相沢さん家の居候   作:ムク文鳥

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09-父親の書斎

 相沢さんが書斎に閉じ篭って数日。

 あ、いえ、別に相沢さんと香里さんが喧嘩したとか、私が洗面所で翌日の洗濯の準備をしている時に、お風呂に入っていた相沢さんが出て来て彼の全てを見てしまったりとか、私が帰宅してリビングに入ると、全裸の相沢さんと香里さんが抱き合ってナニの真っ最中だったとか、夜中に何気なくお手洗いに行くと、台所に電気がついていて、そこから香里さんの悩ましい声が聞こえてきたり……

 

 ……何だか、私の方が閉じ篭りたくなってきたのは気のせいでしょうか?

 

 ここは相沢さんの自宅で、私は居候の身です。相沢さんとその奥さんである香里さんが、どこで何をしようと自由ですし、居候の私がとやかく言える立場ではないのは分かりきっていますが、せめてナニぐらい寝室でしてもらえないでしょうか?

 

 ──話が逸れました。どうして相沢さんが書斎に閉じ篭っているか、という話でした。

 別に大した理由はありません。大学のレポートを仕上げるために、相沢さんはお父さんの書斎に閉じ篭っているのです。何でも、お父さんの書斎の方が集中してレポートがはかどるからだそうですが。

 そういえば、今まで聞いたことありませんでしたが、相沢さんのお父さんってどんなお仕事をなさっているんでしょう?

 

  ◆   ◆   ◆

 

「ねえ、美汐ちゃん。祐一のところにコーヒー持っていってくれない?」

 

 台所から香里さんの声がします。その声に応えて台所に顔を出すと、香里さんが淹れたばかりのコーヒーを準備していました。

 

「ごめんね、美汐ちゃん。悪いけどお願いできる?」

「私は構いませんが、私があの書斎に入ってもいいのですか? 以前、相沢さんから特別の用がない限り、あの部屋には入るなと言われたのですが? 何でもかなり貴重なものがあるとかで……」

「ええ……まあね。確かに貴重といえば貴重かも。でも、私はあれがどうしても苦手なのよ」

 

 香里さんが苦虫を噛みつぶしたような表情で零します。

 

「あの書斎には、お義父様のお仕事の資料とか、そっち関係の貴重なものがたくさんあって、私もおいそれとはあの部屋には入らないようにしてるのよ」

「相沢さんのお父さんって、どんなお仕事をなさっているんですか?」

「学者よ」

「学者ぁっ!?」

 

 思わず声を上げてしまいました。こう言っては失礼ですが、『相沢さんのお父さん』というイメージからはかなり外れた職業だったので。

 戸惑っている私を見て、香里さんはくすくすと笑っています。

 

「その気持ちは解るわ。私もお義父様の職業を初めて聞いたときは同じ心境だったもの」

 

 相沢さんを知る人物なら、ほとんどの人が同じ心境に陥るのではないでしょうか?

 

「ともかく、コーヒーお願いね」

「分かりました」

 

 私はそう返事をすると、コーヒーとちょっとしたお菓子の乗ったトレイを受け取って、相沢さんのいる書斎を目指しました。

 

  ◆   ◆   ◆

 

「相沢さん? 私です。天野です。入ってもよろしいですか?」

 

 相沢さんのお父さんの書斎の前で、私はドアをノックしながら中にいるであろう相沢さんに声をかけました。

 

「おう、天野か。入ってもいいぞ」

「では失礼します」

 

 そう言いながらドアを開けた瞬間、私は思わず固まってしまいました。

 壁という壁を埋めるかのように飾られた標本箱。その中にはありとあらゆる種類の昆虫の標本が、綺麗に整理陳列されていました。

 蝶や蛾などの鱗翅目、蝉などの半翅目やトンボ目、甲虫目ではカブトムシやカミキリムシ、テントウムシにタマムシ。中でも最も沢山の標本があったのは甲虫目のクワガタムシでした。

 

「……すごい……」

「びっくりしたか?」

 

 私が唖然としながら標本を眺めていると、机の上でパソコンを操作していた相沢さんが、私を振り返って尋ねました。

 

「これは親父の趣味と実益を兼ねたコレクションだよ」

 

 と、標本を眺めながら相沢さん。

 

「相沢さんのお父さんは学者さんだそうですが、昆虫学者なんですか?」

 

 私は運んで来たコーヒーを、テーブルの上に置きながら相沢さんに尋ねました。

 

「ああ。親父はとある大学で教授なんぞやってるんだ。で、今はその大学と姉妹提携を結んでいるアメリカの大学に、客員教授として招かれているって訳だ」

 

 相沢さんのご両親が、仕事の関係で海外へ赴いているという話は聞いていましたが、具体的な職種などは初めて聞きます。

 改めて部屋を見回せば、たくさんある書棚の蔵書のほとんどが昆虫関係の学術書ばかり。

 

「親父の奴、招かれた大学がアメリカだって事で、結構ぐちぐちと文句言ってたっけな」

「どうしてですか?」

「親父の専門はクワガタなんだ。で、アメリカ大陸って所はクワガタが殆どいないらしい。カブトは結構いるらしいけどな。特に南米じゃカブトの有名どころがごろごろしている。クワガタが最も分布しているのは日本も含めたアジアなんだよ」

「南米のカブトムシと言えば、ヘラクレスですか?」

 

 相沢さんは私の問いに笑いながら頷くと、机の引き出しから一つの標本を取り出しました。

 その標本は今私が言ったヘラクレス・オオカブトムシでした。世界最大のカブトムシとして、虫にはさほど詳しくない私でも知っている有名な昆虫です。

 

「この標本はヘラクレスの源名亜種で、ヘラクレス・ヘラクレスだ。ヘラクレスっていうのは、ヘラクレス・リッキーとかヘラクレス・オキシデンタリスとかの亜種を含めると十五種類ぐらいあるそうでな、その中でヘラクレス・ヘラクレスっていうのは基本となる種類らしい。ところで天野。この標本、幾らぐらいすると思う?」

 

 相沢さんがどこか意地悪そうな笑みを浮かべながら尋ねます。私はこう言われて、相沢さんが手にしている標本をじっくりと観察します。

 小型の標本箱の中に、ヘラクレスの雄の標本が一体だけ入っています。大きさはだいたい十五センチぐらい。私には標本の価値など分かりませんが、昆虫の値段は大きさに比例すると以前何かで聞き及んだことがありますので、大きければ大きいほど高いはずです。

 

「詳しいことは解りませんが……二、三万円ぐらいですか?」

 

 私は全くのあてずっぽうで付けた値段に、少々上方修正した金額を相沢さんに告げます。ですが相沢さんは、私の答えを聞くとしてやったりの笑みを浮かべながら正確な金額を明かします。

 

「残念。これ、五十万以上するらしいぞ」

「ご、ごじゅうま……っ!?」

 

 標本一つが五十万円っ!? し、信じられません! そんな高価なんて……!

 

「こいつはただのヘラクレスじゃないんだ。こいつの原産地……何とかって島だったと思ったけど忘れちまったが、その島では生きてるヘラクレスだろうと、こうした標本のヘラクレスだろうと、今では島の外へ持ち出す事を禁止しているらしいんだ。だから、禁止される以前に出まわった標本しか流通してないそうでな。特に日本ではとんでもない高額がついてるらしい。で、こいつはその禁止前に手に入れた親父の自慢の逸品なんだと」

 

 相沢さんは笑いながら、その標本を大切そうに机の引き出しに戻します。

 

「これ以外にも高価な標本が幾つかあるからな。ここには香里といえども、そうそうは入らないんだ。おまえもこの部屋に入る時は気を付けてくれ。尤も、香里って実は虫関係がまるで駄目だから、自分から入ろうとはしないだろうけど」

 

 なるほど、そういう事だったんですか。それで私にコーヒーを運んで欲しいと言ったんですね。

 かつて北の雪の街にいた時の香里さんは、落ち着いた大人の雰囲気を漂わせる女性でした。しかし、この家で再会した香里さんは、可愛いイメージの女性になっていました。おそらく、こちらの香里さんこそ本来の彼女なのでしょう。以前は栞さんの病気の事もあって、必要以上に張り詰めていたのではないでしょうか。

 

「天野は虫は平気か?」

「ええ、人並みには。と言っても、ゴキブリとか百足を触れと言われたら即刻辞退しますが」

「充分だ。香里なんて、ゴキブリが出たら大騒ぎだからな」

 

 でもそこがまた可愛いんだけど、といい笑顔でコーヒーに口をつける相沢さん。

 その時でした。

 

「────っっっきゃあああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 とてつもない大音量の悲鳴が響き渡りました。その音量は、噂に聞く名雪さんの目覚し時計の大合唱に勝るとも劣らないほど。

 

「あー、出たな、こりゃ」

「もしかして、ゴキブリ……でしょうか?」

「間違いないだろ。まあ、この家も決して新しいとはいえんからな」

 

 などと言っていると、どたどたとけたたましい足音が徐々に近づいて来ます。

 そうこうしているうちに、書斎のドアがばんっ! と勢いよく開け放たれると、香里さんが相沢さん目がけて一直線に飛び込んできました。

 

「祐一、祐一、祐一祐一祐一祐一祐一祐一ゆういちぃぃ~っ!!」

 

 涙目になった香里さんが、相沢さんにしがみ付いて一生懸命に訴え掛けます。

 

「どうした香里? ゴキブリでも出たか?」

「うん、うん! 虫、虫、むしぃぃ~! 祐一何とかしてぇぇぇっ!!」

「分かった、分かった。どこにいるんだ、その虫は?」

「げ、玄関~。買物に行こうと思って玄関に行ったら、そこに大きくて黒い虫がいたのぉ」

 

  ◆   ◆   ◆

 

 香里さんの証言に従い、私たち三人は玄関へ移動しました。

 おそらく、今更玄関に行ってももうゴキブリはいないでしょうけど。あれだけ香里さんが大騒ぎした以上、ゴキブリもどこかに逃げ去っているはずです。

 それでも一応確認のため、私と相沢さん、それから相沢さんの腰に縋り付いている香里さんの三人は玄関へ向いました。

 

「おや?」

 

 ですが予想に反して、その虫は玄関にまだいました。ですが、少々様子が変です。

 香里さんにしがみ付かれて身動きの取れない相沢さんに代わり、私が玄関をゆっくりと歩いている黒い虫に近づきます。

 

「──ゴキブリじゃありませんよ、これ……」

 

 その虫はゴキブリのように素早くはなく、のっそりと玄関を歩いています。

 キチン質で光沢のある身体、上翅には縦にくっきりとした筋があります。そして何より特徴的なのは、頭部にある小さな角、いえ、これは確か顎が進化したもののはず。

 

「クワガタの雌ですか?」

 

 拾い上げたその虫を、掌に乗せると相沢さんに差し出します。

 

「あー、こりゃ、親父の研究資料のオオクワガタの雌だな」

「研究資料?」

「ああ。親父が昆虫学者で、専門はクワガタだってのはさっき言ったよな?」

「はい。先程聞きました」

「で、親父は研究用に何種類かのクワガタを飼育しているんだ。庭の片隅に小さな小屋があるだろ? あれが飼育部屋になっていて、あの中には育てたクワガタがいるんだよ。こいつはおそらく、あそこから逃げ出して母屋の方に迷いこんだんだな」

 

 相沢さんの言う通り、庭には確かに小屋があります。今までは物置か何かだとばかり思っていましたが、そうではなかったという訳ですか。

 私の掌をちょこちょこと動くオオクワガタの雌。一時は黒いダイヤなどと呼ばれ高額で取引きされているという話でしたが、実は一部の例外を除くとそれは都市伝説みたいなものとの事。その一部の例外も、実際には数十万程度だったそうです。尤も、マニアな人たちは自分が欲しいものにはお金に糸目をつけないので、今でもネットオークションなどでレアな産地の大型の個体が出品されると、驚くような金額で競り落とされたりするそうです。

 最近では飼育方法が確立され、誰でも容易に飼育して産卵させて幼虫を育てる事も可能で、値段も産地にこだわらなければ精々数千円程度だそうです。

 

「もうっ!! そんな話は後にして、その虫をどこかにやってよっ!!」

 

 相変わらず涙目の香里さんが、必死に訴えます。その訴えに苦笑しながら、相沢さんはオオクワガタの雌を手にすると、飼育部屋に返してくるからと言い残してそのまま玄関を出ていきました。

 

「──ふぅ」

 

 虫が視界から消えて、ようやく香里さんが安堵の溜め息を洩らします。

 

「もしかして、相沢さんと結婚した事後悔してます?」

 

 相沢さんではありませんが、香里さんの様子があまりにも可愛かったので、思わず意地悪な事を聞いてしまいました。

 

「まさか。そりゃ確かに、お義父さまの職業を聞いた時は思わず石化しちゃったけど。この程度でそんな事考えてたら、あなたや名雪たちから祐一を勝ち取った意味がないでしょ?」

 

 腕を組み、不敵に笑う香里さん。虫がいなくなっていつもの調子に戻ったようです。

 

「だから、この程度で私の弱みを見つけたなんて思わないでね」

 

 と、何となく赤い顔の香里さん。

 ──なるほど。取り乱した姿を私に見られたのが、よほど恥ずかしかったようです。

 

「ええ。もちろん分かっていますよ、香里さん」

「……その口元の笑みがいまいち信用できないんだけど?」

 

 これから夏に向かうという季節柄、ゴキブリが度々出現してその度に狼狽える香里さんを見掛けることになるのですが、その都度虚勢を張る香里さんが何とも可愛いなあと思ってしまうのはちょっとばかり先の話です。

 




 結局、昨日は一本しか投稿できませんでした。

 昨日投稿予定だった話は、現時点で書きかけのもので、しかも香里視点のものでした。
 二本続けて香里視点はアレかなぁと思い直し、本来なら10話に予定していた話を9話として本日投稿した次第です。

 ちなみに、この話を書いていた時代、本当にその何とかいう島のヘラクレス・ヘラクレスの標本は50万を超えていたそうです。今ではどれくらいなのか不明ですが(笑)。

 では、次回もよろしくお願いします。

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