「――正確には、治すという表現は適切ではない」
四階にある主寝室。アリスが自身の本体が眠っているその場所へと、秋雅を案内している中、秋雅はふと思い出したように言った。それに対し、彼を先導していたアリスは足を止め、振り返って首を傾げる。
「治すわけではない、と?」
「私の権能の一つに、生物の時を戻す権能があるのは、貴女もご存知だと思う」
「ええ、存じております」
秋雅の言葉に、アリスは小さく頷く。秋雅の権能はその半分以上が表立って知られていないが、しかしカンピオーネに対する情報収集能力ではトップクラスである賢人議会、その特別顧問であるアリスは秋雅が秘している権能も、他者よりは知っている。
若干話がそれるが、カンピオーネは基本的に自身の権能に対しそれほど頓着していない傾向にある。権能の名前に特に拘らず賢人議会が名づけた暫定的な名称をそのまま採用していたり、所持する権能の情報を他者に知られる事を気にしなかったりなどだ。前者は特定の物事以外執着を見せない彼らの特性によるものであり、後者は自身の力を知られたところでそれごと叩き潰すという、彼らの勝利への自信の表れだと言えるだろう。付属して、一部例外を除き他者の権能にもいまいち関心が薄いというのもある。
しかし、例外的に――またもやと言うべきか――秋雅は自身や他者の権能の情報という物に、かなりの注意を払っていた。情報的なアドバンテージという物を、極めて重視しているのである。豪胆さを特徴の一つとするカンピオーネにしては、ある種臆病とも言える行動だが、
『知られていないに越したことは無い』
というのが、以前にアリスが彼から聞いた言葉であった。
こういったことから、彼が賢人議会に対しある種過多とも言える貢献をしてきたのも、それらの情報規制に口を挟む為であろうとアリスは推察している。事実、彼の賢人議会への協力の報酬として、賢人議会が把握している彼に対する情報の多くを秘密にし、決して外部に出さないようにするというものがある。そのため、賢人議会は把握している秋雅の権能のうち、彼の代名詞でもある
なお、余談になるものの、秋雅は自分の権能の名前を自ら名づけていたりする。前述の通りカンピオーネたちは基本的に自分の権能の名前に興味が無い――若干の例外もあるが――ので、彼のこだわりは中々に珍しいと言えよう。その際、彼は和名と英名、それぞれで権能の名前を考えているという凝りようで、それ故に彼の持つ権能は和名と英名で直訳が異なったりしているのである。ちなみに、『万砕の雷槌』と『冥府への扉』がほとんど直訳に近いのは、これら二つのみ秋雅が名を考える前に賢人議会が英名を勝手につけていたので、それに合わせて秋雅が和名を考えたからであった。なお、この秋雅のこだわりに対して以前にアリスが質問をしたところ、
『自分の持ち物の名を当人が考えるのは当然ではないだろうか?』
という答えが返ってきたりなどしている。こういった事情も有って、賢人議会が彼の権能の情報を新しく得た場合は、彼に自分達が把握した権能の内容を話し、秋雅がうんと言えば、彼が考えていた権能の名前と共に、一部の者しか閲覧できないようにした上で、その権能の情報を保管するという流れになっていた。
そういった事情があるためか、今アリスの寝室に向かっているのはアリスと秋雅の二人のみだ。アリスに使える使用人達はおろか、秋雅が連れてきた彼女もここにはいない。これは言うまでもなく、秋雅の意向によるものであり、必要ない相手にまで手の内を晒す気がないということであろう。
「――そして、今回私が用いる気なのがそれだ」
アリスの頷きを確認しつつ、秋雅は軽く視線を前に向ける。その意味を察して、アリスは再び前を向き、歩みを再開する。すると、秋雅が一瞬だけ足を速めてアリスのすぐ横につく。どうやら、互いに顔も見えない前後での会話に対し、どうかと思ったようであった。
「貴女が身体を壊したのは六年ほど前だったと聞いているが、確かだろうか?」
「ええ、その通りですわ。ちょうど、貴方様が王となられた頃になりますか」
「そうなるな……ともかく、そういうことであれば、私の権能を用いて貴女の肉体の時間を六年ほど戻せば、一応貴女の身体は治る事になる」
「そう……なりますわね」
秋雅の言葉にアリスは平然と同意したように見せたが、実際の内心は非常に乱れきっていた。何せこれが上手く行けば、肉体が幼くなってはしまうものの、現在のようにろくに生身の身体を動かすことの出来ない状況から脱する事が出来るからだ。あくまで戻すだけであるから病弱なことに代わりは無いだろうが、しかし少なくとも一人で邸内を歩き回る程度のことは出来るようになるはず。それを考えれば、期待に胸が高鳴るのは当然であった。
勿論、これが上手く行けば秋雅への大きな借りとなる。彼は能力を使ってもらうために万全を期したいだけだとアリスに言ったが、だからといってそれを甘んじて受け入れるには流石にこちらの報酬が大きすぎる。かと言ってどういう風に恩を返せばいいのかとなると、それはそれで中々に考え物だ。形式上、あちらから申し出てくれたことなので金銭で報酬を払うというのも変な話だろう。もし返すとすれば、それは形の無いもので返すしかない。所謂ところの、借り一つ、と言ったところだろうか。もっとも、アリスの立場という物を考えると、とても一つにはなりそうにないが。
その後は特に会話も無く、アリスは秋雅をとうとう自身の寝室まで案内した。ここに男性の身で来たのは――少なくとも、アリスが大きく体を壊してからは――二人目だ。
「ここが、私の寝室になります」
「……無礼にも淑女の私室に入る無礼を詫びさせてもらおう」
ドアを開け、秋雅を招き入れるアリスに対し、秋雅は律儀にも再び非礼を詫びて軽く頭を下げる。その彼の態度にはわざとらしさというものがまったく感じられなかったので、アリスは静かに、柔らかく微笑むことで、それを受け入れた。
アリスの寝室は、まさしく貴族の部屋と言った風なものであった。一見しただけでも分かる豪勢な家具と、見るものが見れば分かる質のよい上品な調度品たち。そんな中でやはり一際目を引くのは、部屋の中央にある豪奢な寝台だろう。
そこには、一人の女性が眠っていた。それは紛れも無くアリスの本体であり、よくよく見れば霊体の彼女よりもやつれているに見える。ともすれば、霊体の方よりも、生気がないようにすら見えるだろう。これが今の自分なのだと、アリスは霊体の目を通して改めて己の肉体を見やる。
「このような姿をさらしてしまい、恥ずかしい限りですわ」
「気にする必要は無い。私が強引に足を踏み入れたと、そういうことなのだから」
「お気遣い感謝します、稲穂様」
秋雅の言葉に答えた後、アリスは霊体を消し去る。本体の、自身の口で会話を行うつもりだからだ。この場では霊体ではなく本体での会話を、そういう思いの元の行動であった。
「沈黙を望もう、プリンセス・アリス。貴女は動かず、ただじっとしていればいい」
しかし、アリスがそうしようとしたところで、秋雅がそんな言葉を口にした。口調こそは命令のようであるものの、しかしそれはアリスに無理をさせまいとする秋雅の気遣いであるとアリスにはすぐに分かった。命令調にしているのは、そうした方がアリスは従ってくれるだろうと考えた為なのだろう。
そんな彼の気遣いに、アリスは甘えることにした。今から秋雅がやろうとしていることへの影響も考えて幽体離脱もせず、ゆったりと身体の力を抜いて彼を待つ。
「……始めよう」
秋雅の言葉と共に、彼の身体から多量の呪力が立ち上る。ぐぐと右手を強く握り締めた後、秋雅は目の前に横たわるアリスに、開いた右の掌を向けながら口を開く。
「それは常に移ろうものなり。決して留まらず、ただ流れ行くものなり。されど、我は今ここに命ず――我が前に在るかの者の、その時を今こそ、過去へと遡らせよ――!!」
彼の口から聖句が紡がれ、それによって発動した権能の力が目の前に横たわるアリスを包み込んでいく。
すると、まるで羽毛で撫でられたかのような刺激が、アリスの全身を覆っていく。ともすれば反射的に拒絶してしまいそうになる己を自制し、自らの意思でアリスがその力を受け入れると、次第に感覚の種類が変わっていく。むず痒さと、そして心地よさ。それ以外にも様々な感覚を覚えながら、アリスはただただ黙って受け入れる。
「気分は如何だろうか、アリス殿」
どれほどが経ったであろうか。ふと聞こえた秋雅の問いかけの声に、アリスはハッとして目を開ける。気付けば先ほどまで感じていたものも既に無く、秋雅からもあの圧倒的なまでの呪力を感じることも無い。
どうなったのだろうか。そんな思いを抱きつつもアリスが口を開こうとした、その時であった。
「…………え?」
思わず、アリスの口から声が漏れる。その視線は何気なく目の前で開かれている、自分の右手に注がれていた。
「何とも、ない……」
手の一本を動かすことすら満足に出来なかった己が、反射的に手を上げている。それによる疲労も一切感じられない。いや、今更ながらにアリスは気付く。先ほどまで確かにあった疲労感と虚脱感が、ほとんど感じられないということに。
理解は、していた。信用もしていた。だが、いざ実際に起こってみると信じられないと思ってしまうのは、彼女もまた変わらなかったらしい。目の前の事実に思考が追いつかない状態が幾らか続いた後、アリスの意思がようやく戻ってくる。
「んっ……」
意を決し、アリスが身体を起こそうとすると、驚くほど軽やかにその身は起きた。昨日までは、その身にかかっている軽い羽毛布団すら枷のように感じ、満足に一人で起き上がることすら出来なかったというのに、今では確かに自分一人で起き上がる事が出来た。まるで六年前の、体調を致命的なまでに崩してしまう前のように。
倦怠感は、ある。だがそれは、六年前にも感じていた、生まれもっての虚弱体質から来るものだ。あの頃は疎ましく思っていたそれも、それ以下を体験し続け、そしてそれを捨て去れた今のアリスにとっては、その倦怠感などまるで問題とは思えなかった。
「……稲穂様」
思わずその名前を口に出しながら、アリスは呆然と秋雅の顔を見る。その彼女に対し、秋雅は大きく頷いて、
「気分は、どうだろうか?」
再びの問いかけ。それに対しアリスは、
「この上なく……」
そう呟いて、一筋の涙を流した。それは他人の前で初めて見せた、彼女の心からの喜びの涙であった。
なお、もう少し秋雅の治療は続く予定だったり。書いていてあれだけど、アリスって何か泣くイメージないので違和感があるなあと。