入渠用ドッグは入出航ゲートのすぐ側に位置していて、帰還後の艦隊がすぐに入渠できるように常に準備されている。大破艦であれば緊急の対応としてすぐさま処置が施されるが、軽傷および小破での入渠であれば早い者からの順番待ちとなり、通路上及び控室で自分の順番を待たねばならない。
霞がドックに向かった時、廊下で順番待ちをしていたのは彼女の思いもよらない人物であった。霞はその姿を遠目に見た途端にキュっと足を鳴らして立ち止まり、訝しげに眉をひそめた。引き返そうか本気で悩んでいる時に、少女の方からベンチから腰を上げ、こちらに向かって手を振った。
「霞ちゃ~ん、奇遇だね」
霞は心の中で舌打ちする。彼女はこの鎮守府の中で、霞が最も苦手とする艦娘ぶっちぎり1位の相手であった。
「いや~、大井っちが迷惑かけたねぇ」
へらへらとなれなれしく近寄ってくる嚮導艦に、霞は無表情で答えた。
「とんでもないです。何があろうと、旗艦である私の責任です」
雷巡洋艦の「北上」。高錬度を誇るくせに、固定の隊に属さない変わり者。人をくったような喋りが特徴の曲者で、何を考えているかわからない、つかみどころのない性格が霞の苦手意識を助長させていた。
この女、人当りこそ柔らかくフレンドリーだが、決して目が笑わない。獲物を狙う爬虫類のそれにも似た、探る様な瞳で不愉快な笑みをより歪なものへと変貌させていた。
軽巡洋艦の「蛇」。彼女をそう例えたのは、かつて同じ隊で砲をふるった駆逐艦「不知火」である。いかにも口の悪い彼女が言いそうなことだ。以来、北上は駆逐艦達から「雷蛇」と呼ばれて恐れられていた。
本人も過度の駆逐艦嫌いとして有名で、演習で部隊の駆逐艦を轟沈させたとか、此度の嚮導への抜擢は母港圧迫の解消の為に解体する駆逐艦を選定する為だとか、まことしやかに囁かれている。
霞だってその全てを信じている訳ではないが、つかみ所がなくいけすかない女だとかねてより苦手としていた。
「今日はどうしてドックに?負傷ですか」
霞は表情を動かさずに問いかける。ある種の拒絶のアピールでもあったが、北上はそれに気づかないのか特別気にする様子もなくおどけて見せた。
「いんや、大井っちが怪我したっていうからさ、まぁ様子見に来ないと後でうるさいしね」
そう言って奥に寝かされている大井を指さした。彼女は現在医療妖精と作業艦に囲まれて、救急処置を施されている。彼女は敵深海棲艦の機銃を全身に浴び、雷撃の炸裂を近距離でうけている。幸運な信管過敏さえなければ、あの魚雷は彼女に直撃していたはずだ。
霞は遠目に処置を受ける大井の青白い顔を見た。損傷の割には状態は安定しているように見える。負傷後も衣笠の肩を借りて自足で航行してきたし、提督に損傷の報告をしていた点を見て、ドックに彼女ひとり残しておいても大丈夫と霞は判断したのだ。
しかし、提督の決断はNOである。自分の判断が間違っていれば、それを誰かに指摘してもらいたいものなのだが…。
霞は自分と同じく大井を見つめる北上の様子を、横目で観察した。相変わらず真意の読めないすまし顔であり、口元には困ったように笑みを浮かべているようにすら見える。
北上と大井は鎮守府内でも特別仲の良い二人であった。同型姉妹艦の雷巡同士でもあり、中には恋仲なんじゃないかなどと噂する者までいる。もちろん本人たちが表明したわけでもなく真実は闇の中だが、何かにつけて恋愛事に結び付けて盛り上がりたがる輩もいるのだ。
北上はこちらの内心など知る由もなく、負傷した霞を見てうっすらと笑みを浮かべた。
「霞ちゃんは小破?なら、アタシが
「え…」
霞はその言葉に内心戸惑っていた。外装を除き、
「よろしくお願いします…」
しかし相手は格上の雷巡。しかも駆逐艦の嚮導艦ときた。断れるはずもない。霞は北上に手を引かれるような形で、ドックの中に足を踏み入れた。手近な椅子に腰かけて、北上が医療品を棚から選別するのをぼうと眺めていた。
「手、だして」
促されるように手の甲を差し出す。肉色に変色した傷口にガーゼを押し当てながら、北上が口を開いた。
「しかし、霞ちゃんも大変だねぇ。駆逐艦でトップエースなんか張らされてさぁ、そいで作戦が変われば、問答無用で「待機しろ」だもんねぇ」
「見ていたんですか?」
薬品のラベルを確認している北上は、驚きの混じった霞の言葉に首を横に振った。
「いんや、ただ皆が出撃してから日向さんらがなんかが騒がしかったからねぇ。霞ちゃんは何か聞いてない?」
「…いえ、何も」
今度は霞が首を横に振る番だ。霞は何も知らされていない。嫌になるくらい、何も。
北上は霞の心中を察したように言葉を選びながら話し出した。
「たしかに駆逐艦は割喰ってるよね。なんか漣っぺからもそんな事言われたよ」
「……」
「話してごらん、まぁこう見えてアタシは駆逐艦の嚮導艦だからね」
右手がすっかり包帯に包まれる。包帯が緩まないよう端っこをピンで止める際にちくりと痛みが走ったが、考え事をしていた霞はその痛みに反応する事すらなかった。それどころか、包帯の上から北上に手を撫でられると、その柔らかな温かさに、つい溜まっていた本音がポロリと口の端からこぼれ出してしまった。
「私は、納得できないだけです」
一度口に出すと、喉の奥まで渦巻いていた不満が濁流の如く押し寄せてくる。傷口に添えられた温かさが、それをより後押しした。
「駆逐艦ってだけで一括りにされて、なんでもかんでも「知らなくていい」の一言で済まされて!「殺す理由」も「死ぬ理由」も知らされず、最前線で仲間が
静かに、だが力強く、霞は言葉を吐き出した。はっと北上の存在に気づき、前髪を弄りながら視線を逸らした。
「すみません。嚮導艦に、こんな事…」
「いや、わかるよ」
北上ゆっくりと首を振って、霞の手を取った。包帯の上から感じる彼女の温かさに、心の奥にたまっていた何もかもをほだされそうになる。
「わかるよ」
もう一度、はっきりと霞に伝わるように繰り返した。
「霞ちゃんの言いたいこと、アタシから提督に伝えてもいい。でもね、もし霞ちゃんがまだ伝えきれないホントの気持ちがあるんなら…」
北上は思わせぶりにそう話し、いたずらっ子のように口の端を吊りあげた。唇の上に指を一本立てて、上目遣いのまま霞に顔を近づける。そして、そっと囁くようにつぶやいた。
「ねえ、【もぐりこみ】って知ってる?」
北上は寝かされている大井の横に腰かけながら、霞が飛び出していったドックの出口を見つめていた。医療妖精達は今はドックを離れ、ベッドに横たわった大井はゆっくりと胸を上下させている。
「霞ちゃんも難儀だよねぇ、あれだけ悩む脳みそ持ちながらアタシみたいなロクデナシしか頼れないんだからねぇ」
そう言いながら目をつむる大井を見下ろし、北上は三日月の形に口元を歪めた。
「オモチャがどれだけ足掻いたって、所詮手のひらの上の事なのにね。惨めなもんだよねぇ、大井っち」
大井は返事を返さなかった。無視したのか、眠っているのか、聞こえなかったのか。北上は特に気に留める事も無く、ただ虚空を見つめていた。