天才少女は苦悩する。「このクラスには、あるべき一人がいないヨ……これが今後、ご先祖様にどんな影響を出すのか。私にも読みきれないネ」
あるべき場所にいない者の名を、桜咲刹那。未来少女の知る歴史では彼女だった存在は、この世界では彼になっていた。
木乃香の護衛のために麻帆良に赴いた刹那は、この世界では男であるがゆえに、原作とは違う護衛の条件を1つ指示されいてーーーやがて彼は、ひじきのはえた大根の恐ろしさを知ることになる。

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一発ネタは勢い勝負だ!




秘密ヒーローミスターウイングが麻帆良女子中等部某A組に名付けされるまで

 

 正直に言えば俺は圧倒されていた。大都市に集う人混みの凄まじさに。

 満員電車という単語くらいは、初等教育を放棄した山篭り修行生活で知識が偏っている自覚はあれど無論知っている。

 しかし前後左右からおしくらまんじゅうされる圧迫感だとか、汗で蒸れた中年男の頭の臭いと隣に立つ女性の香水の混ざった激臭だとかいうやつは、やはり知識と経験の間には途方もない距離があるのだと実感させるには十分な威力を秘めていた。

 防具のなしの胴へ木刀の一撃入れられても吐かない程度には鍛えていたはずの胃から逆流しそうになっているナニカをひたすら堪えていると、ほどなく目印にしていた制服姿の男女が一斉に電車を降りて行く。

 その波にのって寿司詰めの鉄籠から逃れれば、これが酸素の味という奴だろうか。肺に広がっていく空気の清清しさといったら。

 

「……それにしても危ういところだった」

 

 心頭滅却火もまた涼しともいうし、いっそ思う存分深呼吸してやればこの嗅覚テロも少しはマシになるか? などと自暴自棄が頭の中に力強く囁いていた程度には、冷静なふりの下で随分と錯乱していたようだ。

 何たる未熟。お嬢様のいらっしゃる土地に向かうにつけて、我知らず浮かれ気味となっていたのか。長から預かった夕凪に相応しい剣士に至れるように、日々の修練は欠かさぬようにせねば。

 改めて己の心を叱咤し、気分を切り替えるために深く息を吐き、改めて学生服の流れが向かう先へと足を進めた、のだが。

 

「どうしたものかな」

 

 さてはて。校門までは学生服の波を追ってなんとかたどり着けたはいいものの、ここからが問題だった。

 学園長室はどこだ。というか、聞くにも女子中等部の校舎内に作ってあるそうじゃないか。男がほいほい道行く女学生に気軽に案内を頼むにしても悪目立ちしかねない。どうしたものかな。顎を抓んでううむと考え込んでいた時だった。

 

「桜咲君かい?」

 

 名を呼ばれ、咄嗟に距離を取る。穏やかな声だったが、背後を取られていたと気づかせなかった気配の消し方は間違いなく一流の戦士のもの。考えるより先に体が動く。夕凪を握り、前後左右いつでも動けるように構えて―――すぐに構えをとき、夕凪を数珠にもどして頭を下げた。

 実際に会ったことこそないが、裏の世界に住む人間なら一度は写真で見たことのある有名な顔がそこにある。

 

「無作法をお見せいたしました。ご高名はかねがね。“紅き翼”の高畑さんとお見受けいたします。関西呪術協会から参りました桜咲刹那です。わざわざお迎えに頂いたというのに、先ほどは申し訳ありません」

「ははは、気にしないでくれ。むしろそんなに固くなられるとこちらまで緊張してしまう。楽にしてくれて良いよ」

「お心遣い、ありがたく」

 

 口ではそう言っても、簡単に気安い口調に改めるなぞできるわけがない。なにせ相手は長と共にかつて戦場を駆け巡った英雄達の一人なのだ。神鳴流を名乗ることを許されたとはいえ、まだまだ未熟な若造には守るべき区分というものがある。

 硬さの抜けない俺の表情筋に、高畑さんは少し眉を下げて笑われた。多少なりとも困らせてしまっているのは申し訳ないが、残念ながら場面に合わせて性根を装えるような器用さは持ち合わせていない。

 

「うーん、詠春さんから聞いていたとおり真面目な子みたいだね。これなら木乃香君の護衛もますます安心だ。さて、ではさっそくだが学園長室に向かおうか」

 

 リップサービスに対して謙遜するよりは過不足なく喜んだほうが、相手の気もほぐれる。師範からは対人ノウハウとしてそう聞いてはいたが、しかしここで馬鹿正直に喜ぶのも頂けない。万が一でも、過信の過ぎる若輩よと西へ返されては台無しである。

 だから諾とも否とも言わず、ただ案内をしてもらうことに対して頭をさげることにした。山篭り修行生活のほうが長い身としては善し悪しの判断はつかぬものの、いまはひとまず致命でさえなければ良い。

 背を向けて歩き出す彼の後を追う。それにしても、体の軸が一切ぶれない歩き方だ。後ろから間近で見るだけでも稽古になる。ありがたく見取り稽古をさせていただこう。

 なんて思っていれば、学園長室につくのはあっと言う間だった。

 

「失礼します。学園長、桜咲君を連れてまいりました」

「入ってくれ。……おお、君が木乃香の。よう参られた」

「……は、ご紹介に預かりました、桜咲刹那と申します。長から紹介状を預かっておりますので、これを」

 

 危うかった。物理法則を無視した謎の奇形成長をしておられた頭部の形状についうっかり無遠慮な感想が口をついて飛び出してしまわなかったのは、まさに幸い。

 ここにくるまでに何度も頭の中で繰り返したとおり、長から預かった手紙を渡すことができた。

 

「うむ、確かに。木乃香のために良く来てくれたのう、刹那君。関東は君を歓迎しよう。魔法関係者への顔見せは早い方が良いじゃろうし今日の夜にしておくとして……他に、刹那君からは何かないかのう?」

「では一つお願いしたいことが」

「ほう、何かの?」

「これを使う許可を頂きたいのです」

 

 懐から取り出した一枚の呪符を差し出す。学園長はあごひげを軽くなでながら呪符に書かれた内容を解読し始め―――ほどなく、びきりと音がなりそうなほど分かりやすく凍りついた。

 

「せ、刹那君や。一体何のつもりで」

「西の内部事情につきましては、末端の自分よりも学園長殿のほうがご存知と存じます」

「いや、確かに、しかし……うぅむ」

「学園長?」

 

 呪符を見つめて唸りだした学園長へ、高畑さんが訝しげな声をかけている。

 それにしても、腹黒狸だ強欲ジジイだ毒善者だと酷い言われようだったが、学園長殿は随分と度量の広いお方のようだった。少なくとも、俺にあの呪符を渡してきた西の連中に比べれば月と猫の額くらいには差がある。

 しばらく呪符をながめていたが、学園長がゆっくりと顔をあげる。なんとなく、深い皺の影になってよく見えない瞳がきらりと光った気がして、咄嗟に背筋を伸ばす。

 

「……さて、高畑君への説明と共に儂の読みの確認といこうかのぅ。なにか違っていることがあれば都度訂正してくれるかのう?」

「承知いたしました」

「ふむ。ではまず、そうさな。君が木乃香の護衛に選ばれた理由は大まかに言えば二つ。一つは、幼少時に親交があり親しかったので裏切る心配がすくなかったこと。二つ目は、協会内の派閥で中立であったこと。――そしてこの二つが、君の護衛に反対をする者が出た理由でもあり、結果がこの呪符と言ったところか」

「相違ありません」

 

 さすがというべきか、特に訂正する箇所は見当たらない。

 俺が中立だというのは中立派の家に属しているというわけではなく、単に後ろ盾がないだけである。神鳴流も一枚岩というわけでもない。師範やご指導くださった幾人かはハーフだからと蔑まずにいてくださったが、それは少数派だというのは厳然たる事実だ。

 今回の事は、いわば長からじきじきに派遣される護衛、基本的には接触を禁止されている西の長の一人娘に、正面から堂々と近付くまたとない機会である。

 自分の派閥が選ばれれば最善。敵対派閥の者が選ばれれば最悪。

 だから、俺なのだ。

 

「婿殿は穏健派であるが、協会内部で多いのは強硬派じゃ。どちらを選んでもとうがたつ。バランスを考えた上での最悪ではない善次として、刹那君を送るという婿殿の判断が通った。しかし、少ぉし状況が違うが婿殿と娘が知り合ったときの焼き直しに似ておるからのぉ……備えとして、この呪符をだしてきおったと、そういう所じゃろうて」

「お見事。訂正する箇所は特段ございません。つきましては学園長、これを使って自分がお嬢さまの護衛についたという事実を、公文書として残しておいて欲しいのです」

「いや、しかしのぉ」

「ご迷惑をおかけしてしまいますが、どうかお願い申し上げます」

「ううむ」

「刹那君、その呪符の効果はなんなんだい?」

 

 高畑さんの疑問の声に、肝心の呪符の中身を言っていなかったことに今さら気づいた。

 まあ、難しいものでも高価なものでもない。

 ありていに言ってしまえば、一行で説明できるありふれた呪符だ。

 

「幻術符です。世の女性がひじきの生えた大根に見えるという」

 

 俺の説明に、高畑さんはぱかりと口をあけて固まってしまわれた。対面してから今まで、決して緩むことの無かった警戒があっけなく霧散している。

 今なら俺ごときの不意打ちでも、かの英雄に一発くらいは入れられるかもしれない。まあ、その後反射的な一発で簡単に意識を刈り取られてしまうだろうけれど。

 

「………………は?」

「限定対象を個人にまで絞るには、少々術式の難易度が高くなりかねないので。術式対象が広範囲すぎますが、これが限界なのです」

「まあ、身分違いのロマンスが始まらないための手段としては秀逸かもしれんがのう……なにせ相手がひじきの生えた大根じゃし。いやしかし、東を預かるものとしても、学園長としても、このような術を刹那君のような若者にかけるのは承服しかねるぞい。どう考えても情操教育に悪影響じゃろうて」

「ですが、これを無視すればいずれは下衆な勘繰りと詐噂でお嬢様の経歴にありもしない瑕疵をつけようとするやからが出かねません!」

 

 分が悪いことは明白だった。

 どれだけ本人たっての希望とはいえ、新しく東へきた術者に恒常的に幻術をかけることを黙認する、という事実ができてしまうことは決して歓迎できることではないのだから。

 俺は弁が立つほうではないから、熱意と勢いで押すしかない。

 拳を握ってなにかと力説したのだが、しかしお二人は顔を一度見合わせアイコンタクトをとると、やはり遠回しに考え直すようにと言い含めてきた。

 

「あー、刹那君。そもそも、女性全てがひじきの生えた大根にしか見えない状態で、木乃香君とその他の女性を見分けられるのかい?」

「うむ、高畑君の言うとおり。護衛対象が認識できぬでは無意味じゃのう。その辺りは考えておるのか?」

「無論、ご安心を。未熟なりとも神鳴流と名乗ることを許される程度は自負しております。お嬢さまの今の気配を覚えなおせば見分けはつくかと」

「なるほどのぅ、いやしかしここはマンモス校じゃからの。気配で見分けるなんぞ海の中に一滴零したワインを抽出すべしと、そんなレベルではないかね」

「そうだね、とてもではないが現実的ではない。そもそも、護衛というのは体のみではなく、心も守れなきゃ意味がない。顔色で異常を察するっていうことも、案外護衛に必要なことなんじゃないかな」

 

 ああ、これは結託しているな、と。あの呪符を使う気は無いのだと嫌でもわかった。

 心配してくれているのは分かっている。ハーフ相手にこんなにも親身になってくれているなんて、感謝しても仕切れない。

 しかし。

 俺が安穏へと逃げたがために、お嬢さまが理不尽に害されるなどあってはならぬことだ。

 我が身可愛さにお嬢さまの瑕疵になるやもしれぬ可能性を見逃すということを、誰が許しても俺自身が決して許せるはずがない。

 だから。

 

「現実的に可能かどうかではありません、やらなければならぬことをやるまでです! 御免!」

 

 懐からもう一枚の呪符を取り出し、己の額に当てて気を込める。

 

「ぬ、予備か!」

「よせ、刹那君!」

 

 既に術式は呪符に綴られている。そこまで強い術でもないので、剣術の補佐程度にしか呪符を使えぬ身でも無詠唱で発動できる。

 よって、一秒。

 それだけあれば十分だった。

 高畑さんにもぎ取った呪符は既に無意味。

 視覚に干渉する術式なので網膜がチリチリと焼け付くように熱いが、それもすぐに収まっていく。

 閉じていた瞼を軽く押さえて、目を開けると―――

 

「まったく、無茶をする」

「やれやれ、どうしたものかのぅ」

 

 何か言っているようだが上手く聞き取れないことに疑問を持つのはまず後回しにしておくとして。

 スーツを着たのと古式ゆかしい服を着た、ひじきの生えた大根がいらっしゃるのは何故なのだろう。

 まさかお二人が実は女性だったとでも? ありえぬ、ならばこれは術式の暴走か。

 タコ足のような触手を四本からだから突き出して、そのうちの一本に使用済みの呪符が、というか体(?)中に納豆のような糸が引いて身動きするたびにネチャネチャと嫌な音がするし臭いひどいしヤバイこれは酷い嘔吐物のような刺激臭だ何故だ視覚幻術でしかないのにどうして臭いとかそれどころじゃ無理吐く肺がねじれれれれれれ

 

「なNでこnなUああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!?????????」

「刹那君!?」

 

 耐え切れぬ。臭いから逃げようと学園長室の扉を開くとさらに強くなるとはこれいかに。

 もはや日本語すら忘れて喉も裂けよいっそ殺してくれとさえ心のどこかで願いながら叫び、俺は背中の羽をさらして臭いの届かぬ空へと駆けたのだった。

 

 

***

 

 

 あまりにも唐突だった。奇声を上げて飛び出した刹那を咄嗟に止められず、羽を生やして空へと逃げたその背を見送り、高畑は小さく溜息を吐く。

 

「学園長、彼は」

「うむ。予備の呪符、か。わざとか偶然か……いや、わざとじゃろうのぉ。儂らが止めて、使うのがそれになると読んでおいて、幻術効果に割り増しがかかっておる」

 

 男女問わず人間が化け物に見えるのはともかく、嗅覚と聴覚にも何がしか干渉がかかるようになっており、ダメ押しに精神に負荷をかけて不安定にさせるようにしているのが呪符から読みとれた。その道に精通した術者や近右衛門ならともかく、補助程度にしか覚えていない刹那では一枚目との違いを見破れない程度には、術式が巧妙だ。

 おおむね詠春と、ついでに刹那が所属する神鳴流にも、言いがかりをつけようと画策したのだろう。足の引っ張り合いに全力で、無駄に高度な術を使用する底意地の悪さに、近右衛門は頭痛を堪えるように頭を抑えた。

 

「手酷い幻覚を見せられているようじゃし、早く解いてやりたいんじゃがのぉ」

「難しいのですか?」

「ふぅむ、高畑君は『蛙の王子様』を知っておるかね?」

「は? 一応は知ってはいますが」

「他にも『美女と野獣』、ああ『オズの魔法使い』のカカシも一応幻術派生の呪い系統かのぅ」

 

 高畑は元々魔法世界出身だ。そのため旧世界の御伽噺というものには疎かったのだが、明日菜を引き取ってからせっせと絵本を土産にしていた時期がある。よって、近右衛門の挙げていく御伽噺にとある共通項があるのに気づけてしまった。

 まさか、と思いながら皺の深い顔を見つめると、長い顎鬚を撫でながら近右衛門はうむと重々しく頷く。

 

「古今東西、幻術や呪いに対する一番の解呪方法はキスじゃ。それも同情では無理でのう、つまりは愛じゃよ、愛」

 

 長すぎる眉毛のせいで上手いのか下手なのか判別のつきづらいウインクをして、近右衛門は携帯電話を取り出した。

 そして孫娘との会話が終わった一分後。

 蹴破るようにして学園長室の扉が開け放たれることになる。

 

「おじいちゃんー! せっちゃんが秘密結社に攫われて催眠術かけられて人が野菜お化けにみえるようになって泣きながらこっちに逃げてきたけどキスで治るかもとかちょっとわりとだいぶ意味わからへんえーーーー!?」

 

 

***

 

 

 空に月が昇り、街灯が星屑のように満ちる頃。外出している人の数も随分減ったのだろう、嘔吐感を絶えず刺激する臭いも大分薄らいだ。背の高いマンションの屋上に、ふらつきながら着地する。もはや体を起こす気も、羽を消す余裕もなく、そのままごろりと灰色の床材の上に横になった。

 羽の付け根が酷く痛い。筋肉痛だろう。こんなにも長い間滞空していたのだから当たり前だ。これが明日も明後日も続くのだとしたら、たまったものではない―――

 

「いや、そうじゃないだろう……」

 

 失敗した。とんでもなく無様な失敗だ。

 よりにもよって就任挨拶を中座させ、おまけに止められていた呪符を己に使って、この有様。情けない。心底、情けない。

 なにより申し訳が立たぬ。今までこんなものに目をかけていただいた師範に、そしてお嬢さまの護衛にと選んでくれて、愛刀の夕凪まで預けてくださった長に。

 これ以上の無様を晒して西の恥を晒さぬということを重んじるならば、謝罪の手紙を書いて式にでも預けて提出するべきだろう。本来ならば己の手で渡すべきだが、呪符の効果で人間の居る室内に入ることは難しいのでこれが最善となる。

 分かっている、とるべき手段など。

 それでも。

 

「お嬢さま、」

 

 貴女を守る。

 強くなる。

 誓いを胸に剣を握った。

 たとえ直接会話することができなくとも、幻術で今の姿を見ることが叶わなくとも、無様と恥をさらして罵倒と失望を一身に受けることになっても―――それでも。

 離れたくないのだ。

 彼女を守れぬこの身になんの価値がある?

 

「これでまだ護衛を願い出るなら、相応の覚悟とけじめは必要か……」

 

 視覚は確かに気持ち悪いが耐えられないほどではなく、要は嗅覚が問題なのだ。

 ならば、覚悟とけじめをつけるならこれが一番である。

 俺は手に取った夕凪の柄を右手で握り、峰を支えるように左手を添え、改めて覚悟を決めるために深く息を吸う。そして、鼻のふくらみをきれいさっぱり削ぎ落とそうとして、

 

「待って、せっちゃ……!」

「引け、近衛!」

 

 花火もないのに火薬の弾ける音と臭いが、俺の手元から夕凪を奪う。

 慌てて体を起こすと、屋上の入り口付近にわらわらと集うひじきの生えた大根集団がいた。なにやら蛸足触手をうにょうにょと動かすたびに糸を引く音がねちゃねちゃと重なって吐き気を催す二重奏をかなでていらっしゃりやがって勝手に頬が引き攣る。

 それにつけても、こんなに近付かれても気づけぬとは一生の不覚。臭いで気づけそうなものだが、ここが屋上でビル風も強いせいで臭いが篭らないのだろうか。その辺りを調整すれば、影ながらお嬢さまを護衛するめどが立つかもしれない、なんて考えるのは後回しだ。今は、ひとまず。

 反射的にビルを飛び移ろうと立ち上がった瞬間、左足に痛みが走った。かと思えば、まるで気を急激に吸い取られたかのように身体中の感覚が抜けていく。耐え切れずに膝をついて、目だけを既に痛みも消えた足に向けると、どうにも注射のようなものが刺さっていた。

 即効性の麻痺もしくは麻酔弾を打たれたらしい。それも、しっかりと太い血管にささるように狙ってだ。どこの誰かは分からないが、いい腕じゃないかくそったれ。

 

「良き腕でござるな。龍宮殿、と言ったか? どうだ一度手合わせでも」

「私も興味があるが遠慮しておこう。見てのとおりなにかと金のかかる装備でね」

(クラスに見当たらないからどうしたのかと思えば、まさか刹那サンが男だったとハ。どうやら私が知ってる軸とはかなりズレてしまっているようネ。このズレが私の計画にどれだけ影響を与えるカ、要観察……というかこれ京都……パクティ……どうなるヨ!?)

―――近衛さんには天使の幼馴染がいたのですか。すごいですね。

「いやありえねえだろなんだよこれ呑気すぎるだろこいつら頭おかしいだろっていうか入学初日から私の日常崩壊させるんじゃねえよもうこんなクラス行事絶対出ねぇなんだよ羽ってテレビ局が泣いて喜ぶネタだぞ人間卒業してるじゃねえかキメラかよ錬金術の被害者なのかよバレたら裏組織が知った人間殺しまわりにくるのかよもうやだ帰りたい」

「悪い人に催眠術……人攫い、改造? ショッカー? 仮面ライダーはノンフィクションだったアル? さすが日本アル、実はガンダムも忍者も隠してアルね! そこの羽の人、是非とも一戦申し込みたいアル!」

「困る。このネタは困る。ショッカーみたいなのが本当にいるんだとしたら、報道して下手うったら麻帆良狙われるわよね? まさかニューヨークで起きたテロとか何か関連がある? うーん、私一人が痛い目にあうならともかくそのレベルのネタはさすがに……いやでも万が一ショッカーの存在に誰も気づいて無かったら……ぐぬぬどうすれば!」

 

 ひじきの生えた大根たちが何ごとか騒いでいる。今まで気づかなかったが、どうやら聴覚にも何がしか幻術の影響があったらしい。日本語を話しているのだろうが、上手く聞き取れない。

 そういえば今更だが俺は今羽を出したままで、一般人ならまず絶対に本物か確かめようと近付くか触ってくるかするはずだ。それがない、ということは……ここに大量にいるひじきの生えた大根は、学園長が探索に当てた魔法先生たちか。

 ならば麻酔射撃がここまで的確だったのも頷けるし、近付くと臭いに暴れて俺が逃げるから、と不用意に近付いてこないのも納得だ。もしかして騒いでいるのは、俺に何かを伝えようとしているのかもしれない。

 しかし弱ったな。麻酔弾を撃たれて大分薬が回ってきたせいなのか、まっとうな言葉が上手く出せないのだ。聴覚にも異常があってそちらの言葉が聞き取れないことを、どうやって伝えればよいものか。

 

「ほら木乃香、アンタが探してって言ってた幼馴染みつけたけどこれからどうする……木乃香? どうしたの?」

「明日菜……せっちゃんて男の子やったん?」

「いやなんで私に聞くのよ。あんたの幼馴染でしょ」

「ラブ臭キター!? ちょっと近衛さんそこのところ詳しグヘァ!」

「あなたはすこし落ち着くです。近衛さん、発言の意図を」

「あの、だって、小さい頃は髪長かったし、お揃いで巫女さん服着たときも似合ってたし、っていうかせっちゃんほんまかわえかったんよ、手ぇ握ったらもじもじしてへにゃって笑うのかわえかったし、拗ねた時に拗ね返したら半泣きになって謝ってくるのとかかわえかったし、あと一緒にお昼寝した時トイレから帰ってきたら隅っこに膝抱えて泣きかけだったのもかわえかったし、あとウチを犬から守ってくれたと気に涙目だったのもかわえかっ」

「ねえ木乃香気づいてる? 可愛い思い出の半分以上が泣き顔なんだけど……?」

「小さい頃は男の娘! しかして今は謎の組織に改造されて羽が生えるようになった戦闘天使! いやぁいいねぇ、こどもの頃は長髪で今は短髪ね、おっけー分かってるじゃない。やたら目つき悪いのは改造されたばっかで野良犬モードなのね? これからなつかしの幼馴染に癒されて穏やかになるのね分かってるじゃない。見たところ細身だけどあれは筋肉もついてるしお姫様だっこ余裕なのね分かってるじゃない! 悪の組織さんまじGJ! 今年の夏はノマカプライダーネタでいくます! ベーコンレタスももちろん描くけどな!!!!」

「あ、あの、早乙女さん、落ち着いて……」

「宮崎さん、目を合わせちゃだめです。こういうのは一人で燃え上がって満足したら収まるパターンです」

 

 現状で可能な意思疎通の方法といえば、指を噛み切って床に血文字を書くという方法が最適か。

 早速用意しようとして―――風向きが変わった。

 正確には、変わっていたのだと今さら気づいて、俺はそれを認識してしまった。

 

「が……ァ」

 

 今まで届かなかった幻術の刺激臭が一斉にこちらに流れてくる。学園長室で二人分だけでもアレだったのに、室外とはいえ目測三十人近い集団の臭気だ。

 わんわんと遠く耳鳴りがする。

 夜と太陽がグルグル高速回転するように視界が明滅し始める。

 過ぎた臭気で目が焼けるように痛んで生理的な涙が勝手に滲んだ。

 今すぐにでも此処からにげてしまいたくとも、足は麻痺して動かない。

 限界を越えてもなお止まらぬ刺激を他の刺激で誤魔化そうとした体の防衛反応だろう、俺は獣のような唸り声をあげながら、気づけばコンクリートに向かって本気で頭を打ちつけていた。

 

「ちょっ、何!? なんかやばそうなんだけど!?」

「待て神楽坂、私が押さえる! 長瀬、そっちを!」

「心得た! 皆は少し退くでござる!」

 

 止めろ、肩を押さえられ、近付くな、触るな、臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い!

 

「ちっ……誰かもう一人、羽を押さえてくれ!」

「任せるアル!」

「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

「落ち着く出ござる! と言っても、聞こえぬか……おっと」

「もごっ、羽、馬鹿力、ぼっふ、ぐんぬううう負けないアルぅぅぅ!」

「なんなのよこれぇ! ちょっとそこのさっきハッスルしてた人、こういう場合の宥め方のお約束パターンってないの!?」

「はぇあ!? あたしィ!? えっ、えーっと、ヒロインが抱きしめて暴走状態が落ち着いたら萌えるし燃えるよね!」

「今アンタの趣味を聞いてるんじゃないわよおおおおお!」

「お約束で王道って言ったらそれくらいしか思いつかないわよぉぉぉぉ!」

「ああもう、皆さん落ち着くです! 誰か足に自信がある人は? まず先生を呼んでくるべき―――」

「せっちゃん!」

「あっ、木乃香!?」

 

 何かに頬を持ち上げられた。

 臭気が一層酷くなる。もはやいつ心臓発作で死んでもおかしくは無い。暴れる気力すら尽き果てて、視界は無意味に黒く塗りつぶされている。辛うじて、空に浮かぶ月の明暗で何かが正面にいることだけがぼんやりと分かった。

 鼻先に何かさらさらとしたものが触れた。

 そうして、ほどなく、柔らかな―――

 

「……せっちゃん?」

 

 懐かしい声が聞こえる。

 思い出の中より幾分か大人びた少女が、泣きそうな目で俺の顔を覗き込んでいる。

 どうやらあまりの刺激臭に気絶してしまったらしい。あれほど凄まじい臭いから解放されて、日本語が日本語だと認識できて、お嬢さまがお嬢さまの形として見えているのがその証拠だ。

 

「ウチが誰か分かる?」

 

 これが、夢だというのなら。

 許されるだろうか。

 もはや二度と音にすることは叶わぬと覚悟を決めた名前を、唇に載せても。

 

「この、ちゃ……」

 

 許されるだろうか。

 これから直接交わすこともないと胸に秘めた誓いを、貴女に捧げることも。

 

「泣かな……守……」

 

 腕が持ち上がらない。

 泥鉄が詰っているように重い。

 情けないじゃないか。

 瞬きをするたびにぽろぽろと零れ落ちる貴女の涙を拭うことさえできやしないなんて。

 

「せっちゃんのあほぉ。誰のせいで、泣いて……」

 

 ああ。

 なんと愚かで、恥知らずで、下劣な。

 俺は。

 俺は、貴女が。

 俺のせいで―――俺のために、泣いてくれることが。

 

「…………」

 

 この胸中の震えは、あってはならぬものだ。

 この場限りの、この夢限り。

 目覚めれば今一度鍛えなおそう。

 貴女の喜び以外の涙の理由を、何もかも薙ぎ払えるような、貴女の刀になるために。

 

 最後に一度だけ、涙を流すお嬢さまの姿を目に焼き付けて目を閉じる。

 今日一日の疲労が一気に押し寄せてきて、意識はあっと言う間にどこか遠くへ落ちていった。

 

 




 多分この後は麻帆良女子中等部の某クラスに『街と愛する人を守るために悪の結社と戦う秘密ヒーローミスターウイング』の存在が暗黙の了解とされて、やたらと影から護衛対象を見守ろうとするヒーローを見かけたら容赦なくヒロインの前に蹴飛ばそう同盟が某クラスにて組まれて、「長になんとお詫び申し上げれば」と頭を抱える秘密ヒーローと、そんなヒーローをにこにこ見守るヒロインの姿が見られることになるでしょう。

 魔法隠匿が下手な子ども先生が着たら、初日に羽が三十人バレしてるもんだから偉そうに注意することもできずにせっせ黙々とフォローに回ることになるんですね間違いない。このせっちゃんはきっと胃薬が手放せませんね……ガンバッテ……(目を逸らす)

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