第一章 ──黄金の畑に降るもの
ノーブルという名の村は、王都から見れば地図の余白にすぎなかった。けれど私にとっては、季節が穏やかに巡り息づく風の中に人の営みが染み込んだ確かな場所だった。
領主のリューガ家が都へ向かったあと、この村は代官ボルボラの手に委ねられていた。
ふくよかな頬を揺らして笑うその男は、獣を畑に放ってはただ退屈を紛らわせていた。
弟のチャカが走ってくる。
「姉さん、まただよ。あいつ、リベルダムの戦用獣を──!」
私は何も言わずに丘の上から畑を見下ろした。
小麦の穂を踏み荒らす黒い塊。
その前に、ひとつの影が立っていた。
影は男だった。
ずぶとく、そして不思議と鮮やかな存在感を持った男。
次の瞬間、彼は何かを掴み獣に叩きつけていた。
散る粒子、滲む音、そして打ち下ろされる拳。無言のまま彼は動き、貴族らしい呪詛のような叫びを上げてナメクジ型の獣を滅する。
全てが終わったあと、彼は満足そうに手を拭った。
「おい、すげぇな、あんた……」
チャカの声は無邪気で、どこか憧れを含んでいた。
「なあ、あんた、ボルボラを……倒すの、手を貸してくれないか?」
私の視線が一瞬、男と交わる。
男は私を見る。いや、値踏みしているのがわかった。私は目を伏せた。
森の中、男は村の男たちと対面した。
熱を帯びた怒声。代官殺しという言葉が飛び交い、空気がじりじりと焼けていく。
レムオン・リューガ──その名を知る前に、私は彼の声を聞いた。
「平民が手を下せば反乱と見なされる。処刑されるのはお前たちだ。女も子どもも」
言葉は冷たかった。けれどその底に確かな現実があった。
「なら、やってやるさ。黙って殺されるくらいなら、あいつの妻も娘も──」
その声は熱に濡れていた。怒りという名の仮面をかぶりながら、その奥に潜んでいるものはもっと生々しい。
濁った欲望。爛れた衝動。奪うことでしか己を肯定できない男たちの、原始的で退廃的な歓喜。
チャカの瞳が私をかすめた。それは弟の目ではなかった。姉弟という絆が崩れ落ちた。その奥で、ひとりの獣が息づいていた。人の皮を被った獣の目。その中にあったのは、憎悪と──熱を帯びた、忌まわしいほど官能的な欲望。
私は身じろぎもできなかった。身体の奥が、ひどく冷えた。
この村はもう私を女としてしか見ない。男たちの爛れた視線が、私の皮膚をなぞっていく。
世界が音もなく堕ちてゆく音が、はっきりと聞こえた。
そのときレムオン様の声が闇を裂いた。
「乗りかかった船だ。後始末ぐらいは付けてやる」
淡々とした声音。けれどその一言には、烈火のような力があった。私の中で何かが崩れ落ちた。恐怖も、嫌悪も、憐れみも──全部、置いていってしまえた。
彼の背中がゆっくりと動き出す。ただそれを見ているだけで、私は涙が出そうになった。 あの人は誰も責めない。命令せず、怒鳴らず、ただ黙って、抱き締めるように世界を受け止めてくれる。
優しく温かく力強く。それでいて、ひと欠片の傲慢もない。
レムオン様は私に触れる時だけは、人を裁く神ではなかった。ただ一人の男として、私を赦し、私の痛みを引き受けようとしてくれた。
──こんな人に私は一度、体を捧げた。あれが私の始まりだった。誰のものでもなかった私が、彼の中でようやく意味を持てた瞬間だった。
だから私はあの背中を追った。この村の誰にも理解されなくても構わない。彼が私を見てくれるのなら──私は、どこまでだって堕ちていける。
第二章 ──赦しの朝、そして檻
夜が更けて村は焚き火の煙の下に沈んでいた。私は焼け残った納屋の扉を開けた。彼はそこにいた。麦の束を枕に、壁に寄りかかっている。
「眠れないのか」
背を向けたままの低い声。その静けさに心が解けていくのがわかった。
「はい……」
私の声は、風に触れるほどにも小さかった。
けれど彼は振り向かず、私の存在だけを受け入れてくれていた。
私はそっと彼の隣に座る。肩が触れそうで、触れない距離。私の世界にこんな静かな夜があっただろうか。
「弟は、泣いていました」
「だろうな」
ただそれだけのやり取り。
なのに私はもう泣きそうだった。言葉以上に、あの人の声には赦しの熱が宿っていたから。
やがて彼の手が髪に触れた。指先が頬をなぞる。抗わなかった。抗えなかった。
「忘れさせてやる」
その囁きとともに私は抱かれた。燃えた村を遠くに感じながら、彼の体温だけが私を満たした。
ただ一度のぬくもりの夜。名もなき私が、誰かに選ばれたという奇跡。
朝が来た。彼は背を向けたまま言った。
「君が何かを守りたいと思ったとき、また会うことになるだろう」
それは約束ではなかった。でも私は信じたかった。私はもう昨日の私には戻れなかったから。
レムオン様が去ったことは、すぐに村に知れ渡った。
女たちの目。男たちの視線。私を見て笑う唇。そのすべてが無言の告発だった。
「あの娘、貴族に抱かれたんだって」
弟のチャカ。あの子の目も変わっていた。
「……姉さん、オレにもあんなふうにしてくれるの?」
その声に私は拒絶も肯定もできなかった。ただ沈黙した。そうするしかなかった。
ここでは誰かに求められれば応じるしかない。
夜ごと誰かの手が私に触れた。
愛ではない。ただの欲望。体を満たすことでしか、自分の空虚を埋められない者たち。
私はそのたびに、レムオン様の腕の感触を思い出していた。
あの夜だけが私のすべてだった。穢されても、奪われても、消えなかった。
あの夜だけは私のものだった。
ある夜、チャカが言った。
「赤ん坊、できたらどうする?」
その一言で何かが壊れた。私は立ち上がり、家を出た。誰にも告げずただ麦畑を抜けた。
裸足だった。夜露が足を濡らし草が皮膚を裂いた。
それでも痛みすら嬉しかった。生きている証だった。私は生きるために逃げ出した。
──レムオン様。私はあなたの元へ帰ります。
ロストール。城壁の向こうで倒れた私を、彼は再び迎え入れた。
「よく生きて来たな」その声だけで、私は泣いた。
王妃エリスの策。先代の手紙。けれど彼は言った。「この娘こそが異母妹だ」──私は、ノーブル伯に任じられ、彼の義妹となった。
昼は貴族の妹。夜は彼に抱かれる愛妾。
与えられた立場ではなく、自らの価値を証明したくて私は旅に出たいと願い出た。
旅立ちの前夜、彼は私を再び抱いた。その腕は優しく、温かく、力強かった。
彼に溺れることは幸福だった。
この夜だけで生きてゆける。そう思えるほどに──
第三章 ──流浪の始まり
ロストールの門をくぐり抜けた瞬間、私は風を感じた。あの夜の、レムオン様の熱とは異なる冷たい風。
旅装に包まれた私の手には、レムオン様から与えられた短剣が握られていた。
「ノーブル村の娘が、伯爵様の義妹だって? はは、冗談じゃねぇよな」
振り返ると男たちが笑っていた。三人。傷だらけの顔。汚れたマント。その目が私を値踏みしている。
「お嬢さん、今夜は俺たちと……」
男の手が私の肩を掴んだ。その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
レムオン様の言葉が蘇る。
『生き延びろ。守るものができるまで』
私はナイフを抜き、振り向きざまに股間に突き立てた。
「──ッッ!」
男の喉から野獣のような声が漏れた。赤黒い液体が滴り落ち、膝から崩れ落ちる。私は息を荒らげながらその場を見下ろした。
だが終わりではなかった。
「て、てめぇ!」
一人が剣を抜き、もう一人は背負っていた棍棒を構えた。私は喉を鳴らし息を整えた。逃げるか──それとも、戦うか。
しかし足はすくんだままだった。
男たちは容赦なく迫ってくる。その時、股間を刺された男が狂ったように叫んだ。
「殺せ! 殺してやれぇッ!」
その叫びが合図となり、棍棒が振り下ろされた。私は反射的に身を伏せ地面に転がる。
剣が私の髪をかすめ、血の臭いが漂った。立ち上がる間もなく棍棒が再び振り上げられる。
その瞬間、私はナイフを振り上げた。棍棒とぶつかり合う硬い音。力の差が歴然だった。
だが私の目はもう怯えていなかった。
「レムオン様……」
彼の名を呟きながら、私は最後の力を振り絞った。
ナイフを強引に振り抜き、男の喉元に突き立てる。
「がっ──!」
血が噴き出し男はのけ反った。その隙を突いて、私は剣を持った男に向かって駆け出した。
剣が振られる。私は身を沈め彼の足元に滑り込み、膝裏にナイフを突き刺した。
「ぐああっ!」
膝を崩した男の剣が地面に落ちる。私はその剣を拾い上げ最後の一撃を振り下ろした。
残るのは、最初に股間を刺された男だけだった。彼は地面を這いながら私を見上げていた。
「頼む……見逃してくれ……」
彼の目には恐怖が宿っていた。私は血塗れの剣を構え彼の喉元に突きつけた。
「今度、また私に触れたら──殺す」
震える声でそう告げた。男は涙を流しながら頷き、そのまま這いずって逃げていった。
私はその場に立ち尽くし、荒い息を吐きながら自分の震える手を見下ろした。
──だが、これで終わらせてはいけない。
私は再び剣を握り直した。這いずって逃げようとしていた男の背後に近づく。
「ごめんなさい……でも、これで終わらせる」
声は震えていた。だが、手はもう迷わなかった。
剣を振り下ろし、男の首筋に深々と突き立てた。彼の目が見開かれ血泡を噴き出す。そのまま力なく崩れ落ちた。
私は残りの二人にも近づいた。喉を刺した男、膝裏を刺した男。どちらも動けず呻いていた。
「お願いだ……見逃して……」
その声を無視して、私は一人ずつ首を斬った。血の臭いが鼻をつく。吐き気を堪えながら私は死体をまさぐり、金品を掠め取った。
「物取りの仕業に見せかける……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、三人の荷物を掻き集め、血で汚れた服を脱がせ、持ち物を散らばらせた。
最後に剣を振り払い血の跡を消す。視線を上げると、赤い月が夜空に浮かんでいた。
──これが、旅の始まりだ。