カチューシャとのいちゃいちゃを書きたいという欲望に勝てませんでした。
あとご要望のあった猫エンドを。
『カチューシャ』
高く乾いた音を立てて薪がふたつに割れる。俺は土台として敷いた巨大な切り株から斧の先端を引き抜き、二つに割った薪の片割れをもう一度切り株の上に立てた。半分にすれば当然狙いが厳しくなるが、いつも同じ角度から斧を振り下ろすように身体を教育しておけば大したことではない。もう一度振りかぶり、薪は美しく両断された。
「本当に上手ね」
少し離れたところでその様子を眺めていたカチューシャさんが惚れ惚れとした様子で褒めてくれる。現代社会において全く役に立たない技能だから褒められても仕方ないような気がするが、恋人から褒められればどんなことでも嬉しいものだ。俺は残ったもう片方の薪も綺麗に両断すると、新たに生まれた四つのそれを小屋に併設された薪置き場に積み上げた。
斧を置いて上着を脱ぐ。慣れたとはいえ薪割をいつまでも続けると体が熱を持って仕方ない。俺は大きく呼吸をすることで身体に冷気を取り込み、それから小屋の向こうに広がる果てしない雪原を見詰める。正しくはそこで俺を見ているカチューシャさんを、だ。
雪原の中のカチューシャさんはまるで雪の妖精のようで、初めて出会ったときからこの感想は変わらない。さらに言えば現在赤を基調としたサラファンに身を包んだ姿は、村のはずれで仲良く遊ぶ人間の子供たちをうらやましがり、人間の姿をまねて人里に下りてきた雪の妖精のようだった。
そんな雪の妖精さんは俺と目が合うと待っていたと言わんばかりに立ち上がり、こちらに走り出す。それを迎えるように二三歩駆けだすと、すぐにカチューシャさんがすっぽりと胸の中におさまり、俺は勢いのまま彼女を抱きしめて雪原の上を転がる。真っ白な雪がまるで砂塵のように舞い上がり、俺とカチューシャさんの周囲をきらびやかに飾る。俺たちはまるでイルカの群れが海面で遊ぶように雪原のうえで転げまわり、そのたびに柔らかい雪が飛沫をあげるように空に舞った。
「とっても楽しそうですね」
しばらくふたりでそうしていると不意にそんな声がかけられ、俺は糸で吊られたように全身を凍り付かせる。すぐに俺と胸元に抱きついているカチューシャさんに大きな影が落ち、まるで吹雪のような冷気が背後から忍び寄ってきた。カチューシャさんが「ノンナ!」と嬉しそうに声をあげ、今度はノンナさんに抱き上げられる。彼女はすこしも身体を揺らさずにそれを受け止めると、愛おしそうに彼女を胸に抱いた。
「同志カチューシャと戯れてばかりですが、薪割は終わったのですか? カチューシャが身体を冷やして風邪をひいたりしたら……」
俺はその言葉にすぐ振り返り、舌が回る限りの早口でノンナさんに言い訳を始める。ここでノンナさんに役立たずと認定されてしまうと折角こぎつけたキャンプも中断させられてしまうかもしれない。ノンナさんは俺の言い訳に至極冷たい表情をしていたが、やがて諦めたようにカチューシャさんを連れて小屋の中へ戻っていった。
「……ココアができていますから、あなたも戻るように」
最後にかけられた言葉にはなんとなく「来るな」という雰囲気があったような気がするが、俺はここで挫けてはいけないと思いにこにこしながらついていった。ノンナさんから向けられる冷気がさらに強くなったような気がするが、しほまほ冷気と同程度なのでにこにこで押し切ることにする。ふたりの後に続いて小屋に戻りながら、俺はいま女性ふたりとキャンプに来ているのかと考えてなんだかものすごい悪事を働いているような気持ちになった。
今年の初めごろにカチューシャさんから連絡があり、三月にキャンプをするからそのつもりでいるように、と言付かった。これは大変なことで、俺はそれから三日間挙動不審になって机の上に飾った猫の置物に始終相談をもちかけ、布団を巻いて腕ひしぎを仕掛け、そして縁側で呆然としながら禅の姿勢を保った。四日目の朝になってようやく脳が事態を把握すると、俺は急いで母さんに向って「三月のこの日、友達の家に泊まるから!」と偽装工作を開始。そこからはクラスの友人たちとともに作戦会議を開き、絶対に彼女とうまくいくカッコいいセリフ百選を練り上げ、日に日に生暖かくなる母さんの視線にも気づかずにその日を待った。
そして当日、熊本に現れたカチューシャさんのそばに立っていたのは、こちらを見詰めて凍えるような冷気をまとったノンナさんだった。
「困っちゃうよな」
呟く俺に頭上から「一意、火力をもっと上げてください」と声がかかる。いまはノンナさんとふたりで晩御飯のカレーを作っている最中であり、考え事をしていた俺は慌てて窯に薪を放り込み、内部の薪を高く積み上げる。カチューシャさんが親戚から借りた小屋がかなり原始的で驚きはしたが、代わりに俺は心ゆくまで薪を割ることができた。それでいいじゃないかと気持ちを落ち着かせる。それでいいじゃないか。何かあるわけじゃないんだから。
「あちっ」
考え事をしながら炉を掻いていると、突然火の粉が大きく跳ねて手にかかる。火掻き棒を取り落して手の甲を抑えると、そこに小さな火傷が出来ているのが見えた。間抜けなことしちゃったなあとため息をつくと、横合いから手が伸びてきてすぐにひっぱりあげられる。
「火傷のようですね。すぐ外に出て雪で冷やしてきなさい」
俺の手を握りながらノンナさんが心配そうにつぶやく。彼女が「あとはやっておきます」と呟くのを聞き、俺は悪いひとじゃないんだよなあと頭をかいた。ただ病的にカチューシャさんのことが好きなだけで。
ノンナさんの言うとおりに小屋を横切って外に出ようとすると、ちょうど外からカチューシャさんが戻ってきた。小屋から出ようとする俺の姿をみて不思議そうにしていたカチューシャさんだが、ちょっと火傷して、と答えるとすぐに飛びつかれて手を見せろと怒られる
「イチーシャったらばかなんだから。痛そう……」
「いや、見た目ほど痛くないですよ。雪で冷やせばすぐ――」
俺が言葉を言い終わる前に、手の甲を見詰めていたカチューシャさんがおずおずと舌をだして火傷をひと舐めする。カチューシャさんの口から出た舌は信じられないほど赤く、それが手の甲にぬるりと触れるたびに俺の心臓が大きく跳ねた。驚きのあまり口から変な笑いがこぼれ、それを聞きつけてやってきたノンナさんも完全に凍り付く。
「どう? 私が怪我するといつもノンナがこうしてくれるの」
俺の方を見上げて不安げに尋ねるカチューシャさんを抱きしめ、俺は彼女を守るようにしてノンナさんを睨んだ。先ほどまで凍り付いていたノンナさんだったが、俺の表情で何が起こったか気が付いたように苦虫をかみつぶしたような顔を浮かべる。
「……唾液に殺菌作用があるということは誰もが承知のこと。急な手当てが必要なときには致し方のないこと」
その言葉になんて往生際の悪い奴だと思ったが、腕の中のカチューシャさんが「痛くなくなった?」と訊いてきたので一時中断することとなった。俺はノンナさんと一瞬視線を交差させるとすぐカチューシャさんに「もちろん大丈夫ですよ」と声をかけ、それから彼女の頭をなでる。
「雪で冷やしてくるのでちょっと待っててくださいね」
声をかけて小屋から出る瞬間、もう一度ノンナさんと視線を合わせる。
(今回のことは見逃してあげましょう)
(貸しひとつ、と考えておいてくださいよ)
扉を閉める寸前、ノンナさんが苦しげな表情でうめくのが見えた。
大変な一日だったなと大きくため息を吐き、ベッドに寝転んで天井をみつめる。結局あの後も俺に対するノンナさんの態度は変わらず、カチューシャさんと一緒にいてもずっとノンナさんが隣にいた。
よくよく考えてみればここ数週間に俺がとった挙動不審な態度で母さんやまほ姉さんもこの旅行のことに気が付いていたような気がするし、それでもあのふたりが旅行を見逃してくれたのはきっとノンナさんが付いてくると見越したからなのだろう。
俺は窓際に向けて寝返りを打ってもう一度ため息をつき、さっさと寝てしまおうと考えた。たとえノンナさんがどれだけ俺をいびろうとも久しぶりにカチューシャさんと一緒にいられることに変わりはないのだし、明日も三人で一緒に遊べばいい。
そう考えて目をつむるが、俺は窓から差し込む月光のまぶしさに一向に眠ることが出来ず、しばらくしてまた目を開くこととなった。月光を「昼をも欺く明るさ」と形容したのは誰だっただろうか。俺はすっかり眠る気を失ってベッドの上に胡坐をくみ、窓から見える月を見上げる。美しい星空だ。継続、プラウダ、旅の途中にはこんな星空を何度も見た。熊本の実家も星が見えないわけではないが、これほどの星というのはやはり人里では見ることが敵わない。
しばらくそうやって星を眺めていると、わずかにきしむ音を立てて背後の扉が開く音がする。俺が驚いて勢いよく振り返ると、そこに人差し指を口の前にあてたカチューシャさんが立っていた。その姿に安心した俺が肩を落とすのを見届けると、彼女はできるだけ音をたてないようにゆっくりと扉を閉める。後ろ手にドアノブを握る彼女は少し俯き加減で、窓から差し込んだ月光がその美しい髪を滑り落ち、昼間の雪のようにきらびやかに輝いた。俺はベッドから脚を投げ出して枕側に座り直し、空いたスペースにカチューシャさんを座らせる。
「ノンナが寝ちゃったみたいだから、一意のこと見に来たの。まだ起きているとは思わなかったけど」
囁くように話す彼女に胸がどきどきと高鳴る。隣に座っていたずらっぽく笑う姿をみて思わず笑みが浮かんだ。
さて、いざこうなるといったいどんなことを言えば良いのか、よくわからなくなってしまうものらしい。学校の連中と必死で考えたシミュレーションもいざとなると何の役にも立たず、俺は会議中に突然悔しさから涙を流した同級生のことを考え、不甲斐ねえ……と心の中で謝罪した。
無言の時間が過ぎていき、心臓の音ばかりが大きく響く。カチューシャさんにもきっと聞こえているだろうと思うと恥ずかしく、俺はなんども息を止めて心臓の音が止まってくれるように祈る。もちろんそんなことをしても止まらないし、止まったらやばい。そのうえ息を止めすぎたせいかめまいが起き、次の瞬間にはカチューシャさんの掌に自分の手を重ねるようにして身体を支えることとなった。
カチューシャさんの口から小さな声が漏れる。俺の全身が甘くしびれたようになり、うつむいたカチューシャさんの耳が真っ赤に染まるのが見えた。すぐにカチューシャさんが手を振りほどき、勢いよく立ち上がる。
「……明日も早いんだから、ゆっくり寝なさい」
そう言って彼女が俺のことを掛布団に押し込み、俺の頭の中で「逸りすぎたのじゃ!」と声が聞こえる。違うんですカチューシャさんさっきのはめまいがしただけでしてと言い訳しようとしたが、こうなってしまっては何もかも手遅れだろう。俺はカチューシャさんのなすがままに布団の中に押し込まれ、それから布団の中に暖かいものが入り込むのを感じた。
薄暗い布団の中でカチューシャさんがネコのように俺の胸にすがりつく。さっきまで寒々としていたベッドに彼女の香りが満ちてくるのを感じ、俺は先ほど凍り付いた心臓が再び高速回転するのを感じる。鼻がふれそうなほど近い場所に彼女の顔があり、俺は手を伸ばして彼女の頬に触れた。湿度を帯びてしっとりとした感触の頬が指先に吸い付くようだ。
「眠るまでわたしが一緒にいてあげる」
耳元でささやく彼女の声がひどく艶めかしい。俺は潤んだ瞳でこちらを見詰めるカチューシャさんをまっすぐに見つめ返し、ただ黙って触れるだけのキスをする。生まれて初めてのキスだ。心臓が爆発しそうに思う。ただ身体の一部が触れ合っただけなのに信じがたいほどの充足感が全身に満ちるのを感じる。
彼女の目をまっすぐに見つめ、震える声で愛してますと言った。笑って、愛してると返される。目に見えないものの存在を確かに感じることが出来る。
俺はそれから彼女のことを強く抱きしめ、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝目が覚めると彼女はいつのまにか隣からいなくなっており、俺がよたよたと起き上がってリビングに向うと、ノンナさんとふたりして紅茶を飲んでいた。カチューシャさんから寝坊助なんだからと怒られ、ノンナさんからは「そんなことで雪上戦を勝ち抜けると思っているのですか。二重包囲は鉄壁とはいえそれも兵士一人一人の意志あってこそのもの」とやたら厳しく説教をされる。
俺は狐につままれたような表情で、もしかしたら昨日のことは夢だったのかもしれないと考えた。
夢ならせめて忘れないように何度も何度も思いだそうと考えてひたすら歯を磨いていると、突然横合いから服の袖をひっぱられ、倒れこんだ先で頬に柔らかな感触が伝わる。歯ブラシを咥えたまま目をまるくしていると、俺の袖を握ったままのカチューシャさんがいたずらっぽく微笑み、昨日の夜と同じように人差し指を唇にあてた。
その可憐な姿に俺は歯磨き粉を飲み込み、一瞬遅れて後ろから食器が割れる音が聞こえた。
『旅のあと』
昔から変な子ではあったが、と西住しほは考える。
彼女の視線の先で末っ子長男の一意が縁側で犬と戯れ、なんだか退屈そうな表情を浮かべていた。時折犬の前脚を両手でつかんで二足歩行させるようにひっぱりあげ、遠くに向って投げたり、腹をなでた後で足の裏で踏んだりする。犬も一意による突然の凶行にうろたえていたようだが、腹を踏まれたことには流石に機嫌が悪くなったらしく、一意のことを恨めしそうに見つめていた。
結局望んだ反応は得られなかったのか、一意は退屈そうに縁側に寝転び、大きな欠伸をする。
昔から変な子ではあったが、家出から戻ってきてからは特におかしい。しほはその様子を見てため息をつき、子供と接することのむずかしさを思う。上の娘ならともかく、下の娘も長男も父親似で、彼女からしてみれば全く理解の及ばない存在だった。それでもみほは同じ戦車道で繋がった仲ではあるし、長男も父親と同じように接すれば理解しあえていたように思うが、家出から戻ってきた彼のことは全く理解が難しく思える。
そこでふと、そもそも理解というのが烏滸がましいのかもしれない、と彼女は考える。彼女からしてみれば西住流の家に生まれた子供である以上、みほにもまほと同じような戦車道を進んで行ってほしいと考えていたが、自分の手から離れたみほは新しい才能を開花させた。
小さくため息をつき、本当にままならないものだと思う。
「どうしたの?」
かけられた声に驚いて顔を向けると、机の脚の近くに一意が寝転びしほの方を見上げていた。彼は自宅に帰ってきてから髪を短く切り、中学生のころまでの女の子のような面影が消えた。日焼けのせいか身体がひきしまったのかはわからないが少し逞しくなり、どちらかといえばみほに似ていたその容姿はいま、しほの夫である常夫とみほの中間程度に落ち着いている。
「行儀が悪いわよ」
「はぁい」
彼はそう返事をして億劫そうに起き上がると、そのまま身体を反転させて机に寄りかかる。ここ数日の自宅謹慎のせいか、一意はこのように家中をごろごろと動き回ってはだらしなく身体を投げ出す様子が多い。その様子はまるで家から出してもらえない猫のようにも見えるが、母に対して何の相談もなく家出同然で一か月近くも失踪したのだから、新学期までの自宅謹慎で済ましたのは寛大と言えるだろう。
着流しの肩がはだけて結局だらしない。
「プラウダの隊長が見たらどう思うのかしら」
「今それ関係なくない!?」
一意はそう言いつつも慌てて起き上がり、はだけた肩を直す。最近はこれがしほにとっての最終手段であり、そして最も多用される手段でもあった。自分でもあまり感心できることではないと彼女はため息をつく。
しほが立ち上がるとその行方を追うように一意が振り返り、廊下をあるく彼女をのろのろと追跡する。玄関先まできたところでしほがため息をつき、一意の方を振り返る。
「買い物よ」
「じゃあ俺も行く」
またため息をつく。
親の欲目もあるが、西住しほから見て一意はとても可愛らしい。なんでも素直に言うことを聞くし、学校の成績だって悪いわけではない。家の手伝いもよくやる。
自慢の息子だったが、それだけに何の相談もなく家出をしてみほに会いに行き、すっかり変わった様子を見せられて動揺しないわけもなかった。一意自身は特に何も気にしていないように時折プラウダの隊長からの手紙を眺めてはにこにこし、たいていの場合縁側でごろごろとだらしなく生活している。
「母さん、今日の晩御飯はエビフライが良い」
「……そうね」
そのくせして戻ってきてからはやたらとしほについて回り、買い物にも同行しようとする。昨年までの膠着状態に比べれば家族としてずっと健全なのは間違いないが、しほからしてみると自分の知らないうちに息子が別の生き物になったようで落ち着かなかった。助手席に座った一意が「タルタルソースってエビフライ以外であんまり使わないよね~」とどうでも良いことを呟き、なんとなくしほは全身から力が抜けるのを感じる。もうちょっと家族に心配をかけたことを反省したらどうかと言ってやろうか悩んだが、助手席でにこにこと笑うその姿をみてその気力もなえた。
家からほど近いショッピングモールで買い物をしながら、しほは相変わらず一意のことを考え続ける。近頃の掴みどころのない感じはまるで出会った時の夫のようだ。それも交際をはじめて数か月たったころには掴みどころがないどころか、単にほとんど何も考えていないだけだということを知ったのだが、おそらく今の一意もそうだろう。彼は旅の合間にすっかり内面まで父に似てきていた。その女たらしな部分までも。
そう考えると胸の奥からイライラが湧き上がり、彼女はなんとなく眉間に皺を寄せて歩きはじめる。が、途端に目の前の人波が割れるように道が開き、右手で眉間を揉んだ。まほのことを考え、せめてあの子にはいつも穏やかな表情でいるように言い聞かせようと思った。
全く散々な買い物を終えて駐車場に戻ると、自家用車にもたれかかる一意の姿が目に入る。夕暮れ時の駐車場で何をするでもなく夕陽を眺めていた息子の姿になんとなく大人びたものを感じ、しばし呆然とそれを見詰めた。その姿にしほはなんとなく寂しさのようなものを覚える。こちらに気が付いた一意が嬉しそうに手をふり、それでようやく意識がひきもどされた。
ポケットの中を漁って車のカギを探しつつ、末の息子の変化を思う。仕方のないことだが、自分は息子の大切な時期を見逃してしまったらしい。車のロックを外して運転席に腰を下ろすと、ややあって助手席に一意が乗り込み、低い声で暑いとうめく。
窓を開けて冷房をかける。しほは走り出した車の中で今夜島田千代に電話をかけておこうと考えていた。
――くれぐれも見逃さないように。そう伝えるために。
『旅のまえ』
七月が終わりに近づいても雨は途切れることなく降り続ける。俺は夏休みだというのにひがな一日縁側に座り込んで庭を眺め、荒波を模したように力強く配置された岩が雨に穿たれる様子を見続けていた。
全く何もやる気が起きない毎日だ。俺は周囲に積んだ漫画本を押しのけるようにしてスペースを作り、折りたたんだ座布団を枕にして縁側に寝転ぶ。もう七月も終わりだというのに一向に梅雨が明ける気配はないし、学園艦を出て実家に戻ったせいで友人と遊ぶ予定も思うように立たない。夏休みの宿題なんてそもそもやる気がない。
いつまでも降り続く雨にイライラする。このまま永遠に雨が降り続いて新学期が始まるような気がした。
何もしていない時間が長くなると、いつも脳内に優勝旗を抱えたみほ姉さんの姿が浮かんでくる。俺はそのたびに頭をかかえてぶんぶんと振り乱し、頭のなかからその姿を追い出そうとした。このことについて考えるといつも気分が落ち込み、気持ちの悪い感情が胸をいっぱいにしてしまうのを感じる。
俺はもう一度縁側から庭を眺める。あの水滴もいつか岩に穴をあけるだろうか。波が砕け散るようにこの庭の景石たちの形を変えていくのか。
また姉さんたちの戦いの様子が頭に浮かんでくる。今度は頭を振っても別のことを考えようとしても無理だった。
市街地での決戦。視線を交わすだけで分かりあうようなふたり。夕暮れの中で言葉をかわすふたり。母さんがした拍手。
みんな勝手に分かり合う。勝手に認め合う。俺は蚊帳の外だ。家族なのに俺には何もわからない。
俺は縁側で膝を抱え、身を守るようにして身体を丸める。そうしないとこの胸の中にある汚いものを吐きだしてしまいそうだった。
みほ姉さんはどうしてあんなにすごいことができるんだろう。この家であんなにひどいことを言われて、黒森峰でも批判された。だというのに彼女は大洗でもう一度立ち上がり、そして何か大切なものを手に入れたように見える。優勝旗を抱える姉さんの姿。仲間たちに囲まれて浮かべる笑顔。
胸がざわついて気分が悪い。俺はいったい何をやっているんだろう。俺はいったい何ができるんだろう。
俺はこのままじゃいけないのか。それとも俺のままでもいいのか。
何もわからない。
視線をあげる。雨が相変わらず降り続いていた。
この雨が上がったら家を出ようと思った。
『愛のかたち』
仕事が終わり、全身がひどい倦怠感に包まれているのを感じる。ちょっと前まではどれだけ仕事をしても翌日には元気に出勤することができたが、最近ではすっかりそういった無茶が出来なくなった。
ここ数日は仕事がかなり忙しい。目前に迫った戦車道の国際大会に向けて各方面との調整も追い込みに入り、普段はのんびりとした職場もぴりぴりと緊迫感が漂う。俺はその日も定時を一時間ほどオーバーして職場を後にし、車に乗り込んで自宅への道を走らせた。
職場を出る際に確認した妻からのメールに『今日の晩御飯はエビフライ』とあり、仕事で疲れていてもなんとなく足が弾むのを感じる。
この時間の家までの道はいつも少しばかり混んでいて、俺はテールライトの数だけ同じように家に向かうひとたちがいることを思う。彼らにも楽しみな夕食があり、家で妻と子供が待つのだろうか。
昔は――、と考え、あの夏のことを思い出す。昔は想像力が追い付かなかった。渋滞に巻き込まれるたびに前後の車一台一台に人が乗っていることを考え、その全てに生活があることについて想いを巡らせたような気がする。いまはもうそんなことはしない。俺の想像力が現実に追い付いたからなのか、それともどこかで考えることをやめてしまったのか。
そんなことを考えていると俺はいつのまにか自宅にたどり着き、危なげなく車を停めて自宅の鍵を開く。すぐに家の奥から「おかえりなさい」と声が響き、妻が姿を現した。上り口で靴を脱ぎながら妻を見上げ、いつの間にか背が伸びたなあと何千回目の思考を走らせる。昔はそれこそ信じられないぐらいに背が低かった彼女だが、いまでは日本人女性の平均と同じ程度に背が伸びた。相変わらず日本人離れした美しさはそのままに、長く伸ばした髪がきらびやかに輝いている。靴をぬいで立ち上がる俺に触れるようなキスが与えられ、ふたり連れ立ってリビングへと歩いた。
リビングへの扉を開くと、待ち構えていた通り下腹部へと衝撃が走る。俺はすぐにその小さな狼藉者を抱き上げ、胸いっぱいに抱きしめた。胸の中の娘は昔の妻そっくりで、ただひとつ目元だけがまるく可愛らしい。妻のようなきりっとした凛々しさはないが、その分優しく良い子に育ってくれた。俺は彼女を抱きかかえたままでソファに座り込み、彼女を膝に乗せたままで先ほどまで見ていたらしいテレビ番組を一緒に眺める。
妻からもうすぐご飯ができるからね、と声がかかり、俺は弾んだ声で「うん」とだけ返事を返す。
どれだけ仕事で疲れて帰ってきても、これだけで全ての疲労が吹き飛ぶように思える。いまでは突然黙って旅に出るような真似は出来ないが、家族全員で綿密な計画を立てて旅行に出ることも悪いことではない。俺は腕の中の娘に少しでも多くのものを見せてやりたかったし、まだまだ妻と一緒に色々なものを見たかった。
腕の中の娘をもういちどしっかりと抱きかかえ、その頭をなでる。まだまだ子供だが、きっとすぐに大きくなってしまうだろう。俺はいつか彼女にもあの夏が来ることを想い、そのときのためにできるだけのことをしてあげたいと思う。俺が多くの人と出会ってその背中を押してもらえたように、俺なりに彼女が進んでいける力を与えてあげたいと考えた。
そういうことを考えていると、いつも胸の奥にあの時の情景が蘇る。北海道の平野に消えていったあいつ。高く良く通る声で鳴いたあいつのことを。当然ながらあれ以来一度もあいつと会うことは無かったが、あいつと過ごした日々は今でも昨日のことのように思い出せる。
思い出に浸っていると、いつの間にか娘がこちらを覗き込んで不思議そうな表情を浮かべていた。いつのまにかテレビ番組は終わり、娘の興味はテレビから俺の方に映っていたらしい。俺はすぐに娘のことを抱き上げて向かい合うように位置を変えさせると、彼女に今日会ったことを質問し始めた。母親と一緒に洗濯物を干したこと、公園に行って遊んだこと。仕事とはいえそこに一緒にいられないことがとても悔しいが、彼女から話を聞くだけで俺も我がことのように嬉しくなる。
「それからね。猫さんと仲良くなったよ」
「猫?」
「うん。すごく太っていてあくびばっかりしてたの、お母さんがきたらどこかに行っちゃった」
そうか、と一息つき、俺は彼女の頭をなでる。
もしかして、耳と口の周りだけ黒くて、後はうちのじゅうたんみたいに白い猫だった? と尋ねると、彼女が嬉しそうにうんと頷く。
「すっごく可愛くて、沢山撫でさせてくれた」
俺はもう一度そうか、と呟き、娘のことを胸におしつけるように抱きしめた。彼女がくぐもった声で笑い、お父さん汗臭いと文句を言う。彼女の頭をなでる俺の手の甲に大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。なんとなくだが、あいつだろうと思った。ふざけた話だが、今でも俺のことを見ていてくれていると心の底から信じられた。
――俺の娘を見たか。世界で一番かわいい、俺の娘だ。お前のことだから薮の中で妻と娘のことも見ただろう。これがお前と別れてから俺に与えられた愛の姿だ。
俺は耐えきれずに身体を折り曲げ、娘のことを強く抱きしめる。くすぐったそうに笑う声もどこか遠くに聞こえた。
俺は一生をかけてこの子に全てを伝えようと決意する。恥ずかしいことも抽象的なことも、どんなことでも俺のすべてをかけてこの子に与えてあげたいと思う。かつて俺が多くの人にそうしてもらったように。最後には与えられたものと同じだけのものを与えようと思った。いま万感の思いが胸に満ち、それが俺の愛だと気が付く。
妻に呼ばれた時にはもう涙もとまり、俺は娘と妻の三人でいつも通りに食卓を囲む。食事の最中、ふと食卓に置かれた妻の手を握る。いつもありがとう、と声に出すと、彼女はまるで花がほころぶような笑顔を浮かべ、こちらの手を握り返してきた。
窓の外で何かが走り去るような気配がした。
もしかしたらそれは猫だったのかもしれない。
これで本編と合わせて一意の物語はおしまいです。
ありがとうございました。