狩人の夜明け   作:葉影

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しばらく各人物の過去編に入ります。


追憶 -Ⅰ.篠ノ之箒:『その瞳は夜空よりも深く』

電脳仮想空間

浅海

 

 

身体がふわりと浮いた感覚を覚え、ISスーツを纏った専用機持ちたちが再び目を開くと、目の前には六つの白い扉が並んでいた。

周囲は星のような光や小さな幾何学模様が永遠に広がっており、まるで宇宙空間を彷彿とさせるような場所だった。

 

「これは一体……?」

 

目の前に並んだ機械的な扉たちを見て、一夏が首を傾げる。

 

「入れってこと?」

 

鈴が呟くと、専用機持ちたちのもとに通信が届く。

 

『多分そうです!』

 

聞こえてきたのは、管制室にいる真耶の声だった。

 

『皆さんが今いる場所は、電脳仮想空間の浅層部。電脳世界はその不明瞭な実態ゆえに様々な考察がされていますが、ある学説では電脳世界を“一つの海”と捉える考え方もあり、そこは『浅海』とも呼ばれています』

 

「確かに……不思議と海の中を漂っているような感覚もあるな」

 

「きっと人間の深層心理とリンクしているから、無意識に心も落ち着くようにできているんだね……」

 

「織斑先生の仰っていた通り、これだと外界の刺激がほとんどありませんわね……。マリアさんだけではなく、私たちも電脳世界に行かないとあまり意味がないというのがよく分かりますわ」

 

ラウラ、シャルロット、セシリアも自分なりに考察を深めていた。

 

『その先は通信が安定しません。各自の判断で中枢へお願いします』

 

「了解しました」

 

箒が返事をすると、続けて真耶から忠告が届く。

 

『それともう一つ。皆さんにはこれからマリアさんの過去にダイブしてもらいますが、先ほども伝えたように、電脳世界は“操縦者自身の意思・解釈・願望・記憶に大きく左右される”ということを忘れないでください。つまりマリアさんだけでなく、皆さん自身の過去も想起される可能性があるということです』

 

専用機持ちたちが頷く。

そしてそれぞれ、目の前にある白い扉の前へと向かった。扉の前に立つと、扉と一体となって収納されていたドアノブが回転し、ゆっくりと扉が開いた。

扉の先に広がる光の世界の中へ、少年少女が足を踏み入れていく────。

 

 

 

 

 

 

約200年前

古都ヤーナム・禁域の森

 

 

「ここは……?」

 

扉の中に入って目の前が光に覆われた後。

箒が再び目を開くと、そこは深い夜の森の中だった。木々や地面の小さな植物には活気がなく、生命力を感じない薄気味悪い森が続いている。輪郭のない月明かりの粒子が、木々の間から漏れてきていた。

 

「一夏!シャルロット!」

 

……返事がない。

どうやら千冬たちが言っていた『飛び込んだ先の各々の電脳世界は、必ずしも一致するとは限らない』という話は本当のようだった。

左手首にある金と銀の鈴がついた赤い紐は反応がなく、当然ISも展開できない。

 

(仮想空間だから当然か……しかし何かしら武器が欲しいところだ)

 

箒が幼少期から教わってきた「篠ノ之流」は元々古武術だったこともあり、徒手(としゅ)での戦い方も身につけてはいる。武器の存在に甘んじることは自身の性格上したくないが、しかしこうも未知の世界ではやはり少なからずの不安があった。

 

(しかしここは一体何処なんだ?少なくとも日本ではないだろうが、まるで現代とは思えない雰囲気だ……)

 

道が舗装されていないのはともかく、看板などが何も見当たらない。何かしら人工物の痕跡もあっていいとは思うが、どれだけ辺りを見回してもそのようなものはなかった。

すると、箒の前に黒い何かがふわりと舞った。

 

「……蝶?」

 

それは一匹の黒い蝶だった。

薄い(はね)にきらきらとした光沢を煌めかせて、箒の後ろに飛んでいく。

それを追うように後ろを振り返ると、目の前はなだらかな下り坂となっており、枯れ木に括り付けられたランタンが規則的に並んでいる。黒い蝶はゆっくりと、暗闇に覆われたその坂を下っていった。

 

「……行ってみるか」

 

箒は黒い蝶の後を追うように、深淵へと足を進めていく────。

 

 

 

 

 

 

「────!!!」

 

狭い草木の中をくぐり抜けると、一人の人間が倒れていた。

死んでいた。

その身体は全身切り傷に覆われており、地面は大量の血で湿っていた。

あまりの凄惨な光景に、身体中の重力がひたすらに歪み、背筋が凍りつき、目眩を覚える。生まれて初めて目にする、殺しの光景だった。

気がつくと、自身の後ろに何者かが立っているのが気づいた。箒が恐る恐る顔を向けると、そこには松明を持ちボロボロの服を着た男と、大きな犬が醜い息を吐いてこちらを見ていた。黒いシルクハットを被った男の顔は信じられないほど腐敗しており、やつれた髭が伸びきったその様は、まるで死にきれない死人だった。

そして横にいる犬は体格がかなり大きく、目と口からは血が溢れ出しており、気色の悪い涎を垂らしている。どちらもまるで、“獣”という一言では収まらないような風貌だった。

箒はあまりの恐ろしさに、不意に尻餅をついてしまう。全身から力が抜け、立ち上がれない。

すると犬が、醜い涎を垂らしながらゆっくりとこちらに近づいてきた。

 

「く、くるな……」

 

しかし箒の声が聞こえていないのか、犬はどんどん近づいてくる。

そして突然、犬が足を曲げて箒のもとに飛んできた。

 

(────!!)

 

無意識に箒も自分の顔の前に腕を出す。しかし犬は箒を気にも留めず、箒の後ろに倒れている死体に一目散に飛びつき、その死肉を貪り始めた。それに続き、男も死体のもとへ歩いていき、ひたすらに蹂躙を繰り返す。男が通り過ぎる際、箒は自分の身体が透けていることに気づいた。

 

(そうか……ここはあくまで仮想空間で、私の存在は実体化していない……)

 

恐らく彼らに箒の存在は見えていないのだろう。故に攻撃される可能性はないとわかったが、死体を蹂躙するそのあまりにも酷い光景に、箒は今すぐにでも離れたくなった。

すると黒い蝶が箒の前を飛び、違う方向へとひらひらと舞っていく。箒は震えながら立ち上がり、逃げるようにその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

少し開けた場所に出た。

 

(民家か……?)

 

辿り着いたのは今にも崩れ落ちそうな木造の民家。民家と呼んでいいものなのか分からないほどの半壊した姿であり、木の板で乱雑に建てられたその家は、小さなランタンを一つだけ吊るしている。

 

(人のいる気配もない……しかしあまりにも古すぎないか?水道や電気も通ってなさそうだ)

 

箒がその家を細かく見ていると、突然中から小さく声がした。

 

『……ああ、君、獣を狩っているんだろう?』

 

「!?」

 

箒は咄嗟に身構える。

ここの民家の住人だろうか。くぐもった男の声に箒は警戒する。

 

「……私が分かるのか?」

 

しかし返事がない。やはり見えていないのか……箒が困惑していると、男がまた話し始めた。

 

『ありがとう。君たちのお蔭で、私たちは助かってるんだ』

 

『……だが、残念かな』

 

『夜は長く、獣ばかりが増え、狩りは終わらない』

 

『やがて君も死に腐り、あるいは血に溺れるだろう』

 

『おそろしく、そして悲しいことだ』

 

そして男は気味の悪い(わら)い声を上げて、やがて息をしなくなった。死んだのか、それともただずっとここに囚われているのか。

 

(獣を狩る……?それに、血に溺れるとは一体……)

 

ふと、箒の中で過去の出来事が想起される。

学園で初めて手合わせをした時に、まるで“狩人”のような雰囲気を纏わせていたこと。クラス対抗戦で現れた、まるで獣のような無人機を倒したこと。

どちらもその当事者はマリアであり、そして私たちがあまり向かい合ってこなかった事実だった。入学以降は衝撃的な出来事があまりにも多く、その敵だけについ意識が向いていたのだ。

 

不思議な感覚だ。

この森を歩いていると、どこか学園に広がる森を思い出す。

 

黒い蝶が、またさらに濃い闇へとつながる坂を下っていく。

今一度、知る必要があるのかもしれない。

彼女が一体、何者なのかを。

 

 

 

 

 

 

古都ヤーナム・ビルゲンワース

 

 

森を抜けると、月明かりに照らされた古い建物があった。屋敷とも学校とも呼べそうなその荘厳な雰囲気は、しかしどこか黒く濁ったもの恐ろしさを孕んでいるようにも感じられた。

 

(随分立派な……廃墟か?しかし僅かに明かりも滲んでいるな……)

 

すると黒い蝶がひらひらと高いところまで飛んでいき、目の前の建物の窓の中に入っていった。気が進まないが、箒は目の前の建物を目指すことにする。

小道を進んでいき、鉄の門を開ける。左に曲がって建物をぐるりと回ろうと角に差し掛かった時、目の前に大きな湖が見えた。

 

(不思議な湖だ……まるで全てがここにあるような……)

 

先ほどまでの森とは違い、西洋風な街灯もある。ここの明かりがついているのを見ると、やはり誰かがいるのは間違いなさそうだ。

少しその景色を眺めた後、箒が階段を上がると、視界の端で何かが動くのが見えた。

気になってその方向を見た途端、箒は全身がすくむのを感じ、すぐさま階段の陰に隠れた。自分の声が聞こえてしまわないように、箒は力強く口をおさえる。

 

(な、なんだ今の化け物は……!?)

 

身体は痩せぎすであるものの、腕と拳は獣のように強靭。そして何より衝撃的だったのが、頭部が肥大化して虫のような造形をしていたのだ。頭部には瞳がいくつも点在していて、頭部の後ろから背中にかけて虫の(はね)が生えている。

箒は小学校の時に習った理科の授業を思い出す。トンボの目は複眼と呼ばれ、その大きさは昆虫の中でも最大と言われており、目の数も数万個単位にのぼるのだそうだ。そんな話が可愛いく思えるくらいに、すぐそこにいる虫頭の人間は恐ろしい容貌をしていた。ひどいことだ。頭の震えがとまらない。気を一瞬でも抜くと狂ってしまうほどに。

 

箒は自分が奴に見えていないということを何度も胸の中で言い聞かせ、呼吸を整える。そして震える膝をなんとか抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。

すぐそこには建物の扉がある。箒は虫頭の人間を絶対に視界に入れないように、すぐさま建物へと入った。

 

扉をすぐに閉めて、まだ荒い呼吸を鎮める。振り返ると、目の前には二階へと繋がる階段があった。

 

(……一体なんなんだ……この容器に入ってるのは)

 

今いる一階には数多くの容器が置かれており、その全てに蓋がされている。容器の中に入っているのは目玉であったり何かの臓器であったり……。他にも無数の薬瓶が地面に散らばっていたり、地球儀のようなものもある。

物恐ろしく冷たい空気感に息を詰まらせていると、突然背後から声がした。箒は咄嗟に階段の方へ身を隠す。

耳をすませて聞いてみると、二人の人間の話し声が聞こえた。こちらが見えないように覗いてみると、一人の青年と、揺り椅子に座っている老人がいた。

 

『────ウィレーム先生、別れの挨拶をしにきました』

 

(……学徒か?)

 

やはりここは、何かの学校なのだろうか。

 

『ああ、知っている。君も、裏切るのだろう?』

 

『……変わらず、頑なですね。でも、警句は忘れません』

 

『……我ら血によって生まれ、人となり、また人を失う』

 

『知らぬ者よ』

 

『『()()()()()()()()()()』』

 

そして青年は背を翻し、扉に手をかける。

 

『……お世話になりました』

 

扉が閉まり、無音が支配する。

やがて老人は、揺り椅子に揺られながら、静かに嘆いた。

 

『────恐れたまえよ、ローレンス』

 

 

 

 

 

 

二階に上がって扉を開くと、目の前は外につながっていた。

橋のようでもあるが、湖の手前で途切れている。橋の最後は、少し段差のある場所になっていた。

白い月を真正面から眺められるこの場所に、箒は自然と無言になった。

 

静かな波の音に耳を傾けていると、ふと空気が無音になった。

湖の手前で、誰かが背中を向けて立っていた。

 

姉だった。

 

はっとしてもう一度よく見ると、そこには誰もいなかった。

箒は静かに湖の手前まで歩き、あと一歩踏み出せば落ちてしまうところで立ち止まる。

 

(────あの時、姉さんは……)

 

湖はどこまでも広がっていて、自分の存在がいかに小さなものかを思い知らされる。

きっと宇宙というものは、私の遥かに想像し得ないように広大で……

 

(……そうだ、あの日の夜……私は……)

 

ふと、白い月を見上げる。

途端に、強烈な頭痛が箒を襲った。

 

「────っ!?」

 

頭が割れそうになる感覚。全身から汗が吹き出し、目眩で立っていられなくなった箒は、思わず足を滑らせてしまう。

 

「しまっ……!」

 

足を踏み外した私は、そのまま一気に下へと落ちてしまう。

黒い蝶が、私を見下ろして羽ばたいていた。

 

白く濁った月前の湖に、私は真っ逆さまに落ちていく────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




六年前
篠ノ之神社
白騎士事件発生の翌夜


「────()()()()()()()()()()?」

満月の夜空。
実家の庭にある木の上に立った姉さんは私を見下ろして、そう言った。
私は姉さんの温もりが欲しかった。
でも、姉さんは私の側に来ることなく、ずっと木の上に立ったままだった。夜空への好奇を抱くその目は、小さな私が恐れるに十分な存在感を放っていた。

「箒ちゃん……お姉ちゃんね、ずっと誰かに認めてほしかったんだ」

「ぐすっ……ひっく……」

姉さんに抱きしめてほしい。また手を繋いで一緒に遊んでほしい。
そんな簡単な願いさえ聞いてくれない姉さんに、私はひどい悲しみを覚える。

「ISを発表した時も、誰も振り向いてくれなかった。生きていれば誰もが一度は宇宙に関心を持ったことがあるはずなのに、大人になれば、目の前の争いごとしか興味がなくなるの」

姉さんの胸中を聞いたことは、ほとんどない。

「────ある日の夜ね、窓から夜空を見上げてたんだ。その日は数年振りの皆既月食で、赤い月が浮かんでいたの。そしたらね、突然()()()が私の前に舞い降りてきたんだ。箒ちゃんには伝わらないだろうけど、すごくいい香りを纏わせてね。きっと()()()()って、ああいうのを言うんだろうね」

姉さんが誰かと仲良くするなんて、一夏と千冬さんくらいだと思っていたのに。

「その人が、とっても素敵なものを見せてくれたんだ。手のひらに乗った、まんまるいお星様。箒ちゃんにもよく、お星様の絵本を読んであげたよね。そのお星様は黒くて柔らかいものだったんだけど、よく見るとその中に夜空がいっぱい広がっていたんだ。お星様の中に、お星様がたくさん飛んでいた。気がつくとお姉ちゃんはそれを夢中に食べていて、口の周りをたくさん黒くして、夜空を頬張った。宇宙と一つになれる気がしたんだ……」

ご飯の時はいつも私のために大好物を分けてくれた姉さん。
私は姉さんを大好きで、姉さんに夢中だったのに、今の姉さんは私に見向きもせず、ただ宇宙だけに心を奪われている。
姉さんをそんな風に変えてしまった人物を、私は心の底から憎んだ。生まれて初めて感じる、“憎悪”という感情だった。そしてその感情はやがて、私がよく知るあの人に向けられた。

「────わたしは、みんなとばらばらになりたくない……おねえさんやおかあさん、おとうさん……いちかとも」

「……ごめんね。でもね、箒ちゃ────」

「きのうのじけんの“しろきし”は、ちふゆさんですか?」

「……!?」

姉さんが一瞬、目を見開く。すぐにそれを悟られまいと姉さんはさっきと同じ表情に戻ったが、長く共に過ごした妹の私にとっては十分な答えだった。
零れる涙を袖で拭き、姉さんに背中を向ける。

「……おとうさんとおかあさんがさみしがっています。さいごくらい、さよならのあいさつをしてきてください」

「あ、箒ちゃん……────!」

一目散にその場を離れる。姉さんの声が後ろで聞こえるが、決して振り向きはしない。
私は家族に悟られないように実家の和室へと入る。普段は父親の許可が無いと絶対に入れない領域であり、ばれてしまうと怒号どころでは済まない。しかし今の私は、たとえ姉さんでさえも止めることはできない。
明かりを点けないまま、和室の床の間にある父の真剣を手に取る。篠ノ之家に代々伝わる、由緒ある刀だ。
幼い私にとってその真剣の重さはかなりのものだった。これからする行いについて、少しの間、先祖代々、そして父に心の中でお詫びをし、実家を後にする。

あの人がいる場所は直感で分かる。一夏も昨日は一人で過ごしたと学校で言っていた。
あの人はまだ家には帰っていない。それ以外に来るとしたら……。

篠ノ之神社の敷地は広大だ。今向かっている目的の地は、実家と離れた場所にある。
だがずっと走り回ってきたこの森で、私が迷子になることはない。

誰も、私を止められない。










やがて森を抜けると、目的の場所に着いた。
思った通りだった。学校の制服を着た千冬さんは、剣道場の近くで立っており、いきなり森から出てきた私を見て目を見開いている。

「────箒か?こんな時間になぜ……!?」

千冬さんが私の手に持っていたものを見て、鋭い目を私に向ける。

「……それは柳韻(りゅういん)さんの真剣だな?何故それをお前が持ち歩いている?」

私の父から居合の教えを受けている千冬さんにとっても、この真剣は大切に思われていると耳にしたことがある。
だが、今の私にとってはそんなことはどうでもよかった。
私と家族を離れ離れにさせる張本人を、この手で成敗しないと気が済まなかった。

私は鍔に指を置き、ゆっくりと鞘から刀身を抜く。その重さについ身体がふらつきそうになるが、千冬さんに見せないように必死に耐える。

「……なんのつもりだ?」

「……」

「なんのつもりだと言っている!箒!」

千冬の冷たい怒号に、心の中の私が怯える。彼女の纏う空気が途端に鋭くなり、近づくだけで怪我をしそうに思えた。

「……ちふゆさんが、ねえさんをたぶらかすからです」

「……誑かすだと?」

「とぼけるな!“しろきし”があなたであることはわかっている!」

「っ……」

ああ、ここが一夏の家ではなくて本当に良かった。
今の私の顔を、一夏には決して見られたくはなかった。
ましてやその姉に向けて刀を突き立てているのだ。これが一夏に知られれば、きっと絶交では済まされないだろう。

「あなたがいなければ……そそのかさなければ……わたしたちはバラバラにならずにすんだのに」

「……やめておけ」

「これは、けじめです。わたしがあなたへ、くださなければいけない、罰……」

「そんなものはけじめとは言わん。いいか、お遊びはここまでだ。今すぐそれを収めれば、私も黙っ────」

「はぁあああああああ!!!」

全身をバネのように、地面を蹴り、一直線に千冬さんのもとへと走り出す。重い刀身を、千冬さんに目掛けて上から振り下ろす。
しかし千冬さんはいつのまに移動したのか、私の背中側に回り込み、強く私の身体を地面へと叩き込んだ。

「目を覚ませ!篠ノ之家代々の名に泥を塗るつもりか!」

強い衝撃で、頭がクラクラする。参道の砂が口に入り、顔の内側で砂の不快な音が響く。だが私は歯を食いしばり、全力で千冬さんの方を向いた。
彼女も私がまだ動けると思っていなかったのか、私を驚いた目で見下ろしている。
その一瞬の油断を突き、私は手に持っていた真剣を上へと切り上げた。
千冬さんは咄嗟に後ろへと飛んだが、躱しきれなかったのか、彼女の左腕の制服が細く切れ、そこから血が滴り落ちるのが目に入った。その血を見た途端、私の中で感情の熱が下がっていくのを感じ、後悔と自責の念が少しずつ渦巻いていくのが分かった。

「くっ……!」

「はぁ、はぁ……」

互いの荒い呼吸が、私の憎い夜空へと吸い込まれていく。
頬に一筋の汗を垂らした千冬が、私をギロリと睨みつける。触れるだけで切れそうなその鋭い瞳に、私の背筋が凍りつく。
そして千冬は荒い呼吸を整えた後、左腕を抑えながらゆっくりと立ち上がった。

「……気が済んだか?」

「っ……」

「刀というものは、己を映す鏡だ。刀は人を殺めるために作られたものだが、己の感情を見極めることができない人間にそれを握る資格はない。力に溺れたもののことを修羅と呼ぶと、お前も教わっただろう。……いいか、つまらん殺戮に手を染めるのは、これで最後にしろ」

私の手が徐々に震えていく。
斬れ。もう十分だ。だが彼女は私たちをバラバラにした人間なんだぞ。しかしここで彼女を斬れば、私は元に戻れないのではないか?何を言っている、そんなこと、斬った後に解決すればいい話だ。馬鹿なことを言うな、今だって、私は勘当されても文句は言えない立場なのだぞ。だが、姉さんがこれで救われるならいいじゃないか。姉さんが喜ぶと思うのか?だが一夏は喜ぶと思うぞ?巫山戯たことを!いいや、巫山戯てなどいないさ、私のことは私が一番分かっている。「……おい、聞こえているのか?その刀を放せ」ああ、やはり千冬さんが憎い。いや、冷静になれ。もうどのみち同じだ、一夏だって分かってくれる。そんな……そんなはずは……。そうだ、だからその剣を────

トンッ

「っ!?」

誰かが私の首を後ろから静かに突く。
疲労を襲っていた私にとってそれはとどめとなり、手から真剣が落ち、暗くなっていく視界の中で千冬さんが静かに歪んでいった。



ああ、千冬さんは今でもこのことを憶えているのだろうか。

私が二度と思い出したくなかった、数少ない記憶の一つを……────。












├─────────┤

『夜空の瞳』

精霊に祝福された軟らかな瞳。
かつてビルゲンワースが見えた神秘の名残だが、終に何物も映すことはなかった。
その瞳孔の奥には、暗い夜空が果てしなく広がり、
絶え間なく、隕石の嵐が吹き荒れている。
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