海中より突如として現れた巨大不明衆生は、難波京一帯を破壊し尽くし、ふらりとまた海中へ消えた。
その被害は極めて甚大なものであった。
難波京は今や瓦礫の折り重なる廃墟と化し、家を、家族を奪われた人々は惨禍の跡に呆然と佇むばかり。
帝もまた、つい昨日まで内裏のあった場所に立ち尽くしていた。
この難波京は、彼自身が心を砕いて建造に携わった都であった。やがては
それがかくも徹底的に破壊されたのである。帝の心中いかばかりか。
そこへ“南家”武智麻呂が進み出て奏したことには、
「陛下、
あの……巨大不明衆生の正体について、お訊ね遊ばされませ」
というので、帝は急遽建てられた仮の御所に入り、3人の名高い学生と会った。
しばらくして帝は御所から歩み出て、沈痛な面持ちで首を振った。
歳を食った学生どもは頭が凝り固まり、「そのような怪異はあり得ない」と繰り返すばかりで、何一つ得るところはなかったのであった。
帝のたまわく、
「時間を無駄にした。鈴鹿王やある!」
「これに」
「官位の上下は問わぬ。話の分かるのを連れてまいれ」
「身分は卑しうございますが、
「よし、それでよい」
「御意」
さらに帝、藤原四兄弟を召して、
「先に決めた救援の策、このありさまでも実行は可能か否か?」
“北家”房前。
「不完全にはなりますが、可能と思いまする」
“京家”麻呂。
「軍と八省の再編復旧も急務でおじゃるー!」
帝。
「よし。並行してやれる限り行え。金は要るだけ使ってよい」
*
その他、絶え間なくもたらされる報告と献策を裁くうちに、鈴鹿王が、風采の上がらぬ中年の男を連れて戻った。
参議、鈴鹿王。
「もと遣唐使、
従八位下、下道真備。
「わあああたくし下道真備と申します下道」
醜く媚びへつらい声も震えるありさまであった。
帝は眉をひそめたが、官位の上下は問わぬと言った手前、文句は言えぬと思いなおし、努めて声穏やかに問いかけた。
「大儀である。そのほう、唐国に学んだとか?
かの巨大不明衆生は一体何だ?」
下道真備。
「
下道真備は、それまでの卑屈な様子が嘘のように、ぴんと背筋を伸ばし、叩き付けるように答えた。
帝をはじめ、その場にいたものはみな、驚き、息を飲んだ。
帝。
「が……づ……ら?」
下道真備。
「遠く天竺に祀られし古き神。
再生に先駆けて訪れる破壊の化身。
仏による調伏を拒絶した唯一にして最大の外道」
「……また来るか?」
「必然」
「そんなものを相手にどうすればよい!?」
帝の声はまるで悲鳴のようだったが、下道真備は、帝の機嫌を損ねたことなどまるで気にしていないように見えた。ただ、下から、値踏みするような目で帝を見上げていただけだ。
下道真備。
「仏威」
帝。
「何をしろと言うのだ?」
「陛下が平素篤く信仰している
像を造ります大きな像。
これを動かします、わたくしが唐で学んだ秘術。
調伏します呉爾羅。ガヅラ!」
「仏とガヅラを戦わせようというのか。そんなことが可能なのか」
「
下道真備は、にまり、と笑った。
帝、鷹揚に頷き、
「鈴鹿王、橘諸兄、これへ」
「は」
「この件は汝らに任す。下道真備を使い、大きな仏像の建立計画を立案せよ」
鈴鹿王は、
「御意!」
と拝礼したが、橘諸兄はめざとく一言付け足した。
「されど陛下、下道真備どのは官位極めて低く、氏素性もよろしからず、大役を任すことは律令に反します」
帝。
「おおきにもっともである。
ならば、下道真備を10階級特進して正六位下に叙し、吉備の姓を与える。
本日より、汝は
無論これは、下道真備――いや、吉備真備に厚遇を与えるための、橘諸兄の心遣いであったことは言うまでもない。
かくして、ガヅラの再来に備えるべく、盧舎那仏像建立計画が動き始めた。
後にこの仏像はこう呼ばれることになる。
大きな仏――大仏と。
*
1か月後。
調査が進むにつれて、難波京の深刻な状況が明らかになっていった。
港湾、都市、宮殿などはことごとく徹底的に破壊されており、再建には50年を越える歳月と莫大な費用がかかると目された。
天平十六年、卯月。
“南家”武智麻呂の献策により、難波京の放棄が決定。
ガヅラの襲撃に備え、海から遠い近江の離宮、
さらに、いずれこの地に遷都すべく、甲賀寺を中心として
そして――鈴鹿王、橘諸兄、吉備真備による「大仏」もまた、この地にて建立が始まったのである。
*
天平十六年、霜月。
甲賀寺境内にて。
この日、ここに大仏の体中骨が立てられた。
帝は、鈴鹿王、橘諸兄、吉備真備らを具して見分に訪れ、壮大な骨格を見上げ、ようやく少しばかり心安らいだとばかりに微笑んだ。
実際のところ、帝はガヅラの第一次襲撃以来、あの恐怖が忘れられず、夜もろくに眠れなくなって、日に日に痩せ衰えていたのであった。
帝。
「これほど大きな仏ならば、きっとガヅラにも立ち向かえよう」
鈴鹿王。
「しかし、ひとつ問題が出て参りました。
難波津、住吉津の再建、さらに甲賀宮の建造と、出費相次ぎ、大仏建立の資金に不足が生じつつあります」
帝、頷いて、
「それについては、宇合から献策があった。
税収増のために三世一身法を改正し、墾田は永久に開墾者が私有できることにしようとな。
墾田永年私財法とでも名付けようか」
橘諸兄、楽しげに笑い、
「おやおや。ことによると、各地の寺社豪族の類が私有地を抱え込んで、制御しきれなくなるかもしれませんよ」
帝。
「それも含めて国力であろう? 朕は良いと思う。
“式家”らしい、奇抜な良案よ」
帝は、ちらと鈴鹿王に視線を移した。
鈴鹿王はいつものように、眉間にしわを寄せている。気を緩めたところを他人に見せることは、滅多にない男であった。
帝。
「“北家”房前は、定石を疾く打つに秀でる。
“京家”麻呂は、常に事態の問題点を見出す。
そして“南家”武智麻呂は、放っておけば瓦解しかねぬ四兄弟のまとめ役じゃ。さらには、朝廷全体のな」
鈴鹿王。
「御意のとおりにございましょう」
「のう、鈴鹿よ。過去は水に流し、少し、やつらとも交わってみぬか?」
「私は私の為すべきを為すまでにございます。これまでも、今も。そして明日も」
「そうか……
ま、今はそれでよい」
そこに、遠くから若い女の声が聞こえてきた。
振り返れば、甲賀寺の門前から、手を振り駆けてくる小さな姿があった。
皇女、
「ちちうえさまーっ!」
帝、高野姫を抱きとめ、抱き上げ、頬を擦りつけてのたまわく、
「おお、高野! 高野よ、かわいい高野!」
高野姫、答えて曰く、
「さよう、高野は今日もかわゆくございます!」
「なにゆえ、そなたがここに?
「ちちうえさまのお役に立ちとう思うて、高野は来たのです」
「そうかそうか。百人力じゃ! あはは……」
帝は、高野姫を肩にのせ、何か月ぶりとも知れぬ楽しげな様子で、笑い、御所へ戻っていった。
これには、さすがの鈴鹿王や橘諸兄も顔を見合わせ微笑んだ。
ただ、ひとり吉備真備だけは、高野姫を一目見てから、惚けたように口をぽかんと開けていた。
「美……」
*
時を同じくして、崩壊した難波津にて。
一隻の、まことに見事な大船が茅渟海に現れ、はしけが送られ、崩れかけた桟橋に得体の知れぬ一団を降ろした。
難波津には、ガヅラを警戒して兵が置かれていたが、兵はすぐさまこの者たちを見とがめ、殺到した。
見れば、船からやってきた者たちは、見たこともない珍奇な、そして華々しい衣服をまとっていた。
とりわけ、その中に佇む美女の、麗しき顔、絹糸そのものの如き髪は、ただのひと目にて兵たちを魅了するに充分なものであった。
兵、問うて曰く、
「お前ら、なんだ?」
美人、答えて曰く、
「あら、品のない言葉遣いですこと。
これだから東夷はいやなのよ。
誰でもいいわ、どなたか倭王どのに伝えてくださる?
――偉大なる唐国から、
つづく。