腰抜けハンター奮闘記   作:重さん

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第15話

 ランプの光に照らされた部屋。綺麗に整理されたノートと背表紙が擦り切れるほどに読み込まれた本が散乱し、階段に光を当てたかのようにガタガタとした形を反射する。木製の壁の染みが妙に存在感を増している。普段そこまで掃除をしない部屋だ。少し動けば埃が噴き出す。余りにも不衛生、しかしそれでも構ったことではない。重要なものはすべて手の届く範囲に置いてある。重要なものはなくしたりしない、すべてがすべて、把握された場所に収まっている。いちいち本棚に入れるよりも楽な配置をしてあるからそのままにしてあるのだ。傍から見て汚くても、主から見れば十分に整理されていた。

 無造作にばら蒔かれたように見える書類たちからみて部屋の端に、人一人丁度入る程度のベッドがある。その反対側には勉強机らしき機能性しか重視されていないような机と、直角につけられた背もたれに毛皮が掛けられた程度の椅子。その椅子に少女は座って何かを書きなぐっていた。

 言葉と計算が入り混じった数学の証明式、あるいは化学、あるいは物理。そういった科学と呼ばれるものの証明式をひたすらに解いている。何か意味があることをしているのだろうと思ったのなら、それは全く違う

 いまやっていることに意味などない。正確にはいままでにやった勉強の復習をしているという点で言えば意味があることだが、少女からしてみれば現実から目を背けられさえすればその手段は何でもよい。

 一瞬でも思考を止めれば、激昂する光景が頭の中に蘇る。

 蘇れば、それが当然の報いだと認めなければならない。そして認めたなら、少女はどうしようもなく顔が歪むことを止められない。

『僕は二度と、お前の言葉を信じない』

 拒絶された。

 拒絶された。

 拒絶された。

 二年間続けてきた自己満足がついに暴かれた。勝手なことをするなと拒絶された。

 頭に血が上り、歯を食いしばり、頭の中を、腹の中を、全身のありとあらゆる感覚器官を得体のしれない、恥のような、どうしようもないものがはい回る感覚を覚える。それと共に机を全力で、両手で叩き、その痛みでそれらを消し去る。八つ当たりだ。者に対する八つ当たり、最低だ。けれど、それくらいしか出来ない。それくらいでしか、自分の心を保てない。直視するのは辛い。どうしても目をそむけてしまう。

 そして、目を背けてしまう弱い自分を見ることにも目を背けてしまう。つくづく現実逃避をしたがる自分にも。そういった堂々巡りが頭の中を駆け巡る。

 もういっそ忘れてしまいたい。すべて忘れて雪の中に埋もれてそのまま消えてしまいたい。何もかもなかったことにして、モンスターに食われても良い。気が付けば傍らにある毒瓶に手が伸びそうになっている自分が居る。それすらも醜い。気色が悪い。吐き気がする。そして、実際に吐いた。だからどうと言うこともない。そんな事実があったというだけの話。

 善意だった。悪気はなかった。夢を追いかけて欲しかった。笑ってほしかった。

 そんな言い訳はいくらでも思いつく。それこそ二年間考え続けてきたことだ。挙げろと言われれば一つと言わず三つでも五つでも、二十個までなら淀みなく言える自信がある。すべて頭の中で論理的に矛盾がないかを確かめた事柄だ。説得力だけは無駄にあるだろう。それが自分を説得できるかどうかは置いておくにしても。

 歯ぎしりの音が虚空に消える。再び頬が歪む。

 後悔している。

 善意でやったはずのことが、実は善意でも何でもなくただの願望の押し付けだったことを、他でもない善意を向けていたはずの本人に暴かれて後悔している。

 自業自得だ。

 けれど辛い。辛いなどと言うことは許されないということはわかっていても辛い。

 そんな甘えている自分が気色悪くて、もう一度吐いた。常備してあるバケツの中からは散々酸っぱい匂いが漂ってくる。最もそのにおいにも慣れている。二年前、マキリを狩りに送り出し始めたときは大体こんなものだった。それをカリンや父、他の村人たちに見えないように廃棄しに行ったのも懐かしい。そして、その懐かしい思い出すらも憎らしい。

 ああ、憎い。憎い。憎い。憎たらしい。

 そんなことをして何になる。誰かから隠して何になる。結局はマキリを傷つける期間が延びただけだ。誰かに相談もせずただ一人でやったからこその結末だ。自分が何の失敗も侵さずに二年間もどうにか出来るとでも思ったのか。大間違いだこの大バカ者が。

 再び机を大きく叩くと、その直後後ろから音が聞こえた。扉を二回たたく音、ノックの音。

「トマリ、入るよ」

「入らないで」

 ドアが開いた。自分の要求を無視した者に射殺すような眼光が向けられ、カリンは呆れたため息を吐く。

「あんたね、自分がやった成果をうだうだ後悔しないでくれる?あと、机をたたかない。下まで響くから」

 トマリは声を荒げようとするが、やめる。ここで怒鳴り散らすことがどれだけ無様なことか、自覚が出来る程度には頭は冷えていた。そして、なまじ頭が冷えている分自分が図星を突かれている感覚を強烈に自覚させられる。

「・・・わかった。もう叩かない」

「・・・それだけじゃないんだけどね」

 トマリはカリンの顔を見た。そこにはいつもの、豪胆な母親の姿はなく、どうしたら良いのかわからないとでも言いたげな佇まいをした女の姿があった。

 トマリは考える。きっとこの人には私の気持ちはわからないのだろう、と。

 何故ならこの人は豪胆だ。後悔なんてしない。その代わりに反省して次に活かせばいいと考える。この人は自分の父親がモンスターに食われても、母親が自分を置き去りにして他に男を作って逃げても、この人は歪まず、一人で生き残ってきた。好きになった人間を追いかけてこのポッケ村まで来た。そして村に溶け込んでこうして立派な家庭を築いている。聞く度に思う。この人は強い。そして、自分は弱い。

 両親が居ながらにして誰かに依存し、歪み、今こうして後悔の海に沈んでいるトマリの気持ちなど分かるはずもない。そもそもの性根が違う。心の材質が違う。目の前の女性の心が鋼鉄で出来ているとすればトマリの心はさしずめ腐りきった木材だ。少しでも衝撃を入れれば崩れ落ちる。

 だからこそ、期待などない。

 期待することなど許されない。

 全てはトマリの心の弱さと愚鈍さが原因だ。

 それがわかっているからこそ、腹が立つ。

「・・・はあ、あんたはよくわからないわ。多分あんたなりに考えがあるんだろうけど、私には分からない」

 カリンは諦めたように声を漏らした。それはそうだろう。トマリにも分からない。自分が何を考えて行動に移したのかも何が欲しかったのかも今となってはわからない。自分にもわからないものが他人にならわかるというのは余りにも無責任だ。自分のことを一番よくわかっているのは自分なのだから。自分のことは自分でどうにかするしかない。

 ましてや、もう十五だ。

 結婚しても可笑しくない歳。つまりは既に大人だ。自分のことくらいは自分でやらなくてはならない。それがトマリには出来ていなかった。再び自己嫌悪に陥ろうとする思考を、カリンのでも、という声が遮った。

「一応覚えておきなさい。マキリは、あんたのことを嫌ってないよ。むしろ、絶対に好きだから」

 頭に一気に血が上った。先ほどの恥が体中をはい回る感覚ではない。それは自分がその言葉に少なからず歓喜を覚えたことへの怒り。それが割れた風船の如く、外側に噴出する。

「態々自分を死地に追いやる人間を好む人間がどこにいる!!」

 苛立ちと共に足を振り下ろし、木製の床が軋みを上げる。怒号は部屋の中を木霊する。床を奔った衝撃で絶妙なバランスを保っていた本が崩れ落ち、部屋の中を埃が舞う。

「普通に考えてよ!マキリは怒ったんだよ!怒ったんだ!私がしたことに怒ったの!マキリは自分を狩場に行かせることに怒ったんだから、あんなに嫌がってたのに無理やり行かせた私が嫌いじゃないわけない!理屈に合わない!」

 声を荒げてしまえば、抑えていた心のうちまで乱される。惨めで切なくて寂しくて苛立って、どうしようもない気持ちが涙となって溢れ出る。

 みっともない。みっともなく怒鳴っている。最後の一線を越えてしまった。

 惨めだ。自分を制御できないほどに惨めだ。頭の奥底がまだ理性を保っているのが憎らしい。しかし、堰を切るように吐き出される激情が今更凪ぐわけもなく、気が付けば涙を流しながら怒鳴っていた。

 何を言っているのか自分でもわからない。きっと支離滅裂なことを言っている。目の前のお母さんを困らせている。お母さんを困らせている。心配してくれたお母さんに怒りをぶつけている。

 気が付けば、肩で息をしていた。その段階になってやっとのことで頭が冷えた。といっても一時的な冷却だ。今の不安定な状況ではいつ、もう一度制御を離れるかわかったものではない。

「・・・ごめんなさい。もう少ししたら、治るから」

「・・・分かった。でも、これは貰っておくから」

 カリンはため息交じりに、トマリの部屋に散らばっているいくつかの瓶を自分の手に収めた。そのすべてが、使いようによっては毒にもなるものだ。トマリが早まらないように、という配慮だろう。その配慮は正しい。今のトマリでは冷静な判断が出来そうにない。

「今日はさっさと寝なさい。夜は要らないことを考えすぎる。一日寝れば楽になることだってある。これは受け売りだけどね」

 それらをエプロンのポケットに入れると、トマリの部屋から去っていった。ドアが閉められる。廊下の光が閉ざされ、再び部屋にはランプの光だけが光り始める。

 すう、と息を吸い、息を吐く。

 深呼吸を繰り返していくと、じきに気持ちが落ち着いてくる。

 これなら、眠れるだろうか。トマリはそんなことを考えてから、自分で否定した。

 今日は、きっと眠れない。

 

 

 

 

 

 マキリが起きたのは、太陽が上がるのと同時だった。

 一度決心してしまえばマキリは単純で、すぐに家に戻って熟睡した。余りに割り切りが良すぎると言われるかもしれないが、それがマキリの性分なのだから仕方がない。

 朝の陽ざしの中、適当に飯を作る。とはいっても、保存しておいたパンにジャムを付けるだけの簡素なものだ。今日は狩りに行くわけでもなし、身体に精を付ける必要を感じなかった。部屋の中にあるものは、折れたボーンククリと頭部と胸部しか残っていないマフモフシリーズ。アイテムを入れるための収納箱に、ハンター向け雑誌『狩りに生きる』やモンスター図鑑等のハンターにまつわるものだけ。ただ、それにしても全体の数は十に満たない。マキリは活字を読むことがあまり好きではなかった。そんなことをするよりは体を動かした方が心地よい。今部屋のあるものは父親が気まぐれに買っていた雑誌たちだ。

 簡素なベッドに簡素な机、椅子に本棚、収納箱。昔は父の装備や母の小道具が置いてあったものの、身の丈に合わない装備である父の装備はすべて処分してしまい、母の小道具もあったところで無用の長物。いい思い出と言うよりは嫌な思い出を思い出させる其れはマキリの部屋から消え去っている。

 いつも通りの部屋でいつも通りの朝食をとる。すべてがいつも通り。何もなければこのまま農場に出向いて、コジロウと共に農業に勤しみ、仕事終わりには少し水浴びをして汗を流し、そのまま家に帰って飯を食って寝る。そんな一日が始まる。

 けれど、今日はいつも通りではない。

 おそらく、マキリの人生にとってもかなりの重要度を持つ一日になるはずだ。それは既に確信していた。

 朝食を終え、マキリはしばらく何もせず机に肘をついて呆けていた。

 することはわかっている。昨日の夜のうちに決めた。オッカイにもそれは話した。だから、特にすることもない。

 けれど、外に出て何かする気があるか、と問われればそれはまた微妙な話だった。

「・・・どうしたもんか」

 まだ時間には早い。今トマリの家に行っても、トマリは起きていないだろう。あれはかなり寝起きが悪い。昨日はあまりにも強烈な出来事が起こったせいか酷くはなかったが、普段はかなり、面倒くさい。機嫌も悪くなる。

 だから、出来れば昼過ぎくらいに行くのがベストだ。その方が落ち着いて話も出来る。だから目下のところマキリが必要としているのは昼までの暇つぶし。

 その時、マキリは自分の身体がかなりのけがを負っていることを思い出した。昨日寝るときはあまり気にならなかったが、意識を向ければまだ少し痛んでいる。包帯を取ってみれば、火傷はまだ完治とはいかずともほかの傷は大体が瘡蓋になっている。まだ狩りのような激しい動きをするのは厳しいが、日常生活を送る分にはどうにかなりそうだ。回復薬の効能と言うものは素晴らしい。

 しかし、これを使いすぎると寿命が減るという話を聞いたことがあり、マキリとしてはあまり積極的に使いたいものではない。俗説であるとは信じたいものだが。

 マキリはふと思い立って、前言を撤回する。

 外に出る気がしない、という前言を。

 

 

 

 

 

 道具屋の奥でせわしなく動き回る影があった。

 アイの夫、ユワレだ。優し気に細められた目つきと、少しひょろ長い身体が特徴的な男だった。基本的には裏方で仕事をしているため店に出てくることはあまりない。

 ユワレはマキリに気が付くと、手を上げてやあ、と挨拶をした。

「おはようマキリ。良い朝だね」

「うん、おはようユワレ。でさ、アイさんいる?」

「ああ、今は中で帳簿を付けてるよ。色々と忙しくて溜まってるらしいんだ」

 その色々と忙しい、という部分に思わずマキリは苦笑いを浮かべる。それをみて、ユワレもまた苦笑いを浮かべた。

「大変みたいだね。ああ、他人事みたいに言っちゃって悪いんだけどさ」

「良いよ。まあ、踏み込みずらい事情だって言うのもわかるし」

「そう言ってもらえると助かるよ」

 ユワレは笑って、マキリを家の中に招き入れた。

 家の構造は至ってシンプル。大通りに面している方に道具屋があり、その奥に居住スペースがある。だから奥行きはかなりあるものの、そこまで広いわけでもない。木の床で作られた部屋の中には異国の意匠が施されたテーブルと椅子、その他もろもろの小物があり、道具屋の主人らしい部屋が広がっていた。そこで帳簿を付けていたアイはマキリに気が付くと、目を瞬かせる。

「・・・ああ、おはよう。吹っ切れたのかい?」

「うん、おかげさまで。ありがとう」

「良いさ。気付かなかった私らも悪い」

 アイはため息を吐きながら額に手を当てた。しかし、それも一瞬のこと、すぐにマキリに向き合った。

「で、どうするんだい?」

「話をするよ。それで全部終わらせる」

「そうかい。まあ、それが良い。というか、結局それしかないね」

 アイと話しているうちに、ユワレはどこかに消えていた。聞いていい話ではないと判断したのだろう。

 そんなに重苦しい話をするつもりでもないし、お礼を言ったならさっさと帰るつもりだったのだが、気を遣わせてしまった以上はそれに少しだけ甘えるとしよう。

「それにしてもさ、よくオッカイと話す気になったね。二人、凄く仲が悪かったのに」

「今回だけの特例さ。いまでもあいつは嫌いだ。ウイもあいつのどこが良いんだか」

 心底嫌そうに手を振るアイを見て、マキリは笑った。仕草や表情だけでも嫌っていることがわかる。そんな二人でも必要な時には協力するのだからよくわからない関係だ。

 そして、一応聞いておきたいことがあるのをマキリは思い出した。

「トマリの方にはアイさんが行ったの?」

 説得に、ではなく慰めに行く、と言う意味だ。説得はマキリがされるべきものであってトマリにはむしろアフターケアが必要だった。それはアイもわかっていたのだろう、首を横に振りながらも、否定はしない。

「そっちは母親に任せたよ。まあ、不安だったからひとつや二つはアドバイスしておいたけどね」

 なるほど、確かに通りだ。こういった場合のアフターケアは母親がするべきだろう。しかし、マキリは豪胆なカリンの姿を思い浮かべると一抹の不安がよぎる。

「・・・そっちはアイさんが行けば良かったんじゃないの?」

 マキリが聞けばアイは少しだけ唸った。理由はあるのだけれど、どういえばいいのかわからない、そんな様子だ。

「・・・トマリはね。なんていうか、愛想は良いんだけど心を開くのは凄く難しいって感じなんだ。わかるかい?」

「いや、全然わかんない」

 少なくともマキリが見ている中でトマリは誰とでも仲良くなっていた気がするし、村人たちとも良く笑い話をしていた。あくまでも二年前の話で合って最近のことは知らないが、アイの話しぶりでは昔からその性質は変わっていないのだろう。アイは再び少し考えて、言葉を紡ぐ。

「あんたはさ、ホイレンさんとさっさと仲良くなっただろ?なんていうか、気の置けない関係って言うやつ?でも、あの子は自分のことを全然話さないのさ。その代わりにあんたの話とか、村の誰かの話とかはするんだけどね。あんまり自分の内面を出すってことをしない。だからって引っ込み思案っていうわけでもないし・・・」

 アイはどういった言葉で表現すればいいのか、と頭をひねっている。しかし、マキリにもなんとなく意味は分かった。というか、昨日の憤りはまさにそれが原因だったのだから。

「なんとなくはわかったよ。で、それがアイさんが行かない理由とどういう関係が?」

「そりゃあ私が信用されてないっていうか、私が言ったらたぶん取り繕うだろう?あの子は」

「・・・なんとなく、わかる。」

 マキリにはトマリがアイを信用していないという図式を描くことが出来ない。二人が話しているときはいつも楽し気で、喧嘩の兆候など一つもなかった。

 しかし、どこか、何故か、マキリは納得していた。

 心のどこか、恐らくは無意識で納得しているのだ。勘のようなものだが、それが、それだけがトマリの身勝手を正確に把握し、己を臆病者たらしめていたことを考えると信用してもいいかもしれない。

「だからカリンなのさ。流石に母親と築き上げた信頼に勝てると思うほど思い上がっちゃいないよ」

 アイはそう言ってふう、と息を吐くと、なにかをおもいついたように立ち上がった。「ちょっと待ってな」という声でその場に繋ぎ留められたマキリは、戻ってきたアイが持っている袋を見て首を傾げた。

「なに?それ」

「これからトマリに会いに行くんだろう?怒ったことを謝るんじゃないのかい?」

「そうだけど」

「なら手見上げの一つでも持っていきな。少しは話のタネになる」

 目から鱗が落ちる気分だった。

 確かに、いざ会ってみて性急に話題に入るよりは少しくらい世間話をしてからの方が気持ちが良い。むしろ、何故自分はそこらへんに気が回らなかったのか。どうにかなるだろうとしか思っていなかった。

 しかし、アイはそんなマキリを見て可笑しそうに笑った。

「そういうところは昔から変わらないね」

「そういうところって?」

 マキリが聞けば、アイは笑いながら答えた。

「一度決めたら何があっても一気に突っ切るところさ」

 

 

 

 

 

 

 トマリが気付いた時には、既に太陽は真上だった。

 結局、寝たのか寝ていないのか分からない。いつの間にか寝たのかもしれないし、そうではないのかもしれない。瞼は鉛のように重いけれど、目を閉じたところで眠れるわけでもない。むしろ、目を閉じれば脳内の声が嫌と言うほどに響いてくる。

 これでは眠れたものではない。眠ったように見えても、眠っていない。

 ふと、トマリは思う。

 もしかして、マキリのお母さん、キノがやっていたのはこれではないのか、と。

 眠り続ける、と言うのは意外と難しい。特に吐いたりすると眠気が一気に吹き飛び、新たな睡眠に入るにはそれなりに時間がかかる。しかし、キノは吐いた後でもすぐにベッドに突っ伏していた。そして目を閉じ、少し表情を歪めたりしていた。

 あれは、一見して眠ったように見えた。けれど、きっと違うのだ。

 目を開けているのは辛い、だから目を閉じてしまう。けれど目を閉じてしまえば自分の内面を見なければならなくなる。眠れない。結果的に本当に眠れる時間はほんのわずかになる。寝不足が体力を奪い、やがては衰弱していく。

 そう考えると、今のトマリの状態はキノに酷似している。それをトマリは初めて自覚した。

「・・・気分が悪いなら、とりあえず水を飲むといいよ」

 そして、傍らに座る存在に気が付いた。

 片手に水の入ったコップを持ち、トマリの手元に差し出している。その表情は呆れたようでもあり、困ったようでもあった。トマリの視線を受け止めると、彼は苦笑した。

「母さんもそうだったんだけど。とりあえず水を飲むと少しは楽になるよ。ちゃんと寝られる」

 先ほど感じたことを、彼はしっかりと言葉にした。一カ月も見ていて、その対処法がわかっているのだろう。それだけ自分がキノと同じ状態にあるということでもある。

「・・・マキリ?」

 なんとなく、声が掠れたような気がした。

 おかしい。マキリは怒りながらこの部屋を出ていったのに、どうしてこんな風に優しく笑えるのだろう。

 トマリがそんな意図を込めて名前を呼ぶと、マキリは頭の後ろをガシガシと掻いた。少しばつが悪そうだが、そのいつも通りの様子がトマリを少しだけ安心させる。

「・・・昨日はごめん。一方的に怒鳴っちゃって、トマリにも言い分だってあったよね」

「・・・謝ることなんてないよ。私が悪いんだから」

「そんなことないよ。どっちが悪かったかはともかくとして、僕だって怒鳴れるような身分じゃなかった」

「どうして?私が勝手なことをやってたんだから、私が悪いんだよ」

「だって、トマリは僕のこと考えてくれてたんだろ?なのに僕は」

「違う。私はただ私のやりたいことをやってただけ。だからマキリは何も悪くないの」

「いや、だからーーー」

 マキリは少しだけ自分の語気が荒くなることを自覚して、舌を収める。今回はどっちが悪いの水掛け論をしに来たわけではないのだ。

「・・・どっちが悪いとかはこの際、やめよう」

「やめるとかじゃなくて、私が」

「だからやめようって。どっちが悪くても関係ないよ。分からない?」

「・・・?どういうこと?どっちかが悪いんだからどっちかが謝ればそれで」

「それからどうするの?謝って、許したら解決するの?トマリはそれで諦めきれるの?」

 マキリの言葉に、トマリは押し黙った。諦められる、そう即答するべきだった。しかし、出来ない。どちらを選んでも、自分は後悔するような気がするから。

「関係ないよ。どっちが悪いかなんて。それにどっちも悪いんだ。だから関係ない」

「・・・どっちも悪いなんて」

 トマリからしてみれば、自分勝手に相手に理想を押し付けていただけだ。

 それにマキリがつき合わされただけであって、マキリからしてみれば良い迷惑のはずだ。村を盾にして迫ってきた人間など百害あって一利なし。

 トマリにとって悪は自分一人だった。

 けれど、マキリから見てみればそれは違う。

「トマリはさ。僕が臆病者になった理由って考えたことある?」

 いきなりの話の転換に、トマリは眉を潜める。話を煙に巻こうとしていると考えたのだ。しかし、すぐに違うとわかる。マキリの表情はトマリから逃げようとはしていなかった。

「・・・お父さんが死んで、狩りに出るのが怖くなったからじゃ」

 トマリの声には自信がない。当り前だ。わかっていれば、それを解決するために動いた。当のマキリにすら分からないことはトマリにも分からない。そして、マキリはその答えを聞いて苦笑した。

「違うよ。僕が行けなくなった原因は、母さんの方だ」

「キノさん・・・?それってどういう」

 トマリの声は途切れる。そして、頭の中をパチパチと、控えめな光が流れた。

 それと共に、喉が震える。まさかという思い。それと同時に理解できてしまう。

「・・・心配、だった?」

 トマリのことが心配だった。

 トマリは今、その答えに至る。自分も同じだったから。矛盾した行動をしていたから。そして、今、マキリがお互いに悪いと言っているということは、つまり、そういうことだ。

「・・・私が、キノさんみたいになるんじゃないかって、そう思ったから?」

 首を横に振ってほしい。

 自分が相手に尽くせていたと思わせてほしい。ただ、与えるだけの側だったと思いたい。

 奪う側だったなんて、そんなことは言わないでほしい。

 けれど、疑問の答えは肯定だった。

「ごめんトマリ。僕は、トマリが一番嫌がることをやっていた」

 そう言って頭を下げるマキリに、トマリはなんと声をかければいいのだろうか。

 謝るのはこっちだ。間違いなく、自分がマキリの足枷になっている。そして自分が為した行動のすべてが、今、マキリに対して牙を剥いていることが徐々に理解できた。

 マキリに気掛かりという鎖を絡み付けた。

 そのくせ狩場に送り出した。

 いざ怪我をすれば取り乱し、結果的にマキリをこの上なく傷つけた。

 怒りなどない。怒れるはずがない。

「・・・ごめん、なさい」

 謝罪する以外に、何が出来るのだろう。

 自分以外の悪など、本当に存在しないではないか。

 これほどまでに罪が上乗せされて、自分は一体どうすればいいのだろうか。

 口が勝手に言葉を紡ごうとする。

「んんっ?」

 しかし、その口は塞がれた。

 他ならぬマキリの手によって。

「ごめんなさい、は、なし」

 マキリは苦笑いを浮かべていた。困ったような、呆れたような、申し訳なさそうな、そんな顔を見て、トマリは目を丸くする。

「僕も悪い。トマリも悪い。だから謝るのは無し。終わりがないから」

 トマリは口を開いて文句を言おうとするが、相変わらず口にはマキリの手が乗せられている。昔は同じような柔らかい手だったのに、今となってはマキリの手はきちんとした男の手になって居る。ごつごつとしていて、自分の頼りない手とは大違いだ。そんな場違いな感想を抱きながら、トマリはマキリに抗議の目線を送る。

 しかし、マキリは苦笑するばかりだ。

 トマリは自分の中に怒りが湧いたことに気付き、それをどうにかして収める。

 すると同時に、落ち込んでいた気持ちも少しだけ上がってきた。おかげで、マキリの言っていることを受け入れる気にもなれた。

 マキリもそんなトマリの変化に気が付いたのだろう。手を除けて、トマリにもう一度聞く。

「ね?」

 トマリは少し躊躇いがちに頷く。マキリの言うことは、確かに正しかった。トマリの心情として納得したくないところはあるものの、そうした方が建設的だということは理解できた。納得したくはないが。

「・・・これからのことを考えよう。僕はこれからどうするのか。トマリはどうしてほしいのか。っていうのをさ」

 そう聞かれれば、トマリの答えは決まっている。

「ハンターをやってほしい」

 マキリはその答えを聞いて、やはり困ったように笑う。しかし仕方がないのだ。もはやここまで絡まってしまったものは解きようがない。ここまでトマリが足枷になってしまうことは許容できない。

「・・・それじゃあダメだ。だって僕はもう戦えないから」

 そんなことはない。トマリはそう言おうとするが、すぐに辞める。

 もしもマキリが自分と同じような心境だったとしたら、それを忍て狩りに行くことなど不可能だ。自分もまた心配せずに相手を送り出すことなど不可能なのだから。

 それはトマリにも理解できた。

「トマリ、酷いことを言うみたいだけど、トマリの夢は諦めてくれないかな」

 マキリがそう言いたくなる気持ちはわかる。痛いほどに。

 今、自分がハンターをやってほしいと言っていることと、動機が同じだからだ。お互いの夢を諦めて、お互いにとって良い環境を作ろう。マキリが言っているのはそういうことだった。

 後ろ向きな解決方法だ。

 そして、きっとマキリにとっては一番いい解決方法だ。

 この解決が受け入れられるということは、つまり、トマリが心配しなくても良い状況を作るということになる。これはつまりマキリの利益だ。同時にトマリの利益でもあるが、トマリはマキリの夢を潰したという負い目を、マキリはトマリの夢を潰したという負い目を受けることになる。

 逆に、マキリが今まで通り狩りに行くとしよう。これはトマリにとっては夢が実現したということになる。マキリにとっても同じだ。しかしどちらも心に爆弾を抱えている状態になる。そして、それはマキリが死んだ瞬間、もしくはそれに準ずる事態が起これば爆発する危ういものだ。

 ただし、後者にはある問題点が存在する。

 後者を叶えるためには、マキリはトマリへの心配を断ち切らなければならないという問題点があるのだ。そして、それは出来ない。出来ないと二人とも結論付けてしまった。

 つまり、今、二人に残されている道は一つだけだ。

「・・・これで、終わりなの?」

「・・・終わりって言うのは、抵抗があるけど、始まりって言うのも違うね」

 夢を諦める。これが二人の選択だった。

 絡み合い続けた糸は解かれた。しかし、糸に着いた癖は取れてくれない。

 最も硬く結びついた場所は解けることがなく、解く方法も二人には分からない。

 けれど、マキリにはこれで良かった。

「トマリ。これからなんだからさ。そんな暗い顔しないでよ」

 マキリが声をかければ、トマリは顔を上げた。ベッドの上で体を起こしている姿が、妙に小さく見える。それはマキリの錯覚だが、一部では正しい。トマリは今、きっと拠り所を失っているのだ。

 キノが父と言う拠り所を亡くしたように、トマリも夢と言う拠り所を亡くしている。だからこそ、ここでマキリが踏ん張らなくてはならない。

 踏ん張って、共に連れて行かなくてはならない。

 そのために必要なことはわかってる。

 そのために、今日ここに来た。

「これから、僕は農場で働くよ。給料はそこまで高くないけど、幸い、ハンターをしていた時のお金があるからそれなりに贅沢は出来ると思う。なんせ命懸けだからね。いっぱいお金は貰ってる。もちろん一生遊んで暮らせるなんてことはないけど、よほど無駄遣いしなければ飢えたりはしない。今回のクエストだって凄かったからさ。ドスギアノスにドスファンゴ、それにフルフルだよ?きっと凄いお金になる。だから、お金に関しては心配ない」

 トマリはいきなり始まったマキリの言葉に目を丸くする。農場で働くことは良い。けれど、お金の話になるのはいったいどういうことだろうか。

 しかし、マキリの言葉は止まらない。

「今回は結構怪我をしちゃったけど、治らない怪我じゃない。だから身体だって問題ない。肉体労働なんて得意分野だ。トマリが寝たきりになっても大丈夫。介護だって慣れてるからさ。自慢になっちゃうけど、病気になんてなったことないんだから。だから絶対に苦労なんてさせない」

 その言葉の意味が、トマリには朧げながら理解出来たような気がした。

 しかし、それがあまりにも希望的観測過ぎて、どうにも受け入れられない。それでもマキリの言葉は止まらずに、どんどん核心に入っていく。

「どんなによぼよぼになっても大丈夫だよ。だってこんなに面倒くさい事態だって乗り越えられたんだ。これからどんなことがあっても大丈夫。二人で話し合っていけば、喧嘩していけば、大丈夫だよ」

 今回は喧嘩にならなかったし、出来ればしないのが一番だけど。マキリは照れくさそうに言ってから、言葉に困ったようにあー、と声を漏らす。

 そして、一度言葉に途切れてしまえば、そこにあるのは沈黙だ。

 しばらくあたりを沈黙が包み、マキリにトマリの、何とも言えない視線が突き刺さる。

 マキリは頭を掻いて言葉を探すが、どうにも見つからずに肩を落とす。

 年貢の納め時。若干意味合いは違うが、マキリにはそんな風に思えた。

「・・・僕は、トマリが好きだ」

 かくして、話は核心に至る。

 トマリが息を呑み、表情を硬くする。

 まさか、とトマリは思う。

 まさか、ここで、この状況で、そんな話をするつもりだろうか。

 年齢を考えれば全く不自然ではない。不自然ではないけれど、性急すぎる。もう少しゆっくりとやっていきたい。

 だって、ここでそれを言われてしまったら、自分はきっと縋ってしまう。

 けれど、ここで声を挟むなど出来はしない。

「トマリ、僕と結婚してくれないかな」

 そして、マキリの言葉がトマリに届いた。

 マキリの顔は笑っていた。しかし真っ赤だ。

 トマリの顔は呆然としていた。しかし、耳まで真っ赤だ。

 二人して、赤い顔をして、お互いの顔を見ていた。耳に痛い沈黙ではない。しかし、ずっと浸っていたい沈黙でもない。特に、マキリからしてみれば永遠にも近い時間だった。

「・・・どうかな、答えは」

 思わず急かしてしまう。

 そして、急かされたトマリは気が気でない。頭の中は混沌として、何から手を付ければいいのかわからない。ただ、どうしても言いたいことがあった。

「・・・もっと、考えてよ」

「え?」

 マキリが聞き返せば、トマリは恥ずかしさをかき消すように、大きな声で叫ぶ。

「こんな部屋で!あんな話した後で!こんな格好で!こんな時間に!そんなこと言われても、困る!」

 そう言われて、マキリは初めて今の状況に気が向いた。

 自分がこれから言うことがあまりにも重要過ぎて、そういったことに気を配る余裕がなかった。トマリの部屋はお世辞にもきれいとは言えないし、寝巻だし、今は昼間だ。マキリは傷だらけで、トマリは目の下に隈があり、第三者が見れば二人ともさっさと休めと言いたくなるような状況。間違ってもこんな話をする場面ではない。マキリの笑顔が少し引き攣る。内心を言語化するならまさしく「しくじった」ということだろう。

「どうして私がマキリのことが嫌いとか、そういう時には無駄に雰囲気があるのにこういう時はこんな部屋なの?よく考えたらこんな部屋見せちゃったし!私寝巻だし!マキリ傷だらけだし!」

 いままでのしおらしい態度が嘘のように捲し立てる。あまりの豹変にマキリも面食らうが、それは決して恐怖を呼び起こすものではない。むしろ、今、自分に対して感情をぶつけてくれていることがうれしく感じられる。もちろん自分の至らなさを自覚させられても居るのだが。

「・・・もっと、雰囲気を考えてください」

 最後は何故か丁寧語で締めて、トマリは再び沈黙した。

 それは確かに怒っても居たが、照れ隠しであることもまた明白だった。

「で、答えは?」

 だからこそ、マキリはここで手を休めたりはしない。相手が弱っているときこそ最大のチャンス。それはどんなときにも変わらない。マキリは今間違いなく狩るものであり、トマリは狩られるものだった。

 少し面白がっているような口調のマキリを、トマリは睨み付ける。しかし、その視線もどこか弱弱しい。少しの間視線を彷徨わせるが、すぐに消え入りそうな声を出した。

「・・・お願い、します」

 それは弱弱しかったが、確かに承諾の返事だった。

 マキリはそれを受けて満足そうに笑う。

 今、自分が卑怯なことをしている自覚はあった。

 強引に相手の望んでいることを押し付けて、それで頭をひっかきまわす。無理矢理にでも気分を高揚させて、その場を乗り切る。ある意味その場しのぎに近い。

 けれど、それでいい。大抵のことは時間を置けば解決、もしくは解消される。

 ゆっくりと納得していけばいい、突然死ぬことがなければ、時間はいくらでもあるのだから。

 トマリもまた、乗せられている自覚はあった。

 それでも抗う気など起きない。トマリの夢は確かにマキリがハンターとして活動することではあったが、しかし、それだけが望みと言うわけでもない。望んでいた餌を目の前に垂らされて食いつかないほど利口ではない。

 二人の利害は一致して、感情も一致して、今、そこにはただ幸福なだけの時間があった。

 

 しかし

 その空間を食いちぎらんとばかりに、一つの咆哮が飛来する。

『■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!!!!』

 マキリとトマリの動きが止まり、マキリは目つきを一気に鋭くして、トマリの部屋の窓から来訪者に目を向けた。

 憎悪に満ち、禍々しく、天に吠えるが如き咆哮を放つものが居た。

 村の中心、まさしく集会所の真正面。

 四本の足を持ち、一対の巨大な翼をもつ。

 その翼には鉤爪のような、不自然な爪の様なものが付いている。全身が黒い鱗で覆われ、その姿はまるで物語に出てくる黒龍のようである。

 しかし、それとは見るからに違う特徴を持っている。

 今、目の前に居る者には、目がなかった。さながらフルフルを更に禍々しく、さらに凶悪にしたような見た目をしている。

 そして、一番の特徴がその周囲にまき散らされる黒い何かだ。

 周囲を覆いつくすほどに広範囲にまき散らされたそれは、明らかにその者から吐き出されている。周囲の人々は固まっている。生まれてからモンスターと実際に相対した人間などそうはいないのだから当たり前だが、今のマキリにはそれがもどかしかった。

「全員!村から離れろ!!」

 マキリは声を張り上げ、窓から飛び出そうとして、自分の手を握っている存在に気が付いた。

「・・・ダメ」

 トマリは顔を青くして、首を横に振っていた。トマリにもわかる。あれは生半可なモンスターではない。なんだったらフルフルというモンスターよりも、もしかしたらティガレックスよりも、あのモンスターは強大だ。

 普段のマキリですら危ういのに、今のマキリが行けばどうなるか、そんなものは火を見るより明らかだった。

「一緒に逃げよう?」

 マキリに懇願するトマリは、其れこそ本当に、触れてしまえば壊れそうだった。

 マキリは思う。『失敗した』と。

 だってマキリは、ここで見て見ぬふりをすることが出来ない。

 自分はハンターだ。これからどうなるかは置いておいたとしても、今はハンターなのだ。

 目の前にある危機を見過ごすことなどできない。これを見過ごすということはつまり、目の前の少女も、今まで慣れ親しんできた村のみんなも、生存確率が著しく下げることを意味する。

 そんなことは許容できない。

「・・・ごめん、トマリ」

 本心だった。

 自分で、今しがたハンターを諦めるという宣言をしたのに、舌の根の乾かぬ内に真逆のことをしているのだ。幻滅されてもおかしくない。

 ここで逃げるわけにはいかない。けれど、ここで死ぬわけにはいかない。それも事実だ。

 ここで死ねば、トマリが辿る道筋は自分の既知のものになってしまう。それではいけない。

 だから、マキリはトマリを縛る。

「必ず帰ってくる」

 トマリは顔を歪めるが、それでも止めない。

 無理矢理にでも、トマリを生に絡み取る。死ぬことなど許さない。

「だから待ってて。僕が返ってくるまで、健やかに、ご飯を食べて、笑って、待ってて」

 時間稼ぎになればいい。これできちんと生きてさえくれれば良い。解決にならないかもしれない。けれど、解決するための時間は稼げる。

「帰ってくるから」

 マキリはそう言って、トマリの手を指一本一本優しく取り外す。

 トマリの表情はなおも歪んでいたが、少しだけ唇を噛み、部屋の中にあったポーチを引き上げた。散らかっているように見えていても、どこに何があるかはすぐにわかる。

 それの中から一つの麻袋、そして三つの瓶を取り出すと、マキリに押し付けるように渡した。

「・・・待ってる」

 トマリはマキリの縛りを受け入れる。

 そうでなければ、マキリが安心して戦えないから。

 いざという時、動けないから。

 マキリの思惑に乗ってあげる。

 マキリはその返答に頷いて、困惑しながら渡された道具を見る。

「・・・これって」

「全部飲んで」

「え?でも」

「秘薬、鬼人薬、硬化薬、強走薬。今あるのはそれが全部」

 マキリは目を丸くして、渡されたものを見る。そして、少し苦笑いを浮かべると、それを一気に飲み干した。飲み干している間に、トマリは唇を噛み、表情を心配で歪め、しかしそれでも、気丈にマキリを睨み付けた。

「絶対に帰ってきて。じゃないと、死んでも許さない」

 トマリの声には、しっかりとした芯があった。マキリはそれを受け止めて、出来るだけ心配事が消えるように、笑った。

「行ってくる」

 トマリもまた、歪な笑みを浮かべる。

「行ってらっしゃい」

 マキリは窓から飛び降りる。雪で覆われた地面で受け身を取り、衝撃を分散させる。

 体はこの上なく熱くなっている。筋肉が増強されている感覚、皮膚が硬化していく感覚、肺が、足が、全身に走る万能感、そして燃える様な熱さと共に回復していく体。

 無論、全快とは言えない。

 けれど、戦える。

 戦わなくてはならない。

「・・・どこの誰だか知らないけど、落とし前は付けさせてもらうよ」

 マキリは、目の間に立つ名も知らないモンスターを睨み付ける。

 そのモンスターの名は、ゴア・マガラ。

 少しだけ未来に、その名を与えられたモンスター。

『■■■■■■■■■■ッ!!!』

 咆哮と共に、黒い何かが噴出する。

 村は、まるで夜になったかのような暗さに包まれた。

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