高かった日も落ちかけ、夕暮れと呼んでも差し支えなくなって来た頃合。馬に乗り、島内を闊歩してきた秋雅達は、ようやくと中央にある山の頂上にまで辿り着いた。地面の所々には大理石の石畳が敷かれており、近づくほどに感じられた神の霊気は、ついには濃霧かと錯覚しそうなほどの密度で秋雅達に纏わり付く。
聖域、あるいは神の領域と呼ぶべき環境。いっそうと表情を引き締めつつ、秋雅達が歩みを進めると、場の空気にこれ以上無く似つかわしいと言えるような、優美で荘厳な神殿を視界に収めた。
「あれは……」
「はい、その通りかと」
秋雅の呟きに、アリスが小さく同意を返す。神殿の入り口に横たわる、一頭の雌獅子。それから感じられる神の気配と、自身の身体に満ち始める力に、秋雅は一つの確信を抱く。すなわち、あの雌獅子こそが、かの女神その人であるのだ、と。
「……お待ちしておりました、稲穂様。かの迷宮を砕くとは、流石は勇士たるお方」
ゆらりと立ち上がりながら、雌獅子が口を開く。覚えのある声だが、何処か張りがないようにも思える。先の一撃がよほど効いたのだろうか、と僅かに考えつつ、秋雅は馬から飛び降りる。
「ここまで来て化身の姿を取るとは、貴女も中々つまらん女だな」
「そう仰りませんよう。軽々しく他の耳目に身を晒さぬのも、私の務めなのです。お一人ならいざ知らず、貴方が何処までもそのような下女をお連れになるんですもの。私も、少しばかり渋ってみせるというものですわ」
獅子の口角が上がり、その視線がウル達の方に向く。邪魔な女共、とでも思っているのだろうか。これが男女の逢瀬の場であるならばその視線も納得なのだが、生憎とここはただの戦場でしかない。女神の性であるのか、と思うのが精々であった。
「しかし、ここまで連れてきたということは、稲穂様にとってよほど信の置ける者なのでしょう。であれば、稲穂様、どうかその下女達を私に賜り下さいませ。新しき愛の前には、古き寵愛の相手は不要ですわ」
「貴女の愛を受けるために、私の女を寄越せと?」
女神の物言いに、秋雅の眉が上がる。冗談ではない、と不快さを表に出そうとした秋雅であったが、それよりも早く、その背後から鈴の音のような笑い声が響いた。
「――あらあら。女神ともあろう者が、何とも器量の小さい事を言うのねえ」
微笑と共に、ウルが秋雅の傍らに立った。いや、彼女だけではない。ウルが何か指示でもしたのか、アリスもその逆隣に立ち位置を変える。それを横目で確認した後、ウルはこれ見よがしに腕を絡ませ、秋雅の肩にしなだれかかる。
「いいじゃないの、愛する人が誰を、どれだけ侍らせようとも。その心がただ、自分のみに向いている。自分こそが最も愛されており、誰も自分に勝てない。そう信じられるならば、その他は全て有象無象でしかない。それなのに、貴女は私を引き剥がそうとする。火の女神、貴女はよほど、秋雅に愛される自信がないみたいね?」
穏やかな、しかし見る者が見れば分かる、はっきりとした嘲笑。ウルは一体、何をしようとしているのだろうか。彼女にしては珍しい言動に、心の内で疑問を抱いた秋雅であったが、それもすぐに霧散した。彼女が同行を望んだ時と同じく、彼女なりの根拠があるのだろうと、そんな風に納得したからである。
対して、妙に不思議であると感じたのは、これほどまでの嘲笑を受けながらも、雌獅子は不思議なほどに静かであることだった。往々にして誇り高いまつろわぬ神が、神殺しですらない人間にこうも良い様に言われているというのに、さしたる反応を見せる素振りもない。不気味だ、とこちらに対しても同じく、しかしすぐには消えない疑問を秋雅は抱く。
そんな秋雅の内心とは裏腹に、傍らのウルは妙に平常心であるようだった。しかも、追撃とでも言わんばかりに、見下すような視線を獅子へと向けている。
「火の女神、貴女の愛は、相手を手に入れる愛ね。手の内に入れて、じっくりと愛でる。そういう愛が悪いとは言わないけれど、それも相手によるわ。秋雅に対し、そんな愛は意味がない。秋雅にとってあるべきは、上からの、あるいは対等な愛じゃない。傅き、享受し、そして支配される。そういう『王』の愛。秋雅を愛するのではなく、秋雅に愛してもらうなら、すべきは秋雅を手に入れることなんかじゃない。秋雅の手の内に落ち、秋雅の『もの』となるべきなのよ」
こんな風に、と言いながら、ウルは身体を秋雅に預けてくる。よく言うものだなと内心で呆れつつ、彼女の要望を察した秋雅は、無言のままその身体をより強く抱きしめる。
一瞬、見下ろした秋雅の視線と、見上げるウルの視線が交差する。その目を見た瞬間、秋雅は何となく、彼女のやりたいことを理解出来たような気がした。言語化出来るほど明確に、というわけではないが、少なくとも秋雅達に害を成すようなものではないと確信できる程度には、何となく察する事が出来た。
そんな秋雅の内心を、ウルもまた察したのであろうか。他者に見えない程度に薄く、嘲笑ではない柔らかな笑みを、秋雅に対して向ける。だが、これもまた一瞬だ。すぐさまに笑みを消したウルは、再び獅子に顔を向け、冷ややかな流し目を送りながら口を開く。
「今の貴女に、秋雅が『こう』してくれると思う? 将来の秋雅が、『こう』すると思う? いいえ、絶対にしない。何故ならば、貴女にはその資格が無いから。貴女が秋雅を手にしようとしている限り、いくら貴方が秋雅を愛しようとも、秋雅が貴女を愛することはない。そもそも、貴女は決定的な一点でミスを犯している――」
「――お黙りなさい」
突如として、冷たくも平淡な女神の声が、ウルの言葉を遮った。これまでとは違う、権威と気品に満ちた雰囲気。甘い恋を、溺れる愛を語っていた女の姿はもうなく、冷徹で冷淡な一柱の女神がそこにはあった。
「暁の女神に重ね重ねの非礼、なかなかに腹立たしい……とはいえ、死すべき種族の乙女にしては勇敢な振る舞い……ふふ、恋を追い、愛を求める性の私です。情愛故に命を賭すそなたへ、祝福の一つでも授けてやりたい気持ちも出てきましたわ」
言い終わったと同時、雌獅子の身体が割れる。背骨のラインに沿って真っ直ぐに割れたその身体から、何やら黒い影のようなものが現れた。役目を終えたのであろう獅子が砂と消える中、影は女性の姿をかたどっていく。
数秒の後、影は不意に実体へと変じた。十代半ばほどの、美しい銀の巻き毛を備えた、細身でたおやかな美少女。一目見れば忘れられない、十人中十人が振り返る、その日の夢で逢瀬を望む。異性どころか、どのような人物ですら虜としそうなほどの容姿だ。
そして何より目を引いたのが、その腕と腰より下を形成する、真鍮の義体であった。磨き上げられてはいるものの、特別美しい意匠も掘られていないそれは、ある意味では少女の美を損なっているのかもしれない。だが、そうだと評するものは、ともすれば存在しないのではないか。そう思ってしまうような、不完全さに補われた、完全な美とでも言うべきものを、その少女は備えていた。
「……やはり、そうでしたか」
その絶世の美少女を前に、アリスが口を開いた。その言葉の意味を、秋雅はあえて思考を廻らすこともなく理解する。ここに来るまでの道中で聞いていた、火の女神の正体ではないかという名前。一番可能性が高い、とアリスが述べていたその名前を、秋雅は今、改めてと口にする。
「それが貴女の本体か。暁の女神――まつろわぬキルケー!」
秋雅の呼びかけに美少女――キルケーは小さく頷いた。ただそれだけ、その一動作ですら、目を引かれそうになる。それほどまでの魅力と、それを自在に操るだけの自負を、この女神は備えていたのである。
「ふ……我が素顔を殿方の目に晒すのは、いつ以来のことでしょう? そして、我が砕かれた身体を露にするのも――」
ギィ、と軋んだような音を立てながら、キルケーはその腕を、足を、身体を回す。とても滑らかとは言えぬ動きだが、それがむしろ、幼い少女が持つあどけなさのようなものを感じさせる。単なる外見以上に人の目を引き付ける様は、まさしく魔性と呼ぶに相応しいのだろう。
「その身体――アレクサンドル・ガスコインの手によるものか」
「ええ、不死であるべき暁の女神たるこの私が、ここまで追い込まれました。流石は、神を殺めし勇士と言うべきでしょう。そして、それは稲穂様もまた同じ。この私に思わず逃走を選ばせたその力、まさしく見事です」
微笑みながら、キルケーは賞賛の言葉を口にする。自分に深手を負わせた相手ですら恨み節を吐かず、むしろ賞賛してみせる。女神らしい余裕と剛毅さは、ことここに至りながらも、些かの曇りも感じられない。その身から感じられる『死』の気配とは裏腹に、この女神はまだ、自身の勝利というものを疑ってはいないのではないか。そんな想像が、秋雅の中に浮かぶ。
「稲穂様。この素顔を見せたのは、貴方を私の虜とする為。砕けた身体で罷り出たのは、この冷たき腕で貴方を抱きしめる為」
鮮やかなスミレ色の瞳が、秋雅の瞳を捉えた。儚げで、しかし魅力的な笑みを浮かべながら、キルケーは更に続ける。
「ふふ。今一度、申し上げましょう。その娘を捨てて、どうか私をお選び下さいませ。そのご決断に見合うだけと愛と喜び、貴方に奉げてみせますわ!」
美しい眼差しで秋雅を見据え、可憐な声でもって女神は求愛の言葉を紡ぐ。蠱惑的で、魅力的なその要求。並みの男であれば、すぐさまに首を縦に振りそうなその誘いに対し、秋雅はゆっくりと口を開く。
「なるほど、悪くはなさそうだ――」
そう言って、そっと秋雅は、ウルを抱いていた手を離した。一瞬、その事に歓喜の色を示したキルケーであったが、その顔はすぐさまに曇る。それは秋雅が、その離した手をウルの頬に当て、そっと愛おしそうに撫でたからだ。
確かに、僅かも『ぐらり』とこなかったかと言えば、それは嘘になるだろう。だが、所詮はその程度でしかない。如何な女神の魅了と言えど、秋雅のウルに対する想いを砕くほどではなかったのだ。
「――だが、こいつには劣る」
それが、言葉としての秋雅の拒絶の意思表示であった。その女神の影響など微塵も感じられぬ返答に、ウルもまたそっと彼の手を取り、仲睦まじさを示してみせる。
「我が素顔の輝きは、私にとって武器の一つとも言えるのですが……流石は神殺しの君、その荒ぶる心を静めることは叶いませぬか」
落胆らしきものが見えたのも僅かに、キルケーは涼やかに言う。その余裕や優婉さ、明らかに違うその雰囲気は、彼女がまつろわぬ神としての『本気』を出している証左だろうか。
「ならば当初の予定通り、手足をもいで我が愛蔵品とするまで。ふふ、その娘に敬意を評し、より念入りに愛して差し上げましょう。目を潰し、喉を焼き、そして娘は豚か山羊にでも変えてさしあげます。家畜の鳴き声の聞こえる中、地虫の如く這いずりながら、女神の愛をお受け下さいませ!」
「流石に吠えるな、キルケー! だが今の貴女に、果たしてそれが叶うか!」
悪趣味な宣言をしたキルケーに対し、秋雅は臆することなく疑問の、そして挑発の言葉を投げつける。今の女神は、もとより半死半生の身でありながら、更に雷鎚による痛恨の一撃を受けたという状態。にもかかわらず、どうしてここまで勝ちを見据えられるのか。まつろわぬ神の性と呼ぶには度が過ぎているような気もする彼女のその態度は、秋雅に疑問と、僅かな不気味さを感じさせるに十分であった。
「ふふ……そう、その通りですわね、稲穂様。確かに、今の私の身体では、全てをつつがなく進ませるのは難しいでしょう。ですが、だからこそ、取れる手段もあるのです」
「なに?」
微笑と共に言ったキルケーの背後に、突如として青い人影が現れた。おおよそ五メートルほどの、鎧を着込んでいるかのようにも見られる、巨大な弓と箭をもった巨人。その姿を、秋雅は確かに知っていた。
「あれは、あの時の…………」
「おそらく、かの
そっと囁かれたアリスの言葉に、秋雅は小さく頷く。船上にて鉄箭を放ってきた、キルケーが使役しているらしい存在。確か、彼女はこれを“弓の御霊”などと呼んでいたはず。この局面で出してきたということは、彼女が持つ最後の駒と言ったところなのだろう。
「だが、今更私に通用するとでも思えんな。神獣よりはやるのだろうが、この位置取りであれば、私の一撃の方が早いぞ」
「ええ、その通りですわ。追い詰められた女の浅知恵をお笑い下さい。私はこれより、最期の魔術を行うつもりなのです」
最期の魔術。その剣呑な言葉に、秋雅の眉が顰められたと同時、キルケーは予想だに無い行動に出た。なんと、その義手の右腕を、己の左胸に突き立てたのである。人の身で言えば心臓の辺りへの一撃に、傷口からは鮮血が噴水のように溢れ出していく。
「なにっ!?」
思ってもみないその行動に、秋雅は思わず瞠目する中、ピタリとその鮮血が勢いを止めた。その何とも奇怪な光景の後、朗々とキルケーは謳うように語る。
「我が紅き血と天地にかけて、誓います。これより試みる魔術で稲穂様を討つ事が叶わなくば、私は不死であるべき命を自ら絶ちましょう!」
それは、言霊の満ち満ちた宣言であった。命を賭してこれを実行すると自身に課した、逃れられぬ呪詛。だが、だからこそ、その呪詛はこれを誓いしものに、それを成せるだけの力を与えたようであった。
「これは……」
アリスが息を呑む声が、秋雅の耳に届く。キルケーが所持していた、まつろわぬ神としての呪力。それが、突如として数倍にまで膨れ上がったのだ。
「最期の魔術という誓いと、必勝の呪詛。それでもって、『私を倒す』という意気を限界以上に高めたか……!」
目の前の光景に、秋雅が唸り声を上げる。これだ、これこそが、秋雅が感じた僅かな不安の正体であったに違いない。手負いだから、いや、手負いだからこそ、己の命を限界まで賭けた手を打てるのだ。
「ムーサよ、かの男の物語を謳い給え。トロヤを陥落せしめた後、流浪の旅に明け暮れた機略縦横なる男の旅路を! その知略故世に遍く知られ、天にも届く彼の名は――」
再び、キルケーが声高に謳う。彼女が使おうとしている魔術、そして“弓の御霊”の存在。その意味に気付いたアリスが、ウルが、秋雅が、そして女神が、その『男』の名を口にする。
すなわち、
『――オデュッセウス!』
その瞬間、沈黙と不定を保っていた“弓の御霊”が、突如として実体を持った。青銅色の鉄兜を被り、鉄弓と鉄箭で武装した、身の丈で五メートルほどの巨大なる戦士。その左肩に、ふわりとキルケーが腰を降ろす中、思わずと言った口調でウルが呟く。
「オデュッセウス……ここで従属神を出してくるとは、これが彼女の切札というわけね」
「……いえ、あの二柱の縁は主従関係とは言い難いものがありますから、むしろ同盟神とでも呼ぶべきかと」
感嘆に満ちたウルの呟きに、しかしアリスが細かい訂正を施した。この局面でわざわざそのようなことをするのは、彼女の知性的な一面故か、あるいは目の前の光景に気圧されたが故か。そのどちらもか、となんとなしに思う秋雅の前で、ついに巨人が地響きと共に地面に降り立つ。
『大神ゼウスの裔、不撓不屈の勇士オデュッセウス推参なり! 神々よ、照覧あれ。久々に地上へ降臨いたした我が智勇、とくとご覧じよ!』
青銅の兜越しに、オデュッセウスは重厚なる声で口上を言い放つ。その淀みない弁舌と満ち溢れた自信は、なるほど英雄と呼ばれた存在である、という事を感じさせる。しかし、そんな勇士の弁に対し、召喚者たるキルケーは、酷く冷ややかな口調で告げる。
「オデュッセウスの殿よ。御身との再会、真に喜ばしゅう御座います……が、ここは私の
この言葉が、オデュッセウスの弁舌に制限をかけたらしい。自己顕示欲に満ちていたオデュッセウスの言葉はピタリと止まり、代わりに青銅の兜からは動物の如き唸り声のみが漏れるのみとなった。英雄らしからぬ獣の咆哮を上げさせられたオデュッセウスに、しかしキルケーは満足そうに頷いている。
「勇士に要るは武勇であり、弁舌ではなし……といったところか」
正しい判断であろう、と秋雅は心の内で呟く。弁舌というのは上手く扱えれば勝利を手繰ることは出来るが、場合によっては自らを敗北へと導くものでもある。必要があれば言葉を紡ぎ、なければ徹底的に無言を貫く。その一点に関しては、秋雅としてもキルケーの判断に同意できるところがあった。
そのようなことを考えつつも、秋雅の身体から緊張が消えることは無い。言葉を失った英雄が放つ、強烈な殺気。全身を猛烈に突き刺してくるそれが、秋雅に油断を感じさせる余地を与えない。
頃合か、と秋雅は無言のままにウルを引き離す。警戒と共に秋雅が見守る中、ついに女神と英雄が動き始めた。
「殿よ、御身の弓にて稲穂様を討滅あそばしませ!」
女神の号令の元、オデュッセウスは咆哮を上げ、弓を構える。鉄弓に鉄箭を番え、音を立てながら弓を引く。しかし、驚くことに、その鏃が向くのは秋雅ではない。彼らの頭上にそびえる、南洋の大空であった。
思わず眉を顰めた秋雅の前で、鉄箭が黄昏の空に放たれる。赤きに染まった空に鉄箭が吸い込まれた直後、天より青白い光の箭が降り注いてきた。しかも、流星群の如く、数万という数で、である。島の全てを飲み込もうかというほどの光の雨を前に、秋雅は一旦引き離したウルを、再度その手の中に抱く。
「アリス殿、ここまでだ!」
「――御武運を!」
秋雅の呼びかけに、アリスは光となってその場を飛び去る。これ以上ここにいたところで、彼女に出来ることはおそらくもうない。その時が来れば下がってもらうと、ここに来るまでの間に取り決めていた事を、今ここで実行させたのだ。
「シュウ!」
「分かっている――!」
ウルの呼びかけに応じつつ、秋雅はウルを抱いたままに――今はむしろ、秋雅の傍がもっとも安全だからだ――転移する。場所は黄昏に染まった大空、降り注ぐ箭が通り過ぎた空間である。いかに数があるとはいえ、大空を隙間無く埋め尽くすほどではない。僅かでもその先が見えるのであれば、『我は留まらず』を使用するのは可能であった。
かくして空中に逃れた秋雅達に対し、オデュッセウスは間髪を入れることなく、第二射を放ってくる。それも実体のある箭ではなく、先ほど降り注いだような青白い光線であった。あちらと違い単発ではあるが、その分見るからに太く、威力も高いように感じられる。
「単純な!」
向かって来る光線を、秋雅は転移一つで軽々と避ける。だが、オデュッセウスの攻撃も止まらない。鉄弓からの光線の照射を継続したまま、それを秋雅達に向かって振り回す。まるで長槍を振るうような形で、オデュッセウスは是が非でも光線を秋雅達に当てようとしてくる。
「この程度っ!」
しかしそれも、秋雅は転移を駆使して躱しきる。距離を無視して移動できる手段を持っている秋雅にとって、『点』か『線』の攻撃を避けることはそう難しいことでしかない。彼に攻撃を当てようと思えば、視界を潰すほどの『面』の攻撃を行うしかないのだ。
そのことをオデュッセウスも、英雄の才覚でもって察したのであろうか。突如として光の槍の攻撃を止めた彼は、空いていた右手を秋雅へと向ける。すると、その五指の先から一本ずつ、計五本の長大な箭が放たれた。まるで銃口から弾丸を放ったかのように、五本の箭が一斉に秋雅へと襲い掛かる。
しかもこれは一度ではなく、放ちきった後の指先から、途切れぬことなく放たれ続けていくのである。さながら重機関銃の如く放たれ続けるそれは、秋雅にとって相性の悪い『面』の攻撃であった。
「シュウ!」
「いらん、避けきる!」
ウルからの援護の提案を切り、秋雅は転移を駆使することで、再度として表現された『箭の雨』を避け続けていく。
「……ちっ!」
だが、何度目かの回避の後、ついに秋雅の服の端を箭が掠めた。視界を埋め尽くすというほどには至っていないとはいえ、秋雅の行動を読んでいるのか、雨の行く先は段々と洗練されていっている。今はまだ良いが、何時かは追いつかれてしまう、あるいは転移先を予測されきってしまう可能性が高いだろう。
「穴あきチーズは勘弁願いたいが……!」
吐き捨てつつ、秋雅は更に転移を繰り返す。その予想が的中する前に決着をつけるべきだが、こうも苛烈な弾幕を前にしていると、中々どうしてその暇も無い。少なくとも、『終焉の雷霆』で一気に、は難しいだろう。どうしてもあれは隙が大きいし、腕にウルを抱えているのも考えると、この状況で迂闊に使えるものでもない。
「雷よ!」
だったら、まずは牽制をするべきか。そう結論付け、秋雅は機を見て雷を放つ。オデュッセウスの頭部辺りを狙った攻撃であったが、これを英雄は、左手の弓で受け止めることで防いでしまう。
結果に思わず眉を顰めつつ、秋雅は更に攻撃を続ける。だが二度、三度と狙いを変えつつ放ってみても、その全てが鉄弓の前に弾かれる。しかも、そうして防御している最中でも、オデュッセウスが撃つ箭の雨は留まる所を知らない。秋雅の反撃などまるで意に介していないとでも言いたげに、不撓不屈の英雄はひたすらに秋雅を追い詰めていく。
「……どうにも、分が悪いか」
「ここはこちらも、同じ土俵に立つべきだと思うけれど」
「なに?」
「これは、真っ向から叩きのめすべき相手。それでこそ、キルケーは貴方を認め、妄言を収める。そうだと、私は思うわ」
何時に無く真剣なウルの囁きに、秋雅は僅かに怪訝そうな表情を浮かべる。しかし、すぐさまにその言葉を理解し、成る程と小さく呟く。
「そうするのがいいか。ならば――」
視線を空中から地面に向け、秋雅は地上へと転移する。ウルと共に軽やかに着地した後、オデュッセウスを睨みながら、秋雅は大地を強く踏みしめ、叫ぶ。
「今こそ立て、我が最強の従僕!」
その言葉に応じ、地響きと共に巨人が立ち上がった。地面から現れ出でるのは、全長にして十数メートルほどに及ぶ、土で出来た巨大な人の形。先の神獣戦の損傷から、左腕こそ欠けているものの、左手に握られた大太刀が巨躯の威圧感を補いきっている。そんな巨人の左肩で、秋雅は腕を振りながら命ずる。
「打ち砕け――弁慶!」
主の命の下、武蔵坊弁慶は大太刀を振るう。オデュッセウスと弁慶の体長差はおよそ三倍、故に弁慶の攻撃は自然、その左肩にあるキルケーを狙った振り下ろしとして、オデュッセウスへと襲い掛かる。
この攻撃に対し、オデュッセウスは咆哮を上げ、鉄弓でもって主を守った。島内全てに響き渡るのではないか、と思われるほどの激突音が生じ、両者は互いの得物でがっつりと組み合う。だがそれは、戦況が拮抗しているということを意味してはいない。
「炎よ、力を増せ! 弁慶よ、その剛力を我に示せ!」
弁慶の大太刀が、僅かに鉄弓に食い込む。大太刀が鉄弓とぶつかり合う直前に秋雅がかけた、刃へと巻き付く破壊の炎。これによって増された破壊力が、鉄弓の耐久を僅かに勝ったのである。《鋼》ほど劇的ではないにしても、使われているのが金属製の武具ということなら、一定の閾値を超えた『炎』の攻撃は特効となる。『義憤の炎』による攻撃は、厳密には高温を発するものではないが、『炎』という属性そのものと、これが破壊神由来のものであるという繋がりが、金属に対し多大な影響を与えていた。
ぐいと、弁慶はその巨体を更に押し込む。溶けたバターのように、とまでは流石にいかないが、その追撃により刃は更に鉄弓へと食い込んでいく。
しかし、それを黙って見過ごすほど、オデュッセウスも愚かではないらしい。真っ向勝負では分が悪いと判断したらしい英雄は、空いた右手を弁慶の胴体に向け、咆哮と共に再び箭の雨を放ち始める。
「ちいっ! 炎よ、焼失を成して盾となれ!」
箭が当たる直前、弁慶の全身を炎が覆う。防御力を増すのではなく、攻撃を焼きつくことで防ぐ攻勢の防御。だがこれも、攻撃の質が低ければこそ成る手段でしかない。破壊の炎が焼き尽くすよりも早く、光の箭は弁慶の胴を貫いていく。このまま放置すれば、遠からず弁慶の土の身体は砕かれてしまうだろう。
「止まるな、弁慶!」
それでも、だからこそ、秋雅は命ずる。進み、打ち砕けと。やられるよりもなお先に、敵を打ち倒して見せよと。
「示せ、弁慶!」
お前こそが、最強の従僕であるのだと。英雄を打ち倒し、その力を証明せよと。
「やってみせろ、武蔵坊弁慶!」
そんな秋雅の激に、ふと弁慶が動いた。そのような命は出していないというのに、何故か、その顔を秋雅へと向けたのである。
「弁慶……?」
物言わぬその土造りの表情に、思わず今の状況すら忘れ、秋雅は困惑の表情を浮かべる。だが、そうしたところで、弁慶が行動の理由を答えることはない。何故か、と疑問を持つ秋雅であったが、ふと、その脳裏に一つの光景が浮かんだ。あのまつろわぬ義経との戦い、その最終幕にて起きた偶然。唐突にその事を思い出した秋雅は、まさかと弁慶の巨大な顔を見つめ返す。
「……そういうことなのか?」
その小さな問いかけに対し、気の所為であろうか、秋雅には弁慶が僅かに首肯したように感じられた。それが、秋雅の腹を括った。
「ウル、万一の時は頼む」
一方的にそう告げた後、秋雅はその目を深く閉じる。一瞬とて目を離せぬ戦況で、しかしあえて、その意識を内へ内へと向け、瞑想する。思い起こすのは、あの瞬間のこと。自分がどのように、
そして、
「――見えた」
どれほどかの後、秋雅はその目を見開き、今しがた心の中に浮かんだ新たなる聖句を力強く叫ぶ。
「雷よ! 汝は破壊の力にして、人を育むものなり! 故に今こそ命ず、物言わぬ我が従僕に、その堂々たる力もて、強靭なる命を授け給え!!」
秋雅の全身を、紫電が走り抜けていく。それらは秋雅の足を伝い、弁慶の全身を縦横無尽に駆け抜ける。
変化が起こったのは、その瞬間であった。土の色をした弁慶の巨躯が、段々と白に、黒に、そして肌色にと姿を変えていく。腕は盛り上がり、足は更に強く大地を踏みしめ、そして顔には生気が宿る。
『――ぉおおおおおおおお!!!』
その口から、三千世界に轟くかというほどの咆哮が上がる。目の前のオデュッセウスが思わずたじろぐほどの気合と共に、巨人は力強く叫ぶ。
『我こそは武蔵坊弁慶! 主と共に在り、主と戦場を駆け、主に勝利をもたらすものなり!』
そう叫ぶ弁慶の姿は、まさしく生きた人間そのものであった。対象の生きる力を強め、時に命そのものすらも宿らせる。『実り、育み、食し、そして力となれ』が持っていたその真なる力を、秋雅は今完全に掌握せしめたのである。
「弁慶!」
『承知!! 今こそ、勝利の時なり!』
宣言と共に、高い金属音が辺りに響く。裂帛の気合の元、炎を纏った弁慶の刃がオデュッセウスの弓をついに切り裂いたのだ。そして、その留まらぬ刃は、防御しようとするオデュッセウスの左腕よりも早くその肩を――その上に座るキルケーを吹き飛ばす。
「きゃああああああっ!?」
英雄に守られていた暁の女神。彼女の身体がついに、刃でもって切り裂かれた瞬間であった。
予定よりも伸びましたが、次話でこの章は終了です。