目的の駅に到着すると、何故だか四人ともに疲れた雰囲気を醸し出しながら、ドアを押し開けてホームに出た。一直線のホームと車両の間は地球において鉄道施設を維持管理する人間なら戦慄すること請け合いの狭さだった。乗車するときにそれに気が付かなかったイングリッドはその事実に気が付いて顔をしかめてしまった。
この地下鉄の動力を推測することに気がそれて、設備面を見る目が曇っていたとしか思えなかった。ほんの数センチの隙間しかない事実は、実に恐ろしい。
車両とホームの幅は狭ければ狭いほどいいなんて言うことはない。車両が揺れることを考えれば工学的に見て車両とホームの隙間はそんなに狭めることができない……とも言えないのだが。
実は、車両側の揺動重心位置を注意深く設計すれば、現代地球の技術でもそんなに難しくはない。いや、乗車率でサスペンションが沈む、とか、部品が摩耗した場合を見越した遊び、とか、車輪外周が摩耗してそもそもの高さが変わったら、とか、そういう部分も考慮すべきだが、それも例えばアクティブサスペンションで調整するとか、駅に到着する直前にダンパーで車体の揺れを止めてしまうとかすれば問題ない。だが現代地球ではここまで隙間を狭くすることはまずしない。
まあ、単純には安全係数とかの面を大きく考えている面がある。アクティブサスペンションが故障したら?ダンパーが動作しなかったら?一つの機械的故障で車両がホームに激突して大事故だ。そういうことである。
しかしイングリッドがこの事実に気が付かなかった点を大いに反省した。なぜなら、もし仮にルイズが線路に転落して、直後に列車が到着したら……。そういう想像である。
第三軌条を探すのにホーム下を覗き込んだ時に気が付いたが、幸いに退避するスペースはあった。問題は、ルイズがホーム下に退避した状態で列車が停車してしまったら?
だから、手動で開けたドアが、乾いた空気音とともに閉じつつある車両の脇に立ってイングリッドは「やんわり」と押してみた。
はたしてイングリッドの想定通りに車両は大いに傾いて、かなりの隙間を見せた。よし。押しても車両外板は変形しなかったし、重くて押せないなんてこともなかった。押した感じ、30トンくらいか……?材質を推定するには微妙に推測しがたい重さだの……。
ひょいと手を放して、すでに階段を上り始めた3人を音も無く駆けて追いかけるイングリッド。
角度にして実に25度程傾けた車両が突然支えを失って放り出された。車両後方で列車前方を注視するために顔を出した車掌は肝がつぶれる光景を目にすることになった。貴族専用車両が、彼の車掌業務一筋20年の人生で、ただの一度もお目にしたことがないほどの勢いで「ぐわんぐわん」と激しく左右に揺れていた。
彼は非常鈴を激しく打ち鳴らして車掌用非常ブレーキレバーを引き、伝声管に異常事態を叫んだ。車掌室からホームに飛び出して非常ベルボタンを押す。
ゼンマイの力で激しく打ち鳴らされるベルの音に驚いた乗客たちが騒然とする。
予想だにしなかった騒音の現出に、イングリッドも含めた4人共に体をびくりと反応させられることになった。全員でコンコース上からベルの鳴る方に振り返る。
「何かあったのかしら?」
キュルケが伸びあがって音の位置を確かめようとする。
「……前に、ホームから人が落ちた時にこんな騒ぎになった気がする」
ルイズが首をすくめて前に向き直る。それを聞き留めてキュルケがわずかに顔を青ざめさせて身体を回した。
「ありうる」
小さく呟いたタバサも若干顔を青ざめさせていた。ほんの「いちにち、ふつか」程度の付き合いだが、イングリッドが見る姿としては大変に珍しく思える、小さな体躯を縮めさせる姿に、彼女は肩をすくめた。
ふむ、実戦経験、それも対人経験が豊富そうなタバサでも独特な状況を呈する「マグロ」はあまり直視したくないものか。まあ、我も経験としては多くはないが、一度に数十人の轢死体を自分たちの……いや、詳しくは言うまい。ただ、それらを直視しなければならない状況に置かれたこともあるし、分からなくはないの……。
二重の意味で無責任で勝手な想像をするイングリッドだった。
駅全体が騒然とする中で上層階にたどり着いた4人は改札でトークンを払い、コンコースに出た。このメトロというシステムは半信用乗車方式なのだ。出札で自身が乗車した区間分の料金を支払う。自身で金額を確認したうえで。それで成り立つのかと聞けば。
「え?払わないやつがいっぱいいるよ?」
キュルケの言にずっこけそうになった。えー、それで成り立つのか?
「まあ、軍警視が毎日適当な時間に、適当な駅で監視して、払わないバカを踏ん捕まえて罰金取ってるよ」
笑いながらキュルケは懐から―――胸の間から懐中時計を取り出して時間を見る。
「罰金は正規料金の10倍」
タバサが頷きながら答える。
「前歴がかさんだ人は、100倍ぐらい取られるそうね」
ルイズがため息をつきながら、嫌そうに言葉を吐いた。
地球のヨーロッパの信用乗車方式とあまり変わらない感はあるが、前払いと後払いの差はそのまま文化的差異なのだろうか?まあ、頭の片隅においておけばいい疑問かと、イングリッドはこの問題を振り切った。
「ああ……いろいろあって遅くなっちゃった……。さすがにパルディールしたほうがいいわね」
パルディール!?
なんじゃそれ?聞いたことのない単語に硬直したイングリッドの視線の先でキュルケは電話ボックスとしか思えない設備に走り去る。
テレフォンヌの聞き間違いか?一瞬色めき立ったイングリッドだったが、さてどういう反応をもって確かめればいいのか?とりあえずキュルケが何をするのかを見届けたほうがいいのか?
いろいろなことが積み重なりすぎて思考が刹那に混乱し、そのまま訪ねる機会を逸してしまった。本当に朝から今までに、あまりにもイベントが押し寄せて、イングリッドは精神的にいっぱいいっぱいになっていたのだ。彼女の在り方からすると、あまりにも珍しい状況だった。
コンコース脇に複数設置されているボックススペースに収まった後ろ姿に半瞬手が伸びて、そして諦めた。自身の反応が散漫になっていることを自覚して、驚きを覚えるイングリッドだった。
ルイズとタバサはキュルケを見送ってボックス脇の壁際に立つ。そこでキュルケを待つようだ。イングリッドも同じように脇に立ち、キュルケをおとなしく待つ。
イングリッドの「若いが故に」大変に高い能力を持つ耳は、受話器を取ると、呼び出し音、ついで、テレグラフィストが応答し、キュルケが7桁の数字を答えると、また呼び出し音が鳴って……。
昔の電話と変わらないものか?
パルディール?パルディールのう……。
ポルト・ヴォワとかではないのか?なんだ?電話じゃないのか?ハルケギニア、というかトリステインではテレフォンヌをパルディールと表現するのか?
激しく混乱するイングリッド。なぜかといえば、電気の存在を諦めていたのに低圧電源を使用する電話の存在があるというなら、やっぱり電気あるじゃねーか!となるからである。
しかし、見た目は電話だが用語が違う。いやいや、フランス語っぽいと思ってスルーしていたが、異世界なのだ。トリステイン語なのだと考えを改めないといけないのか!うえーん。いまさら~?
ルイズに尋ねればよい。理屈では簡単な話だが、どう聞けばいいかがわからない。何度も悩まされた事態だが、ここで尋ねるとしても「あの電話って、何?」という頓珍漢な話になることが予想された。
いや、根本的に何も知らない体で聞けば、あるいは詳しく教えてもらえるかもしれないが……はて?ここでイングリッドは疑問に思う。彼女自身も電話は電話だと知っているし、使い方も知っている。昔の使い方も今の使い方も知っている。現在、メタル回線の電話は通信会社が整備した交換所から電気が供給されていて、それが理由で停電しても通話可能だ。この「低圧電源」が理由による感電傷害事件は世界中で毎年多数発生していたりする。高圧だろうが低圧だろうが電流が多ければ感電するのだ。交換所から出ている電話線は回線数分だけの配線を束ねている場合があるから、一回線当たりの電流が小さくても、うっかり手刀でも突き立てようものなら「あばばばば」となるのだ。イングリッドにとっても「そこそこ痛い」。オフィスで何回線も使っている場合は交換機が用意されて、契約回線分を分配しているが、オフィスが停電するとオフィス内に置かれた交換機が停止し、「停電電話機」以外の電話機が使用不可能になる。もちろん通信会社が持つ交換所が停電して、非常用自家発電機も動かないようなら、緊急用バッテリーが切れた時点で電話は使用不可能になる……までは知っている。滅茶苦茶知ってるじゃんイングリッド。
だが、普通の人は?
「あれは電話です」
おそらくはそれで終わりであろう。詳しく聞いても使い方までがせいぜいで、メタル線仕様か、電気は使っているか?イングリッドが知りたいことはそこなのだが……。
聞くだけ無駄だかと嘆息した。それならば、この待ち時間を無為にしないために別の疑問を解消すべきだと気持ちを新たにした。
「のう、ルイズよ」
手持無沙汰に指先をいじいじさせていたルイズはイングリッドに顔を向ける。
「なあに?イングリッド」
いつの間にかしらやたらと笑顔がまぶしく感じるその表情に、若干気圧されながら、しかし、地下鉄に乗っている間、ずっと疑問だった問題を言葉にした。
「うむ。貴族専用車に乗って居ったが……随分永い時間だったようじゃが、我ら以外に客はいなかったであろ?それで3両は甚だ無駄のような気がするのじゃが……」
その問いに、ルイズは意表を突かれたような表情になった。刹那、その顔に疑問を浮かべ、何かに気が付いたように頷くと小さく笑った。
「平日の午後よ。イングリッド。メトロが混みあうのは朝と夕。祝祭日なんかは一日中混んでる路線もあるけど……まあ2000人はないけどね」
その言葉を聞いて理解が染み込み、意味を咀嚼して……顔がかあっと熱くなるのがイングリッドにはわかった。それはそうだ。例えば日本の最混雑路線でも一日中押し合いへし合いしているなんてことはない。ましてや日本ではないのだ。地球でも日本や東南アジアの通勤時間帯でもなければあんなにすし詰めの電車なんてありえないだろうに。うむ。やはり普通に訳が分からんぞ?何を考えてるのだ日本人。
誤魔化すように疑問を重ねるイングリッド。
「あー、貴族専用車は30人くらいしか座れないようだが、乗るのはその程度なのか……ゃ……」
ルイズやタバサの微妙な表情に、イングリッドは語尾がかすれてしまう。
「一車両に一貴族しか乗らないよ、イングリッド。普通は貴族は大勢の使用人を連れて歩くの。本当なら貴族がトランに乗ることなんてなかったけど、トリスタニアが何しろ人が多くなりすぎて道路は混むし、竜籠も使いづらいし、でね……」
タバサが頷く横にキュルケが立った。
「どうしようもないからこそ考えられたのがメトロだからねぇ。よく工夫されてると思うよ」
「時間かかったじゃないキュルケ。何か問題でも?」
反射的な疑問をルイズにぶつけられて、苦笑いを浮かべたキュルケは首をすくめた。
「ちょっと面倒な問い合わせの仕方をしたから。待たせてごめんね」
「面倒?」
キュルケはパレス・デ・レ・アルで経験したアレ・コレ・ソレを大いに反省したのだった。つまり、夕刻の混雑時間帯に差し掛かりつつある目的地、パリー・デ・ミ・カン水上レストランに「伝話」するにあたり、まずは貴族であることを隠して問い合わせたのだ。
失敗だった。
平日夕刻なら、満席になることなんてなかった。予約なしで押しかけても何ら問題はないと言われた。ならばと、貴族なので個室かそれに類するスペースを予約したいと改めて伝えた時点で、怪しげな相手だと思われてしまった。相手からすると、貴族である事を隠して問い合わせする輩なんぞ、胡散臭いことこの上ない。
まあそうだろう。
イングリッドが経験した短い間であっても普通の貴族は、相手の都合などお構いなしに押しかけて当然という雰囲気であった。「たかが貴族」程度の態度としては、地球でもあまり見たことがないレベルの傍若無人っぷりを見た。……自分たちのことである。
だからパリー・デ・ミ・カンとのやり取りがひたすらに面倒になってしまった。最後は相手が首をひねっている音が聞こえそうなほどの疑問符が漏れる状態で何とか納得してもらうありさまだったのだ。
地上に向かう通路を歩きながら、イングリッドは右手で顎をしごきながらルイズの背中に問いかける。
「ずいぶん遅い時間だが、宿の方は大丈夫なのかや?」
トリスタニアにたどり着いてから、一度も宿に問い合わせていないような気がしたし、振り返ってみても、魔法学院から問い合わせた風でもなかった。「現代人」的な感覚からすれば携帯メールなども無いのであれば、せめて「伝話」をするべきだと思ったのだが。
はたして屈託のない笑顔を見せながら、右足を軸に軽快に身体ごと振り向いたルイズは危なげなく後ろ歩きをしながら右手人差し指を顔の前で振った。
「トリスタニアの定宿は、一年契約で何時でも飛び込めるように抑えてるよ。使用人含めて50人までなら泊まれるから」
くるりとマントを翻しながら前を向いて楽しそうに言葉をつなげる。
「さすがに食事は出ないけど。でも、イングリッドとトリスタニアの夜景を見るのは楽しそうね!」
キュルケがにやりと笑ってルイズに指摘する。
「はしたない事しなーいの。ルイズ。マントを翻すような事をしないでっ!ってね」
不意を突かれたタバサが小さくせき込む。ルイズも一瞬きょとんとして、即座に肘をキュルケの腹に当てた。キュルケは「にしし」とばかりに笑い、スキップでも踏むように軽やかな足音を立てた。イングリッドはそれを見て柔らかに微笑んだ。壁際で貴族様が通り過ぎるのを待つ整った服装の初老とおぼしき夫婦は、その姿を微笑ましそうに見送った。
一年中、いつ誰が泊まるかわからない状況でホテルの、それも上層階と推定される、しかも50人は受け入れられる部屋を抑えているとかいう、エイリアンの言葉かプレデターの言葉かとしか思えない謎言語は聞こえなかったことにする。何しろイングリッドは普通の人には想像もつかないほどの年月を過ごした年寄なのだ。耳が衰えていても仕方がないのだ。うん。
街路に出るとすでに日は落ちていた。街灯が淡い光を地面に落とす。道路の混雑は最高峰に達して、しかし妙に静かなのがイングリッドには気持ち悪い。タイヤが地面をける音。馬の蹄が大地を踏みしめる音。風力タービンのようなくぐもった唸り音。
……まて?風力タービン?
よくよく選別して音を分析すると町中のいたるところから……具体的には道路から、さらに絞れば自動車からその音は響いていた。
今の今までそれに気が付かなかった理由にはすぐに気が付く。トリスタニア、というか、ハルケギニアの環境ノイズ音があまりにもイングリッドの過去の経験と外れていたために、今の今まで音を聞き分けることができていなかったのだ。実のところ只人と比べるならばありえないほどの音を大量に聞き取ってしまう彼女の耳は、それこそが日常のイングリッドにとっては今更どうということはないが、万が一にでも主人たる身にすべてが伝わってしまったらその瞬間に発狂してしまいかねないほどの情報量であった。
その中から会話や些細な物音を選別するのは慣れというか経験なのだが、さすがにあまりにも異質な音が満ち満ちたトリスタニアでは音の選別ができるようになるまでに随分と時間がかかってしまったということである。
これで自動車に推進力を与えているモーターの正体を判別できようか……。
そこでふと考えなおしたイングリッド。ここはひとつ……。
かしましく会話を交わすキュルケとルイズ。その後ろに隠れるように追従するタバサ。それで気が付いた。キュルケは背が高く、プロポーションも抜群だ。パリコレあたりでイングリッドの美意識には(非常に複雑怪奇な理由で)響かない「異装」を着ても似合ってしまうのではないかというほどの体躯を持つ。そして、驚くほどに足が長い。つまり、彼女が普通に歩けば、タバサどころかルイズですら追随するのが難しくなるはずである。
だがタバサは「普通に」歩いている。ルイズもイングリッドも並足でついていける。
……イングリッドの並足ってなんだってのは考えないほうがよろしい。死合う場のイングリッドときたらぬるぬるっとした足運びで滑るように地面を這い、一歩で5メートルぐらいを踏み切ってしまう訳の分からない動きをするので、そもそも彼女の歩足ってなんだ?ということである。なんだろう?わりとストリート・ファイターたちは意味不明な歩き方を常態としているものが多い。
そんな異常者の話は横に置いておいて、キュルケは隣にある者を、後ろにある者を十分に意識した歩みで共にあったのだ。イングリッドすらここに来るまで気づかせることのなかった随分な配慮である。銀髪に包まれた横を撫でつけながら微かに笑うと、タバサに視線を移した。
暖かい日差しを浴びたと勘違いした彼女は、青い髪を吹き散らしてイングリッドを見た。
不機嫌が乗った言葉が漏れる。
「なに?」
しかし、その目線は揺らいでいた。頬も少し赤く見えるのは暗闇の中で幻視した幻か。
「のうタバサ。あれな自動車が馬なしで動く理屈は我にはようわからんのだが、主は知っておるかや?」
イングリッドはついに開き直って聞いてしまった。話の流れの途中でそちらに流れていく場合はともかく、イングリッドが端から技術的なことを尋ねるなんてことはココ500年は無いことだった。必ず自分で調べて、文書を紐解き、時には拳で解体して理解しようと努めてきた。そういったことをすることなく、いきなりすべての努力を投げ出して「聞く」。レアケース過ぎて、それがレアケースなのかどうかすら判別できないほどのレアである。思考が生焼けになる感じであった。
タバサはやけに晴れやかな笑顔を光らせるイングリッドに、目をぱちくりさせながら小首を傾げ、前に向き直り、一つ頷いた。
「ん。あれは風石テュルビン・モーターを動力にしてる」
微かな音を聞き分けながら、そこに混じる金属同士のぶつかる音を分析する。
「ふむ。その力を取り出して、歯車の組み合わせで速度や状況に応じてモーターの回転数も変化させるのじゃな」
腕を組みながらふむふむ言うイングリッドに、結構な勢いの長い杖が襲い掛かった。彼女は無意識に左手で軽く受け止めた。勢いがそがれたタバサは僅かに驚嘆を表情に浮かべるが、すぐに怒りをにじませながらイングリッドに問いただす。
「知っているならなぜ聞いた」
はっとしたイングリッドは慌てて両手を胸の前で振る。
「いや、すまぬすまぬ他意はない。他意はないのじゃ!確証を得たのはタバサの言葉のおかげよ」
最初から聞いておけばよかったか?それはそれで訳が分からなかっただろうな、とイングリッドは思う。
完全に判別がつくようになったモーター音は遠心軸流タービンに近い音だった。それはわからないわけである。過給機等で構造的に近しいものは「現代」でも存在するが、これほど大きなものは博物館にでも行かなければ見れないであろうし、イングリッドが知る範囲内では現役実用されている稼働機なんて知らない。探せばあるかもしれないが、彼女は知らない。ただ、理解すれば過去と比較するのも難しくないわけで、排気流路角が極めて鋭角で、排気から回転力をさらに搾り取るタイプの音であるとまで一気に推測できた。なるほどなるほど。
100人近い乗客と荷物を載せたマズルカを危なげなく空中で支えてしまえる風石ならば自動車の一台や列車の一編成など訳なく動かしてしまえるのだろう。なんてことはない。シエル・ウワゾ・ドラグーンの話を聞いた時点で答えが出ていたのだ。
動力源は何でもかんでも風石。資源量は無尽蔵なのか?科学技術の発展による産業革命がどこで起きたかはわからないが、これでは大気汚染が最低限で済むわけである。まあ、そこまでわかってしまえばひとまずよろしい。人を巻き込まないのであれば、との注釈はつくが可燃性の炭化水素を燃料としていないのであれば、今までに予想していた最悪の状況よりは、自身の選択肢がかなり多く取れることになりそうだ。
2%ぐらい。
いや、仕方がない。仕方がないのだ。まだ風石とかその辺が、イングリッドの必殺技を食らって暴走する可能性とかあるのだ。結局あまり変わっていないような気がするイングリッドだった。
不機嫌そうに前を見つめるタバサの頭をイングリッドは優しくなでた。
「うむ。感謝じゃ。ありがとうのタバサよ」
タバサの視界の外からやってきた不意打ちに瞬間、びくりと身体をはねさせたタバサはしかし、撫でられるがままに目を細めた。
「イングリッド」
「なんじゃ?」
イングリッドは全く気が付かなかった。タバサは初めてイングリッドのことを「イングリッド」と声を出して呼んだ。まったく自然に放たれた言葉にイングリッドは違和感すら感じなかった。長年そう呼び合っているのだというがごとく。
「……イングリッドが知ってるメトロでは、2000人運ぶような路線が何路線もあるの?」
ぴしりと額が震えるイングリッド。えー、そんなことに興味あるんだ……。社会学者かな?お前が言うな。
「お……おう。え~と、だな。ううむ。メトロだけではないんだが、確か30から40路線ぐらい、混雑は2時間ぐらい続いたはずだが……多すぎてようわからんわ」
イングリッドが語ったのは東京一都のみならず、所謂首都圏と称される極めて広い範囲のことであったが、そんなこと知る由もないタバサの顔はみるみる青くなっていった。さすがにその見事な光沢を湛える頭髪より青くなるようなことはなかったが。
タバサの単純な興味だった。イングリッドを知りたいと、イングリッドの住んでいるところを知りたいと、直近の話題を拾っただけだった。それが手軽だと思ったのだ。手軽ではなかった。何しろタバサは頭が良いのである。自然と計算してしまった。計算すべきではなかった。600万人とか。なにそれ怖い。イングリッドの住んでいる場所怖い。
残念!だいぶ控えめな数値ですタバサ。
後ろでおかしな気配が発生してルイズもキュルケも振り返ると、頭から湯気を出して目を回すタバサを、イングリッドが所謂お姫様抱っこして運んでいた。その状態でも杖を手放そうとしないタバサの強情さは大したものだった。
たまたま見かけた公園に押し入って、ベンチを占領し、イングリッドの膝を枕にタバサを寝かす。隣に座ったルイズは自分の膝あたりまで侵食する乱れた青髪を見ながら「羨ましいな……」と呟いてしまった。もちろんのこと一語一句漏らすことなくイングリッドの耳に届いた。
イングリッドとルイズは刹那の交錯を経て、真正面から向かい合うことになった。ルイズの顔がみるみる赤く染まっていく。
ストッパーになりそうなキュルケはパリー・デ・ミ・カンに到着が遅れることを伝えるために公衆伝話を探しに行く羽目になった。自身の失敗を顧みて、反省し、行動をなしたら、ちょっとのトラブルが自身を走らせることになるとか。
キュルケは豊かな赤髪を振り散らしながら小走りで目的のものを探す努力を続けていた。駅に戻ったほうが早いのかも……。イングリッドがキュルケを知ってからの時間のみ斜に構えて見ると、自分にかかわらない苦労を自分から抱え込む人となる、本人が聞いたら大いに憤慨することこの上なしという評価ができていた。評価である。イングリッドはキュルケをとても友達思いのいい奴と考えるに至っていた。キュルケが聞いたら恥ずかしさのあまり爆発するだろう。
イングリッドはひたすらルイズを見つめるだけだった。その視線を真正面から受け止めて、ただ逸らすことはなかった。瞬きすらしなかった。ただルイズを見つめていた。
ルイズはもう何が何だかわからなかった。自分の感情が千地に乱れ、まったく制御が利かなくなていた。突然沸き上がった感情を理解できなかった。
否。
突然の感情ではなかった。イングリッドと唇を重ねたあの瞬間から心の奥底にくすぶっていた感情だった。それを理解した。だからこちらの瞳を貫くイングリッドの強い視線に導かれるままゆっくりと唇を……。
イングリッドの膝の上できつくきつく目を瞑ったタバサが唇を震わせながら、身体も震わせながら顔を真っ赤にして湯気を立てていた。湯気というのは比喩でしかなかったが、いや、実際に湯気が立っているようにしか思えないほどの姿だった。
ルイズとイングリッドは完全に身を引いて、ガタガタと揺れる小さな体を眺めていた。
数秒の後にゆっくりと開かれてゆく目が、次の瞬間にかっと見開いてイングリッド、ついでルイズの順に視線を流した。震えを抑えた身体をわずかに身じろぎして、唇が開かれる。
「おかまいなく」
ルイズは脱力して身体を正面に向けた。少し残念……。言葉にはならなかった。
イングリッドは微妙な微笑みを湛えたまま右手をタバサの腹のあたりに置き、ついでうつむき加減のルイズの頭に左手を置いた。ただ置いただけだった。それでも二人は十分に満足を得ることができた。
イングリッドはこの数十秒の時間に何が起きていたかさっぱりわからなかった。何が起きているかわからなかったから、状況を見極めるために、ただただルイズを観察していた。
やっぱりわからなかった。
街灯の明かりも遠い、夜の闇が降り注ぐベンチの上で3人はお行儀よく座ってキュルケを待っていた。暗いが明るい。そんな表現が似合う風景が視線の先にあった。
道路を流れる自動車はヘッドライトの洪水を引き起こしていた。それを遮るように黒い影が時たまに駆けていく。いななきがかすかに聞こえる。光の線と3人の間に柔らかな闇が横たわる。微かな風に揺られて自然のざわめきが辺りを撫で過ぎる。
公園の周辺は街の明かりが氾濫して、喧騒が溢れるが公園の領域を犯すことはなかった。3人は、ただぼんやりと前を眺めていた。
実際にはイングリッドは周囲に対する警戒を怠っていなかったし、防御シールドで広めに3人を覆っていた。だって、虫がわんさか飛んでるんだもん。イングリッドがいなかったら、このいっぱしの絵になる光景なんて単なる喜劇である。まとわりつく虫を払いながら悲鳴を上げて走り回る羽目になるだろう。世界はかくも無常なのだ。
誰にも理解されることのない熱い戦いが繰り広げられている中で、ルイズはぽつりとつぶやいた。
「イングリッド……」
ルイズは無表情のイングリッドの横顔を見つめる。
「私ね。イングリッドの事で、黙ってたことがあるの」
小さく左目を反応させたイングリッドはルイズの方にゆっくりと顔を向ける。遠くの街の明かりがイングリッドに深い陰影を刻む。太陽のアンクルだけがやたらと明るく光を反射する。
タバサが自分がここにいるのは場違いとばかりに身を竦ませる。
クスリと笑ったルイズは身体をよじってベンチの背もたれの上に伸びあがり、右手でタバサの頭を撫でた。ここ数日の間にやたらと頭を撫でられる機会が増えたタバサ自身はその境遇にわずかな不満があったが、それに倍する満足があることに困惑していた。なんとなくルイズに頷く。ルイズもそれを受けて小さくうなずき、するりと元の場所に戻った。
その動きを追っていたイングリッドの視線はルイズの顔に戻ってきていた。実際にはよくわからない。闇に沈んだイングリッドの顔は、当然のことながら視線がどこにあるかなんてわからない。それでもルイズは視線がこちらを向いていると確信していた。
「イングリッドって……強いよね」
闇の包まれたイングリッドの顔の中で何かが動く気配がした。ルイズは構わず続ける。
「ううん。わかってた。本当はわかってたの」
静寂の中でルイズの声だけが公園の中に流れていく。
「いろんなとこでイングリッドが強い。そう感じる場面はあったわ」
静寂。
「でも信じたくなかったの」
ルイズは言葉を吐きながら首を振った。
「違うわね。認めたくなかった」
前を向きうつむく。前髪がさらさらと滑り落ちてルイズの顔を覆う。
「認めたくなかったのよ……」
ルイズはイングリッドの方を向くのが怖かった。イングリッドの反応が怖かった。
「だって……」
こぶしを握り、震えるそれでゆっくりと膝を叩いた。堰を切ったようなルイズの慟哭が漏れた。
「だって、私より強いの!私よりずっと強いのよ。私よりずっと大人だわ!大人なの!なんで私と一緒にいるの!こんなに美しくて完璧な存在よ!おかしいじゃない!虚無のルイズ!?襲われた時、私は何もできなかったわ!キュルケもタバサもちゃんと気が付いてた!私はどう?ただぼんやりしていただけなの!スリ?イングリッドが言うまでわからなかったわ!私たちが迷惑!?そうよ!貴族なの私たち!下々の事なんて知らなかったわ!考えたこともなかった!迷惑よね!大迷惑!ふんぞり返って道に広がって、どけどけ貴族様がお通りだって!傲慢よね。傲慢だわ!モット伯が許せない?平民にとってはどっちも変わらないわ!バカ面掲げて平民を押しのけて!知らなかったわ。私たちバカだったのね!いいえ、知ろうとしなかった。見えていたのに判ろうとしなかったの!なにそれ?馬鹿じゃなきゃなんて言うの!阿呆?間抜け!ねえイングリッド!美しくて聡明なイングリッドは私を何と言って罵るのかしら!イングリッドが私と一緒にいるのはなぜ?哀れみ?同情?優しい顔の奥でイングリッドはどんな本心を隠しているのかしら!こんなにも整った顔で、こんなにも美しい銀糸を抱いて、こんなにも可憐な体躯を見せて!イングリッドは……イングリッドは……」
2回の襲撃。そこで何もできなかった自身の不甲斐なさ。甲斐甲斐しくお世話される自分。モットとは違うとうそぶきながら外から見れば何も変わることのない「貴族らしい貴族」。ルイズは心が折れてしまった。イングリッド以外は対して活躍できていなかったかとも思う。でもキュルケは戦い以外で大活躍だった。朝起きてから何くれと動き回って場を整えてくれた。タバサは召喚してから間が無いシルフィード見事に操って自分をハルケギニアに連れてきてくれた。襲撃の時もイングリッドとともに見事に私たちを守ってくれた。
……イングリッドについては何も言うことはない。完璧だった。ルイズから見て完璧だったのだ。
ルイズは大いに希望を取り戻したはずだった。そのはずだった。
河川横の襲撃で気が付いてしまった。取り戻した希望とはイングリッドがすべてだったのだと。自身には何もない。イングリッドがすべてなのだと!
私は、イングリッドのおまけなんだと!
必死だった。必死に取り繕った。必死で誤魔化した。常にはない態度で4人でかしましく騒いでこの感情を振り切ろうとした。最後にはイングリッドの唇を奪おうとして、失敗した。
唇を重ねて何か起きたか?きっと、依存するだけになっただろう。私が護る?大きな口を叩いたものね。護られるばかりじゃない……!
いきなり強い力で引き寄せられて、強く強く抱きしめられた。
あの暖かい春の日差しが自身の体を包み込んだと思った。イングリッドの左腕で身動きできなくなるほどに強く抱きしめられて、右腕で頭をぐしゃぐしゃに撫でまわされた。反射的に身を引きはがそうとしたが、自分で散々に口にした通りイングリッドは強い。だから引きはがせるはずもなかった。本当に強かったのだ。
それでももがくルイズの額に水滴がしたたり落ちる。刹那の疑問をもって目線を上に向けると……。
泣いていた。
イングリッドが泣いていたのだ。
多分、おそらく、真実人生最大の驚愕をもって硬直したルイズは、いつの間にか緩んでいた腕から抜け出してイングリッドと正対した。
「嫌じゃあ~ルイズうぅ。我を見捨てないでおくれ~。我は、我はルイズと共にありたいのじゃあぁ~」
信じられないほどの涙を両目から流下させ、鼻水を垂れ流し、涎をまき散らしながらイングリッドはルイズに飛びついた。
「ちょ、まって、イング……」
身構える間もなく地面に投げ出されたルイズの胸にこすりつけるように、いやいやするように顔をうずめるイングリッド。
「何が悪かったのじゃぁ。なおす。頑張ってなおすからぁ、教えてぇぇ。なおすから~、頑張るから~!」
え?ナニコレ?何なの?えぇぇっ!うそっ!?私が悪いの?私のせいなの?
混乱して地面から周囲を見渡すルイズはタバサと目が合った。
ひどく狼狽したタバサはルイズと視線が合ったことに気が付くと身体を前に傾げながら、両手で何かを抱きしめるようなジェスチャーを繰り返す。そうか!抱きしめればいいのか!
ルイズは子供のように……を通り越して赤ん坊のように泣きわめくイングリッドを抱きしめた。強く抱きしめた。人生で最大の力をひねり出して抱きしめた。
「イングリッド!大丈夫。大丈夫よ!私はここにいる。ここにいるから!見捨てないから!大丈夫だから!ねえ、大丈夫だからさぁ!お願い!イングリッド!いつものイングリッドに戻ってぇ!」
自身の葛藤なんて太陽系の外にぶっ飛んだルイズは、見たことも聞いたこともないイングリッドの泣き声と態度にひたすら大混乱して、ただただ抱きしめた。強く強く抱きしめた。
二人が落ち着くまでにどれほどの時間がかかったか。
「あたし、いつまで隠れていればいいのかしら……?」
まとわりつく羽虫と格闘しながらため息をつくキュルケだった。