賽の出目は The empress couldn't hide true feelings 作:天木武
◇
授業はつつがなく終わった。この先は放課後、薔薇色の高校生活を送る学生諸君が部活動やら帰路やらと各々の時間へと入っていくことだろう。一先ず、俺は席を立とうとせず、鞄に入れていたペーパーバックを開く。内容などどうでもいい。そもそもこれは昨日読み終わったものだ。フリだけでも、兎も角クラスに残っているという体裁が欲しかった。
午後の時間、俺はずっと考えていた。省エネ主義にあるまじき程に頭を使い、考えて考えて、それでも答えは出なかった。いや、もしかしたらそもそも答えなどなかったのかもしれない。
そうわかっていても、俺はまだ本を読むフリをし、席を立たなかった。クラスメイト達がどんどん教室を後にする。もう大分経っただろうとチラッと時計を見た。しかし俺の希望に反して過ぎた時間は授業が終わってからまだ約20分。あと10分ぐらいこうしていてもよかったが、その前に俺の心が音を上げそうだと感じたために、諦めて立ち上がった。
行く先は、約束の場所じゃない。部室だ。
雨の日に特別棟に行くのは面倒くさい。3階の通路は屋根がないために一旦さらに1階下の2階に行き、そこの通路を使わなくてはならないからだ。しかしそれでも、グラウンドを横切るよりは距離が短い。
無論理由はそれだけではない。本当に面倒くさいと思ったなら、そもそも部室にも寄らなくてもいい。だが、俺は
言葉は悪いが、あとはなるようにしかならないし、そうするつもりしかない。振ったサイコロの出た目に従う。ああ、なんと折木奉太郎らしくない考え方であろうか。
しかし言い訳染みているが、それはもうしょうがないとも思っている。神山高校に入学し、古典部に俺の意思と半ば関係なく入部させられ、様々な事に巻き込まれた。これを果たして俺が望んだ灰色の高校生活といえるだろうか。常にそうだったわけでは勿論ない。だが、既に俺の高校生活は人から見ようによっては薔薇色に見えてしまうのかもしれない、とも思える。それなら……。少し、俺もモットーを揺らがせてみてもいいのではないだろうか。自ら進んで変える、というまでは行動力がない。しかし流動的になら……。「仕方なく」と思えるのなら、変わるのではないだろうか。
俺は今の「灰色」の生活を割と気に入っている。だがだからと言って「薔薇色」の生活を咎めるつもりはない。そして魅力を全く感じないわけでもない。
いつの日だったか、俺は里志に言った。「隣の芝生は青く見えるもんだ」。それに対して、里志はこう返した。「ホータローは、薔薇色が羨ましかったのかい」。あの時は特に考えずに「かもな」と答えた。
だが、今同じ質問をされたら、俺はどう答えるだろうか。
生徒の盾となって薔薇色のままに学校を去ったと信じて疑わなかった
どれも、「薔薇色」となり得る事例だったはずだ。だがその全てが、お世辞にも「薔薇色」とは言えない。
そうわかっていてもなお、それだけのことを見てきてもなお、俺は薔薇色を望めるのだろうか。
部室の前に着く。あとは丁半、賽の目次第の部分が大きい。かつて部室に入るのにここまで緊張したことはなかったな、とふと思う。一度大きく深呼吸し、俺は扉を開けた。
部屋の中にいたのは、里志と伊原の2人だけだった。俺が来たことを見ると2人とも目を見開く。
「あれ……折木?」
「ホータロー、入須先輩と密会じゃ?」
「ああ。それなんだが、本来指定された場所は外だったからな。今日は雨だし、昼のうちに予定の場所を変えてもらうよう頼みに行って、そのついでに済ませておいた」
前もって用意しておいたセリフは意外と淀みなく出るものだ。さらっと答えたことに、里志も伊原も特に違和感は感じていないようだった。
「なるほど。実に省エネ主義のホータローらしいや。話の内容は……まあ聞かないでおくよ。その様子じゃ、女帝を口説き落としたわけじゃなさそうだしね」
「まあな」
伊原はまだ何か言いたそうだったが、それ以上突っ込んではこなかった。ありがたやありがたや。こっちとしても余計な気苦労が増えずにすむ。
俺はいつも通りの定位置に腰掛け、鞄からペーパーバックを取り出した。形だけでも、読んでるフリをするためだ。文字をただ目で追っていくだけ、内容など頭に入らない。心ここにあらず。
読みながらなるべく気にしないようにしつつも、目は時折外へと向かってしまう。この様子を、もしかしたら里志辺りは目ざとく気づくかもしれない。
だが、どうやら最初の賽振りは俺に有利な目が出たらしい。10分ほどしたところでグラウンドを隅の格技場の方から横切ってくる、明らかに女子と思われる姿が目に入った。十中八九、目的の人物に違いない。しかし不幸なことにこの角度からではグラウンドを出た後、そのまま真っ直ぐ帰路につくのか再び校舎の方へ来るのかまでは確認できない。
ここからが2度目の賽振りだ。さあ、果たして賽の出目は吉と出るか凶と出るか。その答えは、それからしばらくしてわかった。
部室の扉が開く。俺はその人物を確認しなくたってわかる。伏目がちに、普段よりどこか表情も暗く、制服がやや濡れていた彼女は、予想に違わず千反田えるだった。出た目は吉、2度目の博打も、俺の勝ちだ。
「やあ千反田さん」
里志がいつもの調子で声をかける。伏目がちだった彼女はその声に答えようと視線を上げ――直後、挨拶した里志を通り越して俺の方を見つめてきた。
「折木……さん……!?」
「よう」
千反田の目が驚きに見開かれた後で、表情が明らかに曇る。……まずい、またこいつがボロを出す前に速攻勝負だ。
「折木さんなんで……!」
「入須先輩との話なら、昼休みのうちに済ませておいた。予定場所は外で、今日はあいにくの雨だったからな。昼に教室まで行ってその旨を話し、もう終わらせておいた」
「そんな……!」
「嘘だと思うなら確認してもらっていい。ともかく、俺はあの人との話は済ませた」
そう、「入須との」話は済ませたのだ。それは嘘ではない。そして、傍から聞いていればなんらおかしいことでもない。
「……そう……ですか……」
搾り出すようにそう言って、千反田は再び目を伏せた。何かに耐えるように口を真一文字に結んでいる。
「ちーちゃん、どうしたの? 座ったら? ってか大丈夫? 濡れてない?」
さすがの伊原も少し異変に気づいてしまったらしい。出来ればこいつにだけは知られないうちになんとかしたいのだが……。
「ちょっと外に用事があったものですから……。でも……今日は、もう帰ります」
「雨が少し小降りになってきた。もうちょっとしたら止むかもしれん。せっかく来たんだ、もうちょっといろ」
「ですが……」
「別に折木の案に賛成するわけじゃないけど、ちーちゃんせっかく来たんだし、用事があるならしょうがないけど、そうじゃないなら別に急いで帰らなくてもいいんじゃない?」
「摩耶花の言うとおりだね。雨宿りの部活としてもここは立派に機能してくれる」
2人にも説得されて、千反田は言われるとおりにすることにしたらしい。「では……」と言って椅子に腰を下ろす。しかし特に何をするでもなく、伊原に世間話を振られて適当に相槌を返すだけだった。
ああ、と俺は自分に対して軽く嫌悪感を覚える。省エネ省エネとモットーを振りかざし、純粋なお嬢様を振り回して俺自身何もしないのだろうか。いや、従来は俺が振り回されてるんだからプラマイゼロだろうが、とも思えたはずなのに、どうしてもそんな考えは浮かんでこない。
俺は今回の顛末を、一旦は賽に任せた。そこで凶が出れば日が悪かったと、しょうがなかったと、そんな適当な言い訳で流動的に逃げるつもりだった。しかし実際は2度振っても凶は出なかった。賽は、俺が降りることを許可しなかった。ここから先は俺自身の意思。それがどれほどのエネルギーを使うか。あまり想像したいとは思わない。しかしどんなに省エネを謳っても、俺はやはり人間だったらしい。このことに、けじめをつけなくてはいけない。
パン、と少し勢いをつけて本を閉じた。そして一度息を吐き、心を落ち着かせる。
「里志」
「ん? なんだい?」
「お前、図書室に何か用事があるとか言ってなかったか」
「言ったかな? 言った記憶はないし……それに、ホータローがそういうことを覚えているとも思えないんだけど……」
「里志」
正解だ。お前はそんなことを言ってはいないし、仮に言ったとして俺はそういうことを覚えているような人間でもない。だが、ここは
名を呼んで言葉を遮った後、無言で俺は奴の目を見る。意外そうにしばらく俺と視線を交わし、思いついた節があるとばかりに奴は僅かに口の端を緩めた。そしてわざとらしく「ああ、そういえば」と切り出す。
「そんなこともあったかな。よく覚えていたね、ホータロー。……というわけで摩耶花、図書室まで一緒に来てくれないかい?」
「え!? なんでふくちゃんの用事に私まで連れて行かれるの?」
「図書室のことは図書委員に聞くのが早い。餅は餅屋って言うだろ?」
「それは……そうかもしれないけど……」
「ちょっと時間もかかりそうだし、荷物も持って行くよ。……そういうわけでホータロー、千反田さん、僕達はお先に失礼するね。後はお願いするよ」
一方的に話を纏め上げ、半ば連れ出す形で里志は伊原を連れて部屋を後にする。そうして部屋を出て扉を閉める瞬間、一瞬だけ俺と目を合わせた奴は目元だけを笑ってみせた。
……ありがとよ、里志。ひとつ貸しだ。いつか必ず返す。
いよいよ部屋の中には俺と千反田の2人きり。俯いたまま、あいつは何も切り出さない。俺も一度閉じた本を開こうという気にもなれず、適当に視線を宙に彷徨わせていた。外の雨の音と時計の秒針の音だけが、やけに響いて聞こえた。
「……やっぱり、帰ります」
それほど長い時間は経っていなかったと思う。そうポツリと呟いた千反田の一言によって沈黙は破られた。荷物を手に、今座っている椅子から立ち上がろうとする。
「待て、千反田」
千反田は、首を横に振った。机の上にあった荷物を持つ右手に力がこもり、腰が僅かに椅子から上がる。
「……頼む、待ってくれ」
言ってから、俺らしくない声だったと改めて思った。そして千反田もそれに気づいたのだろう。意外そうな視線を感じた後、あいつが上げかけた腰を下ろしたのがわかった。
「……悪かった」
何から言うべきか。悩むより先に、まず謝罪の言葉が俺の口をついて出た。
「何を……謝る必要があるんですか? 入須さんに会ったというのは嘘ですか……?」
「いや、嘘じゃない。本当に会った。俺が謝ってるのは……お前を雨に打たせちまったことに対してだ」
千反田が目を見開く。
「な、何を言ってるんですか? 私は用事があってちょっと外に出ただけで、その、折木さんに謝られる必然性は……」
「もういい。……全部わかってる」
これだけで、全てが伝わったらしかった。千反田は見開いていた目を僅かに曇らせて俯いた。その時に何かをポツリと呟いたのが、俺の耳にも届いた。「やっぱりですか」か「なんでですか」か。だがはっきりとは聞き取れなかった。
「……お前に腹芸は似合わない」
「ええ……。そう思います」
「なのになぜ、お前は俺を呼び出すために入須を使うなどというややこしいことをした? 結果お前は見事なまでにボロを出した」
千反田がため息をこぼす。自嘲的な色の含まれたような、こいつには珍しいため息だ。
「……自分にしてはうまくいったと思ったんですけどね」
「あそこで念を押さなければ、俺だって余計な疑問は抱かなかった。だがそこで念を押したばかりに、俺は事の真相を知ってしまった」
「入須さんから……お話を聞いたんですか?」
「いや。俺があの人と話したのは、俺を呼び出そうとしてたのは自分ではなくお前であるということと……あとは個人的な話を少々だ。入須はお前が言おうとしていることは決して言わなかった。それだけはあの人に誓って言っておく」
やや沈黙を挟み、「そうですか」とだけ千反田は答えた。それきり口を噤む。普段はこいつが話をリードしてくれるというのに、今日は立場が全く逆になってしまっている。
「千反田、なぜお前、入須に頼むなんて回りくどいことをしたんだ? 俺に……話があるなら、昨日辺り直接『明日の放課後にどこどこに来てください』とでも言えば済むことだったろうが」
「……そうですね」
「そうやって直接言えるのがお前だろう。なのに他人を……あまつさえ、お世辞にも俺と良好な関係と言えない入須を使うなんてのはあまりにもお前らしくない」
「……そう、ですね」
ニュアンスは少し変わっていたが、同じ回答だった。また会話が途切れたことに僅かに苛立ちを覚え、俺はその先を急かす。
「おい、千反田」
「これ以上……何を言う必要があるんですか……? その過程は、折木さんにとって取るに足るものですか……?」
声は、震えていた。いつも凛とした千反田えるのそれではなく、ようやく搾り出したような声だった。
「だって折木さんなら……。折木さんなら、そんな過程なんて関係なく……私が本当に言いたいことを……きっとわかってるはずだから……!」
俯いていたその顔が上げられる。特徴的なその目は、潤んでいた。
「なのに……なのになぜ折木さんはここにいるんですか……? 全てを知っていて……その上で来なかった……。それだったら私だって……諦めがついた……。なのにあなたはここで待っていた。そして私には帰るなと言う……。どうしてですか!? これ以上私にどうしろと言うんですか!?」
珍しくまくしたて、千反田は涙が溢れた顔を両手で抑えた。
胸が、詰まる思いだった。結局「悲しませたくない」だの「善処する」だの豪語しておきながら、俺はこいつを悲しませてしまった。放課後に人目につかない場所に俺を呼び出して、改まって何を言いたいのか。それはわかっていた。わかっていてなお、俺は指定の場所に行かなかった。
いや、言い訳がましいが、厳密には
「……俺は、割と今のこの状況を気に入っている」
心に整理がつかない。こんな状況で話すなどまとまりを欠くに違いない。俺らしくないと、そうわかってはいたが、今思っていることを素直に口にしたいと思った。
「初めは部に入ること自体乗り気じゃなかった。姉貴から部の存続のために入れと言われ、来てみたらもうお前がいた……。それからはお前に振り回されっぱなしさ。気づけば里志も伊原も入部して、『氷菓』の名前の由来から始まり、まあ色々あった。……でも案外、そんな高校生活も悪くないと思っちまってる。わかるか? 省エネ主義がモットーのこの俺が、だぞ?」
バレンタインのときに、里志は伊原のチョコレートを砕いた。生き雛まつりで艶やかな着物に身を包んだ千反田を見た時にこれはまずいと思った。その生き雛まつりが終わり、「わたしの場所です」と手を広げた彼女に対し、思っっていたことと全く別なことを俺は口にした。
なぜだっただろうか。今なら、その全ての理由がわかる。
「だが……俺は変わることが怖い。俺は今を気に入っている。ならそれでいいじゃないか。なのに……心のどこかでいっそ変わってしまえと囁く声が聞こえる。一方で今のままでいいじゃないかという声も聞こえる。……俺はどうすればいいかわからないんだ。『入須と昼休みに話をつけた』。そう言って帰ればいいんじゃないかとも思った。思ったのに……帰れなかった……。それじゃ、まるでお前を拒絶してるみたいで帰れなかったんだ……!
だから俺はもう自分で答えを出すのを諦めた。あとはもうなるようになってくれと、賽を投げた。ここで待って、お前が来なかったらしょうがないとでも自分に言い聞かせて帰るつもりでいた。『やらなくてもいいこと』に分類できなかった以上、『手短に』ことを済ませるべきこの俺が、己のモットーを曲げて、出た目に全てを委ねるなんてことをやっちまったんだよ……!」
保留。破棄でもなく、やらなくてはいけないことを結局先延ばしにするだけと言う、何の解決にもならない、もっとも俺が嫌うべき方法。だが、俺は今回それを選択した。
あの時の里志もきっとそうだった。奴は伊原のチョコレートを砕き、答えを保留にしようとした。着物の千反田を見た俺も、「よくない」とだけ思うことで考えを一旦中段しようとした。まだ肌寒い初春の夕暮れ、神秘的な黄昏の中に立っていた千反田を見たときも、俺は言おうとしたことではなく関係のないことを言って誤魔化した。
そして、今日も俺は保留した。本来なら「手短に」、つまりやる時は能動的に物事を済ませるべきはずの俺が、流動的に、受動的に、そして消極的に済ませようとした。いや、済ませたかった。
「俺は……怖かったんだ。呼び出された場所に行くことも、知らん振りをして今日帰っちまうことも。どっちにしても、俺とお前の距離が変わる……。俺は……それがどうしようもなく怖かった。今のこの状況を変えたくなったんだ。
お前は、俺に『どうしろというんだ』と尋ねた。その答えは……俺にもわからない。そして……俺もどうしたらいいのか……その答えもわからないんだ。だから……俺は結局待ち合わせ場所とも違うこの部屋に来ちまった。来るかもわからないお前を待って……」
静寂が、広がった。
話がまとまっていたとは到底思えない。言いたいことが千反田に伝わっていたかもわからない。先ほど同様の、雨の音と秒針の時を刻む音だけが、室内に響いていた。
しかしそが続いたのは先ほどよりも短かった。不意に、千反田がフフッと笑った気がしたのだ。
驚いてその声の方を見る。千反田は相変わらず目に涙を溜めていた。だが、確かに笑いをこぼしながら肩を震わせていた。
「お前……。それは笑ってるのか泣いてるのか……どっちなんだ?」
「……どっちもです」
変わらず、目には涙を溜めたまま、千反田は俺に微笑んできた。
「ふられちゃいましたね、私」
「あ……」
「うふふ……冗談です。……この涙は、そうじゃないんです。折木さんは、きっと全てを見抜いているとわかっていました。だから……しばらく待って来ない、とわかったときに、もう嫌われてしまった、そう思ったんです。でも、そんなことはなかった……。ですから、これは嬉し涙です」
半分は、そうかもしれない。だがもう半分は強がっている。そんな気がした。
そして不覚にも、俺はこのとき、そうやって強がっている千反田を見て、心から美しいと思ってしまった。
「あと笑ったのは……その喜びがあったということと……折木さんも、私と同じ考えだったからだとわかったからです」
「同じ考え……?」
「はい。……さっきの問いに答えましょう。なぜ直接折木さんに言わなかったのか。なぜ折木さんと関係が良好といえない入須さんに頼んだのか。……私は、願をかけたかったんです」
「願をかける……。願掛けか?」
「はい。私は、自分の気持ちが伝えられる勇気があるかわからなかった……。だから、願掛けをして、もし折木さんが来てくれるなら、きっと自分の言葉で言えるだけの勇気を得られる、そして思いが叶う。……そんな風に思ったんです。
折木さんとあまり仲のよろしくない入須さんからの頼み。それも
何を馬鹿なことを、と俺は言えなかった。流動的だ。受動的だ。俺と全く同じじゃないか。
いや、それも驚いたが、それ以上に……。
「……お前、今日の雨のことを知っていたのか」
「新聞は読む方です」
そして俺のどこが「特別」かとも思った。思い上がりも甚だしい。グラウンドを横切ることまでは千反田がボロをこぼした。だが、雨の件は何も言わなかった。なのに俺ときたら「今日の雨に気づかないというのは入須ならありえないが、千反田ならありえる」程度にしか考えず、俺は入須に「来るのはお前じゃないだろう」と言い放ったのだ。随分とお粗末すぎた。
「折木さんがこの部屋にいて、なぜここにいるのかと尋ねた時に『俺は省エネ主義だ。めんどくさいから行かなかった』とでも言われたら……。はっきり言ってそれまでだと諦めて帰るつもりでいました。でも……思ったとおりそうではなかった。そして、嫌われての行動からでもなかった。それがわかっただけで……私は十分です」
十分です、という割には完全に満足していない表情だとはわかった。それがどこか申し訳なく思う。
「千反田、俺は……」
「謝罪でしたら、やめてください」
凛とした声だった。先ほどまで目元に溜まっていた涙は消え、強い瞳がそこにはあった。
「折木さんは折木さんの答えを出しました。例えそれが直接的な答えになっていなかったとしても、受動的で流動的であったとしても、です。そして私はそれに納得しました。ですから、それを謝るということはしないでください」
「千反田……」
「私も……少し欲張りすぎたのかもしれません。ふと、魔が差したのかもしれません。折木さんの心を、自分の無理を言ってまで変えたいとは思いません。……いずれその時が来たら、またちゃんとお返事を聞きたいと思います。ですから……その時まで、『保留』で構いません」
保留。随分と居心地の悪い言葉だ。している俺も、されている千反田も、本当ならさっさと済ませたほうがいいようなことであろう。しかし千反田は、そんな俺の心の中を読んでいるかのように、普段のように優しく微笑んだ。
「……折木さん。『やらなければいけないことは手短に』という、折木さんのモットーに難癖をつけようとは思いません。ですが……時が解決する問題と言うものもあると思います。……なんて、今回急かそうとした私が言っても説得力がないのかもしれませんが」
「時が解決する問題……」
「それに……折木さんはそのモットーを曲げてまで、答えを保留にしてくれたじゃないですか。私は……それだけで十分に嬉しいです」
立ち上がり、彼女は窓辺へと歩み寄る。
俺のモットーを曲げてまで、か……。元々別に大層なものじゃなかった。いつの間にか信条として抱き、ただなんとなく堅く守ってきただけの物だった。
今すぐもっと行動的な人間に、なんてのは到底無理だろう。人間、根っこから変えるのはそうそう楽なことじゃないはずだ。だが少しずつなら、俺は変わっていけるのかもしれない。……今までがそうだったように。
そう、神山高校に入学して古典部に入り、こいつに振り回されていろんなことに巻き込まれて自分でも少しずつ変わってきたと自覚しているのだから。
窓辺に歩み寄った千反田の背へと目を移す。黒髪がすらりと流れる彼女の後姿は、夕日に映えて美しかった。そこでようやく気づいた。
ああ、夕日か。つまり雨は本当に止んでいるらしい。さっきは半ばでたらめに、千反田を引き止めたいがためだけに「小降りになってきた」と言ったが、本当にそうなったか。まさに嘘から出たまことってやつだ。
「折木さん! 見てください!」
と、その時千反田が興奮気味に叫んでどこかを指差した。立ち上がるのは少し面倒だったが、さっきまで涙を溜めていた目が輝いているのを見ては、その原因が何かを知らねばなるまい。椅子から立ち、その指差す先を見て、思わず「おお」と声をこぼした。
千反田が指差す先には、虹が出ていた。俺は自分が無感動な人間だとは思っていない。が、感受性のある人間かと言われれば断じてノーだ。
それでも、その虹をバックに映る千反田はやけに綺麗に見えた。数ヶ月前、狂い咲いた1本の桜の木の下を艶やかに着飾った着物姿で通り過ぎた、あの時のように。虹と夕日を背景に、目を輝かせる千反田を見て、やっぱりなと俺は自嘲的に思うのだった。
「綺麗ですね……」
ああ、綺麗だ。しかしこれは
隣の芝生は青い。なんだかんだ省エネ主義を貫こうとしながらも、俺はエネルギーを浪費する他人の生き方にどこか憧れつつ、それを出来なかっただけなのかもしれない。今里志に「薔薇色が羨ましかったのかい」と聞かれたら、今度こそ考えてから、「さあな」などと誤魔化さずにきっとこう答えるだろう。「まあな」。
「さて……。俺に対する怒りは収まったか?」
雨も止んでいるなら今のうちに帰ろう、と思う。傘をさすよりはささない方が省エネだ。……いかん、少しずつ変えようとか考えておきながら早速これか。まあいい。明日からだ、明日から。
「私は最初から怒ってなんていませんよ? 強いて言うなら……疑問の気持ちは大いにありましたけど」
「んじゃその疑問は解決したか?」
「ええ、すっきりしました。……ご迷惑をかけてすみませんでした」
「謝るのは……。いや、俺は謝るなと言われたんだっけか」
フフッといたずらっぽく千反田が笑った。
「折木さんのほうこそ、もう疑問は晴れましたか?」
「お前のわざわざ入須にまで頼むという回りくどいやり方の意味はわかった。だから俺ももうない」
「そうですか。では……帰りませんか? 雨も止んでますし。今なら傘をささずにすみますよ」
そう言って再び先ほどと同じように笑う千反田。……なんだ、なんか俺はこいつに弄ばれてるのか?
「人に脱省エネを勧めておいてそれか?」
「私は勧めてませんよ? ただ、折木さんならいつか答えを出してくれると、そう信じただけです」
「う……」
ぐうの音も出ないとはこのことか。だがまあいい。千反田にも許可してもらった。脱省エネは明日からだ。明日から、少しずつでも始めればいい。
「……帰る」
少しぶっきらぼうに、俺は鞄を手にしてそう言った。案の定、千反田は少し慌てた様子で荷物と鍵を手に、部屋の入り口へ向かう俺を追いかけてくる。
「ちょっと折木さん!? 待ってくださいよ! 一緒に帰りましょう」
無論、置いていくつもりはない。部屋を出たところで俺は足を止め、少し遅れて出てきた千反田が戸締りする様子を何気なく見つめていた。
「そういえば、お前」
そこでふとあることを思い出した。
「なんですか?」
「今回、珍しく『気になります』って1回も言わなかったな、と思ってな。話の中でいくらでも言う機会はあっただろうに。さっきだって『疑問に思った』って言ってたし」
「あ……そのこと……ですか」
「感情が昂ぶってると言わなくなるのか?」
「いえ……そういうわけでも……ないんですが……」
カチャリと部屋の鍵が閉まった音がした。改めて施錠を確認しつつ、だが千反田はどこか歯切れが悪そうだった。
「なんだ? これだけ互いに腹を割ったのに、まだ何か言いにくいことでもあるのか?」
「あの……笑わないで聞いてくださいね」
どこか気まずそうに、千反田が続けた。
「『
……ああ、お嬢様のボキャブラリはなかなかユーモアに富んでいるご様子で。これには苦笑を浮かべずにはいられなかった。
「……折木さん! 笑わないでくださいって言ったじゃないですか!」
おっと、そういう約束だった。俺は何事もなかったかのようにすぐに顔を引き締める。
「いや、笑ってないぞ」
「笑ってました! 嘘はいけません!」
まったく、こいつといると退屈しない。今まではそれは憂うべきことだと思っていたが、ひょっとしたらこれから先、そのことに感謝する時が来るのかもしれない。
そうなったら省エネ人間・折木奉太郎はおしまいだな、などと思うのだった。しかし当分はこのまま省エネでいよう。
大体、脱省エネをするかもしれないと心がけるのは、明日からだ。
◇
ログナンバー 00070
L:この度は、本当にありがとうございました
名前を入れてください:私は特に何もしていない
名前を入れてください:もし望むべき結果を得られたのなら、それはお前が勝ち取った結果だ
L:本当に望んでいた形、とまではいきませんでしたが……
L:私は十分満足しています
L:あの折木さんが「保留」という決断をしてくれただけで、
L:私は嬉しいです
名前を入れてください:……見ている方としては非常に歯がゆいがな
名前を入れてください:お前はお人好しすぎる。もっと強く迫ってもよかっただろうに
L:かもしれません
L:でも、それで拒絶されることの方が、私は怖かったんです
L:それに、私の気持ちを一方的に押し付けるようなこともしたくありませんでした
名前を入れてください:……そうか。なら、私はもう何も言うまい
L:とにかく、ありがとうございました。今度お礼を考えようと思っています
名前を入れてください:いや、不要だ。代わりに……ずっと疑問だったことを教えてくれ
L:? なんでしょう?
名前を入れてください:最初にお前に尋ねて答えてもらえなかったことだ。なぜ、私に頼んだんだ?
L:ああ、そのことでしたか
L:そういうことになります
名前を入れてください:つまりは「願掛け」か……。お前らしいといえばらしいな
L:実を言うと……
L:それだけではないんですけどね
名前を入れてください:と、いうと?
L:折木さんと入須さんの仲があまりよろしくないことは薄々感じていました
L:ですが、私の知るおふたりはとても魅力溢れる、私の大好きな方たちです
L:だから、是非とも仲直りをしてもらいたかった……。そして、折木さんはきっと入須さんのところに話しに行く。そう思ったんです
名前を入れてください:お前、そこまで……
L:はい。折木さんなら、きっと私の下手な嘘を見抜くと信じていました
L:実際、昼休みにお話をしたと窺いました。差し出がましいようですが、仲直りはできましたか?
名前を入れてください:一応な。……いや、完敗したよ
名前を入れてください:あそこまで腹を割って話したのは、最近ではお前以外で彼ぐらいなものだ
名前を入れてください:だからこそ歯がゆい。……はやく正式に付き合ってしまえ
L:それはできません。あの方の心が決まるまで、私は待つつもりです
名前を入れてください:その前に私が奪って行くかもしれないぞ?
L:それは困ります!
名前を入れてください:冗談だ。かわいい妹分を悲しませるようなことが出来るか
名前を入れてください:とにかく……。よかったな、千反田
L:はい。ありがとうございます
名前を入れてください:そして……。こんな私のことまで気にかけてくれてありがとう
L:気になさらないでください。妹分が、姉代わりの方を心配するのは当たり前です
名前を入れてください:全く、お前って奴は本当に、
L:はい
名前を入れてください:いや、何でもない
名前をいれてください:……私はいい知人をたくさん持った、幸せ者だよ
作品タイトルの英語部分の訳は「女帝は本心を隠しきれなかった」。言うまでもなく、奉太郎に仮面を剥がされた入須のことです。
入須自体は元々嫌いではなかったのですが、奉太郎を担いだ張本人ですから、どうしても好きというところまではいけませんでした。事実文化祭の時にえるに教えた内容は見事に「女帝事件」の時に行われていますし。
そのためずっと「悪女」と思っていたのですが、ネット上には熱烈なファンの方がいるものです。様々な解釈があり、真っ向から否定している意見が多々見受けられました。
そこで自分も、「ではもし入須冬実が血も涙もない女帝ではないのだとしたら」という思いから、2話の話を描きました。
それが少々メインになってしまった感は否めませんが、タイトルはあくまで「賽の出目は」。受動的に、行動を天に任せて、つまり運否天賦の賽に任せてしまった2人。
その賽の出目はどうだったのか。最良とまではいかなくても、いい目であるという思いで自分は書いてみました。
自分としてはたまには珍しく王道的に、奉太郎とえるの距離について書いてみたいと思って書いたものになります。
こういう話はほとんど書いたことがなく、今後の参考にしたいと思っていますので、批評等ありましたらお待ちしております。