ふと思い出したかのように遅めの春を告げ出した桜の木々が、和やかに大勢の人々を賑わせ始めた頃。
僕達は生まれて、私達は死んだ。
強かな光を目蓋に感じて彼女が両眼を見開くと、そこには見る者を拒絶するかのような眩い白が広がっていた。何処までも続く一面の白、それ以外は何も無い。
いや、この表現には語弊があるだろう。
一面の白とは天井に設置された何処にでもある有り触れた蛍光灯の事であり、強い光を受けた彼女の瞳が錯覚を見ただけである。何もない真っ白な部屋に閉じ込められている訳でもなければ、おいそれと神様が姿を現す筈もない。
だが、起き抜けの頭脳が何の前触れもなしに突き付けられた現実を咀嚼できるはずもなく、彼女の頭上には疑問符だけが増えていく。寝ぼけ眼を両手で擦って何度も瞳を瞬かせる彼女の姿は、さながら毛繕いをする猫のようだった。
段々と彼女の視界は開けてきたものの、現状への理解が全く追い付かない。事態を把握する事が出来ぬまま、時間だけが虚しく過ぎていった。
限界まで息を吸い、そして吐く。ソレを何度か繰り返した彼女は徐に瞳を閉じ、複雑に絡み合う記憶の糸を元に戻そうと奮闘し始めた。
此処は、何処?
自分は、誰?
彼女は記憶の修繕に最善を尽くしたが、ぽっかりと大きな孔が空いているだけで何一つ確かな物は得る事が出来なかった。幾度となく試してみても結果は同じ、欠片さえ見つからない。
ぼんやりとした思考のまま彼女は再び眼を見開き、ゆっくりと視線を動かした。自分が頼りにならないのなら他を頼りにするしかない、そう思っての行動だった。
清潔感が滲み溢れて出てきそうな白色の壁、輝く事で自らの存在を主張し続けている蛍光灯。そして、天井の隅には蠢く黒い物体がいた。
影のようで、靄のような、生物かどうかさえ分からない正体不明の黒い物体。
眼を凝らし、ソレをジッと見つめる。すると彼女の視線に気が付いたのか、蠢く物体は天井の隙間に潜り込むようにして消えてしまった。
僕は何も、見なかった。
思考を放棄し、僅かに首を巡らし、視線を横へとズラす。ようやくその時になって自らがベッドに横たわっている事を理解した彼女の口からは、無意識の内に溜息が漏れていた。
時間の経過による風化だろうか、鈍く輝いているリノリウムの床は少しばかり薄汚れている。それでも、慣れ親しんだ自宅のソレとは似ても似つかぬほど綺麗な床だったが。
自宅。
その単語が脳内に浮かんだ瞬間、思い出すなと身体が言わんばかりに彼女は酷い頭痛を覚えた。軋みを上げる額を手で抑え、彼女は苦悶の吐息を漏らす。その間、曖昧な記憶の中に誰かの顔や聞き覚えのある声が、気泡のように浮かんでは跡形もなく消えていった。
暫くして締め付けられるような頭痛が嘘のように過ぎ去ると、今度は彼女の嗅覚が正常に機能し始めた。
リノリウムの床をステージにして踊り続けているカーテンの影から鑑みて、恐らく頭上にあると推測される窓からだろう。部屋の中へと流れ込んでくる微風は、雨上がりのアスファルトが乾き始めた時のような何処か懐かしい匂いを運んでくれていた。
廊下の外には様々な人間の匂いと、馨しい病院食の匂いが混ざり合った奇妙な臭気が立ち込めている。その堪らない匂いを嗅いでいる内に、小さな口の端から雫が落ちかけているのに気が付いた彼女は慌ててソレを手で抑え、何とか決壊を食い止めた。
まだ彼女は寝ぼけていて、もしかすると夢から覚めていないのかもしれない。その匂いを嗅いで美味しそうだと、魅力的に感じてしまうなんて有り得なかった。
食べ物ではなく、人間を。
ある程度の時間が経つと朦朧としていた彼女の意識も次第にハッキリとした物へと変化していった。死後硬直しているかのような首の筋肉を左右に動かして、ぎこちなくではあるが周囲を軽く見回せるようにはなった。
何の変哲もない、ただの一室。それが彼女の第一感想だった。
規則正しく音を刻み続ける壁掛け時計が示す時間は、午後四時ちょうど。壁際に設置された机の上には幾つかの御見舞品や、花瓶に生けられた綺麗な花が飾られている。
それにしても何処か殺風景な部屋だと、彼女は些か疑問に思った。まるで看取ってくれていた人が看護婦以外、誰もいなかったのではないかと勘繰る程に。
何故なら、誰かが来た形跡はあっても誰かが居た形跡が無かったのだ。何かしらの娯楽品どころか、ちょっとした生活用品さえ見当たらない。意識を失っていたのだから仕方ないのかもしれないが。
部屋の出入口のすぐ近くには簡素なカレンダーがぶら下げられており、残念ながら今日が何日か彼女には分からなかったが、今現在が四月である事は読み取れた。
やにわに両眼を閉じて視界情報を遮断した彼女は、スンスンと鼻を鳴らして周囲の匂いを改めて嗅いでみた。微かに香る消毒液の匂いが鼻を擽る。大体の察しはついていたが、やはり此処は病院の一室で間違いないと彼女は確信した。
現在、自らが置かれている状況は理解出来たが、そこに至るまでの過程が皆目見当つかない。
ジッとしていても事態は好転しない、そう決断を下した後の彼女の行動は素早かった。躊躇う事なく腕に固定された点滴の注射針を抜き取ろうとした時、ただならぬ違和感に気が付いた。
眼を背けたくなるような数の赤い痕が、その細腕に残されていたからではない。修復中である記憶の中に存在する情報とは、現在の身体が大きく掛け離れていたのである。
奥歯を強く噛み締めながら、彼女は恐る恐る天井に向けて震える右手を翳した。みるみる内に赤色の液体がチューブの中を逆流し、黄色の薬液を押し戻していく。だが、今の彼女にとってそんな事はどうでもよかった。
まるで葉が散ってしまい、枝だけが残ってしまった枯木のような手の平が彼女の目前にはあった。運動が一番の得意分野で腕っ節に自身のあった彼女にとって、この痩せ衰えたように見える小さな手を自分の物だと理解するのは至難だっただろう。
心臓の鼓動が忙しくなり呼吸が荒れ始めたが、彼女は視線を下へ下へと落としていく。ただ骨に皮膚が張り付いているだけではないかと錯覚を起こしてしまえる程、腕も貧弱な物に見えた。
ここまでの現実を、彼女は何とか飲み込んだ。いくら運動が得意だったとしても、長い間ベッドで寝たきりになっていればこうなる可能性もあるかもしれない、と無理やり自分に言い聞かせて。
だが、彼女が許容できたのはここまで。
傍からみれば健康的に見える黒に近い褐色の肌、ソレが彼女の精神を蝕み続ける決定的な要因だった。時期が時期なら極度の日焼けかもしれないが、今は四月であると先程判明したばかり。
もし仮に日焼けだったとしても、直射日光の当たりにくい腕の内側は薄橙色になっている筈である。今、彼女が眼にしている腕には裏も表も、薄橙色の場所など一切存在していない。
ぢつと手を見る。何かを握り締めても隙間から零れ落ちてしまいそうな小さな掌で、開いて閉じるを繰り返す。何の問題もなく彼女の右手は動いてくれるが、未だに強烈な違和感は拭えない。先程までとは打って変わって、彼女の全身には冷たい汗がとめど無く滲み出していた。
心だけが見知らぬ身体に入れられてしまったかのような浮ついた感覚。重苦しい問題が無情にも山積みになっていくのをヒシヒシと感じた彼女は、心の内を掻き乱されるような胸騒ぎを振り払う為、乱雑にシーツを蹴り飛ばして起き上がった。
半狂乱になりながら注射針を腕から抜き取り、投げ捨てるように彼女がソレを手放した時、チューブが引っ張られた為にガートル台が嫌な音を立てて床に倒れた。
直後、じんわりと彼女の腕から赤色が滲み出したが、捲ってあった患者服の袖を下ろして無視した。
遂に全身を這いずり回る悪寒に耐えきれなくなった彼女は、身体に取り付けられている幾つかの電極を乱暴に引き剥した。だが、あまりの痛さに思わず悲鳴をあげそうになる。
下唇を強く噛み締めて声を上げる事を良しとしなかった彼女の代わりに、枕元にある心電図モニターが悲鳴を上げてくれた。
装着異常の文字と共に甲高い泣き声を上げる機械を尻目に、彼女は直ぐ様ベッドから飛び下りた。ガートル台を飛び越えて、ひんやりと冷たい床を裸足で踏み締める。
その場をぐるぐる歩き回ると関節が錆び付いてしまったのか、ギシギシと節々が痛んだが身体に異常は無い。
歩き回っている途中に一つだけ眼に入った物があったが、敢えて彼女はソレから視線を逸らした。一度、直視してしまえば自分の存在自体が瓦解してしまいそうだったから。
耳障りな金切り声が響く病室の中、彼女は蕩けて乳製品になりそうな勢いで歩き続けた。しかし、考えは一向に纏まらない、纏まる筈がない。
暫くして、歩き疲れた彼女が足を止めた時だった。両頬のあたりに柔らかな何かが触れている事に気が付き、条件反射的にソレを両手で掴む。
痛い。
先程まで全く気が付かなかったが、どうやら髪の毛のようだった。少し青みがかった艶やかな、明らかに日本人離れした灰色の髪。過去の記憶では自分の肌は薄橙色で、髪は黒色だった筈。
では、これは何だ。
立っていられなくなる程の脱力感に襲われた彼女は、机の傍にあったパイプ椅子にドサリと腰を下ろし、膝を抱えて隙間に顔を埋めた。
訳がわからない。
一秒ごとに彼女を苛む焦燥は段々と嵩を増していった。抱きかかえた筈の膝がガクガクと震え、上手く呼吸が行えなくなっていく。
この震えを誰か止めて欲しい。そう彼女が心から願っても、救いの手を差し伸べてくれる人物は現れそうにない。
僕の名前は『 』の筈。では、今の身体は誰の物なのだろうか?
その答えを簡単に見つける方法を彼女は先程発見していた。部屋の隅に小さな鏡が貼られているのだが、ソレを見る勇気はまだ無かった。
ただ単純に怖かったのだ。それに鏡などに頼らなくとも、この身体が誰の物なのか彼女は薄々分かっている。だが、理解はできても納得はしたくなかった。
その時、カサリと何かが額に触れたのを感じた彼女は緩慢な動作で面を上げ、左腕の袖口を捲ってソレを直視した。桃色をしたテープのような物が細い手首に巻かれており、小さく文字が書かれている。
『Age、14』
同い年だったのか、知らなかった。
どうやらまだ続きがあるようで、その後ろにも文字が続いている。ゆっくりと、ゆっくりと彼女は時計回りに腕を回転させていく。膝を抱えた状態のまま、顔の直ぐ前で。
彼女はゴクリと唾を飲み込むと、大きな吐息を吐いてから新たに見え始めた文字を眼で追った。
『BT、B』
B型だったのか、知らなかった。
廊下からは複数の慌ただしい足音が近づいて来ているが、彼女の耳には届かない。
ヨロヨロと椅子から立ち上がり、不確かな足取りで伏し目がちにソレの前まで歩み寄る。ソレのすぐ近くで立ち止まった彼女は褐色の素足に視線を落としたまま、腕時計を見るようにして最後の文字を読み終えた。
そこには、こう書かれていた。
『Name、Zazie Rainyday』と。
読み終えたと同時に、彼女は伏せていた面を上げた。焦燥しきった表情で部屋に駆け込んできた大人達など、彼女の瞳には映らない。命の無い人形のように無表情な少女が、鏡の中で彼女を真正面に捉えて黙り込んでいる。
白衣を身に纏った大人達が患者に声を掛けるより先に、えもいわれぬ喪失感に自立する事さえ儘ならなくなった彼女の膝が床に落ち、鈍い音を響かせる。
そこで、彼女の意識はプツリと途絶えた。
夢なら早く覚めてほしいと、切に願いながら。