楊玉環、蒲州永楽の人。(現在の中華人民共和国山西省)
唐の九代玄宗皇帝が寵姫、人呼んで楊貴妃。
艶髪は雲、
華麗を極めた衣の隙間から、惜しみなく衆目に晒したるは、豊満なる躰、白そのものより白き肌。
楊貴妃は、多くの僧侶を具して紫香楽宮を訪れ、帝への拝謁を願い出た。
その場の男たちは、みな一様に、楊貴妃の肢体に目を奪われ、ひととき息を呑んだ。
賢明な者はすぐに目を逸らした。長く見れば目を焼かれかねぬ、赤熱した鋼の如き美女であった。
帝、大いに驚きてのたまわく、
「大唐国の皇帝夫人がなにゆえ
楊貴妃、答えて申さく、
「倭王どのに有益な情報をお持ちしました。
あなたがたの懸案――
帝以下、百官みな驚きを隠せなかった。
楊貴妃はその反応を愉しんでいるようだった。
帝、“南家”武智麻呂に目配せして、
「南家に任す」
“南家”武智麻呂。
「御意。
唐国の御使者にお訊ね申す。
なぜガヅラをご存知なのか?」
楊貴妃。
「倭国の右丞相にお訊ね申す。
話を聞く心づもりの有りや無しや?」
「
痛い腹の内を隠しておられては交渉になり申さぬ」
「わたくし楊貴妃がおこたえもーす。
ゴチャゴチャうっせーな国傾けんぞコラァ!」
宮廷じゅうが、しんと静まり返った。
楊貴妃は帝の御前に立ちながら、平伏さえしていない。
その迫力と美しさが、みなに納得させた。この女は本当に国を傾けかねぬ、と。
楊貴妃、一転して微笑み、
「でも、まあ、いいでしょ。
愛し合うには、まず裸を晒さないとね。
これをご覧ください」
楊貴妃は一書を差し出した。
帝、その書を見てのたまわく、
「
楊貴妃。
「
その研究資料は極めて詳細に纏められています。
由来、能力、そして――召喚の方法までね。
それを記した者の名は、大唐国秘書監、
またの名を、遣唐使、
その名を耳にしたとたん、末席にいた吉備真備がよろめいた。
とっさに橘諸兄が抱きとめたが、吉備真備の顔面は蒼白であった。
*
遣唐使、阿倍仲麻呂。
霊亀3年(西暦717年)、吉備真備らとともに唐へ赴く。
そのまま帰国せず唐に留まり、科挙の難関を突破して任官を果たした。
この快挙を成し遂げた日本人は、史上、阿倍仲麻呂ただひとりである。(西暦2016年現在)
学識深く詩経に通じた阿倍仲麻呂は、かの高名な詩人李白、王維らと交わり、玄宗皇帝にも認められ、順調に出世していった。
だが、皮肉にもそれが彼の命を縮める結果となってしまった。
*
楊貴妃、再び申さく、
「彼は倭国を恨んでいました。
彼の学識は、この狭苦しい孤島では認められることがなかった。
その怨念を執念に変えて、大陸での出世を果たしたようですが、そこでも彼は壁にぶつかってしまった。
急速な出世に危機感を覚えた高官が、阿倍仲麻呂を陥れて幽閉したのです。
しかしある日、仲麻呂は突如として牢から姿を消した。
その後の詳しい足取りは不明。
確かなのは、彼が何らかの方法で倭国への帰還を果たしたこと。
そして――自らを
倭人の為したこと、とはいえ、これは唐国の不始末でもあります。
わたくしが連れてきた
帝は、話を聞き終えても、痛恨の想いで顔を伏せたままだった。
それを見て、楊貴妃、悪戯に嗤いていわく、
「
重ねて問います、
汝は、その思いに応える心づもりの有りや無しや?」
帝。長い沈黙の後に。
「朕は……」
そこへ、急報が舞い込んだ。
使者が息を切らせて述べるには、
「陛下に申し上げます!
すでに
*
伊勢海湾岸、安濃津(現在の三重県津市)。
やや山間部へ移動し、能褒野(同、亀山市)。
ガヅラは変貌を遂げていた。
もはや、かつて難波津に現れた時の、魚類か鳥に似たあの姿ではない。
今のガヅラは、どこか人に似ていた。
天を貫くかのように直立し、二本の脚で地を踏み割り、足元の家々と人々を蹴散らしながら、西へ進行する。
その進路は、まっすぐに、紫香楽宮を向いていた。
*
ガヅラ襲来は、遅くとも今夜。
紫香楽宮は騒然となった。
帝、早足に回廊を行きながら、鈴鹿王に問うて曰く、
「大仏は動かせるのか?」
鈴鹿王。
「完成度は七割にも届きません。まともに動いてくれるかどうか……」
「是非もなし。鈴鹿王、橘諸兄、吉備真備は大仏の起動準備。
藤原四兄弟は指揮を執れ!」
*
それぞれが配置につき、息を殺して、待った。
日は没し、闇が垂れ込め、風は緩やかに肌を蝕む。
誰もが寒気に震えながら、東の山際の、星光に明るむさまを見つめていた。
一方、甲賀寺、建造半ばの大仏前にて。
鈴鹿王は、僧侶たちを指揮して、大仏開眼準備を進めていた。
その喧噪から少し外れたところで、吉備真備が震えていた。
橘諸兄が、それに気づき、寄って肩を叩いた。
「どうした。緊張してるのかい」
吉備真備。
「仲麻呂。仲麻呂。私を許さない、仲麻呂」
橘諸兄。
「一体何が――?」
そこへ、悲鳴じみた一方が舞い込んだ。
「ガヅラ襲来! ガヅラ来ました!」
東、山際、その向こうから、掻き分けるように覗くは、巨大な頭。
視点の定まらぬ虚ろな目は、今や、人々の思い描く“死”そのもの。
言いしれぬ恐怖が人々を襲った――が。
“式家”宇合、吠えるが如くに下知したことには、
「弓手一から七番隊、放て!」
号令一下、一斉に鉄矢が放たれた。
矢は打ち上がり、闇夜に銀の扇を描き、ついには幾千の雨粒と化して、ガヅラの頭をしだれ打った。
ガヅラの鱗に矢尻突き立ち、あるいは弾かれ、鉄火散らして赤々煌々。響き渡るは鋼の響き。耳をつんざくガヅラの咆哮。
ガヅラ、弓手の軍を
“式家”宇合、再び吠えて、
「弓手後退! 下がれ! 下がれ!」
だが遅かった。
ガヅラの足が、木々踏みつぶし、瓦を弾き、道も家ももろともに、一軍をひと蹴りに粉砕した。
血の花が咲く。悲鳴が上がる。
――やはり、人間では敵わないのか。
目の前に屹立する巨躯を見上げ、誰もが怖気づいたことだろう。
されど、今宵は決して怯まぬ。兵どもはそう心を決めていた。
「弓手、第二射放て!」
一方、甲賀寺では、橘諸兄が戦場のありさまを見つめていた。
「よし、予定通り盆地に誘い込んだ」
その隣では吉備真備が今なお震えていた。
いや、ガヅラを目の当たりにして、恐怖はいやましたかに見える。
橘諸兄、吉備真備の肩を掴み、
「何があったかは後で聞く。
だが、今は、やるしかない。そうじゃないのか?」
吉備真備、頷いて、大仏の元へ駆け寄った。
大仏の周囲は、十重二十重に僧侶たちが取り囲み、各々仏具を携え、すでに万端用意を整えていた。
鈴鹿王、僧たちと、吉備真備に目配せして、
「行くぞ――大盧舎那仏像初号仏、
つづく。