今は昔、
(「真日本紀」より抜粋)
(現代語訳)
今となっては昔のことだが、茅渟海(現在の大阪湾)に、漂流している大船があった。岸に住んでいる人が不思議に思って、漕ぎ出でて船の中を見てみたが、人はいなかった。船の名はグローリー丸といった。すると、船が突然揺れ動いて、打ち壊された。岸に住んでいる人は、たいへんに長い蛇のような尻尾が、海面からそびえ立っているのを見たが、すぐに尻尾の下敷きになって、潰れてしまった。
*
時に、天平十六年(西暦744年)、如月。
大和国、茅渟海沿岸部。
首都、
その日、宮殿には、帝(聖武天皇)の他、議政官10名ほどが集結していた。
茅渟海で発生した怪異への対策のためである。
藤原四兄弟、“南家”藤原武智麻呂。
「現在のところ、情報が不足しており、確かなことは申せませぬ」
同、“北家”藤原房前。
「されど、海から巨大な尾のごときものが現れたる由、これは恐怖からくる幻覚のたぐいであろうと思われまする」
同、“京家”藤原麻呂。
「さよう。妄言、妄言でおじゃる」
同、“式家”藤原宇合。
「なにとぞ御心を安んじくださいますよう……」
彼ら藤原四兄弟は、かの高名な中臣鎌足(藤原鎌足)の孫である。兄弟そろって大納言・参議などの要職を務めた。当時の日本は、まず彼らによって牛耳られていたといってよい。
帝(聖武天皇)。
「では、一体何が起きたというのか?」
“南家”武智麻呂。
「おそらくは地震、あるいは突風から来る、局所的な大波でございましょう。いずれにせよ、住吉津の港湾施設に甚大な被害が出ておることは確かです。速やかな救援こそ急務かと思いまする」
帝。
「救援か。何をする?」
“北家”房前。
「ひとまずは潰れた家の下敷きとなったもの、海に流されたものの救出。次いで食料。この寒い季節なれば火を焚いて暖を取らせること、にございます」
帝。
「よし。そのようにはからえ。北家に任す」
“北家”房前。
「御意」
“京家”麻呂。
「港の復旧も早くせねばならぬでおじゃろー? 瀬戸内との海運が一日止まれば大変な損失でおじゃるー」
“式家”宇合。
「ひとまず船は河内湖に引き入れまして、無事な桑津から……」
そのとき、
「恐れながら申し上げます」
と、口を差し挟むものがあった。帝と藤原四兄弟が、そろって首をめぐらせ、末席の参議をじろりと睨んだ。
参議、
「巨大な獣の尾を見たと申す者は、ひとりふたりではございませぬ。何かが海中にいると考えたほうがよいと思います」
“式家”宇合。
「何か、とは……?」
参議、鈴鹿王。
「それは……。
“京家”麻呂。
「おほほ! そなたは仏教説話の読みすぎでおじゃる。怪力乱神もよいが、いま大切なのは、現実に起きた被害への対処でおじゃろー?」
参議、鈴鹿王。
「このまま手をこまねいていれば、その現実の被害がさらに拡大するやもしれぬと!」
憤って立ち上がりかけた鈴鹿王を、横から制する手があった。
参議、
「鈴鹿くん。落ち着きたまえよ」
橘諸兄は、鈴鹿王には大切な友人であった。どちらも藤原四兄弟に押されてうだつが上がらぬという共通の悩みもあった。
その諸兄に制されては、鈴鹿王も身を引くよりほかなかった。
朝議はその後、手早く救援策をとりまとめ、散会となった。
散り際、“南家”武智麻呂が鈴鹿王の肩を叩き、
「あらゆる可能性を想定する君の聡明さは認める。が、熱くなってはいかぬな」
と、慰めた。
慰められた鈴鹿王には、皮肉にしか聞こえなかったやもしれぬが。
*
朝議の後、難波京の片隅にて。
橘諸兄。
「そんなことでは命がいくつあっても足りないぞ、鈴鹿」
鈴鹿王。
「兄上の反乱以来、私の命などあってないようなものだ。
ゆえにこそ、私は己の為すべきことを為すのだ」
鈴鹿王の兄、長屋王は、かつて朝廷の有力者たるも、反乱の疑いを掛けられ、自害して果てた。もっとも、鈴鹿王が冷や飯食いをやっている原因はそればかりではなく、彼本人の激烈な性格もあっただろうが。
橘諸兄。
「またそういうことを言う。どんなに心配したって、ぼくの心は親友に届かないらしい」
鈴鹿王。
「届いているさ。ありがたく思っている。だが、それとこれとは話が別だ」
そのとき、慌てふためいた文官が、駆け足に宮廷に飛び込んできた。何事かと人に止められ、彼が、ほとんど叫ぶようにして伝えるには、
「現れた! 今度は難波津だ!」
「落ち着け。何が?」
「私は見た! 確かに巨大な衆生だ!!」
*
難波京、高楼。
帝、藤原四兄弟、その他の議政官たちは高楼に上り、呆然と西を見つめた。
下では、文官武官の区別なく、みな宮殿の屋根に上り、同じ光景を目撃していた。
都の西、砂洲に造られた難波津の港湾に――巨大なものが、いた。
あれを、何と呼べばよいのであろう。
大木を思わせる二本の脚。
濁った薄汚い体液を絶え間なく滴らせ、滑り、ねばつく肌。
瞼も睫毛もなく、眼孔にむき出しのまま填め込まれた、ふたつの眼球。
鳥に似た首。魚に似た口。蛇に似た尻尾。
そして他のいかなるものにも似ていない、人の2、3人を軽く一飲みにする、巨躯。
難波津の港は、恐怖と狂気に飲み込まれた。
“それ”が走る。のたうちながら、見苦しく。
ただそれだけで建物は崩れ、橋は落ち、人は潰れて赤い花と化す。
「まさか……あんなものが」
誰かが呟いたが、それが誰の声であったのか。もはや誰にも分からなかった。
そのとき、
その目が、はるか高みから、難波京の高楼を見下ろしている。
「いかん! 来るぞ!」
巨大不明衆生が走った。難波京へ向かって一直線に。
人にとっては小一時間、されど、奴にとっては一息の距離。
咆哮もない。悪意も感じさせぬ。どこを見るとも知れぬ虚ろな目で、しかし都を確かに見据えたまま、巨体は迫り、ついに宮殿をひと揉みに揉み潰した。
殿上人たちが逃げ惑う。文官は叫ぶ、へたり込む、あるいはあてもなくただ走る。武官の幾人かが矢を放ったが、鉄の矢尻さえ岩のような肌に弾かれた。
そして、巨大不明衆生が尾を振った。
無造作に。
かつて天智天皇が建て、「
そこに居合わせた、数百の人命とともに――
つづく。