敗戦日本の元下士官・北郷一刀は、大陸戦線の死地で命を落とし、次に目覚めたのは三国志の異世界だった──しかも、かつて自らが皇帝となり、関羽ら配下の女傑たちに処刑された過去を夢として見た直後に。
記憶と策謀を武器に、今度こそ生き抜くと誓う一刀。

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後漢蹂躙の結果

 人は二度死ぬ。

 一度目は肉体が果てるとき。

 二度目は、生きていた事実すら忘れられたとき。

 俺の名は、北郷一刀。日本という国が、まだ帝国と名乗っていた頃の亡霊だ。

 午後の陽は優しかった。だからこそ、その空気の中で嗅ぎ取る血と硝煙の匂いは、あまりにも異物だった。

 缶詰の飯に、火薬の臭いが混じる。腸の奥を掻き回すような戦場の空気。

 それでも食わなければ死ぬ。死んでも食っていたいのが兵士の性だ。

 

「お前達は祖国日本の礎として、同朋の為に戦い御国に奉公するのだ」

 

 そう言って俺達を売り払ったのは、閻錫山と帝国陸軍現地部隊の上層部だった。

 玉砕は美徳、切り捨ては戦略。ふざけるな。

 人は、使い捨ての鉛筆じゃない。

 

 

 1948年、夏。支那大陸は、再び地獄の口を開けた。

 東北剿匪戦線、綿州戦区。

 衛立煌上将率いる中華民国軍60万と、林彪の東北人民解放軍70万が激突するその中心に、俺達はいた。

 皮肉にも、俺の階級は連長代理だ。

 元はただの排長――小隊長にすぎない俺が、今や砲撃の雨の中で部下たちの命を背負っている。

 

「第一線の営が抜かれました! 共軍がこちらに接近中です!」

「ふーん。……そうか」

 

 報告を受けた俺の反応はどこまでも乾いていた。

 ソ連製T-34戦車の轟音が鼓膜に刺さる。

 帝国陸軍の豆鉄砲が、あの鉄の棺桶に通じると思うか?

 火線が交錯し叫びが飛び交う。その混沌の中で、俺は一つだけ確信していた。

 

 ――ああ、これで死ねる。

 

 それは希望でも諦めでもない。

 ただ機械の様に動き続けた兵士の、静かな終了予定通知だった。

 

 

 

 

「陛下」

 

 ……声がした。

 

「ん……?」

 

 目を開けると、黒髪の少女がいた。

 琥珀の瞳、艶やかな髪。鋭い視線と確かな殺気。

 

「関羽……?」

 

 それは、三國志の英傑。

 ……いや、あり得ない。死の果てに見る夢だろうか?

 だが彼女の刃は冷たく、肌に触れる指は生きていた。

 夢ではない。

 ここは俺が知っていた歴史ではない。

 天がねじれ運命がねじ曲がり、理の帳が破れたような世界。

 英雄は女になり、俺は御遣いとして迎えられる。

 狂気の箱庭に俺は再び放り込まれた。

 ──だけどな、俺は知ってる。

 この世界もまた、裏切りと滅びのスパイラルに飲まれていくってことを。

 だから俺は生き残るために戦う。

 三度目の死が訪れる前に、この手で何かを掴むために。

 

「過去は、消えない」

 

 そう誰かが言った。

 だが過去が続いているとしたら――それはもう罰でしかない。

 殺したはずの顔にまた会った。

 何の冗談か、どんな地獄か。

 俺を殺した女――関羽が、目の前で手を差し伸べていた。

 

「……怪我はありませんか?」

 

 関羽、字は雲長。

 名乗るほどの距離も、信頼も、記憶も無いはずだが――

 知っている。痛いほど知っている。

 

「……ああ。ありがとう、助かったよ」

 

 間違っても再会とは言わない。これは歯車の狂った再起動だ。

 その世界は、あの時とよく似ていた。

 空は高く風は乾いていて、張飛はやはり馬鹿だった。

 

「鈴々は鈴々なのだ! お兄ちゃん、戦うのだ!」

 

 彼女たちは俺の過去を知らない。

 俺のあの世界を、あの血と裏切りの地獄を、知らない。

 なのに俺の胸の奥には確かに残っていた。

 関羽の拳が腹に沈み込んだ感覚。諸葛亮が顔を背けた時の無音の裏切り。馬超が吐いた唾の温度。

 そして俺の首が刎ねられる直前に聞いた、あの桃髪の少女の――泣き声。

 

「流琉が殺された。家族も焼き殺された。全部、アンタの軍師のせいだよ!」

 

 ……全部、覚えてる。

 

 目の前で笑う関羽の顔と、俺の脳裏にこびりついたあの関羽の記憶が重ならない。

 だが声は同じだ。瞳も、歩き方も、刀の重みさえも。

 ならあれは夢だったのか? それとも今こそが幻なのか?

 この世界のどこかに、もう一度あの地獄が待っているとしたら──

 

(……今度こそ、間違えずにやってやる)

 

 俺はこの手で、俺の運命を選び直す。

 そのために必要なのは理想ではない。正義でもない。ましてや忠誠なんて言葉でもない。

 力うどんの品名の頭に付く力だ。

 何もかもが嘘で塗り固められたこの世界で、生き残るために必要なのは力だ。

 

「──御遣い様、民草は苦しんでおります」

 

 関羽の言葉に少しだけ息が漏れた。

 

 ああ、そうだった。お前はそう言っていた。前の世界でも。

 

「どうか我らが主と成って、この乱世を治めてください」

 

 まるで繰り返される録音テープのように。変わらぬ台詞を同じ顔が語る。

 滑稽だ。

 けれど──それでも、ここで頷いたのは俺の意志だ。

 

「……分かった。やろう、関羽」

 

 その瞬間、目の前の世界が分岐したのを確かに感じた。

 遠くまだ見ぬ未来の俺が笑っていた。

 どんな罪を犯し、どんな敵に殺され、どんな女に裏切られようとも。

 その先にあるものを、確かめるために。

 

「だったら、何度でもやり直してやるよ」

 

 たとえその果てがまた──地獄だったとしても。

 

 

 

 

 正義という言葉には、いつだって――都合が含まれている。

 それを知ったのは最初の戦場だった。

 それでも俺は、もう一度旗を掲げた。

 なぜなら、それが生き残るための最低条件。生存戦略だったからだ。

 

「この村を出立して、賊を討つ」

 

 関羽の言葉に誰もが沈黙した。

 煙の臭いが鼻腔を焼く。

 焼かれた家屋。汚泥に沈んだ死体。声を失った子どもたち。

 張飛が無邪気な声で叫んだ。

 

「鈴々たちで悪い奴らを退治するのだ!」

 

 ──やめろ。

 

 その言葉はあまりにも無垢で、あまりにも残酷だ。

 村は怯えていた。だが関羽はその怯えすら刀で叩き伏せた。

 

「矢ぐらいは運べるだろう! 子供でも、年寄りでも!」

 

 振り下ろされた机が砕け静寂が破られた。

 

(……俺は何をしてるんだ)

 

 前世で一度、全てを壊した俺が再び守る側に立つ。

 笑わせるな。何が義勇軍だ。

 女に命令され、民を叱咤して賊に殺されに行く? 

 正気の沙汰じゃない。

 だが――俺は口を噤んでいた。

 なぜなら、あの時のように黙って従った者が最後に生き残ったからだ。

 前線で命を賭ける馬鹿より、口を閉ざして策を練る奴の方が生き延びた。

 

(俺の役目はそっちだ)

 

 関羽も張飛も、狂気を武という衣で正当化していた。

 だが俺には剣も拳もない。あるのは、卑怯と打算と前例だけだ。

 

「……戦うなら勝たなきゃ意味が無い。数で負けてるなら、勝ち筋を作れ」

 

 その一言で、俺は再び参謀として指標を定めた。

 関羽の剣が進む先に負けがないように。張飛の無邪気が、地獄に墜ちないように。

 そして俺自身が再び裏切られないように。

 陽が昇る。

 炎の中で産声をあげた義勇軍が、ついに戦場に立った。

 

「敵は丘の上に陣を構えている。四千だ」

「うわー。数だけは立派なのだ!」

 

(賊徒とはいえ四千相手に、即席の民兵百二十。狂気の沙汰だ)

 

 普通の戦術では勝てない。

 ランチェスターの法則? 机上の空論だ。

 そんなもんが通じるなら、とっくに帝国は敗けてなかった。

 

「命を守りたい奴は五人一組で動け! 一人を殺すために五人で行け。いいか? 生き残りたいなら孤独になるな!」

 

 命令は簡潔明瞭に、だ。難しい言葉を使えば、素人は思考を止める。

 関羽が叫ぶ。

 

「仇を討て!」

 

 張飛が吠える。

 

「突撃なのだーっ!」

 

 ――地獄の始まりにしては、ずいぶん軽い音がした。

 

(逃げるなら、今のうちか……)

 

 俺は後ろを見た。

 だが誰も逃げていない。震えながらも皆前を向いていた。

 そうだ。人は狂気の中でしか、希望を持てない。

 

「賊将、討ち取ったーっ!」

 

 関羽の声が空を裂いた。

 それを合図に戦場は反転する。

 矢は止み敵は乱れ、村の義勇兵たちが次々と賊を斬り伏せていく。

 

「こ、これが……勝ち?」

 

 泥まみれの子供が泣きながら剣を握っていた。

 その剣にまだ温かい血が滴っていた。

 俺は何も言えなかった。

 彼に何もかもを教えてやるほど、俺も清らかではないからだ。

 黄巾賊は潰えた。

 残ったのは死体と煙と、剥き出しの力の記憶だけ。

 

「御遣い様、この村を治めてください!」

 

 住民の一人が叫んだ。

 関羽と張飛が振り返る。司祭のような眼差しで俺を見る。

 ……なるほど。これが、この地獄の契約というわけだ。

 

「いいだろう。俺が治める」

 

 笑った。

 前世の俺が最後に喪った信頼という名の亡霊が、また肩に憑いていた。

 

「これは覇道だ。信義じゃない」

 

 その言葉をまだ誰も理解していなかった。

 人は過去に生きる。

 未来を語りながら、実際に信じているのは昨日の記憶だ。

 ……だから俺は信じない。希望も正義も。

 信じるのは、生き残るための計算式だけだ。

 戦の煙が消えても匂いは残る。

 死体を焼いた火。濡れた血のにおい。

 泣き叫ぶ遺族と、乾いた目で物資を漁る兵。

 それが勝者の村の風景だった。

 

「御遣い様、こちらは昨日降った賊どもです」

「……そうか。なら殺せ」

「ですが……」

「罪人を生かしても食糧が減るだけだ。俺達は神じゃない。食い扶持に余裕はない」

 

 斬首は当たり前になった。

 そう、俺たちは合理的に戦っている。

 犠牲も悲劇も戦略の一部だ。

 ……少なくとも、今の俺はそう思い込める。

 影響は波のように広がった。

 隣村が救援を求めてきた。

 次に街が使者を寄越した。

 

「このあたりは、もうあなたの領土も同然ですな」

 

 村長の言葉に苦笑が漏れた。

 冗談じゃない。俺は覇者になりたいわけじゃない。

 

(……だが、そうするしかない)

 

 支配とは責任の別名だ。

 生かすということは守るということ。

 守るということは、殺すことを決めるということ。

 その構図に気づいていたから、俺は早めに決断していた。

 

 

 

 

 それは巡回中のことだった。

 山裾の道を行く先に煙と悲鳴が上がる。

 

「鈴々、突撃なのだーっ!」

「おい待て、単騎はやめ──」

「ぎゃあああああああああああっ!?」

 

 予想通り奇声とともに張飛が賊を弾き飛ばしていた。

 関羽が後続部隊に命じ、俺も歩兵を展開。

 その最中、瓦礫の影に何かが見えた。

 

「……おい、お前、大丈夫か」

「あ、あわわ、あわわっ!?」

 

 帽子。とんがり。ふわふわ。

 子供の絵本から飛び出してきたような、小さな魔女がいた。

 

「き、ききき、きょ、恐喝ではなくてっ……!」

 

 あわてて口にした彼女の声は滑稽で、悲鳴じみていた。

 

「……落ち着け。俺は襲わん」

「う、ううう、うひぃ……鳳統と申します、字は士元でっ!」

 

 そこに背後から歩いてきた女がいた。

 しなやかな体、燃えるような眼差し、けれどどこか達観した口調。

 

「私は司馬徽。彼女の先生です」

 

 ──ああ、この二人だ。

 

 俺の知識が警鐘を鳴らした。

 前世の記憶。

 鳳統と司馬徽。

 この二人が、劉備の未来を支えた頭脳であることを。

 だが今、この場に劉備はいない。

 俺がいる。

 

「なあ、君ら。俺のそばに来ないか」

 

 正直な気持ちだった。

 政治は俺の専門じゃない。

 俺に必要なのは、口が立ち、数字が読め、未来を予測する脳だ。

 その言葉に、鳳統がぱっと顔を輝かせる。

 

「よ、良いんですか!? わ、私、役に立ちます! ま、ま、任せてください!」

 

 ……その笑顔が、あまりに純粋で眩しかった。

 その夜、天幕で二人を迎えた。

 横に関羽が立ち、張飛が外を見張っている。

 

「さて。雛里、司馬徽。改めて言う。お前たちの才能が欲しい」

「私たちに何をさせるつもりですか?」

 

 司馬徽が問う。

 

「軍政。内政。命令系統の整備と文官の訓練。そして、……いざという時、俺を止めてくれ」

「……止める?」

「俺は、戦場で狂うことがある。誰かがブレーキを持ってなきゃ、同じ結末になる」

 

 同じとは、あの世界。あの地獄。

 信じた女に裏切られ、命乞いを無視され処刑された俺。

 司馬徽は一拍の沈黙のあと、こう言った。

 

「分かりました。私たちは、あなたの良心になります。……ですが、それはあなたが私たちを信じるならです」

「信じるよ」

 

 即答だった。

 信じるしかなかった。

 彼女たちの才を使い切らなければ、次の戦を生き抜けない。

 戦場には天使よりも悪魔の方が必要だ。

 

「じゃあ、まず仕事だ」

 

 俺は地図を広げ、黄巾の別動隊の位置を指した。

 

「次の戦だ。賊の動きに先回りし、撃滅する。今回は速く、静かに、確実に」

「ふぇぇぇ……また戦なんですか……」

 

 泣きそうな鳳統に関羽が微笑む。

 

「安心せよ。御主人様が居る限り、我らが敗れることは無い」

 

 ……その言葉が怖かった。

 その信仰が、また俺を殺しに来るんじゃないかと――。

 救う価値のある命と捨てていい命。

 その境界線を、人は自分で引けると思っている。

 だが戦場はもっと冷たい。

 そこでは使えるかどうかだけが、生と死の天秤を決める。

 

 

 

 

 

「敵影! 三方より包囲されています!」

 

 報告が風を切って届く。

 丘の上。視界の果てに幾重にも重なる人影。

 その中心に血の旗、黄巾別働隊。推定約一万。

 

「こいつら、こっちの数わかってんのか?」

「わかってるから来たのでしょう」

 

 司馬徽が淡々と答える。

 俺達は寄せ集めの民兵五百。熟練も少ない。疲弊もしている。

 それでも逃げない。

 逃げれば、もうこの世界では生きる理由を失うからだ。

 

(くそ、これは殺し合いなんかじゃない。ただの算数だ)

 

 関羽と張飛が突撃を始めた。それは、まるで業火だった。

 

「全軍、突撃ーっ!」

「な、なんですってぇぇぇええええっ!?」

 

 鳳統の悲鳴が後方に響いた。

 戦場が染まっていく。黒から紅へ。

 静寂から叫びへ。

 そこに計算は存在しなかった。

 ただ力だけがあった。

 張飛が暴れ、関羽が抜刀し、敵の指揮官が次々と倒れていく。

 

(馬鹿な。これが戦術だって言うのか?)

 

 だが勝っていた。

 統率の取れていない賊軍は、戦力差があってもただの群れ。

 指揮統制、部隊としての団結。

 それらを持たない集団は、たとえ数で勝っていても戦場では負ける。

 

(……勝てる)

 

 俺は喉が渇いた。恐怖じゃない。興奮だった。

 勝利の報が届くより早く、鳳統が俺に駆け寄る。

 

「大変です! 本隊が接触した模様! 公孫賛殿の部隊が、後退中とのこと!」

 

 ──公孫賛。白馬将軍の異名を持つ騎馬軍の名将。

 この時代では貴重な正統派だ。

 

(正統、ね……)

 

 だがその部隊は、追撃され、遅滞戦闘を続けているらしい。

 

「呂布が共にいるとか」

 

 その名を聞いた瞬間、空気が変わった。

 

 呂布。

 最強。破壊の化身。

 前世でも関羽と張飛が二人がかりでやっと互角とされた武神。

 

(今助けに入れば、恩を売れる。だが……)

 

 助けるだけの余力があるか?

 勝ちの勢いはあるが、こちらも損耗は激しい。

 しかも公孫賛は俺の味方ではない。

 むしろ、将来的な脅威ともなり得る。

 

「──今は、休養と再編を優先する」

 

 鳳統が眉を寄せる。

 司馬徽は目を伏せて黙る。

 

(分かってるさ。外聞は悪い。だが俺は間違えたくない)

 

 前回の人生、誰かのために無理をした結果がどうなったか俺は知っている。

 

「それに公孫賛は死なない。あの女は、そう簡単に墜ちる器じゃない」

 

 数日後。

 

「敵、壊走中! 本隊、散開して山へ逃げています!」

 

 勝った。

 だがそれは、あくまで余命を稼いだにすぎない。

 そしてその夜、俺達の陣に一つの隊列が接近した。

 白馬の前列。べっこう飴の色をした冷えた視線。銀の甲冑を纏ったひときわ華奢な少女――

 

「私は公孫賛。涿県の県令、今回の助勢に感謝する」

「いや、こちらこそ。敵の陽動に付き合って頂いたおかげで楽ができた」

「……陽動、か」

 

 公孫賛はその言葉に一拍置き、静かに目を細めた。

 背後には槍を携えた従者の姿。

 彼女の名は趙雲。

 まだ未熟だが、その足捌きは既に天性の領域に達していた。

 

(この世界でも……やはり英雄は英雄か)

 

「その剣の冴え、素晴らしかった。次は正面から共に戦いたいものだ」

「……そうだな。お互い、裏切らない限りは」

 

 言葉の裏に、重たい真意を込めた。

 公孫賛の口元がわずかに吊り上がる。

 

「気が合いそうだ。では、また」

 

 彼女は背を向け、白馬の隊列と共に去っていった。

 その夜、鳳統が呟いた。

 

「……助けなかったこと、悔いてないんですね」

「悔いてたら、この世界では生き残れない」

 

 答えながら俺は夜空を見た。

 光のない夜、星のない未来。

 それでも、まだ俺は生きている。

 生きている限り俺はまた選ぶ。

 例えまた殺される未来しか見えなくても――。

 

 

 

 

 恐怖は抑制になる。信頼は麻薬になる。

 どちらも戦場では錯覚だ。

 本物の恐怖は、感情ではなく計算不能な現象としてやってくる。

 夜明け前、犬を撫でていると、湿った風とぬるい空気がした。

 敵でも味方でもない者の訪れには、そういう異臭が混じっていた。

 

「……犬、好き……?」

 

 低く沈んだ声。

 不機嫌というより、退屈の奥底にある本能だけで動く猛獣のような気配。

 そこにいたのは、呂布だった。

 赤い目。艶めく赤髪。

 少女の顔をしていながら、その一歩には大地を割るような重みがあった。

 

「うん? あ、ああ。そうだな」

 

 関羽が無言で手に汗を溜める。

 張飛ですら、空気を読んで口を閉じていた。

 呂布奉先。

 戦場において天災と同義。

 友にもなれず、敵にすれば命が足りない。

 

「それで何の用だ。あんたほどの武将が、俺たちみたいな雑魚の義勇兵の所に、何の用だよ」

 

「……面白い目をしていた」

 

 呂布の返答はそれだけだった。

 

(……こいつ、マジで意味がわからねぇ)

 

 こちらの思惑も、善意も理屈も通じない。

 ただ本能と衝動で戦うことだけに意味を持っている。

 

「……冗談。公孫賛様より伝言。明日より洛陽へ進軍を開始する。共に来い、とのことだ」

「断る」

 

 俺は即答した。

 呂布の視線が、ほんの少しだけ動いた。

 

「……なぜ?」

「生きるためだ。今は兵も補給も足りない。お前たち官軍と違って、俺は無位無官の民草なんでな」

 

 呂布は口の端を歪める。

 それが笑みかどうかはわからない。

 

「……わかった。だけど、また会う。戦場で」

 

 そう物騒な予言を言って、呂布は去っていった。

 関羽が深く息を吐いた。

 

「……あの女はまるで獣だ」

「違うよ、愛紗。あれは理屈のない正しさそのものだ。だから怖いんだ」

 

 俺の言葉に、鳳統が怯えた顔を向けてくる。

 

「正しさが怖い……?」

「そう。正しさは、いつだって誰かの死を意味する」

 

 数日後、公孫賛の部隊は匪賊討伐の為に洛陽へ転戦したが、俺達は啄郡の守備を続けた。

 ただの戦力温存じゃない。

 公孫賛と呂布が何者なのかを見極めるための、時間稼ぎでもあった。

 

「……賄賂は必要ですね」

 

 司馬徽が静かに提案する。

 

「中央に根回ししないと、地方軍閥と見なされて切られます」

「金で魂を買うか。……嫌な話だな」

「ですが、必要です」

 

 そう。必要だった。

 正義も大義も俺には似合わない。

 生き残るために、俺は賢くあらねばならなかった。

 

「では早速──都の宦官へ献金を」

「うう……やっぱ嫌な時代です」

 

 鳳統が苦笑いする。

 その顔を見て、少しだけ心が軽くなる。

 

(俺はまだ、信じてるのかもしれない)

 

 信じるに足るものを。

 裏切られたって、壊されたって、どこかで仲間という言葉を信じてしまっている。

 

「……雛里」

「はい?」

「何でもない。ありがとな」

 

 鳳統がきょとんとし、そして笑った。

 夜。独りの時にだけ、俺は過去を思い出す。

 

「紫苑……」

 

 背を向けて死んだあの女も。俺を殴った関羽も。首を跳ねた桃髪の少女も。

 全部、俺が選んだ結末だった。

 ならば今度こそ、違う道を選び抜く。

  信じた女に殺されてもまた信じる。

 ……それが俺の罰であり、生なのだから。

 

 

 

 

 戦場では剣が命を奪う。

 都では、沈黙と書状が人を殺す。

 だから俺は、言葉の重さを知る必要があった。

 遅すぎるということは決してない。

 

「中央からお目付けが来るそうです」

 

 鳳統の声は、どこか他人事のようだった。

 だがその言葉の重さは俺には十分すぎるほど分かっていた。

 

「ふざけた話だな。まだ戦後処理も終わってないのにか?」

「あなたの影響力が大きすぎるんですよ。しかも早すぎる」

 

 啄郡周辺は完全に我々の手中にあった。

 守備・警備・徴税・民政。

 全てにおいて、北郷一刀の名が実質的な法だった。

 

「御遣い様、政治とは均衡です。秤を乱せば、どれだけ民を救っても罪になる」

 

 司馬徽の言葉が冷たい。

 

(……秤か)

 

 思い出す。

 前の世界で俺が崩した秤。

 愛した女たちの均衡を壊し、信頼を粉々にした俺自身の行動。

 

 ──だから今度は、崩される前に俺が調整する。

 

 中央から現れた密使は、蝋封を解かれた毒の香だった。

 

「──北郷一刀殿、都の意向としては、そろそろ帰順を求めたいところでしてな」

 

 白い牙を隠した笑み。

 整えられた髭と使い込まれた筆。

 この男は戦場では何もできないだろう。だが都では人を殺せる。

 

「貴殿の軍事功績、重々拝察いたしました。ですが、民政においては、まだお若いかと」

 

(これは……手放せってことだ)

 

 土地か、兵か、名か、名声か。

 いずれにせよ、俺の何かを削り取って中央へ還元させるつもりだ。

 

「……都の意見、ありがたく承りました。ところで手土産は?」

「……はい?」

「あなたが私に命じるのであれば、私もまた中央の誠意を拝見したい。まさか口だけで人が動くと?」

 

 沈黙。それは肯定。

 

(そうだ。これが政治だ)

 

 剣では測れない見えない刺突。

 信義では測れない空文の毒。

 

「では──啄郡とその周辺五県の統治権を正式に朝廷へ帰属し、私個人は県令代理の地位にて留まる」

「……それで?」

「代わりに今後一年間、軍事と徴税に関する介入権の凍結を要求する。御遣いの名義の保持も」

 

 密使は一瞬、目を細めた。

 だがそれは承諾だった。

 

「……心得ました。良き均衡を」

 

 契約が交わされた瞬間、俺の中で民を救うという理想がまた一つ現実に摩耗した。

 隣で文書を整理する司馬徽が、俺に問う。

 

「あなたは、中央に逆らうつもりですか?」

「いいや。利用するつもりだ。あいつらの制度をねじ曲げて、俺達が生きられる空間を作る」

「それは簒奪に近い行為ですよ」

「だから何だ? 生きる方が先だ」

 

 司馬徽は口を閉じた。

 だがその目はまだ俺を見捨てていなかった。

 同じ夜、鳳統が俺の天幕にやってきた。

 肩を震わせながら、小さな声で言った。

 

「……御主人様、怖い夢を見ました」

「何が見えた?」

「誰も……居なかったんです。私も、司馬先生も、愛紗さんも……。ただ御主人様だけが、一人で──」

「……よし」

 

 俺は黙って彼女の頭を抱いた。

 

「それが未来だとしても、俺はお前達を手放さない。……たとえまた裏切られてもな」

 

 鳳統の肩が震えた。

 それが安堵なのか警鐘なのか、俺には分からなかった。

 世界の形を変えるのに正しさは要らない。

 必要なのは、諦めと選択だけだ。

 

 

 

 

 洛陽から正式な書状が届いた。

 

「朝廷は北郷一刀殿に上洛を求む。戦功は賞され、政治は問われず、対面の栄誉は国法を超えるものとす──」

 

 華やかな筆致。香を焚き染めた封蝋。

 だが中身はどうしようもなく政治だった。

 

(これは……俺を殺す気か)

 

 否、殺さずとも枠に填める気なのだ。

 洛陽に招く。名誉を与える。

 玉座の近くに座らせる。

 ──そして、家畜として縛る。

 

「どうしますか?」

 

 司馬徽の声が静かに、だが刺すように問いかける。

 

「……罠だとは分かってる」

「なら、断りますか?」

 

 栄光の呼び声は、いつだって罠の音に似ている。

 手を伸ばすか背を向けるか。

 そのどちらも、結局は地獄に通じている。

 

「いや。行くさ。敵地に自ら足を踏み入れるのも立派な戦略だ」

 

 苦笑いが零れた。

 もう俺は後戻りのない地点に立っている。

 洛陽に向かう途上、また賊が現れた。

 再編された黄巾の残党。別働隊ではなく、本隊の生き残りか、それとも新たに結成された私兵か。

 

「民が……襲われています!」

 

 鳳統の悲鳴。俺は舌打ちする。

 

(なんでこうも、俺の通り道に地雷が転がってんだ)

 

「関羽、張飛、先手を取れ! 追撃に備えて右翼を制圧、村の南口で阻止線を張れ!」

「承知!」

「了解なのだ!」

 

 戦闘は速やかに収束した。

 関羽の剣が踊り、張飛の鉾が唸り、黄巾の残党は斃れた。

 

 だが──

 

「御遣い様っ、こちらにっ!」

 

 村の一角に、異様な光景があった。

 

 ──処刑台。

 

 串刺しにされた男たちの列。

 その周囲で裸にされた女たちが泣いていた。

 

「……これは……愉快な光景だな」

 

 黄巾賊ではなかった。

 賊の仮面を被った、ただの兵匪、官軍の残兵だった。

 

「村から献上を断られたので、報復を……」

 

 関羽の拳が震えていた。怒りではなく、迷いだった。

 

「御主人様、どうしますか……?」

 

 張飛の瞳にも揺らぎがあった。

 これが本当の現実だ。

 敵でもなく味方でもない。正義でもなく悪でもない。

 ただ自分の欲望を命令に置き換えた人間の末路。

 

「愚問だぞ。殺せ。全員、処刑する」

 

 俺は言った。

 

「軍紀違反は、敵よりも悪だ。味方に裏切られる方が、戦では致命傷になる」

 

 鳳統が目を伏せた。司馬徽が頷いた。

 関羽が静かに刀を抜いた。

 処刑が終わった頃、村の長が泣きながら土下座した。

 

「……ありがとう、ありがとう御遣い様……」

 

 その感謝が罰のように響いた。

 洛陽は遠くなかった。

 だがその道程の上に、俺はまた一つ理想を捨てた。

 これでいくつ目だ? 数えるのはやめた。

 この旅は数で測れない代償を支払う旅だからだ。

 正義を演じた罰として、俺は怪物に近づいていく。

 それでも行く。

 なぜならあの玉座の間で、俺を待っている何かがあるからだ。

 

 

 

 運命なんて言葉は、都合が良すぎる。

 だが時折それは、鏡のように過去を映し返してくる。

 俺は、それを夢と呼ぶことにした。

 

 洛陽は沈んでいた。

 表向きの繁栄。香を焚いた楼閣。

 だがその足元には、粘りつくような空気があった。

 

「都というのは、腐ってこそ都なのです」

 

 司馬徽の言葉は感傷ですらなかった。

 政治の中心にあるのは希望ではなく調整。命を削って均す、見えない砥石のようなものだ。

 

「御遣い様、気をつけてください。言葉一つで首が飛びます」

 

 鳳統の声が震えている。

 この場に武は通用しない。

 俺の足元にあるのは、誰が味方か分からない地面だ。

 帝との対面は、朝靄の中で行われた。

 

「北郷一刀よ。汝、外夷を退け、民を護り、漢の徳を継ぎし者なり」

 

 玉座の奥から届く彼女の声は、年若く弱かった。だが確かに権力を宿していた。

 俺は跪き儀礼に従い頭を垂れた。

 

(──だがこれは芝居だ)

 

 皇帝も俺も互いにそう思っていた。

 この国はもう正統では支えられない。誰かが、代わりに血で柱を塗らなければならない。

 

「立て。北郷将軍」

 

 将軍。その称号の重みを俺は前世で知っている。

 

「──承知」

 

 その一言が、また一つ俺を怪物に変えた。

 拝謁の後、後宮の一角に通された。

 客将とはいえ女官の扱いを受けるのは初めてだ。

 

「……眠れそうにないな」

 

 夜更け。帳の奥で目を閉じても、まぶたの裏に過去が現れる。

 関羽に殴られた感触。処刑台の冷たさ。

 諸葛亮が俯いたまま見せなかった顔。

 ……そして、俺の首が落ちる音。

 

(これは夢じゃない。記憶だ)

 

 背筋を冷たい汗が伝った。

 

 ──また、同じ結末になるのか?

 

 あの時と同じように信じた者に裏切られ、崩れ終わるのか?

 それとも──今度こそ俺が歴史を変える番なのか?

 翌朝、侍女が一人、静かに部屋を訪れた。

 

「失礼いたします。閣下──」

 

 その声に、背中が硬直した。

 あの声だ。

 あの記憶の最後で、俺に刃を振るった少女の声だ。

 

「御主人様……おはようございます」

 

 振り向くと、そこにいたのは、

 ──関羽だった。

 だが、違った。

 服装と仕草が、声色が──前の関羽ではない。

 この関羽は、まだ俺を殺していない。

 

(……そうだ。ここが分岐点だ)

 

 過去は繰り返す。

 だが同じ選択をしなければ、違う未来も選べる。

  この手で今度こそを掴む。それが俺に与えられた最後の罰だ。

 

「おはよう、愛紗。今日も付き合ってくれるか?」

 

 手を差し伸べると、関羽は一瞬驚いたように目を見開き、そして──

 

「……はい。喜んで」

 

 微笑んだ。

 その笑顔が救いか、それとも地獄への扉かはまだ分からない。

 

 

 

 

  忠義は裏切られ、愛は歪められ、信頼は売られる。

 洛陽という都市は、それを日常と呼んで笑っている。

 ……だから俺も、笑った。

 怪物として、奴らの言葉に付き合うために。

 

「北郷将軍、お集まり頂き感謝に堪えません」

 

 宴のような顔をした査問の場。

 金屏風に紅衣、玉盃。

 だが交わされるのは酒ではなく忠誠の質だった。

 帝に与する者。宦官に連なる者。学閥に属する者。軍閥に寄生する者。

 

「北郷派──などという言葉が都に出回っております」

 

 貴族の一人が笑みの裏から毒を流した。

 

「ええ。皆様方と良き関係を維持出来るなら、それも良いでしょう」

 

 俺は、敢えてその名を否定しなかった。否、否定してはいけなかった。

 

(俺はもう名前を持った影なんだ)

 

 その日、帰路の途中で刺客が現れた。

 

「……まさか、もう?」

「都ですからね」

 

 司馬徽の声には動揺がない。だが鳳統は震えていた。

 

「御主人様、逃げてください!」

 

 ──逃げる必要はない。

 

 俺がここで逃げれば、背後の全てが信じられなくなる。

 関羽と張飛が前に出た。

 

「誰一人通さん!」

 

 ──関羽の剣が風を裂く。張飛の鉾が大地を揺らす。

 圧倒的だった。

 武だけで刺客たちは退き、血を流し瓦礫に沈んだ。

 それでも残るのは次もあるという確信。

 

「司馬徽、そろそろ情報操作に入れ」

「宦官にですか?」

「ああ。敵の名を消し、代わりに味方の名を流せ。誰に手を出したか。それと北郷派はすでに都で息をしていると」

「……あなたはどこまでやるおつもりです?」

「最期までだよ。夢の続きを地に引きずり下ろすまでな」

 

 生き残る為に足掻き続ける。そして、その夜も夢を見た。

 地が裂け、月が墜ちる。

 赤い空。冷たい手。

 ──あの時、俺を殺した女たちがいた。

 関羽。諸葛亮。馬超。黄忠。

 みんなが俺を見ていた。

 

「──あれは、お前のせいだ」

 

 紫苑が言った。

 

「私は拒まなかった。でも愛してもいなかった」

 

 朱里が言った。

 

「忠誠は強制だった。あなたは……気づかなかっただけ」

 

 翠が言った。

 

「仲間にしたつもりか? 都合の良い道具の間違いだろうが」

 

 そして愛紗があの目で見ていた。

 

「……それでも信じますか?」

 

 俺は口を開いた。

 

「信じる。俺は──お前達をもう一度、選んだ」

 

 ──嘘じゃなかった。

 たとえこの夢が俺を裁く地獄であっても、俺の選択だけは現実だった。

 その瞬間、夢が崩れた。

 血と涙と刃でできた幻想が、音もなく霧散していった。

 

 

 目を覚ますと関羽が隣で目を閉じていた。

 見張りか、それとも──ただ寄り添っていたのか。

 

「……また同じ夢を?」

 

 関羽の問いに俺は答えなかった。

 代わりに彼女の手を握り、指先にそっと口づけした。

 

「悪夢には……現実で返すしかないだろう」

 

 関羽は答えなかった。ただその手を離さなかった。

 俺は夢を現実で塗り潰す。過去を選択で上書きする。

 それが、俺という罪人の唯一の贖罪なのだから。

 


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