夜天に輝く二つの光Relight   作:栢人

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第九話 重なる空

 

 それは、不思議な感覚だった。全身を包み込まれているかのような、後ろから抱きしめられているかのような、そんな、温かな感覚。不快感はなく、安らぎを覚えるもの。ずっと昔に失くしたはずの、母や叔母が生きていた頃を思い出してしまうものだった。

 だが、今は感傷に浸っている場合などではない。胸の奥に感じる熱で不安と恐怖を融かし、空へと上がる時だ。

 今ならば、いつまでも、どこまでも飛んで行ける。そんな自信が、颯輔にはあった。

 

「行こう、リインフォース」

『はい、颯輔!』

 

 颯輔の意志を酌んだリインフォースが、飛行魔法を制御する。翼を大きくはためかせ、中天に鎮座する黒い月を目指して飛び出した。そこに、危うさなど欠片もない。颯輔の未だ拙い魔法技術を補うために存在するのが、融合騎(リインフォース)なのだから。

 颯輔達は、冷たい夜風を切り裂いて上昇を続ける。妨害があるかと思いきや、闇の欠片(リインフォース)はただ黙って見送るのみだった。おそらくは、ディアーチェ達も颯輔を待っているのだろう。現に、闇の欠片からの視線はほどなくして切れ、シグナムとヴィータへと向き直っていた。

 颯輔とリインフォースも協力してまずは闇の欠片を、という選択肢はなかった。なぜなら、紫天の書を操るディアーチェを止めない限り、闇の欠片は何度でも復活するからだ。その元となる魔力は、エグザミアが一度起動した際に、紫天の書の内へと貯蔵されている。故に、事態の収束を図るのならば、ディアーチェを止めなければならない。そして、ディアーチェ達が待つ場所へと辿り着くことができるのは、紫天の王である颯輔と、その内に融け込んだリインフォースのみだった。

 『後は任せた』と念話を残し、颯輔とリインフォースは、月の内側へと突入する。とぷんと表面を潜ると、中は激しい魔力流が渦巻いていた。すぐさまリインフォースが障壁を展開し、それを防ぐ。颯輔は、これは相当怒ってるなぁ、などと思いながら、闇の最奥へと突き進んだ。

 魔力流を掻き分けて進むうち、やがて、障壁の外が静かになった。辿り着いた月の中枢。そこには、一人の少女の姿がある。漆黒の翼を広げ、腕組みをして仁王立ちをしているディアーチェ。伏せられていた瞼が持ち上がると、鋭い眼光が颯輔達を射抜いた。

 

「遅かったですな、兄上」

「ごめん。ちょっと、準備に手間取ってたんだ」

「着の身着のままでよいというに……。何故、そのようなお姿で? 壊れかけの翼など、兄上には必要ありませぬ」

「必要だよ。俺はまだ、一人じゃ上手く飛べないから」

「ならば、今はもう役目を果たしたはずです。そのような異物は脱ぎ捨て、我らと共に永遠の空へと飛び立ちましょう」

 

 目尻を下げたディアーチェが、そっと手を差し伸べてくる。

 だが、颯輔は静かに首を横に振った。

 

「リインフォースは異物なんかじゃあない、大事な家族だ。それに、一人でそっちには行けないよ。俺は、皆と生きていくって決めたから」

 

 目を逸らさず、真っ直ぐに颯輔は告げた。もう、自分一人を犠牲にはできないのだ。

 初めは、ディアーチェ達の説得も一人で行おうと思っていたのだが、それは許されなかった。「貴方を一人にすると、私達の気も知らず、勝手に決めて勝手にどこかへ行ってしまいますから。ですから、私も共に行きます」と言われてしまい、リインフォースに同行されてしまったのだ。信用がないとは思うが、なにぶん、前科のある身である。颯輔は、首を縦に振るしかなかった。

 颯輔の答えを受けたディアーチェは、見る見るうちに下がっていた目尻を釣り上げ、眉間に深い皺を刻み込んだ。憎悪が込められた視線。それは、颯輔に向けられていながら、その内側を見ていた。

 

「夜天の融合騎っ! 貴様っ、またも兄上に背負わせたなっ!? その道の行く先に何があるかっ、理解しておらぬのかっ!?」

『……ああ、理解しているとも』

 

 深紫の光が瞬く。激昂するディアーチェを前にして、リインフォースが姿を現した。融合(ユニゾン)したままに颯輔の隣へと並び立ち、その憎悪を一身に受け止めている。

 

「ならば何故兄上を縛るっ!? 何故兄上を苦しめるっ!? 貴様らのような重荷などっ、兄上には必要ないのだっ! 貴様らのために兄上がどれほど自身を殺して来たかっ、貴様らも分かっておろうがっ!」

『それでも、我らは颯輔と共に在りたいと願ったのだ。無論、その分の重荷は我らも支えるさ。その想いは、お前達も同じだろう?』

「言うに事欠いて、我らが貴様らと同じだと……? 巫山戯るでないわ阿呆っ! 我らは兄上の重荷になどなりはせぬ! 我らは兄上が望む全てを捧げる! 兄上から奪うだけであった貴様らなどと、我らを同列に語るでないわっ!」

「……無理だよ、ディアーチェ。俺の望みは、ディアーチェ達だけじゃあ叶えられない」

「何を……何を言うのですか、兄上! 我らならば、兄上が望む世界を――」

「でもそれは、本物じゃないだろう? 俺は、夢の世界の住人になる気はないよ」

 

 確かに、ディアーチェ達は颯輔が望む世界を創り出すだろう。だがそれは、紫天の書の内に展開される幻想の世界だ。全てが思い通りになる世界。なるほど、それは理想の世界なのかもしれない。以前にユーリが作りだしたような、失ったものがある世界。颯輔が望めば、そこにはリインフォースやはやて達の姿もあるに違いない。エグザミアが織りなす魔力によって、その幸せは永遠に続くのだろう。

 けれどもそれは、嘘で塗り固められた虚構の世界だ。その世界を守るため、ディアーチェ達は現実世界の脅威を全て排斥してしまうだろう。そんなことは、許容できない。颯輔が命を賭して守ったのは、この世界に生きるはやて達なのだから。

 

「今の俺があるのは、今までの俺があったからだ。確かにさ、辛いことの方が多かったと思うよ。満足よりも、不満の方が多かったさ。だけど、幸せだって、そう思えることもあったんだ。あの時間が、すごく大切だったんだ。それを、今更なかったことになんてできないよ。……だからさ、ディアーチェ。シュテルも、レヴィも、ユーリも。皆で一緒に、こっちで生きてみないか?」

 

 今度は、颯輔が手を差し伸べた。

 ディアーチェは目を見開き、そして、下唇に犬歯を突き立てた。つぅーと、赤い雫が落ちる。その足元には、黒いベルカ式の魔法陣。その両手に光が溢れ、紫天の書とエルシニアクロイツが握られる。漆黒の翼は鮮血に染まり、炎のように揺らめき出した。

 

「……それこそ、夢物語ではありませぬか。兄上、貴方は甘い。全く先が見通せていませぬ。我らの力に安息などありませぬよ。下にあっては、使い潰されるのが目に見えていましょう。守るものがあっては、兄上は奴隷に成り下がってしまいます。その果てに摩耗し、擦り切れ、歪み、輝きはくすむ。そのようなお姿、ディアーチェは見たくなどありませぬ」

「……先のことなんて、そのときにならなきゃわからないさ。それでも俺は、皆と一緒にいたいって思うんだ。やってみたいことも、欲しいものも、たくさんある。俺はさ、結構わがままな王様なんだよ、ディアーチェ」

「……は。ははっ。はっ」

 

 渇いた笑いだった。悲観、諦観、失望、絶望。それらをないまぜにした、見た者を、聴いた者を暗がりに引きずり込むかのような笑い。身の毛もよだつ狂気を孕んだものだった。

 ディアーチェの両隣に、緋色と水色の輝きが現れる。二つの光は周辺に満ちた魔力を掻き集め、その躯体を構築させた。

 ルシフェリオンを構えるシュテル。矛先は、ぴたりと颯輔に向けられている。蝋で塗り固められたかのような無表情からは、何の感情も窺い知ることができなかった。

 バルニフィカスを構えるレヴィ。蒼雷を撒き散らし、薄紅の目を爛々と輝かせている。どこまでも純粋な、暴力に酔いしれた獣。うずうずと身体を震わせ、解き放たれるのを待っていた。

 

「やはり、最初からこうすべきだった。兄上が惑わされる前に、兄上を救うべきだった。兄上、愚かなディアーチェをお許しください。今すぐに、その泡沫の夢を吹き払います故」

 

 ディアーチェは、自分こそが正しいと信じて疑わない。世界が間違っているのだと断定している。だから、その力を使って間違っている全てを焼き払うのだ。それが、紫天の書を穢した呪い。どれほど薄まろうとも、根底にまで滲み付いたそれは、紫天の書の管制プログラムだった存在を徹底的に歪めてしまっていた。

 颯輔の隣に寄り添っていたリインフォースの姿が消える。だが、以前として武装であるナハトヴァールは待機状態のままだ。颯輔達に、この場で槍を構える気など毛頭ない。颯輔達は、ディアーチェ達を迎えに来ただけなのだから。

 

「シュテルっ、レヴィっ! あの忌々しい翼を兄上から削ぎ落とせっ!」

「頼むっ、リインフォースっ! 俺に力を貸してくれっ!」

 

 緋色の炎、水色の雷、暗黒の闇。凶悪なほどの魔力を秘めた攻撃が押し寄せ、颯輔達を飲み込んだ。

 

 

 

 

 闇の欠片(リインフォース)は、ただじっと飛び行く颯輔達の背中を見つめていた。表情は動かない。ただ静かに見守る様は、颯輔達と出会う前のリインフォースを思い起こさせた。

 やがて、颯輔達の背中が小さくなると、シグナム達へと向き直る。フェイトと激戦を繰り広げたはずが、微塵も疲弊した様子はなかった。それもそのはず。この空域には、闇の欠片だった魔力が満ち満ちている。これらが消えない限り、何度でも回復して見せるのだろう。

 

「よお。颯輔達、追わなくていいのかよ?」

「主颯輔は通すように言われている。だが、お前達は通さん。紅の鉄騎、烈火の将よ」

「お前にそう呼ばれるのも久しく感じるな……。で、どこまで覚えている?」

「そのような問いに意味などない。私はただの影。与えられた命に従い、お前達を滅ぼすだけだ」

「記憶があろうがなかろうが関係ねえ。てめえは偽物で、あたしらのダチをボコったんだからよ」

「我らはただ与えられた命によって動けばいい。そうだろう?」

「考える頭を失くしたか」

「……私の言葉を聴かなかったのは、お前達も同じだ」

 

 呟き、リインフォースの影――暴走体の魔力が更なる高まりを見せる。それが、合図だった。

 爆発を起こしたかのような勢いで、シグナムとヴィータが飛び立った。左右からの挟撃。僅かばかりにタイミングをずらし、シグナムが先行していた。

 数瞬の間にカートリッジをロード。レヴァンティンをラベンダーの魔力が包み込み、グラーフアイゼンが紅に輝いた。

 暴走体へと肉薄し、シグナムが真一文字に薙ぎ払う。一拍遅れ、ヴィータが真っ直ぐに振り下ろした。

 空間ごと断つような斬撃。大地も砕かんばかりの打撃。対応する暴走体は、水面のように静かで疾風のように速かった。

 防ぐことはせず、上半身を前に倒してレヴァンティンを掻い潜る。通り抜けた斬撃は、僅かに羽根を散らすに止まった。続くグラーフアイゼンは、身体を捻って横向きにして回避。衝撃波が薄く装束を裂くも、ただそれだけだ。翼も装束も、集束させる魔力によって瞬く間に修復されてしまう。

 そして、回避から流れるように反撃へ。いや、そもそも暴走体の動きは、回避するためだけものではなかった。単なる攻撃の予備動作だ。ならばそれは反撃などではなく、最初から狙い澄ました攻防一体の先制攻撃と言えよう。

 暴走体の踵が、下から掬い上げるにヴィータへと迫る。丁度、グラーフアイゼンを振り下ろして顔を晒したヴィータの真正面。鼻先から頭蓋を砕かんとするそれを、頭を逸らして回避。それでも頬を掠り、肌が薄く切れて血の玉が浮かんできた。

 だが、それすらも予備動作のひとつ。本命は、今まさに刃を返しているシグナムだ。リインフォースの踵に魔力が集束する。それはもはや、単なる胴回し蹴りなどではない。膨大な魔力により、格闘技の域を超越した一手。唸りを上げて迫る踵に、シグナムは咄嗟にレヴァンティンの鞘をかざし。

 そして、深紫の魔力が炸裂した。

 砲撃も同然の放出魔力が、シグナムの姿を飲み込む。「シグナムッ!」と叫びたくなるのを堪え、ヴィータは第二撃へと移行した。暴走体は周囲の魔力を取り込み、刻一刻とその力を強化している。故に、長期戦は圧倒的に不利。騎士の矜持などは捨て、二人がかりで仕掛けてでも短期決戦に持ち込むしかない。守るべきものを守ってこその騎士なのだから。

 

「フォルムツヴァイッ!」

《Raketenform.》

 

 ヴィータの呼び声に応え、グラーフアイゼンがカートリッジを吐き出し稼働した。衝角が迫り出し、三門の噴射口が形成される。煌々と燃える炎が点り、咆哮を上げる。ヴィータは身体を駒のように回転させ、体勢を立て直している暴走体へと振り下ろした。

 手応えは、あった。

 ただしそれは、硬質なもの。暴走体がかざした左の掌の先、展開された防壁が、ぴたりと衝角を受け止めていた。だが、ヴィータも負けてはいない。先陣を切って防壁を粉砕するのが鉄槌の騎士の役目だ。二人の王によって強化されている今、押し負けることなど許されない。

 グラーフアイゼンへと魔力を送り込み、推進力を増幅させる。炎が高く立ち昇ると、暴走体もろとも仄暗い海面を目指して突き進み始めた。

 ぐんぐんと落下速度が上がっていく。防壁は、きしりきしりと音を立て、亀裂が入っていた。だが、暴走体も黙っているわけではない。空いた右の掌をヴィータへと向け、その先に魔力球を形成し始めた。溜まりつつある魔力は、直撃を受ければただではすまされないものだ。

 

「はっ、上等。だけど悪ぃな、あたしは一人じゃねぇんだ」

「墜ちろッ!」

 

 ヴィータの視界を、ラベンダーの火の粉が舞った。直上からヴィータの隣へと降ってきたシグナムが、防壁にレヴァンティンを突き立てたのだ。戦装束のところどころが焼けているが、剣の騎士は未だ健在。炎刃はひび割れた防壁を貫き、魔力球を串刺しにして、暴走体の胸に突き刺さった。

 レヴァンティンが炎を吹き上げ、魔力球を押し出して暴走体をへと射出する。ヴィータが慌てて防壁を張ると、その向こうで目を焼くような魔力爆発が起こった。

 轟音に混じり、微かな水音が耳を打つ。暴走体が海へと落下したようだが、それはつまり、あの爆発を受けても海へと落下する程度には躯体を保っていたということだ。ダメージは通ったかもしれないが、撃破には至っていない。

 

「おい、あんま吹っ飛ばすんじゃねーよ。距離空いたら不利なのはあたしらじゃねーか」

「それはすまんかった。いやなに、お前の泣き叫ぶ声が聴こえた気がしてな」

「あん? お前、調整ミスったんじゃねーの? ちょっとはやてんとこ戻って治してもらって来いよ」

「あの程度の防壁も破れんとは、お前の方こそ、前より弱くなったのではないか? これでは先が思いやられるというものだ」

「初っ端から一撃もらってたやつがよく言うぜ」

「高度なフェイントもわからんとは、騎士の名が泣くぞ?」

「うっせーいいからさっさと本気出せよ。お前、さっきのフェイトより弱いぜ?」

「そっくりそのまま返してやろう。二対一でこの様、恥ずかしくはないのか?」

『……シグナム? ヴィータ?』

『……馬鹿者共が。試運転が済んだのならばさっさと動け。来るぞ』

 

 シグナムとヴィータは猫撫で声に震えあがり、続く忠告に意識を引き締めた。

 無論、二人共ただじゃれ合っていたわけではない。断じて、絶対に、ない。状況が状況故に調整を突貫工事で終えたため、実際の動きをふまえて躯体の最終調整を行っていたのだ。もちろん、海面下で膨れ上がる魔力にもとっくに気が付いていた。

 海面が、爆発する。立ち上る深紫の柱が、天へと突き刺さった。それは、シグナムもヴィータも及ばぬ魔力量。その身に魔力がある限り、破壊の限りを続ける存在。

 闇の書の暴走体が、翼を広げて中空へと躍り出た。

 

「おいどうすんだよ、向こうも本気になったみてえだぞ」

「無論、打倒すまで」

「……ちげえねぇ」

「征くぞ、ヴィータッ!」

「応よッ!」

 

 轟と風が舞い上がり、ラベンダーと紅の柱が伸びる。身体強化を施したシグナムとヴィータは、再びデバイスを構えて突撃を開始した。

 対する暴走体は、その場に留まり魔法陣を敷いた。戦列に加わるは、特大の魔力球。周囲に配置されたそれらは、三十は下らない。その威力が折り紙つきであろうことは、明白だった。

 暴走体へと迫る二人は、相手の挙動を見て二手に別れた。こともあろうに暴走体は二人から視線を切り、あらぬ方向を見やったのだ。その紅の瞳に映るのは、はやてとザフィーラの障壁によって覆われたアースラ。シグナムはそのまま暴走体を目指し、ヴィータは暴走体とアースラの間へと翔けた。

 高速移動魔法(フェアーテ)を発動したシグナムの姿が掻き消え、暴走体の眼前で像を結んだ。炎熱迸る剣閃を走らせるも、暴走体は正確にそれを捌く。唐竹割りを半身になって避け、続く斬り上げが届く前に魔力の籠った拳を突き出す。シグナムはそれを受けることはせず、回避を選んだ。剣を引き、中空で屈んで足払い。それには成功するも、しかし代わりに上から肘が降ってきた。そこにレヴァンティンの柄尻を叩きつけ、暴走体の肘を砕く。腕はあり得ない方向へと曲がったが、暴走体はやはり間を置かずに回復させてみせた。

 厄介だな、と思う間などない。術式はすでに完成していたのか、魔法陣が消失しても魔力球は健在だったのだ。さらに、暴走体の猛攻も止まらない。互いに攻撃を仕掛け、それを躱し、反撃を繰り返す、激しい攻防が始まった。シグナムと暴走体が揉み合う一方で、魔力球は今まさに砲弾へと変わろうとしていた。

 シグナムに比べれば速度は劣るが、それでもヴィータが遅いなどということはない。ヴィータもフェアーテを発動してアースラの前で立ち塞がると、グラーフアイゼンを腰溜めに置いた。

 

「アイゼンッ、フォルムドライッ!」

《Gigantform.》

 

 カートリッジの消費はなしに、鉄槌へと戻ったグラーフアイゼンが巨大化を始めた。本来のギガントフォルムと比べればコンパクトなサイズに落ち着いたが、それでもヴィータの背丈を優に超えている。取り回し易さを保ったまま、打撃力を強化したのだ。推進装置の恩恵は消えたが、その分は身体強化で補えばいい。それに今は、機動力を求めてはいないのだ。

 ヴィータの見据える先で、魔力球が解放された。一発一発の威力がなのはの砲撃に勝るそれ。そんなものを三十も四十も受けては、いくらはやてとザフィーラの防壁とて危うい。ある程度は回復しているものの、魔力切れの寸前まで追い込まれ、さらに、夜天の書の修復で力を使ったはやてに、これ以上の負担はかけられなかった。

 絡み合う複数の射線。そこから直撃コースのものを選別し、柄を強く握りしめる。自身とグラーフアイゼンに更なる強化を施すと、ヴィータは迫り来る砲撃目掛けて降り抜いた。

 

「通さねぇッ!」

 

 先陣を切った砲撃に、グラーフアイゼンが激突する。手首が嫌な音を立てたが、構わず、ヴィータは全身を使って押し込んだ。

 砲撃を弾き返し、後続の砲撃へとぶつける。両者が接触すると、凄まじい爆発が起こった。周囲の砲撃を巻き込んでいくそれは、瞬く間に広がっていく。だが、全てを潰したわけではない。爆発を突破してきた砲撃に向けて、ヴィータは振り抜いた鉄槌を返した。

 無論、ヴィータ一人で全てに対処することなど不可能だ。ヴィータの奮戦を嘲笑うかのように、隣を抜けていく砲撃もある。しかしそれは、アースラを正面から捉えるものではない。そして、その先にははやてとザフィーラが控えているのだ。二重に展開された障壁に阻まれた砲撃が、それを突破することなどなかった。

 

『ヴィータ、あまり無理はするな。こちらは我とはやてに任せておけ』

「こんくらいヨユーだっての。てめえの尻拭いぐらいさせてくれよ」

『ほんなら、頑張ったヴィータにはご褒美や。シグナムがちょう苦戦しとるみたいやから、お願いな』

「ありがと、はやて。そんじゃあ、いってくる」

 

 はやてから、消費した分の魔力が送られてきた。手首の不調は消え、躯体に活力が満ちる。ヴィータはグラーフアイゼンをハンマーフォルムへと戻すと、紅の魔法陣を敷いて鉄球を召喚した。

 強襲用のラケーテンフォルムはヴィータの十八番だが、先ほどは炎で機動を読まれてしまった。ならば、射撃で牽制しつつ、シグナムと共に近接戦に持ち込んだ方がいい。

 

『上手く避けろよ』

『いいからさっさと撃て』

 

 減らず口は、信頼の証。

 十二の鉄球を殴りつけると、ヴィータはフェアーテを発動して飛び立った。

 

 

 

 

 ディアーチェ、シュテル、レヴィ。三基のマテリアルは、暴走した守護騎士を止めるための戦力だ。すなわち、その実力は三基でシグナム達と渡り合えるほど。そのうえ、ディアーチェがユーリと融合(ユニゾン)し、無限に等しい魔力を扱えるのならば、その力はシグナム達を優に超える。さらには、個々が意思を持って連携してくるのだ。もはやそれは、闇の書の暴走体ですら及ばぬ領域へと達しているだろう。

 海をも裂く炎熱砲。

 山をも断つ雷閃。

 そして、空をも覆い尽くす闇。

 地形を造り替えるほどの威力を誇る極大の魔法が、月の内側を激しく揺さぶった。紫天の書がディアーチェの手に渡ったことで戒めが解かれ、その攻撃は殺傷設定のものとなっている。一つ一つが必殺のそれを受けては、後には塵も残らないだろう。だがしかし、攻撃の余波が過ぎ去ったそこには、確かに漆黒の球体が浮かんでいた。

 球体の色が薄れ、中の様子が露わになる。そこには、颯輔達が健全なままにいた。魔力と物理ダメージを遮断する、四層式の複合障壁。リインフォースが、それを展開していたのだ。四層のうち三層も破られてしまったが、なんとか耐え抜いていた。

 

「リインフォース、大丈夫か?」

『ええ。しかし、今の私達ではそう何度もはもちません。障壁を抜かれては、颯輔が……』

「まあ、そこは心配しなくていいよ。……問題は、ここからどうするかなんだよなぁ」

 

 障壁を張り直し、本格的な連携攻撃に備える。自信満々に飛び出してきた颯輔とリインフォースだったが、実のところ、どうやってディアーチェ達を止めるか、具体策までは考え付いていなかった。

 前提を捨て置き全力で戦ったとしても、颯輔達の勝利はほぼあり得ない。リインフォースとナハトヴァールがいるにはいるのだが、いくら強力な一撃があろうとも、手数で圧し切られてしまうだろう。シグナム達がいればまた違った結果となるかもしれないが、生憎と援軍は頼むこともできなかった。

 現実的な案は、ディアーチェから紫天の書を奪い、強制的に従わせることだ。颯輔は紫天の王の座から降りていないため、まだ紫天の書へのアクセス権を保持している。マテリアルへの管制権を行使すれば、ディアーチェ達は颯輔の命令通りに動くことだろう。

 だが、颯輔自身がそれらの方法を認めない。力で降すことも、言いなりにすることも、相手の意思を踏みにじる行為だ。颯輔は、これ以上ディアーチェ達の在り方を力尽くで捻じ曲げたくはなかった。

 ディアーチェ達は、紫天の書を穢した呪いによって変えられてしまった。そして今度は、颯輔が変えてしまった。そしてまた、颯輔は自分の都合でディアーチェ達を変えようとしている。

 共に生きることを選んでほしいなど、図々しいにもほどがある。子供のようなことを言っていると、そんなことは分かっている。

 利己的であることを認めよう。紫天の書のシステムを担う颯輔は、ディアーチェ達なしでは生きられない。ディアーチェ達を救うことで、自身が生きながらえようとしているのだ。

 しかし、決してそれだけが理由ではない。

 紫天の書の知識も得た颯輔は、本来のディアーチェ達を知ってしまったから。

 

「光翼天翔――雷斬破ァーッ!」

 

 気合の入った掛け声と共に、レヴィが斬りかかって来る。颯輔が手をかざすと、リインフォースがすかさず三重の防壁を展開した。

 ザンバーフォームのバルニフィカスが、一つ目の防壁を両断し、二つ目の防壁を粉々に砕き、三つ目の防壁に突き刺さる。魔力刃には障壁破壊の術式が付与され、込められている魔力量も桁違いだ。いくら颯輔が防御に秀でていようとも、レヴィの攻撃を完全に止めることは不可能だった。

 

「レヴィっ、頼むから話を聞いてくれっ!」

「やーだよっ! ってゆーか、そーすけの言いたいことくらいボクだって分かってるし」

「だったらっ」

「でも、そーすけの言うとおりにしたら、好きに暴れられないじゃん。ボク、そんなのつまんないもん」

 

 レヴィが剣を振り抜く。三つ目の防壁が真っ二つに斬り裂かれ、その刃は複合障壁にぶつかり、颯輔達を弾き飛ばした。

 颯輔達が体勢を立て直す前に、今度は複数の魔力弾が一点に連続して突き刺さる。そこは、レヴィの斬撃によってわずかに構成が解かれた場所。十二の炎弾が、一層目の障壁に亀裂を入れた。

 そして、闇夜に緋色の直線が走る。

 

「~~っ、シュテルっ!」

「…………」

 

 細く絞られたレーザーのような砲撃は、障壁の亀裂へと寸分違わず命中した。燃え盛る炎が溢れて亀裂を広げ、一層目の障壁を剥がす。それを放ったシュテルは、すでに次の一手を構えていた。

 輝く緋色の魔法陣。ルシフェリオンの先に炎が渦巻き、間髪を入れずに射出される。炎熱砲の三連射。それらは颯輔達に回避を許さず直撃し、二層目の障壁を焼き尽くした。

 

『――っ、何故シュテルが攻撃を?』

「たぶん、紫天の書から直接命令を受けてるんだ」

 

 氷のように冷え切った目。そこに、颯輔とリインフォースの知るシュテルはいない。そこにあるのは、標的を焼き払う機械の如き殲滅者。理を司るシュテルが、紫天の書を持つ者に逆らうことなど決してありはしないのだ。

 シュテルとレヴィの追撃に備えて障壁を修復しつつ、ひとまず距離を取ろうとしたときだった。黒い鎖が伸びてきて、障壁の上から颯輔達を拘束した。

 この程度、と振りほどこうとしたが、それは失敗に終わってしまう。赤黒い巨大な腕が左右から迫り、障壁を掴んで固定したのだ。その腕の付け根は、ディアーチェの翼。ユーリが与える翼――魄翼の力の片鱗だった。

 

「兄上、無駄な抵抗はお止め下さい。すぐに我らが楽にして差し上げます故」

「ディアーチェ、お前、ユーリを……!」

「ご心配なさらず。ユーリの修復は済み、我が内で眠らせております。今は力のみを拝借している次第」

 

 万力のように力が込められ、障壁が軋んで悲鳴を上げる。リインフォースが修復を急ぐも、それと同等以上の速度で破られるため、障壁が全損するのは時間の問題だった。ディアーチェがその時を加速させることはあっても、手を緩めることなどあろうはずもない。

 ディアーチェを頂点にして、シュテルとレヴィが集結する。三人の正面に円形の魔法陣が浮かび上がると、それらは術式が綴られた帯で結ばれた。その中央には、剣十字。三基のマテリアルによって、巨大なベルカ式魔法陣が闇夜に描かれた。

 

「ご安心ください。兄上一人に痛みを与えたりなどは致しませぬ。我も共に貫かれますから、何も恐れる必要はありませぬよ」

「……我らが敵を射抜く剣の兵よ」

「紫天の光の元っ! 軍勢となりこの空を埋め尽くさぁーんっ!」

 

 瘴気を撒き散らす黒剣。煌々と燃え盛る炎剣。絶えず放電する雷剣。無数の剣が魔法陣の前に葬列を成す。所狭しと並ぶそれらの切先は、その全てが颯輔達へと向けられていた。

 ディアーチェが術式を起こし、シュテルが制御し走らせ、レヴィが必要な魔力を供給する。それが、紫天の守護者の在り方。それこそが、マテリアル三基の本来の運用法。その力は、誰よりも颯輔がよく知っていた。

 

「……リインフォース」

『はい』

「お前がいないと、俺は真面に飛べもしないんだ。だから、絶対に身代りになったりはしないでくれ」

『はい……は、そ、そうすけ?』

「躯体の修復と――ああ、それから、たぶんナハトが起きようとするから、ちゃんと抑えつけておいて欲しい。頼んだぞ」

『何を、言って』

「――斬り落とせ」

 

 ディアーチェの号令により、剣の雨が降り注いだ。

 凄まじい速度で飛び来る剣は、その道中にあるディアーチェとユーリの翼を当然の如く斬り捨てながら、颯輔達へと殺到した。隙間なく障壁へと突き刺さり、瘴気が溢れ、炎が燃え上がり、雷が踊り狂う。瞬く間に二層を食い破ったそれらは、容赦なく颯輔を貫いた。

 胸を貫き背を抜けて、夜天の翼を斬り落とした。腹を裂いて臓腑を貪り尽くし、肉を削いで背骨を断った。肩口から切断された腕、落ちていく脚、それら一片たりとも残すまいと、細切れに刻んでいった。

 痛みを感じる暇などなく、ただただ一方的に、颯輔は首から下を蹂躙された。

 

「――――」

『――けっ……そう……颯輔っ!!』

 

 数瞬の意識の断絶の後、悲鳴によって覚醒。リインフォースの防壁が覆うリンカーコアを中心として周囲の魔力が集束し、颯輔の躯体が再構築されていく。颯輔自身も持て余していた、魔力の集束結合。リインフォースの手に懸れば、その能力も本領を発揮する。この場に満ちるは魔力は、元はと言えば颯輔のもの。ならば、例えエグザミアを起動できずとも、この場にある限りは消滅など在り得ない。

 ぐっと拳を握り、再び翼を広げる。そこには、傷一つない颯輔の姿があった。

 

「ありがと、リインフォース。助かったよ」

『ふざけないでくださいっ! あのような、二度と、私はっ!!』

「っ、でも、あれは防ぎようがなかったし……いや、ごめん、ごめんってば」

 

 言葉は要領を得なかったが、融合(ユニゾン)の影響か、リインフォースの感情は直接颯輔の心に響いてきた。洪水のようなそれらに意識が流されそうになり、寸前で全てを遮断。それでも心の隔壁をぶち破る勢いの流入量に、颯輔は弁明を諦めて謝罪の言葉を繰り返した。

 事実としてディアーチェ達の魔法は防ぎようがなかったのだが、それでもあの受け方はなかったな、と颯輔は自身に呆れ果てた。魔法生命体となった颯輔は、躯体の核が傷つかない限りはその場での修復が可能であり、また、修復が不可能でも紫天の書のバックアップによって時を置けば復活する身であるのだ。永遠の命やら不老不死やらの言葉は聞こえはいいかもしれないが、その実は不死身の化け物。リインフォース達の手前、それを口にすることはないが、その在り方に()()()()()()()()自身が恐ろしくはあった。

 

「……って、言ってる場合じゃないな」

『……終わったら一度、皆と協議の場を設けさせてもらいます』

「わ、わかった。あとでいくらでも怒られるよ」

 

 視線を巡らせる先には、散開して颯輔達を取り囲むディーアチェ達の姿がある。内には、静かに怒りの火を燃やすリインフォース。そして、颯輔の左腕では、ナハトヴァールが威嚇するように震え始めていた。

 

 

 

 

 溢れる魔力を熱へと変換し、刃の内に押し留めた。刀身が白熱し、周囲の空気を焼く。ただの斬撃を繰り出すだけではなくなったレヴァンティンを、シグナムは一点に狙いを定めて振り抜いた。

 間に挟まれた防壁を両断し、その向こう側の暴走体へと熱刃が迫る。だが、暴走体は胸の前へと魔力で強化した右腕を滑り込ませ、あろうことか、レヴァンティンの刀身を掴みとった。

 じゅうと音が聴こえ、肉の焼ける臭いが鼻をつく。構わずシグナムが押し込むも、レヴァンティンは進むどころか徐々に押し戻されつつあった。

 単純な力比べでは、魔力量の多い――すなわち身体強化の度合いが強い暴走体に軍配が上がる。さらに、両手が塞がっているシグナムに対し、暴走体は片手が空いているのだ。力の差は歴然であり、そして、それは致命的な隙でもあった。

 暴走体の左腕に魔力が集中し、深紫の光を放つ。ぐっと引き絞られた拳はしかし、シグナムへと向かうことはなく、伸ばした右腕の下を通って右側へと突き出された。

 

「ちっ」

 

 暴走体の右側からカバーに入っていたヴィータが舌打ちを漏らす。深紫の砲撃が轟と唸ってその音を掻き消した。

 ヴィータが射線から逃げて背後へと回り込むも、暴走体は腕を動かしてそれを追う。その瞬間、暴走体の視線が切れたのを機に、シグナムはレヴァンティンを待機状態へと戻した。

 暴走体の拳が空気を握り潰す。その視線が戻る前に、シグナムは右の握り拳を突き出した。拳は鳩尾へと突き刺さり、暴走体を後ずさりさせて間に空間を作る。暴走体が右手を掴みに来るのから逃げつつ右腕を振り戻し、その勢いを利用して、無防備にさらされた顎へと左足で上段回し蹴りを見舞った。

 そして、まだ終わらない。蹴りの勢いのままに右足を軸に回転。レヴァンティンを再起動させ、その柄を右手に握る。シグナムは虚空からレヴァンティンを抜き放ち、連撃を居合で締めくくった。

 銀閃が走り、炎が踊る。

 居合の逆袈裟斬りは、確かに暴走体の胸を斬り裂いた。だが、浅い。胸の奥の核、リンカーコアまでは届いていない。不死身の暴走体を打倒すには、核を破壊して躯体を消滅させるしかないのだが、これが困難を極めていた。

 吹き飛ばされた暴走体の背後から、ダメ押しとばかりにヴィータが鉄槌を下す。再度接近しながらその様子を正面で見ていたシグナムは、暴走体の瞳が深みを増したのを見止め、ぞわりと背中が粟立つのを感じた。

 

「離れろッ、ヴィータッ!!」

「あん?」

 

 暴走体の翼が肥大し、空を叩く。それだけで暴風が巻き起こり、今まさに一撃を見舞おうとしていたヴィータを、まるで紙屑のように吹き飛ばした。

 魔力の込められた暴風は背後だけではなく、暴走体を中心として周囲へと流れ出ていた。正面から近づいてたシグナムも全身を魔力風で叩かれるが、咄嗟に障壁を展開してダメージを軽減させる。だが、吹き荒れる暴風の中、風を切り裂いて迫りくる紅の鉄球を視界に捉え、シグナムはすぐさま障壁を解いた。

 その鉄球の正体は、胴に深紫の鎖を巻きつけられたヴィータだった。暴風に打たれながら、可能な限り衝撃を殺してヴィータの体を受け止める。それでもその速度を殺しきれず、シグナムはヴィータもろとも弾き飛ばされた。

 

「ぐっ……! この、何を遊んでいるのだお前は」

「悪い……っ、シグナムッ!」

 

 ()()と顔を上げると、暴風に乗った血塗れの短剣がシグナム達へと向かってきていた。ヴィータを小脇へ抱え直し、シグナムは防壁を展開する。ヴィータも同じく展開し、ラベンダーと紅の防壁が混ざり合った。

 そこへ、十六、三十二、四十八、六十四、八十と、次々と短剣が突き刺さって炸裂していく。二人がかりの防壁は悲鳴を上げているが、強化を続けることで辛うじて猛攻に耐えていた。

 この距離は、まずい。一度失敗してから、絶えずシグナムかヴィータのどちらかが張り付いていたのだが、今は二人共が暴走体の傍を離れている。そして、攻撃に耐えるのに精一杯で、この場に縫い止められてしまっている。暴走体の魔力に尽きる様子が見られない以上、この先の展開は容易に想像がついた。

 

「さて、どうしたものか……」

「どうしたもこうしたも、あたしが囮になるしかねえだろ」

「…………」

「あたしの防壁はお前のより丈夫だ。んで、あたしよりお前の方が速い。さっさと行ってこの攻撃止めてくれよ」

「しかしだな……」

「――ヴィータ、お前にも荷が重いだろう」

 

 群青色の転移魔法陣が輝く。シグナムとヴィータの会話に割り込んだのは、この場へと転移してきたザフィーラだった。

 新たにザフィーラが防壁を張ったことで、シグナムとヴィータの負担がぐっと軽くなる。しかし、二人は窮地を救ったはずのザフィーラを睨みつけた。

 

「はやてを決して一人にするなと言ったはずだが?」

「そのくせ何のこのここっち来てんだ、てめぇ」

「そのはやてに頼まれたのだ。シグナムとヴィータを助けてほしいとな」

「それでもお前ははやての傍を離れるべきではなかった」

「こっちはあたしらだけで十分だ。さっさと戻りやがれこのバカ」

「ならば、これ以上醜態を見せてくれるな。はやては今にも泣き出しそうになっているぞ」

「む……」

「……そういうことは先に言いやがれってんだ」

「いいからさっさと行け」

 

 ザフィーラの防御性能は守護騎士一だが、それでも暴走体の猛攻を前にしては長くはもたない。ザフィーラをはやての下へと戻すためにも、急ぎ攻撃を止める必要がある。シグナムとヴィータは防壁を解き、フェアーテを発動させてザフィーラの防壁から飛び出した。

 暴走体は左手を突き出し、掌を取り囲むように短剣を構築させては次から次へとそれを射出していた。だが、その視線と右手は別の方向へと向けられている。その先にあるのは、はやて一人が障壁を展開しているアースラ。そして、突き出された右手の先からは、今まさに砲撃が放たれるところだった。

 

《Bogenform, Sturmfalken.》

「ヴィータ、先行しろ」

「あいよ!」

 

 三叉に別れて迫る短剣を回避しながら、シグナムは剣を大弓へと変形させて矢を番えた。シグナムが直接接近するよりも、射った矢の方が到達速度は速い。はやては暴走体の砲撃に耐えているようだが、迅速にそれを止める必要がある。ならば、ヴィータ一人に危険を背負わせようが、その選択肢しかあり得なかった。

 炎の隼が翔ける。先行するヴィータを追い越しその先へ。最速の一射は、暴走体が放つ砲撃の起点へと突き刺さった。

 シグナムの魔力と暴走体の魔力が反応し、大規模な爆発を起こす。暴走体の姿が飲まれるが、シグナムは感覚を研ぎ澄まし、第二射、第三射と連続で矢を射った。

 爆発も収まらぬうち、その内側を更なる業火がなめ尽くす。並の闇の欠片ならばリンカーコアごと蒸発するはずだが、暴走体の反応は未だそこから感じられるままだった。

 ヴィータがグラーフアイゼンをギガントフォルムへと変形させ、爆煙を掬うように振り下ろす。だが、巨人の鉄槌は半ばで急停止し、爆煙を吹き払うに止まった。

 ヴィータの一撃を受け止めたのは、体中を焼き焦がした暴走体。その痕も、大翼も、戦装束も、燃え尽きた銀髪も、急速に再生されていく。直接リンカーコアを狙ったわけではなかったが、暴走体はシグナムの最強の一手にも耐え抜いて見せた。

 

「……無駄だ。もう諦めろ」

 

 呟く暴走体が動き出す前に、ヴィータがグラーフアイゼンを戻してスペースを空けた。すかさずザフィーラが放った圧縮魔力のスパイクが飛び、大半は防壁に阻まれながらも、残りの僅かが大翼に突き刺さる。だが、突き刺さったはずのスパイクは急速に解けていき、大翼に飲み込まれて消えた。

 弓を剣へと戻し、シグナムは暴走体へと斬りかかる。再び、ヴィータとの挟撃。左右から迫る炎刃と鉄槌を、暴走体は眉一つ動かさずに受け止めて見せた。

 両手が塞がったところに、遅れて接近したザフィーラの拳が迫る。それを見止めた暴走体は、向かいくるザフィーラ目掛け、シグナムとヴィータの二人を叩きつけた。

 ザフィーラは拳を解き、辛うじて二人を受け止める。三人が固まったところに深紫の鎖が伸びてきて、まとめて拘束した。

 

「せめてもの慈悲だ。主はやてと共に逝くがいい」

 

 ぐいと鎖が引かれる。一度暴走体の後方まで飛ばされ、再び引き戻された。反動で鎖が体に食い込み、続けて、凄まじい加速。アースラの方向へと投げ飛ばされたのだ。

 視界を景色が流れていき、やがて、()()()()()にぶつかる。白銀のそれは衝撃を吸収して速度を殺し、その後、自ら破れて三人を内側へと招き入れた。はやてが障壁の構成を変質させ、シグナム達を受け止めたのだ。自由落下に身を任せ、三人ははやての傍へと着地した。

 

「あはは、おかえり、皆」

「……ただいま」

「すみません、助かりました」

「あの、このようなはずでは……」

「ええよ。あの子が強いのは、ここから見とるだけでも十分わかったしなぁ。そんであれ、どないしよか……」

 

 苦笑いを浮かべつつ、頬を掻くはやて。見上げれば、空には特大の魔法陣が描かれていた。それは、召喚魔法陣だ。呼び寄せるのは、魔法生物などではない。もっと凶悪で、ずっと強力な兵器。千年を生きる大樹もかくやという、巨大な漆黒の槍。暴走体が発動させたのは、夜天の書に記された対艦攻撃用の秘術だった。

 召喚された黒槍が、ゆっくりと回転を始める。回転に合わせ、竜巻のような暴風が吹き荒ぶ。それを構える暴走体は、ぴたりとシグナム達を見据えていた。

 

「うわぁ……」

「えげつないな……」

「呆けている場合か。どうする?」

「アースラごと転移させてみる? さすがに外は無理やけど、この結界内ならどこでもいけるで」

「いえ、結界内ではどこに逃げても同じでしょう」

「かと言って、あれを防げと言われても厳しいぞ」

「だったら、ぶっ壊すしかねえな」

「そういうことだ。話が早くて助かる。ヴィータ、任せたぞ」

「おう。任しとけ」

「えっ、えっ? ちょ、ヴィータ? シグナムも本気?」

「大丈夫だって。あたしにもとっておきがあるからさ」

「ヴィータにお任せください……とはいえ、万が一があります。はやてはザフィーラと共に、再び防壁の展開をお願いします。ザフィーラ、今度こそ頼んだぞ」

「ああ、わかっている」

「ちょ、ちょう待って!」

「相手は待ってなどくれませんよ。それに、心配には及びません。はやてが信じてくれるのならば、我らに不可能はありませんから」

「うぅー……うぅ……ん、わかった、シグナムら信じるよ。そやけど、ただ信じて待つんはいやや。私も戦う。リインフォースのあんな姿、これ以上見たないんや」

「……では、はやてにひとつお願いが」

 

 シグナムがはやてに耳打ちをする横で、ヴィータが飛び立ち防壁の外で構えた。黒槍は目にもとまらぬ速さで回転し、暴風を生み出している。吹き荒れる風が、ヴィータのおさげとスカートを激しく揺らした。

 ヴィータは首を鳴らしつつ、グラーフアイゼンにカートリッジをセットしていく。これから発動させる魔法は、はやてと颯輔が主として覚醒したことで使用可能となったもの。それを実戦で使うのは、今回が初めてのことだった。だが、そこに不安はない。二人から授かった力を揮うのに、何を恐れる必要などあるのか。

 

「アイゼン。あたしも頑張っから、お前もぶっ壊れねえでくれよ」

《Ja!》

「おし、いい返事だ。そんじゃあ、いっちょやってやるか! アイゼンッ、フォルムフィーアッ!!」

《Zerstörungsform, Dragoonfaust.》

 

 輝く紅の大規模魔法陣。ヴィータの呼び声に、グラーフアイゼンが応える。込められた全てのカートリッジを炸裂させ、変貌を開始した。

 ハンマーヘッドが角柱へと変わり、込められた魔力に比例して巨大化する。ハンマーの片側からは螺旋状の切り刃と逃げ溝が掘られた衝角が迫り出し、甲高い唸り声と共に回転を始める。他方には巨大な一門の噴射口が形成され、紅の炎を湛えた。

 吹き荒れる暴風を自身が引き起こす魔力風で打消し、ヴィータは天を見据えた。深い紅の瞳と視線が交差する。

 

『退け、紅の鉄騎。抵抗すれば、余計に苦しむだけだ』

『聴けねえな。あたしは、お前を止めてくれって颯輔に頼まれてんだ』

『……ならば、もう眠れ』

『ああそれと、最後にひとつ大事なことを教えといてやるよ』

 

 空が落ちてくるような錯覚と共に、ヴィータの視界で黒槍が大きくなり始めた。風が強まり、ヴィータを吹き飛ばそうと画策してくる。ヴィータは魔法陣に足をつけて踏ん張り、グラーフアイゼンを引き絞った。

 

「さっきから古くせえ名前で呼んでんじゃねえよッ! あたしの名前は、八神ヴィータだッッ!!」

 

 噴射口が、特大の炎を吹き出した。極限まで強化されたヴィータの腕力と、自身の推進力によって加速し、グラーフアイゼンが黒槍を迎え撃つ。黒槍の先端と衝角の先端がぶつかり衝撃波を生み出し、激しい火花が散った。

 

「こっのぉ……!」

 

 上からかかる超重量に、ヴィータの身体が悲鳴をあげる。グラーフアイゼンが押し戻され、柄を握る腕が下がり、膝は折れかかっていた。

 はっきり言って、荷が重い。この形態のグラーフアイゼンは、定点の障壁や防壁の類を破壊するためのものであって、決して迎撃のために使うものではないのだ。ましてや、相手は格上である暴走体の極大魔法。下手をせずとも、グラーフアイゼンは砕かれてしまうだろう。

 だが、ここで退くわけにはいかない。

 ヴィータの後ろには、はやて達がいるのだから。

 

「気合入れろアイゼンッ! あのデカブツぶっ壊すぞッ!」

《Jawohl!!》

 

 膝を伸ばし、もはや一体化させるほどの思いで強く柄を握り込む。グラーフアイゼンは自身に亀裂を入れながらも、込められた魔力の全てを推進力へと変換。ヴィータは躯体へのダメージを全て無視し、全力で腕を振り抜いた。

 

「おんっ、どりゃぁぁぁああああああああッ!!」

 

 血を吐き出すかのような咆哮。

 グラーフアイゼンの衝角は潰れながらも回転を続け。

 そして、噛み合った黒槍を砕き割った。

 

『よくやったな、ヴィータ』

 

 グラーフアイゼンを振り抜いたヴィータの隣を、紫炎の隼が音速を超えて翔け抜けていく。降り注ぐ黒槍の欠片を焼き尽くしながら進み、その持ち主へと激突した。

 アースラの甲板でシュツルムファルケンを放ったシグナムは、レヴァンティンを急ぎ剣へと戻した。カートリッジを炸裂させ、刀身に炎を宿す。その足元には、白銀の転移魔法陣。後ろには、シグナムの願いで目を瞑ったはやてがいた。

 

「では、お願いします」

「ん、いってらっしゃい」

 

 短く言葉を交わし、シグナムは燃え盛るレヴァンティンを大上段に構える。魔法陣が輝くと、シグナムの姿が掻き消えた。

 白銀の光がまだ収まらぬ視界の先には、隼を防壁で受け止める暴走体の後姿があった。背後に転移したシグナムに気が付いた暴走体が、後ろを振り向く。だが、完全に向き直られる前に、シグナムは渾身の力を持ってレヴァンティンを振り下ろした。

 シグナムの究極の一、紫電一閃。炎熱が正中線に沿って走り、躯体の核――リンカーコアを確かに断ち斬った。

 

「騎士らしくない最後ですまんな。だが、未熟な私がお前を斬るにはこれしかなかったのだ。……さあ、お前も颯輔の元へと還るがいい」

 

 立ち上がり、火の粉を振り払って刀身を鞘へと納める。暴走体はラベンダーの炎に包まれ、ゆっくりと魔力素へと還っていった。

 暴走体が再生する様子も、新たな闇の欠片が出現する気配もない。暴走体が燃え尽きるのを見届けると、シグナムははやてへと念話を送る。『もう終わりましたよ』と伝えると、『お疲れ様』と返ってきた。

 はやてには、暴走体(リインフォース)の最後を見せたくなかったため、目を瞑ってもらっていた。はやても闇の欠片であることは理解しているだろうが、それでも、心優しいはやては暴走体の死を背負ってしまうだろうから。幼いはやてがそこまで背負う必要はない。汚れるのは、シグナム達の役目だ。

 そして、理由はもうひとつ。はやて達のためならばいくらでも汚れてみせる覚悟はあるが、シグナムは、自身が汚れる様を見られたくはなかったのだ。はやてには、はやて自身が知るシグナム達だけを見ていて欲しかった。夜天の書の記憶を受け入れたはやては過去のシグナム達を知ってしまっているが、今のシグナム達をそれと重ねてほしくなどなかった。

 いくら汚れようとも、いつかはそれを雪ぎ落としたいと願っているのだから。

 そうして、胸を張って隣に並び立ちたいと思っているのだから。

 

「自分勝手なことだな。……ふふっ、これが人になるということですか、颯輔」

 

 微笑を浮かべ、シグナムは天を仰ぎ見る。

 黒い月が妖しげに輝き、ただ静かに全てを見下ろしていた。

 

 

 

 

 ディアーチェは闇夜の中で紫天の書を開き、目的の頁を開いた。記された術式を起動し、走らせる。周囲に黒剣を並べると、ゆっくりと狙いを定めた。

 ディアーチェが見据える先には、夜天の融合騎(リインフォース)融合(ユニゾン)した颯輔の姿があった。柔らかな栗色の髪は忌々しい銀に染まり、深い夜のようだった瞳は紅に薄汚れてしまっている。一刻も早くその穢れを払い落したかったが、颯輔は頑なにリインフォースを手放そうとしなかった。

 何かを訴えながら飛ぶ颯輔へとレヴィが追い付き、雷電を乗せた斬撃を見舞う。一度でも足が止まれば、シュテルの番だ。シュテルを操作し、炎弾と炎熱砲で動きを完全に縫い止める。そうして、ディアーチェは黒剣を解き放った。

 闇夜よりもなお深い黒が翔ける。黒剣は薄くなった障壁を断ち、うち一本が颯輔の胸へと突き刺さった。

 颯輔の身体が衝撃で吹き飛び、苦痛に表情を歪めてみっともなく悲鳴をあげる。それを目と耳に入れただけで、ディアーチェは陶然たる面持ちになった。

 

「ああ、兄上、いったいいつになったら諦めてくださるのですか。この布陣、今の兄上ではどう足掻こうとも破れませぬよ」

「それ、でも……!」

 

 颯輔が黒剣を引き抜き、小脇へと投げ捨てる。漆黒の魔力がそこに集うと、まるで最初から何事もなかったかのように傷口が綺麗に塞がった。

 だがそれだけだ。

 急ごしらえの調整のためか、本来の調子を取り戻しているとは到底言えないリインフォース。そして、一向に起動させる気配のないナハトヴァール。颯輔は障壁を張り、それでも破られ攻撃を受けながら、ただ飛び続けているだけだった。

 もしもナハトヴァールの起動を()()()()()いなかったのならば、いくらか攻撃を弾くことができただろう。もしも颯輔ではなくリインフォースが表に出ていたのならば、本調子ではなくともこれほど一方的な展開にはならなかっただろう。しようと思えばそうできるにもかかわらず、颯輔はひたすらに声をあげるのみ。

 しかしその声は、ディアーチェには聴こえていない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『――――』

 

 そして、もう一人。颯輔の他に、ディアーチェへと言葉をかけ続けている者がいた。

 視線を感じ、ディアーチェはそちらへと目を向けた。向けられているのは、感情の失せたシュテルの目。躯体は紫天の書を介してディアーチェが直接操作しているが、肝心の中身――精神まではそうではない。今にも躯体の制御を取り戻そうと、紫天の書の支配に抗い続けていた。

 

『――――』

 

 そうしながら、ディアーチェに念話を送り続けて来るのである。流石に鬱陶しくなったディアーチェは、レヴィを颯輔達へと差し向け、黒剣を放ち続けながらシュテルに応じた。

 

『ええいっ、いい加減喧しいぞシュテル!』

『やっと話す気になってくれましたか。実は、八方塞がりで困っていたのです。颯輔達は、見てのとおりですからね』

『白々しい。して、何用か』

『単刀直入に言わせてもらいます。颯輔の援護に回りたいので、躯体の制御を返してもらえませんか?』

『ほう……』

『ああ、失礼。私としたことが、間違えてしまいました。貴女の敵に回りたいので、躯体の制御を返してもらえませんか?』

『狂うたか、シュテルよ』

『いつまで狂ったふりをしているのですか、ディアーチェ』 

『かっ、何を言うかと思えば……』

『滑稽ですね、ディアーチェ。貴女はいったいいつまでこのようなことを続けるつもりなのですか』

『……何が言いたい』

『颯輔のためと言いながら、何故颯輔が望まぬことをするのかと、そう訊いているのですよ』

『知れたことを訊くでない。兄上の言うようにさせては、いつか兄上はその重荷に耐え切れずに折れてしまおう』

 

 颯輔は安定を求め、時空管理局へと恭順を示すだろう。逃亡など――ましてや反抗などは考えもせず、謂れなき罪を償う道を選ぶはずだ。そうしていつか、かつてのような生活に戻れると思っているのだ。

 しかしそんなことは在り得ない。

 ディアーチェは、悪意というものをこれ以上なくよく知っている。正義の旗など、鼻をつく悪意を隠すための香水でしかないのだ。笑顔で近づいて来る者ほど胡散臭い者もいない。颯輔をそんな者達に使い潰されるのは、我慢がならなかった。

 八神颯輔は紫天の王。八神はやては夜天の王。どちらも、世界を変えるほどの力の持ち主だ。そんな者達が組織の下に入ればどうなるか。互いの存在を引き合いに出され、利用されることになるのは火を見るよりも明らかだった。

 

『それは確かに。しかし、ディアーチェの唱える方法は、颯輔の全てを否定するものです。貴女は颯輔へと王の座を譲りました。ならば、我らは王である颯輔の意思を何よりも尊重すべきではないのですか。颯輔の選ぶ道を共に行き、その歩みを支えるべきではないのですか』

『王が道を踏み外そうとしているとき、それを正すのも我らの役目であろう』

『笑わせないでください。ディアーチェ、貴女は道を正しているのではありません。颯輔のためと言いながら、貴女の望む道を強いているだけです』

『貴様――』

『怖いのでしょう? 自分が選ばれないことが。孤独の闇に戻ることが。貴女は、八神はやてに敗れて捨てられるのを恐れているだけです。八神颯輔が愛しているのは八神はやて。八神はやてが生きていては自分は見向きもされないと、そう考えているのでしょう?』

『……黙れ』

『もう一度言いましょう。滑稽ですね、ディアーチェ。紫天を統べるべく生み出されたはずの貴女が、小娘一人の感情も御しきれていない。そして、何も見えずに聞こえてもいないのですから』

『……黙れと言っておろう』

『ええ、ええ、黙りますとも。ですが、最後にこれだけは言わせていただきます。この場で颯輔のことを信じていないのは、貴女一人だけですよ、ロード・ディアーチェ』

『失せろ……!』

 

 ディアーチェはシュテルとの念話を切り、そして、紫天の書の力を行使した。理のマテリアルへの魔力の供給を止め、活動を停止させる。発動中の魔法も掻き消え、躯体の維持も放棄されたシュテルは、吊り糸が切れた人形のように墜落を始めた。

 

「シュテルっ!」

 

 突然の出来事に、颯輔達が付き纏うレヴィの猛攻を受けつつもシュテルの元へと飛んだ。躯体が魔力素へと還元され、間もなく完全に消え失せるというのに、颯輔達は必至でシュテルを受け止めていた。

 颯輔達の腕にシュテルが抱かれたのは、ほんの数秒のことだった。間もなく颯輔達の腕から緋色の光が漏れ出し、シュテルの姿が完全に消え去る。無論、消滅したわけではない。ディアーチェの持つ紫天の書の内へと戻ってきただけだ。だが颯輔達は、ただそれだけにもかかわらず、何かの感情を込めた視線をディアーチェへと送ってきた。

 胸が痛んだ。

 颯輔にそんな目で見られたくはなかった。

 

「あれ? シュテるん戻しちゃったの?」

 

 颯輔達を追い回していたレヴィが、ディアーチェの傍へと現れた。小首を傾げ、不思議そうにしている。薄紅の瞳に非難の色はない。ただ純然に、どうして戦力を減らしたのかと疑問に思っているようだった。

 ディアーチェは「ああ……」と力なく答え、レヴィを見た。

 レヴィは、ディアーチェの命に背くことがない。言いつけを守って待つこともでき、要望通りに動くこともできる。そこに、嫌々従っているという風はない。手を焼かせることもあるが、ぴたりと方向性が合っているような、そのような間柄だ。

 一方で、シュテルは違った。颯輔に付き従い、何度もディアーチェの手を振り払った。紫天の書を完成させて直接命じてみても、絶対であるはずの命令にさえ抗ってみせた。故に、躯体は維持させてもそこに精神は入れず、ディアーチェが代わって躯体を操作していたのだ。

 本来は上位存在であるディアーチェには逆らえないはずのシュテルが、それを可能とするほどに変革した。

 シュテルにはあり、レヴィにはないもの。

 シュテルは経験し、レヴィはしていないもの。

 有無の差か――あるいは、性質の差か。

 

「答えよレヴィ。何故我に従った?」

「えっ、変なこと訊かないでよ。ディアーチェが命令したんじゃん」

「そうではない。何故それに賛同したのかと訊いている」

「ああ、そういうこと。えっと、いーっぱい暴れられると思ったから!」

「では、何故兄上は拒んだのだ?」

「そーすけとじゃ暴れられそうにないからだよ?」

 

 レヴィは、さも当然だとばかりにそう答えた。片手間に、向かってきた颯輔達をディアーチェが拘束し、レヴィが砲撃を放つ。颯輔達は防壁を展開してそれに耐えるも、砲撃の勢いに押し戻されて距離を空けた。

 ディアーチェは、レヴィの答えを吟味する。レヴィはすなわち、単純に激しい戦闘が期待できるからという理由でディアーチェを選んでいたのだ。命令系統は問題なく機能しているようだが、大人しく従っているのは、ディアーチェに賛同したのは、自身の性質に因るところが大きかったらしい。

 つまりは、暴れられるのならばどちらでも構わないということだ。

 

「……ならば、戦の場を用意できるのなら、兄上と共に在っても構わぬのか?」

「それならそれでもいいけどさ、でも、無理でしょ? そーすけ、そういうの嫌いだし。あっても、自分が前に立とうとするんじゃないかなぁ」

「……飽いたのならば、シュテルとでも遊んでおればよい。その、なんだ、偶にならば、我も相手にならんこともないぞ。それならば、どうだ?」

 

 言って、ディアーチェは自身の口を突いて出た言葉に驚いた。これではまるで、レヴィを説得しているかのようだ。さも自分で自分を否定しているようなものだ。

 違う、そうではないと心の中では訴えながらも、ディアーチェの口は別の生き物であるかのように言葉を紡いでいく。

 

「それに、兄上の前には、多くの敵が現れるだろう。もしも、そうした者と、共に戦わせてもらえるのならば、貴様は……」

「……ディアーチェ、どうして泣いてるの?」

「何……?」

「だって、ほら」

 

 レヴィの手が伸び、ディアーチェの頬を拭う。離したその掌には、確かに水気があった。ディアーチェも確かめるように頬に手を当てると、一筋の涙が指先に落ちてきた。

 違う。泣いてなどいない。ディアーチェは乱暴に雫を拭い捨て、強く目を閉じて頭を左右に振ってから、レヴィを見据えた。

 

「レヴィ。しばしの間、貴様の力を我に預けよ。決着をつける。それから、どう転んでも文句は言うでないぞ」

「……ん、おっけー」

 

 にかっと笑ったレヴィの躯体が解け、光に消える。力のマテリアルの存在が、紫天の書の内へと確かに戻ってきた。

 こうして、紫天の書には三基のマテリアルと融合騎の力が宿った。足りないのは、動力である颯輔だけ。ディアーチェは紫天の書を操作しながら、乱れた心を整理して前を向いた。

 

「ディアーチェ……?」

 

 そこには、ここでの戦闘とも呼べない戦闘が始まってから、もっとも距離を詰めた颯輔達がいた。数歩前へと進み、手を伸ばせば触れ合えそうなほどに近い。だが、ディアーチェがシュテルとレヴィを戻したことに困惑しているのか、颯輔達は戸惑っているようだった。

 

「兄上。どうあっても意思を曲げるつもりはないのですか?」

「それは、うん、ないよ」

「我も同じです。ですから、そろそろ決着をつけましょう。どちらも譲らぬのであらば、敗者が勝者に従うのみ。その方が分かり易いというものです」

「だけど、それは……」

「……そうやって、立ち塞がるモノ全てに言葉をかけるおつもりですか。そのような、言葉で説得されるようなモノなど、そもそも障害にもなり得ません。何があっても意思を押し通すと言うのであれば、時には力を示すことも必要となりましょう。そして、今こそがそのときなのですよ」

「…………」

「心配せずとも、決闘には公平なる条件を敷きましょう。兄上には夜天の融合騎のみ。対し、こちらにはシュテルとレヴィにユーリ。我ながらこれは不公平というもの。しかし丁度、半分に割ることのできる頭数です」

 

 言って、ディアーチェは紫天の書を操作した。ユーリから無断で拝借していた力を返し、眠らせていた意識に覚醒を促す。ユーリの力が抜けたことで、ディアーチェの翼は元の形を取り戻し、闇夜を閉じ込めたかのような色合いへと染まり、そこに緋色と水色が混ざり合った。

 ユーリはすぐに目を覚まし、瞬時に状況を把握したらしく、躯体を形成し始めた。颯輔達との間、ディアーチェの正面に、強い漆黒の魔力が輝く。それは、紫天の書の内に貯め込んだ魔力の半分近くを持ち去り、なおかつ、近場に漂う魔力素を枯らすほどに掻き集め、姿を具現させた。

 純白の装束が舞い、金の長髪が波を打つ。長い睫毛が震え、瞼が持ち上がった。金色の瞳に光が宿り、真っ直ぐにディアーチェを射抜く。「わたし、すっごく怒ってますよ!」と目で訴える、紫天の融合騎(ユーリ)がそこにいた。

 

「ディアーチェっ、どうして颯輔をいじめてるんですかっ! わたし、いくらディアーチェでも許せません!」

「すまぬな。しかし、故にユーリを起こしたのだ。ユーリが兄上の側につけば、対等であろう? あの翼は些か以上に脆過ぎるでな、兄上も飛び難かろうて」

「……ディアーチェ?」

「さっさと行くがいい……我の気が変わらぬうちにな」

 

 ディアーチェの言葉に困惑したユーリは、振り返りながらも飛び、颯輔達の首へと抱き着いた。

 これでいい。頭数は、丁度三対三。どちらも、王の資質を備えた者が一人に、それを支える者が二人ずつ。確かにユーリの力は大きかったが、それでも、ディアーチェにはシュテルとレヴィがいる。戦闘の素人と不調の融合騎が相手ならば、この采配が最良のはずだった。

 

『聴いていたな、シュテル』

『……よいのですか、ディアーチェ』

『構わん。貴様の掌で踊り続けてやろう。その代わり、相応の対価を支払ってもらうぞ』

『……ええ、何なりと』

『決して手を抜くな。今ばかりは我に協力しろ』

『委細承知』

 

 迷いのないシュテルの返事。話をつけながら、ディアーチェは颯輔達の様子を窺っていた。

 颯輔達の首にかじりついているユーリは、その耳元にそっと口を寄せ、何事かを囁く。すると、颯輔達は驚いたようにディアーチェを見て、続き、ユーリに視線を戻して頷いた。

 ユーリは颯輔達へと微笑を返し、自ら躯体を解いていく。そうして、颯輔達のリンカーコアへと融け込んでいった。

 銀一色に染まっていた颯輔の髪が、新たな色を帯びていく。夜天の銀と、紫天の金。二色が重なり合い、柔らかな白金の髪となった。

 そして、瞳にも変化が現れる。左の瞳は紅のままに、右の瞳は金に。真っ直ぐに向けられる視線は、今まで以上に力強かった。

 最後に、翼。漆黒の翼は形を失い、不定形となって重なり広がっていく。炎のように揺らめくそれは、燃えるような赤色をしていた。

 大いなる翼を纏いし者。

 夜天と紫天――双天を統べる王。

 その名に恥じない魔力を身に宿し、颯輔は言った。

 

「わかった。ちゃんと戦うよ。そして、必ずディアーチェ達を連れて帰る」

「ただで負けるつもりなど毛頭ありませぬよ。兄上、覚悟を」

 

 一言だけ交わし、そして、今度こそ戦端を開いた。

 ディアーチェが魔法を選択し、シュテルが術式を制御してレヴィが魔力を運用する。黒剣、炎剣、雷剣がそれぞれ十本、瞬時に展開されて牙を剥いた。

 迫る剣群に、颯輔達が選んだのはやはり防御。前面に漆黒のベルカ式魔法陣を展開し、計三十本の剣を苦も無く受け止める。

 だが、それはディアーチェ達の想定通りだ。ユーリの力を上乗せしているのだから、それくらいはしてもらわないと何の面白味もない。剣を射出すると同時に距離を空けていたディアーチェ達は、剣群が突き立った防壁へと砲撃を放った。

 漆黒の極光が伸び、防壁に直撃する。砲撃は先にあった剣群を巻き込み、大きな魔力爆発を巻き起こした。

 当然、この程度で終わるわけがない。ディアーチェ達はそれぞれが別々の術式を立ち上げ始めた。展開されていく漆黒の魔力弾。そして、唸りをあげる雷の槍。シュテルは周囲の魔力の集束を始め、次撃に備える。ディアーチェはレヴィから魔法の制御を受け取り、爆煙に向け目を凝らした。

 突風が巻き起こり、爆煙が吹き払われる。魄翼が宙を叩き、颯輔達が上空へと舞い上がった。その進路上へと目掛け、ディアーチェは引き金を引く。魔弾と雷槍が解き放たれ、颯輔達を狙った。

 ディアーチェが二つの魔法を制御して颯輔達を追う一方で、シュテルの集束が完了する。集束した魔力をレヴィが駆け巡らせ、シュテルが術式を起動した。

 ディアーチェ達の全面へと特大のベルカ式魔法陣が描かれ、膨大な魔力が渦を巻く。三つの頂点へと姿を現すそれは、漆黒、緋色、水色の三色の特大魔力球。ディアーチェ達それぞれの、極大魔法だった。

 追尾していた魔弾と雷槍を振り払い、あるいは防いで見せた颯輔達が、目を見開く。

 

「紫天に堕ちよ――」

 

 そして、極大魔法が解き放たれた。

 業火がうねり、蒼雷が瞬く。二色の集束砲撃は真っ直ぐに突き進んで颯輔達を飲み込み、そしてそこへ、深淵の闇が落ちた。

 それは、全てを無に帰すための魔法だった。暴走した守護騎士達を、あるいは夜天の融合騎を、微塵も残さず滅ぼすための魔法。ともすれば、一国にのみ止まらず、その星ごと崩壊させてしまうような魔法だ。ディアーチェ達に放つことのできる、最大の火力である。吹き荒ぶあまりの爆風に、ディアーチェ達は思わず目を細めた。

 ――しかし。

 

『ほう……』

『うっへぇ~、あれも耐えちゃうんだぁ』

「あれがユーリの――いや、兄上の資質か」

 

 闇が晴れゆくその中には、揺らめく炎が燈っていた。炎が大きく燃え上がるようにして、魄翼が左右に開く。そこには、きょろきょろと辺りを見渡し、ほっと胸を撫で下ろす颯輔達の姿があった。

 颯輔達の姿を見止めて、ディーアチェ達は次なる魔法を選択する。渾身の一手は耐え抜かれてしまったが、瞬間火力が駄目ならば別の手を試すだけだ。すなわち、継続的なダメージ。颯輔達の防壁を斬り裂いて見せた、剣の大軍勢だ。

 ばらばらと紫天の書が捲れ、目的の頁を開く。剣の展開はシュテルとレヴィに任せ、ディアーチェは颯輔達を拘束すべく、幾条もの鎖を放った。

 無論、颯輔達も黙って捕らわれるのを待ってなどいない。翼をはためかせ、ディアーチェ達へと向かってきた。生物のように蠢く鎖を綺麗に避け、ただただ前へ。向かいくる颯輔達に、ディアーチェ達は剣の大軍勢を差し向けた。

 だが、今度の颯輔達は、それを防御しようとはしなかった。翼が大きく広がり、剣と同数の魔弾を従える。漆黒の魔弾が射出され、剣の大軍勢とぶつかり合った。

 総数は千を優に超える剣と魔弾。ぶつかり合ったそれらは互いの爆発で膨れ上がり、眩い光がディアーチェ達の視界を塗りつぶした。

 

「ディアーチェっ!」

 

 颯輔の声が耳を打つ。

 離脱を図る前に、頬に風が当たる。

 そして、微かな衝撃がディアーチェ達を襲った。

 

「やっと、捕まえた。もう、こんな危ないことしちゃあダメだぞ?」

 

 少しだけ上から降ってくる優しげな声。

 ディアーチェ達は、颯輔達に抱き止められていた。

 ディアーチェ達の手から、紫天の書とエルシニアクロイツが光に包まれ消えた。

 

「……ふっ、ふふ。我とレヴィを相手にし、たった一人で立ち向かってきた方の台詞とは思えませぬな。それに、我らと共に消え去ろうとしていたはずでは?」

「うっ。それは……ディアーチェ達がそういう生き方しか選べないんなら、今もそうしようとしていたかもしれないけど……だけど、リインフォース達と話して思ったんだ。リインフォース達もそういう存在だったけど、ちゃんと変わることができた。だからきっと、ディアーチェ達も変われるはずだって」

 

 颯輔達の右手が動き、ディアーチェ達の頭をそっと撫でる。

 ディアーチェ達は颯輔達の胸へと両手を置き、そっと頭を預けた。

 

「つくづく、甘い……」

「でも、その甘さを捨てたらそれは俺じゃあないだろう? 確かに結果を見れば、俺は今までの主と同じようなことをしてきたし、させてきたよ。だけどさ、それでも、八神颯輔は今までの主とは違うんだって、そう思ってもらいたいから」

「きっと、後悔しますよ……?」

「はは、あのときああすればよかったって、そう思うことはあるかもしれないな。……でもさ、ディアーチェ。俺は、今誰かを泣かせるより、後になって悔やんだ方がずっといいって思うんだ」

 

 穏やかな声が耳に心地いい。

 確かな鼓動が温もりとなって伝わってくる。

 そして、気が付いた。

 

「ならば、そうなってしまわぬように、我らが貴方を支えましょう。我らは、貴方が望む貴方だけの力です」

「……ありがとう、ディアーチェ」

 

 自分はきっと、こうしてもらうことができればただそれだけでよかったのだと。

 

 

 

 

 淡いミントグリーンの魔力光が満ちる部屋で、リンディは静かに窓から外を見上げていた。数分ほど前にシグナム達と闇の欠片との激闘が終わり、夜空は静寂を取り戻している。だが、ディアーチェ達によって展開された結界は残ったままだった。

 部屋の中には、リンディとシャマルの呼吸の音と、子供達三人の寝息の音しかない。フェイトは治療の際中に気を失うようにして眠ってからそのままだ。シャマルによって治療を施されたクロノとなのはの二人は、流石に疲れが祟ったらしく、床に座って壁に背中を預け、仲よく肩を寄せ合い舟を漕いでいる。空いているベッドへと運ぼうかとは思ったが、起きている間は「全てが終わるまではここにいる」と聞かなかったため、その時が来るまではそっとしておくことにしていた。

 一方で、シャマルはフェイトの治療を休まずに続けていた。フェイトの応急処置を終えてから、クロノとなのはの二人の治療に回りはしたが、それが済み次第、すぐにフェイトの治療に戻っている。時折呻いていたフェイトも今は穏やかな呼吸となっているため、治療自体は上手くいっているのだろう。その点に関しては、守護騎士であるシャマルの実力を疑ってなどいない。事実、見るに堪えなかった肌はすでに健康的な色合いを取り戻しつつあった。

 残るはやてとシグナム達は、激闘が終わってからも変わらず外に待機していた。はやてからの念話で連絡を取り合いはしたが、その際にリンディがそう命令したというわけではない。颯輔達が帰って来るまで待っていると、自らそう言ってきたのである。

 シグナム達の戦いぶりは、はっきり言って、リンディの想像を超えた別次元のものだった。全てを目に収めたわけではないが――リンディの目で追いきれる様な戦いでもなかったのだが――あれは、管理局最強と謳われていたグレアム達の全盛期ですら及ばない領域のものである。それほどのものを繰り広げても人を待つ余裕があるというのだから、その規格外っぷりを思い知らされた気分だった。そして、黒い月の内部では、それ以上に熾烈な戦いが繰り広げられているに違いない。

 そうした力を持つロストロギア『夜天の書』と、ロストロギア『紫天の書』。これら二つのロストロギアの力が管理局に所属するのならば、これから後の世は、きっと明るいものとなるだろう。

 だが、同時にリンディは思うのだ。

 もしも二つのロストギアが、正しく力を揮えなかったのならば。正義ではなく、悪意に飲み込まれてしまったのならば。そのとき次元世界は、どうなってしまうのかと。

 だからこそ、誰かが見守り導かなければならない。ならばそれは、本人達以外に唯一真実を知る、リンディ・ハラオウンの役目だろう。それが、闇の書事件を見届けたリンディ・ハラオウンの責。八神颯輔を殺し、彼らを焚きつけたリンディ・ハラオウンの贖罪だ。

 もっとも、その前提条件として、まずは颯輔達に無事に帰って来てもらう必要があるのだが。

 先行きの見えない険し過ぎる道に不安を覚え、リンディは天頂に座す黒い月を見上げる。静かに輝いているだけだったはずのそれは、疲れがとうとう目に来てしまったのか、脈動しているようにも見えてしまった。

 

「これは……」

 

 しかしそれは、錯覚などではなかった。確かに月が脈打ち、何かが生まれ出でようとしている。リンカーコアの感覚を研ぎ澄ませてみれば、その異変は明らかだった。結界内、アースラの外に満ちる咽返るほどに濃密な魔力素が、上へ上へと昇っていっているのだから。

 おそらくその魔力は、数値だけを見れば現実を疑いたくなるような、あるいは恐怖に震えあがるようなものだっただろう。だが、リンディはその魔力を知っていた。それは、どこまでも静かで、安らぎを与えるようなものだった。

 脈動していた黒い月が次第に薄れていき、構成していた魔力がその中心へと集まっていく。周囲を覆っていた結界からは圧迫感が消え、外界の様子が窺えるほどの透明感を持ったものとなった。

 数え切れないほどの星々が輝き、そして、大きな満月が淡い光を注ぐ夜の空。その中心には、ひとつの人影があった。

 強化もしていないリンディの視力では、その人物の顔を判断することなど到底できない。精々、人のようなシルエットと、大きく広がる陽炎のようなものが見える程度だ。

 大気に満ち満ちた魔力が集う先には、その陽炎がある。赤色をしていたそれは、魔力を吸い集めるうちに光を強め、やがて、純白に近いものとなった。

 月を背負いながら、それよりもなお明るく輝く二つの光。それは、あまりに膨大な魔力を宿した二枚の翼だった。

 夜天に輝く光を目指し、甲板に控えていたはやて達が空を翔け昇って行く。全てが無事に終わったらしいことを悟ったリンディは、シャマルの方へと振り返った。

 

「あなたは、あそこへ行かなくてもいいの?」

「ええ。まだフェイトちゃんの治療が終わっていませんから」

「でも、ほとんど終わっているのでしょう? なら、少しくらい休憩のつもりで行ってきてもいいのよ?」

「自分の患者を放ってどこかへ行く医者なんていませんよ。それに……」

「それに?」

「颯輔君は、ちゃんと帰って来てくれました。だったら、好きなだけ会えるじゃないですか。これからも、私達の時間は続いていくんですから」

「……そうね」

 

 フェイトから目を離さずに治療を続けるシャマルの頬には、伝い落ちていく二筋の跡がある。しかし、同時に柔らかく微笑んでもいた。

 リンディは力を抜くように息を吐き出し、窓辺を離れる。すやすやと寝息を立てる子供達のそばに寄ると、まずはなのはを抱え上げた。

 

「子供達を部屋に寝かせてきます。フェイトのこと、お願いしますね」

「はい。任せておいてください」

 

 シャマルと言葉を交わし、リンディは仮眠室を目指して廊下へと出た。

 たった二日間の出来事のはずなのに、まるで数ヶ月、数年の時を過ごしたような疲れがある。

 しかしそれは、あながち間違いではないのかもしれない。

 長らく続いた『闇の書事件』は、今度こそ終わりを迎えたのだから。

 

 


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