記憶と策謀を武器に、今度こそ生き抜くと誓う一刀。
人は二度死ぬ。
一度目は肉体が果てるとき。
二度目は、生きていた事実すら忘れられたとき。
俺の名は、北郷一刀。日本という国が、まだ帝国と名乗っていた頃の亡霊だ。
午後の陽は優しかった。だからこそ、その空気の中で嗅ぎ取る血と硝煙の匂いは、あまりにも異物だった。
缶詰の飯に、火薬の臭いが混じる。腸の奥を掻き回すような戦場の空気。
それでも食わなければ死ぬ。死んでも食っていたいのが兵士の性だ。
「お前達は祖国日本の礎として、同朋の為に戦い御国に奉公するのだ」
そう言って俺達を売り払ったのは、閻錫山と帝国陸軍現地部隊の上層部だった。
玉砕は美徳、切り捨ては戦略。ふざけるな。
人は、使い捨ての鉛筆じゃない。
1948年、夏。支那大陸は、再び地獄の口を開けた。
東北剿匪戦線、綿州戦区。
衛立煌上将率いる中華民国軍60万と、林彪の東北人民解放軍70万が激突するその中心に、俺達はいた。
皮肉にも、俺の階級は連長代理だ。
元はただの排長――小隊長にすぎない俺が、今や砲撃の雨の中で部下たちの命を背負っている。
「第一線の営が抜かれました! 共軍がこちらに接近中です!」
「ふーん。……そうか」
報告を受けた俺の反応はどこまでも乾いていた。
ソ連製T-34戦車の轟音が鼓膜に刺さる。
帝国陸軍の豆鉄砲が、あの鉄の棺桶に通じると思うか?
火線が交錯し叫びが飛び交う。その混沌の中で、俺は一つだけ確信していた。
――ああ、これで死ねる。
それは希望でも諦めでもない。
ただ機械の様に動き続けた兵士の、静かな終了予定通知だった。
「陛下」
……声がした。
「ん……?」
目を開けると、黒髪の少女がいた。
琥珀の瞳、艶やかな髪。鋭い視線と確かな殺気。
「関羽……?」
それは、三國志の英傑。
……いや、あり得ない。死の果てに見る夢だろうか?
だが彼女の刃は冷たく、肌に触れる指は生きていた。
夢ではない。
ここは俺が知っていた歴史ではない。
天がねじれ運命がねじ曲がり、理の帳が破れたような世界。
英雄は女になり、俺は御遣いとして迎えられる。
狂気の箱庭に俺は再び放り込まれた。
──だけどな、俺は知ってる。
この世界もまた、裏切りと滅びのスパイラルに飲まれていくってことを。
だから俺は生き残るために戦う。
三度目の死が訪れる前に、この手で何かを掴むために。
「過去は、消えない」
そう誰かが言った。
だが過去が続いているとしたら――それはもう罰でしかない。
殺したはずの顔にまた会った。
何の冗談か、どんな地獄か。
俺を殺した女――関羽が、目の前で手を差し伸べていた。
「……怪我はありませんか?」
関羽、字は雲長。
名乗るほどの距離も、信頼も、記憶も無いはずだが――
知っている。痛いほど知っている。
「……ああ。ありがとう、助かったよ」
間違っても再会とは言わない。これは歯車の狂った再起動だ。
その世界は、あの時とよく似ていた。
空は高く風は乾いていて、張飛はやはり馬鹿だった。
「鈴々は鈴々なのだ! お兄ちゃん、戦うのだ!」
彼女たちは俺の過去を知らない。
俺のあの世界を、あの血と裏切りの地獄を、知らない。
なのに俺の胸の奥には確かに残っていた。
関羽の拳が腹に沈み込んだ感覚。諸葛亮が顔を背けた時の無音の裏切り。馬超が吐いた唾の温度。
そして俺の首が刎ねられる直前に聞いた、あの桃髪の少女の――泣き声。
「流琉が殺された。家族も焼き殺された。全部、アンタの軍師のせいだよ!」
……全部、覚えてる。
目の前で笑う関羽の顔と、俺の脳裏にこびりついたあの関羽の記憶が重ならない。
だが声は同じだ。瞳も、歩き方も、刀の重みさえも。
ならあれは夢だったのか? それとも今こそが幻なのか?
この世界のどこかに、もう一度あの地獄が待っているとしたら──
(……今度こそ、間違えずにやってやる)
俺はこの手で、俺の運命を選び直す。
そのために必要なのは理想ではない。正義でもない。ましてや忠誠なんて言葉でもない。
力うどんの品名の頭に付く力だ。
何もかもが嘘で塗り固められたこの世界で、生き残るために必要なのは力だ。
「──御遣い様、民草は苦しんでおります」
関羽の言葉に少しだけ息が漏れた。
ああ、そうだった。お前はそう言っていた。前の世界でも。
「どうか我らが主と成って、この乱世を治めてください」
まるで繰り返される録音テープのように。変わらぬ台詞を同じ顔が語る。
滑稽だ。
けれど──それでも、ここで頷いたのは俺の意志だ。
「……分かった。やろう、関羽」
その瞬間、目の前の世界が分岐したのを確かに感じた。
遠くまだ見ぬ未来の俺が笑っていた。
どんな罪を犯し、どんな敵に殺され、どんな女に裏切られようとも。
その先にあるものを、確かめるために。
「だったら、何度でもやり直してやるよ」
たとえその果てがまた──地獄だったとしても。
正義という言葉には、いつだって――都合が含まれている。
それを知ったのは最初の戦場だった。
それでも俺は、もう一度旗を掲げた。
なぜなら、それが生き残るための最低条件。生存戦略だったからだ。
「この村を出立して、賊を討つ」
関羽の言葉に誰もが沈黙した。
煙の臭いが鼻腔を焼く。
焼かれた家屋。汚泥に沈んだ死体。声を失った子どもたち。
張飛が無邪気な声で叫んだ。
「鈴々たちで悪い奴らを退治するのだ!」
──やめろ。
その言葉はあまりにも無垢で、あまりにも残酷だ。
村は怯えていた。だが関羽はその怯えすら刀で叩き伏せた。
「矢ぐらいは運べるだろう! 子供でも、年寄りでも!」
振り下ろされた机が砕け静寂が破られた。
(……俺は何をしてるんだ)
前世で一度、全てを壊した俺が再び守る側に立つ。
笑わせるな。何が義勇軍だ。
女に命令され、民を叱咤して賊に殺されに行く?
正気の沙汰じゃない。
だが――俺は口を噤んでいた。
なぜなら、あの時のように黙って従った者が最後に生き残ったからだ。
前線で命を賭ける馬鹿より、口を閉ざして策を練る奴の方が生き延びた。
(俺の役目はそっちだ)
関羽も張飛も、狂気を武という衣で正当化していた。
だが俺には剣も拳もない。あるのは、卑怯と打算と前例だけだ。
「……戦うなら勝たなきゃ意味が無い。数で負けてるなら、勝ち筋を作れ」
その一言で、俺は再び参謀として指標を定めた。
関羽の剣が進む先に負けがないように。張飛の無邪気が、地獄に墜ちないように。
そして俺自身が再び裏切られないように。
陽が昇る。
炎の中で産声をあげた義勇軍が、ついに戦場に立った。
「敵は丘の上に陣を構えている。四千だ」
「うわー。数だけは立派なのだ!」
(賊徒とはいえ四千相手に、即席の民兵百二十。狂気の沙汰だ)
普通の戦術では勝てない。
ランチェスターの法則? 机上の空論だ。
そんなもんが通じるなら、とっくに帝国は敗けてなかった。
「命を守りたい奴は五人一組で動け! 一人を殺すために五人で行け。いいか? 生き残りたいなら孤独になるな!」
命令は簡潔明瞭に、だ。難しい言葉を使えば、素人は思考を止める。
関羽が叫ぶ。
「仇を討て!」
張飛が吠える。
「突撃なのだーっ!」
――地獄の始まりにしては、ずいぶん軽い音がした。
(逃げるなら、今のうちか……)
俺は後ろを見た。
だが誰も逃げていない。震えながらも皆前を向いていた。
そうだ。人は狂気の中でしか、希望を持てない。
「賊将、討ち取ったーっ!」
関羽の声が空を裂いた。
それを合図に戦場は反転する。
矢は止み敵は乱れ、村の義勇兵たちが次々と賊を斬り伏せていく。
「こ、これが……勝ち?」
泥まみれの子供が泣きながら剣を握っていた。
その剣にまだ温かい血が滴っていた。
俺は何も言えなかった。
彼に何もかもを教えてやるほど、俺も清らかではないからだ。
黄巾賊は潰えた。
残ったのは死体と煙と、剥き出しの力の記憶だけ。
「御遣い様、この村を治めてください!」
住民の一人が叫んだ。
関羽と張飛が振り返る。司祭のような眼差しで俺を見る。
……なるほど。これが、この地獄の契約というわけだ。
「いいだろう。俺が治める」
笑った。
前世の俺が最後に喪った信頼という名の亡霊が、また肩に憑いていた。
「これは覇道だ。信義じゃない」
その言葉をまだ誰も理解していなかった。
人は過去に生きる。
未来を語りながら、実際に信じているのは昨日の記憶だ。
……だから俺は信じない。希望も正義も。
信じるのは、生き残るための計算式だけだ。
戦の煙が消えても匂いは残る。
死体を焼いた火。濡れた血のにおい。
泣き叫ぶ遺族と、乾いた目で物資を漁る兵。
それが勝者の村の風景だった。
「御遣い様、こちらは昨日降った賊どもです」
「……そうか。なら殺せ」
「ですが……」
「罪人を生かしても食糧が減るだけだ。俺達は神じゃない。食い扶持に余裕はない」
斬首は当たり前になった。
そう、俺たちは合理的に戦っている。
犠牲も悲劇も戦略の一部だ。
……少なくとも、今の俺はそう思い込める。
影響は波のように広がった。
隣村が救援を求めてきた。
次に街が使者を寄越した。
「このあたりは、もうあなたの領土も同然ですな」
村長の言葉に苦笑が漏れた。
冗談じゃない。俺は覇者になりたいわけじゃない。
(……だが、そうするしかない)
支配とは責任の別名だ。
生かすということは守るということ。
守るということは、殺すことを決めるということ。
その構図に気づいていたから、俺は早めに決断していた。
それは巡回中のことだった。
山裾の道を行く先に煙と悲鳴が上がる。
「鈴々、突撃なのだーっ!」
「おい待て、単騎はやめ──」
「ぎゃあああああああああああっ!?」
予想通り奇声とともに張飛が賊を弾き飛ばしていた。
関羽が後続部隊に命じ、俺も歩兵を展開。
その最中、瓦礫の影に何かが見えた。
「……おい、お前、大丈夫か」
「あ、あわわ、あわわっ!?」
帽子。とんがり。ふわふわ。
子供の絵本から飛び出してきたような、小さな魔女がいた。
「き、ききき、きょ、恐喝ではなくてっ……!」
あわてて口にした彼女の声は滑稽で、悲鳴じみていた。
「……落ち着け。俺は襲わん」
「う、ううう、うひぃ……鳳統と申します、字は士元でっ!」
そこに背後から歩いてきた女がいた。
しなやかな体、燃えるような眼差し、けれどどこか達観した口調。
「私は司馬徽。彼女の先生です」
──ああ、この二人だ。
俺の知識が警鐘を鳴らした。
前世の記憶。
鳳統と司馬徽。
この二人が、劉備の未来を支えた頭脳であることを。
だが今、この場に劉備はいない。
俺がいる。
「なあ、君ら。俺のそばに来ないか」
正直な気持ちだった。
政治は俺の専門じゃない。
俺に必要なのは、口が立ち、数字が読め、未来を予測する脳だ。
その言葉に、鳳統がぱっと顔を輝かせる。
「よ、良いんですか!? わ、私、役に立ちます! ま、ま、任せてください!」
……その笑顔が、あまりに純粋で眩しかった。
その夜、天幕で二人を迎えた。
横に関羽が立ち、張飛が外を見張っている。
「さて。雛里、司馬徽。改めて言う。お前たちの才能が欲しい」
「私たちに何をさせるつもりですか?」
司馬徽が問う。
「軍政。内政。命令系統の整備と文官の訓練。そして、……いざという時、俺を止めてくれ」
「……止める?」
「俺は、戦場で狂うことがある。誰かがブレーキを持ってなきゃ、同じ結末になる」
同じとは、あの世界。あの地獄。
信じた女に裏切られ、命乞いを無視され処刑された俺。
司馬徽は一拍の沈黙のあと、こう言った。
「分かりました。私たちは、あなたの良心になります。……ですが、それはあなたが私たちを信じるならです」
「信じるよ」
即答だった。
信じるしかなかった。
彼女たちの才を使い切らなければ、次の戦を生き抜けない。
戦場には天使よりも悪魔の方が必要だ。
「じゃあ、まず仕事だ」
俺は地図を広げ、黄巾の別動隊の位置を指した。
「次の戦だ。賊の動きに先回りし、撃滅する。今回は速く、静かに、確実に」
「ふぇぇぇ……また戦なんですか……」
泣きそうな鳳統に関羽が微笑む。
「安心せよ。御主人様が居る限り、我らが敗れることは無い」
……その言葉が怖かった。
その信仰が、また俺を殺しに来るんじゃないかと――。
救う価値のある命と捨てていい命。
その境界線を、人は自分で引けると思っている。
だが戦場はもっと冷たい。
そこでは使えるかどうかだけが、生と死の天秤を決める。
「敵影! 三方より包囲されています!」
報告が風を切って届く。
丘の上。視界の果てに幾重にも重なる人影。
その中心に血の旗、黄巾別働隊。推定約一万。
「こいつら、こっちの数わかってんのか?」
「わかってるから来たのでしょう」
司馬徽が淡々と答える。
俺達は寄せ集めの民兵五百。熟練も少ない。疲弊もしている。
それでも逃げない。
逃げれば、もうこの世界では生きる理由を失うからだ。
(くそ、これは殺し合いなんかじゃない。ただの算数だ)
関羽と張飛が突撃を始めた。それは、まるで業火だった。
「全軍、突撃ーっ!」
「な、なんですってぇぇぇええええっ!?」
鳳統の悲鳴が後方に響いた。
戦場が染まっていく。黒から紅へ。
静寂から叫びへ。
そこに計算は存在しなかった。
ただ力だけがあった。
張飛が暴れ、関羽が抜刀し、敵の指揮官が次々と倒れていく。
(馬鹿な。これが戦術だって言うのか?)
だが勝っていた。
統率の取れていない賊軍は、戦力差があってもただの群れ。
指揮統制、部隊としての団結。
それらを持たない集団は、たとえ数で勝っていても戦場では負ける。
(……勝てる)
俺は喉が渇いた。恐怖じゃない。興奮だった。
勝利の報が届くより早く、鳳統が俺に駆け寄る。
「大変です! 本隊が接触した模様! 公孫賛殿の部隊が、後退中とのこと!」
──公孫賛。白馬将軍の異名を持つ騎馬軍の名将。
この時代では貴重な正統派だ。
(正統、ね……)
だがその部隊は、追撃され、遅滞戦闘を続けているらしい。
「呂布が共にいるとか」
その名を聞いた瞬間、空気が変わった。
呂布。
最強。破壊の化身。
前世でも関羽と張飛が二人がかりでやっと互角とされた武神。
(今助けに入れば、恩を売れる。だが……)
助けるだけの余力があるか?
勝ちの勢いはあるが、こちらも損耗は激しい。
しかも公孫賛は俺の味方ではない。
むしろ、将来的な脅威ともなり得る。
「──今は、休養と再編を優先する」
鳳統が眉を寄せる。
司馬徽は目を伏せて黙る。
(分かってるさ。外聞は悪い。だが俺は間違えたくない)
前回の人生、誰かのために無理をした結果がどうなったか俺は知っている。
「それに公孫賛は死なない。あの女は、そう簡単に墜ちる器じゃない」
数日後。
「敵、壊走中! 本隊、散開して山へ逃げています!」
勝った。
だがそれは、あくまで余命を稼いだにすぎない。
そしてその夜、俺達の陣に一つの隊列が接近した。
白馬の前列。べっこう飴の色をした冷えた視線。銀の甲冑を纏ったひときわ華奢な少女――
「私は公孫賛。涿県の県令、今回の助勢に感謝する」
「いや、こちらこそ。敵の陽動に付き合って頂いたおかげで楽ができた」
「……陽動、か」
公孫賛はその言葉に一拍置き、静かに目を細めた。
背後には槍を携えた従者の姿。
彼女の名は趙雲。
まだ未熟だが、その足捌きは既に天性の領域に達していた。
(この世界でも……やはり英雄は英雄か)
「その剣の冴え、素晴らしかった。次は正面から共に戦いたいものだ」
「……そうだな。お互い、裏切らない限りは」
言葉の裏に、重たい真意を込めた。
公孫賛の口元がわずかに吊り上がる。
「気が合いそうだ。では、また」
彼女は背を向け、白馬の隊列と共に去っていった。
その夜、鳳統が呟いた。
「……助けなかったこと、悔いてないんですね」
「悔いてたら、この世界では生き残れない」
答えながら俺は夜空を見た。
光のない夜、星のない未来。
それでも、まだ俺は生きている。
生きている限り俺はまた選ぶ。
例えまた殺される未来しか見えなくても――。
恐怖は抑制になる。信頼は麻薬になる。
どちらも戦場では錯覚だ。
本物の恐怖は、感情ではなく計算不能な現象としてやってくる。
夜明け前、犬を撫でていると、湿った風とぬるい空気がした。
敵でも味方でもない者の訪れには、そういう異臭が混じっていた。
「……犬、好き……?」
低く沈んだ声。
不機嫌というより、退屈の奥底にある本能だけで動く猛獣のような気配。
そこにいたのは、呂布だった。
赤い目。艶めく赤髪。
少女の顔をしていながら、その一歩には大地を割るような重みがあった。
「うん? あ、ああ。そうだな」
関羽が無言で手に汗を溜める。
張飛ですら、空気を読んで口を閉じていた。
呂布奉先。
戦場において天災と同義。
友にもなれず、敵にすれば命が足りない。
「それで何の用だ。あんたほどの武将が、俺たちみたいな雑魚の義勇兵の所に、何の用だよ」
「……面白い目をしていた」
呂布の返答はそれだけだった。
(……こいつ、マジで意味がわからねぇ)
こちらの思惑も、善意も理屈も通じない。
ただ本能と衝動で戦うことだけに意味を持っている。
「……冗談。公孫賛様より伝言。明日より洛陽へ進軍を開始する。共に来い、とのことだ」
「断る」
俺は即答した。
呂布の視線が、ほんの少しだけ動いた。
「……なぜ?」
「生きるためだ。今は兵も補給も足りない。お前たち官軍と違って、俺は無位無官の民草なんでな」
呂布は口の端を歪める。
それが笑みかどうかはわからない。
「……わかった。だけど、また会う。戦場で」
そう物騒な予言を言って、呂布は去っていった。
関羽が深く息を吐いた。
「……あの女はまるで獣だ」
「違うよ、愛紗。あれは理屈のない正しさそのものだ。だから怖いんだ」
俺の言葉に、鳳統が怯えた顔を向けてくる。
「正しさが怖い……?」
「そう。正しさは、いつだって誰かの死を意味する」
数日後、公孫賛の部隊は匪賊討伐の為に洛陽へ転戦したが、俺達は啄郡の守備を続けた。
ただの戦力温存じゃない。
公孫賛と呂布が何者なのかを見極めるための、時間稼ぎでもあった。
「……賄賂は必要ですね」
司馬徽が静かに提案する。
「中央に根回ししないと、地方軍閥と見なされて切られます」
「金で魂を買うか。……嫌な話だな」
「ですが、必要です」
そう。必要だった。
正義も大義も俺には似合わない。
生き残るために、俺は賢くあらねばならなかった。
「では早速──都の宦官へ献金を」
「うう……やっぱ嫌な時代です」
鳳統が苦笑いする。
その顔を見て、少しだけ心が軽くなる。
(俺はまだ、信じてるのかもしれない)
信じるに足るものを。
裏切られたって、壊されたって、どこかで仲間という言葉を信じてしまっている。
「……雛里」
「はい?」
「何でもない。ありがとな」
鳳統がきょとんとし、そして笑った。
夜。独りの時にだけ、俺は過去を思い出す。
「紫苑……」
背を向けて死んだあの女も。俺を殴った関羽も。首を跳ねた桃髪の少女も。
全部、俺が選んだ結末だった。
ならば今度こそ、違う道を選び抜く。
信じた女に殺されてもまた信じる。
……それが俺の罰であり、生なのだから。
戦場では剣が命を奪う。
都では、沈黙と書状が人を殺す。
だから俺は、言葉の重さを知る必要があった。
遅すぎるということは決してない。
「中央からお目付けが来るそうです」
鳳統の声は、どこか他人事のようだった。
だがその言葉の重さは俺には十分すぎるほど分かっていた。
「ふざけた話だな。まだ戦後処理も終わってないのにか?」
「あなたの影響力が大きすぎるんですよ。しかも早すぎる」
啄郡周辺は完全に我々の手中にあった。
守備・警備・徴税・民政。
全てにおいて、北郷一刀の名が実質的な法だった。
「御遣い様、政治とは均衡です。秤を乱せば、どれだけ民を救っても罪になる」
司馬徽の言葉が冷たい。
(……秤か)
思い出す。
前の世界で俺が崩した秤。
愛した女たちの均衡を壊し、信頼を粉々にした俺自身の行動。
──だから今度は、崩される前に俺が調整する。
中央から現れた密使は、蝋封を解かれた毒の香だった。
「──北郷一刀殿、都の意向としては、そろそろ帰順を求めたいところでしてな」
白い牙を隠した笑み。
整えられた髭と使い込まれた筆。
この男は戦場では何もできないだろう。だが都では人を殺せる。
「貴殿の軍事功績、重々拝察いたしました。ですが、民政においては、まだお若いかと」
(これは……手放せってことだ)
土地か、兵か、名か、名声か。
いずれにせよ、俺の何かを削り取って中央へ還元させるつもりだ。
「……都の意見、ありがたく承りました。ところで手土産は?」
「……はい?」
「あなたが私に命じるのであれば、私もまた中央の誠意を拝見したい。まさか口だけで人が動くと?」
沈黙。それは肯定。
(そうだ。これが政治だ)
剣では測れない見えない刺突。
信義では測れない空文の毒。
「では──啄郡とその周辺五県の統治権を正式に朝廷へ帰属し、私個人は県令代理の地位にて留まる」
「……それで?」
「代わりに今後一年間、軍事と徴税に関する介入権の凍結を要求する。御遣いの名義の保持も」
密使は一瞬、目を細めた。
だがそれは承諾だった。
「……心得ました。良き均衡を」
契約が交わされた瞬間、俺の中で民を救うという理想がまた一つ現実に摩耗した。
隣で文書を整理する司馬徽が、俺に問う。
「あなたは、中央に逆らうつもりですか?」
「いいや。利用するつもりだ。あいつらの制度をねじ曲げて、俺達が生きられる空間を作る」
「それは簒奪に近い行為ですよ」
「だから何だ? 生きる方が先だ」
司馬徽は口を閉じた。
だがその目はまだ俺を見捨てていなかった。
同じ夜、鳳統が俺の天幕にやってきた。
肩を震わせながら、小さな声で言った。
「……御主人様、怖い夢を見ました」
「何が見えた?」
「誰も……居なかったんです。私も、司馬先生も、愛紗さんも……。ただ御主人様だけが、一人で──」
「……よし」
俺は黙って彼女の頭を抱いた。
「それが未来だとしても、俺はお前達を手放さない。……たとえまた裏切られてもな」
鳳統の肩が震えた。
それが安堵なのか警鐘なのか、俺には分からなかった。
世界の形を変えるのに正しさは要らない。
必要なのは、諦めと選択だけだ。
洛陽から正式な書状が届いた。
「朝廷は北郷一刀殿に上洛を求む。戦功は賞され、政治は問われず、対面の栄誉は国法を超えるものとす──」
華やかな筆致。香を焚き染めた封蝋。
だが中身はどうしようもなく政治だった。
(これは……俺を殺す気か)
否、殺さずとも枠に填める気なのだ。
洛陽に招く。名誉を与える。
玉座の近くに座らせる。
──そして、家畜として縛る。
「どうしますか?」
司馬徽の声が静かに、だが刺すように問いかける。
「……罠だとは分かってる」
「なら、断りますか?」
栄光の呼び声は、いつだって罠の音に似ている。
手を伸ばすか背を向けるか。
そのどちらも、結局は地獄に通じている。
「いや。行くさ。敵地に自ら足を踏み入れるのも立派な戦略だ」
苦笑いが零れた。
もう俺は後戻りのない地点に立っている。
洛陽に向かう途上、また賊が現れた。
再編された黄巾の残党。別働隊ではなく、本隊の生き残りか、それとも新たに結成された私兵か。
「民が……襲われています!」
鳳統の悲鳴。俺は舌打ちする。
(なんでこうも、俺の通り道に地雷が転がってんだ)
「関羽、張飛、先手を取れ! 追撃に備えて右翼を制圧、村の南口で阻止線を張れ!」
「承知!」
「了解なのだ!」
戦闘は速やかに収束した。
関羽の剣が踊り、張飛の鉾が唸り、黄巾の残党は斃れた。
だが──
「御遣い様っ、こちらにっ!」
村の一角に、異様な光景があった。
──処刑台。
串刺しにされた男たちの列。
その周囲で裸にされた女たちが泣いていた。
「……これは……愉快な光景だな」
黄巾賊ではなかった。
賊の仮面を被った、ただの兵匪、官軍の残兵だった。
「村から献上を断られたので、報復を……」
関羽の拳が震えていた。怒りではなく、迷いだった。
「御主人様、どうしますか……?」
張飛の瞳にも揺らぎがあった。
これが本当の現実だ。
敵でもなく味方でもない。正義でもなく悪でもない。
ただ自分の欲望を命令に置き換えた人間の末路。
「愚問だぞ。殺せ。全員、処刑する」
俺は言った。
「軍紀違反は、敵よりも悪だ。味方に裏切られる方が、戦では致命傷になる」
鳳統が目を伏せた。司馬徽が頷いた。
関羽が静かに刀を抜いた。
処刑が終わった頃、村の長が泣きながら土下座した。
「……ありがとう、ありがとう御遣い様……」
その感謝が罰のように響いた。
洛陽は遠くなかった。
だがその道程の上に、俺はまた一つ理想を捨てた。
これでいくつ目だ? 数えるのはやめた。
この旅は数で測れない代償を支払う旅だからだ。
正義を演じた罰として、俺は怪物に近づいていく。
それでも行く。
なぜならあの玉座の間で、俺を待っている何かがあるからだ。
運命なんて言葉は、都合が良すぎる。
だが時折それは、鏡のように過去を映し返してくる。
俺は、それを夢と呼ぶことにした。
洛陽は沈んでいた。
表向きの繁栄。香を焚いた楼閣。
だがその足元には、粘りつくような空気があった。
「都というのは、腐ってこそ都なのです」
司馬徽の言葉は感傷ですらなかった。
政治の中心にあるのは希望ではなく調整。命を削って均す、見えない砥石のようなものだ。
「御遣い様、気をつけてください。言葉一つで首が飛びます」
鳳統の声が震えている。
この場に武は通用しない。
俺の足元にあるのは、誰が味方か分からない地面だ。
帝との対面は、朝靄の中で行われた。
「北郷一刀よ。汝、外夷を退け、民を護り、漢の徳を継ぎし者なり」
玉座の奥から届く彼女の声は、年若く弱かった。だが確かに権力を宿していた。
俺は跪き儀礼に従い頭を垂れた。
(──だがこれは芝居だ)
皇帝も俺も互いにそう思っていた。
この国はもう正統では支えられない。誰かが、代わりに血で柱を塗らなければならない。
「立て。北郷将軍」
将軍。その称号の重みを俺は前世で知っている。
「──承知」
その一言が、また一つ俺を怪物に変えた。
拝謁の後、後宮の一角に通された。
客将とはいえ女官の扱いを受けるのは初めてだ。
「……眠れそうにないな」
夜更け。帳の奥で目を閉じても、まぶたの裏に過去が現れる。
関羽に殴られた感触。処刑台の冷たさ。
諸葛亮が俯いたまま見せなかった顔。
……そして、俺の首が落ちる音。
(これは夢じゃない。記憶だ)
背筋を冷たい汗が伝った。
──また、同じ結末になるのか?
あの時と同じように信じた者に裏切られ、崩れ終わるのか?
それとも──今度こそ俺が歴史を変える番なのか?
翌朝、侍女が一人、静かに部屋を訪れた。
「失礼いたします。閣下──」
その声に、背中が硬直した。
あの声だ。
あの記憶の最後で、俺に刃を振るった少女の声だ。
「御主人様……おはようございます」
振り向くと、そこにいたのは、
──関羽だった。
だが、違った。
服装と仕草が、声色が──前の関羽ではない。
この関羽は、まだ俺を殺していない。
(……そうだ。ここが分岐点だ)
過去は繰り返す。
だが同じ選択をしなければ、違う未来も選べる。
この手で今度こそを掴む。それが俺に与えられた最後の罰だ。
「おはよう、愛紗。今日も付き合ってくれるか?」
手を差し伸べると、関羽は一瞬驚いたように目を見開き、そして──
「……はい。喜んで」
微笑んだ。
その笑顔が救いか、それとも地獄への扉かはまだ分からない。
忠義は裏切られ、愛は歪められ、信頼は売られる。
洛陽という都市は、それを日常と呼んで笑っている。
……だから俺も、笑った。
怪物として、奴らの言葉に付き合うために。
「北郷将軍、お集まり頂き感謝に堪えません」
宴のような顔をした査問の場。
金屏風に紅衣、玉盃。
だが交わされるのは酒ではなく忠誠の質だった。
帝に与する者。宦官に連なる者。学閥に属する者。軍閥に寄生する者。
「北郷派──などという言葉が都に出回っております」
貴族の一人が笑みの裏から毒を流した。
「ええ。皆様方と良き関係を維持出来るなら、それも良いでしょう」
俺は、敢えてその名を否定しなかった。否、否定してはいけなかった。
(俺はもう名前を持った影なんだ)
その日、帰路の途中で刺客が現れた。
「……まさか、もう?」
「都ですからね」
司馬徽の声には動揺がない。だが鳳統は震えていた。
「御主人様、逃げてください!」
──逃げる必要はない。
俺がここで逃げれば、背後の全てが信じられなくなる。
関羽と張飛が前に出た。
「誰一人通さん!」
──関羽の剣が風を裂く。張飛の鉾が大地を揺らす。
圧倒的だった。
武だけで刺客たちは退き、血を流し瓦礫に沈んだ。
それでも残るのは次もあるという確信。
「司馬徽、そろそろ情報操作に入れ」
「宦官にですか?」
「ああ。敵の名を消し、代わりに味方の名を流せ。誰に手を出したか。それと北郷派はすでに都で息をしていると」
「……あなたはどこまでやるおつもりです?」
「最期までだよ。夢の続きを地に引きずり下ろすまでな」
生き残る為に足掻き続ける。そして、その夜も夢を見た。
地が裂け、月が墜ちる。
赤い空。冷たい手。
──あの時、俺を殺した女たちがいた。
関羽。諸葛亮。馬超。黄忠。
みんなが俺を見ていた。
「──あれは、お前のせいだ」
紫苑が言った。
「私は拒まなかった。でも愛してもいなかった」
朱里が言った。
「忠誠は強制だった。あなたは……気づかなかっただけ」
翠が言った。
「仲間にしたつもりか? 都合の良い道具の間違いだろうが」
そして愛紗があの目で見ていた。
「……それでも信じますか?」
俺は口を開いた。
「信じる。俺は──お前達をもう一度、選んだ」
──嘘じゃなかった。
たとえこの夢が俺を裁く地獄であっても、俺の選択だけは現実だった。
その瞬間、夢が崩れた。
血と涙と刃でできた幻想が、音もなく霧散していった。
目を覚ますと関羽が隣で目を閉じていた。
見張りか、それとも──ただ寄り添っていたのか。
「……また同じ夢を?」
関羽の問いに俺は答えなかった。
代わりに彼女の手を握り、指先にそっと口づけした。
「悪夢には……現実で返すしかないだろう」
関羽は答えなかった。ただその手を離さなかった。
俺は夢を現実で塗り潰す。過去を選択で上書きする。
それが、俺という罪人の唯一の贖罪なのだから。