トリックスターの友たる雷   作:kokohm

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冥界と二柱

 

 陸鷹化との会談を終えた日の夕刻、秋雅はアストラル界への転移を行った。本来であれば異界への転移には諸々と面倒な準備が必要となるのだが、秋雅に限っては少し違う。まず、少しだけ面倒だが困難ではない材料を揃え、ウルたちの協力の元、とある特殊な魔術で『場』を整える。そこに『冥府への扉』の導きを受けることで、秋雅は通常の方法よりも簡単に、アストラル界にある無数の『階層』の中の、彼が『領土』とする場所への転移を行うことが出来るのである。

 

「……相も変わらずの光景だ」

 

 そこは、明らかに異質な場所であった。赤の混じった空の下、地平線の先にまで黒味がかった荒地が広がっている。荒地にはいくつかの大河が流れ、そのうちに囲まれるようにしてぽっかりと巨大な穴が口を開けている。パッと見た雰囲気は秋雅の『冥府』に似ているが、あちらと比べると全体的に陰湿な、じっとりとした『死』の気配に満ちている。

 

 これこそ、本物の冥界。亡者とその管理人たちのみが住む、死の理に満ちた空間。アストラル界においてそう呼称される階層は幾つか存在する内の一つであり、同時に稲穂秋雅という『妖精王』の領地でもあった。

 

「誰ぞある」

「ここに」

 

 秋雅の呼びかけに対し、即座の返事があった。そして虚空より、黒衣を纏った一体の骸骨が現れる。冥界において亡者たちの管理を行う立場にあるもので、神話によっては『死神』と呼称されることもあるだろう存在だ。だが、妖精王たる秋雅にとっては、ただの配下の一人でしかない。恭しく頭を下げる管理人に対して、秋雅は奥にある大穴を眺めながら問いかける。

 

「客人は?」

「ご滞在されております。お二方のご希望を受け、玉座の間に場を用意させていただきました。すぐにお伺いになりますか?」

「そうしよう」

「かしこまりました」

 

 秋雅の意思を受け、管理人は肉のない腕を軽く振るう。次の瞬間、秋雅と管理人は大穴の中央部に立っていた。足元にあるのは硬質な、土にも金属にも見える黒い板だ。その板に管理人が軽く踵をぶつけると、カツンと金属音のような高い音が響き、板がゆっくりと大穴内に降下し始める。冥界において、地上の荒野は所詮、ただの入り口でしかない。その本質は大穴の奥底、この世界の最深部にこそある。この板はそこへ降りるために備え付けられた、一種の昇降機であった。これを使えるのは妖精王である秋雅や管理人たち、そして彼らに許された客人のみであり、それ以外の亡者たちは穴の側部にある螺旋階段のような道を延々と下りるしかない。それもまた、冥界での刑罰であるからである。

 

 秋雅達が地の底に近づくにつれ、少しずつ声のようなものが聞こえてくる。冥界にて管理される、あるいは管理されるために階段を下りている、亡者たちの怨嗟や嘆きの声だ。段々と大きくなっているその声を聴くにつれ、秋雅の表情が段々とけわしくなっていく。鬱々とした気分になるほど弱い精神ではないが、だからといって環境音と聞き流せるほど特異な精神構造もしていない。だからここには来る気が起きないのだと、秋雅は心の中で愚痴をこぼす。

 

 幸いというべきか、秋雅の愚痴が悪態に変わる前に、昇降機は冥界の最深部に到着した。すり鉢状の地形の側面にいくつもの牢屋を備えつけられており、そこからは亡者たちのうめき声が漏れてきている。

 

 その他にあるのは、地形の中央に建てられた、豪奢だが陰鬱な雰囲気を醸し出す宮殿である。この冥界においての唯一の建造物であるそれは、妖精王が執務を執り行うための居城である。もっとも、職務放棄をしている秋雅からしてみれば、滅多に使う機会のない別邸でしかない。

 

 ちなみに、かつてこの地の妖精王だったハデスも、これと似たような扱いをしていたらしい。宮殿を張子の虎とし、自身はそのほとんどをこの地の外で過ごしていたそうだ。秋雅がハデスと相対したのも、彼がアストラル界すら抜けて地上にまで足を延ばしていたからである。自らここを領地として得たはずなのに、なんとも不可思議な話である。しかしその一方で、そうしたくなるのも無理はないと、秋雅は実感と合わせて納得もしていた。気が変わってもおかしくない、と思える程度には、この地は如何ともしがたい陰気さに満ちていた。

 

 昇降機を下り、足音を一度立てる。すると何処からか、ふっと巨大な影が現れた。地底故に光も少ない環境だが、秋雅の目はその影の正体をたちどころに看破する。

 

「息災か、ケルベロスよ」

 

 秋雅の問いかけへの返答は、二重の咆哮であった。常に一つの首は眠り、残りの二つが冥界の亡者たちを見張る三つ首の番犬、名をケルベロス。冥界の管理者の一つにして、最も恐ろしい番人であった。

 

 一しきり咆哮を放った後、ケルベロスの起きている二つの首は秋雅に頭を垂れる。冥界の主である秋雅に対し、恭順を深く示しているのだ。図体こそ大きく、それに応じた力も持った存在だが、その従順な様はしつけの良い普通の犬と何ら変わるところはない。その大きな鼻の一つを柔らかく叩き、また別の首の口元を軽く撫でる。

 

「良い子だ」

 

 気持ちよさそうに目を細めるケルベロスにそう残し、秋雅は改めて自身の宮殿へと向かう。いつの間にか、共に来ていた管理人は宮殿の扉の前に立っており、秋雅に対して深い礼の体勢を取っている。そのことを当然と受け取り、秋雅はその隣を通り抜け、宮殿の内部へと足を踏み入れる。

 

 宮殿の内部は、外見とそう変わった印象はない。豪奢だが陰鬱な気配が漂う通路を抜け、秋雅は更に宮殿の奥へ向かう。そうして少し歩くと、やがて一つの大きな扉の前についた。威風堂々たる様を見せつけるその扉を見上げた後、秋雅は軽く手を振るう。

 

 すると、鈍い音を立てながら徐々に大扉が開き始める。その結果として視界に入るのは、王者が座るに不足のない立派な玉座と、それを称えるために作られたような大きな広間。妖精王が他の者たちに姿を見せるために作られた、玉座の間と呼ばれる空間である。

 

 しかし今日は、その光景にも少しの変化が見受けられた。玉座の正面、広間の中央部に円形のテーブルとイスが備え付けられ、そこに二人の人物が腰かけている。往年の白人男性と、妖艶な雰囲気をまとった美女。その二人の名を、秋雅は重々しく口に出す。

 

「ボレアス殿、サロメ王女、お待たせしたようで大変申し訳ない」

「否、我らが突如として参ったのだ」

「そう、だから謝罪は不要よ……」

 

 ボレアスの一言に冷たい風が吹き、サロメの一動作に目が奪われる。北風の暴君と妖艶の王女、一挙一動がその異名を存分に示していた。

 

「ならば、その言葉をありがたく頂戴しよう」

 

 そう言いつつ、秋雅は用意されたもう一つの椅子に腰を下ろす。何処からかさっと茶や軽食などが準備されるが、それには目もくれず、秋雅は口元を隠すように、ゆっくりと両の手を組む。

 

「さて、珍しい客人であることだし、本来であればゆるりと歓談を楽しみたいものだが、残念ながら私も少しばかり忙しい身。出来るならば手早く、貴殿らの訪問の理由をお聞きしたい」

「我らも無駄な前置きは必要ないと考えていた。故に、単刀直入に尋ねよう。稲穂秋雅よ、汝は旅の神、あるいはそれに近しい存在との逆縁はあるか?」

「なに?」

 

 ボレアスの問いかけに、秋雅は軽く眉を顰めた。しかし、ひとまずは従順に、投げられた問いについて記憶を探る。

 

「旅の神との縁…………あるな。私がこの地位を得てすぐの頃、まつろわぬヘルメスと相対したことがある」

「ヘルメス……ギリシアでのトリックスターね。それで? 彼とは決着をつけたの?」

 

 サロメの追及に、秋雅はこの神々は同じ目的でここを訪れたということを察する。結託して何をしに来たのか。無くならぬ疑問に思考を巡らせつつ、秋雅は自身の記憶を更にさかのぼる。

 

「いや……決着はつけていない。奴はとにかく早かったからな、どうにか撃退に追い込むのが精いっぱいだった」

 

 きっかけは、とある結社がまつろわぬヘルメスの襲来を察知し、先んじて秋雅に撃退の依頼が出されたことにある。相対までは順調に行ったのだが、ヘルメスが神速の使い手であったのがまた厄介であった。当時の秋雅がはまだ権能も三つしか――今と比較して、『まだ』とするが――得ておらず、その掌握もまだまだの度合いであったため、『神速』を相手取るには経験値が不足していたというのも大きいだろう。加えて、ヘルメスが旅の神であるつながりから異界渡りを行えた、つまり秋雅の『冥府』から抜け出すことが出来た、というのもやりにくいところであった。覚悟はあったとはいえ、まだまだ未熟な当時の秋雅には、外の世界で自在に戦うというのに僅かな抵抗があったからだ。

 

 とはいえ、結果だけで見れば秋雅の勝利と言えるだろう。何故ならば、どうにか虚をついて雷を当てることに成功し、ひいては撃退にまで繋げる事が出来たからだ。もっとも、それもすべてはヘルメスが油断しきっており、その状態で『人間程度』から攻撃を受けたことに動揺してくれた、というのが大きかった。もし精神的に万全な状態で戦われていたら、あるいは秋雅は今ここにいないかもしれない。いや、今の秋雅ですら、本気のヘルメス相手には分が悪い可能性すらある。

 

 元々、まつろわぬ神とカンピオーネの戦いは分が悪いものなのだが、それを置いておいても、とかく『神速』は厄介なのだ。草薙護堂の時はからめ手を使ったから勝てたのであって、そういうものが通じない相手には、今の秋雅でも対応に困る――ただし、アレクサンドル・ガスコインの場合は除く――というのが本音である。

 

 この辺りの事情を――教えると不利益になる部分は省いたうえで――秋雅はざっと二柱の神々に説明する。すると二柱、特にボレアスの方がやや難しい顔をして口を開く。

 

「生きており、逆縁があり、そして決着がついていない……ふむ、なるほどな」

「何がなるほどなのか、ぜひご教授願いたいのだが」

 

 そう当然の言葉を投げると、ボレアスはゆっくりと首を横に振る。

 

「いや……悪いが、それは出来ない。おそらく、それを教えることこそ、汝によってよくない風となろう」

「なに?」

「ただ……」

 

 不自然に、ボレアスが言葉を切った。それがどういう思いからのものか、秋雅には欠片も想像がつかない。僅かな沈黙を経て、ボレアスは再び口を開く。

 

「……借りを返すため、一つだけ言っておく。汝は汝の考えを信じよ、さすれば汝の縁は滞りなく続くことだろう」

「借りだと? 私は貴殿に貸しを作った覚えはないが」

「当然だ。汝がそれを成すのは、今より後のこと(・・・・・・・)だからな……では、失礼する」

「後だと? 待て、ボレア――」

 

 秋雅の制止を無視し、ボレアスはその場から姿を消した。身体を風に変じ、暴風として玉座の間より飛び出していったのである。極めて唐突に、矛盾した返答のみを残して消えた彼の行動に、秋雅は憮然とした表情で目を瞬かせる。

 

「まったく、せっかちなこと」

 

 呆れたような口調でぼそりと呟きながら、ゆるりとサロメが立ち上がる。その彼女に、秋雅は視線を鋭く研ぎ澄ませ、穿つかのように睨みつける。

 

「……説明願いたいな、サロメ王女。彼と連れ合ってここに来たのだ。今の一幕に関して、貴女は何かを知っているはずだ」

「知ってはいるわ。当事者ではないけれど、関係者ではある。だけど、今は駄目よ」

 

 蠱惑的かつ退廃的な、色気に満ちた流し目。それを秋雅にそそぎながら、サロメはふうと息を吐く。

 

「彼も悩んでいるのよ。どうするのが正しいのか、どうすれば問題にならぬのか、と。これは本当に、非常に難しい問題。それこそ、神ですら悩むのような」

 

 ゆらり、とサロメの視線が揺れる。言葉を探すように周囲を見渡しながら、サロメはその細やかな指で、薄く、怪しげな魅力のある唇をなぞる。

 

「だから、彼は何も言わないし、私も何も言えない。そのくらい、彼が感じた恩義は大きいから」

 

 改めて、サロメの視線が秋雅を射抜く。その瞳は僅かに濡れ、退廃的な色気を感じさせる。以前に遭遇したキルケーとはまた違う、引き込むような妖艶さがその瞳にはある。並みの男なら狂い、壊れそうな美しいそれを、しかし秋雅は平然と受け止めた。そういうことに耐性があるのは、それこそキルケーの時に実証済みである。故に、潤んだ瞳を見せるサロメに対し、秋雅はただ真顔を返す。

 

 互いに無言のまま、視線を交わらせる。いつまで続くか、というにらみ合いを先に崩したのはサロメの方であった。彼女はまた物憂げな息を吐き、その視線をボレアスによって開かれた戸に向ける。

 

「私も、今日は帰らせてもらうわ。無礼を働いたわびは、貴方を私の宮殿に招待した(・・)ことで返させてもらうつもりだから。じゃあ、ね」

 

 その言葉を最後に、サロメの姿が消える。移動したのではなく、おそらくは姿を見えなくする術を使ったのだろう。探そうと思えば探せるだろうが、そうしたところで意味はあるまい。姿を消したということが、彼女にはこれ以上話す気がないということを示している。

 

「……どいつもこいつも、勝手なことを」

 

 そう呟き、秋雅は二つ舌打ちをする。一つ目は、これまでの流れに、そして二つ目は一つ目の舌打ちそのものに対してである。確かに面倒な状況ではあるが、あまりに苛立ちすぎている。そのことを自覚し、秋雅は少し頭を振り、ため息を吐く。

 

 トン、と秋雅はその場から跳ぶ。降り立ったのはこの部屋において最も豪華な椅子、つまり玉座の前である。かつて己にと献上されたそれに腰を下ろし、流れるように秋雅は頬杖をつく。

 

 このようにしたのは、熱くなりかけた頭を冷やすためである。座っているのは王のための椅子だ、と意識すれば、良くも悪くも頭は切り替わる。王として無様な真似は出来ない、と意識し、苛立ちを抑える作用を期待しての行為だった。

 

 はたして、この行為は一定の効果があった。あまりに一方的ななぞかけを受け、苛立ちを募らせていた頭が、ある程度冷静さを取り戻せたのである。とはいえ、これも完全ではない。多少の苛立ちは残しつつも、それでも秋雅は可能な限り冷静に、改めて思考を巡らせる。

 

「突然の訪問に、妙な問い。まだ出来てもいない貸しに、覚えのない過去形。一体どういう意図がある……?」

 

 しかし、些か冷えた秋雅の頭をもってしても、連なった謎の答えは出ない。いきなり来て、不可思議なことを言って去っていった二柱の神々。彼らの言から何かがあるのは分かったが、その何かが漠然としすぎており、推測もまともに出来ない。より正確には、あまりに不確定なことを多すぎ、推測というよりは妄想に近いものしか生み出せない。辛うじて導けるのは、まつろわぬヘルメスと何か縁が出来ているかもしれない、ということくらいだろう。

 

 それにしても、何か対策を立てられるようなものでもない。他の細々とした、推測未満の妄想も同じだ。あまりにも情報が足りない上、それを補填する方法も現状では存在しないらしい。どうしようもないか、と秋雅は仕方なくも思考を止める。

 

「……結局、その時が来るまで待つしかないのか。ただでさえ今は、特に気を遣う盤面だというのに、待たねばならぬことが増えるとは」

 

 困ったものだ、と秋雅は難しい顔でため息をつく。ため息ばかりの流れだが、それも致し方あるまい。追及するにも相手が相手、探るにもきっかけがまるでない。多少なりと心労もたまる、というものだ。

 

「羅濠教主のこともあるのに、なんとも厄介な…………」

 

 表面上だけは平然としつつ、秋雅は心の中で頭を抱える。人だけなら、あるいはカンピオーネまでならともかく、まつろわぬ神にまで能動的に動かれると、流石の秋雅も手が足りない。これは手数というより、単純な武力の問題だ。まつろわぬ神と対峙するかもしれない、という話だからである。いくらウルたちや三津橋たちが優秀でも、そこに関してはどうしようもない。最低でもカンピオーネレベルの力がいる以上、無理なものは無理である。

 

「スミスに協力を仰げれば良かったんだが、少し厳しいか」

 

 同じ妖精王であり、盟友のジョン・プルートー・スミスを頼る、という手もあるだろう。それでどうなるか、はともかく、彼がいることでやれることが増えることは確かだ。

 

 しかし、今回に限ってはそれも難しい。一つは、彼が《蠅の王》と戦った直後であるということ。流石に激戦を経てすぐという状況では、中々頼りにくいものがある。二つ目は、今回の秋雅の動きそのものだ。スミスから得た情報を基に、羅濠教主の暗躍を助長し、なおかつそれをスミスに還元するようなことをする気がない。心情的に、手伝ってくださいとは言いにくいものがある。無論、いざとなれば厭う気はないものの、まだ余裕のある現状では、中々手が伸びぬというものであった。

 

 とりあえず傍観し、状況を見る。あとは何時でも動けるように、下手なしがらみは作らないようにしておくべきか。積極的な行動は当面避けるしかないな、と少しだけ久しぶりに、受動的な立場に甘んじることを決めた秋雅であった。

 








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