この状況を、天は我を見放した。とでもいうのだろうか。
マキリは靄がかかったような頭で、ふと考え、すぐにその思考を押し込めた。黒い塊を避け、そこから飛び散る粒子を出来るだけ吸い込まないようにする。だが、それをやっても体の怠さは消えたりしない。
目の前のモンスター、名前もわからぬそれに対し、マキリはそれなりに善戦した。
満身創痍の中ドーピングを実行し、相手にしたことも聞いたこともない飛竜を相手に、木片を武器に時間稼ぎを試みて、実際に村人たちはほぼすべてが村から姿を消していた。
もしも自分が当事者でなかったら、よくやったと手を叩いて褒めてやりたい気分だ。マキリは若干の笑みと共に考えて、自分の両手両足に目を向けた。
これさえなければ、もしかしたら、勝つところまで行けたのかもしれないが。
両手両足は、何も知らないものが見れば顔を顰めるほどに、気の弱いものが見れば失神するほどに、元の色からはかけ離れていた。
元は雪国特有の日照時間の短さと日差しの弱さによって白かった肌は、真逆の黒がかった紫に変色していた。所々に赤い血管が浮き出ており、その様子がまた吐き気を催させる。その影響は色だけではない。一センチ動かそうとした指が五センチほど動いてしまうような過敏な反応。それが身体のすべてに現れている。マキリが動けているのは奇跡に近い。
もしかしたら自分の顔も、今このような色をしているのかもしれない。思考能力が段々と落ちてきたマキリはそれを考えられずにはいられなかった。
『■■■■ッ』
短く咆哮した竜は、マキリに向かって、地面すれすれを飛びながら滑空してくる。
これを食らったらさぞ痛いだろうな、ぼんやりと頭で考えながら、横に転がる。普段と比べれば緩慢なそれでは、ゴア・マガラの攻撃を完全に避けることは叶わない。背中に浅くない傷が残され、マキリは小さく呻く。
先ほどまで痛いほどに感じていた緊張感はどこかへと霧散し、代わりに緩やかな感慨と諦めと、それとは真逆な、グロテスクな破壊衝動が内側から身体を叩きつけている。
もう何もかもどうでもいい。どうでもいいから壊してしまえ。
理屈も何もない、本能ともいえない何かが頭の中で囁いている。
「・・・あの、黒い粒子、だな」
ゴア・マガラの吐き出す黒い粒子。マキリはなんとなく、その正体が毒の様なものであると推測できていた。
そして、だとしたら、なんと悪趣味なモンスターなのか。
粒子の形にして空気中に散布されれば、空気を吸っている生物すべてにその毒は齎される。身体能力としての脅威はマキリが対処できていることから百歩譲って大したものではないとしても、広域にわたって生物を弱らせる能力など生物の域を超えている。
そんな能力は、一歩間違えれば生態系を完全に破壊してしまう。
それは生物ではなく、天災の所業だ。
「おかしいな」
そんな生物が、選りにもよって、今日、こんな村に来ることも。
様々なモンスターを相手にしてきた父親からも聞いたことがないモンスターが、目の前に現れることも。
そのモンスターに、自分が殺されそうになって居ることも。
「理不尽だ」
しかし、それが現実だった。
ゴア・マガラの絶え間ない攻撃をどうにかして避けながら、あるいは避け損ないながら、マキリはじりじりと後退していく。
マキリの手の中に太刀はない。先ほどすっぽ抜けた太刀は、今のマキリから五十メートルほど向こう側の地面に突き刺さっていた。幸いにも折れてはいないようだが、紫色の腕では太刀を制御することなど到底不可能。過剰な反応をして刃が折れる姿が完全に想像できる。
そして、今の自分に、その太刀が拾えるとも思っていなかった。
何度目かわからないゴア・マガラの突進に引っかけられ、マキリは地面を転がった。
そして、遂に、起き上がることも出来なくなった。
いつしか味わった感覚。起き上がる意思はあっても、身体が動かない。
ほんの少し前、どこかのハンターに会う前の状態にそっくりだった。
「・・・また、かよ」
いい加減にしてほしかった。
朦朧とする頭で、どうにか立ち上がろうとする。けれど体の感覚は異常なままで、一度倒れてしまっては起き上がることすら出来そうにない。
巨大なものがゆっくりと、地面の振動を伴って近づいてくる。
それは絶望の足音でもあるが、ゆっくりとしてくれることはマキリにとっても有り難かった。
死にたくないと思う一方で、心の中は死を受け入れ始めていた。
受け入れてしまえば、あとは残されるものの心配だけがある。
村のみんなは逃げ切れただろうか。子供たちはきちんと無事だろうか。今の自分の様な状態になっては居ないだろうか。道中、他のモンスターに襲われてはいないだろうか。
トマリは、ちゃんと生きてくれるだろうか。
マキリの思考は、最終的にそこに行き付く。
気が付けば、振動は止み、そこには黒い影があった。
こいつは、僕で満足してくれるだろうか。
考え、少し笑った。
こんな巨体が、それで満足するものか。腹が減ったから人里に降りてきたのだろう。獲物が多くいる場所に来たのだろう。
空腹の、激しい代謝を持つ生物がこれで満足する訳がない。
けれど、少しでもこいつの腹が膨れるのなら、犠牲になるのも悪くない。
マキリは身体から力を抜き、静かに目を閉じた。
その瞬間。
「―――ご主人から離れるにゃ!!」
ゴア・マガラの頭が小さな爆発に揺さぶられた。
そして、マキリもまたその爆風に吹き飛ばされた。
「―――ってえ」
鈍くなった痛覚が、それでも痛みを訴えてくる。
だが、それのおかげで少しだけ頭が冴えた。
声には覚えがあった。
「・・・なんで、まだ残ってんの。コジロウ」
「そ、それは、事情があってにゃ」
コジロウはその相好を申し訳なさそうに崩すが、申し訳ないのはこっちだ。
流石に、農場にまで気を回している暇はなかった。
マキリは自分にそう言い訳するが、今、ここにコジロウが居てしまっているということは皮肉にも、マキリに少しの活力を与えた。
マキリは過剰に反応する身体を制御し、どうにかして立ち上がる。
気を抜けばすぐにでも倒れこんでしまいそうな身体を、意志の力でどうにか持ち上げる。
「・・・とりあえず、逃げてくれる?なんとか時間は稼ぐからさ」
精一杯、空元気を飛ばした。
マキリにできることはそれくらいだったから。
正直、戦う力などどこにも残っていない。
けれど、アイルーならば逃げられる。
地中を潜っていくことが出来るアイルーならば。
「・・・遠慮しておくにゃ」
しかし、その覚悟をコジロウは鼻で笑った。
マキリはそんなコジロウを、文字通り死にそうな顔色でにらみつけた。
「君一匹居たって何もできない」
今更だ。
マキリが万全の状態なら、心強いと思ったかもしれない。
けれど既に死に体のマキリには、心強い味方ではなく守らなくてはならない枷に過ぎない。
「その通りだけどな。誰がそいつ一匹だって言った?」
新たな声が聞こえた。
立っていたマキリは、情けないことに、安心感で膝を付きそうになった。
ゴア・マガラでさえ、新たな乱入者に対してどこか計りかねているようだった。
後ろを振り返るまでもなく、その男はマキリを追い越し、真ん中から折れた大剣を背負い、みすぼらしい外套を羽織り、そこに立っていた。
「死にそうな顔してんじゃねえよ。こいつの頭、獲って飾るくらいの意気は見せて貰わなくちゃ困るぜ」
マキリは滲み出そうになる涙を堪える。
「・・・今まで、何やってたんだよ」
少し、恨みがましい声を出してしまった。
そうでもしなければ、倒れこんでしまいそうだった。
それをわかっているかのように、マキリの言葉を笑い飛ばす。
「まあ勘弁しろって。雪山で古龍に遭って、そいつに地面割られて、クレバスの中にある川に落ちて、さっきここに流れ着いたんだぞ?流石に考えてほしいもんだなあ。そんな状況でも助けに来る俺の偉大さって奴を」
マキリは驚愕も呆れも通り越し、笑ってしまう。
そんなことを、まるで二日酔いになってしまったかのように軽く言ってしまうのだ。どこまでも口の減らない男だ。そして、その口の多さが今のマキリには好ましかった。
「・・・さて、この名称不明のモンスターぼろぼろだし、お前の顔色は最悪だし、色々と聞きてえことはある。が、それは後回しだ。とりあえず」
ホイレンは聊か頼りなくなった大剣を構え、ぼろぼろの身体を引きずってなお、不敵な笑みを崩さない。
「一狩り行こうか。マキリ」