葬祭殿へ入る前の道に存在する、隠し通路。
長い階段を降りて行きつくそこは広大な地下空間。
ある物を守るために作られた場所は、王家の者だけが存在を知らされて、代々秘密と守る役目を受け継ぎ、長い歴史を辿ってきた。
そして現代、その役目はコブラに引き継がれていた。
隠し通路から続く地下聖殿。
そこへ到達していたミス・オールサンデーは四角い石の前に立っていた。
特殊な鉱石でできており、明らかに自然でないと感じるほど美しい四角形である。その一面には特殊な文字が記され、普通の人間では読めないものだ。
歴史を記す石、
何があろうと決して壊れず、割れず、古代文字で人には語られぬ歴史を記した碑文。世界に限られた数しか存在しない不思議な石だった。
ミス・オールサンデーは読めないはずの古代文字を読み進めている様子だった。
古代文字を学ぶこと、或いはポーネグリフを解読・捜索することは法律で固く禁じられている。それ故にコブラは驚きを隠せない。
コブラは猿ぐつわも拘束も解かれ、壁際に座らされている。逃げようと思えばおそらく逃げられる状況だが、なぜか彼はすぐにそうしようとしていない。
それだけ彼女の行動が気になるのだ。
古代文字を読み、ポーネグリフを解読する者。普通とは思えない。
「その文字が読めるのか……?」
「ええ」
「なぜ。どこで学んだ。簡単に伝え聞くことができるものではないのだぞ」
碑文から目を離したミス・オールサンデーが振り返る。
感情を窺わせない微笑みを湛え、余裕を持つ態度でコブラへ言った。
「人には知られたくない過去があるの。この碑文と同じように。興味本位で詮索することはお勧めしないわね」
明確な答えは寄こさず、そう言うと再び石へ向き直った。
コブラは黙り込んで思案する。
ミス・オールサンデーは碑文を読み終えていたのだが、しばらく間を置いてから口を開く。
「これだけなの? 記されているのはこれで全て?」
「私はその文字を読むことができない。守ってきたのは内容ではなくその石と秘密だ。これ以上お前たちに教えられることはない」
「そう……」
「望んでいた物が記されていたのではないのか?」
ミス・オールサンデーは沈黙した後、少ししてから改めて口を開いた。
「ここを最後にするつもりだった。あの男に協力した以上、失敗すれば生きられない。それに逃げることにも疲れたの」
「どういうことだ?」
くすりと微笑む彼女は振り返る。
その笑みは怪しくも美しく、独特の雰囲気を纏っていた。言い知れないものを感じ、コブラは眉間に皺を寄せていて、じっと彼女の顔を見つめる。
彼女は、恐れることもなく冷静に伝えた。
「私は今日ここで死ぬのよ。この碑文が最後の希望だった」
立場は敵とはいえ、愕然としてしまう。
息を呑んだコブラは何も言えなくなってしまい、身じろぎ一つできなかった。
己の死を笑顔で受け止める人間を見たことがあっただろうか。彼女の様子から考えて、冗談ではないと断言することはできないが、その場の空気を肌で感じているコブラにしてみれば冗談などではないと受け取れる。彼女は今、本気でそう言ったのだ。
すでに死ぬことを覚悟した上でこの場に立っている。
その精神力に理解が及ばず、信じられない想いでいっぱいだった。
コブラは、怪我をして血を流し、疲れ切った体でよろよろと立ち上がる。
今一度ミス・オールサンデーの目を正面から見据えた。
敵ではあっても疑念が残る。何が彼女をそうさせたのかがわからない。
そうして向かい合っていた時、その空間へ通じる道を一匹の鷹が飛んできた。
獣型になっていたペルが到着し、人型に戻るとすかさずコブラの下へ駆けつける。
疲弊しているのは彼も同じだがそれを感じさせない速度だった。即座にコブラの状態を確認するとミス・オールサンデーへ剣を向ける。
「国王様! ご無事ですか!」
「ああ……心配はいらない。私は無事だ」
「遅れて申し訳ございません。これより私がお守りします!」
ペルはミス・オールサンデーを警戒しており、剣先を彼女へ向けて身構える。
その様子を目にしたミス・オールサンデーは笑みを崩さず、動かない。どうやら戦うつもりはないようで、彼女の能力ならいつでも手負いのペルを倒せるがそうしなかった。
構えもしないことを不審に思いつつも、今は脱出が先。ペルはコブラを急がせる。
必要とあらば彼を背に乗せるつもりで剣を持ったまま人獣型に変身した。
「すぐに脱出を! 外ではまだ戦いが続いています! どうか兵たちに国王様のご無事をお知らせください! それだけで彼らの士気は上がりましょう!」
「待ってくれ。少し、彼女と話したい」
「話す……? 何を仰るんです。この期に及んで何を……」
「少しだけだ。すぐに行く」
コブラがペルより前へ進み出てミス・オールサンデーを見る。
攻撃されるという危機感は持っていない。おそらくそんな意思はないだろうと考えている。
やはり対峙してもミス・オールサンデーは攻撃の類を行おうとしなかった。安堵という訳にもいかないまでもペルが理解し、静かに剣を下ろす。
二人の会話はそれから始まった。
「先程の言葉の真意を聞かせてほしい。これが最後だというのなら」
「信じるの? あなたたちを陥れた相手よ」
「構わない」
王の器と捉えるべきか。間髪入れずにコブラは答えた。
数秒目を閉じたミス・オールサンデーは語り出す。
「私が探していたのは……〝
「真の……歴史」
コブラが息を呑むのを理解しているが、ミス・オールサンデーは言葉を止めなかった。
「どこにあるかはわからない。何が記されているのか誰も知らない。私はそれを読むためだけに生きていた。だけどもう限界」
「なぜ……生きる意思があれば生きられるはずでは」
「あの男と手を組む時に覚悟していたの。確かにこの世界の〝闇”から隠れることはできるかもしれない。けれど彼自身も大きな闇……すぐ傍に居て逃げられるとは思っていなかった」
その口ぶりからしてクロコダイルには敵わないと思っているらしい。その一方で恐れているようには聞こえず、諦めの念を強く感じ、語る声に動揺はない。表情を微塵も崩さない姿は死を恐れてはいなくて、それが異常に思えて仕方なかった。
生きることを諦めた人間とは、こんなにも悲しい存在なのか。
「彼に協力し始めた時から、ここが最後だと思っていた。だけど願いは叶わなかったみたい」
「一つ聞かせてくれ……〝語られぬ歴史”は、紡ぐことができるのか? その記録がポーネグリフだというのか?」
疑問を抱いたコブラの問いに対し、ミス・オールサンデーは微笑んだだけだった。
それだけで伝わったらしく、コブラは再び驚愕しており、踏ん張らなければ膝から崩れ落ちそうになるほどの衝撃を受ける。
王族であるからこそ知るものもある。彼は何やら思考を巡らせていたらしい。
だが、どれだけ真剣に考えてみても答えが出そうにない疑問だった。
視線を外して、ミス・オールサンデーがポーネグリフを見る。
感慨にふけるものがある。これが最後と思っていただけにそれは尚更だ。
「私はただ歴史を知りたいだけ……だけどこの世界ではそれさえも許されない」
彼女の独白にコブラは何も言い返すことができなかった。
「私の夢には、敵が多すぎる……」
それは初めて彼女が見せる弱みだったかもしれない。
背を向けたまま、多くは語らず、それでも、その瞬間だけは彼女の背がとても寂しげなものに見えていた。コブラはもちろん、先程まで敵意を見せていたペルさえ戸惑うほどに。
真の歴史とは何なのか。ポーネグリフとは。〝空白の100年”とは。
突っ立ったままのコブラの思考はぐるぐる回る。
いつの間にか動けなくなっていた様子の彼らだが、少しするとミス・オールサンデーが言う。
彼女自身の事情から考えるなら、もはや用済みの相手。そういうことらしい。
唐突にこの場から離れるよう忠告して、彼女自身は動こうとしなかった。
その提案にはコブラもペルも驚く。
「行きなさい。止めはしないわ」
「何……?」
「ここに残れば、殺されるのだろう」
「そうね」
「なぜ逃げない。なぜそう簡単に諦めてしまうのだっ」
「言ったでしょう? もう逃げることに疲れたの」
ミス・オールサンデーの態度は変わらなかった。
「私が生きられる居場所なんてない。あの組織の中にもね」
その声を聞いて、何を言っても無駄なのだと理解した。
厳しい表情を見せたコブラは思わず俯く。
「少し喋り過ぎたわ。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。最後だけは、せめて」
「……この地下聖殿には侵入者を逃がさないための仕掛けがある」
コブラは、迷いながらも語り出した。
救いなどではない。むしろ冷酷なことをしようとしているのだろう。
わかってはいても黙って去ることだけはできなかった。
「ポーネグリフを守るために、小さな柱を一つ抜くだけで全ての重心がずれ、聖殿全体が崩壊するよう設計されている。役に立つかはわからないが」
「そう。ありがとう」
「すまん……」
「どうして謝るの? フフ、おかしな人ね」
彼女はくすくす笑う。最後まで笑みを崩さなかった。
今しがたコブラが言ったのは言わば敵を道連れにするための方法で、彼女が生き残る方法などではないのだが、それを知ってなお動揺することもないらしい。
そんなことを言い出すなど、とんでもないことだと思っている。だが他に手向けがない。
悲痛な面持ちで目を伏せたコブラは彼女へ背を向けた。
王は優しい人だ。ペルは理解している。
何があったかは知らないが、きっと彼女が死ぬことを悔いているのだろう。
そんな王を誇らしく思う反面、彼自身はコブラの身の安全を保障しなければならない。一人の兵士として余計な思考はすぐに捨て去り、護衛としての任務を全うする。
迷いを捨て去ろうと目に強い光を灯すコブラを背に乗せ、ペルが飛び立った。
急ぎ広場へ向かい、兵士たちの戦いを見守るのだ。
「急ぎます! しっかり掴まっていてください!」
「皆には迷惑をかけた……最後まで付き合わねばな」
二人の姿は素早く遠ざかっていく。
ミス・オールサンデーは振り返りもせず、彼らが逃げるのを止めはしない。
一人になった後、彼女はずっと立ち尽くしていた。
時計を忘れてきた、というよりは敢えて持ってこなかったため、時間の経過は正確に知れない。今はそれでいいと思っている。
静かに時間が進んでいき、しばらく耳が痛くなるほどの静寂に身を包まれていた。
結末はわかっている。今更何の感慨もない。
不意に蘇る記憶など決して幸福なものではなかった。
だからだろうか。死を前にしても心が少しも動かないのは。
長い間、ずっと黙っていた彼女は、ある時急に口を開く。
ポーネグリフを見つめたまま視線を動かさなかった。
「天歴239年。カヒラによるアラバスタ征服」
平坦な声は朗々と語り始める。
「天歴260年。テイマーのビテイン朝支配」
ポーネグリフに記された文字を読み進めるように言葉を紡いでいる。
非常に流暢な様子でつっかえることは一度もなかった。
「天歴306年。エルマルにタフ大聖堂完成」
しかしそれは彼女たちが求めていたものではなくて。
「天歴325年。オルテアの英雄マムディンが――」
「もういい。やめろ」
数メートルの距離はあるものの、彼女の背後に立っていたクロコダイルが声を遮る。
流れた血を拭った様子もなく、かといって疲弊は感じさせない。決して弱くはない怒気を露にする彼はミス・オールサンデーの背を睨みつけていた。
彼女の語りを聞いて納得できないものがある。
欲しかった情報は一つたりとも聞こえてこなかった。
そうではない。探していたのは〝プルトン”という名の古代兵器。求めていたのはその現在地を示す情報であってアラバスタの歴史などではない。
それはミス・オールサンデーも理解していたはずだ。
遮られたことで口を閉ざしていた彼女へクロコダイルが問いかける。
そうする時にはすでに鉤爪を構えようとしていた。
「どういうつもりだ、ニコ・ロビン……おれは歴史の授業を受けに来たわけじゃねぇ。この国に隠された古代兵器の在処を言え。そこに記されているはずだ」
「ないわ」
「何……?」
「ここにはプルトンなんて文字はない。記されているのは歴史だけよ」
言葉を耳にした途端、威圧感が爆発的に増した。
常人では立っていられないほど強烈な殺気をぶつけられているが、ミス・オールサンデーは表情一つ変えずに立っている。さらには振り返って彼の顔を見た。
やはり目を見ればわかった。
初めから生かして帰す気などないのだ。
「隠せばどうなるかは知ってるはずだぞ。悪いが冗談を聞いてやれる心境じゃなくてな」
「冗談なんて言ってないわ。全て本当のこと」
「そうか……だとすれば非常に残念だ」
おそらく彼は気付いているのだろう。ミス・オールサンデーが嘘をついたと。そこに鎮座しているポーネグリフは確かにプルトンの在処を示していたことに。
古代文字を読めないクロコダイルには嘘を見抜けても示される位置がわからない。
彼女さえ黙っていれば情報はどこにも漏れないのである。
なぜ彼女がそうしたかを推察することはできないが、裏切りはあり得るものとして考えていた。
クロコダイルはさほど動じていなかった。
激しい憤りを感じる一方、すぐに思考が切り替わって冷静さを取り戻す余裕がある。
静かに左腕が上げられても動じない。
ミス・オールサンデーは彼の行動をじっと見ていた。
そう判断したことを責めやしない。それならば自力で探すだけだ。
決断したクロコダイルは少し前までパートナーだった彼女へ武器を向ける。これから刺し殺すことについて、何一つ心は動いていなかった。
「お前の選択を受け入れよう、ニコ・ロビン。代わりにおれの答えを告げてやる」
「あら。私が何の準備もせずにここへ来ると思った?」
緩やかに、優雅にすら感じる動作でミス・オールサンデーが懐へ手を伸ばす。
取り出したのはナイフと、少量の水。
長年傍に居ただけはあって弱点を理解していた。確かに実力では敵わないが弱点さえ突けば可能性はある。仮に生き残れるとするならばそれを否定するつもりはない。
どちらが生き残って、どちらが死ぬのか。
勝負は一瞬で終わるとミス・オールサンデーは踏んでいた。
しかしクロコダイルは勝負にすらならないと考えており、そこに二人の違いがある。
ミス・オールサンデーが水を手にしたことはクロコダイルにとっても想定内。それ自体が大した脅威になることは決して多くはない。
ルフィから受けたダメージが大きかったものの障害にはならないようだ。
二人を比較した時に挙げられる最も大きいことが一点。
それが戦闘経験の差だ。
ミス・オールサンデーが水が入った小瓶を投げつけた。
クロコダイルは前へ踏み込みながらわずかな動作で回避する。だが彼女の能力によって肩に一本の腕が生え、飛来した小瓶をキャッチした。
回避したはずの攻撃にもう一度襲われかけていたのである。
視線の端にそれを見たがクロコダイルの表情はぴくりとも動かない。
一方、ミス・オールサンデーはナイフを構えて走り出した。
「濡れればナイフも刺さるでしょう!」
肩に生えた腕が小瓶を投げようとする寸前。
地面を強く蹴りつけると同時に体を砂に変えて、クロコダイルの姿が視界から消えた。
あまりにも素早い動きに小瓶を投げるのが間に合わず、本体には当たらずに地面へ落ちて、全身が砂になったことでハナハナの能力が強制的に解除された。ミス・オールサンデーは彼を見失い、哀れにも水の入った小瓶がパリンと割れる。
驚き、一瞬の出来事に思考が遅れる。
その遅れを見逃すほど彼は甘くなかった。
後ろから押されるような衝撃を受けて、体がわずかに揺れ、直後に激痛が走る。
気付けば鉤爪が背から胸を貫通していて、背後からの一撃は気付くことすらできなかった。
不敵に笑うクロコダイルは鉤爪を勢いよく引き抜き、溢れ出る鮮血に気を良くする。
「全てを許そう、ニコ・ロビン……なぜならおれは」
ミス・オールサンデーの体がその場へ崩れ落ちる。
その姿を冷徹に見下ろしてクロコダイルは静かに呟いた。
「誰一人、
倒れたミス・オールサンデーへの興味を失い、彼はあっさり視線を外す。すぐに確認したのはそこにある巨大な石、ポーネグリフだ。
残念ながら読むことはできないがヒントになることは間違いない。
後にこれも確保しておくべきかと思案する。
「まぁいい……コブラの反応からこの国にあることはわかった。時間さえあれば見つけ出すことはできる。この国を掌握さえすればな」
裏切りはあったが動じてはいなかった。クロコダイルはすぐに考えを改める。
まず最初にアラバスタ乗っ取りを完成させる。
そう決めた直後、突如地下聖殿が大きく揺れ始めた。
「何ッ……!? チッ、てめぇか!」
クロコダイルの目は倒れたままのミス・オールサンデーを見ていた。
彼が察した通り、彼女はその場を動かずして能力を使い、コブラが言った通り小さな柱を一つ抜いたのだ。するとバランスを崩した聖殿その物が崩れようとしている。
ミス・オールサンデーはいつの間にか満足そうに微笑んでいた。
自分が死ぬことを拒否していない。死は免れない。だが辛うじて一矢報いることはできそうだ。
「てめぇも焼きが回ったな。この程度でおれが死ぬとでも思ったか?」
「フフ……見てみたいと、思ったのよ……」
「何?」
口の端から血を流しながらも、ミス・オールサンデーは微笑んで薄く目を開けた。
「〝D”の名を持つ彼らが、何をしでかすのか……」
クロコダイルは、三度同じ感覚に陥った。
ゆっくりと振り返り、自らの背後へ目を向ける。
そこには、二度殺したはずのルフィが、強く拳を握りしめて立っていた。