ハリー・ポッターと帝王のホムンクルス 作:オリゴデンドロサイト
ダリア視点
試合の次の日の日曜日。朝目を覚まし、お兄様達と共に大広間で朝食をとる。授業が休みのため、いつものようにダフネと図書館にこもり本を読む。
ここまではいつもの日曜日。
廊下を歩くたびに警戒された視線を送られるが、それはいつも通りの光景である。
そう、その日の午前中まではいつも通りの日曜日だった。
日常が狂いだしたのは昼食の時からだった。
これまたいつも通り私とダフネはお兄様達と合流して、今度は大広間に昼食をとりに向かった。
しかし、そこには午前と同じ光景はなかった。
午前中大広間に入った時は、中にいた生徒が一斉にこっちに振り向くものの、ただこちらに視線を時々送ってくるのみにとどまっていた。
だが今回は違った。昼食からの数時間の間に、事態は悪化していた。
大広間に足を踏み入れて最初に見たのは、朝に比べて格段に少なくなった生徒たちだった。そしてその数少ない生徒たちが、あちらこちらでグループになって固まっており、皆額を擦り合わせるようにして話し合っている。それはいつもは見ない異様な光景だった。
しかし、午前と様変わりしたのはそれだけではなかった。
大広間にいる扉の近くにいた女子生徒がたまたま視線を上げ、大広間に入ってきた私に気が付く。そして、
「きゃああああああ!」
絶叫したのだ。恐怖に彩られた叫び声が大広間にこだまする。
あからさまに警戒するのも相当失礼だと思うが、何だか今まで以上に失礼な生徒もいたものだと思った。が、どうやらそれは彼女だけではなかったらしい。彼女の悲鳴で何事かと大広間の全員がこちらを振り向く。そして扉の前にいる私を視界に入れた瞬間、
「きゃああああああああ!」
大勢の生徒が絶叫を上げ、食べかけの昼食をそっちぬけに、大広間の端の方まで逃げて行ってしまった。
突然のことに私は唖然としながらお兄様に尋ねる。
「……もしかして、私の顔に何かついてますか?」
「……いや、何もついていないぞ」
現実逃避気味な質問に対する律儀な回答を聞いた後、私はとりあえず入り口に立っていても仕方がないと、大広間の中で唯一生徒が逃げ出していなかったスリザリンのテーブルに向かった。
私達が入り口から立ち退いたことで、逃げた生徒が一斉に大広間から出ていく。それをしり目に、私はスリザリン生の一人に声をかけた。
「すみません。何かあったのですか?」
私が声をかけた男子生徒は、逃げこそしないがやはり瞳を恐怖に染めていた。
「マ、マルフォイ様。本日はお日柄も、」
「いえ、そういうのはいいので。何があったか早く教えていただけますか?」
私への『継承者』扱いで少し苛立ちながら再び尋ねると、彼は表情を真っ青にして応え始めた。
「き、昨日マルフォイ様が『穢れた血』を
「ダリアは『継承者』じゃない! 何度言ったら分かるんだ!」
お兄様が彼の発言を遮って怒鳴る。お兄様に怒鳴られた生徒は、真っ青な顔をついには土気色にしながら続けた。
「も、申し訳ありません! そ、そうですよね。こんなところでは……。え、ええ。そうです。マルフォイ様は『継承者』などではありませんね」
どうやら大広間で私が『継承者』だとバレる発言をしたことを怒鳴られたとでも思ったのだろう。取って付けたように取り繕う彼は、そのままそそくさと大広間から出て行ってしまった。
ほとんどスリザリン生以外いなくなってしまった大広間で、私はポツリとつぶやく。
「……ついに、生徒に被害が出てしまいましたか」
「……そのようだな」
「でも、これではっきりしたね」
私に応えるお兄様の横でダフネが元気な声を上げる。
「ダリアは『継承者』ではないって証明できるよ! だって、私は昨日の夜ずっとダリアと一緒にいたもん! アリバイ成立だよ! さっそくあの馬鹿達に言いに行かないと!」
「……ダフネ。残念だがそれは証拠にはならない」
元気いっぱいに言ったかと思えば、じゃあ早速と走り出そうとするダフネにお兄様が待ったをかける。
「どうしてよ!? だって、」
「お前はスリザリンだ。お前の意見をあいつらが聞くことはないだろう。それに、お前はいつもダリアと一緒にいる。それに聖28一族だ。最悪お前も共犯扱いされるだけだ」
「そ、そんなの、」
「ダフネ、お兄様の言う通りです」
お兄様の言に、ダフネが怒り出す前に私が遮る。お兄様の言うことは正しかった。そんなことで疑いが解消できるなら、最初から私は疑われてはいない。
「ダ、ダリア。どうして? そんなのおかしいよ。そ、そうだ、確かに生徒はそう思うかもしれないけど、先生達なら、」
「ええ。確かにスネイプ先生くらいなら信じてくださるかもしれませんね。でも、ダンブルドアあたりはどうでしょう?」
「っ……」
ダフネは何も言えなくなり俯いてしまった。彼女も分かってしまったのだ。ダンブルドアがダフネの話を信じてはくれないことを。正確には、ダフネの言葉を持って証拠とはしてくれないことを。
ダンブルドアは、私がミセス・ノリスが襲われた現場にいなかったのにも関わらず、躊躇わず私を疑った。なら今回も同じだ。ダフネと一緒にいたからと言って、それが私がやっていない証拠にはなりえない。
そのことに気が付いてしまったダフネは、俯きながら肩を震わせている。時々嗚咽が漏れることから泣いているのだろう。私はダフネに手を伸ばしかけ、そして引っ込める。
「こんなの……こんなの絶対おかしいよ……」
沈黙した私たちの間に、ダフネの嗚咽だけが響いていた。
その様子をどこか悲しそうに見ていたお兄様が、
「『継承者』は一体誰なんだろうな……」
そう小さく呟くのを聞きながら、私は私のために涙を流すダフネを見つめることしかできなかった。
だから、この後起こることはきっと罰だったのだ。
ダフネを突き放すこともせず、ただ漫然と彼女と付き合っていた私への。
ハーマイオニー視点
「時間がないわ」
「ああ、そうだね」
作りかけのポリジュース薬をかき混ぜながら呟く私にロンが同意する。でも、多分私が言っている意味と、彼の言っている意味は全く違うものだろう。
今朝、私達は昨晩コリン・クリービーが襲われたと知った。先生達が偶然話しているのを聞いてしまったのだ。
そして、それはどうやら私達だけではなかったらしい。お昼時にはもう、昨日の事件のことを生徒全員が知るところになっていた。
皆ついに生徒が襲われたことに恐れおののき、そして、
「ダリア・マルフォイに早く吐かせないと。そうでなくちゃ学校中のマグル生まれの子が石にされてしまうよ」
「……」
皆今最も『継承者』と思われているマルフォイさんを異様に恐れるようになっていた。いたる所でされるひそひそ話。その内容は、いかにマルフォイさんから逃げるか、そんな内容ばかりだった。
しまいにはお祓いグッズまで売られる始末。どうどうとダリア・マルフォイ避けと書いているグッズまで存在していた。午前中にネビルがウィーズリー兄弟から買っているのを見つけた時は、思わず全部没収して暖炉の中に放り込んでやった。
まだマルフォイさんの姿を見ていないけど、きっと彼女もこの状況にすぐ気が付くことだろう。彼女はこの状況を知って、あの無表情の下で一体何を思うのだろうか。
私は、いつもの冷たい無表情でも、その瞳から静かに涙を流す様子を思い浮かべてしまった。
「……はやく、完成させなくちゃね」
決意を込めて鍋をかき回していると、突然女子トイレの中に誰かが入ってきた。
濡れた地面を踏む音に驚きながらそちらを振り返ると、入ってきたのはハリーだった。
「ハリー! びっくりしたわ! 腕はもう大丈夫?」
「うん。この通りさ」
そう言って元気いっぱいに腕を振り回すハリーに苦笑していると、ハリーは急に真剣な表情になった。
「聞いてくれ。昨日の夜、実はコリンが襲われた」
またその話だった。今日はどこでもその話で持ち切りなため、正直うんざりしていた。
「コリンについてはもう知ってるわ。だからすぐに薬を作らなくちゃと思ったの」
鍋に顔を戻し、ニワヤナギの束をちぎりながらハリーに言うと、彼はまた続ける。
「それだけじゃないんだ。実は昨日の夜、医務室にドビーが来たんだ」
今度こそ私は驚いて顔を上げた。ドビーといえば、ハリーの家に夏休み現れた『しもべ妖精』だと聞いていた。その場でホグワーツに帰るなと言われ、さらに彼の暴挙で監禁生活になったとも。何故彼はまたハリーにもとに現れたのだろうか。
「ドビーは自分がブラッジャーを操ってたと言ってた。僕をホグワーツから家に帰すために……。それとこうも言ってた。『秘密の部屋』は以前にも開かれたことがあるって」
どうやらドビーはまたハリーを家に帰すために来たらしい。それも今度はブラッジャーを使うという強硬手段まで使って。一体なぜそこまでしてハリーを家に帰そうとするのか。分からないことだらけだった。でも、そんな中で分かったことが一つだけある。
「……とりあえず、ブラッジャーの件はマルフォイさんではないと分かったわね」
「……まあ、そうだね」
私の言葉にハリーがしぶしぶ頷いていると、横に座っていたロンが意気揚々と口を開いた。
「確かにブラッジャーはあいつの仕業ではなかったけど。これで決まったな。ダリア・マルフォイが『継承者』で間違いないよ」
……何故そういう結論になるのだろう?
私は怒りを抑えながら顎で続きを諭すと、ロンはしたり顔でつづけた。
「ルシウス・マルフォイが学生だった時に部屋を開いたんだよ。そしてそれをダリア・マルフォイに受け継いだ。間違いないね」
議論をする以前の問題だった。何故そんな結論になるのか想像もできなかった。
「ロン……以前扉が開けられたからと言って、それがマルフォイさんのお父さんかも、ましてやマルフォイさんが開けた証拠にもならないわ! それはあなたの願望よ!」
ここまで言ってもなおマルフォイさん犯人説を言いつのろうとするロンを無視し、私は鍋の中にヒルを叩き込んだ。
馬鹿と付き合っている時間がおしかった。
ポリジュース薬の完成まであとわずか。後二三材料を入れるだけで完成する。でも、そのいくつかの材料が問題だった。
「よし。もう薬はほとんど完成したわ。後はスネイプ先生の倉庫から残りの材料を盗み出すだけよ」
私の前でマルフォイさんの犯人の可能性を真剣に語り合っていた二人が、この世の終わりのような表情に変わった。
「……ハーマイオニー。でも、どうやって?」
ハリーが顔を青ざめさせながら聞いた。材料倉庫はスネイプ先生の私室、そして魔法薬学教室の横にある。授業中は勿論、それ以外の時間でも、ほとんどの時間を地下で過ごすスネイプ先生に見つかるのは必至だった。
だから、
「気をそらすのよ」
私は顔の青いロンとハリーを勇気づけるためきびきびと続けた。
私も怖いけど、これをやらないと薬は完成しない。マルフォイさんが無罪だと証明できない。
「あなたは授業中にひと騒動起こして。その間に私が盗みだすわ。私なら前科がないし見つかっても退校処分にはならないわ。あなた達はほんの5分くらいスネイプ先生を足どめしてくればいいの」
私は彼らを、そして自分自身を勇気づけるために言ったのだけど、
「授業中に騒ぎを起こした方が殺されそうだよ……」
ハリーはさらに落ち込んだ様子だった。
ハリー視点
12月第2週目。魔法薬の授業。
僕の薬を散々馬鹿にした後、スネイプはネビルの机の方に歩いて行った。そしてスネイプが僕に背中を向けた時、ハーマイオニーが合図を送ってきた。
時が来てしまった。
僕は嫌な音を立てる心臓を抑えながら、そっとポケットの中の花火を取り出し、杖で火をつける。
これをやってしまえばもう後戻りはできない。ばれたら最後、スネイプは僕を嬉々として退校にしてしまうだろう。でも、これをやらなければダリア・マルフォイを捕まえれない。そうすればコリンだけじゃない、もっと大勢のマグル生まれの子が襲われてしまう。その中には、ダリア・マルフォイを未だに信じているハーマイオニーもいるかもしれないのだ。
僕はやるしかなかった。
大切な友達を守るために。
火をつけて数秒、僕は狙いを定めて花火を放り投げた。そしてそれは、
ゴイルの鍋に着弾した。
ゴイルの薬が爆発し、今製作中の『ふくれ薬』がクラス中に降り注ぐ。阿鼻叫喚だった。皆一様にいたる所が膨れ上がり、中には鼻が風船のようになっている生徒もいる。
皆が右往左往しながら悲鳴を上げる中、どさくさに紛れてハーマイオニーが教室を出ていくのが見えた。
「静まれ! 静まらんか!」
スネイプが怒鳴ることで、教室は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「薬を浴びたものは『ぺしゃんこ薬』をやるから並びたまえ」
そうスネイプが告げると、皆スネイプの前に進み出た。一番被害にあってほしかったマルフォイ達に目を向けるが、どうやら薬を浴びなかったのか前に出ていなかった。
マルフォイ兄妹と、確か……グリーングラスとか言うスリザリン生はスネイプの前に出ることなく、自分たちの机の前にいた。
そして何故か、もめているようだった。
三人からは、
「見間違いです!」
などとダリア・マルフォイの大声が聞こえる。いつもの教室なら皆が振り返るような声量だが、スネイプが静めたとはいえまだ教室の中はざわついており、僕以外がそれに気が付くことはなかった。
何をやっているのだろうと目を凝らそうとするも、
「取ってきたわ」
ハーマイオニーがいつの間にか帰ってきており、僕に作戦の成功を告げたため意識がそれてしまった。見れば彼女のポケットが盛り上がっていた。
「やったね!」
小声でハーマイオニーに返してから再び視線を向けると、三人は一人になっていた。
そこには、俯いたグリーングラスだけがいて、マルフォイ兄妹は教室のどこにもいなくなっていた。
どこに行ったのかさらに探そうとするも、
「これを投げ入れたものが分かった暁には、そのものを吾輩は間違いなく退学処分にする」
突然の冷たい声に振り向くと、そこにはこちらをジッと見つめるスネイプが立っていた。その手には僕の投げ込んだ花火を持っている。
僕は表情を取り繕うのに必死で、マルフォイ達を探す余裕などなくなっていた。
ダリア視点
それは見たのは偶然だった。
ダフネの鍋が噴出しているのに気が付き、それを指摘したところ、
「ぎゃあ!」
女の子が出してはいけない声を出しながら火を調節しようとするダフネ。
そんなダフネをどこか微笑ましく見ていると、ふと、ダフネの肩越しにあり得ない光景が目に飛び込んできたのだ。
授業中にあるはずのない小さな花火が、ゴイルの鍋に飛び込んでいたのだ。
それを見た瞬間、私はお兄様の肩を掴み、机の下にねじ込んだ。
「ぐえ」
お兄様のうめき声が聞こえた時には、ゴイルの鍋が爆発した。
教室中に『ふくれ薬』が降り注ぐ。私はそんな中杖を取り出し……ダフネに防御呪文をかけていた。
……いつもの私、いや、去年までの私であれば、とっさに私とお兄様だけに防御呪文をかけていただろう。でも、私はそうしなかった。
私は一瞬、私の防御呪文では私達とダフネを同時に守ることができない、そう考えていた。ダフネは、私とお兄様の机の隣の机で作業している。お兄様とダフネを同時に魔法で守ることはできない。
そして気が付いた時には、お兄様を机の下に押し込め、そして、ダフネに防御呪文をかけていた。
だからこれは必然だったのだろう。私のような化け物が、家族以外に情を持ってしまった。そんな過ちのつけが、今私に降りかかったのだ。
私が去年から見ないようにしていた罪が、私に返ってきた。
ダフネに保護呪文をかけた私に、容赦なく薬が降る。それは少量で、しかも腕にわずかにかかっただけではあったが、確かに私にかかってしまった。
私に
私なら
ダフネ視点
ダリアに指摘されて慌てて鍋を見ていると、それは突然起こった。
突然の大きな音。驚いて顔を上げると、そこにはゴイルの鍋が爆発している光景があった。
降り注ぐ薬。私はいきなりのことで、とっさに何もすることが出来なかった。
でも、私に薬がかかることはなかった。ダリアが私に防御呪文をとっさにかけてくれたのだ。
ダリア自身を犠牲にして。
ダリアは、自分に防御呪文をかける前に、私に呪文をかけていた。
教室中が阿鼻叫喚に包まれる中、私はダリアの腕に薬がかかるのを確かに見てしまった。腕にかかった薬が服を溶かし、彼女の白い肌を焼き、そして膨れさせる光景を。
皆が体のあちこちを大きくしながら右往左往する中、私はすぐにダリアに駆け寄った。
「ダリア! 大丈夫!?」
私が慌てて話しかけた時、ダリアは困惑したように返した。まるでなんで自分がそんなことをしたのか分からない。そんな態度だった。
「……ダフネ。怪我はありませんでしたか?」
どこか絞り出すように問う彼女に、
「うん! ダリアが呪文をかけてくれたから、私は平気! でもダリアは!? 腕を見せて! 薬がかかったんでしょう!?」
そう言って無理やり腕をとって見る。
しかし、そこには傷など
確かに彼女に薬がかかるのを見たというのに。
「あ、あれ?」
私が腕を見た瞬間、ダリアは一瞬目を見開き、慌てたように腕を引っ込めた。
「ど、どうやらダフネの見間違いですね」
それはひどく狼狽した声だった。
「で、でも。さっき、」
「見間違いです!」
ダリアはそう大声で私の言葉を遮った。そこには明確な、今まで以上の拒絶があった。
ダリアは私を無表情で睨みつけたかと思うと、教室から逃げるように出て行ってしまった。ドラコも彼女を追いかけるように教室から出ていく。
「ま、待て、ダリア!」
取り残された私は、今更ながら思い出していた。
吸血鬼の特徴に、驚異的な再生力があることを。
すでに彼女が吸血鬼であることを私が知っているとは、ダリアはまだ知らない。
私は、思いがけずダリアの秘密に土足で踏み込んでしまったのだ。
私を激しい後悔が襲う。
私がダリアに友達として認めてもらうには、いつかは彼女の秘密に触れないといけない。それは分かっている。
でも、少なくとも今ではなかった。
こんなダリアが苦しんでいる時では、余計にダリアを苦しめるだけだった。
だって、彼女が私を睨んだ時。確かに彼女の眼には涙が浮かんでいたのだから。
それはまるで、迷子のような表情だったように私は思えた。
ダリア視点
私は誰もいない廊下を走っていた。当たり前だ。まだ授業中の時間帯なのだから。
私は走った。逃げるために。
私の秘密を知ってしまったかもしれないダフネから。
ダフネの瞳に映っているだろう自分自身から。彼女の私に対する恐怖心から。
「おい! ダリア! 待て!」
目的もなく走っていた私に後ろから声がかかる。お兄様の声だった。
「……お兄様」
私は立ち止まり応えるが、振り返りはしなかった。
今お兄様の顔を見れば、私は泣いてしまう。そんな気がした。
誰もいない廊下に、お兄様の荒い息だけが響いていた。
「……ダリア。……どうしたんだ? いきなり飛び出したりして」
「……お兄様。わ、わたし、ダフネに見られてしまいました」
「……」
「気が動転してて……。つ、つい失念していたんです。だ、だから……」
呻くように話す私を、お兄様が黙って後ろから撫でてくださる。でも、私の言葉は終わらなかった。
「わ、わたしのことがダフネにばれてしまったかもしれません。吸血鬼だとまでは分かっていないかもしれませんが、で、でも、わたしが化け物だってことは、」
「そんなことはない!」
突然の大声に私はようやくお兄様に振り向いた。
そこには、やはり優しいお顔をしたお兄様がいた。
でも、今の私には、その表情が辛かった。
「お前は化け物なんかじゃない! お前は、」
「だったらお兄様。お兄様はすぐに傷が治る?」
言葉に詰まるお兄様。私は続ける。
「お兄様はニンニクが苦手? お兄様は日光で肌が焼ける? お兄様は銀で傷がつく? お兄様はトロールより力が強い? お兄様は血を飲む? お兄様は蛇としゃべれる?」
私は最後に囁くように言った。
「お兄様は……人を殺すのが楽しいと思う?」
お兄様は……何も言えなかった。口を開きかけては何か話そうとしていたが、結局、何も言うことはできず口をつぐんでしまった。
「そうですよね、お兄様。お兄様はそんなことはないですよね。お兄様は優しいから」
私はきっと泣きそうな声で話している、そんな気がした。
「……昔、お兄様は言ってくださいましたよね? 私は誰かを傷つけることを望んではいないと。だから私は化け物なんかじゃないって。でも違うんです。違ったんです。私は知ってしまったんです。私自身のおぞましさを」
あの日のように静かな廊下。でも、あの日は遠く、そして前提も違ってしまった。私は、誰かを傷つけることを望んでいないわけではなかった。
「……ダリア」
「去年のクリスマス。私はダンブルドアに見せられたんです。私の心の奥底にある望みを。私は……心の底では誰かを殺したがってる! お兄様も見たでしょう!? 禁じられた森で! 確かに私は初めはお兄様を守ることで頭がいっぱいだった。でも、途中からは違ったんです! 私は!」
私は唸るように、まるで懺悔するようにポツリとつぶやいた。
「私は途中から……楽しくて仕方がなかったんです」
あの雪の日と同じ私たち以外いない場所。同じような懺悔。
でもあの日と違い、やはりお兄様から答えはなかった。
「どうしよう……お兄様。わ、わたし、ばれてしまった。私が化け物だって。家族に迷惑をかけてしまう。きっとマルフォイ家を穢してしまう。……ダフネが離れて行ってしまう」
ダフネから離れなければいけない。そう思っていたのに。
ああ……なんて愚かなのだろう。
彼女に好かれまいとしていたのに……
私は……どうしようもなくダフネのことが好きになってしまっていたのだ。
家族に迷惑がかかるかもしれない。そのことと同じくらい、ダフネが離れて行ってしまうことを恐れる程に。
ホグワーツ生徒の全員が私を恐れようとも構わなかった。でも、ダフネに怖がられることだけは……耐えられなかった。
「いやだよぅ……ダフネに嫌われるなんて……」
「……ダリア、大丈夫だ」
俯いたまま涙を流す私を、お兄様はただ大丈夫と繰り返しながら抱きしめていた。
この日から、私とダフネが共にいることはなくなった。
私は……ダフネから逃げ出した。