(現代語訳)
乙未の日(天平17年/西暦745年4月8日)、この夜、空中に太鼓のような音がした。野の雉が驚き騒ぎ、大地は激しく振動した。ガヅラは真木山(現在の三重県伊賀市槙山)から
(「真日本紀」より抜粋)
ガヅラは甲賀京に迫り、迎え討つ軍団は壊滅の危機に瀕していた。
矢はとめどなく射込まれ、剣戟襖のごとく突き立てられたが、ガヅラは意にも介さなかった。
爛々と炎めいて揺れる目で足元の小さな者たちを見下ろし、無造作に蹴り潰し、引き千切り、十名余をひと口に噛み砕いた。
軍団は恐慌を起こした。
もはや歴戦の将“式家”宇合といえども、これを御すること能わず。
一人逃げれば皆が逃げ出す。
暴れ狂うガヅラを前に、軍団は潰走した。
帝、その有様を眺め見てのたまわく、
「何たること。正しく荒神。ひとの及ぶところに非ず――」
その玉音を聞きつけたわけもあるまいに、ガヅラ、紫香楽宮の帝をまっすぐに睨み、低くうなりを漏らした。
――そこか。
ぞっ、と、その場の誰もが背筋凍る恐怖を覚えた。
ガヅラの声を聞いたかに思われたのだ。
ガヅラが走った。
宮殿へ、帝のもとへ。
高野姫、帝にしがみつきて申すよう、
「ちちうえさま! お逃げを!」
帝。
「逃げてどうなる。朕は帝なり!」
と、そのとき。
山合より滑り降り、空裂き地鳴らせ駆け参ず者あり。
走るは風の如く、勢い滝の如く、憤怒に固めた右の拳を、ガヅラの頬に叩き込む。
ガヅラは雷音さながら悲鳴を上げて、横倒しに倒れ伏した。
幾千の篝火、燃えあがる京の炎が、救いの主を浮かび上がらせる。
山そのものの如き体躯をした、怒れる仏の姿がそこにあった。
帝以下、百官千兵みな歓声に喉を震わせ、佇む大仏に平伏し、合掌した。
帝。
「南無盧舍那仏、願わくばこの苦難より万民を救い給え!」
*
一方、甲賀寺、大仏開眼供養の祭壇にて。
口々に呪を唱える僧侶たちの中心で、吉備真備は額に汗を浮かべていた。
やがて小さく呻くや、鼻から一筋の血を垂らした。
橘諸兄、駆けつけて曰く、
「どうした? しっかりしろ!」
吉備真備、青ざめた面で、
「大丈夫……大丈夫」
吉備真備が唱えている呪文は、遠く天竺から唐国にもたらされたという霊験あらたかなもの。
仏の像に、人々の信心を込めて、自ら動く仏の化身と化す恐るべき術である。
それだけに、扱うには生半ならぬ消耗を強いられる
無理をすれば命にも関わろう。
しかし、今は吉備真備に頼るしかない。
ガヅラを調伏しきるまでは。
故に、鈴鹿王は無言であった。今はただ、任せるのみ。
橘諸兄は、吉備真備の肩を撫でた。
「がんばれ。
やつを倒したら大いに遊ぼうじゃないか。
いい女、旨い酒、いくらでも用意してあるぞ」
吉備真備。
「姫さま……」
「ん?」
「姫さま。教えたい、
「ははあん、惚れたな?
いいとも、都合してやる。救国の英雄には誰も文句言わないさ!」
*
ガヅラが立った。
吠えた。
大仏めがけ飛びかかった。
巨大な爪が、大樹の脚が、鉄鞭の尾が、仏を散々に打ちのめした。
だが大仏は一歩も退かぬ。
叩きつけられた尾を、両腕にしっかと受け止めて、捻り、投げ飛ばし、捩じ伏せる。
響く轟音、渦巻く砂塵。人々がわめいて逃げ散ってゆく。
大仏はのし歩き、ガヅラの上に馬乗りになる。
そして、重々しい青金の拳を、ガヅラの脳天に打ち下ろした。
夜の闇を引き裂くかのような鉄火が閃き、ガヅラの絶叫が木霊した。
*
楊貴妃、遠巻きに戦況を見ていたが、にやり笑っていう事には、
「ふーん。日本人もなかなかやるなあ。
これなら
だが、高僧のひとりが、ガヅラを指差し、わめいた。
「いいえ! ご覧下さい、あれを!」
*
大仏が、とどめの一撃を振り下ろさんとした、その時であった。
にわかにガヅラ、あぎとを開き、喉の奥から、灼熱の炎を吐き出した。
火に巻かれ、大仏がのけぞりよろめく。
と、そこへ、青白い閃光が襲いかかった。
ガヅラの口から吐き出された炎は、収束し、色を変え、青々しき光の槍の如くなって――
ひと薙ぎ。
京と、軍と、背後の山もろともに、大仏の胴を薙ぎ払った!
じゃ、と。
熱した鉄を水に浸けたかのような音がして。
次の瞬間、全てが爆裂、炎に飲まれて消し飛んだ。
帝。
「な!?」
“南家”武智麻呂。
「なんだ、あれは!?」
鈴鹿王。
「大仏がっ……」
吉備真備。
無言にて倒れる。
橘諸兄。
「しっかりしろ、真備っ!」
“北家”房前。
「これまでかっ……」
高野姫。
「ちちうえさま! お逃げを!」
“式家”宇合。
死亡。
“京家”麻呂。
死亡。
全滅。
京の民。
死したるもの、数え切れず。
そして、大仏。
真っ二つに両断され、なおも、なおも立ち上がらんと藻掻いていた……が。
ガヅラの脚が、青金の体を、圧し潰した。
京は、地獄と化した。
*
ガヅラは怒り狂い、光の槍を、撃って、撃って、撃ちまくった。
寺が消えた。
宮殿が消えた。
林も、森も。山さえ、ふたつ、この世から消えた。
生き残った者達は、ただ逃げるしか無かったが、一体どこに逃げればよいというのだろう。
狂乱の中に散りゆく人々に、ガヅラは容赦なく槍を打ち込んだ。
“南家”武智麻呂。
死亡。
“北家”房前。
死亡。
これにて、藤原四兄弟、全滅。
橘諸兄が弟、
死亡。
中納言、
死亡。
そして、
崩御。
後に
*
鈴鹿王、彼は。
ただ、逃げることしかでかなかった。
戦い抜くことも、死ぬことも。
為すべきことを為すこともできぬまま、走り、走り、走り、逃げた――
ふと、彼は背後に咆哮を聞いた。
もはや生きるものひとつない地獄の只中で、今なお暴れ狂う、神の声を。
――
「
つづく。
冒頭の歴史書引用風の部分ですが、もともとは漢文、書き下し文、現代語訳の3パターンを書いたのですが、さすがに3度の繰り返しはくどいかと思い、漢文バージョンは削除いたしました。
が、せっかく作ったのにもったいないとも思いましたので、ここに記しておきます。
乙未。此夜空中有声、如大鼓。野雉相驚地大震動。呉爾羅於真木山至新京、甚虐。延焼数百余町。即仰山背伊賀近江等国、撲滅之。兵度三千人、於甲賀宮出射一万矢、不滅。盧舍那大仏像未成、始開眼。