ぬいぬい酔っぱらい。
酒を飲んでいた。理由はない。いや、理由を求めたこと自体がないのだ。だからか、酒の味もわからなかった。甘口と辛口。精々がその程度だ。
腕時計は持っていない。この居酒屋は、客に見えるところには時計を置いていなかった。秘書艦は鳳翔である。彼女がいるから、翌日の朝に出撃のある艦娘は深酒をすることはない。規模で言えば中もない程度の鎮守府だ。鳳翔はすべての艦娘の公的スケジュールを把握している。
「おつまみ、なにがいいですか?不知火ちゃん」
舌打ちをしなかったのは鳳翔だからだ。ちゃん付けを黙認してる相手が鎮守府には数人いて、鳳翔はその一人だった。外見上の年齢や雰囲気を不知火は信用していない。鳳翔のちゃん付けに文句がないのは、鳳翔だからとしか言えない。彼女の雰囲気が、不知火の口を噤ませるのだった。恐怖や抑圧ではなく、鳳翔ならいいか、と思わせるなにかが彼女にはある。
「なんでも構いません」
「でも、辛いのはいやでしょう?陽炎ちゃんは、もう少しかかるはずだわ。酔っぱらってしまいます」
「先に眠ってもいいと、不知火はそう言われています」
「そんな気、ないでしょうに」
答えるかわりにお猪口を傾けた。大吟醸というらしい。それが分類なのか銘柄なのかさえ不知火にはわからなかった。酒は、酔えばいい。
「遠征でしたっけ?」
「出撃です。勿論、ご存知でしょうが」
「買い被りだわ」
「司令が言っていましたよ、申し訳ないと。提督業への給料は歩合制ですから」
「私が、いえ、私たちがなぜ力を尽くすのかを考えて頂けたらいいのだけど」
「モチベーターであればいい。そんな考えができる人なら、ここまで慕われはしなかったでしょう」
陽炎も慕いはしなかった、とは言わなかった。そこに自分の名前が入るかもしれないと思うようになったのは、最近の話だ。しかし、わからない。
「鳳翔さんは、司令のことがお好きなんですか?」
「あら、辛いおつまみなんてダメだわこれは」
「不知火が酔っていると思っていますね」
「そういうことにした方がいいのでは?」
「確かに。鳳翔さん、不知火は酔っています。なので、突拍子もない質問をするかもしれません」
鳳翔が口元だけで笑った。楚楚とした所作が、ほんとうに似合う女性だ。
「キャベツ煮があります。味醂が多めで、甘いかもしれません」
「頂きましょう」
初めて、酔っているのかもしれない、と思った。鳳翔が執拗だ。そして、自分の思考はどこか靄がかかったようになっている。鳳翔のことを考え始めたのがその証拠だ。自分の心に潜るのは億劫さがある。鳳翔ならば、古ぼけた自室の鏡よりは上手く不知火の心を掘り進めるだろう。キャベツ煮よりは、もっとガッツリ豚肉でも食べたい気分だった。しかし、鳳翔は自分を見てキャベツ煮と言ったのだ。
鳳翔が戻ってきた。器の上には、ひき肉とキャベツと卵。肉は鶏のようだ。煮汁に脂を滲ませながら、コロコロと肉が跳ねている。大きめのキャベツに肉と卵をくるんだ。旨味のこもった煮汁が一滴垂れて、できるだけ落とさないようにしながら口に運ぶ。甘さが、まず鼻から広がった。それから口内。噛むと鶏ひき肉が際限なく旨味汁を出してくる。そこに、キャベツの甘さ。卵は、甘さも旨味も邪魔せずにふんわりとやわらかい食感を伝えてくる。
「どうかしら?」
鳳翔が尋ねた。彼女は客によって話し方を変えてくる。不知火には、よく質問を投げ掛けてきた。
「美味しい、と思います」
「不知火ちゃんにそう言って貰えれば百人力だわ」
「舌に関して責任は持ちませんよ」
「それでも、よ」
一度、横開きの戸が詰まる音。それからすぐ開く音。振り返る必要もなかった。陽炎。扉の癖は知っているはずだが、彼女はいつもこういう開け方をする。
「あっれー、不知火起きてたんだ」
「遅いですよ、陽炎」
「ごみんごみん。ちょっと手こずっちゃってさ」
「怪我は?」
「ない。飛龍さんがちょっと当たったぐらい」
「羅針盤ですか」
「そ。惑わしてくれるよねー」
「まあ、予定通りなほうですよ。提督はあと四回まではみてましたから」
「あ、鳳翔さん。不知火と同じやつくださいな。お酒もつまみも」
「陽炎、不知火に合わせなくとも」
「いやー、それが司令も不知火と好みが近くてさ。あんたの好みを知るのが近道かもなーって」
鳳翔を見た。背を向けたまま、動こうとしない。陽炎が顔を寄せてきた。
「ね、どれがいい感じ?フィーリングでさ」
陽炎の顔。鳳翔の背中。不知火は束の間悩んだ。答えは、白南風のように不意にやってきた。
「鶏のそぼろ、ですね。キャベツはどうですか?」
陽炎が頷くと同時に、鳳翔がフライパンを上下に振り始めた。淀みはなく、一度振る度に鶏は違う色を見せる。
鳳翔の手捌きを、不知火はなんとなく凝視した。豚肉が食べたい。陽炎にも言わなかったのは、やはりフィーリングというやつだろう。