あの怒濤のような、相沢さんのご両親の突然の帰国から早数週間。
悟さんと夏奈さん、そして容華ちゃんは、出産に関する諸手続を済ませると、すぐに渡米してしまいました。
悟さんのお仕事の関係で、それ程長い休暇は取れなかったとか。
できれば悟さんたちを北の街にすむ皆さんにも紹介したかったのですが、残念ながらそれはかないませんでした。
悟さんたちを見て、きっと驚くであろう真琴たちを想像すると、なんとも楽しみであったのですが、いやはや残念です。
そんな悪戯心を宥めつつ、日常はいつものように過ぎ去って行きます。
「美汐ちゃん、買物に行きたいんだけど、付き合ってくれない?」
休講で家にいた私に、私同様たまたま休講が重なった香里さんが尋ねました。
もちろん、特にすることもなかった私は、香里さんの提案に素直に首を縦に振りました。
「今日は時間もあるし、ちょっと遠出をしようかと思うんだけど、いい?」
「遠出ですか?」
「そう。ちょっと隣町までね。ほら、これ見て」
そう言って香里さんが広げたのは、今日の朝刊に折り込まれていた広告の一枚。
それは隣町にある、郊外型大型店舗のスーパーの広告。そして紙面に踊る『特売』の二文字。
なるほど。確かに特売に相応しい、お値打ちな商品がたくさん記載されています。
「ですが、ここは電車で行くにはちょっと不便過ぎませんか?」
「あら、電車で行くなんて、私は一言も言ってないわよ?」
と、香里さんはにやりと笑いました。
◆ ◆ ◆
外出の準備を調えた私は、同様に外出準備済みの香里さんに連れられて、相沢家の横手にあるガレージへとやって来ました。
「あの、香里さん? 確かこのガレージには何もないはずでは……?」
以前、私がこの家に居候することが決まった時、相沢さんに案内されてこのガレージに来たことがあります。
その時には、このガレージの中には車は一台もなく、片隅に申し訳程度に相沢さんがこちらの高校にいた時に使っていたという、ビッグスクーターがぽつんと置かれていました。後は使わなくなった日用品などが積み上げられていただけ。
「ええ、そうよ。確かにこの前までは……ね」
そう言って、再びにやりと笑う香里さん。
そして香里さんは、黙ってガレージのシャッターを押し上げます。
「あ……」
空のはずのガレージ。ですがそのガレージには、真新しい車が二台も止められていました。
「この車は……」
私は二台の車の内、真紅のスポーツカータイプの車へと視線を向ける。
なぜなら、その真紅のスポーツカーには見覚えがあったからです。
「ええ、そうよ。あなたが想像している通り」
してやったりとばかりの香里さん。ああ、なんとなく、最近の香里さんは相沢さんの影響を受けているような気がします。
ですが、今は目の前の車の方へと意識を向けましょう。
「マツダRX-8。以前、大学までお義父さんが来た時、乗っていた車よ」
あの大学前で悟さんが香里さんを乗せた車。確かにそれは、今目の前に止まっているこの真紅のスポーツカーに間違いありませんでした。
◆ ◆ ◆
「お義父さんはね、帰国間近に偶々テレビで見たこのRX-8に一目惚れしたそうよ」
「へ?」
「で、そのまま顔なじみのディーラーへ電話して、帰国した際に即金で買うから諸々の準備をしておくように頼んだんですって」
「で、では、この車はアメリカで使っていた車を持って来たのではなく、帰国した時にわざわざ買った車なんですか?」
「そういうこと。しかも、買ったはいいものの結局はそのまま置いてっちゃったのよ? 全く、信じられないわよ。流石は祐一の父親ね。行動に予測がまるでつかないわ」
スポーツカー一台を衝動買い。しかも日本に置いてきぼりに……。確かに普通なら信じられません。ですが悟さんは誰あろう相沢祐一の実の父親。そう考えると、なぜだか不思議でも何でもないような気がしてきました。
ですが、この車一体幾らぐらいでしょう? 私は車に関しては全くと言っていいほど詳しくありません。ですが、目の前のスポーツカーが決して安くはないのは分かります。
後に私は相沢さんに聞き、このスポーツカーが三百万ほどはすると知り、改めて驚くのですがそれはまた別の話。
しかし、三百万もする車をぽんと衝動買いするとは、本当に信じられない人です。
「では、もう一台の車は……」
私は改めてもう一台の車へと視線を向けました。
こちらはいかにもなRX-8とは違い、小型でかわいい感じのピンクの車。いわゆる軽自動車というものでしょう。
「そっちはスズキのMRワゴン。お義母さんが買った車よ」
はい? 今、香里さんはお義母さんが買った車、と言いませんでしたか?
お義母さんが『買った』? お義母さんが『乗っていた』ではなく?
「も……もしかしてこっちの車も……」
「ええ、そう。今あなたが考えている通りよ」
額に人差し指を当て、はあっと溜め息を吐く香里さん。
「『悟くんが買ったなら私も買うっ!』って言い出したらしくてね……しかもお義母さんも買いはしたものの、結局こっちに置いてっちゃうし……」
更に、夏奈さんが車を置いていった理由というのが、「私、運転苦手だし。てへっ」というものだったとか……。
「運転が苦手ならどうして買うの? 買う必要ないじゃないっ!」
私も香里さんの言われることには、激しく同意します。
「……まあ、いくら身内とはいえ、お義父さんたちの買物にまで介入できないけど。納得いかないのも事実なのよ」
どうやら……というか当然というか、代金は全て悟さんたちが支払ったようです。
しかも、毎年の保険料や税金も悟さんたち持ちといいます。これでは確かにいくら身内の香里さんとはいえ、何も言えないでしょう。買物自体は悟さんたちの自由なのですから。
「でも、そのお陰でこうして遠くまで買物に行けるんだから、これ以上文句は言わないことにするわ。ま、燃料代だけは私たち持ちだけど」
そう苦笑する香里さんに、私もそうですねと同意して、改めて買物に出かけることにします。
しかし、私が軽自動車の助手席側へと足を向けると、何故か香里さんから待ったがかかりました。
私は運転免許は持っていません。ですから、運転は香里さんに任せることになります。もちろんそのことは香里さんもご承知の筈ですが。はて?
「そっちじゃないわよ、美汐ちゃん」
車のキーを指先に引っかけて回しながら、香里さんは空いた方の手である方向を指差します。
香里さんの指が差し示す先。そこには真紅のスポーツカーが鎮座ましましていました。
◆ ◆ ◆
「え?」
思わずきょとんとする私に、香里さんは不敵に微笑みかけます。
「軽自動車なんて、女子供の運転するものよ」
いえ、香里さん。あなたは「子供」はともかく間違いなく「女」なんですが。
しかし、困惑する私をよそに、香里さんは確かRX-8という名前のスポーツカーの運転席に、颯爽とその身を滑り込ませました。
仕方なく、私もスポーツカーの助手席に腰を落ち着けます。
しかし何と言うか。そこは車の運転席というよりは、まるで宇宙船か何かのコクピットのようです。いえ、私が車について無知だということももちろんあるでしょうけど。
「そういえば、美汐ちゃんは免許はどうするの?」
シートベルトを締めながら、香里さんが尋ねました。
「免許は取るつもりです。大学が夏休みに入ったら、自動車教習所へ通う予定でいます」
「その方がいいわね。将来、車の免許ぐらいは絶対に必要になるでしょうから」
香里さんの言葉通り、今の日本では自動車免許は必須と言ってもいいでしょう。ですから、私も大学にあった近場の教習所のパンフレットを、一応貰ってきていたりします。
「もし免許を取れたら、MRワゴンの方を使わっていいわよ。車ってのはほったらかしにしておくといろいろと都合が悪いしね」
香里さんは私がシートベルトを締めたのを確認すると、慣れた様子で手足を動かします。
「じゃあ、出発するわよ?」
キーを捻ってエンジンを始動させ、サイドブレーキを外してシフトを一速に放り込むと、素早く半クラッチを噛ませてクラッチを戻す。
途端、ぎゃりりりりりりっというホイルスピンの音と共に、がくんと私の身体にのしかかってくる慣性。
「ひゅぴっ!?」
「しゃべると舌、噛むわよ?」
香里さんはそう忠告してくれましたが、私はそれどころではありません。
ハンドルが右へ左へと切られる度、私の身体も左右へと激しく揺れる。
もう必死にシートにしがみ付くしか、私にできることはありません。
そしてこの時、可及的速やかに免許を取ることを心に誓いました。
でなければ、私は買物の度にシェイカーに入れられたカクテルの気分を味合わなければなりません。
ぶっちゃけ、もう二度と香里さんが運転する車には乗りたくないです。
これにてストックが尽きました。
お話としてはあと一話。エピローグを加えて完結します。
とはいえ、そのエピローグはこれから書くわけですが。
さて、作中に出てきたRX-8。この作品を書いていた当時、自分が欲しかった車です。そのRX-8も話によると生産が中止になったとか。いやはや、時の流れを感じてしまいます。
何はともあれ、あと一話。
もう少しだけおつきあいください。
では。