稲穂秋雅が誇る権能の一つ、『冥府への扉』は、自身と対象者を死者の世界たる『冥府』へと送る権能である。しかし、ここでいう『冥府』と、真実他者より『冥府』と呼ばれるに相応しい世界というのは、似てはいるものの実は全く違うものである。
というのも、本来の冥府――区別をつけるために、秋雅などは『冥界』と呼ぶことが多い――があるのは、生と不死の境界、あるいはアストラル界などと呼ばれる世界であるからだ。
アストラル界はそもそも、無数の独立した空間が寄り集まって出来た、不連続な階層の連なりの世界である。冥界もまた、そのいくつもある階層のうちの一部だ。そこには亡者と呼ぶべき住人や、死を司る者たちなどが住み、その地の神に従っている。また階層の一つ、ではなく、一部と述べたように、アストラル界には複数の冥界が存在している。それぞれの文化、それぞれの神話に基づいた――あるいは元となった――冥界が幾つもあり、それらの一つないし全てをまとめて『冥界』と呼称しているのだ。そのうちには秋雅がその主より権能と共に簒奪し、妖精王として君臨する場所もある。秋雅にとっては、そこがいわゆる『冥界』となるだろう。
対し、『冥府』とは何か。一言で例えれば、本物の冥界の『模造品』という言葉がしっくり来るだろう。例えば世界の『色』であったり、『空気』であったり、『理』であったり。そういった構成要素はオリジナルに近く、しかしあちらと違い小さく、閉じた世界だ。『冥界』をこの現実世界とするならば、『冥府』は秋雅の手によって作られた、現実を模した積み木細工の世界と例えることも出来るかもしれない。
そうであるので、所詮秋雅が作った『冥府』は、アストラル界とはつながりを持っていない。あくまで冥府は秋雅が作り出した、現実世界ともアストラル界ともまた違った空間であるからだ。
しかし、直接的なつながりがないとはいえ、『冥府』が生と死の境界に近いというのも、また事実である。流石に『冥府』からアストラル世界に行くというのは無理があるものの、『声』を届かせる程度であれば、全く出来ないというわけでもない。
だからであろうか。この冥府において眠るなどして意識を手放した時、しばしば
「――はあい、秋雅」
気の抜けた女の声。それを耳にした秋雅は、面倒くさげに目を開ける。冥府とは違う、何処までも灰色一色な空間。そのような場所に自分がいるということを驚きもせず、秋雅は半眼で声の主を見やる。
「あ、起きた? お疲れ様、今日も頑張っていたわね。あたしも鼻が高いわ」
「……そうか」
「あら、気の無い返事。もう少し、会話に乗ってくれてもいいんじゃないかしら?」
そう言って、プリプリと怒った仕草を見せたのは、一人の少女だ。何も考えずに見れば、十代半ばというぐらいの年月に見える。どちらかと言えば小柄で細身、所謂スレンダーと称される体型であるというのも、その印象を補強するであろう。
しかし、不思議とその雰囲気と容姿は蠱惑的だ。可愛いと評するのが正しい童顔と体つきながら、しかし妙に『女』らしさのある少女。その名前を、秋雅はよく知っている。
「さして会いたいと思っていない相手との会話を楽しめるほど、私は八方美人的ではないということだ、パンドラ」
パンドラ。真なる神にして、不死者エピメテウスの妻。人の身でありながら神を殺した者を真に神殺しへと、カンピオーネへと転生する大呪法を施す女。カンピオーネからしてみれば、支援者的な立ち位置にある存在。もっとも、それをありがたく思うか、それとも疎ましく思うかは、神殺しとなった人間ごとに異なるのだろうが。
「相変わらずねえ、秋雅。あたしもある意味では母親のようなものなんだから、もう少し気安い態度をとってもいいんじゃないかしら」
「生憎と、私が母と呼ぶ人はたったの一人だけだ。貴女ではないし、貴女であるはずがない。これ以上私を不快にさせるのであれば、私はこの場を即刻去るぞ」
「はいはい、怒らないの。まったく、あたしに対しては妙に怒りっぽいんだから」
やれやれ、とパンドラは肩をすくめた。そんな彼女の態度に片眉を上げつつも、秋雅は口を開く。
「それで、今回は何故私を呼び出したのだ?」
「んー、特に何って理由があるわけじゃないんだけどね? ただ、久しぶりに貴方がこっちに来たから、ちょっと話でもしようかなって」
「はた迷惑な話だ」
「だってねえ。あの子と同じで秋雅もこっちの世界に来る事が出来るっていうのに、中々来てくれないんだもの。たまには子供と話したいと思うのは、母親として当然じゃないかしら?」
「母と認めた覚えはない、と言ったはずだが。それに、行く意味がない場所に行く気が起こる筈がないだろう」
神殺しがパンドラに会う――あちらが声をかけられるようにする、と言ったほうが正しいかもしれないが――方法として、大別すると二種類の方法がある。一つ目は非常にギリギリなレベルで死に掛ける、あるいはその後の蘇生を前提としての死を受け入れることで、それにより生と死の境界に近づくこと。そして二つ目は、異界渡りの秘術を用いて、自らアストラル世界に足を踏み入れるというものだ。
だが、前者はともかくとして――ともかくと言えるのは神殺しだけだが――後者の方法は中々に難易度が高い。そこらの魔術師に扱えるほど異界渡りの秘術は容易いものではないからだ。また、カンピオーネにはあまり関係がないが、只の人間が渡る場合は、アストラル界に身体を適応させるために、特別な霊薬を使う必要もある。
ただし、これはあくまで、異界渡りを望むものが一般人である場合の話だ。例えば中国の神殺しである『羅濠教主』などは、その卓越した方術の腕前によりアストラル世界までの転移を可能としており、ジョン・プルートー・スミスに至っては、アストラル世界の支配者層より簒奪した『妖精王の帝冠』という権能を用いることで、かの地への行き来を自由に行っている。
そして、秋雅もまた、その行き来を可能とした者の一人であった。ただし、前述した二人のように、単体での転移は出来ない。特殊な――しかし、それでもただの魔術師が行うのと比べると、かなり難易度の低い準備で事足りる――方法を用いることで異界渡りを可能としていた。それも全ては、『冥府への扉』の恩恵によるものである。これ単体ではアストラル世界への転移を行うことは出来ないが、それを補助し、転移を容易とする効果をかの権能が所持しているためだ。
とは言え、あくまで可能であるというだけで、秋雅が実際に転移をしているということではない。秋雅の場合、他の王と比べてかなり平常時にやる事が多く、たかだが散策程度の為にアストラル世界を訪れている暇など無いからだ。
一応、秋雅もハデスを弑逆した際に、その領地である『冥界』を継承し、妖精王の一人となっている。だから本来であればその地を訪れ、治める責務があるのだが、これに関しては――秋雅にしては珍しく、と言えるかも知れないが――放置している面がある。理由としては、『冥界』という地では存外王が出張るほどの問題も起きないし、居た所で亡者の嘆きの声や死に纏わるアストラル世界の住人たちの辛気臭い気配を四六時中味わうことになってしまうので、さしもの秋雅も放置しないとしんどいからであった。まあ一応、もしもあちらで問題が起こった場合には、すぐに駆けつけられるように準備はしているのだが。
行くのに手間がかかり、行った後も手間がかかり、行ってしまうと手間がかかる。こうも面倒な条件が重なってしまえば、秋雅がさしてアストラル世界に行きたがらないのも当然の話であった。
「本当につれないわね。
「毒にも薬にもならない話を覚えたところでどうにもならん」
「……本当、つれないわ」
やれやれと、パンドラはまたもや肩をすくめた。まるで聞き分けの悪い子供に対するようなその態度に、秋雅は更に不愉快そうに眉をひそめる。
「そう思うなら、せめて以前に話した最強の『鋼』とやらの詳しい情報でも話してもらいたいものだがな」
「それに関しては前にも言ったでしょう? あんまり詳しいことは言えないって」
「つまりは、そういうことだ」
会話をする気などない、と言外に告げる秋雅に、パンドラは残念そうにため息を吐く。
「まったく、貴方ぐらいじゃないかしらね。私に対してここまで邪険に扱う神殺しは。まったく、本当に貴方は他の子と比べても例外的な存在よね」
まあ、当然といえば当然だけど、とパンドラは意味ありげに笑う。
「貴方だけが自発的に神を討ったのではなく、
「……話はそれでお仕舞いか?」
ならば、と秋雅は目を閉じた。すると、何処かに落ちる様な感覚と共に、秋雅の意識は闇に飲まれていく。
「まあ、いいわ。とにかく頑張りなさい、稲穂秋雅。貴方には期待しているんだからね」
それが、稲穂秋雅に対しての、パンドラの見送りの言葉であった。
「……ふん、相変わらずだったな」
開口一番。目を開けてすぐに秋雅は呟いた。先ほどの夢で会った真なる神、パンドラに対する感想であった。
「期待している、ね。どこまで本当なのやら……」
本来であれば、神殺しはパンドラと出会ったこと、及びその会話というものを現世に戻った時に覚えているということはない。彼女との会話を覚えておくには悟りを開くレベルでの魂の浄化が必須なのであるが、そもそも神殺しになるような者に悟りなど開けるはずがまず無いからである。
しかし、何事にも例外があるように、秋雅はかの女神が発した言葉の一々を鮮明に覚えていた。やはりここでも、『冥界への扉』がそうなるように効力を発揮しているからである。この辺りも、スミスの『妖精王の帝冠』と同じくすることである。
ただし、確かに秋雅はパンドラとの会話を覚えておく事が出来るのだが、それをどこでどうやって交わしたのかということまでは覚えておく事が出来ない。この辺りは、正規の方法であったわけではないというのと、権能の能力の限界ということであろう。
厳密に言うと、最初は覚えているのだが、段々と忘れていってしまうのである。その為、『冥府』で就寝をする直前などでもない限り、そういえば、と思い出す事が出来ない。一応メモを残すなどをして記憶し続けるなどという事が出来ないわけでもないのだが、さして意味があるわけでもない――そんな事をしても会うときは会うし、会わないときは会わないからだ――ので、特に何をするでもなくそのまま放置をしているのが現状であった。
「……それにしても」
ポツリ、と呟きながら、秋雅は目の前の光景に意識を向ける。見渡せば眠ってしまう前と同じ、破壊の跡が痛々しい赤黒い街の光景。その光景を何とも言えない表情でしばし見つめた後、がりがりと頭をかく。
「気にしても仕方がないよな、コイツばっかりは」
「時間は……」
秋雅が時計に目をやると、現在時刻は朝の四時ごろであった。夕刻に戦いが始まり、決着までに一時間ほどはかかったと考えると、八時間ほどは寝ていたであろうか。
「となると、どうするか」
一応、SSIの人間には朝まで警戒を怠るなという指示を出しているので、少なくともまだ安否を気遣われる時間ではないだろう。ただ、おそらく現場の人間が決着についてやきもきしているであろうと考えると、すぐさまに報告をしてやるべきかもしれない。
「なら、考えるまでも無いな」
無駄に不安を煽る趣味は秋雅にはない。さっさと報告し懸念を消し去ってやろうと思い、秋雅は今すぐに外に戻ることを決定し、そのまま行動に移す。
「ふむ」
ぐるりと、辺りを見渡した秋雅は満足そうに頷く。戻ってきた現実世界の公園には、当然のことながらさしたる破壊の跡は見受けられない。唯一、中心部の地面にのみ貫通と皹の痕があるものの、この程度であればすぐにでも修繕可能だろう。
今回も大きな被害を出すことなくまつろわぬ神の討伐を済ませる事が出来た。その事と、新たな権能が増えたことに秋雅が満足を覚えていると、ふと秋雅の携帯電話が震えた。
懐から出して確認すると、メールの着信の知らせがあった。電波の遮断された『冥府』から戻ってきたことで、送られていたそれを受信したのだろう。
「……うん?」
秋雅が確認すると、メールは三件届いていた。一件はウルからだったが、二件目と三件目は知らないアドレスだ。誰からだ、といぶかしむ秋雅であったが、件名を見て、ああ、と見当がついた。
「アリス殿と五月雨室長か」
どちらも連絡先こそは教えたものの、メールを受け取るのは初めての相手だ。ただし、どのような用件かということは本文を見る前から見当がつく。
「まあ、とりあえずは後だ、な」
面倒な事がおきそうだ。そんな予感を胸にしまいながら、今もここを見張っているだろう魔術師に状況を伝える為、秋雅は公園の外へと歩いていくのであった。
これで今章はお仕舞いです。また閑話を一つ挟んだ後、四章を始めたいと思います。閑話の内容についてですが、現状考えているのは秋雅とアニーの会話、秋雅とスミスの会話、護堂とドニの会話、の三つです。このうちのいずれかを書こうと思っています。今のところ最有力は三番目で、ドニと秋雅の決闘周りについて書こうかと考えています。出来れば早めに投稿したいところですね。