颯輔の心に触れていたのだから。
「はやてを憎んでいるだけの人間が、どうしてはやてのために命を捨てられるというのですか。確かに貴方は、はやてのために多くを犠牲にしてきました。恨む気持ちも当然あるでしょう。……ですが貴方は、それ以上にはやてを愛していたはずです。たった一人の肉親を、大切に大切に守ってきたはずです。そんな貴方が、ディアーチェを殺せるはずがないでしょう……!」
「……はやての首、見ただろ、痣になってたの。ハラオウン提督に限っては、その現場を見ているはずです。……俺の欠片が、はやての首を絞めたのを。それでもまだ、殺せないっていうのか?」
「それは闇の欠片ですっ! 貴方自身ではありませんっ! ……ディアーチェは、自分の意思で闇の欠片を生み出せるのでしょう? 闇の欠片では、オリジナルの記憶の全ては持てないはずです。はやての首を絞めた闇の欠片は、はやてを負担に思う記憶と感情だけを、意図的に植え付けられていた。つまりは、そういうことなのでしょう? ……それに、貴方は取り返しのつかないリスクを背負ってまで、はやてを助けに来ました。それが、何よりの答えです」
「……確かに、俺ははやてを助けに来た。それは、間違いなく俺の意思だよ。……でも、はやてを殺そうとした欠片だって、間違いなく俺なんだ。そんなやつはもうはやての前に現れない方がいいし、現れちゃいけない。それに、はやてだけじゃない……お前達の前にだって、俺の欠片が現れる可能性はあるんだ。……だからその前に、全部、終わりにするんだよ」
「……そうして、貴方はどうなるのですか」
「……どうもこうもない。言っただろ? 俺はもう、『闇の書』の一部なんだ。破壊を振り撒く怪物も、不老不死の魔法も、無限に魔力を供給する魔導炉も、存在しない方がいい……しちゃいけないんだ」
「そんなものがあれば、お前達の身にまで危険が及ぶから。そのように考えているのだとしたら、私達は貴方を許しませんよ、颯輔」
「…………」
沈黙した颯輔が、リインフォースから目を逸らす。図星の反応だった。
ここが攻め時だ。颯輔の理由を崩し、新たな理由を用意してやればいい。リインフォース達のために自分を切り捨てようとしているのならば、リインフォース達のために自分を傷つけられなくしてみせる。
呪いをかけるのは、この世界に存在する
「……本当に、それでいいのですか。後悔しないのですか」
「……俺のせいでこうなったんだ、だから――」
「いいえ、そうではありません。私は、貴方自身はそれでいいのかと訊いているのです。その選択で、微塵も後悔はしないのかと訊いているのです。颯輔は、私達のためにまたも命を捨てようとしている……そうではなく、もっと他の選択肢があるのではないのですか」
「ないよ……そんなものは、ない」
「そんなはずはありません。……シュテルは、他の道を示してくれましたよ」
「…………」
颯輔の眉根が寄る。固く唇を引き結んでおり、その視線は、机の上で握った両手に向けられていた。
「……颯輔、貴方にお願いがあります」
「…………」
リインフォースは両手を伸ばし、颯輔の手をそっと包み込んだ。
びくりと震えた手が、逃げるようにして引かれる。重ねたままそれを追うと、颯輔はそれ以上抗わなかった。リインフォースが引き寄せると、固く握り込んだまま、おずおずと従って動く。冷たくなってしまっている颯輔の手を温めるようにすると、指先に、ひんやりとした待機状態のナハトが触れた。
「……舞い散る雪の中、皆と見上げた空は高く、遠くに美しい光が輝いていました。シグナムと語らい、ヴィータとじゃれ合い、シャマルと寛ぎ、ザフィーラと歩き、そして、はやてに魔法を教えた時間は、嘘のように充実していました」
「……やめろ」
祈るように、
「知っていますか、颯輔。つい先日から、はやては再び学校に通い始めたのです。可愛らしい制服に身を包み、素晴らしい友人にも恵まれて。その日の夕餉の席では、学校で何があったのかを事細かに話してくれました。颯輔についてまわるばかりだった、あのはやてがですよ?」
「頼む、リインフォース……」
願うように、
「呪いから解き放たれた私にとって、今日までの日々は、奇跡のような時間でした。……ですが、私はそれ以上を望んでしまったのです。もっとこの時間が欲しいと、シグナム達と共にありたいと、はやての成長を見守りたいと、そう望んでしまったのです。……それから、もう一つ」
「お願いだから……」
詠うように、
「……あの時間の中、どれほど捜してみても、貴方の姿が見つかりませんでした。どれほど耳を澄ましてみても、貴方の声が聴こえませんでした。この世界で逢いたかった人が、触れ合いたかった人だけが、どこにもいませんでした」
「もう、やめてくれ……!」
縛るように、
「……颯輔。私は、貴方と共に生きていきたい。まだ、消え去りたくなどありません。どうか私に、貴方を含めた家族全員で過ごす時を与えてください。そして、私達の……誰よりも、はやてのそばで、貴方の優しい笑顔を見せてください」
リインフォースは、颯輔へと
「……なんで、なんでそんなこと言うんだよっ。俺のことなんか全部知ってるくせに、なんでそんなこと言えるんだよっ……!」
持ち上げられ、再び視線が合った颯輔の目は赤くなっており、酷く濡れていた。
「俺は、お前のことを見殺しにしようとしたんだぞっ……。なのに、どうして……どうしてそんな風にしていられるんだよっ……!」
言いながらも、固く握られていた颯輔の手が解け、下からリインフォースの手を受け止めた。互いの存在を確かめるように、掌を重ね合わせる。ようやく現実世界で触れ合うことのできた颯輔は、脅えるように、微かに震えていた。
「ずるい……ずるいよ、リインフォース……」
「ええ、私は生き汚い魔導書ですから。颯輔とはやてのためならば、いくらでも狡猾になってみせましょう。さあ、颯輔。本当はどうしたいのか、
「そんなの……――俺だって、皆と一緒にいたいに決まってるだろっ」
その言葉を受けて、リインフォースは颯輔の手をそっと握り込んだ。先を促すように、親指の腹で掌を撫でてやると、颯輔は湿った声で「だけどっ」と続けた。
「もうダメだ……ダメなんだよ、リインフォース。もう、一緒にはいられないんだ、いちゃいけないんだよ……」
「どうして、そう思うのですか」
「だってそうだろっ。不老不死の魔法に無限の魔力――そんな力、この世に存在しちゃいけないんだ。その力がいったいどれだけの悪意を呼び寄せるか……無理だよ、リインフォース。俺なんかじゃ、皆を守りきれない……皆に危険を強いてまで生きるなんて、そんな図々しいことできないよっ!」
颯輔の懸念は、リインフォースも十分理解していた。
真の目的は別にあったとはいえ、夜天の書が蒐集した魔法技術は膨大にある。更には、所々が抜け落ちているとはいえ、リインフォースは真実の歴史をも記憶しているのだ。それらは、守護騎士に管理局や聖王教会を敵に回すという、多大なリスクを差し引いてでも手に入れる価値がある。はやてやシグナム達がリミッターを課せられていないのは、忍び寄る悪意から身を守るためだった。
もしもそこに、不老不死の魔法に無限の魔力という紫天の書の力が追加されたのならば。それが一度知れれば、間違いなく今の生活は失われる。持ちつ持たれつの関係である管理局や聖王教会も、掌を返すかもしれない。次元世界の二大勢力までもが敵に回ったら、世界から居場所がなくなってしまうだろう。闇の書であった頃か、それ以上の苦行だ。ましてや、魔法に関わりのなかった颯輔とはやてには。
だが、その程度。
「……本当に、困った人ですね」
その程度の代償で、颯輔を取り戻せるのなら。
はやての涙を止められるのなら。
守れなかった誓いを、今度こそ果たせるというのなら。
この触れ合う温もりを、これからも感じられるというのなら。
「聞いていたな、お前達」
リインフォースが目配せをすると、リンディが、どこか呆れたように息をついた。リンディは銀色のカード型の端末を取り出し、さっと操作する。すると、三つのディスプレイが中空に投影された。
『颯輔、貴方は大馬鹿者です』
シグナムは、
『確かに、あたしらだけじゃあ頼りねえかもしれねえけど』
ヴィータは、如何にも不満だと主張するように腕を組みながら。
『だからって、どうして独りで抱え込むんですかっ』
シャマルは、ハンカチを片手に涙を拭いながら。
「なんで…………ハラオウン提督、どういうつもりですか」
「早期の事件解決のため、必要なことと判断したまでです」
語気を強めた颯輔に素っ気なく答え、リンディは再び目を閉じ黙した。果たす義理のない一方的な要望に応えてくれたリンディに小さく頭を下げ、リインフォースは、シグナム達と共に颯輔を追い詰める。
「颯輔。私達は、貴方がたから多くのものを授かり、多くのものを奪いました。ですから、今度は私達の番です。どうか、貴方がたに返させてください。私達からも奪ってください」
『我らが支えとなりますから』
『颯輔とはやてを守るから』
『弱さも受け止めますから』
「ですからどうか、もう一度生きてください。今度は他の誰のためでもなく、ただ貴方自身の幸福ために」
「だけど、俺は今まで……心のどこかじゃ、お前達のことだって恨んでいて――」
「怨恨の念を感じなかったとは言いません。私達は、それだけのことをしましたから……。ですが、それでも貴方は、私達を大切に想ってくれていました。貴方がたから授かった私達の心が、それを間違えることなどありませんよ」
「でも、はやては――」
「颯輔がどう思おうとも、例え何を言おうとも、はやては貴方を必要としますよ。そして、ただ憎しみしか持たない者をはやてに近づけるほど、私達の目は落ちぶれてなどおりません」
それに、精神リンクを断たれようとも、繕った言葉などには騙されない。
颯輔が本当に覚悟を決めていたのなら、真実を話す必要などなかったのだから。
ナハトを起動させ、リミッターを強引に破壊してしまえばよかったのだから。
それでも、颯輔はそうしなかった。声なき声で、「助けて」と叫び続けていた。リインフォース達には、確かにその声が届いていたから。
だから、リインフォース達は。
「……本当に、いいのか」
「貴方が望むのなら」
『例え世界の全てが敵に回ろうとも』
『例え颯輔とはやてがあたしらを嫌っても』
『この躯体がある限り』
「――我らは、永久に貴方がたの傍にあると誓いましょう」
「――っ」
颯輔が息を飲んだ。
リインフォース、シグナム、ヴィータ、シャマルと続いた声を締めくくったのは、扉を開いたザフィーラ。その隣には、自身の足で立つはやての姿があった。
◇
僅かに時を遡る。
背中に張り付いた小柄な体を、ザフィーラは静かに受け止めていた。涙に濡れた毛はすでに乾きつつある。ぎゅっと抱き着いてくるはやては、沈黙を保ったままだった。
アースラに帰還してから、はやてはずっとこのままだ。宛がわれた部屋に籠り、床に伏せたザフィーラに腕を回している。なのはやフェイト、エイミィが様子を見に来たりとしたが、誰とも口を利こうとはしなかった。それは、リインフォースやザフィーラ達にも同様だった。
いったい、颯輔の闇の欠片に何を言われたのか。シャマルの治療によって消えた首の痣。つまりは、痣を残されるような感情をぶつけられたということだ。魔法では、心の傷までは癒せない。ザフィーラ達が癒すにしても、長い時を要するだろう。それほどまでに、はやての傷は深い。
その傷を癒し、跡を埋めることができるのは。
絶望の淵に立ったはやてを、引き戻すことができるのは。
「――はやて」
リンディからの念話を通して伝えられる状況。颯輔が僅かに揺らぎ始めたのを機に、ザフィーラは、受け止めるばかりだったはやてに言葉をかけた。
「ご存知かもしれませんが、闇の欠片は、闇の書が蒐集した対象を模して生み出されます。姿形に記憶、それらを模しているのならば、その存在は、限りなくオリジナルに近づくでしょう」
「…………」
「しかし、まったくの同一とまではいきません。闇の欠片では、持ちうる情報の量に限りがありますから。故に、闇の欠片はオリジナルに劣る能力となるのです」
「…………」
「今回の闇の欠片の出現は、意図されたものです。では、その者が闇の欠片を構成する情報を、意図的に制限したとしたらどうでしょう」
「……そんでもそれは、お兄の記憶と感情や。……お兄は、本当は私のこと――」
「好意しか持たない人間などおりませんよ」
ようやく口を開いたはやての言葉を、ザフィーラは敢えて遮った。口下手だった自分がよくもこうまで喋るようになったものだ。そうしみじみと思いながら、ザフィーラは言葉を繋いだ。
「そのような人間は、すべからく狂人の類でしょう。愛憎と好悪を合わせ持ち、矛盾を孕みながら生きていくのが人間らしい人間というものです。はやて。貴女にも、颯輔の嫌いなところがあったはずですよ」
「…………」
「……例えば、颯輔がシグナムかシャマルのどちらかと二人きりで買い物に出かけたときなどは、決まってヴィータか我を呼びつけ、愚痴を零していたではありませんか」
「……それは、ザフィーラがそうしろって言うたんやで。私、忘れてへんよ」
「結果的に、愚痴を零したことには変わりありません」
「むっ。……でも、お兄の愚痴はそんな可愛いもんとあらへんかったよ」
「では、本物の颯輔が、はやてにそれをぶつけたことがありましたか?」
「……ううん」
「そう思っても思うだけで、心の内に秘めていたのでしょう。……では、言葉ではなく態度に表したことは?」
「……小さい頃、一回だけ怒鳴られた、かな。あとは、優しかった。あんな風に思っとるなんて、わからんかった」
「我慢は颯輔の得意技ですからね。それも、精神リンクが繋がっていても隠し通すほどにです」
「……ほんならザフィーラにも、不満とか、隠してることとかあったん?」
「ええ、もちろんです」
特に、秘め事は。
夜天の王となった今でこそ知られてしまったが、闇の書の騎士として駆け抜けた時代の話は、誰も二人には告げなかった。
血に濡れた自分を知られたくなかった。
罪に汚れた自分を知られなくなどなかった。
嫌われたくなかったから。
脅えられたくなかったから。
ようやく手に入れた陽だまり、それを失うのが怖かったから。
再びあの暗闇に戻ってしまうことが、酷く恐ろしかったから。
「始め、『蒐集はするな』と告げられたときなどは、何を呆けたことをと思ったものです。何を言うかと思えば、戦わずに身の回りの世話をしろというのですから。同じようなことは少なからずあったような気がしますが、それでも、身の回りの世話しかしなかったのは、初めてのことだったと思います」
もっとも、結局は再び戦うことになってしまったのだが。
「……私のお守り、嫌やった?」
「正直に言えば、目覚めたばかりの頃は、そうでしたね。世界を飛び廻って蒐集させられるよりも、よほど気を遣う困難な
「…………」
「それを子供一人の手でこなしていたのですから、まったく大したものですよ、颯輔は」
「…………」
心なし、ザフィーラを掴む腕に込められる力が強くなった気がした。背中に押し付けられたはやての頬、その反対側へと尻尾を伸ばし、ふわふわとくすぐってみる。
「そう俯かないでください。それでも我らが――颯輔が貴女を支え続けることができたのは、同じく貴女に支えられていたからなのですから」
「……私、何もしてへんよ」
「いいえ。はやては、笑顔を見せてくれました。『おおきに』と労ってくれました。たったそれだけで、我らの小さな不満などは消し飛んでしまったのです」
「そんなんで……?」
「『そんなん』ではありません。我らには、『そんなん』も与えられなかったのですから」
「…………」
守護騎士プログラムは、高性能な使い魔のようなものだ。主から供給される魔力を糧として起動し、その命令に従うところなど、よく似ている。
そして、使い魔は使い潰すことを目的として生み出される存在。むしろ、使い魔風情に温かな感情を向けることの方が異端なのだ。
だが、颯輔とはやては、そのような存在にも心からの笑顔を向けてくれた。それが、ザフィーラ達にここまでの変化をもたらしたのだ。
では、颯輔の場合は。
「我らの場合は、そういった扱いが当然だったのです。ですが、颯輔は違う。颯輔は、はやてと同じ人間です。……周囲と自分を比較したとき、颯輔は何を思ったのでしょうね」
「お兄の闇の欠片は、『普通に生きてみたかった』って言うてた……。『何で死ななきゃいけないんだ』って……」
「……そうやって本音を隠して我慢してしまう颯輔が、我は嫌いでしたよ。我らの荷物まで奪い、独りで背負い込んでしまうのです。それを支えて歩けるほどに強くなどないくせに、全部、全部、持っていってしまうのです、颯輔は」
「それは……うん、分かるかも」
はやての手が背中から離れて伸び、ザフィーラの頭にまでやってきた。耳の間にそっと着地し、宝石の上を中指の腹で往復する。
ザフィーラは瞼を落とし、酷く自分勝手な青年の顔を思い浮かべた。
「颯輔は、いつもはやてのことばかり考えていました。『はやてを守ってほしい』と我らに言ったのです。蒐集を始めるときなど、『はやての命を助けてください』と言い直して、頭を下げたのです。……心の底では死にたくないと泣いているくせに、その実、最初から死ぬことになると分かっていたような口ぶりでした……」
「…………」
「はやて。我には、颯輔が真にはやてを憎んでいたなどとは到底思えません。どうか、颯輔の覚悟を……あのときの颯輔の涙を、偽物になどしないでください」
「…………」
「……確かめに、行きませんか」
「え……?」
「颯輔の本心を、確かめに行くのですよ。今ならきっと、本音を聞かせてくれるはずです」
「…………」
「何も恐れる必要はありません。それに、もしもこれ以上はやてを悲しませるような男でしかないのなら、我がこの手で張り倒してみせましょう」
おどけ、前足で宙を叩いて見せると、背中から小さな笑い声が聞こえた。短く吐かれた息が、ふわりと毛を揺らす。もう一度、ぎゅっと抱き着いてきた小さな身体は、しばしの沈黙を待って、「うん」と離れた。
颯輔を繋ぎ止める最後の楔。その役目を果たすことができるのは、はやてをおいて他にいない。
◇
はやてを背に乗せながらも、廊下を駆けたザフィーラは速かった。それでいて不快な揺れを感じさせないのだから、如何に気を遣い、速度を落としていたのかが分かる。ザフィーラにしても、早く颯輔のそばに行きたかったはずなのに。
徐々に目的地が近づいて来る。早く答えが知りたくて、けれどそれを知るのが怖くて、はやては掴まるザフィーラのたてがみに顔を埋めた。
会いたいけれど、会いたくはない。いったいいつからそんな風になってしまったのだろう。いっそ何も知らないままでいられたのなら、綺麗な思い出であったのならば、こんなに心を乱さずに済んだのに。
けれども、思い出に触れることはできない。はやてが欲しいのは、あの温もりだから。
では、もしもそれが、包まれるように温かくなどなくて、刺されるように冷たかったとしたら。
渦巻く迷宮へと迷い込むはやての心とは裏腹に、ザフィーラの足は、遂にその部屋の前で止まってしまった。
「はやて、身体強化を。この先へは、貴女自身が足を踏み出してください」
「うん……」
言われ、はやては足に魔力を通した。まだ不自由の残る足が、はやての意思に追随できるように変化する。はやては、ゆっくりと時間をかけてザフィーラの背から降りた。
床に足をつけ、自身の力で立ち上がる。扉の前に向き直るも、はやては俯き、制服のスカートをぎゅっと握った。
「……今なら、引き返してもいいのですよ。我はああ言いましたが、はやてがそれを望まないのなら――」
「ザフィーラ、ちゃんとついてきてな。一緒におってな。私、ちゃんと確かめるから……お兄と、向き合うから」
「……はい」
ザフィーラの言葉を切り、はやては自分に言い聞かせるように宣言した。
あれから三ヶ月が経った。はやてを取り巻く状況は驚くほどに変化してしまったのに、はやての時間はあの日から止まったままだ。それを進めるために、はやては向き合わなければならない。
もしも再び拒絶されたとしても、それでも、八神はやてはきっと――。
「……いこ、ザフィーラ」
不安を吐き出すように、大きく深呼吸。スカートから手を離し、はやては顔を上げた。
扉のランプが赤から緑に変化し、鍵が外れたことを示す。大きく一歩を踏み出すと、扉がスライドし、室内の様子が明らかとなった。
「――貴方が望むのなら」
まず視界に飛び込んできたのは、リインフォースの背中。猫背気味になり、身体を前に倒して両手を伸ばしている。その隣には、黙して腕組みをするリンディの背中があった。
『例え世界の全てが敵に回ろうとも』
『例え颯輔とはやてがあたしらを嫌っても』
『この躯体がある限り』
二人の周囲には、三つのディスプレイが浮かんでいる。はやての位置からでは角度がきついが、音声からシグナム達であることがわかった。
「我らは、永久に貴方がたの傍にあると誓いましょう」
隣に立つザフィーラが、そう締めくくった。
そして、はやてはそこから目が離せなくなった。
「――っ」
息を飲み、濡れた目を見開く兄の姿。水気が増し、目尻に溜まっていく。それはすぐに溢れ出し、止めどなく流れ落ちていった。
颯輔は右手を持ち上げて両目を覆い隠し、声を殺して泣き始めた。肩は震え、息を詰まらせている。颯輔の口から漏れ出て微かに届いた言葉が、はやての足を前へと動かした。
「……った……ほんとうに、よかったっ……はやて、あるけるようになってっ……!」
机を回ると、その上で繋がっていた手を、リインフォースがはやての方へと動かした。リインフォースに目をやると、穏やかに頷きを返される。はやては両手を伸ばし、差し出された颯輔の左手をとった。
右手で人差し指と中指を、左手で小指と薬指をそっと握る。一度強張った手はすぐに緩み、颯輔の親指が、はやての右手を撫でた。
闇の欠片と同じ、大きな手。闇の欠片とは違う、優しい手。その先の手首には、禍々しい腕甲が巻きついている。勝手に全てを持っていった、腹立たしい手だった。
掴んだ手を引くと、颯輔は椅子から降りて膝立ちになった。同じくらいの高さにあった颯輔の頭が、ようやく胸の辺りまで下りてくる。はやては両手を自由にし、泣きじゃくる颯輔の頭を胸に抱え込んだ。
「……あなたは、本物のお兄?」
「……っ、ああ」
子供のように泣く颯輔など、はやては見たことがない。はやてが見てきたのは、優しくて強い颯輔だった。だが、それが全てであるはずがない。あのときのように怒ることもあれば、あの闇の欠片のように憎むこともあり、今の颯輔のように泣くことだってあるのだ。
颯輔だって、はやてと同じ。それを、知ろうともしなかった。
「お兄、わたしな、皆にいろんな魔法教えてもらったんよ」
「……うん」
「ほんでな、初めて自分で術式を起こして、初めて自分で使ったのが、身体強化」
「うんっ、うんっ」
「お兄、わたしな……自分で歩けるように、なったんよ?」
「っ、はやてっ……!」
大きく肩が震え、颯輔は遂に、声をあげて泣き始めた。はやての背に腕が回り、縋りついてくる。はやてはその重さを支えながら、抱え込んだ颯輔の頭をそっと撫でつけた。
「ごめんっ、ごめんな、はやて。勝手にいなくなって、全部押し付けて、ごめんっ」
「もう、お兄いなくなって、大変やったんやで? お兄が、いなくなって……わたし……わたしはっ……」
心にぽっかりと、大きな穴が空けられて。
リインフォース達がいても、その穴は塞がらなくて。
「お兄、ほんとはわたしのこと、嫌いやった?」
「そんなこと、ないっ」
「ちっとも? お兄に迷惑かけてばっかりで、お兄のこと何もわかってなかったわたしやったのに?」
「確かに、もう嫌だって思ったことはあった。はやてが……いなければって、そう思ったこともあった……だけどっ」
颯輔の腕が解かれ、体が離れた。間を置かず、颯輔の手がはやての肩に置かれる。あのときと同じ状況。けれども、肩に触れた手は壊れ物を扱うようで、そして、はやての前にいるのは、はやてが知っている颯輔だった。
「だけど俺は、はやてがいたから生きて来られたんだよ。はやてが笑ってくれたから、頑張ろうって思えたんだよ。はやてがそばにいてくれたから、俺は皆を守ることができたんだよ。もしもはやてがいなかったら、俺はきっと、もっとダメになってたと思うから……だから、はやてがいてくれて、よかった。それは、嫌だって気持ちよりも、ずっとずっと大きな気持ちなんだよ」
今度は、はやてが抱きすくめられた。少しだけ力強く、それでいて、頭を撫でていく手はどこまでも優しくて。触れ合い伝わってくる温もりが、流れ込んでくる気持ちが、心の穴を埋めていった。やがて、溢れ出したそれは、はやての目から流れ落ちていく。
「おにぃ、わたし、おにぃのこともうこまらせたりせぇへんから……ちゃんと、じぶんであるいてくから……そやから、おねがい、やから――」
嗚咽で上手く話せない。
伝えなければならないのに。
言葉にしなければならないのに。
「……はやて、お願いがあるんだ」
はやては、受け止められてばかりで。
「いつになるかわからない、元通りとはいかないかもしれない、これまで以上に不自由をかけるかもしれない……だけど、それでもいいなら、こんなダメな俺でも、許してくれるなら――」
本当は、はやてが颯輔を受け止めなければならないのに。
「いつかまた、皆と一緒に暮らしてもいいか?」
それでも、ずっと望んでいた未来を見せてくれたその言葉が、嬉しくて堪らなかった。
「うっ、っ、ぁぁ……」
口から出てくるのは嗚咽だけで、はやてが颯輔へと伝えたい言葉は一つも出てきてはくれない。はやては颯輔の背中へと腕を回し、何度も頷くことで、それを返事とした。
本当は、怖かった。また聞きたくもない言葉を聞かせられるのかと、怖くて怖くて手足の震えが止まらなかった。
颯輔の本心は聞いてしまったが、それでも、心の傷は疼かなかった。それは、もう痛みを痛みともわからないほどに傷ついてしまったからなのかもしれない。けれども、その傷は、颯輔の温もりが癒してくれるから。
だから、今だけはこの腕の中で泣かせてほしい。そうしたらきっと、八神はやてはもう二度と折れずにいられる。
だから、今だけは。
「っ、ぅ、ぁぁ、おにぃ、ごめんなさい、ごめんなさいっ、っ、ぅ」
「どうしてはやてが謝るんだよっ。はやてが謝ることなんて、いっこもないんだ。謝るのは俺の方なんだよ」
「っ、だって、だってぇっ」
「大丈夫、大丈夫だってば。皆、はやてのことが大好きだから。だから、謝らなくたっていい。泣かなくたっていい。それに、リインフォースのことだって、俺がなんとかしてみせるからさ」
「わた、わたしもっ、いっしょにっ」
「……うん。ありがとう、はやて」
固く抱き合ったまま、しばらくの間、はやてと颯輔は涙を流し続けた。心に溜まった重たい泥を吐き出すように。互いの温もりを分け与えるように。強く、強く。
ずっとこのままでいたい。だが、いつまでもそうしてはいられない。
なぜならば、まだやらなければならないことが残っているから。
やがて、颯輔が言った。
「……夜天の書の動力部の一つ、永遠結晶エグザミアは、俺のリンカーコアに融合しているんだ。起動はできないけれど、これがあれば、完全にとまではいかなくても、リインフォースの
それを拒否する者など、一人もいるはずもなく。
七つの返事が、部屋に響いた。