「……はあ」
力なく、紅葉がため息をつく。場所は草壁家の居間のままだが、そこにいるのは紅葉一人だけだ。先ほどまでは電話中の五月雨もいたのだが、途中から外に出て行ってしまっている。秘密の話になったのか、話が長くなってきたので紅葉の気に触らないようにしてくれたのか。
「何なのかな……」
そんな一人の空間で、紅葉は力なく天井を見上げる。先ほど秋雅から出された待機の命令が、彼女の心に何とも言えない感情を生み出していた。
「気を使ってくれた、というのは分かるんだけど」
置いて行かれた、という言葉が紅葉の脳内をぐるぐると駆け巡る。気にし過ぎであり、単なる被害妄想であるとは分かっているのだが、どうしてもその言葉を振り切る事が出来ない。
そう思ってしまう全ての元凶は、自分に誇れるものがないからだ、と紅葉は理解している。ヴェルナたちのような実力も、五月雨のような専門知識もない。ただの変な体質の幽霊では秋雅の手助けを出来ないから、こういう時に留守番役を任じられるのだ、と。
考えすぎである、というのは紅葉にも分かっている。秋雅にはそのように思って紅葉を置いていったわけではないし、そもそも紅葉は巻き込まれた側の人間で、本来であれば解決する側に回れるわけがないのだ。
だけれども、自分は秋雅の従者なのだ、と紅葉は思ってしまう。恩義やそれ以外の理由から、秋雅の為に働きたい、彼の力になりたいと思っている。しかしどうしても、秋雅の手助けをすることも、秋雅に頼られることも出来ない。本来であれば草壁家の問題であるというのに、今はただ祖父を待つことしか出来ない。実に、歯痒かった。
「情けないなあ……」
天井を仰ぎ、手で目を覆う。そうしなければ、この身体になってから流れなくなったものが、目から溢れてしまいそうだったからだ。
「……う、ん?」
そんな体勢を維持して、どれほどが経っただろうか。ふと、紅葉は訝しげな表情を浮かべ、顔を部屋の壁のほうへと向ける。いや、正確には壁ではなく、その向こうに広がる外へと向けている。
「何だろう……ざわざわする」
そんな行動の訳は、妙な胸騒ぎを感じたからだ。脈絡のなく湧き上がったその感覚に、紅葉は先ほどまで感じていた寂寥感や焦燥感を忘れ、いぶかしむ。そのぐらい異質で、突然の感覚であった。
「何かがいる……? 呼んでいる、ってわけじゃないみたいだけれど……アピールしているの?」
何かしらが、自身の存在を周囲に伝えようとしている。謎の胸騒ぎの正体を、紅葉はそのように感じ取る。そこから生まれる疑問は当然、紅葉の感覚を刺激している何者かの正体だ。
「………………うん」
しばしの沈黙の後、紅葉は小さく頷く。待機という、秋雅からの受けた命令を破る。その決心であった。何者かに対する好奇心、感覚に対する疑問、何も出来ていないことによる焦燥感など、そういったものを含めた彼女の中の複雑な感情が混ざり合い、そして生まれた結論であった。
念のためメモを書き残し、紅葉は家を出る。祖父母に話しておこうかとも少し思いはしたのだが、祖父の作業と祖母の休息のどちらも邪魔しない方がいいと、黙っていくことにする。
そうして、家を出た紅葉であったのだが、その背に声がかけられた。
「紅葉さん? どうかなさいましたか?」
外に出てすぐ、ちょうど電話を終えたらしい五月雨であった。そういえば三津橋に連絡をしているのだったと紅葉は思い出したが、もはや後の祭り。訝しげな表情で見る五月雨に、どうしようかと紅葉は一瞬考えたが、
「その…………変な感じがしたので」
「変な感じ、ですか?」
「はい。えっと――」
特に誤魔化すでもなく、紅葉は本当のことを五月雨に語り始める。流石に誤魔化せるようなものではないし、そもそも誤魔化すようなことでもないからだ。まあ、秋雅の命令を破って外出する目的としては弱い、というのは事実であるのだが。
そんな訳で、さして長くもない理由を紅葉は五月雨に語る。それを聞いての五月雨の反応は、案の定困惑であった。
「……向こうに何かがいる、と。まあ、紅葉さんが霊体であることと、紅葉さんのお婆様の件を考えれば、霊視に似た能力を紅葉さんが持っていても、決しておかしいとは言えませんが……」
紅葉の説明にあった方向を見ながら、五月雨が何とも言えないに呟く。全否定をしている、というわけではないのだが、完全に肯定するには根拠が薄すぎると思っているようであった。
「やっぱり駄目、でしょうか……?」
「う、ん……そうですね……」
考え込む五月雨であったが、少しして小さく頷き、紅葉へと向きなおる。
「分かりました。私が同行しますので、気分転換がてら行ってみましょう」
「すみません、ありがとうございます」
「いえ、お気になさらず。では、行きましょうか」
そう言って、五月雨は紅葉が示した方向へと歩き出す。その後を、紅葉も恐縮したように身を縮めつつ着いて行った。
「……そういえば紅葉さん、こちらにはよくいらしたのですか?」
「いえ、数年に一度ってくらいの頻度です。正直この辺りの地理もよく分かりません」
「ああ、そうでしたか……」
会話が続かない。五月雨は話題を選びあぐねているようで――紅葉が上手く返す事が出来ていないのもあり――先ほどから会話がどうにも長続きしないのだ。
「……すみません」
数度目からの会話の切れ目に、紅葉が申し訳なさそうに目を伏せる。彼女からの謝罪の言葉に、五月雨が立ち止まり、振り返る。
「かなり気を遣わせてしまっていますよね。無理も聞いてもらって、本当にごめんなさい」
「いえ、その、あまり気に病まないでください。どうせ一時間はやることもなかったのですし、稲穂様から紅葉さんのことは任されています。紅葉さんの精神的負担を考え、多少の気分転換は必要である、と私が判断した結果ですので、紅葉さんが落ち込むようなことじゃないですよ」
「でも……」
思わず、紅葉は五月雨の言葉を否定しようとする。しかし、それに対し五月雨は僅かに迷う素振りを見せた後、首を横に振る。
「紅葉さん自身はそれほど大事と思っていないでしょうが、今の状況を含め、紅葉さんにとって過度なストレスというのは、かなり問題となりえるのですよ」
「どういう意味ですか?」
「福岡の方の草壁家の地下で、自分の存在が危うくなったことはご存知ですね?」
「え、ええ」
あまり覚えていませんが、と紅葉は頷く。
「私達生きている人間は肉体があるため、物理的な損傷を受けるなどをしない限り存在が揺らぐことはありません。ですが、紅葉さんは実体化こそすれ、肉体その物は所持しておらず、あくまで霊体でしかありません。魂のみの状態と比べればまだマシですが、霊体というものは不安定なのです。それこそ、当人の精神状態によって存在が揺らぐほどに」
「あの時の私が、そうだったってことなんですか?」
「はい。だから、稲穂様は紅葉さんをこちらに置いて行かれたのだと思います。下手な話をして、紅葉さんの精神に負荷かがかかった場合、最悪貴女が消滅しかねなかったということです」
「……それは、椿が例の爆弾に使われる可能性の話ですか?」
紅葉の問いかけに、五月雨の表情が凍った。一瞬の沈黙を挟み、彼女は罰の悪そうな表情を浮かべながら口を開く。
「気付いて、いらしたのですか」
「ええ、まあ……私がこうなったことを考えると、父は椿を例の爆弾にする気だろうと思ったので。何故誰も、その事を言い出さないのかと思っていたんですが、私の為だったんですね」
「……そういうことです。私自身の考えですが、ただでさえ妹さんを心配されている紅葉さんに、その可能性の提示はやりかねたもので。おそらくは、稲穂様達もそうなのでしょう。決して、紅葉さんに出来る事が無いから待機を命じたというわけではないと思いますよ」
「そう……ですね」
少しだけ、紅葉の心の中にあった不安が薄まる。代わりに、悔しさのようなものが沸きあがってくるが、まだこちらのほうが紅葉にとって飲み込める感情だった。
「……置いて行かれたと、そう思っていたんですか?」
ふと、五月雨がそんな言葉を投げてきた。それに対し、紅葉は少しだけ黙り込んだ後、コクンと小さく頷く。
「私には、専門知識も戦闘能力もありません。役に立たないから置いて行かれたのかな……と、少しだけ」
「率直に申し上げるのであれば、気にし過ぎだと思いますよ。稲穂様はそういう方ではないように思えます」
「それは分かっているんですけどね、私も。つい、そう思ってしまったんです」
「分かりますけどね、そういう気持ち。置いて行かれてしまうという焦りと恐怖は、私にも経験があります。実際、一度は心が折れそうになったこともあります」
「……そうなんですか?」
五月雨の告白に、紅葉が目を丸くする。紅葉から見て五月雨は、見るからに有能なキャリアウーマンという印象だったので、彼女がそんな思いを抱えた事があったということが意外だったのだ。
そんな紅葉の反応に軽い笑みを浮かべた後、五月雨は再び歩き出す。それに慌てて紅葉が、今度は真横についた事を横目に見ながら、懐かしそうに口を開く。
「昔……というほど歳もとっていないんでしょうが、仲の良かった友人に置いて行かれると思ったことは何度かあります。ただでさえ私はマイナーなものを学んでいましたから、真っ当な魔術師として成長していた友人に、焦燥感を覚えたことはありました」
「それで、どうしたんですか?」
「どうした、ってほどでもないんですけどね。少しだけ考え方を変えただけです」
「考え方ですか?」
「ええ。置いて行かれる、ではなく、追いかけよう、と考えるようにしたんです」
「追いかける、ですか? 追いつく、ではなく」
「そう簡単に同じラインに立てない、と開き直ったんですよ。だから、せめて差が開かないように自分も追いかける。そして、いつか追いつく。そんな風に考えるようにしたんです」
「追いかけて、追いつく……」
五月雨の言葉を、噛み締めるように紅葉が繰り返す。ゆっくりと、ゆっくりとその言葉を取り込み、紅葉は力強く頷く。
「そうか……追いかければいいんだ! 秋雅さんに引っ張ってもらうんじゃなくて、こっちから……!」
数度頷き、紅葉が顔を上げる。その表情にはもう後ろ向きな感情は見受けられず、ただ前を見た決意と嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「ありがとうございます、五月雨さん。おかげで大事な事を知れましたし、大事な事を思い出しました。私、元々前向きな性質だってことを忘れていました!」
そうだった、と紅葉は大事な事を思い出した。生前も、そして幽霊になっても、そうであった。後ろ向きではなく、前向き。それこそが、草壁紅葉という人物の本質であるはずだ。
そう、幽霊として自我を取り戻した時も、名前を思い出したときも、どちらの時も自分はうじうじとせず、前を向いていたはずだった。それがここ最近は、家族のこととあって、些か思考が良くない方向にばかり進んでいた。だが、それでは駄目なのだ。
『父が危険な事をしている、妹が危ないかもしれない』という足踏みでしかない思考ではなく、『父を止め、妹は助ける』という自らが動く決意こそをしなければならない。勿論妹の心配はするのだが、その上で自分がどう動くのかを決めなければならなかったのだ。いくらか時間はかかってしまったが、ようやく気付く事が出来たのだ、と紅葉は想いを深く胸に刻みつける。
もしかしたら、先に五月雨が話していたように、紅葉が霊体であるからこそ、一度受けた精神的な負担がここまで後を引いて、紅葉に不要な焦燥や後悔を与えていたのかもしれない。しかし、そのストレスも五月雨の言葉によって霧散させることが出来た。
「五月雨さんのおかげで、自分の本質を思い出す事が出来ました。本当にありがとうございます!」
あるいは、秋雅ではこの決心を導くのは難しかったかもしれない。秋雅は優しく、そして甘いから、今の紅葉に対し焚きつけるような真似はしなかった。似た過去があり、そこから自分の想いをぶつけた五月雨だったからこそ、今ここで紅葉は元の自分に復帰できたのかもしれない。
だから、紅葉は精一杯の感謝の気持ちと共に、勝気な笑みで五月雨を見る。後ろ向きな考えを完全に吹っ切ったと分かる紅葉の姿を見て、珍しく五月雨も柔らかな微笑を浮かべる。
「紅葉さんの力になれたのであれば幸いです。気分も晴れたようですね」
「はい。だいぶ楽になりました。ちょっと最近、神経質になりすぎていたみたいです。これからは焦らず悔やまず、ただ前向きに頑張って秋雅さんを追いかけることにします。勿論、椿も絶対に助けます」
「ええ、そうですね。私達も全力を尽くしますから、一緒に頑張りましょう」
「はい!」
改めて決心を固め、紅葉と五月雨は頷きあう。紅葉の消沈がきっかけで、意図せず二人の間には、新たな絆が生まれていた。そのことを喜ばしく思いつつ、切り替えるように紅葉は視線を前に向ける。それを受け、五月雨もまた視線の方向を同じくし、口を開く。
「では、そろそろ行きましょうか。まだ例の感覚はあるのですよね?」
「ありますね、相変わらず向こうからです。何があるんでしょうか」
「さて、こればっかりは何とも。実際に行ってみないと分からないかと」
「ですね」
かくして、紅葉にとって一つの改革が行われた後、五月雨は再び、紅葉が感じているという奇妙な感覚の正体を探る為に歩き始めた。関係性が変わったからか、先ほどのように不自然な沈黙が生まれることもなく、道中の会話は極めて自然に行うことが出来た。
そうしていれば、最初はまさしく住宅街といった光景も、次第にビルや大型商店なども見え出し、活気のある街という風に変わっていく。
「…………この辺り、だと思います」
そんな中、大通りへと辿り着いたところで、紅葉の足が止まった。具体的なその場所を探ろうとしているのだろうか、彼女は目を凝らすようにしながら周囲を見渡す。
「どこか分かりますか?」
「待ってください。ぼんやりとしていて、居場所が…………」
少しして、紅葉はその視線を直線上にある交差点の中央辺りに固定し、眉をひそめながら注視し始めた。何か見えるのだろうか、とそう思って五月雨も見るが、さして不自然なものは見受けられない。
平日ではあるが昼時ということで、大通りはそれなりに活気のある。そんな場所で立ち止まる、スーツと普段着という対照的な格好をした二人の美女に、通り過ぎる人々の視線も集まるのを五月雨は感じ取る。だが、今はどうでもいいことだと、黙って紅葉の反応を待つ。
「……居た」
数分後、紅葉が小さく呟やた。確信に満ちたその言葉に、五月雨も紅葉が見つめる先に視線を向ける。
しかし、
「失礼ですが……何処に?」
やはり、と言うべきか、紅葉の言葉の強さとは裏腹に、五月雨は紅葉の視線の先にそれらしい存在を見つける事が出来ない。いくら眼を凝らそうと、呪力の気配を探ろうとも、紅葉の言う気配の持ち主とやらの影も形も見当たらないのだ
「ほら、あそこです。交差点のど真ん中、そこに居る和服の男性がいます」
「はあ……」
紅葉の言葉にいぶかしみつつも、五月雨は再び眼を凝らす。何もないはずだが、と思いながら数秒ほど注視したところ、
「……っ!?」
見えた。先ほどまでは確かに誰も見受けられなかったはずなのに、紅葉に言われた途端、五月雨はおかしなものを発見してしまい、驚愕する。
「確認できましたが、あれは一体……」
「……何だと思います?」
「単純に考えるのであれば、紅葉さんと同じく幽体の類でしょう。しかし、そうでなく、最悪の可能性を考えるのであれば――」
尋ねつつも、紅葉もまたその可能性を考えていたのだろう。自然と、二人の口は同じ動きをし、同じ言葉を発しようとする。
『――まつろわぬ神』
その単語を、二人が重ねるように放ったと同時、ぐるんと、不気味に男の顔がこちらを向いた。その表情には覇気というものが感じられず、何を映しているかも分からない目をじっと紅葉たちの方向へと向け、口を動かす。
『汝、我の名を知る者か?』
明らかに人の声など届くはずのない距離。だというのに、まるで耳元で発せられたかのように鮮明に、五月雨と紅葉の耳に届く。
「気付かれた!?」
その言葉と、何より自分達の存在が気付かれたことに、五月雨と紅葉は驚き、咄嗟に大きく後ろに跳ぶ。反射的なものであったためか、その飛距離は普通の人間に出せるようなものではない。
「うわっ!?」
「……えっ?」
当然、人間業とは思えない跳躍を二人が披露したことで、周囲に居た人々はぎょっとした目を向ける。しかし、それも一瞬のことであった。人々の驚愕は、それ以上の異変によって塗りつぶされることとなる。
「あれ、何だ?」
「雲? さっきまであんなに晴れていたのに……」
異変に、人々が口々に言葉を発しだす。二人に目を向けていた人々を含め、その場にいた者を困惑させたのは、突然の暗闇であった。夜の闇というほどではないが、しかし視界が悪くなる程度には暗いと言えるだろう。何事か、と思わず頭上を見れば、そこには先ほどまでは確かになかったはずの、巨大で、非常に恐ろしい雰囲気を携えた雷雲であった。いつの間にか出現したその雷雲は、まるで獣の唸り声かのような音を人々に聞かせながら、不気味に鎮座している。
「例の雷雲、ですか」
「しくじりましたかね、これ……」
些か迂闊な行動をとってしまったと、現状からその事を悟った五月雨は冷や汗を流す。
「どうします?」
「まずは稲穂様に連絡――」
急ぎ、秋雅のこの事を伝えないと。そう判断し、携帯電話を取り出そうとする五月雨であったが、それよりも先に事態が動いた。突如、頭上にあった雷雲が、そのうちに溜め込んでいた雷を地上へと降らせ始めたのだ。
その雷は、次々に地上へと降り注ぎ、そしてそこにある建物などを破壊する。避雷針とは何であったのかと思うほどに、雷の一撃は建物を砕き、溶かし、焼いていく。
ビルの上部からは瓦礫が生まれ、直下に居た人のすぐ隣に落下する。段々と事態を理解し始めた人々が悲鳴をあげ、反射的にその場から逃げ出す。阿鼻叫喚、という言葉が何よりも相応しい、そんな悪夢のような光景だ。
『――立て、
しかし、悪夢は悪化していく。轟音の中、再び男の声が紅葉たちの耳に響いたと同時、道路のそこかしこから、ぬるりと人の姿をした何かが生まれだしたのだ。その何かは人の形こそしているものの、表面は土のようであり、表情はのっぺりとしている。
そして、その土人形達は、逃げ惑う人々を襲い始めたのだ。幸いにも動きは遅いので未だ被害はないようであるが、このまま放置していればその限りではないというのは見るからに明らかであった。
「五月雨さん!」
「分かっていま――!?」
紅葉に急かされながら、携帯電話を使おうした五月雨が息を呑む。彼女が見つめている画面に映っていたのは、圏外の二文字。
中継局がこの雷によって破壊されてしまったのか、あるいは雷自体に電波妨害の作用なりがあったのか。何にせよ、携帯電話という連絡手段は、この場では使えないようであった。
「どうしました?」
「……電話が死んでいます。おそらくはこの雷が原因かと」
「秋雅さんに連絡が取れないって事ですか」
「稲穂様がこちらに気付かれるのを待つしかありません。今は、少しでも被害を抑えるように動かないと」
「ですね、出来るだけやってみます!」
パンと掌に拳をぶつけて気合を入れ、紅葉がその場から駆け出した。強化されたその脚力は道路に皹を入れながら弾丸の様に紅葉を跳ばす。そのまま、直線上に居た土人形一体に、紅葉は勢いのままにぶつかる。土人形、という見かけ通りというべきか、人形はその一撃で簡単に砕け、動作を停止した。
「この程度なら!」
自分でもどうにかなると判断したらしく、紅葉は再び駆け出し、一体、また一体と人形を砕いていく。明らかに人間の動きではないが、恐怖に駆られた人たちはその事を疑問に思う暇もなく、ただその場から逃げ出していく。
「はあっ!」
紅葉ほど派手ではないが、五月雨も身体強化を使って確実に土人形を蹴り砕いていく。若くして分室の長となるだけあって、彼女もまた十分な戦闘能力を所持しているのである。
しかし、そうして二人がいくら土人形を砕いて行こうとも、土人形達は次々と大地より生まれてくる。雷もまだまだ降り注ぎ、何より未だまつろわぬ神と思しき男が動かない現状に、じりじりと焦燥感が五月雨の背を焼く。
その時だ。
「――えっ?」
飾り気のない電子音が、紅葉の方から発せられれた。その音と、紅葉の驚いた声に顔を向ければ、そこには胸元から携帯電話を取り出す彼女の姿があった。
どうして携帯電話が鳴るのか、と驚きつつも五月雨は冷静に土人形を蹴り砕いていく。すると、数十秒ほどの応対の後、紅葉が五月雨に対してその携帯電話を放り投げる。
「五月雨さん!」
「っと! 何ですか!?」
「秋雅さんからです! 五月雨さんに代わってほしいと!」
「なっ――稲穂様から!? 失礼しました、五月雨です!」
ぎょっとしつつ、受け取った携帯電話に出る。すると電話口から、この場で最も聞きたかった男の声が放たれた。
『稲穂だ。五月雨室長、何でも良いから上空に目印の類を作れるか? 君達の位置を知りたい』
「お任せください――光よ、我らを照らせ!」
秋雅の命令に、その意図を汲むのも放棄して、五月雨は魔法陣が描かれた札を一枚投げながら呪文を唱える。上空に向かって一直線に飛び上がった札は、十数メートルほどに到達した時点で強く光り輝き始める。雷雲の所為で暗いこの空間において、その光はおそらく遠くからでもよく目立つと思われるが、どうか。
「稲穂様!」
『――確認した』
期待を込めて呼んだ次の瞬間、五月雨たちの背後で着地音が聞こえた。振り向けば、そこにはヴェルナとスクラを抱いた秋雅が立っていた。おそらく、光を目印にして何らかの手段で駆けつけてくれたのだろう。何と頼りになることかと、五月雨は安堵と共にそう感じる。
「秋雅さん!」
「稲穂様、感謝いたします」
「二人とも、よく持ちこたえた」
たった二人でまつろわぬ神の前に立ち続けていた二人を労った後、秋雅は鋭い目で交差点の中央を見る。釣られ、同じくそちらを見れば、そこには未だ虚ろな表情を浮かべた男が、突如現れた秋雅達に対し視線を向けながら佇んでいる。
「あれか……」
『汝、我の名を知る者か?』
「……成る程、やはり自分が誰であるのかを忘れているようだ。だが、まずは――!」
秋雅の手にザクロの実が現れる。そして、それを握りつぶしながら、秋雅は聖句らしきものを唱え始めた。
「我、冥府にある者なり。我、汝を冥府に招かんとする者なり。故に告げる――汝は――!?」
そこまでを唱えたところで、五月雨達の周囲に突如土人形が発生する。それは、先ほどまでの動きは何であったのかと思うほどの機敏さで、五月雨たちへと襲いかかろうとする。
「――汝は既に、かの地に縛られし者なり――!!」
何故か、悔し気に顔を歪めながら、秋雅が言葉を唱えきる。次の瞬間、秋雅と男、土人形、そして五月雨達が、その場から消失するのであった。
「これは――何ですか!?」
驚愕の声を紅葉が上げる。光景を構成する要素は同じであるのに、しかし空間や大地は不気味なほど赤黒いこの場所に対しての反応としては当然のものだろう。
「落ち着け、紅葉」
そんな紅葉に声をかけ、紅葉の前に居た土人形を雷鎚で砕きながら、秋雅は皆の前に出る。
「ここは、私の権能である『冥府への扉』と使って移動した、私が『冥府』と呼ぶ空間だ。本来であれば人形どもとあの男のみを連れてくるつもりだったのだが、距離が近すぎて君達まで巻き込んでしまった。すまない」
苦々しいものを感じながら、秋雅は謝罪の言葉を述べる。戦場を強制的に変更できる『冥府への扉』であるが、転移対象は秋雅によって選択されており、その選び方は個人指定となっているのだが、実際に転移をされるのはその対象を含めた一定空間ごとである。そのため、今回のように対象に近しい場所にいると、秋雅自身には転移させる気がなくとも、実質上転移に巻き込んでしまうこととなってしまうのである。被害を発生させる要素は全て『冥府』に送ろうとしたことによる事故であった。
『――汝、我の名を知る者か?』
秋雅が謝罪に紅葉たちが反応をするよりも早く、男が再び同じ問いを投げかけてくる。そのことに、一瞬だけ不愉快そうに眉をひそめる秋雅であったが、すぐに表情を戻しもう一歩前に出て、その声に答える。
「ああ、知っているとも」
既に、この男の正体に関して、秋雅は見当をつけていた。あの後、北海道分室の知識と予知無の内容、そして今しがた見たその力から、男はどのような神であるのかということを理解している。
実の所、名を忘れた神にその神性を思い出させることは、戦闘においては不利でしかない。名を忘れ、本来の力を振るえない相手のほうが、倒すのは楽だというは当然の話だ。
しかし、秋雅はその名を口に出すつもりであった。そうしなければ、いかにまつろわぬ神を倒そうともその権能を手に入れられぬからである。これからも、幾度とない戦闘を行うであろう自身の運命を考えれば、力を得る機会を失う愚を冒すつもりはなかった。
たとえ、名を思い出させることによって相手が強大になろうとも、秋雅にとっては問題となることではない。何故ならば、秋雅もまた他のカンピオーネと同じく、自身の勝利と信じる者であるからだ。そこを疑うものが、王などと呼ばれるはずもない。だから、己が目的の為に、まつろわぬ神に名を思い出させることを、躊躇う必要は何処にもなかった。
唯一、紅葉たちの安全に若干の懸念が生じるが、そこは秋雅が守ればいいし、彼女たちにも相応の戦闘能力はある。本格的に戦闘に巻き込むのであれば別だが、そんな気は毛頭無く、すぐさまに下がらせるつもりである。神の戦場に立つのは、神殺しだけでいい。それが、秋雅の信念であった。
『何か?』
「……アイヌ神話において、雷の神といえばカンナカムイの名が上がる。では、それがお前の名前なのか――いや」
そうではない、と秋雅は首を振る。
「カンナカムイに、あのような土人形を従えるような逸話はない。では、その息子であり、父の力が篭った宝剣を振るい、稲妻を落としたアイヌラックルがお前の名前であるのか――だが、アイヌラックルにもまた、そのような逸話はない」
しかし、と秋雅は言葉を続ける。
「アイヌラックルには複数の名前がある。オイナカムイ、オキクルミもまた、アイヌラックルの別名だ。その一つ、オキクルミというのは重要だ。何故ならば、とある一冊の本において、オキクルミはとある武将が同じものであると記述があるからだ。さらに、今から二百年ほど前に、蝦夷を訪れた一人の人物によって、再びオキクルミとその武将と同一視され、その名を冠した神社すら建てられている。その武将の名前は――」
語る秋雅を見つめる男の表情は変わらない。しかし、それにひるむこともなく、秋雅はその名を口に出す。
「――源義経。数多の兵を率い、戦場を駆け、勝利を導いた武将。それが、貴様の名だ」
当初、男は一切の反応を見せなかった。しかし、少しずつ、その身体が震え始める。何事か、と紅葉たちが警戒し、秋雅のみ悠然と佇む中、突然として男が笑い出した。
「ハッハッハッハッハ!!」
それは、先ほどまでの虚無感などまるで感じられない、力強く、そして快活な笑い声だ。愉快そうに笑いながら、男はまるで秋雅を歓迎するかのようにその両手を大きく広げる。
「然り! 良くぞ、我が名を思い出させた!!」
いつしか、男の格好は変化していた。堅牢そうな甲冑に身を包み、その腰に大小の刀を差している。さらにその手には、刀身に紫電を走らせた宝剣も握っている。
「――我こそは源義経! 幾千もの
男――義経が手を振るう。すると、その背後に、傍らに、何体もの土人形が大地より出現する。いや、もはや土人形と侮ることは出来ないだろう。その手には槍を、刀を、弓をそれぞれに握り、その身体には簡易な甲冑を身に纏っている。
「我が名を呼び覚ました者よ、我らが宿敵である神殺しよ! 今こそ、我らの戦を始めようではないか!!」
義経の背後に、轟音と共に雷が落ちる。その光を背負いながら、義経は期待に満ちた笑みを秋雅達に見せるのであった。
強引に押し込み、どうにか義経の名前まで出せました。ちなみにこの義経は軍神としての属性を前面に出した神様なので、実際の歴史上の性格等とは異なります。戦が大好きな神様、くらいに思っていてください。次話で戦闘、その次で決着、という流れになる予定です。