蝉がけたたましく鳴いていた。
紅魔館。レミリアは自室のテーブルにつきアイスティーを一口飲んだ。
「いつもは温かいのばっかりだけど、たまにはアイスもいいわね」
夏でもホットティーを飲むことが多いレミリアはそう感想を漏らした。
「こんな暑い中で熱い紅茶なんて飲むのなんて、貴女くらいなものよ」
テーブルの向かいに座るのは博麗霊夢であった。彼女はアイスティーよりも、お茶請けに出されたクッキーを旺盛に食べている。
今日ここに霊夢が居るのは特に意味はない。退屈なレミリアが霊夢をお茶に誘っただけだ。
「でも、貴女だって熱い緑茶飲んでるじゃない。咲夜に聞いた事あるけどアイスの緑茶というものもあるそうよ」
「冷たい緑茶なんて邪道よ」
レミリアの指摘に霊夢は気持ち良いくらい自分を棚に上げて言った。右手でアイスティーのグラスを取り飲む。
一年前。霊夢はある仕事中に左腕を上腕から喪失した。治療は八意永琳が当たった。彼女は薬師でありながら外の世界すら凌駕する医療技術を持ち、鋭利に落とされた腕を元どおりに繋ぐなど簡単な作業であった。
しかし、霊夢の腕は確かに繋いでも元どおりにはならなかった。本来鋭利な傷というのは治るのも早いのだが、まるで腕が斬られたという事が不可逆的な事象だという風に、繋いだ腕が定着しなかったのだ。
それでも壊死だけは免れとりあえずくっつけられたのは永琳の技術力あっての事であろう。しかし見かけ上繋がっただけで左腕はもう感覚が無かった。曰くリハビリ次第で動かせるようになるが、もう元どおりには使えないだろうとの事。
ただ斬り落とされただけの腕を完全に治療出来なかったこの経験は八意永琳にとっても小さな屈辱として残っている。
霊夢はと言うと、利き腕が使えなくなるとリハビリをするでもなく、平然と右腕一本で生活し、仕事もした。腕一本駄目になったくらいで使い物にならなくなるような博麗霊夢では無かった。
特に誰にも腕の事を言わずに、平然と右だけで生活している霊夢に皆腕が駄目になっている事は悟っていたが誰も突っ込まなかった。あえて空気を読まずに魔理沙がその左手意味あるのかと軽口を叩いた所、霊夢は平然と、くっついているだけで動かない飾りなんてぶら下げててもしょうがないからくっつけなくてもよかったわね。などと返した。
霊夢が何故左腕を壊したか、知っているのはここにいるレミリアを含めて一部である。
レミリアの認めた使用人のあの男を直接手を下したのは霊夢であるが、特にレミリアは霊夢と確執を持ちはしなかった。まぁ、左腕を落とされた事に関しては当時ざまぁみろと少し思った程度である。
レミリアは揉め事を後にいちいち引きずりはしない。それを器の大きさと取るか、ドライと取るかは人それぞれだろうが。
あるいは長く生きているが故の割り切りだろうか。
「今日は日差しが強いわね」
「そうね、太陽の畑では向日葵が満開になっていたわ。今頃幽香は機嫌良く花見でもしているかもね」
レミリアの言葉に霊夢は返す。霊夢は一年前から少し雰囲気が変わったかも知れない。以前は孤高であり文字通り地に足がついてないような危うさがあったのだが、少しだけ他人を見るようになった。
ス、とレミリアは立ち上がり窓辺へと歩みよる。直射日光を避け少し前で立ち止まる。外は日差しが眩しく、蝉の声が響いていた。
「彼がこの館に来たのも丁度今日みたいに眩しい日だったわね」
レミリアは久しぶりに一人の男を思い出していた。彼が来た夏の時期と霊夢を見て、一夏館に住み着いていた猫の記憶が呼び起こさた。
その猫が紅魔館から消えた直接の原因の前でレミリアがあの男の事を言ったのは別に当てつけなどではない。
霊夢は何かを言いかけて。やはり口を閉じた。それを察したレミリアが言った。
「気にせず言っていいのよ」
「大した事ではないし……私がいう権利もないわ」
クスリとレミリアは笑う。霊夢はたまに年相応のナイーブさを見せる事があるのが可愛らしいとレミリアは思った。
「何よ?」
「いえ、貴女らしくないわね。権利なんて言い出すなんて、じゃあ私が権利をあげるからいいなさい」
笑ったレミリアにムッとした様子で言った霊夢だったが、レミリアは何処か不遜に切り替えした。
「本当に大した事ではないのよ。それにもう遅い話よ。ただ、あの人とはもう少し話してみたかったと思っただけ」
「そう」
そも自分で殺しておいて何を言っているのか。となどレミリアは言わなかった。
「なら、これからはそんな後悔しないように気をつけることね」
霊夢の後悔は、人間なら誰でも生きている間に一度くらいはする類のものであろう。
人間とは得てして忘れがちなのだ、いつも隣を寄り添うその人とはいつかは別れがくるものだという当たり前の事を。
もしかしたら今日にでもその人は居なくなるかも知れない。あるいは自分が去るのかも知れない。いずれにせよ人はそんな当たり前の可能性から目を背けがちだ。
そうして何時だって大事な事には失ってから気付くのだ。
きっと人より長い生きているレミリアはそれを強く理解しているのだろう。
——そう、日常のどうでもいいことが重要になってくるのだから。
「そうね、そうする事にするわ」
ふっと笑い霊夢はアイスティーを飲み干した。そして立ち上がった。結局クッキーは霊夢が殆ど食べてしまった。
「ご馳走様。帰るわ。咲夜にも宜しくね」
「えぇ、また何時でも来て。貴女との時間も、楽しいから」
レミリアの言葉に霊夢ははいはい、などと軽く受け流して退室した。
レミリアはまた一歩下がった場所から窓の外を眺めた。
結局、あの後。咲夜が川上の安否を確認に出た、確認出来たのは川上がやった反妖怪派の群勢の死体が織りなす地獄絵図。そこに川上の姿は無く。死体も結局見つからなかった。
レミリアは部屋に置いてあるそれに目を向けた。黒い刀掛けに掛かった一口の打刀。これは咲夜が現場近くで見つけた。持ち主の代わりに記念に部屋に飾ってる。洋室に少々そぐわないがレミリアは細かい事は気にしない。
結局死体はその後も見つからず行方知れず。霊夢の証言もあり、死んだのだろうと思われる。死体は野良妖怪が持ち去り食い漁ったのかも知れない。
恐らくないが、まかり間違って生きていたとしてももうあの男がここに戻る事はないだろうとレミリアは理解していた。
行き先も告げず消えた猫はもう戻りはしない。
あの時、八雲紫に十六夜咲夜が見せた殺意。流石のレミリアも彼女が早まった真似をしないか少し懸念したが、彼女は一通り捜索すると川上は居なくなったのだとあっさり割り切り仕事に戻った。流石に少しの間落ち込んでいたが。
そういえば紅魔館には一人変わったメイドがいる。あの男に懐いていて彼から僅かな期間武術を学んでいた幼い体躯のセミロングの黒髪のメイド妖精、名をアニス。
彼女はあの男が居なくなった後も武を志し、人里にある道場を回り一つの道場に入門して紅魔館から通っては稽古を続けている。
道場では幼い妖精が門弟になるなど初めてのことだから道場生の間では可愛らしいマスコットのような扱いになっているとか。
しかし、その道場の師範や一部の高弟がアニスを見る目は違った。きっと見抜いたのであろう。ある剣鬼の遺思。彼女はそれを受け継いでいる事を。
いずれ、季節が回る内に彼の事を思い出す事も少なくなるだろう。
そしてやがてはそんな猫がいた事など、誰からも忘れられるのだろう。
いや、レミリアは思う。まぁ形が残っているからまだしばらくは忘れないかと。
扉をノックする音が聞こえた。レミリアが応じると一人のメイドが入っていた。
紅魔館のメイド長十六夜咲夜であった。
「茶器の方お下げします」
微笑を湛えて言った咲夜にレミリアは呆れたように言った。
「あのねぇ、貴女には育児休暇を出したでしょう」
レミリアの言葉を咲夜は柔らかく笑って受け流す。やはり女は母になると変わるのか雰囲気が変わったようにレミリアは思う。前より顔つきが柔らかくなり、以前はクールさが強かったが今は暖かみを感じさせる。
「私なら時間はいくらでもつくれますから」
「無理すると倒れれるわよ」
咲夜は茶器を片付けながら悠然と笑って返した。
「そんなに柔じゃあありませんわ」
母は強しとはよく言ったものだ。レミリアはお手上げという風に肩を竦めた。
咲夜は茶器を片付けると私室に戻った。彼女の部屋には一口の野太刀が掛けられていた。
ベビーベッドにはまだまだ生まれて間もない娘がぐずっていた。やがて泣き出す。
泣き方からして、空腹のようだ。咲夜は服の前をはだけ、まだ首の座らぬ赤子を抱き上げて授乳する。どうでもいいが、授乳するようになったのに自分の胸は殆ど膨らまなかったなと咲夜は思った。
そうしながら咲夜は感慨に耽る。人々は生誕を祝う。
咲夜は思っていた。生誕とは無条件に祝われるようなものなのかと。
生まれた赤子はどのように育つかはわからないのだ。せっかく生まれても十も生きず死ぬかも知れない。人を害する事しか出来ないかも知れない。人より心が弱く生涯を苦痛にしか感じないかも知れない。そして、咲夜のようにどう足掻いても人並みには生きられぬ鬼子かも知れない。
生んだ母も生誕を喜んでいても、育つにつれ失望や苦しみを感じるかも知れない。そして我が子を愛せなくなるかも知れない。そう、咲夜の親がそうだったように。
そして咲夜は思う。彼も恐らく自分と同じだったのだろう。
だから咲夜は心の中ではずっと思っていた。生誕とは呪うべき事なのかも知れないと。
だが、自分が苦しんで出産を終えた時。レミリアが優しくおめでとうと言ってくれた。美鈴も笑っておめでとうございますと言った。パチュリーはいつもの無感情さで、小悪魔は明るく、フランは爛漫に。皆、おめでとうと言ってくれた。
その時、咲夜は確かに嬉しさを、幸福を感じた。そしてそう感じる事に罪悪も覚えた。
きっとそれが人の業なのだろう。
でも、でもと、咲夜は思う。生まれた命。それが例えどんなに醜悪であっても、欠陥を持っていても、人でなしであろうと、害悪であろうと、誰か一人くらいはその人間を肯定し続ける人がいてもいいではないか。
母親くらいはその人間を認め続けてもいいではないか。
川上という男の遺子。愛する我が子に頬を寄せ、咲夜は目を閉じた。
ご愛読ありがとうございました。