トリックスターの友たる雷   作:kokohm

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一つの提案

「……やれやれ、やっと着いたか」

 

 成田国際空港、中国より到着したその便から降りながら、一人の少年が気だるげにつぶやく。名を、陸鷹化。カンピオーネが一人、羅濠教主の直弟子であり、この歳ながら名人と呼ばれるほどの実力者であった。

 

 そんな彼が今、大陸からわざわざ日本まで来たのは、ひとえに師である羅濠教主の命があったからである。とある理由で来日を決めた師の為、その露払いを果たすために来たのだ。

 

 当然、そんな彼のテンションは高くない。仕損じれば師からどのような折檻を受けるかも分からぬ、ということで精力的に動いてはいるが、その分意気揚々という気分になることもない。元より天真爛漫に生きている性分ではないが、傍から見てやる気があるようには見えない態度をしていた。無論、師の前ではそれを隠す程度の器量はあるのだが。

 

 出口を求め、空港を歩く鷹化であったが、ふとその足が止まる。視線を感じたからである。外見と場所の差異から来る奇異の視線ではない。明らかにこちらを探りつつ、それでいて若干の殺気を混ぜている。それなり以上の手練れが主であろうと、そう分かるような視線であった。

 

 見た目からはそうと分からぬ程度に、鷹化は足に力を籠める。すぐに動けるように、と警戒しつつ、ちらりと顔を視線の主へと向ける。

 

「……あれか」

 

 鷹化が見つけたのは、一人の女性であった。外見からするに、三十代くらいかというやや長身の女。瞬間、嫌気が鷹化の内に生まれる。主に師の影響で女嫌いを発症している彼にとって、こういう形でも異性と『交流』しなければならないというのは気乗りしない。面倒な、と思いながら鷹化が視線を返すと、こちらをじっと見ていたその女は、ふっと勝気な笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらへと歩いてきた。

 

「やあやあ、お初にお目にかかります。陸鷹化さん、でよろしいでしょうか」

 

 言葉こそ疑問形だが、どちらかと言えば確認するような口調で、女は鷹化に言葉を投げてきた。こちらの名を知っての反応にしてはやや不遜にも思われる態度。よほど度胸があるか、ただの馬鹿か。どちらやら、と思いながら鷹化は口を開く。

 

「随分とこっちに詳しいみたいだけど、あんたは誰だ? 正史編纂委員会とやらの結社員かな?」

「おっと、失礼。私は早瀬、ご推察の通り、委員会では北海道分室室長などという役職についてはいます」

 

 そう女――早瀬が答えた瞬間、鷹化は警戒の度合いを一段階上げる。名を知り、すぐに見つかったということは、彼女はこちらを待ち構えていたということだ。こうも対応が早いとなると、あるいはこちらの思惑に関してもばれているのではないだろうか。いざとなれば、と鷹化は臨戦態勢に入る準備を始める。すると、早瀬は慌てたように――しかしどこか余裕ありげに――頭や手を大きく振る。

 

「おっとっと、まあまあ、そう危なっかしい空気を出さないでもらえませんか? 今回、私は委員会の人間としてきているわけじゃないんですから。ええと、そう、バイト、バイトとしてメッセージを預かっているんです」

「バイト?」

 

 妙な単語選びに、鷹化は眉を顰める。それをある種の隙と見たのか、早瀬は懐から一通の便箋を取り出し、こちらに差し出す。

 

「是非、陸鷹化さんお一人でいらしてほしい、とのことです」

「それに僕が乗る必要が感じられないね」

「『雷王』様からの招待状です、と言っても?」

「……なんだって?」

 

 早瀬が出したその名前に、鷹化の目が開かれる。それは、彼の師である羅濠教主が、とある『王』に対してつけた呼び名だ。他人に興味がない師が名をきちんと覚え、その上でつけたある種の敬称。それを、今この女は口に出した。

 

 名を騙っている、ということはあるまい。師や鷹化がその呼び名を吹聴していない以上、知るには『彼』から直接聞くしかないし、彼が軽々とその名を口に出すとは思えない。であれば、これは彼からの伝令である、と確信していいだろう。そうなれば、鷹化がすべきことは一つ。

 

「それを聞いた以上、受け取らないわけにはいかないか」

 

 呟き、早瀬が差し出す封筒を受け取る。封を切ってみると、中には二枚の紙が入っていた。一枚は、こちらに対して宛てた言葉を書き連ねたもの。もう一枚は、この空港周辺と見られる、適度に簡略化された一枚の地図。一か所に印がついていることを見れば、ここに来いということなのだろうか。

 

「では、私はこれで。やれやれ、所用でこっち来ただけなのに、まさかこのようなバイトを頼まれるとは……」

 

 最後に、道化のごとく大仰な仕草で礼をして、早瀬はその場を立ち去る。視界の端でそれを見つつ、鷹化は意識を目の前の手紙に向ける。ややして、鷹化がざっとその内容を読み終わった後、鷹化は小さく嘆息する。

 

「……アーシェラの姐さんとの合流は後回しだな」

 

 呟き、鷹化は足早に空港の出口を目指す。その後は地図を取り出し、周囲の地形とにらめっこをしながら、印のつけられた箇所を目指して歩き始める。

 

「ここか」

 

 おおよそ十分ほど歩いただろうか。たどり着いた場所にあったのは、やや古びた雰囲気を醸し出す小さな喫茶店であった。裏通り、ということもあってか、周囲や店内からは人の気配が感じられない。

 

 準備中、という看板を無視して中に入ると、身体に静電気が走ったかのような違和感を覚える。外界と隔絶するために結界のようなものが貼られているのだ、と鷹化はすぐに気づく

 

 同時、店の奥から覚えのある気配が感じられた。明らかにこちらを『見ている』と分かる濃密な気配。仮に結界がなければ外からでも分かっただろうそれに、一筋の汗が鷹化のこめかみを伝う。

 

 意を決し、奥へと足を運ぶ。店の一番奥まった場所、そこの一席に腰掛ける男性――稲穂秋雅に対し、鷹化は淀みない動作で膝を折る。

 

「――ご尊顔を拝し、光栄の極み。陸鷹化、ご招待に応え、馳せ参じました」

「久方ぶりだな、陸鷹化。突然に呼び出してしまい、申し訳なく思っている」

 

 若く、しかし威厳のある声が鷹化に降り注ぐ。奇妙なほどに耳なじみが良く、しかしそれを当然だと思ってしまうその声を受け、鷹化は更に頭を下げる。

 

 稲穂秋雅。陸鷹化が知る神殺しの中でも、特に異質の相手。弁舌では彼の師である羅濠教主を相手に『試合』を成立させ、武力ではその試合において一時間もの間戦い続け、事実上の引き分けを勝ち取った、並々ならぬ人物だ。そんな王との謁見に、さしもの鷹化も幾ばくかその身体をこわばらせる。

 

「ふむ、君の礼節は見事だが、このままでは流石に話しにくい。君もそこに掛けたまえ。ここは、君と話をするための場だ」

「……はっ」

 

 秋雅の許しを受け、鷹化は身を起こして秋雅の正面の席に腰掛ける。座ったと同時、鷹化の前に中身の入ったコーヒーカップが出現する。秋雅の権能によるものだ、と近似した光景を見たことがある鷹化にはすぐに察せられた。

 

「潤滑油代わりになればいいが」

「では、失礼します」

 

 一口飲み、唇を軽く湿らせる。普段はコーヒーをあまり飲まないのだが、それでも上等だと分かる味。場が場でなければゆっくりと味わいたいところだが、流石にこの状況ではそうもいかない。忙しなく見えない程度にカップを下ろしたところで、ゆっくりと秋雅が語りだす。

 

「さて、君も忙しいだろう身。前置きは無視して、さっそく本題に入ろう。日光東照宮(・・・・・)にはいつ向かうのかね?」

「――ッ!?」

 

 思わず、呼吸が止まる。何故、知っているのか。何故、それを直球で出せるのか。秋雅から放たれたその単語は、陸鷹化を瞠目させるに十分であった。

 

 そしてその反応は、秋雅にとって自身の推測を確信に変えるには十分であったようだ。軽く頷き、秋雅は肘をつきながら手を組む。

 

「やはり、羅濠教主殿の思考はある意味で分かりやすいな。それとも、君のその素直と見える反応は、あるいはブラフであったりするのかな?」

「……いえ、稲穂様のご慧眼に感服するばかりであります」

「ふふ、君も羅濠教主殿以外にへりくだることがあるのだね」

 

 からかうような口調で、秋雅は鷹化を見る。これだ、と鷹化はその視線を受けながら、心の内でうなる。言っていることは普通であるのに、妙にこちらを揺さぶってくる語り口。この人のことは正しく、それは当然のことであると思ってしまう態度。それらの為に、鷹化もいつもの調子が出ず、どうしても素直な反応を見せてしまう。理屈抜きで人の心を懐柔するこの技能が、ある意味では彼が持つ神殺しの力以上に、稲穂秋雅が『王』として崇められている理由なのかもしれない。

 

「一つ、よろしいでしょうか」

「ふむ、何かな?」

「何故、僕がこの国を訪れた理由を言い当てられたのですか?」

 

 不遜を承知で、鷹化は問いを投げる。他の王に対してであればまずやらないが、稲穂秋雅は『例外』だ。万一ということもあるが、おおよその場合においてこの王は、常識的な行動には常識的な行動を返してくれることが多い。

 

 そしてその予想通り、秋雅は一つ頷いた後、何ということもないように語り始める。

 

「推測の材料となったのは、四つの情報だ。一つ、私はかつて、羅濠教主がこの国を訪れ、とある神(・・・・)と戦ったことを知っていた。二つ、私は以前から、日光東照宮にそのとある神が封じられていることを知っていた。三つ、私は盟友たるジョン・プルートー・スミスの活躍譚から、あるいはかの神祖アーシェラが滅んでいないのではないか、と推測していた。そして四つ、さる筋から同じく神祖であるグィネヴィアが、羅濠教主と接触したがっていたという情報を手に入れた。それらを統合した結果、あるいは、と推測した。もちろん、君がこうしてこの国を訪れていることも理由だがね」

「……なるほど」

 

 たいした情報網だ、と秋雅が出した情報に対し、鷹化は舌を巻く。加えて、そこから推理を飛躍させられることもまた、たいしたものだろう。こういったところもまた、この王を『底知れぬ』と感じるところだ。

 

 どの王よりも理知的で、人道的で、怖い(・・)。それが、鷹化から見た稲穂秋雅という王の評価だ。表面こそ普通で、他の王と比べて例外的な言動を取るが、その内面はようと知れない。内面もまた『例外』なのか、あるいは内面だけは他の王と同じなのか。他の王たちと比べて次の行動がまるで読めず、だからこそ警戒せざるを得ない。この瞬間こそ理知的だが、次の瞬間に突如として理不尽を振るわないと、言い切れる保証はない。にもかかわらず、彼に心酔し、彼こそが至上の王と見る者は少なからずいる。探れぬ内面も、人を魅了する外面も、どちらも恐ろしい。決して心を許してはならない相手なのだと、鷹化は改めて認識しながら、鷹化は口を開く。

 

「もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「構わない。おおよそ予想はつくが、君の口から聞こう」

「では――」

 

 一呼吸。

 

「――御身は、どちらの立場なのですか?」

 

 核心をつく質問を、鷹化はついに放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「立場、か」

 

 思ったよりも早かったな、と鷹化からの問いに秋雅はそのような感想を抱く。もう少し探ってくるかと思っていたが、想像以上に早く切り込んできた。いや、考えてみれば当然の話か。結局のところ、鷹化は確認しなければならないことはただ一点、つまり秋雅が羅濠教主と敵対する気なのかどうか。そう考えてみれば、最低限の確認のみで切り込んでくるのは決しておかしなことではないだろう。

 

「さて、どうするべきか。羅濠教主と相対し、その目的を阻むか。あるいはその謀略を見逃し、彼女の目的達成を見守るか」

 

 意味ありげな視線を、鷹化に対し向ける。すると、目の前の少年はあからさまに身を固くした。素直な反応だ、と彼の挙動に視線を鋭くする。

 

 よくあることだ。常は冷静な、あるいは不遜な人が、秋雅の言動に常ならぬ反応を見せるのは。それらしい素振りと、それらしい言葉。かつて、あの男(ロキ)から僅かに学んだその術を駆使すると、秋雅と相対したものは彼の想像以上の反応を見せてくる。それは警戒であったり、逆に心酔であったりと様々だが、秋雅にしてみればまあ、都合の良いことが多い。交渉の場で相手を信用させたり、逆に恐怖させたりして、秋雅の要望をどうとでも通す。流石に同格の王には効かない『はったり』だが、それ以外での有用性は疑いようがない。誑し込むことも屈服させることも可能な、非常に便利な技能だ。

 

 よほどこの『真似事』は、自分と相性が良いらしい。彼らのそんな反応を見るに、秋雅はそのような感想を抱かずにはいられない。秋雅自身としては、それっぽいことをそれらしい言っているだけのつもりなのだが、それに対する人々の反応――感嘆、恐怖、心酔といったものを見ると、むしろ自分が騙されているのではないのかというような感想すら湧いてくる。もっとも、それはただの、事が上手く行きすぎたからこそ感じる不安にすぎないのだろうが。

 

「――私は羅濠教主に協力したいと思っている」

 

 迷うそぶりを見せておきながら、不意打ちの結論を鷹化にぶつけた。すると鷹化は無言のままに目を見開き、驚愕の色を見せる。絶句、とまではいっていないのは、鷹化もその可能性を多少は考えていたからだろう。そもそもこうして好意的な会談を申し込んでいる以上、『そうである』可能性を考えないはずがない。要はその可能性を高く見るか低く見るかであり、鷹化は低く見ていたということなのだろう。あるいは、可能性としては高くみつつも、感情面で信じ切れていなかったか。どちらでもいいが、と見切ることを放棄しつつ、今のうちの話を通してしまおうと秋雅はさらに言葉を紡ぐ。

 

「そもそも、かの地にまつろわぬ神が封じられている状況というのは、私にとっても愉快な話ではなかった。用途は理解できるとはいえ、いつ封印を破るかも分からぬものをそのままにしておくのは気に入らん。不発弾を金庫で保管するか、手があるうちに解体してしまうか、という話である以上、私としてはたとえ爆発する可能性があっても、目の届く範囲で処理してしまいたい」

 

 それは、秋雅が日光東照宮周りの情報を得てから、常々考えていたことだった。その措置の理由はまあ、妖精王と呼ばれる神々と会ったこともあり、ある程度には理解している。ただ、それと同時に、ぞっとしないものを感じたのも事実。神殺しとしての本能か、はたまた人としての理性か。どちらにせよ、秋雅はこの国に『不発弾』が埋められていることに、あまりいい感情を抱いてはなかった。故に、先の情報元であるスミスやアリスには悪いが、この状況をそういう方向に利用したい、と秋雅は決心した。

 

「……確か、御身は『冥府』と言う空間を所有されていましたね」

「そうだ。あの中なら、多少暴れたところで周囲への被害はない。羅濠教主にしても、どうせならば被害がない方が、この国で暴れる上では都合がいいのではないかな?」

 

 かつて秋雅が羅濠教主と相対した時、鷹化にも『冥府への扉』の存在は知られている。それを使うのだ、と伝えて見せれば、鷹化の表情にも納得の色が見えてくる。

 

「ああ、それと一つ確認をしたいのだが、封印を解除するにあたって、必要以上の人的被害を出す可能性は高いのかね? その場合、その相手によっては前言を撤回せざるを得ないが」

「それは……おそらく問題ないと思います。僕も仔細を承知しているわけではないので断言はできませんが、多数を能動的に犠牲にする、ということはないかと。少なくとも、命を奪うだとか、そういう方向性での犠牲はない、はずです」

「ふむ……ならば問題はない、か」

 

 多少の不安はあるが、ここは見逃す。未来の十の為に一を犠牲にする。そういう選択を容易く取れるのが、秋雅の王としての性質である以上、それは当然の結論だった。

 

「では、こう取り決めたい。私は周辺地域から一般人の排除と、戦う場としての『冥府』を提供する。代わり、羅濠教主にはまつろわぬ神の封印解除と、確実な討伐を求めたい。無論、教主殿が戦っている間、私は手を出さない。私が手を出すのは、万一にも彼女が後れを取り、現実世界に影響が及ぶ可能性が出た場合のみだ」

 

 どうだろうか、と秋雅は大まかな提案を鷹化に示す。鷹化の決定がイコールとして羅濠教主の決定ではないが、彼ならば羅濠教主の判断を慮ることが可能なはず。ある程度利が大きいと見れば、そのために説得くらいはしてくれるだろう。

 

 これが通るならば楽だが、どうなるか。無言のままに鷹化を見つめてみたところ、十秒ほどの間をおいて、鷹化はゆっくりと口を開く。

 

「……断言はできませんが、おそらく師父はそれをお受けするでしょう。御身に横やりを入れられる可能性を鑑みれば、その程度のことを受け入れると思います」

「それは良かった」

 

 鷹揚と頷きながら、秋雅は内心で安堵の息をついた。過去の戦い――といっても、向こうからしてみれば遊び程度だろうが――で羅濠教主の戦闘能力の高さは身に染みている。近接戦、等身大の戦いにおいて最強とも言えるその実力を見て、なお彼女と積極的に戦いたいと思うほど、秋雅は命知らずではない。必要となれば戦うのを避けはしないが、避けられるならば可能な限り避けておきたいところ。だからこそ――まだ確定ではないといえ――羅濠教主と不戦の協定を結べるのは、肉体的にも精神的にも喜ばしいことであった。

 

「これを君に。直通ではないが、私との連絡手段だ」

「はっ、計画の推移に応じてご連絡させて頂きます……では、事情を師父に伝えなければならないので、僕はこれで」

「ああ、悪い返事が来ないことを期待している」

 

 最後の秋雅の言葉には応えることなく、渡した連絡先のメモを携え、鷹化は一礼と共にその場を立ち去る。ドアを開け、彼が喫茶店から出たことを音で察しながら、秋雅は冷めかけたコーヒーを一息に飲み干す。

 

「わざわざ人目を避けて関東まで来た以上、これで一つ片付いたと見たいが、どうなるかね」

 

 不安材料は多く、上手く行ったとしても成功が確約されたわけではない。場合によっては特大の爆弾を自ら起爆することになるが、

 

「それくらいの博打は覚悟の上、だな。いっそ、非難されるような立場になった方が楽になったりしそうだが……流石に駄目か」

 

 おどけるように、しかし僅かに本音を混ぜた呟きを残し、秋雅は立ち上がる。そのまま足早に店を出ようとした秋雅であったが、その足はすぐさまに止まる。傍ら、先ほどまで使っていたテーブルの辺りから、覚えのある雰囲気が感じられたからだ。身が引き留められそうになるほど粘りっこい、死の気配を具現化したかのような空気は、冥界と呼ばれる場所のそれだ。妖精王としての秋雅はそれが、自身の領民がもたらしたものであるとすぐ様に理解する。

 

「何用か」

「――伝令がございます」

 

 陰鬱な声と共に、鷹化の残したコーヒーの水面が蠢く。ドロリ、と鈍い動きで水面に立ち上がったのは、かろうじて人型に見える汚泥じみた何か。おそらくは礼の姿勢を取っているのだろうそれに、秋雅は見下ろしながら問いかける。

 

「冥界に何かあったか?」

「ご領地に問題はありません。王にご面会を希望している方がいらっしゃるのです」

「誰だ?」

「冷たき北風の化身たる方、そして妖艶なる美姫たる方のお二方でございます」

「……ボレアス殿に、サロメ王女か」

 

 呆然とした響きで、秋雅は小さく呟く。妖精王、それも繋がりが感じられない二柱が同時に訪問。思ってもみなかった言葉に、さしもの秋雅も思考が一瞬止まる。しかし、それも所詮は一瞬。可能性をいくつか考えつつも、秋雅はすぐに対応を決める。

 

「私はすぐには戻れん。それを伝えたうえで、我が領地に滞在されるなら歓待を。一度離れるのであればすぐ様に伝令を出せるように準備をするように。出来る限り失礼のないように対応し、私の帰還を待て」

「拝命致しました……」

 

 そして、人型が突如としてほどける。音を立ててカップに落ち、いくつもの波紋を浮かべているそれは、もはやただのコーヒーでしかなかった。先ほどまであった死の空気も霧散し、異界の住人が居た痕跡はもはやどこにも感じられない。

 

「ボレアスとサロメ王女が同時に、か。同じ用件であるとして、目的はなんだ……?」

 

 果たして、彼らは秋雅にどのような用事を持っているのか。その思考を打ち切り、会えばわかると投げ捨てるには、流石の秋雅も数分を超える時間を必要とするのであった。

 


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