過去の回想と、今日の始まり
夕暮れ、人の少ない狭い公園。その公園内に、一人の少年が走っていく。年齢は一桁、小学生かどうか、といった頃合い。また、少年とは言ったものの、その容姿は少女然ともしている。年齢のせいか、中性的というよりは女の子っぽいとするほうが相応しく見える。恰好を女物にすれば、おそらくは少女であると誤解する者が多くなることだろう。
そんな少年が、とても楽しそうな表情を浮かべて、公園内を見渡し、すぐさまにその視線を一点に止める。ろくな遊具もない公園の中にある、薄汚れた一つの小さなベンチ。そこに向かって、少年は喜色に満ちた表情で走り、そしてそのベンチに腰掛けている人物に声をかける。
『――ロキ!』
少年の呼びかけに、男がゆっくりとその顔を向けた。彫が深く、見るからに外国人と分かる顔立ち。元の造りの緻密さと、感情を読み取れそうもない作り物じみた表情も相まって、あるいは人形と錯覚しそうになるかもしれない。加齢によるものとは思えぬ美しい白髪を伸ばし、座りながらも分かる長身をコートで包んだその男は、駆け寄ってきた少年を視界に収めつつ、さして表情を変えることもなく口を開く。
『よく来たな、我が友――秋雅よ』
『うん!』
朗らかな笑みを浮かべ、少年が頷く。そうしてもなお、男は表情筋を動かす素振りすら見せないが、少年の側の表情もまた変わらない。そこには、傍目からは分からない、少年と男にのみ通ずる友情のようなものがあるのだろう。もっとも――
「――それを、俺は知っているんだがな」
これは、過去の夢である。目の前の光景に対し、秋雅は冷静に眺めながら、夢の中で口を動かした。かつての記憶の場所に立ち、かつての自分がそこに在るのを眺めつつも、その思考回路に一片の迷いもないのは、これが幾度となく見た夢であるからだ。夢の中であるというのに、秋雅の思考は現実のそれと近しく、夢だからと無条件で受け入れるような感覚はない。夢での納得感と現実での理性的な判断が奇妙に融合していた。
とはいえ、それも所詮は夢の中での思考である。夢から覚めた瞬間には、ああ、と何とも言えぬ感覚を覚えるのだが、それはそれだろう。
『ロキ、今日は何を教えてくれるの?』
『そうだな。今日は――』
大人になった秋雅の前で、キラキラとした目をした幼い秋雅に、ロキと呼ばれた無表情な男が何事かを話し出す。その内容は途切れ途切れで、今の秋雅の耳には入ってこない。それはかつての秋雅が理解できず、今の秋雅に受け継がれていない知識なのだろう。これまでの夢の傾向から、秋雅はそのように判断していた。
「それでも、少しは理解できていたんだよな……」
どこか懐かしそうに、秋雅が呟く。男が語る、世界の理や歴史、人が使う技術。そういったもののほとんどを、かつての秋雅は理解できなかったが、それでもなお、僅かばかりは自分のものと出来ていた。それも精々、学校での勉強を理解するきっかけという程度であったが、その程度でも秋雅は周りから褒められたので、秋雅は男によく話をせびっていたものだ。その際の語り口や視線の動かし方など、今の秋雅の振る舞いとして参考にしているところもある。ある意味において、王としての秋雅というのは、この男を模倣としているとも言ってよかった。
「しかし……」
しみじみと過去を眺めていた秋雅であったが、ふとその眉を八の字に曲げる。彼にしては珍しい反応の仕方を見せたのは、目の前にいるかつての己に対し、思うところがあったからだ。
「子供とはいえ、流石に警戒心がなさすぎだなあ、おい。近所の公園で一人いる外国人とか、それ相応におかしいだろうに」
外国人という記号に対して思うところがあるわけでは勿論ないのだが、流石に状況的に怪しいだろうと、秋雅は呆れ混じりにため息をつく。特に相手は無愛想だと全身で表現しているような人物なのだから、多少は訝しんでもおかしくはないんじゃないか、と改めて確認してみるとそのような感想が浮かんでしまう。
「まあ、当時の俺は二分すれば馬鹿側だったから、仕方ないと言えば仕方ないのかね。コイツと出会った時も、好奇心以外の感情が出ていた覚えがないし……ああ、そういえば、しばらくロキの名前のことも『六木』だとか妙な勘違いしていたなあ。どうみても外国人だろうに」
なんとなく恥ずかしいものだと、秋雅は顔を手で覆う。そんな風にして、気恥ずかしさと共に過去を振り返っていた秋雅であったのだが、その表情がふと、真剣なものに変わる。そうなったのは、周囲の景色が突然、のどかな過去の公園から一変し、暗く圧迫感のある路地裏へと移ったからだ。
馴染みある日本の一角ではない、かつて家族旅行で訪れた北欧のある街。たまたま迷い込んだ、秋雅にとって決して忘れることが出来ない場所。そのかつての光景を前に、秋雅はわずかに目を細める。
「……そうか。今回は
呟く秋雅の前に、いつの間にか、一人の少年が立っていた。背が低く、まだ幼さの残る顔つき。女顔よりの中性的、といったような風体のその少年は間違いなく、十四の頃の『稲穂秋雅』だ。
そんなかつての秋雅の前に、一人の男が立っている。先ほどの『一つ前の過去』に出ていた、外国人風の男である。しかし、先ほどと違い、二人の間に友好的な空気は感じられない。
そうなっている要因は、男が持つ一振りの刀にあった。路地裏に差し込む光を反射し、鋭利な刃を冷たく光らせるそれは、よく見るまでもなく、後の秋雅の愛刀となる一振り――すなわち『雷切』であることが秋雅に分かる。無論、それは今の秋雅であって、過去の『稲穂秋雅』には、それはただ、剣呑な雰囲気を醸し出している一振りの真剣でしかない。その抜身の日本刀と、何よりも男が醸し出す、身を切るような冷たい殺気が、少年に困惑と恐怖を感じさせているようであった。
『我が愛しき友よ、今こそ始まりの時だ。我らの儀式を、今こそ執行しよう』
『何を……何を言っているんだ、ロキ? こんなところで急に、久しぶりに会ったってのに、まるで訳が分からない!』
混乱の混じった、悲鳴じみた叫びを少年が上げる。しかし、それに対し男は、聞く気もないと言わんばかりに、小さく首を横に振る。
『分かる必要はない、我が友。分からぬからこそ、只人であるからこそ、お前こそが最も相応しいのだから』
『何を――』
なおも問い質そうとした少年に、男は手にした刀の切っ先を向ける。ぶれてこそいないが、その刃はまっすぐではなく、達人と呼べるような技量はないと、今の秋雅には見て取れた。だが、だからといって、それがかつての『秋雅』に対し、何かプラスに働くことはない。武術の心得などまるでないその少年は、自身に向けられたその刃に対し、言葉に詰まりながら後ずさる。
『あの男を――『救世を運命づけられし者』を、討つ。それには、これこそが最も近しい手であるのだ』
言い切ったと同時、男の手の中から刀が消えた。一拍の後、路地裏に甲高い金属音が響く。消失と同時、男と少年の中間である空中に出現した刀が、重力に従って地面に突き刺さったのだ。
『取れ、我が友。そして――
『なっ……!?』
刀の消失に目を見張っていた少年が、男が放った言葉に絶句する。当然と言えば当然の反応だろうが、それは男にとっては、許容可能なものではなかったのだろう。まるで、鈍い少年の反応に苛立ったかのように、男は伸ばしたままであった手を、荒々しく横に振るう。
すると、その動きに合わせるように、少年の足元の石畳が弾けた。巻き起こった音と衝撃に、少年は思わずたたらを踏み、ぎょっと足元に視線を向ける。そんな少年に、男は振り戻した手先と共に、冷徹な視線を向ける。
『取れ、友よ。さもなくば我がお前を討つ。今更、どんな手を、などと聞いてくれるなよ。我にはそれだけの、今はお前の理解の範疇にある力がある。ただ、それだけだ』
付き放つように言い切り、男は数秒ほど瞑目する。その後、いっそうに冷たい視線を少年に向け、男は最後のチャンスと言わんばかりに宣告する。
『さあ、選べ! 獣のごとき本能ではなく、人としての理性でもって! 己の死という最大の不利益を逃れるために、我に死を与えるのだ!』
生きるために、自分を殺せ。意味の分からぬ、理解不能な要求。それに、少年はまた一歩、後ずさる。少年の反応に、男の表情に、わずかな失望の色が浮かんだ。はあ、と声にならぬほどに小さくため息をついて見せた男であったが、刹那の後、その目を見開いた。
『っ――ああああっ!!』
本能に直結した叫びと共に、少年がその足を動かした。逃走のための後退ではなく、殺すための前進。『選んでしまった』少年の姿に、秋雅はわずかに目を細める。それが、理性的な取捨選択であると同時に、ただひたすらに、男に失望されることを嫌ったがための、くだらない意地を根幹とした感情的な判断あったことを、今の秋雅はよく知っていたからだ。
好きだったのだ。この、目の前の男が。おそらくは……今、この時も。
『そうだ! それでいい!!』
そんな二人――否、一人の哀愁や感傷を、どうにも判断できない感情の噴出を、果たしてこの男は理解していたのだろうか。静かに見つめる秋雅の前で、前のめりに走り出し、勢いのままに突き立てられた刀を抜き去った少年に、男は歓喜の表情を浮かべ、それに似合う声で叫ぶ。
『それでこそ、それでこそお前は、我が――』
鈍く、肉を貫く音と共に、男の声が途切れる。代わりに響くのは、肩を大きく上下させながら放たれる、荒々しい少年の息遣いのみ。それ以外には何の音もせず、まるでこの路地裏だけが世界から切り離されたようにすら感じられる。そんな、無音に近い状態が幾秒か続いた後、ゆっくりと男が口を開く。
『――よくやった、我が友よ』
褒めるように、男が少年の肩を抱いて言う。胸元には刀の柄が突き立てられ、その背からは鋭い切っ先を見せている状態でありながら、その声には一切の震えがない。
『これよりお前は、神殺したる魔王となる』
男の語りと対称的に、語りかけられている少年の身体が小さく震えていた。手や足、そして呼吸に至るまで、少年の身体は平常から遠く離れた状態にある。
『お前はこれから、様々な戦乱に巻き込まれるだろう』
しかし、そんな中でも、一つだけ定まったものがあった。それは少年の、自身の手をまっすぐに見る視線。自分の行いから目を逸らせないという後悔の発露であり、それと同時に、絶対に目を逸らしてなるものかという、ようやくに見せた彼の矜持でもあったかもしれない。
『我が同胞と戦うこともあるだろう。お前の同胞と戦うこともあるだろう。しかし、お前に敗北はない』
愛おしげに、男は少年の背に手をまわし、抱きしめる。いつの間に始まったのか、男の足が、手が、光の粒子として崩壊していくのが見える。自身の最期も、さらに深く突き刺さる刃も気にするそぶりもなく、男は少年の耳元でささやく。
『愚かにして、親愛なる我が友よ。戦いと勝利でもって、我を楽しませるがいい。我を嗤わせるがいい』
少年には見えぬ角度で、男は愉快そうに顔を歪め、嗤う。男の身体の崩壊は、すでに胴体部や頭部にまで回っている。
『我はいつも、お前を見ているぞ……』
そして、この言葉を最後として、男は光となって消失した。貫いていたものを失った刀が落ち、しかし少年が柄から手を放していなかったために、刀は切っ先のみを地面に叩きつけ、場違いなほどに澄んだ音を鳴らす。
『俺は…………』
一人残った少年は、弱々しく、小さく、その口を動かしながら、その場に両の膝をついた。ようやくと少年の手から離れた刀の、その鍔と柄が微かに落下音を響かせる。力なくうずくまった少年は、その表情をくしゃりを歪ませ、そして――
『――三度目の正直とは、正にこのことね。準備しておいて正解だったわ』
ふと、声をかけられた。気の抜けた、若い女の声だ。突如として響いたそれに、少年は目に涙を滲ませながらも、ゆっくりと周囲を見渡す。だが、何度首を動かしても、少年がその声の主を見つける様子はない。それは、観測者であり、少年よりも視野の広い秋雅にしても同じだ。ただ、少年――かつての自身と違い、今の秋雅にはその声は、かの真なる女神のものであることを知っていた。
『今度こそは、と言っていたけれど、本当に実行させて見せた、か。相変わらず、神の意表をつくのは抜群に上手い男だったわね。まつろわぬ神でありながら、自ら人間に、己を討たせるなんて。まったく、本当によくやる……』
呆れと感嘆で半々といった口調で、女――パンドラはしみじみと呟く。
『まあ、いいわ。『例外』じみてはいるけれど、神殺しが成ったのは紛れもない事実。叶えてあげるわ、ロキ。貴方の望んだ、貴方が見繕った、新たなる神殺しの誕生を!』
そのパンドラの宣言と同時、少年の身体が突如として倒れこんだ。悲しみの涙を流しそびれたまま、儀式の執行に伴いって意識を奪われかけている少年に対し、女神の一方的な祝福の言葉が続く。
『ようこそ、私の新しい息子。これより貴方は新たなる存在として生まれ変わる。先達と同じく、しかし異なってもいる、新たなる神殺しの戦士として。かの神の望むままに動くか、それとも背いてしまうか。それは貴方自身が決めなさい。自由に、何物にも縛られず、貴方自身の道を進みなさいな!』
そして、この言葉の再生を最後として、秋雅の周りの景色が崩れていく。まるでジグソーパズルのピースを崩すかのように世界が壊れていき、ついには秋雅の足元すらも崩壊してしまう。抵抗するそぶりもなく、秋雅は夢の中の落下に身を任せていき…………
「……う、ん」
そこで、目が覚めた。いつもと変わらぬ、自室の天井を見上げてから、秋雅はゆるりと身を起こす。
「また、あの夢か」
軽く髪をかき上げて、秋雅は小さく呟く。今までに幾度となく見た、かつての回想としての夢。これまでの経験として、事象の大小はあるものの、この夢を見ると決まって、近日中に『何か』が起こることを秋雅は知っている。また面倒ごとか、と秋雅は起きて早々にため息をつく。
「どうせなら発生じゃなくて、内容を予知したいもんだが…………」
ぼやきながら、何か連絡が来ていないかと、枕元に置いてある携帯電話に手を伸ばす。
「……あん?」
眉を顰め、怪訝そうな声を出す。手に伸ばした先、そこにあったものを掴んだ感触がいつもと違う。はて、と思いながら手元に寄せ、実際に確認してみてようやく、秋雅は納得したように頷く。
「そういえば、ウルの作った奴に変えたんだったな」
うっかりしていたと、秋雅は空いた方の手で頭をかく。昨夜、自身の携帯電話をウルが自作したものと交換していたのを、すっかり忘れていたのだ。
「『新作』を放り込んだ、と言っていたが、俺が使う機会はなさそうなんだよなあ。情報収集だけならともかく、『エミュレート』する機会は……っと」
呟きつつメール等の確認をすると、新着が二つある。秋雅が自身の協力者――知人にカテゴライズするにはやや遠い、というくらいの距離の相手が主になる――に教えている連絡先の一つから転送されたものであり、差出人に関しては、一つはアメリカにいる知人の一人、そしてもう一つはクラネタリアル・バスカーラとなっている。前者はともかくとして、後者には特に教えた覚えはないのだが、あの有能な隷属志願者のことだから、どうにか調べ上げるなりしたのだろう。あるいは、彼の所属結社である『永劫の安寧』自体に、秋雅の知人の誰かしらが所属している可能性もあるだろう。使用を許可したわけではないのだが、連絡先を伺うのもはばかられたとでも返してくるか、違うにしても何かこちらを不快にさせないような物言いをしてくる気がする。まあ今回はいいだろうと、秋雅は二つのメッセージのうち、まずはアメリカから来た方に目を通す。
「……スミスが《蠅の王》を滅ぼしたか。流石だな」
記されていた内容を簡潔に纏め、秋雅は盟友に対し賛美の言葉を贈る。まつろわぬ蛇神へと変じた神祖を討っての、華々しき勝利の一報。それは秋雅にとっても、十二分に喜ばしい報告であった。
「これは彼に何か、お祝いの品の一つでも送ることを考えておくか」
友の勝利に、少しばかり機嫌を良くしていた秋雅であったが、もう一つのメッセージを読み進めていく中で、その表情をわずかに曇らせる。
「陸鷹化に来日の気配あり……《五嶽聖教》に大きな動きはないということは、彼個人の――いや、羅濠教主の指示の方がありえるか。となると…………」
トントンと数度、秋雅はこめかみを指で叩きながら、何事かをぶつぶつと呟く。しばしその体勢のまま、秋雅は思案を重ねる。
「……そうだな。最大限の警戒をする必要があると見よう」
少しして呟き、秋雅はクラネタリアルに対し、返信のメールを打つ。普段であれば間に誰か――大体は三津橋がそれに当たる――を挟むところだが、それなりに急ぎの案件であるということで、珍しく直接返信をすることにしたのだ。
そういうわけで、さっくりと文面を書き終え、いざメールを出そうとしたところで、ふとその手を止める。そしてまたしばし、考えるそぶりを見せた秋雅であったが、
「まあ、この方が面倒はないだろうさ」
と言って、書き上げたメールの末尾に、秋雅に直通のメールアドレスと電話番号を更に書き足す。プライベートのものではなく、カンピオーネとして活動する際の連絡先として用いているものであるが、それでも知っているものは数えられるほどしかいない。普段であればホイホイとは教えないものだが、なんだかんだ言って、クラネタリアル・バスカーラという男は優秀であり、なおかつ癖のある人物だ。下手に仲介を立てるよりは、直接連絡が取れた方が、秋雅としてもスムーズに事が運びそうだと判断できた。
「しかし、王への直通連絡手段となると、それこそが報酬なんてと言ったりするかな。あの大仰な男なら、なんとなく言いそうな気がするが……」
などと嘯きながら、秋雅はようやく返信のメールを出す。間違いなく送られたことを確認し、秋雅はようやく寝台から腰を上げる。
「さあて、準備するか。いい加減、顔の一つも洗わんと。そのあとは朝食で、道場には早めに行くか。羅濠教主の件もあるし、師匠には徒手空拳での相対をお願いするかね」
先に起こりそうな『何か』も大事だが、まずは今、この日を始めるためにやるべきことすべきだろう。そんなことを思いながら、秋雅は朝の身支度を整えに、寝室を出るのであった。