『――よくやった、我が友よ』
男が、少年の肩を抱いて言う。その背からは刃が突き出しているというのに、その声に苦痛は感じられない。
『これよりお前は、神殺したる魔王となる』
それを聞く少年の手には、刀が握られていた。少年の手は男の胸の前に、しかし刀の切っ先は背の先にある。
『お前はこれから、様々な戦乱に巻き込まれるであろう』
少年の身体は、小さく震えていた。しかし、その震えとは対称的に、少年の目はまったく揺れることなく、ただまっすぐに自身の手を見つめている。
『我が同胞と戦うこともあるだろう。お前の同胞と戦うこともあるだろう。しかし、お前に敗北はない』
そう言って、男はしっかりと少年を抱きしめる。
『愚かにして、親愛なる我が友よ。戦いと勝利でもって、我を楽しませるがいい。我を嗤わせるが良い』
少年の耳元で、その顔を愉快そうに歪めて男は告げる。
『我はいつも、お前を見ているぞ……』
その言葉と共に、男は消え去る。残されたのは一振りの刀と、それを握る少年のみ。
『俺は…………』
そして、少年は――
「ん……うん?」
何やら振動を感じ、青年――稲穂秋雅は目を覚ました。眠っていたのかと思いつつ、のっそりと身を起こし、僅かに頭を振る。大学の講義中という、おおよそ睡眠を推奨出来ない時間だったのだが、しかし見てみると彼と同じように、机に突っ伏すとまではいかなくとも、コクコクと舟を漕いでいる者が一定数見受けられる。もう五月も終わりという時期、授業の難易度なども分かるようになってきたからこその油断と言ったところだろうか。
「ああ……」
またか、と彼は外には出さず、先ほどまで見ていた夢に対し、小さく口の中で呟く。もう六年ほど前の、彼の人生が一変したその始まりの記憶を基にしたそれ。しょっちゅうとまでは言わないが、時々は見る夢は、彼にとっていろいろな意味で重要だ。
「また、何かあるのかね」
あの夢を見るときは、決まって何かが起こる時だ。案外、『彼』が見せているのだろうかと、そんなことすら思いつつ……そこでようやく、胸ポケットに入った携帯が震えている、と気づいた。今更だが、どうやらこれが居眠りから覚めた原因であるようだった。
「……ん」
誰だ、と思いつつ画面に出た名前を確認し、秋雅は眉を軽くひそめた。そして、電話を保留にしつつ、秋雅は机の上の筆記用具やプリントなどを片付け始める。
「どうしたんだ?」
そう秋雅に小声で話してきたのは、隣に座っていた彼の友人であった。その言葉に対し、秋雅は苦笑しつつ答える。
「ちょっとな。急ぎで用事が入った」
「そっか。じゃあこのまま帰るのか?」
「どうだろうな。まあ、帰る事になったらメールでもするよ」
「了解」
「じゃあ、とりあえず行ってくる」
「おう」
友人との会話を切り上げ、こっそりと席を立つ。幸いにも、教授などに目をつけられることもなく講義室を出ることに成功し、そのまま人気のないところまですたすたと歩いていく。講義棟を出て、外の適当に人が通らない物陰まで来たところで、ようやく秋雅は電話に出た。
「――私だ。何の用だ?」
そう告げる彼の声には、先程友人と交わしたような気安い雰囲気はまったくない。大学生らしからぬ、人の上に立つことを是としている者の、堂々たる声であった。
「いやあ、すみませんね。授業中だというのにいきなり電話なんて」
その秋雅の声に答えたのは、少々軽い調子の、大人の男の声だ。おそらくは秋雅よりも年上であろうに、しかしその言葉には何処か秋雅への敬意を感じられる。
「別に構わん。それよりも」
「はい、分かっています。先程、島根のとある町で、神獣が発見されました」
「どのようなタイプだ?」
「巨大な狐だそうです。尻尾の数は不明ですが、少なくとも九尾ということはないでしょうね」
「そうか……八人目にやらせるという気はないのか?」
「残念ながら八人目の王は現在、この国におられないようでして。それに……」
貴方に依頼する方が確実ですから。そう男は言葉を続ける。それに対し、秋雅は特に反応を示すことなく、しかし話そのものには承諾の意を見せる。
「分かった。すぐに向かおう」
「では、とりあえずいつもの場所に来てもらえますか?」
「うむ、ではな」
そう言って、秋雅は電話を切る。そして、
「――我は常に留まらず。我が立つ地は、全て我の意思のままに」
小さく、しかしはっきりと彼はその言葉を口に出す。それと同時、彼の姿はその場所から消え去るのであった。
「相変わらず、話が早くて助かりますねえ」
正史編纂委員会に所属する呪術師、三津橋正和は切れた電話を見て呟いた。場所は正史編纂委員会の、福岡分室と呼ばれる建物の一室、彼個人の仕事部屋として用意された場所だ。彼は今しがた切れたばかりの電話を懐に入れ、続けて視線を部屋の隅に置かれた人形に目を向ける。人形と言っても、特段手の加えられた物と言うわけではなく、どちらかと言えば素っ気のない、所謂マネキンに近いタイプだ。
それを三津橋がじっと見ていると、不意にその人形が消え、代わりに長身で、どちらかと言えば中性的な、非常に整った顔立ちをしている青年が姿を現した。
「――待たせたな」
「いえ、そのようなことは」
青年――稲穂秋雅の言葉に、三津橋は恭しく頭を下げる。しかし、彼の反応に興味を持っていないのか、秋雅は三津橋に近寄りつつ問いかける。
「それで?」
「はい。まず、空港に移動して飛行機で現地まで飛びます。ちなみにうちで所有する個人機を使うつもりです。その後、あちらのメンバーに現場まで案内をしてもらい、そして最後は貴方にお任せする、という流れのつもりです」
「分かった。それで行こう」
「では、申し訳ありませんが急ぎ空港へ向かいましょう。あまり時間的猶予はないそうなので」
「ああ、そうだな」
「細かいことは飛行機の中、ということで」
「うむ」
そう言って、三津橋は秋雅を連れて部屋を出る。そしてそのまま、空港へと車で向かうのであった。
「――くそったれ! これが神獣の力かよ!」
青年が悪態をつく。つい先日、正史編纂委員会に正式に所属することになった、正式な呪術師となったばかりの新人だ。その彼の視線の先には、見上げねばならぬ程の大きさを持つ巨大な狐が、高らかに鳴き声を上げている。その周囲の地面は、所々真っ赤に熱せられていたり、あるいは大きくひび割れたりしている。
「新入り、一旦下がれ!」
「今下がったら奴に押されます!」
上司の命令にそう反論して、青年は狐に突撃する。その手に持つのは、呪術的に強化された一振りの刀だ。それを、狐の右前足に振るわんと青年は一気に距離を詰めようとする。だが、しかし。
「馬鹿、下がれ!」
一つ、狐が鳴き声を上げ、その三つに分かれた尾を大きく振る。それと同時に、周囲に四つの炎弾が現れ、それがそのまま落下し、うち一つが青年へと向かってくる。
「くっ!」
その炎弾を、青年はすんでのところで回避する。回避された炎弾はそのまま地面へと激突し、その色を真っ赤に染め上げる。その熱は至近距離にいた青年にも襲い掛かり、今しがたかいたばかりの冷や汗を一気に蒸発させる。
「このっ――」
「下がれ、命令だぞ!!」
「っ、了解!」
仕方がないと、青年はようやく上司の命令どおりに下がる。その動きに対し狐は、彼を追うでもなく、ただその場で唸りをあげている。
「どうすんだよ、こんなの……」
「何をやっている、馬鹿者! 上司の命令はきちんと聞け!」
「でも! もう動けるのは俺らだけです! 俺らが奴を倒さないと!」
「我らの目的を履き違えるな! 我らの目的はあくまで足止め。奴をこの場に留める程度に攻撃を仕掛けていれば良いんだ!」
「それでどうやって奴を倒すって言うんですか!」
「今、カンピオーネたる稲穂秋雅様がこちらに向かっておられる! あの方にお任せするというのが作戦だと、事前に説明しただろうが!!」
上司の叱咤に、しかし青年は諦めずに食って掛かる。
「その稲穂秋雅が間に合わなかったらどうするんですか?! 大体、稲穂秋雅って言えば、カンピオーネの癖に報酬を受け取る守銭奴って噂じゃないですか! そんなことをする奴がどのくらい頼りになりますか!?」
稲穂秋雅、という男はそちらの世界ではかなり名の知られた存在だ。カンピオーネだから、というのも勿論あるが、カンピオーネだからこそ、その例外的な振る舞いゆえに良く知られているとも言って良い。その例外的な行動の一つが、事件解決に当たって報酬を受け取ると言う物だ。
古今東西、カンピオーネと呼ばれる存在は何人も存在しているが、その中で金銭、美術品、あるいは権威というものに固執した者はほとんどいないとされている。魔術結社の首領、程度ならばともかく、自身を着飾るための要素を求めるということがほとんどない。
そもそも、カンピオーネとは、まつろわぬ神を退治さえすればその他は何をやっても済まされる、という存在だ。カンピオーネにとってまつろわぬ神と戦うは義務と言って良い。それなのにそのまつろわぬ神と戦うときまで金とは、と思っている者も一定数いる。
この青年も、秋雅に対しそう思っている者の一人であり、秋雅に対し不信感があった。加えて言えば、秋雅が自身とさほど変わらぬ年齢だというのも、その戦闘力に対する不審に拍車をかけている。だからこその、先程の命令違反の攻撃であったのだ。
「だからここは俺たちで――」
「――別に、守銭奴と呼ばれても構わんが、な」
突然の声に、青年と上司は思わず振り返る。すると、そこに居たのは一人の男であった。彼は青年に、まるで何も思っていないかのような目を向けつつ言う。
「私の行動に対する評価など、さして興味も湧かん。好き勝手に、己が思うとおりに言いふらすといい。だが、あえて言うならば――」
バチバチと、彼の左手が帯電し始める。そして次第に、彼の手の中に光り輝く力が収束していく。
「ここは、私の戦場だ。下がっていてもらおうか……!」
轟音とともに、彼の手から雷が放たれた。それはまっすぐと狐へと向かい、その顔面に直撃する。
その衝撃に、狐が吠える。突然の痛みから、怒りの色を瞳に浮かべた狐は、それを与えた彼へと――稲穂秋雅へと視線を固定する。
「そうだ。お前の相手は、この稲穂秋雅がしてやろう――正々堂々、一対一でだ」
そう宣言する秋雅の右の手の中には、何か黒い物――真っ黒に染まったザクロの実だということがあった。その真っ黒なザクロの実を、秋雅は握りつぶすように拳を締めて言う。
「我、冥府にある者なり。我、汝を冥府に招かんとする者なり。故に告げる――汝は既に、かの地に縛られし者なり――!!」
聖句を唱え、秋雅は己が権能を発揮する。それは彼と、彼を睨みつける狐の身に赤黒く纏わりつく。そして次の瞬間にはそのどちらもが――その場から消え去っていたのだった。
「……今の、は」
先程まで戦っていた狐も、唐突に現れた秋雅も消え去った後、呆然と青年が呟く。
「稲穂秋雅。カンピオーネと呼ばれる存在ですよ、新入り君」
それに答えたのは、同じく呆然としていた彼の上司ではなく、何処か軽薄さを含んだ声。その声に、青年の上司が反応する。
「三津橋!」
「お久しぶりです。どうやら、何とか間に合ったようですね」
「ああ、何とかな……あの方が?」
「ええ、我らがカンピオーネです」
そう言って、三津橋がニッコリと笑う。その笑みに、ようやく青年の上司は安堵したように息を吐く。
「良かった。これで後は大丈夫だな」
「ええ。直にあの神獣を倒して戻ってこられるでしょう……ああ、それと新入り君?」
ふと、三津橋が青年に視線を向ける。
「状況の把握の為、少し前からここの音は拾わせてもらいました。その結果として言っておきましょう。稲穂さんは基本的に自分の噂話や行動について、特に何も言ったりしませんし、それが原因で怒るという事はまずないです。あの方は、守るべき民草に対して実に寛大な王であらせられますから……が」
ぞくりと、青年の背を、氷を当てられたかのような冷たさが襲う。そう感じてしまうほどに、三津橋の青年を見る視線は、とても冷ややかなものだった。
「弁えなさい。あの方は、我らのために戦ってくださる王なのです。君如きが、貶してよい相手ではありません」
「…………はい」
搾り出すように、青年は返答する。その返答に対し三津橋は、しばし彼をじっと見つめていたものの、不意にその視線を先程まで狐がいたほうへと向ける。
そしてそのまま、何を言うでもなく、彼はしばしそのまま何処かを見つめ続けるのであった。
「さて……と」
そこは奇妙という言葉では表せないほどの空間であった。
地形は、先程まで彼がいた場所と変わりない。しかし、その色は異なる。地も、山も、空も、空間そのものが赤黒くその身を染めている。奇怪で、不可思議で、不気味。そう評価すべき空間に、ただ秋雅と狐のみがいる。
「これも俺の役目なんでな。倒させてもらうぞ」
言うと同時、秋雅の姿が消える。何処だ、と狐が周囲を見渡そうとしたその瞬間、轟音が辺りに響きわたり、狐の巨体が大きく揺らいだ。
何時の間に移動したのか、狐の顔のすぐ傍の、何もない空中に立っている。その手には先程まではなかった、やや大振りの鎚が握られており、彼の体勢からそれを使って狐の顔を殴りつけたのだということが見て取れる。
悲痛な声を上げながら、狐が音を立ててその身を横たわらせる。しかし、未だにその闘志は消え去っていないようで、ゆっくりと秋雅を睨みつけるようにしながら起き上がろうとしている。
「思ったよりも硬いな。決まると思ったんだが」
空中に浮いたまま、振りぬいた腕を戻しつつ秋雅が小さく呟く。彼としてはこの一撃で決めるつもりだったのだが、思いのほか狐の体が頑丈だったらしい。
「――っと」
怒りの咆哮を上げながら、起き上がった狐は尾を振り、軽く十は超えるほどの火球を生み出し、それを目の前の秋雅に向かって放つ。しかし、それが秋雅に当たろうかというタイミングで、秋雅の姿が再び消える。
その瞬間、狐が大きく跳び退る。それと同時、一瞬前まで狐が居た空間のすぐ傍に秋雅の姿が現れる。
「ちっ、勘が良い。やはり、こういうものは一撃で決めるべきだな」
目の前に狐が居ないことに舌打ちをしつつ、再び秋雅の姿が消える。現れた場所は、今度は狐の傍ではなく、少し離れた場所だ。
「雷よ!」
轟音を立て、再び秋雅の手から雷が放たれる。その一撃に対し狐が吠え、素早く火球を生み出し、放つ。
雷と火球、それが互いの中間地点で激突し、互いを喰い合い、打ち抜こうとする。一瞬の均衡の後、勝ったのは秋雅の方だった。
再び、雷が狐の顔面に直撃する。火球によって減衰していたのか、先程よりは痛みは少ない様に見える。しかし自身の攻撃を破られたという怒りからか、狐はさらに大きく吠えている。
だが、そのような隙を見逃す秋雅ではない。狐の視線がこちらに通っていない事を確認して、再びその姿を消す。
「喰らっておけ!!」
狐の下部から、激突音が響く。今度は狐の下に回った秋雅が、その無防備な腹部を、その手に持った鎚で思い切り殴りつけたのだ。
狐の巨躯が、僅かだがに空中へと舞い上がる。痛みと驚きだろうか、狐が獣の悲鳴を上げた。しかし、秋雅の猛攻は終わらない。
「そら!」
次に激突音を発生させたのは、狐の背中であった。下部からの一撃に浮いたその身を、今度は背中から殴りつけたのだ。未だに勢いのあった身体を強引に止めさせられたことで、狐の身体が大きく軋む。
それはよほど耐え難い痛みであったのだろう。これまで以上に、狐は大きく吠えた。もしかしたら、自身という存在が失われるという恐怖を感じているのだろうか。精一杯と表現したくなるような抗いの声を上げる狐の眼前に、秋雅は鎚を振り上げながら現れる。
「悪いが、これも皆の為なんでな。恨むなら、この地、この時に産まれた己と、そして俺を恨め」
言葉が理解できるとは思っていない。だが、何となく口に出してしまった。その理由を僅かに考えながら、秋雅はその鎚で、吠える狐の頭部を叩き割る。
「……終わったな」
粒子となり消えていく狐の姿を確認しながら、秋雅はポツリと呟く。神、そして神獣はその遺体を残すことはない。消え去る時はただ、光のように溶けていくのみだ。
それを見送った後、秋雅は己が右手を見る。そこにはもう、鎚は握られていない。そんな空っぽの右手を、秋雅は握り締め、そして開く。すると、そこには確かに、先程までなかったはずの、そしてこの空間に来る前は持っていた、真っ黒なザクロの実があった。
「帰るか」
秋雅が呟いた瞬間、その姿は消えてなくなり、それに連動して空間は音もなく消え去った。
「――お疲れ様でした」
突如、その姿を再び現した秋雅に、恭しく三津橋が礼をする。
「ああ」
三津橋の礼を受けつつ、秋雅は辺りを見渡してみる。しかし、戦闘前にいた二人の呪術師の姿はない。離れたか、と秋雅は安堵とも落胆とも言えぬ感情を覚える。
「……さて、秋雅さん。せっかくですからこの辺りの美味しい物でも食べに行きますか? 時間は少々微妙ですけどね」
長い付き合いで、秋雅が健啖家かつ戦闘の後は良く食事を取る事を知っている三津橋が、そのような提案を目の前の青年にする。王に対してとは思えぬほど軽いお誘いであったが、それに対し秋雅は一つ頷く。
「ああ、そうするか……それを報酬としても構わないが」
「いえいえ、そういうわけには。秋雅さん、先程の事をお気になされているのかもしれませんが、別に大丈夫ですよ」
「そんな気は、ない」
「まあ、どちらにせよ、今回の戦闘にて生じえた予想復興費に比べたら、秋雅さんへの報酬なんて大したことないですし。なんなら、今日は何処かの豪華ホテルにでも泊まって行きますか?」
「……とりあえず、食事だ」
「そうですね。実は良いお店を知っているんですよ」
などと、基本的に三津橋主体で話しつつ、秋雅はその場をゆっくりと立ち去る。これが、かつてより非日常に踏み入れた稲穂秋雅の、何と言うことのない日常であった。