平城京、二条大路、東大寺前。
都の皆人、不安に駆られ、あるいは道に、あるいは屋根に、各々這い出で、揃って首を持ち上げた。
千々に潰走したはずの衛士どもも。
寺に詰めた文官、僧たちも。
そして、高野の姫天皇も。
誰もが見上げた。見つめた。見守った。
固唾を呑んで、拳握って、その光景を目に焼き付けた。
燃える山々を背景に、真正面からぶつかり合う、ガヅラと大仏の一騎打ち。
――破壊神と仏の、最終決戦を。
*
やおら、ガヅラが跳びつき、仏の喉元に牙突き立てた。
恐るべき破壊力。青金製の大仏が、にわかに軋み、小さなひび割れさえ走らせる。
仏、隆々たる両腕にてガヅラの首を締め上げて、渾身の力で引き剥がさんとした。
が、その側頭部を、ガヅラの尾がしたたか鞭打った。
大仏の巨体が
ガヅラは容赦なくその後を追い、走り、飛び、全体重を乗せて、大仏を真上から踏みつけた。
何十もの梵鐘を一挙に打ち鳴らしたかの如き轟音。
嵐さながらに舞い上がる砂埃。
都の人々、哀しみ嘆き、その悲鳴は天に渦巻き上る。
ガヅラ、すうと目を細め、足元の獲物にとどめを刺さんとあぎとを広げ――
次の瞬間、ガヅラの口中に、青金の拳がめり込んだ。
仏、震え、よろめき、苦しげに体を軋ませながら、それでもガヅラを押し上げ立ち上がり。
咆哮とともに二条大路を疾走。
門ぶち破り、寺を突き抜け、その向こうの山肌に、ガヅラの巨体を叩き付けた。
ガヅラの悲鳴が夜をつんざく。
間髪入れず仏が殴る。殴る。さらに殴る。
息つく暇さえ与えずに、拳がガヅラを滅多打ちにする。
そのとき。
ガヅラの腕が、足が、胸が、背が、全身の鱗がぱくりと裂けた。
下からのぞくガヅラの素肌に、青白い恐怖の光が灯る。
*
姫天皇。
「あれは!?」
橘諸兄。
「まずいっ……陛下伏せてっ!!」
*
轟!!
ガヅラの全身から、ありとあらゆる方角めがけて光の槍がほとばしった!
熱線の全方位無差別放射。
何人にも生存を許さぬ、純然たる破壊の焔。
ただその一撃によって――広大な平城京の半分が、火の海と化したのである。
*
都に馳せ戻った鈴鹿王は、崩壊した
人数が全く足りぬ。また数えきれぬ人々が犠牲になったのだ。
だが、姫天皇も、院も、橘諸兄も、吉備真備の顔もある。
鈴鹿王はひとまず安堵の溜息をついた。
ついてすぐに、安堵している場合ではないと、自ら唇を噛み締めた。
山裾をみやれば、そこに、奴の姿がある。
黒鉄の鱗は、ぼろぼろに剥がれ落ちている。
その下からは、あの光の槍をもたらす膨大な熱が、垂れ流しにされていた。
今や
……巨人。
そう。
まさに焔の巨人とでもいうべき威容を、夜に浮かび上がらせていたのである。
焔の巨人が、一歩、歩いた。
都へ向かって。
と。
焔の巨人が、こちらを向いた。
姫天皇の姿を認めたのだ。
巨人の焔が揺らぎ、膨らみ、弾けるかのように燃え盛り、青の灯となってガヅラの皮膚に収束する。
無差別放射が来る、もう一度。
「もう……おしまいだ」
誰かが呆然と囁いた。
だが、鈴鹿王は姫天皇の前に立ち塞がり、堂々と巨人を仰ぎ見て、曰く、
「いいや。ここからが本番だ!」
*
ガヅラの全身から破壊の焔が放射された、その瞬間、都を庇うかのように金色の影が立ちはだかった。
他あろう、大仏である。
ガヅラが放つ光の槍を、しかし大仏はその全身で受け止め、弾き、跳ね返していく。
「すごい! どうして!?」
誰かの叫びを耳にして、鈴鹿王。
「改二号仏の表面に金
金は、ガヅラの光線を弾き返すことができる!」
これは甲賀京跡の治安維持にあたっていた、滋賀軍団のひとびとが発見したことだった。
甲賀京には、無人となった後、空き巣狙いの盗賊が跋扈した。
というのも、都の各所には、いくつもの金製品が、そのままの形で残されていたからである。
ガヅラの光線による絨毯爆撃を受けたにもかかわらず、だ。
この報告を受けた鈴鹿王は、ガヅラの光線は金で防げるのだと推理した。
そこで、改二号仏の建立時には、莫大な量の金と
ここまでは狙い通り。
だが、鍍金は薄いもの。
たとえ表面で光線は防げても、中の本体は長くもつまい。
鈴鹿王、姫天皇を振り向き奏す。
「陛下。祈りましょう」
「祈り……じゃと?」
「我々はかつて、誤りを犯しました。
大仏は、ヒトの造りしもの。
造った我々の心を写す、鏡の如きもの――
陛下と同じ。
我らは囚われていました。
このままでは、大仏は、その御心を――慈悲を発揮できませぬ」
姫天皇。威勢よく頷きてのたまわく、
「あいわかった。
ものども、共に祈ろうぞ。
南無盧舎那仏、救い給え!
*
そのとき、ガヅラの光線を浴び続けていた大仏の、両の瞳が赤光を放った。
――ガヅラよ。
聞こえますか、ガヅラよ――
「なんだ、今のは?」
誰かが呆然と呟いた。
「まさか、仏が……」
「喋った……!?」
――私は今、あなたの心に語り掛けています。
ガヅラ、私の話をお聞きなさい――
ガヅラ、咆哮。
焔を纏った腕で、大仏の首を締め上げる。
が、
――話を――
大仏、ガヅラを捻じ伏せて、
――聞きなさいッ!!
そのまま地面に投げ倒した。
ガヅラはグルグルと唸りながら身を起こした。
その前に、大仏は静かに座禅を組む。
途端、大仏の全身から黄金の光が放たれた。
ガヅラ、たじろぎ、呆気にとられ、目を細めて仏を睨むばかり。
――ガヅラ。
私には伝わってきます。あなたの深い深い悲しみと怒りが。
狂おしいまでの激情。焔の如き心の暴威。
されどガヅラよ。考えてごらんなさい。
そも、怒りとはなんでしょうか。
ごらんなさい、この都を。
多くの建物が並び、人々が溢れ、天子
ですが、あなたの焔で焼かれた今、はたしてここが都と呼べましょうや?――
いつのまにか、ガヅラは仏の前に立ち尽くし、じっとその言葉に耳を傾けているかに見えた。
そう、ガヅラには言葉が通じるのだ。
かつて誰もが耳にしたではないか。
甲賀京で、帝を見つけたときの、暗い喜びに満ちたあの声を。
――今はまだ、都と呼んでもよいでしょう。
しかし、もっとここが破壊されれば?
もっともっと建物が壊れ、人が少なくなれば、ここは都ではなくなりましょう。
つまり、都は建物ではありませぬ。人でもありませぬ。
ただ人々が、ここを都と思う、その思いに因ってここは都であるのです。
万物みなこれに同じ。
人の思いが、その存在を認めるのみ。
色すなわちこれ空、空すなわちこれ色。
あなたの怒りもまた然り。
あなた自身の思いが、その尽きることない破壊の焔を生んでいるのです。
さあ、ガヅラよ。心を鎮めなさい。
私があなたを導きましょう――
ガヅラは、長く長く、苦しげに吠えた。
焔はいや増して、天を飲みこまんばかりに燃え盛った。
大仏がじりじりと焼けていく。
その金色の光さえ、焔に焦がされ煤けていく。
と、そのとき。
ガヅラのいと恐ろしげなる咆哮の裡に、人々は魂の叫びを聞いた。
――
仏、朗々とこれに応えた。
――
ガヅラ、指にて丸を作りて、
――天地の間は!
仏、両腕で大丸を描き、
――大海の如し!
ガヅラ、十本指を突き出し、
――十方世界は!
仏、五本指もて応じ、
――五戒で保つ!
さらにガヅラは指三本にて、
――三尊の弥陀は!
終に仏は目元を押さえた。
――目の下にあり!!
その瞬間のこと、であった。
ガヅラが一声、ひときわ甲高く哭くや、その体が自らの放つ焔によって融けだした。
焔はガヅラ自身を焚きつけに、燃え上がり、青から赤へと転じて、天へ、星空の中へ、柱となって駆け上っていく。
遥か天上にて焔の柱は横に弾け、十字を描き、しばし美しく空を染め上げると――やがて、潰えた。
そして後には、深い深い静寂が残された。
誰もが、目の前で起きた出来事を飲みこめずにいた。
が、ただひとり。
鈴鹿王が、戦場の跡をつぶさに見て、姫天皇の御前にひざまずきて申すよう、
「――ガヅラ、完全に沈黙しました。
我々の勝利です!」
歓声を上げる人々。
抱き合って飛び上がる姫天皇と院。
ただ疲れ果てて座り込む橘諸兄と吉備真備。
彼らを祝福するかのように、空に朝日が昇り始めた。
日が、白く染め上げる。
喜びに湧きかえる、
つづく。